からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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無関心

五つの教会が受けた主からの非難と対策

テーマは 『 五つの教会が受けた主からの非難と対策 』 です

【ヨハネの黙示録1章10ー11節】

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤに送りなさい。」

先週は 七つの教会の中で、主からほめ言葉をもらった六つの教会を学びましたが、今回は七つの教会の中で、非難を受けた教会が五つもありましたので、どの部分が非難されたのか。


そして、それを変えるために、どのような対策を主から受けたのかを学びます。




◎ エペソ教会




【ヨハネの黙示録2章4ー5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

この教会の問題は、初めの愛から離れたことでした。


他のすべてが良かっただけにこの部分は残念であります。

しかしこのような教会がたくさんあるのも事実です。


なぜ初めの愛から離れてしまったでしょうか。

奉仕や活動ばかりに心が向いてしまって、いつの間にかキリストとの交わりが減り、キリストへの関心も減り、ないがしろになってしまいました。


家庭で例えるならば、家族のために仕事を熱心にするのは良いですが、時間がなくて家族と話す時間も 共に食事する時間もなく 愛し合う時間もないことです。

家庭に一番必要なものが抜けていきます。


それによって すれ違いが生じ、心が離れていきます。


教会に多くの行事があるのを主が喜ぶでしょうか。

それに忙しくて、神とゆっくり交わる時間も 聖徒同士ゆっくり交わる時間もないのが主の願うことでしょうか?
―― そうではないです。


初めは自分たちの心がキリストで満たされていたのに、ある時から無関心になりはじめたのは、主が“どこから落ちたのかを思い出しなさい” と、対策を教えて下さいました。

そして “悔い改めなさい” と語ってくださいました。


自分たちの心が再びキリストに満たされ、キリストと新たな関係を結んで初めて 悔い改めたことになります。


主が一番願うのは“主を愛すること”です。


奉仕ではなく、イベントでもないです。

まずは主を愛し、主の栄光のために働くことです。


いまエペソ教会は存在しません。

エペソ教会があった地域から数キロ以内に教会は存在していなく、イスラムが支配しています。

キリストが燭台を取り外してしまいました。
悲しいことです。




◎ ペルガモ教会




【ヨハネの黙示録2章14ー16節】

しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。

それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。

だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

バラムは旧約聖書に出てくる にせ預言者で、イスラエル民族をつまずかせた預言者でした。


神は彼がしようとしたことを止めたので、最初はそれに従いましたが、結局 後で彼はイスラエル民族が神に罪を犯すようにたくらみ、イスラエル民族はそれに引っかかりました。

バラムの教えとは、不道徳と偶像崇拝へ導く教えでした。


多くの哲学も教会の中に入り、教会の中に教理というものも出来てしまいました。

非真理に対しては、真理であり 両刃の鋭い剣である “主のことば” で戦わないといけないです。


この時期に異教の多くの教えが教会に入りました。

多くの異教徒の教えが入ると、教会はどうなってしまうでしょうか?


カトリックがやっていることは、聖書にないことですが、それらのものが生まれました。

死人のための祈り、十字架を拝むことや聖人やマリア崇拝、裁きに対する間違った教えなどがあります。


このような混ぜ物で、教会は堕落していきます。




◎ テアテラ教会




【ヨハネの黙示録2章20ー23節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

非難されたことは、イゼベルという にせ預言者の働きを許したことでした。


旧約時代のイゼベルは残忍な殺人者であり、異教徒でイスラエルの中でバアル崇拝を大々的に行った人物でした。

にせ預言者イザベルも、不義の偶像崇拝を教えていました。

そして決して悔い改めませんでした。


にせ預言者は サタンの霊に完全に支配されて、教会を内部から潰す働きをしますし、信徒たちを惑わして地獄に落とす策略で活動しますので、その者が受ける罰は サタンが受ける罰と同じです。


