からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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栄光

神様を尊ぶならば、神様も私を尊ぶ

テーマは 『 神様を尊ぶならば、神様も私を尊ぶ 』 です

【Ⅰサムエル記2章30節】

それゆえ、―イスラエルの神、主の御告げだ―あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、 今や、―主の御告げだ―絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。

皆さんはこのことばに同意しますか?それとも同意しませんか?

同意するならば、その人は神様のことをよく知っていますし、自分が何者なのか自己認識も出来ている人でしょう。


神様とはどのようなお方でしょうか?

一言で説明出来るような神様ではありませんが、
「主は天と地と海とその中のいっさいを造った方」、「われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい」、「主はあわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、 恵みとまことに富んでおられる方」


この偉大な神様が造ったのが人間です。人間が造られた目的は次の箇所です。


【イザヤ書43章7節】

わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

私たちがこれらのことを明確に認識し、そのとおりの関係の中で正しく生きるならば問題ないと思います。

その人はどのような状況の中でも神をほめたたえ、神を尊び、喜んで神に仕えながら神に栄光を捧げるでしょう。
ある意味、それが自分の使命だと思うでしょう。“それが人間として生まれた目的だ ”と。


皆さんはどのように思っていますか?

ある人は「私は一度きりの人生を神のために生きることは嫌だ。」
また ある人は「別に造ってと頼んだ覚えがないし。勝手なことを言わないで。」と、皆さんはどうですか?

(従って生きるか生きないかは別にして)神を知り、人間の存在の意味が分かっているので、このようなことばは口にしないと思います。


神様は誰に今回のテーマ箇所のことばを語ったのでしょうか?

エリ祭司でした。エリはアロンの子孫として生まれました。
アロンは神によって大祭司と任命され、そして大祭司になるのはアロンの子孫だけだと神様が決めていました。

大祭司は民の中でも一番神に近づき、一番神に仕え、神に栄光をささげる務めを任された人です。

素晴らしい特権であります。そして誰よりも重い責任も与えられていました。
その家系で生まれることは、また素晴らしいことです。


そのエリはきちんと務めを果たしてきたでしょうか?
2人の息子も一緒に祭司として働きをしていましたが、神のみこころにふさわしい働きをせず、

残念ながらこの人たちは自分たちの立場を悪用し、醜い罪や到底 赦されない罪を平気に神の前で行いました。

主を侮り、全く恐れる心も尊ぶ姿もありませんでした。
神様は彼らを赦すことも受け入れることも出来ませんでしたので、彼らに与えられていた約束も祝福もすべて取り消し、彼らに死を宣告しました。

皆さんはこのことを不当だと思いますか?それとも神のなさったことに同意しますか?


人間としての使命や働き人としての責任を果たさないならば、何事もなかったかのように終わることはなく、責任を取らなければなりません。






2001.9.11のアメリカ同時多発テロ事件は未だに はっきりと覚えています。
テロによって3,025名が死亡、6,291名の負傷者が出ました。

ワールドトレードセンターの2つのビルが爆破され、火災も発生し炎上する中、救助に向かった消防士や警察官たちは建物が崩れ落ちる中、人々を避難させながら、自分たちは建物の中に 入って行きました。「早く逃げなさい!」と人々に言いながら、自分たちは火が燃える中に入って行きました。


彼らがなぜ自分たちの命を顧みずそのような行動を取ったのでしょうか?
それは彼らの使命であるからです。

彼らが消防士や警察官になった時には、危険があっても飛び込んで人を助けると心に決めているからです。

そして彼らはどのようになったでしょうか?343名の消防士、23名の警察官が亡くなりました。

さらに、その時は生きていましたが、建物が崩れる時に降ってきたコンクリートパウダーから出た有害物質によって多くの消防士や警察官が癌になり亡くなっている報告があります。

彼らが使命に生きている姿がここにあります。


私たちは神からの使命に対してどのように生きているでしょうか?

彼らのように使命に燃えていた若者たちの姿がダニエル書に出てきます。


ダニエルの3人の友人は神を尊び、神に従って歩むことを自分たちの生きる目的・使命と考えて生きていました。

彼らに大変な試練が来て、彼らは捕虜の身でした。
ネブカデネザル王は金の像を造って、それを拝まない者は火の燃える炉の中に投げ込むように法令を作りました。


しかし、3人は命を捨てなければならない時でも最後まで神を尊び、王の法令も大切ですが、その法令よりもさらに尊い神の命令をもっと尊重しました。


十戒の第2の戒めである「偶像を拝んではならない」という命令を守るために、彼らは次のような名言を残しました。


【ダニエル書3章16-18節】

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。

もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

王はこのことばに怒りが収まらず、炉を普通より七倍熱くせよと命じました。
そして3人はその火の中に投げ込まれました。彼らはその後、どのようになったでしょうか?

