からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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欲望

十字架につけながら生きる

テーマは 『 十字架につけながら生きる 』 です

ハレルヤ。

主の平安と恵みがありますように。


新約時代で、信徒たちが一番模範にして見習うべき人は 使徒パウロです。


新約聖書の多くの部分は使徒パウロが書きました。

聖霊が書くようにパウロを用いて下さいました。


キリストに出会って劇的に人生が変わった人です。

出会った瞬間から一直線にキリストを目指して走り続けた人でした。


主に対する愛はあまりにも熱く、その心はイエス様で満たされていましたし、自分の全人生を惜しまずに主にささげました。


彼ほど 主に救われたことに対して、価値を知る人はいないと思います。

私たちは あまりにもその価値に気付いていないですね。


【ルカの福音書9章25節】

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

全世界どころか、わずかなものに 自分のたましいを売る者が実に多いです。


クリスチャンは “救いの値打ち” が全世界よりも “上” であることを知らないといけないです。


パウロは主に出会って初めて自分が何者であるのかに気付きました。

それまでは自分を立派な者だと思っていました。


また、罪のない正しい者と思っていましたし、まともな者だと思っていました。

自己評価が高い者でした。


しかし主に出会って初めて “真の自分の姿” を見ることが出来ました。

そして びっくりしました。

とんでもない姿が そこにありました。


「私は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。私は罪人のかしらでした。(第1テモテ1章13節、15節)」

これがパウロの告白でした。


その後、彼の人生はどのように変わったでしょうか。

まず、パウロがしたことがありました。


【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

古い人を十字架につけました。

そして彼は その十字架を負いました。


“十字架を負う” ということは、情欲、欲望、貪欲、不義、妬みなど 人間の生まれながらの行為を十字架につけながら生きることです。


自分が誇りとしている すべてを捨てて、主を第一にすることです。


自分の十字架を負って生きているパウロの告白です。


【第1コリント15章31節】

兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

彼はどんなに苦しくても、自分の十字架を負って主に従って歩みました。


イエス様が死に至るまで父なる神に従順であったように、パウロも死に至るまでイエス様に従順な人でした。

一度もその心が主から離れたことがありませんでした。


イエス様に出会った後の彼は とても幸せでいのちに溢れ、いつも聖霊に満たされていました。

それがどんな苦難の中でも彼を勝利させる原動力でした。


この姿が私たちにも必要な姿ではないでしょうか。
(;´Д`)

2017.1.2
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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人間は神のかたち

テーマは 『 人間は神のかたち 』 です

【創世記1章26-27節】

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

人間とは何者でしょうか。

ダーウィンの進化論に基づいて、人間はサルの仲間でしょうか。


聖書の観点と違って、進化論では人間は神の形ではなく、動物のかたちに似た存在と言っています。

進化論を始めたダーウィンは、死ぬ前年に友人に送った手紙で、自分の理論に対して疑問を持ち とても心配していました。


「私は 人間の心の確信が劣る動物の心から発達したものなのか、それならば どんな価値があり、信じられるものなのかに対して深刻な疑問を持っている。
心に対する確信があったとしても誰がサルの心の確信を信じられるのか。」


それでも彼の弟子たちは、ますます進化論を広めていきました。

進化論者たちは人間を研究する時に 動物の研究を基礎にしています。


しかし人間は、肉体の面は動物と似たような部分も色々ありますが、精神面においては まったく違う存在です。


神は「人間は神に似ている。」と言われますが、人間は自らを「動物と似ている。」と主張します。


神は人間を神のかたちに創造したと言われましたが、それは外見的なものではなく、神の品性や属性を意味します。




◎神が人間を神のかたちに創造した理由




この世のすべての存在から “人間” を区別したからです。


自分が神の形に造られたことを知る時に、私たちは神の形を現す人生を生きることが出来ます。

イエス様が1番神の形を現した方でした。


神に栄光をささげることは、私たちが神の形を現す時に神が栄光を受けます。

「私は誰でしょうか。何で生まれたでのしょうか。生きる目的は何ですか。」と悩む人たちも多いです。


自分の存在意味を理解しないと、自分が誰なのかも分かりません。

自分が誰なのかをよく知らないと、人間は動物のように生きるしかありません。


人間が他の被造物と区別された存在であることを知る時に、動物とは違う生活をします。




◎人間は貴重な存在




人間がなぜ貴重な存在なのでしょうか。


神が人間を初めから他のすべての被造物とは違って特別に造ったからです。


人間はすべての被造物の中で、唯一 神と交わりが出来る存在です。

他の被造物が神に祈りますか?礼拝をささげますか?仕えますか?神の名を呼びますか?

これが出来るのは人間だけです。


自分が貴重な存在であることは 神に出会って、神との正しい関係を築く時に悟ることが出来ます。

神は、同じ人間を造っていないので、私たちは誰とも比較する必要がありません。


特別な才能がなくても、学歴や力がなくても、私たちは世界にたった1人の人間として 神が造りました。


“なぜ私を造ったんですか?”という人もいますが、それは自分の価値をまだ知らないので 自分を無価値な者、ゴミのように要らない存在だと思っています。

自分を粗末に扱わず、貴重な存在と思うならば、環境や状態は関係ないです。

金やダイヤモンドは、ゴミの中にあったとしても、それはゴミではなく、価値ある存在です。

それと同じように、自分は貴重な存在です。




◎人間は神の愛の対象




神が人間を造った時の様子を見ると、他の被造物とは違いました。


【創世記2章7-8節】

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

そして神様は、人間に エデンの園を支配し、管理する特別な使命を与えました。

ここまで神様が人間に特別な祝福と使命を与えたのは、人間を愛したからです。


【イザヤ書43章4節】

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

何もなくても愛されている人は幸せな人です。

自分を愛してくれる人がいなくても、神は愛しておられます。

自分が誰であるかを知らない人は幸せにはなりません。


自分の価値と存在の意味を知ることほど大切なことはありません。




◎人間は神の作品




【エペソ書2章10節】

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

作品は、機械で作っているような商品ではありません。

商品ならば、同じものを大量に作ります。
しかし作品は、1つ1つ違うので 作品自体に価値があります。


人への妬みもコンプレックスも 自分と他人を比較するから生じるのです。

自分が神の作品であることを知っている人は、その価値を認識しながら生きていますので、自分をないがしろにすることも けなすことも 傷つけることもしません。


例えば、クリスチャンならば 神の子どもとして、世の光として、世の塩として、この世と区別していきます。


自分が神の作品であることを悟らず、本能的に欲望の中で生きる人に対して 次のようなことばがあります。


 