光の天使のように変装し、神から来たメッセージだと言いますが、中身はオオカミです。

それに騙されないことがとても大切です。

それに従う者は真理から離れて行きます。




◎ サルデス教会




【ヨハネの黙示録3章1ー3節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

“生きているようにされているが、実は死んでいる教会” とは、どのような教会でしょうか。

真理ではないものと妥協する教会のことです。


御言葉に従って信仰生活をするのではなく、様々な教理や形にとらえられた “形” だけの教会です。

名ばかりの教会で、そこには いのちも主の臨在もありません。


どんなにたくさんの人や活動があったとしても、それが主の心に適っていないならば 主はそれを神の働きではなく、人の働きと見ます。

すなわち神とは何の関係もないということです。


このような姿も、多くの教会の中で見られる姿です。

真理に戻り、神が喜ぶことをしないといけないです。




◎ ラオデキヤ教会




【ヨハネの黙示録3章15ー19節】

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

無関心、なまぬるく無気力が彼らの姿でした。


見た目は何一つ乏しいものがないように見えました。

しかし彼らの霊の状態は みじめで、哀れで、貧しく、盲目で、裸でした。


神聖な部分がなく、教会が世俗化されてしまいました。

クリスチャンと言いながら、重要なキリスト教理を軽く考え、世の価値観で生きる人、反キリスト的な思想で生きている人、御霊に従うよりは肉に従うことを好む人たちがたくさんいる教会です。


それが当たり前のような教会で、悔い改めることもない教会です。


【第2テモテ3章5節】

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

主から指摘された悪い部分を直すこともなく、放置するならば、それが癌細胞のように広がって命取りになります。


主がいない建物だけの教会、いのちのない死体のような信徒たちになってしまいます。


悔い改めることが一番の対策であることを主が教えて下さいました。
。゚(゚´Д`゚)゜。

2016.9.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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初めの愛を回復するために

テーマは 『 初めの愛を回復するために 』 です

【ヨハネの黙示録2章4-5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその所から取りはずしてしまおう。

信仰生活にも定期的に点検が必要です。


なぜなら、問題があるならば早くそれを直していかないと知らぬ間に重い病気にかかって大変なことになるからです。

放置していいものと放置してはいけないものがあります。


信仰生活が無気力、無感覚になり、喜びも平安もなく、新しく実が結ばれることもなく、信仰生活そのものがしんどく、神との関係も遠くなったような気がするならば、何よりも自分とイエス様との間に問題が生じたことに気付くことです。