神様が彼らを助けてくださいました。これはまさに奇跡でした。


【ダニエル書3章27節】

火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。

このように彼らの様子が書かれています。


金の像を造った王もビックリして神をほめたたえました。


【ダニエル書3章28節】

「ほむべきかな。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、 神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。

これがまさに「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」と語った主のことばが実現されたことです。

私たちは神様が自分に対しての扱いが不当のように思われて、神に文句を言ったり、呟いたりしますが、その前に自分が今まで神様に対してどうだったのかを考えましょう。


「たくさん祈ったのに…」が良い報いを受ける条件ではありません。
神ご自身に対してどうだったのか?これが最も大切です。


【申命記8章6節】

あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。

【詩篇91編14節】

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。

【詩篇145編18-20節】

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

また主を恐れる者の願いをかなえ、 彼らの叫びを聞いて、救われる。

すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。

【詩篇147編11節】

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。


私たちが主を愛し、主を恐れ、主を尊び、主の命令を守って 主を呼び求めるならば、主は約束のことば通りにしてくださいます。

しかし、その反対のことをするならば、エリに与えたように みことばに書いている約束も、個人的に語ったことばも神様は取り消します。

その点を注意しなければなりません。


自分自身の様神への態度が、そのまま自分自身に返ってきます。
(゚∇゚ ;)エッ!?

2014.8.31
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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効果的な祈りの模範

テーマは 『 効果的な祈りの模範 』 です

【イザヤ書37章1-7節】

ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った。

彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちは荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。

彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。

おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」

ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしたちを冒瀆したあのことばを恐れるな。

今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。 わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

クリスチャンは危機の瞬間にどこへ行きますか?家族の元に行きますか?友人の元ですか?
そして危険な環境の中でどのように対応をするでしょうか?これはすごく大切なことです。


今、イラクでは誰が迫害されているでしょうか?

イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が他宗教・キリスト教徒やクルド人の宗教少数派の人たちを敵視しています。

女性数百人は捕らえられ、奴隷にされ、改宗を拒否する者を殺しています。
大量虐殺が行なわれる恐れがあります。この者たちはナイジェリアで200人以上の女生徒を拉致した組織と同じ思考回路で行動していると言われています。アメリカは空爆を始めましたが、彼ら(イスラム国)は残虐な者です。

クリスチャンや少数派の人々は10万人が山へ逃げています。食べ物や水、着替える服も何1つありません。
改宗するか、町から出て行くか、それとも税金(日本円で約4万8000円)を払うかという厳しい条件をつけて、住み慣れた場所から追い出しています。


今、子供も大人も砂漠へ逃げ込んだり、海へ逃げたり、山へ逃げたりと 聖書の預言通りの終わりの姿であるのです。これは宗教戦争なのです。

彼らはイスラム教の中でも違う神なのです。
彼らは「あなたもイスラム教ですか?それなら仲良くしましょう。」ではないのです。

自分たちと少しでも宗教観が違う者は自分たちの敵であり、「ジハード(聖戦)」の対象であるから平気で殺します。

人権などは無いです。
神が喜ぶのは自分たちの敵を殺すことだと思っています。


キリスト教の教えとは全く異なります。
キリスト教の教えは「あなたの敵を愛しなさい。」「敵が飢えているなら与えなさい。」「赦しなさい。」という言葉を使っています。

イラク政府は自分たちの力ではどうにもならないので、アメリカに助けを求めました。


私は今回のテーマ箇所であるイザヤ書37章を読みながら、ヒゼキヤ王がアッシリヤの侵略を受ける直前に彼がどのような心境であったのかを考えました。

時代は違いますが、似たような場面であります。

アッシリヤは多くの軍隊があり、力や武器もあります。彼らはあらゆる戦いで勝利をしています。
その国がイスラエルを侵略しに来るのです。そして宣戦布告しています。


【イザヤ書36章20節】

「これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」

これは彼らだけを侮辱することばではないです。
お前たちが頼っている神の力が自分たちの力よりも弱いと侮辱する敵の高慢なことばです。


聞くだけでも恐れてしまうようなことばです。

今、イラクで起きているのが これと同じです。

この状況の中でヒゼキヤは軍隊もまともに持っておらず、力も無く、その中で彼が王としてどのような態度を取ったのか 私たちが学ぶべきものがあります。




1.自分が重大な問題を抱えていることを認識し 神に祈った




まず彼は今、自分が重大な問題を抱えていることを認識しました。そしてそのことを神に祈りました。

祈り以外には、これを乗り越える方法はないと認識したのです。


イザヤ書37章1節で、ヒゼキヤは侮辱・恐れあることばを聞いて、“自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。”と書かれています。