【詩篇49章12-13節】

しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。

これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。

【第2ペテロ2章12節】

ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。



◎人間は従順する存在




神は絶対的な存在です。

神によって造られたすべてのものは、神に従順する時に真の価値があります。


神に逆らって生きている人は、偉い人でも、自由な人でも、強い人間でもありません。

神に逆らって生きることは、神から見た時に、とんでもない罪であり、それは必ず裁かれます。


自分は神のことばに従順する存在として造られたことを知る時に、どのように生きるべきかが分かります。

人間は、創造された本来の目的通りに生きる時が1番幸せです。


私たちの人生の計画も、私たちを造った神のみこころに従うように設定をしないといけないです。

“神に従わなくても、悪いこともせず真面目に生きることが正しい” と思う人が多いですが、自分が誰なのかも知らない中で正しく生きることが出来るでしょうか。


自分の人生が終わる時に「私を造った方の御心に従って生きた」と告白したいならば、自分を造った神の目的を正確に知ることが大切です。


みことばに従順する人が、知恵ある人と言われる理由がそこにあります。
(´・ω・`)

2016.6.19
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖徒が取るべき態度

テーマは 『 聖徒が取るべき態度 』 です

【ヤコブ4章7ー8節】

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。



1.神に対して




・神に従いなさい (ヤコブ4章7節)

神に従うことは神の恵みにふさわしく生きることです。

従うことは、神の前にへりくだり 心と思いと力を尽くして神の言葉に服従し、神の摂理に自分自身を完全にゆだねることです。


【第1ペテロ5章6節】

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

・神に近づきなさい (ヤコブ4章8節)

神に背を向けて この世を愛し、この世と仲良くして神との距離が離れている人には、そこにいつまでもとどまらず、方向を変えて神に近づくことを勧めます。


恵みも救いも永遠の命も天国も すべて神が持ってあります。

それが欲しいならば、神に近づかなければなりません。


“今は何も生活に不自由がないし満足しているし、神は別に要らない” という人は、この世を離れる時には一番哀れな人です。


(地上を離れる時は)何一つこの世から持ち出せないことを知らなければなりません。


その時、慌てて神を求めても助かることはありません。
救われるチャンスはもうないです。

そこから人生最大の後悔と苦しみが始まります。

私たちは、生きているうちに私たちを招いておられる神に近づかなければなりません。


神様のことがよく分からないと言う人がいます。

それは 切に求めていなく、近づかないので分からないのです。


神は必ず求める者にご自身を現わし、近づく者に近づいて下さる方です。

神が近づくということは、祝福と恵みを与えることを意味します。


【第2歴代誌15章1ー2節】

すると、神の霊がオデデの子アザルヤの上に臨んだ。

そこで、彼はアサの前に出て行き、彼に言った。「アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。



2.悪魔に対して




・悪魔に立ち向かいなさい (ヤコブ4章7節)

悪魔の姿は、映画に出てくるような恐ろしい怪物だと思うなら、皆さんは悪魔に立ち向かうことを諦めて逃げるでしょう。

それなら私でも怖くて逃げます。


しかし実際は そんなものではないです。

悪魔を恐れて逃げるならば どこまでもついて来ますが、敵対するならば悪魔が避けて行きます。


私たちが悪魔を恐れる必要がないのは、私たちを罪から贖って下さったイエス・キリストの名を使う権限が私たちにあるからです。


ですから悪魔と戦うためには、いつも神に近づきながらイエス・キリストの名には悪魔を追い出す力があることを認めて、その名を信頼することです。


悪魔と戦うためには、悪魔がどこでどのように働いているかをまず突き止めることです。


空中に向かって、「悪魔よ、出て行け」 と言うのではないです。

悪魔は人間の中に目立たないように密かに働きます。


自分の姿がバレないように働くのが 悪魔の巧妙なやり方です。


  1. まずは人の中に欲望を入れる
  2. 欲望を通して私たちに影響を与える
  3. 肉的な欲望の中に 悪魔は様々な衝動を入れる
  4. 物を見ると買いたくなる衝動、女を見ると情欲の衝動を起こさせる
  5. 怒り、憎しみ、敵意、争いなどの衝動を入れ、それを巧みに操る

【ヤコブ4章1節】

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。

戦う欲望によって人々と戦い、どれだけ多くの人命が犠牲になり、また戦った人たちの人生もダメになったか分かりません。


本来ならば、悪魔と戦わなければならないのに、悪魔は人間の中に戦う欲望を入れて、それを他人に向けさせて悪魔自身は何もせず、人間同士を戦わせて互いに滅ぼされるようにします。