信仰生活のほとんどの問題は、自分と主との関係に異変が起きたからです。


それを解決して信仰を立て直していかなければなりません。



今日のことばも 本人が気付いたのではなく、主からの診断でした。


初めの愛から離れただけで 主との関係に大きな問題が生じました。

主が非難したことはそれが罪だからです。


罪じゃないと(神様が)非難することも、悔い改めなさいと言うこともありません。


信仰が回復してほしいので “悔い改めなさい” と言われました。


どのように初めの愛を回復出来るかを今日は学びます。




◎失われた初めの愛を悔い改める




初めの愛がある状態は、すべてにおいて心も思いも尽くして主と共に歩みます。

それが一番の関心で重要なことだからです。


その時は主と共にいることがとても楽しいです。

教会に行くのもとても楽しいですし、聞く耳も開かれています。


しかし、ある時から主を忘れて生活する時間が増え始め、他のことで忙しくなります。


サタンは私たちを誘惑する者ですが、あらゆる方法を使って私たちをイエス様のいない忙しい生活に導きます。


そのことに気付かせず、主との時間を減らしていきます。


心ではイエス様との時間を持つことの大切さを知っていますが、だんだんと他のことで忙しくなり、主のために時間を使わなくなります。
ここから問題が生じます。


【ヨハネの福音書15章6節】

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

イエス様にずっと とどまることが大切なのに、とどまる時間が少なくなっていきます。

他のことに心が取られたり、他のことで忙しくするようにサタンは働きます。


イエス様と分離されていると 不幸になることもよく知っているのに、仕事に縛られたり、時には自分の快楽を求めて主との交わりをおろそかにします。


生活も守っていかないといけないからと人を喜ばせたり、自分を守るためにだんだん主に対して関心が無くなっていきます。

すると主と共に過ごす時間が減るために主を失ってしまいます。


主との間に様々なものが入り込んできます。

すると信仰生活がだんだん義務的になり、つまらなくなり、喜びも無くなってきます。


それを立て直すためには悔い改めが必要です。


どこから落ちたのかを思い出して、要らないものを捨てて時間を作って神の前に出て、その方と会話をしなければなりません。


主と再び愛し合うには ずっと主から目を離さず、会話を増やさないといけないです。


すると私たちの心に主の平安、愛、いのち、力が臨むようになります。

主に対して、教会に対して、とりなしに対して、奉仕に対して無関心になったことは愛で反応していないことです。


初めの愛を回復するためには、必ず “無関心” が罪であることを悟って、無関心を捨て、主を見上げなければなりません。

面と向かってイエス様に敵対するより、主の心を痛めつけるのは主に対する無関心です。


必ず私たちはこの罪を悔い改めないといけないです。

悔い改めないと、たとえ生きているとされても死んだ状態です。

すなわち霊的死です。




◎避けたくなる十字架を負う




イエス様に従いたいならば、弟子になりたいならば、成長したいならば、自分の十字架を負わなければなりません。


イエス様は私たちを愛する心で十字架を負ってカルバリの丘に上って行きました。

その主が私たちに自分の十字架を負ってついて来なさいと言われました。


私たちが十字架を負うならば 主が共に負って下さいます。

イエス様自身が先に十字架を負いましたので、十字架の痛みを知っておられます。


主が共に負って下さらないと、私たちが倒れるので 主が共に負って下さいます。


しかし私たちは十字架を負いたくないので十字架を避けようとします。
これが主への愛が冷めるきっかけになります。


十字架を避けて楽な道を歩みたい欲望が 私たちの中にあります。

この欲望は、主から来たものではなく、サタンから来たものに気付かないといけないです。


イエス様が十字架の死を話した時に、ペテロはすぐさまイエス様を止めました。

「そんなことがあってはいけない」と。

そして十字架を負わないように勧めました。


すると主は「下がれ。サタン。」と厳しく言いました。


今も私たちに十字架を負ってはいけないと誘惑をするのはサタンです。


「楽な道を歩んだら良い。苦難はイヤだろう。重い十字架は負わなくていい。避けたらいい。」と、まるで 私たちの味方のように親切に言います。


これは甘い誘惑です。

主はそれとは違って「自分の十字架を負って私に従いなさい。」と言われました。


十字架を負うことは私たちにとって良いことです。

私たちが地上で主のために十字架を負うと、その十字架は天国への喜びに変わります。


十字架を負うことは永遠の命にかかわる重要なことです。


サタンはそれを知っています。

サタンは、十字架を負いたくないすべての人を、自分の所(地獄)に連れて行きます。


そこには十字架の苦しみと比べられない苦しみが待っています。


サタンは私たちが十字架の道を歩まないように、あらゆる手段を使います。

私たちが永遠の命も永遠の喜びも受けてほしくないからです。


主が私たちの十字架を共に負ってくださるので、私たちはその中で以前は味わったことのない霊の喜びを感じることが出来ます。


主が与えてくださる十字架には、必ず慰めと助けがあります。


その方の愛と助けを信じないと 十字架を負う気がなくなり、十字架が耐えられない苦しみに感じられます。

そうなると本当にみじめな状態になります。


十字架が来た時は「主よ。感謝します。受け入れられるように恵みを下さい。十字架を負って喜んで耐えられるように恵みを与えて下さい。」と祈り求めることです。


苦難は、主と深い交わりが出来るチャンスでもあります。

苦難の時に、私たちは主しか頼れる所がないからです。


十字架の中には豊かな実があり、栄光があります。

十字架の中に勝利と復活があります。


産みの苦しみなしに新しい命の誕生がないのと同じです。


十字架は、私のたましいを この地上から解放して天国に導く有益をもたらします。




◎勝利を与える主の力に頼ること




私たちは自分の怠けさと罪との霊的戦いをしなければなりません。

勝利に戦いはつきものです。


「面倒くさいから今のままでいいんじゃないか?」と思う人に勝利はないです。


このままではいけないと思いながらも 悩むだけで何もせず、後回しにする人は どんどん信仰が弱くなり、無気力になっていきます。
そしてサタンに支配されます。


イエス様もサタンとの激しい戦いをして勝利しました。


ですから、私たちにも勝利出来る力を与えて下さいます。

力を与えたいと願っておられます。


私たちが毎日主の名を呼び、主に頼るならば、その力を得ることが出来ます。


主は私たちを贖う方、助ける方、力を与える方です。

それに対する信頼が必要です。


私たちが主の中にとどまり、主の弟子になるならば、私たちの人生の中に命と豊かな実を結ぶように働いて下さいます。


勝利は主の中にとどまる時だけです。

イエス様は何よりも私たちが主と共にいることを願っています。

そして私たちの愛を願っています。


弟子たちは自分だけの力では勝利することは出来ませんでした。


しかし一日中イエス様のことを考え、主を愛し、主の愛から離れなかったので、自分たちの心を守ることが出来ましたし、信仰を守ることも出来、主を裏切ることもありませんでした。