またイザヤ書37章3節では、“きょうは苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。”と言っています。
これは、私の力ではどうすることも出来ないです という絶望的な状況です。

彼はすぐさま神に祈りました。


当時、エジプトはとても強い国でした。
今の時代ではアメリカに「私たちを助けてください」という思いになるのですが、私たちは(何かが起こると)強いものに頼りたくなるものです。これは私たちの心に自然と出てくる思いであります。

しかし、私たちの神様は「あなたが困った時は力ある人のところへ行き相談をしなさい。」と語ったでしょうか?
そうではないです。


神様は クリスチャンはこのような時に、どのような態度を取りなさいと言うのか、みことばで答えをもらわなければいけないです。


【イザヤ書30章2-3節】

彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。

しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。

エジプトは強い国でしたので、多くの者たちが周りの国から侵略を受けるとエジプトに助けを求めに行くのです。

これは無償で助けることはなく、助けられる ということは、そのものにひざまずくことであります。借りを作ると後で返さなければならないです。


神様に祈りもせず、自分たちの計画でエジプトに下ろうとするのです。
“こんな時に神様に祈ってもすぐに答えを得られないし、私は祈っても神様の声が聞こえないし。”という思いがあるのです。






神様は、誰かに頼ることはむなしくなることを警告しました。

それならば神が望むのはどのような姿でしょうか。


【イザヤ書30章15節】

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

静かにしなさいということは、そこで神様の助けを求めなさい ということであります。


神様は私たちを助けてくださるお方です。

私たちに問題がある時に、確実に答えを得る方法は神様に祈ることです。
神様は祈る人に対して答えてくださるのです。

人はまともに祈りもせずに「この問題を何とかしてください!」と、これを祈りという人もいるのですが、これは祈りではないです。


そこに信頼する心がないからです。これは神様にお願いをする姿ではないです。


誰かに頼み事をする時は、礼儀をもってお願いをすると思います。
謙遜にして身を低くし、事情を話し丁寧な言葉で頭を下げると思います。

しかし神様にお願いする時には「なぜ神様はこんなことをするんですか?私が何か悪い事をしたのですか?!早くなんとかしてください。」

神様は私たちのしもべではないです。


神様に向かって口汚く心焦って語るならば、神様は聞きたくないです。「わたしを誰だと思うのか?」

私たちは神様に対して自分の態度が礼儀をもって語っているのかを考えるべきであります。


そこには信仰が必要です。
“神様は私のことをすべて知っている。今 私がどんな状況にいるのかも神様は知っている。ここで神様を信じて頼るならば、神様はきっと私を助けてくださる。”と落ち着き・信仰の心が必要なのです。


【詩篇68篇19-20節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。

これを自分の心の中で信じることであります。

神様が私たちのために重荷をになってくださるということです。
私たちは、になう力がないと下敷きになって倒 れてしまいます。

ですから神様はそうなさらないです。


私たちが重荷を背負ってしんどい時に「神様、私を助けてください。」と祈るならば神様は私たちの荷を軽くしてくださるのです。


しかし荷を完全に取って あなたは一生重荷を負う必要なない、ということではないです。


【マタイの福音書11章28節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

このように約束のことばがあります。

神様は私たちが倒されて死ぬことを願うのではなく「わたしがあなたの救いの神であるのだ。あなたの重荷を軽くする神である。」と神様に頼り求めるように語っておられます。


主こそが私たちの救い主であり、私たちが信頼しても安心できる方であり、私たちの喜びや悲しみにも共感し、私たちの荷を軽くしてくださる方です。

自分の手に負えない問題に出会った時にはこの神に頼るのが一番の方法です。


【詩篇68篇35節】

神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。

私たちが神様に信頼し、静まっているならば私たちは 神様から“力と勢い”が来るのです。
戦う力と試練を乗り越える力を神様が与えてくださいます。

問題を神様に委ねて「神様、私は○○○で困っています。私の力には負えません。私を助けてください。」と、祈ると神様は力を与えてくださるのです。




2.問題解決と共に神に栄光を捧げる




次にヒゼキヤは問題解決と共に神に栄光を捧げる解決策を求めました。

ヒゼキヤは自分の国の問題のためだけではなく、敵が自分たちにかけた言葉で神を侮辱する言葉がありました。


彼は神様に“あの者たちは神様を侮辱しました。神様がこの問題を解決してください。そして私たちが神様に栄光を捧げるようにしてください。”と祈りました。ヒゼキヤが祈った目的は次の箇所です。


【イザヤ書37章20節】

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、他のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。