人間はいつもこれに騙されています。


ですから神は、あなたが戦う相手は人間ではなく、あなたの中にある悪魔、相手の中にある悪魔であることを知って正しく戦いなさいと教えています。

悪魔こそ私たちの敵です。


【第1ペテロ5章8ー9節】

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。

【エペソ4章27節】

悪魔に機会を与えないようにしなさい。

自分たちの中で悪魔が働くチャンスを与えないようにすることです。


怒ったり争ったり自分で復讐したりすることは、悪魔に機会を与えることになります。

私たちが悪魔に機会を与えると、悪魔が働いて実を結びますが、その実を刈り取ってひどい目に遭うのは私たちです。


ですから騙されてはいけないです。


自分の中に様々な欲望を抑えられなくなった時には、いま自分の中に悪魔が強く働いていることをすぐ悟って 悪魔に立ち向かって戦うことです。


すると悪魔は自分の正体がばれたので働くことが出来ず追い出されます。


追い出さないと自分が悪魔に支配されて悪魔の思い通りに従うようになります。




3.罪に対して




【ヤコブ4章8節】

罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

罪ある人と 二心の人とは、別々の人のことを言うのではなく、同じ人の中にある 心と行動です。

自分の欲望のままに生きていることが罪ある生活ですし、二心は 神とこの世を行ったり来たりする生活のことです。


手を洗いきよめることは、儀式的な面で汚いものを洗うことを意味します。


罪は汚いものであり、決して綺麗なものではないです。
それは洗わないといけないものです。


自分の現在の罪の生活を悔い改め、具体的に神を信じる者としての生活を見せないといけないです。

悔い改めの実を結ぶことが手を洗ったことになります。


そして心を清くすることは、心の問題のことで霊的姦淫の罪を捨てることです。


神を愛するか世を愛するかをハッキリさせることです。


さまようことをやめて 神を見上げる生活をしないと神に近づくことは出来ません。


世を愛して妥協しながら神を求めても そこには距離があります。

しかし清さと聖潔を求めながら神に近づくと神もその人に近づいて下さいます。


【ローマ13章14節】

主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

【第1ヨハネ2章16ー17節】

すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。

このように悪魔には敵対し、罪を避け、神に近づくことが聖徒の取るべき態度です。

神は明確に私たちに教えて下さいました。


ですから、“分からないから出来ない” というのは ただの言い訳です。


みことばをしっかり受け止め、聖霊の助けを求めながら聖徒らしくいきましょう。
(・◇・)ゞ

2016.6.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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死の陰の谷はどこなのか

テーマは 『  死の陰の谷はどこなのか 』 です

【詩篇23篇4節】

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

詩篇23篇は、聖書の中で最も愛用されている箇所の一つですが、1節から6節まで全部暗記している人も多いと思います。


今はどのようになっているかは分かりませんが、アメリカの多くの兵士たちが戦争に行く時は 詩篇23篇を書いた紙をポケットに入れて戦場へ行ったと聞きました。


不安と恐れがある時に きっと慰めと力を受けたと思います。


4節に書かれている “死の陰の谷” とはダビデにとってどのような環境だったと思いますか?

私たちは “死” という言葉に反応して「死ぬほど辛い環境」を思い浮かべると思います。

生きるか死ぬか分からない環境の中で、必死に神に叫んでいる姿を想像するでしょう。


アメリカの兵士たちも死と隣り合わせの戦場で戦っていたので、詩篇23篇が慰めになったと思います。


ダビデも数々の戦いがあり、そこで守られたので、自分たちも守られると信じていたと思います。

死は人間にとって最大の恐れであり、最大の敵です。
この死は人間の罪から始まりました。


ですから、環境が厳しかったり、絶望的な中にいるので、そこが “死の谷” ということではないです。

人間が罪を犯して神との関係に問題が生じた時が、人生の一番恐ろしい死の谷であることに気付かなければなりません。


新約聖書でイエス様が 死の道といのちの道について話しました。


【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

主のことばによれば、狭く険しくて辛い道が死の道ではなく、そこはいのちの道でした。

そして広くて楽な道が祝福の道、いのちの道に見えますが、実は“死に至る道”でした。


私たちはダビデにとって死の谷がどこだったのかを知ることで、自分たちの人生でも どこが死の谷であるかを確認し、そこでどのようするかを学びたいと思います。




ガテのツィケラグの谷がダビデにとって死の谷でした




【第1サムエル記21章10-15節】

ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」

ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気が狂っている。なぜ、私のところに連れて来たのか。

私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

ガテとはペリシテの国のことです。


ペリシテは5人の王がいる連合国です。そして ガテはイスラエルと国境を共にする国で、お互いの民が行き来したりもしました。

しかしいつも戦っている敵国でもありました。

当時、無名のダビデを一躍有名にした戦いがゴリヤテとの戦いでしたが、そのゴリヤテはペリシテ人でした。


そのダビデがサウルを恐れ、その追跡を避けて逃げたのが敵国であるガテで、そこでもダビデは人を恐れて気が狂ったふりをしました。

ダビデはこの時、どのような心境だったでしょうか。


彼が神を恐れ、神に頼っていた時には巨人ゴリヤテも倒しましたが、人を恐れた時には、心が不安になり、猫の前のねずみ状態で、いのちを守ろうと醜い姿を見せ、人々の物笑いになりました。