自分が毎日、主の中にとどまっているのか、主を愛しているのか、主のために犠牲を払う準備が出来ているのか、負うべき十字架を負っているのか、主に対して関心があるのかなど点検してみて下さい。


そして一つ一つ悔い改めながら立て直して下さい。

私たちが自分の中にある問題点に気付いて、主との静かな時間の中で主の前に出て行くならば解決されていきます。

主の前に出ない限り、ますます状態は悪くなっていきます。


主のことばのようにやってみて下さい。
(・◇・)ゞ

2016.8.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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救いをもたらした神のみわざ

テーマは 『 救いをもたらした神のみわざ 』 です

【ルカの福音書1章76-79節】

幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

今日の本文は「ザカリヤの賛歌」と呼ばれる箇所の一部です。


ザカリヤは祭司で、バプテスマのヨハネの父親ですが、この賛歌を聖霊に満たされて預言のことばとして語りました。

生まれてくる息子・ヨハネに与えられた神からの使命と、その使命は「メシヤが来られるための道を備える働きである」と語りました。


メシヤは神が約束した救い主で、神の御子であり、救いをもたらすために来られるイエス・キリストです。


メシヤこそ神のみわざの現れです。


人間には なぜ救いが必要なのかを知らない人がとても多いですし、宗教は何でも良いと言う人も多いので、そのことをはっきりするために必ず語らなければならないのが “罪の問題” です。



今日の本文にもあるように、ヨハネの働きの中には、神の民に “罪の赦しによる救いの知識を与えるため” もありました。


世界が創造された時から罪が存在したのではありません。
もし存在したならば、罪は神が造ったことになります。

罪が存在しない世界に最初に罪をもたらしたのは、最初に造られた人間であるアダムとエバであることは知っていますね。


それ以後、生まれてくる人間の中には、まるで遺伝子のように罪が組み込まれています。

それを聖書は「原罪」と言います。英語ならば “Original Sin” です。


そこからすべての罪が始まります。
原罪なしに生まれる人間は誰もいません。


それなのに人間はそのことに対してあまりにも無知でした。
なぜならそれが自然体であったからです。


何の違和感もなく、(罪が)体の一部として自分の中で働いていたからです。


教会に来るまでは、罪ということばをあまり聞く機会がないですが、教会に来ると “罪” ということばをよく聞くので、「何故 いつも罪、罪と言うのか」と不思議に思う人や聞きたくないと思う人がいます。


それは罪という存在を気付かせるためです。

罪に対して無知であってはならないからです。

罪を理解しないと、救いの定義が分からないですし、なぜ救いが必要なのかも分かりません。


また神の救いがどのように大きな恵みであるかも分からないです。


罪の恐ろしさも知らないと罪を警戒することもしないです。

罪のことをよく言うのは、罪に対していつも警戒してほしいからです。






罪を分かりやすく理解するためには、罪を犯す前の状態と罪を犯した後の状態を見れば良いです。


罪を犯す前の人間の状態は 神を愛し、喜び、神と共に歩む「神中心」の生活でした。

神が「神中心」に生きるように人間を創造しました。


しかし罪を犯した後の状態は「自己中心」になりました。

世界の主人を神とせず、自分自身が直接主人になる姿です。


アダムとエバは神のようになりたくて、神のことばに逆らいました。

しかし人間が神になることは出来ません。

なぜなら人間は、あくまでも人間以上になることは出来ないように神が創造したからです。


ですから今も自分を神だという多くの異端の教祖たちは嘘つきですので、騙されないようにしましょう。


また、そこまでではなくても 神のことばに従順せず、自分の欲に従って好きなように生きようとする利己的な心があります。


罪のない状態を体験したのは、アダムとエバだけであり、その後は皆 原罪をもって生まれて来ました。

ですから罪から逃れることが出来ません。

それで聖書はすべての人間を差別なく「罪人」と呼んでいます。


罪は神の御心から外れた思い、考え、決定、価値観、行動すべてです。
神のことばに不従順するのが罪です。


なぜ人間はそのように生きていながら、罪人の認識がないのでしょうか。


人間は相対的な価値観を持っているので、世の法の基準に合うならば、自分は正しく生きていると錯覚します。


ですから「私は人を殺したこともないし、物を盗んだこともないし、自分なりに正しく生きて来たのに何が悪い。私は罪なんか犯していないし、罪人ではない。」と言い張ります。


それは人間の基準であって、“神の基準” ではありません。


人間は神のことばに従順して生きるように造られ、決して世のことばに従順して生きるように造られてはいないです。


みことばに違反した時から、人間は自分が創造の目的から離れたことに気付かなければなりません。


この罪の深刻さをはっきりと認識する時に、私たちの罪を洗って下さったイエス様の十字架の恵みがどんなに大きいかを知るようになります。

神は、罪によって神から分離された人間に対して怒りや憎しみではなく、憐れみの心を抱きました。


サタンのことばに簡単に騙されて、罪を犯してしまった人間を 神は深いあわれみの心で見ていました。

そこから神の救出作戦が始まりました。


人間を救うための神の壮大な計画でしたが、人間はそんなことも知らないで、相変わらずサタンのことばに騙されて、自分のいのちをサタンに預けています。






難民たちの状況がそれに似ています。

今、ヨーロッパには難民が急増して大変問題になっています。

内戦があるシリアやアフガニスタン、イラクなどから自由と豊かさを求めて危険を覚悟で渡っています。


戦争も内戦もすべて自己中心の人間たちが起こしたことです。

今年だけで既に35万人で、途中で死亡した人の数が2600人に達したと発表されました。


お金を仲介者に支払って、ヨーロッパに向かって行く 多くの人々が仲介者に騙されています。

そこで放置されて死亡する人も多いです。


ヨーロッパの政府も一般の人々も面倒なことだと思って、あまり関心を持たなかったですが、最近シリアからの難民が乗った船が沈んでしまい、乗っていた12人が亡くなり、一緒に乗っていた3歳の男の子が流されて砂浜にうつぶせになって死んでいる映像が世界中で公開され、それを見た人々は感情を揺り動かされて、非常な悲しみを覚えました。


私もそれを見ましたが、本当にかわいそうで心が痛くなりました。

その映像で今まで難民に対して無関心だった一般市民から非常に大きな反響があって、今は難民のための寄付金がたくさん集まる流れに変わっています。


私はそれを見て、これも神様の憐れみだと思いました。


今までも多くの子どもたちが死んでいましたが、戦争がない国の海岸に衣服や靴を身に着けたままの可愛らしい子がうつぶせで死んでいる姿は、自己中心的な人間の心に憐れみの心を起こしました。

自分たちの子どもの姿を思い出したでしょう。


もしかしたら多くの難民を助けるために、その子はその砂浜にたどり着いたのかも知れないです。

それによってヨーロッパの国々が難民のために本格的に対策を考えるようになり、難民を受け入れる国が増えました。


難民たちのことで、なぜかバプテスマのヨハネとイエス様のことを思い出しました。


自分たちを騙している人間に お金まで渡して、保冷トラックの中で窒息して死んだ71人を騙した人たちはサタンの姿に見えました。


死ぬかも知れない危険がいっぱいあるにも関わらず、次から次へとそれに飛び込む人たちは、いま永遠の死の道に向かっているかも知れないと思いながらも、その道を歩んでいる人々と良く似ていると思いました。


人は自分が生まれる国も親も環境も選ぶことが出来ません。


そして変わっていく環境も自分では止められないことが多いです。

ですから自分が努力もしないで与えられる良い環境は本当に恵みだと思います。


良い国や親や環境、そして救いも世に存在します。

しかしそれをみんな受けるのではないです。






先週、マレーシアへ行った時に夜の11時過ぎの繁華街で小さな女の子二人を見ました。


たぶん上の子は5歳位で、下の子は3歳未満の小さな子でしたが、歩きながら手に持っている物を人々に売っていました。
それを見て大変だなと思いました。他にも何人かの物乞いも見ました。