自分も恥をかき、神にも恥をかかせました。


そこからダビデは死の谷に足を踏み入れました。


ダビデはそれからアドラムの洞穴に避難しましたが、そこにイスラエルから色々な人が集まって来ました。

問題を抱えた人たちもいれば、戦いに強い勇士たちもいて、600人までに増えました。


以前は1人だったダビデが600人の部下を抱えたので不安と恐れが消えたでしょうか。

彼は相変わらずサウル1人を恐れていました。その時の告白が次の箇所です。


【第1サムエル記27章1節】

「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

このように思って、再びアキシュ王の所へ行き 安全に住む場所をお願いしました。


アキシュ王も策略家であるので、ダビデと600人を受け入れ、ツィケラグの谷を与えました。

そこでダビデは1年4か月も住むことになります。


サウルは二度とダビデを追うことはしなかったですが、ダビデはそこで何をしたでしょうか。

アキシュ王はダビデを自分の護衛長に任命しました。


“次期イスラエルの王になる” と神から言われたダビデが、敵国であるペリシテの王アキシュの護衛長として働いている姿は本当に情けない姿だと思いませんか。


ダビデにとって肉体的には ある意味安全でした。

そこにいればサウルから逃げる必要もありません。


しかし現実は 神と共に歩みながら、神に仕える姿ではなく、サタンに仕える姿になっていました。

彼は自分の思いで広い道・楽な道を選びました。


ダビデはそこでサウルから苦しめられることなく1年4か月も楽な生活を送っていました。

しかしそこにいる時の彼は、神への1つの賛歌も 信仰の詩も残すことはありませんでした。


ダビデがペリシテの王に仕えたことは人を喜ばせることであって、神を喜ばせることではありませんでした。


肉体は楽でしたが、彼の心は楽ではありません。
その場所で神を礼拝することはありませんでした。


いくら肉体が楽でも、神を礼拝出来ず、神に仕えることが出来ないならば そこが地獄です。


地獄は苦しい場所よりも、神と断絶されたところが地獄です。


その地獄が “死の陰の谷” です。


福音を伝えた為にむち打たれ、牢獄に入れられたパウロとシラスが真夜中に神を賛美し祈りをささげた時に 主がそこに共におられました。

牢獄であっても、主がおられるならばそこが天国です。


自分の肉体を喜ばせ、楽をさせるために礼拝も平気に休んだりするならば、自分がいま死の谷を歩いていることに気付かないといけないです。


広い道、楽な道はいのちの道ではなく、死の道であると 主がはっきりと言われたからです。


ダビデは死の谷で多くの問題にぶつかることになりました。

同族であるイスラエル人とも戦わなければならない場面もあり、家族や財産も全部奪われ、仲間に石打ちにされそうにもなりました。


神様の憐れみと助けがなかったならば、ダビデはイスラエル人から一番憎まれる人になって殺されていたと思います。

自分から死の谷に入りましたので、死にそうなことが起こります。


彼がそこから助け出されたのは神の恵みでした。

ですからダビデは詩篇23篇でそのことを告白しました。


色々な出来事を通して やっと自分がとんでもない所にいることに気付き、神に立ち返ることになりました。


楽な道、広い道を求めてはいけないのは、そこが地獄へとつながる入口だからです。


神が導く道ならば安全ですが、自分の肉の思いから考え出した道は誘惑が多いですし、そこが死の谷になります。




ダビデにとって死の谷はサタンの罠に落ちた所




それはある日起きました。


【第2サムエル11章2-4節】

ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか」との報告を受けた。

ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。―― その女は月のものの汚れをきよめていた―― それから女は自分の家へ帰った。

その時、国は戦争中でしたが、ダビデ王は軍隊を送り出して、自分は遅くまで寝ていて夕暮れにやっと起きました。

ここで彼の生活も霊的状態も怠けていることがすごく分かります。


【マタイの福音書26章41節】

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。

このように主が言われるには意味があります。

いつも信じる者を誘惑しようとサタンが待ち構えているからです。


ダビデは油断していました。
神を経験し、また神は彼を祝福しました。

ですから自分が誘惑に陥るとは考えていなかったです。


しかしサタンは休まず誘惑、罠、策略をつねに考えながらチャンスを狙います。

そして霊的に油断しているダビデを一人の美しい女を通して誘惑しました。


油断していたダビデはあっという間にその誘惑に陥りました。


彼は王宮の屋上から、死の谷に転落しました。

そこから彼の長い地獄生活が始まりました。


女が妊娠してしまい、それを隠ぺいするために様々な策略を試しましたが失敗に終わり、ウリヤが殺されるように仕向け、ウリヤは死にました。

その後、バテ・シェバを自分の妻にしましたが、それは主のことばをさげすむことであり、とても悪いことでした。


生まれた子は死にましたし、家庭に多くの災いが起こりました。

ダビデがそのような罪を犯していた時には、神を呼んだことはなく、神の前に出ることすら出来ませんでした。


もし神が彼を見捨てたならば、彼はどうなっていたでしょうか。


しかし、この時も彼を死の谷から救い出したのは神様でした。

預言者を通して彼を戒め、罪を赦したと宣言しました。


彼自身のあやまちによって二度も死の陰の谷を歩きましたが、神の憐れみと赦しによってそこから救い出されました。


広い道で自分の欲に従って歩み、自分の欲望を満たしても、それが神なしの人生であるならば、その先はいばらの道が待ち構えていることを知らなければなりません。


本当の死の谷は神のみこころにそむいて歩く道、自分の肉の欲望に従う道、神がいなくても平気と思いながら進む道です。それが本当に怖い道です。


生活が苦しくても、問題が大きくても神に求めるならば、神はそのことで死ぬことがないように助けて下さいます。


しかし広い道、楽な道で楽しいと思いながら歩き、私は大丈夫だと思っている人は自分がいつ つまずくかわかりません。


気楽に歩くその人が一番危ない人です。
なぜなら自分が永遠の死の谷を歩いていることを知らないからです。


いま楽な道だからと安心していますか?
私は大丈夫だと油断していませんか?

誘惑を祝福と勘違いしていませんか?
神抜きでも何の問題もないことを喜んでいますか?