その人たちの環境は厳しいですね。

そしてマレーシアはイスラム教徒がとても多いですが、生まれた環境によってイスラム教の枠から出られないことがとても気の毒に思われました。


特に女性のムスリムは体を隠し、頭にもスカーフをみんな被っていますが、中東から来たと思われるカップルを見ると、男性はTシャツ&短パン姿なのに、女性たちは全身真っ黒の長い服を着て、目だけ見えていました。


暑いのに1年中そのような姿はかわいそうな気がしました。


家族以外に自分の姿を見せることも、おしゃれをして歩くこともないので、そのような国で生まれなくて良かったと思いました。

そして どんなに熱心に礼拝し、規律に従って生きても 救いを得られないことがとても残念と思いました。


キリスト教以外の、どの宗教も人間の罪に対しては触れません。


そのことに触れると、罪が何なのか、どこから始まったのか、救われる方法があるのかを説明しないといけないので、それには触れず、自分たちの言う通りにすれば天国へ行けるし、良い生活が出来ると言います。


しかしキリスト教だけは、神の存在、人間の創造と罪、堕落、罪の赦し、救い、天国や地獄、裁きなど何一つ隠すこともなく明確に教えていますし、サタンの存在も教えます。また、神がどのような方であるのかも教えます。
そして、その先のことも聖書は預言しています。


これは真の神ではないと出来ないことです。

バプテスマのヨハネの出現も、すでに旧約で預言されていました。


【マラキ書3章1節】

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。

その預言通りにヨハネは来て、メシヤのための道を整える為に、神からのメッセージを伝え、水のバプテスマを授けました。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいた」と叫びました。


人々はそのメッセージを聞いて、自分の罪を告白して、ヨルダン川でヨハネから水のバプテスマを受けました。

そして さらに人々に語りました。


【マタイの福音書3章11節】

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

このように人々に罪の認識をさせ、告白するように導き、罪を赦して下さるメシヤが来られることを待ち望むように準備をさせました。


それからメシヤはその預言通りに来られ、その方がイエス様であることは、ヨハネも聖霊によって教えられて確認しました。

ヨハネ自身は、罪を認めず 罪を楽しむ者の手によって 首を切られて殉教しました。30代前半でした。

そして神の預言通りにメシヤである神の子イエス・キリストが来られて救いが完成しました。


イエス・キリストが来られたのは、罪人に対する神の深いあわれみ以外に何ものでもありません。


罪の恐ろしさも深刻さも知らないで生きている人間に対するあわれみです。


神ご自身はそのために御子イエス・キリストを犠牲にしなければならない深い痛みを伴いましたが、それでも人間のために尊い犠牲を払いました。


その犠牲の象徴であるイエス・キリストの十字架を見て、罪に無関心だった人間がやっと罪に気付き、神の憐れみに対しても無反応だった人間がやっと反応するようになりました。


人間の罪に対する無関心は、他人が犯したひどい罪によって、無関心から関心に変わります。

人間がこんなにひどいことを平気にやるんだ と、人間の罪深さや残忍さに改めて気付きます。


難民事故も幼い命の悲惨な姿を見て 人々は自己中心から、少しだけ人の痛みにも目を配るようになりました。






イエス・キリストの悲惨な十字架がなかったならば、神の愛も憐れみも罪の赦しも人々は気付くことがありません。

罪のない方が なぜ死んだのかに関心がある人は、神の言葉に耳を傾けます。


しかし、私とは何の関係もないと言う人は 救いが存在しても、それに気付くことがないです。

自分が好む方法で自分の罪を解決しようとしても、罪の問題は解決されません。


十字架だけが人間の罪を赦し、悪の力から救い出し、暗黒と死の陰から光に導くことが出来ます。


人間はキリストの血の贖いを信じる信仰によって救われることが出来ます。
これは100%神の恵みによります。

福音を聞かされたことが恵みであり、救いを受けたことは人生最大の祝福であります。


人生の中で一度も福音を聞くことがなく死ぬ人も大勢いますし、聞かされても信じない人も多くいます。


そのような中で、福音を聞いて救われたことがどれほど大きい祝福であるか分かりますか?

救われたことは ただ事ではないです。本当に特権であります。


地上に生きていながら、真の神を知り、神からの救いを受け、神の守りの中で天に向かって歩む人生は自由と豊かさと平和を得ています。


これらのものは自分が努力して得たものではなく、すべて神の憐れみと恵みによります。


「私のような者がこんなに大きい祝福を得て良いのでしょうか?」と聞くぐらいに謙遜にならないといけないですね。

救われた環境の中にいる人は一番幸せな人です。


【エペソ2章1-9節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです ――

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救われる前の姿と救われた後の姿では どちらが良いでしょうか。

この地上ではどちらの姿でも 自分で選ぶことができます。


しかしその後の世界では、神が私たちを見て決めますので、自分で選ぶことは出来ないです。


神が持っている基準は、救われているかどうかです。

それを変えることは人間には出来ないことです。


神は私たちを憐れんで、救いの恵みを与えようとして今も人々を待っておられます。

この神の所に来ませんか?
(*´ -`)(´- `*)

2015.9.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか

テーマは 『 イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか 』 です

【Ⅰコリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

今日は教会歴においてはシュロの日です。

イエスは十字架にかかるためにエルサレムに入りました。
それを知った人々は、今度こそイエスがユダヤの王になると思って、大歓迎しました。


その時、人々はシュロの木の枝を取って、出迎えのために出て行き、
“ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。”と大声で叫びました。


その日をシュロの日と言います。


人々にとっては これから自分たちに何か良い事が起こるという期待が大きかったです。
しかしイエスにとっては 苦難の十字架の道が始まる日でした。

それを知っているのはイエスご自身だけでした。

十字架が見えていない時は イエスは人々に歓迎されましたが、十字架が見えた時から人々の反応が分かれ始めました。

十字架に対して人々はどのように変わっていったでしょうか。


そして、みなさんはイエス・キリストの十字架と どのような関係ですか。




1.十字架を愚かと思い、毛嫌って呪う人




「十字架??あれは凶悪な犯罪人が受ける罰ではないか。」

「何だ、あの人は神でもないのに、自分のことを勝手に神と言い、人を惑わした者だったのか。神を冒涜した人は死ななければならない。騙されたことが悔しい。これ以上は騙されないぞ。」


このように怒りが込みあげてきた人たちは激しく叫びました。


「除け。除け。十字架につけろ。カイザルのほかには、私たちには王はありません。」と、世の王を自分たちの王として選び、まことの神を殺してしまいました。


キリストを十字架につけた彼らは 十字架で苦しんでいるイエスを見て、あざ笑って言いました。


「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら自分を救ってみろ。」

「おお、神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

「他人を救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」


このように偉い人たちも十字架にかかったイエスを呪いました。


世の基準で見る十字架は 彼らにとっては犯罪人、呪われた者、愚かな生き方をした者、生きていては困る者たちが死んで当然な場所なので、絶対受け入れることが出来ないものでした。