ダビデが通った死の谷をみて考えて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.8.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖徒が警戒すべきもの

テーマは 『 聖徒が警戒すべきもの 』 です

【ルカの福音書12章1-3節】

そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。

おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。

ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。

【ルカの福音書12章13-21節】

群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。

すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。 さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

9月5日(金)に、スマホを使用していた最中に、突然大きな音とともに表示画面が変わったので、びっくりしました。
きっと、大阪に住んでいる皆さんも同じ体験をしたと思います。

それは、大阪府民880万人に一斉送信された緊急地震速報の避難訓練のお知らせメールで、2度もありました。

自宅はマンションの9階なので、たとえ津波が来ても安全な場所ですが、1階に住む人たちはどうしているのかと思い、外の訓練の様子が気になり 窓から見下ろしましたが、何一つ変わっておらず避難訓練に参加している人は、1人もいませんでした。


南海トラフ巨大地震は、近い将来 必ず起こると言われていますが、いつも情報を聞きながらも、「まだまだ大丈夫だろう。」と思ったり、どうしたら良いのか分からないからと、考えないようにしている人が意外と多いかも知れません。

私は必要なものは備えましたが、何の対策も警戒もしていない人は地震が起きた時、本当に大変だと思います。
私たちはこれらのことも気にしながら、知恵を用いて対策をしなければなりません。


本文のことばは、イエス様が弟子たちに教えられた大切な戒めですが、これは私たちの信仰生活に対する警告であり、私たちを倒そうとするものからの避難訓練でもあります。

この訓練は、日々していかなければならないもので、何かが起きてからでは遅いのです。


これは、いつか起きる巨大地震のようなものではなく、日々私たちを襲ってくる、あらゆる誘惑から自分自身を守るために必要な訓練のことです。


今回は、何をどのように警戒して訓練をしていくのかを学びます。




(1)外側と内側とが違う信仰生活を警戒する




外側と内側とが違う信仰生活のことを一言で言うならば、偽善的な信仰生活のことです。

ルカの福音書12章1-3節で主が語りました。

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。

おおいかぶさっているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。

ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。

この人たちは宗教的に敬虔に見えますし、祈りも奉仕も熱心にしますので、すごく信仰があるように見えますが、心の中には貪欲、嫉妬、高慢、憎しみや汚れた思いがそのまま残っています。 

肉の思いを捨てることをせず、見える部分だけを、きよく見せようとしても、それは偽善に過ぎません。

イエス様は、いつもそのように生きているパリサイ人たちに「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」と語っていました。


パリサイ人は当時、宗教に一番熱心な保守的な人たちでした。
人々は彼らを尊敬していましたが、イエス様は彼らの偽善を知って暴露し、人々が騙されないようにしました。

偽善は本心を隠しての行動ですが、いつか主の前に立った時には裸にされるように、すべてのおおいが取り除かれて全てが明るみに出されます。

そして偽善的な行動には、神からの報いもありません。反対に さばきが待っています。


【マタイの福音書6章1節】

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

ですから、自分の信仰生活の中に偽善的な要素があるかどうかを、よく調べるのが重要です。


主の前に真実な姿で生きるように心掛けなければなりません。




(2)所有物に対する貪欲にも警戒する




所有物に対する貪欲にもよく警戒をしなければなりません。(13-21節)

本文は、財産分配の問題解決のために来た人を通して、イエス様は人間がどこに価値を置くべきかを教えています。

イエス様は、財産分配の問題の解決よりは、その後に続く金持ちのたとえ話を通して、すべての人の心にある貪欲を指摘して根本的な問題の解決を提示しました。

私たちが根本的な問題を解決しないならば、1つの問題が解決されたとしても、また新たに似たような問題が起こります。

「何で次から次へと同じ問題が起きるのか?」と困惑しますが、自分の中に常に問題の根本的な原因があるからです。


クリスチャンの中でも、この根本的な問題が解決されず、貪欲な心のままで生きている人が多いです。
それがあるので神様を第一に出来ませんし、誘惑に弱いですし、神様が恵みを与えても、その恵みの価値を知らないでこぼしてしまいます。

お金のほうがもっと大切だと思うようになります。

イエス様の教えから、発見される教訓は何でしょうか?






①人生の真の価値は財産にあるのではなく、永遠のいのちを所有することにあります。

皆さんのいのちは何でしょうか?お金ですか?

すべての人に共通するものが1つあります。
私たちの人生は、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。どんなに長生きをしても、100年ちょっとです。

先日、交通事故で死亡した韓国ガールズグループのウンビさんは21歳で、まだ若いです。
死は何の前ぶれもなく、突然起きました。


私たちも、明日のことは分かりません。生きているか、死んでいるか――

金持ちでも貧しい者でも、死の前では無気力な存在です。

財産が私たちの命を守るために、死を止めることができるでしょうか?

それにもかかわらず、財産を人生の目的として貪欲になっているのは愚かなことですが、それに気づかない人も多いです。


②すべての富も命も、主の手の中にあり、私たちの人生は、神の管理人としての使命があります。

豊かさは神の恵みと祝福によるものであり、いのちも神の主権的な手にかかっているのです。


③自分に与えられた富を貧しい者のために使う人は、天に宝を積む人で、神さまはその人のことを豊かな人だと語りました。

愚かな金持ちのように、自分のためだけに使うならば、必ず神さまのさばきにあいます。
なぜなら、神の目的に逆らって生きたからです。

“貪欲”とは、愚かな金持ちを通しても分かったように「自分の所有や感情の満足を追求するために、絶えず生まれる欲」です。


貪欲におちた人は霊的に見えない者になり、霊の世界も分からず、自分の肉の欲のままに歩むようになり、信仰生活もつまらないです。

物質世界の中で、もっとも私たちが警戒しなければならないものは この貪欲です。






ですから、貪欲に対して聖書の多くの所で教えています。


【詩篇39編6節】

まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。


【ハバクク書2章9節】

わざわいだ。自分の家のために不正な利得をむさぼり、わざわいの手からのがれるために、自分の巣を高い所に据える者。

将来の不安対策として蓄えるので、「これでも足りない」と、いつも不満足な状態です。


【Ⅰテモテ6章9-11節】

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

貪欲はあらゆる悪の根であると教えます。


【コロサイ3章5節】

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

貪欲はそのまま偶像礼拝になります。

偽善的な信仰生活をしている人の中にあるものは、この貪欲が原因です。

神様を第一に求める人のように見せかけながら、心の中では別のものを熱心に求めています。

イエス様のところに来て財産分配の問題を解決して下さいと頼んだ人も、イエス様をメシアとして崇めたのでもなく、イエス様を利用して自分が財産をもっと貰いたいという貪欲の思いの方が強かったのです。