彼らは自分たちの知恵に頼って、それで満足して、十字架を信じるどころか、拒絶反応を起こして呪います。

死んでも関係を持ちたくない と十字架を遠くに投げる人たちです。




2.十字架に無関心な人たち




「あの人は悪いことをしていないと思うよ。毎日 病人を癒し、奇跡もたくさん行ったし、まじめで優しいし。」

「十字架にかかるとはかわいそう。あの人を殺すなんて悪いことをしたな。」

「生かしておけば もっともっと奇跡が見られたのに。病人が助かるのに もったいない。」

「良い人だったのに もういなくなった。でもどうして神と言った人が十字架にかかって死んだのだろう。」

「意味が分からない。もう死んでしまったから忘れよう。」


このように十字架のイエスに対して無関心に生きる人たちがいます。


「別にいなくても困ることはないし、あの十字架とはもう関わりたくありません。」

「他にも信じているものがあるし、あんな死に方をした人を信じるのはちょっと…。」

「もう良いです。自分も救えなかったでしょう。あの人より立派な働きをした人もたくさんいるし。」


キリストの十字架を “無力” だと思って、他に頼れるものを探して、それに目を向けて自分の都合の良いように生きている人が一番多いです。


この世がすべてで、この世で利益をもたらしてくれるならば 魂でも平気に売る人たちにとって、十字架は関わりたくないものです。

「神のことも、罪のことも、悔い改めのことも、地獄の話も聞きたくはない。別に要らない。」と十字架とは無関係に日々生きています。


私自身も信じる前はそのような者でした。
十字架はキリスト教会のシンボルでしか考えたことがなく、イエス・キリストが死んだ十字架だとしか思いませんでした。

なぜ死んだのかと一度も考えたこともなく、キリストの十字架に対して考え始めたのは信じてからでした。

それまでは自分にとって十字架はまったく関係のないものでした。




3.キリストの十字架から目を離さない人々




実際にキリストが十字架にかかった時、十字架の真の意味を知っている人はイエス・キリスト本人以外には誰もいませんでした。

弟子たちも主の母であるマリアも知りませんでした。

キリストは一人で孤独に死んでいきました。


医者たちが、“キリストがどのくらい苦痛を味わったのか”を医学的に検証しました。

その話を聞いた時に、私たちの想像をはるかに超える痛みでした。


汗が血のしずくになるまで祈った時から、体の中ではストレスで血管が破裂していました。

裸にされてローマの兵士たちが力強く打ったむちで肉が裂かれ、神経が痛み、骨までも見えたと言います。

出血によって歩くことが出来ないほどの貧血状態に陥るとも言われました。


十字架の上ではさらに激しい痛みがあり、息をするたびに全身に鋭い痛みが走るので、ことばでは言い表すことが出来ないほどの痛みだと聞きました。

その激しい痛みの中でもイエス様は自分を十字架につけた人々を赦しました。


そして、涙を流しながら十字架を見上げる人たちがいました。
十字架の意味はまだ分かりませんが、主を愛して主に仕えていた人々でした。

たとえ人々がイエスを激しく呪っても、その人たちは主が与えて下さった恵みが忘れられません。
その愛を裏切ることが出来ません。ただ涙を流しながら、主の死を悲しんでいました。






私自身、何日間も ずっと心の中で流れていた賛美がありました。


韓国の賛美ですが、「主はなぜ私を愛したのか。なぜ私のためにカルバリに登らなければならなかったのか。なぜ私のために十字架にかからなければならなかったのか。」という歌詞です。

そうしたら その賛美の中にペテロもパウロも入って来た思いがしました。

彼らも同じ賛美をしているように感じました。


【 ペテロ 】

「主を三度も知らないと裏切った私をどうして赦し愛しておられますか。なぜ私を愛し、十字架にかかりましたか」


【 パウロ 】

「主を嫌い、教会とあなたと信徒たちを迫害した私をどうして愛して、私の罪のために十字架にかかりましたか。」


私も言いました。

「自分勝手に生きて神様を悲しませた私、多くの罪を犯した私をどうして愛して下さったんですか。なぜ主は私のためにカルバリに登らなければならなかったのですか。」

繰り返し心の中で賛美しました。


なぜ私が主に愛されているのか、なぜ私が赦されているのかがわかりません。
その愛から離れることが出来ないから主の十字架を見上げています。


主の赦しが十字架から流れるので主の十字架を離れることが出来ません。

「主よ。なぜ罪のない方が罪人である私のためにその激しい苦しみを受けなければならなかったのですか。」
罪赦して下さる十字架のキリストから離れて行く所がありません。


目が開かれ十字架に隠された恵み、祝福、神の力が見えてきました。

イエスが罪人ではなく、犯罪人でもなく、死んで当然な人でもなく、人を騙す者でもなく、生きてはいけない人でもなく、神を侮辱した人でもなく、自分を救えない人ではないです。


キリストを十字架につけた偉い人たちや呪った人たち、無関心であった人たち、知らなかった人たちや私たちが 本当は主がかかった十字架にかからなければならない者です。


自分に代わって死んで下さった方を愚か者と思っている人がいるならば、その人は世界一愚か者です。

キリストを侮辱するものは神を侮辱する者で、罰を免れることはありません。


もう一度十字架を見て下さい。
愚かに見えますか。関わりたくない十字架に見えますか。

それとも十字架を見て、「なぜ私を愛して十字架にかかりましたか」と涙が出てきますか。
。゚(゚´Д`゚)゜。

2015.3.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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