また貪欲は、使うべき所にも使わず、ひたすら集める人だけが持っているものだと思ってはいけないです。

自分の欲望や物欲のために自分の収入以上に使う人の中にも貪欲があります。借金までして手に入れます。
この貪欲は、そのまま偶像崇拝になりますので、本当に私たちが警戒をしなければなりません。


偽善的な信仰生活と貪欲には深い関係があります。この世と神を求める二股状態です。

うまく続けられると自分で思っていても、結果は「愚かな者」と主から言われるようになります。


他にも聖書には警戒すべきものがありますが、今回は最も警戒が必要な偽善と貪欲について話しました。
貪欲は私たちの中で持っていない人はいないほど、根が深いものです。

(自分の中には)存在しないと思っていても自分の心を掘っていけば、どんどん出てきます。


探し出して捨てていくのが、警戒して訓練をしている姿です。

私たちがみことばに従って、神を喜ばせるならば、神様は私たちに必要なものを備えてくださる方です。
欲しい物よりも、生きる為に必要なものを与えて下さいます。それを信じて、必要なものは神様に求めましょう。

そして、偽善と貪欲は捨てましょう。
(*・ω・)ノ

2014.9.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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古い人から新しい人へ

テーマは 『 古い人から新しい人へ 』 です

【詩篇51編10-13節】

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、 あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

神様の恵みの中で生きていながらも 神様との関係がうまくいかない人たちが多く、恵みの中で生きながら神様への不従順のために罪責感をもって 生きているクリスチャンも多いです。

「神様を信じているのに、どうして平安がないのか?」というような経験はありませんか?


【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

クリスチャンとはこのような姿です。

しかし私たちは、新しくなった自分の中に、古い姿が相変わらず存在しているので 私たちは信じた後でも古い人の姿で罪を犯しながら苦しみながら生活をしています。


神様は、新しく生まれ変わった者は滅びていく古い人を脱ぎ捨て、心の霊において新しくされ、新しい人を身につけるべきだと教えておられます。

私たちはイエス様を信じた瞬間から、(私たちの)古い姿を思い出さなくなるでしょうか?
神様を信じているのに、自分が考えている思いはそんなに変わらなく、 自分の生活習慣も性格も行動もあまり変わっていない姿を見て、「私はまだ救われていないのかな?」と感じる時があると思います。


確かに私たちは救われました。
しかし自分たちの中にまだ古い性質が色々と残っていて、それがまた新しい罪を生みだすことが多いです。


ダビデの詩篇51編は、悔い改めの祈りであります。
彼が犯した罪は大きな罪です。

神様がダビデに目を留めて、特別に選び 油注ぎを与え、イスラエルの王にしました。
神の心に適う者でしたが、彼が一度も罪を犯したことがない ということではないです。

ある時に誘惑に受け、なぜかダビデは心を守ることができなかったのです。
人妻をとって姦淫の罪を犯し、その罪を隠ぺいするために その夫を殺害する罪をさらに犯しました。

そして彼はその罪までも闇に葬ろうとして 神に悔い改める事もせず隠していました。ばれないと思っていたのです。

しかし、この罪をばらしたのは、神ご自身でした。


アダムが罪を犯した後に、まず行ったことは 神の前から身を隠したことです。
これは光から闇になった姿であります。

人間はいつもそうです。
なぜなら神の御前に出ると、(神様は)心を見ておられるので、私たちは神様から隠れることは出来ないのですが「闇の中にいれば 大丈夫だ」と思って隠れています。

その意味で、人間は本能的に光より闇を愛します。闇に慣れています。


信仰の人であったダビデも 罪を犯してから、罪を闇の中に隠して普段通りに生活をしたのです。
神様は彼がいつ闇から出て来るのかと待っていましたが、出て来ないので、預言者を遣わして隠していた罪を全てばらしました。

しかし、これは良い事なのです。
罪を隠すことが良い事なのか、それとも罪をばらすことが良い事なのか?これは 罪をばらすことが良い事であります。

なぜならば現さなければいけない出来事は、必ず現さなければなりません。罪は隠すものではないです。


罪を隠しておいて、私たちは平安の中で生きることは出来ないです。

罪を隠しておいて、神様と良い関係を結べることはないです。罪があるならば、問題が解決されません。
罪があるならば、どんなに神様に祈っても その祈りは届かないです。


ですので、罪を明らかにされるのは自分にとっては祝福であります。

罪が明らかにされると、私たちは逃げられなくなります。
そうすると悔い改めるようになるのです。「赦してください。」という言葉を使います。
しかし罪を隠している時は「赦してください。」という言葉は使わないです。


神様が私たちの罪をばらすのは殺すためではないです。
神様は情け深い方、憐み深い方、赦す神様でありますので、それを神様が「いつまでも隠しておいたら命を失うから悔い改めなさい。」と赦すために ばらします。


もし死ぬまで隠しておくならば“罪に対する報酬の「死」”の恐ろしい火が、その人の身に迫ってくるのです。

罪に対する厳しい処罰があります。

しかし犯した罪を光に現わして悔い改めるなら、神様はどのような罪であれ赦してくださるのです。


放蕩息子の例えでも分かるように、立ち返った者たちには回復の祝福を与えてくださいます。


アダムが犯した原罪によって人間が失ったものがたくさんありました。

永遠のいのち・神が与えて下さった聖霊、神との霊的交わり、まことの平安、聖と義、善を行う力、神の中にある自由、エデンの園、神の祝福など私たちが古い人のまま生きるならば、これらのものは絶対に受けることはありません。

古い人の性質はアダムから流れてきているものであります。
神様は悔い改めて立ち返るなら、失ったものを再び与えます。

悔い改めて立ち返るということは、回復を受ける素晴らしい祝福であります。


神様はそれを願って「立ち返りなさい。罪を悔い改めなさい。そうすればあなたは祝福される。」という言葉を語っておられます。

私たちが救われた後でも罪を犯しながら、その罪から離れようとしないならば、その罪が神様との関係に大きなトラブルを犯し、 神から離れ、自分の本性のままに生き 滅びていくしかないです。


肉の欲に負けて、欲望の中で生きていたダビデがそれを脱ぎ捨てて 新しい人を身につける姿を見たいと思います。


【詩篇51編10節】

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

このように祈ったことはありますか?これはとても大切なことであります。

人々は罪を犯すと、なぜか罪ばかりに焦点を当てて「あぁ、罪を犯してしまった。もうこんな罪を犯したくない」と 罪のことを黙想してしまうのです。 「何でこんな罪を犯したんだろう?あの人が誘惑したから悪いのだ。サタンが悪い。」など罪を研究するのですが、それをするからといって 罪が消えるのでしょうか?

そうではないです。


罪から離れるために罪を見つめても、そこから離れることはできません。
私たちが神様の前に罪を犯さないために一番大切なことは、神のみこころに従う心であります。

神のみこころに従う心を、私たちは求めなければいけないです。


アダムが犯した罪は何でしたか?
人殺しですか?姦淫の罪ですか?妬み、怒り、高慢でしたか?――そのような罪ではありません。

一言でいうならば、神様への不従順でした。
“食べてはならない”と命じておられた 善悪の実を取って食べた不従順の実でした。

人間のすべての罪の根底は神の言葉に対する不従順です。


神様の言葉に従うならば、罪は出て来るはずがないのですが、数えきれない不従順の実が結ばれていきます。

ですから ダビデが罪を犯したのは、自分が神様の言葉に不従順していたことに気付いたので、神様に従うきよい心を求めました。


クリスチャンたちは、神様が「従いなさい。」と言うと すぐに「難しいです。出来ません。」と よく言います。

従順するのが難しいと ほとんどのクリスチャンたちが言います。
しかし、難しいのではないです。


私たちは“従順”という言葉と“不従順”という言葉に対して自分たちが持っているイメージであります。

不従順は、人間の自由であり私の思いのままにできるのだという思いです。また従順は、私は自由ではなくなるのだという思いがあります。

従順することは不自由になるという思いがあるので従えないのです。

そして不従順は、「私の思いのままにしても良いので神様の言葉は関係ない。私がしたいことをする!」という自由に出来るという思いがあるので不従順を選んでしまうのです。


しかし、それは真逆に考えなければなりません。

私たちが従順することは、本当に自由を得る道であります。「真理はあなたがたを自由にします。」というみことばがあります。

しかし真理から離れてしまうと、その時から私たちは自由のように見えるのですが、サタンの束縛の中に入っていきます。サタンこそ束縛する者であります。罪の中にどんどん連れて行って、そこから逃げられないようにします。
これがサタンのやり方です。


ですからダビデは、罪を赦して下さいと祈るよりも、自分に必要なものは従順する きよい心であることを知り、
「罪にそまった私の心を新しくし、きよい心に変えてください。」と祈りました。

私たちが神様に祈る時も、罪を赦してくださいということも重要ですが、それ以前にもっと大切なことは「私の心にきよい心がないから こういう罪を 犯してしまいます。ですから私の心をきよい心に変えてください。」という祈りです。

きよい心は罪を犯さない心であります。
しかし「赦してください。赦してください。」だけでは、心が汚れたままなので また罪を犯すのです。




それからダビデは「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と祈りました。
「ゆるがない霊」とは、真実な霊、神にすべてを頼る心、すなわち信仰を意味します。

信仰とは、神様にすべてを委ねて すべてを頼る心であります。


ダビデはすごく神様に従った者で、彼は様々な場面で素晴らしい信仰を私たちに見せてくれました。
彼の中に信仰があったのですが、信仰が落ちてきた時に罪が出てきて神様から離れていきました。

ダビデがこのように願っているのは、神様への信仰を回復したいという思いがあったからです。


クリスチャンは常に自分の状態を調べながら、このような祈りが必要です。

もし今、イエス様に救われたばかりの頃に持っていた喜びがない、その頃の感動がない、熱い心ではなく生温い心があるならば、この祈りが必要であります。

神様への不従順があると信仰は確実に冷めて弱くなっていきます。
それは他人のせいでも環境のせいでもないです。また 自分の力が足りないからでもないです。

先ほどにも言ったように、常に根底にあるのは神への不従順です。
神様を信じてから、ずっとみことばに従順していたならば その信仰は確実に熱くなりますし、確実に成長していきますし、確実に揺るがないものになります。


しかし不従順を重ねていくと、信仰はだんだん弱くなっていき、神様から遠ざかっていくので信仰が生温いものになります。ですから自分の中に生温いものが感じられるときは、不従順になっていることに気付くべきであります。

神様が自分を捨てたのではないです。自分の不従順があらゆる祝福を邪魔していきます。
自分の状態が祝福を受け取らないようになっているので祝福が来ないのです。


聖書にはそのような場面が出てきます。ロトの妻がそうです。

ロトの妻は ソドムの町から神様の特別な恵みで救い出されたのに、なぜすぐに塩の柱になってしまったのでしょうか?

御使いがはっきりと「後ろを振り返ってはならない」と言われたのに、ロトの妻は不従順して後ろを見たので、その瞬間に塩の柱になりました。

祝福を手に入れていたのですが 一瞬にして祝福を逃してしまいました。

私たちは神様の約束があっても自分のものにならない多くの理由は、ロトの妻のように どこか不従順があるので逃してしまっています。

不従順は、祝福をのろいに変えてしまいますので、ダビデのように信仰の回復を祈ることです。




続いて、ダビデは次のように主に求めました。

【詩篇51編11節】

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

これは、「聖霊様、いつも私と共にいて下さい。」と切に求めた祈りです。

ダビデがこのように求めたのは、以前(自分よりも先に王であった)サウルが罪を犯して悔い改めなかった時に、聖霊がサウルから離れ、代わって悪霊がサウルの中で強く働いて滅びた姿を 目撃していたからです。
その時にダビデが賛美をすると、サウルの中で働く悪霊が出ていき 平安な心になる姿を何度も見ました。


聖霊が離れると、悪霊が入ってきて その人の心を支配し人生が潰れていくことを目の前で見たのです。
それでダビデは怖くなり、聖霊様を自分から取り去らないように祈りました。


私たちは何か力ある働きをしたいから聖霊様を求めるのではないです。それは二の次であります。
私たちから聖霊様が取られると、ただの人になるのではなく、悪霊がすぐに入ってきて心を支配してサタンの奴隷となり 悲惨な状態になってしまいます。


私たちが罪を犯すと聖霊様は悲しみます。
そして自分のほうから聖霊様を悲しませると、聖霊様は去って行きます。
聖霊が去った後 私たちはどうなるのかは、サウルの姿を見たら良いです。




【詩篇51編12節】

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

彼は喜んで仕える霊を求めました。

ダビデが以前、神の恵みに対して歌の中で喜びを現しました。


【詩篇18編1-3節】

彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

ダビデにとって神様は身近な存在であり、神様の偉大さ、素晴らしさ、自分にとってはなくてはならない方であることを褒め称えました。

しかし罪を犯した後のダビデの姿を見ると、喜びがまったく無かったです。
彼が罪を隠していた時には、詩篇が1つも書かれていないです。

私たちが罪を犯して一番最初に消えるものは「平安・喜び」です。


ダビデは悔い改めながら 自分の中から消えてしまった救いの喜びを返してくださいと祈りました。

このようにして神様が彼の罪をばらしたことによって ダビデは勇気を出して神様に祈りました。
そして罪の支配・束縛から離れ、積極的に神様に従順する心で 喜んで主に仕えたいと願いました。

これが私たちの祈りであるべきです。

人々は罪を隠しておいて、罪を楽しむ心があるのです。
罪と知っていながらも離したくないという肉の思いがあるので ズルズルとそこに留まっているのです。

しかし罪と気付いたならば、そこから断ち切ることです。それは悪魔と繋がれた死の綱だからです。


聖書には「心を頑なにするな」という言葉がたくさん出てきます。

私たちが罪を犯すのも、私たちが従順しないのも、環境や弱さ、力や人のせいではありません。
それはすべて「心の問題」であると神様が指摘しているのです。

頑なな心を変えないならば、罪は消えないです。

自分が変わらない理由は、自分の心を変えないからです。
私たちは 自分は変わらないで 相手が変わることを願うのですが、それはとんでもないことであります。


神様は「あなたはわたしの言葉を聞いているのに どうしてあなたは心を頑なにしているのか?」と語ります。
聖書を読むと 神様が語る言葉で、常に私たちに対して厳しく語っているように聞こえてきます。
それは何故だと思いますか?

例えば、誰かが自分に対して罪を犯したとしても神様は「あなたが許しなさい」「憎んではならない」「愛しなさい」と語ります。私たちは「何で私が?!」という思いになるのですが、これにはすべて理由があります。

罪を犯した者に対して怒りや憎しみや恨みが出てきます。その時の私たちの心の状態は 悪魔の心とそっくりであるので、私たちの心を見る神様が苦しむのです。


神様から見たら「あの人も悪いが、その人に対してあなたが抱いている心を見ると、どっちもどっちだ」ということであります。
私たちの顔がだんだん悪魔の顔になるので、それを神様が見たくないので「その思いを捨てなさい」ということです。


反対に「愛しなさい」「許しなさい」となると、私たちの顔が笑顔になっていくのです。

神様の子供である私たちの顔が悪魔に変わっていく姿を見て、神様は喜ぶはずがないです。

あなたの姿が美しい姿であって欲しいので、その意味で神様は「あなたの中にあるものを捨てなさい。」と語ります。


罪を犯した者には、自分で蒔いたものを刈り取らせますが、しかし それに連れられて、あなた自身も罪人になってはいけないので、許すこと、愛すること、受け入れること、親切にすることを みことばによって自分で行わなければいけないです。


それをしない限り、自分の心は美しくならないです。

心を変えないならば、今すぐその人をエデンの園においても、そこで罪を犯します。
それは心が悪いままなので罪を犯すのです。

環境が良くても自分が持っているものは悪いものなので、悪の実を結ぶしかないのです。


ダビデは問題が自分の中にあることに気付きました。
自分の心が悪かったので、そのような罪が生まれたことを知りました。

ダビデは悔い改めて、自分の心を新しくしました。
それを神様が答えてくださり、罪から解放され、死ぬ時まで聖い霊と喜んで仕える霊で主に仕え勝利し偉大な者になりました。


【エペソ4章22-24節】

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着けるべきことでした。

【コロサイ3章9-10、12節】

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、 愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

これは新しい人の姿であります。

こういうものを私たちは日々目指して自分の中に入れることであります。
そうすると人格や生き方が変わり、表情や結ぶ実も変わっていきます。 (´∀`*)

2014.4.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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