侮辱した者たちが恥を見ますようにと祈りました。

神様が私たちを彼らの手から救い出して、彼らに神が生きておられる救い主であることを見せてください。と 祈っていました。神様はすべての祈りを聞きました。

祈りを聞いて預言者イザヤを通して、次のようなことばを与えてくださいました。


【イザヤ書37章6-7節】

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちが わたしたちを冒瀆したあのことばを恐れるな。

今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。 わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

結果はどうなったでしょうか?本当にその通りになりました。

その後の部分を読めば分かりますが、人間の手によらない神様の方法で侵略した者は死んでしまいました。


今、イラクで行われていることも 神様は彼らが神に向かって侮辱していることばを全て知っています。
神の子どもたちを彼らが激しく迫害している姿も 虐殺している姿も全部見ています。

すると、あるクリスチャンは「どうして神様はそれが起こる前に防がないのですか?」と言います。
神様の聖書の大きな計画は、最初から人間を祝福した神様でした。


しかし人間自らの欲・堕落した行動によって世界中であらゆる問題が出ています。

クリスチャンだとしても、皆が主のみこころに従って生きているでしょうか?
「私は神様のみこころとみことばを知っているのですが、それに従順していない時の方が多いです。」このように言うのは正直な告白であります。


そうすると、神の目から見るならば私たちも変えなければならないのです。クリスチャンであってもただ甘やかすことではないです。私たちは聖める必要があります。


まず初めにクリスチャンの方から苦しみが来るのです。私たちが道からそれたり汚れた者になると、神様はそういう悪者たちを使うのです。

その時に初めてクリスチャンは自分が横道にそれたことによって襲った苦難が、自分の罪によって刈り取っているのだと気付いて、立ち返るのです。


神様に立ち返って祈ることであります。名ばかりのクリスチャンで神様は喜ぶでしょうか?
喜ばないです。愛のムチをもって「来なさい。そのまま行ったら滅びなのだ。」と語ります。

そしてクリスチャンを目覚めさせる為に用いた悪者には、その後に神様がひどい目に遭わせるのです。


神様に敵対する者に対して、何もしない神様ではありません。


歴史を見ても独裁者たちの最期を見ると分かります。
彼らは権力と富を手に入れ、人々を簡単に殺しました。その人たちの最期が平安だった人はいないです。殺されていきました。

今、この時代に生きている私たちに対して、神様はどのように語っているでしょうか?次の箇所です。


【Ⅰペテロ5章6-10節】

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

終わりの時代はますます敵である悪魔が働きます。

ですから今は、昔では考えられない悪が地上で行われています。中東、アフリカ、ウクライナ、南米など私たちは見ています。
多くのクリスチャンが苦しみを受けています。神様にはその目的があります。

“あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。”これは純潔のものです。


不純物が取り除かれて神の国に入るのに相応しい者にさせるために、そのような苦しみを受けるのを神様が赦しているのです。


私たち人間は力が無いですが、神様には力があります。何もない所でも神様に助ける力があります。どのような方法でも使うことが出来る神であります。


ヒゼキヤは祈って助かりました。
そしてその後にヒゼキヤは病気にかかり、預言者イザヤを通して「あなたは死ぬ準備をしなさい。今すぐ家を整理しなさい」ということばでショックを受けました。

ヒゼキヤは大声で泣きながら「神様、助けてください」と祈りました。
すると神様はすぐさま答え「あなたに15年の命を加える」と語りました。神様は助けてくださいました。


神様の答えは、一番良い答えであります。
普段、私たちはどのような言葉を使っているでしょうか?神様は全てを聞いています。

ですから私たちは悪い言葉を使わないことであります。後で自分で刈り取った時にビックリするようなものが、以前に蒔いた言葉の種が成長してそのようになったことであります。


私たちは後でこのような実がなるのだと思いながら、良い種を蒔くことです。
良い種を蒔いたら、後で必ず良い実を刈り取るようになるのです。

また、普段からしっかりとした祈りをしてください。そうすると神様は必ずそれに対して答えてくださる方であります。

祈ることを神様は願っています。どのような時でも「祈り、祈り、祈り」です。これが一番効果的な態度です。


自分の計画、自分の方法でやっていたら、後で困ることがたくさんあります。

ですから始めから 知恵があり、力があり、すべての良い計画をもっている神様の手に委ねて、
「私は力がない者です。私は弱い者です。私は知恵もない者です。神様、どうしたら良いのか教えてください。」と導きを受けるならば、後のことは私たちが心配しなくて良いです。


ただ困る時だけ祈る神頼みは、それは宗教であります。

生きておられる神様に委ねて祈ると、神様から導きがあり、神様の計画が現れ、解決の方法が現れますので、私たちは神様の御手の中で守られるようになります。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚ アーメン

2014.8.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの行動原則とは?

テーマは 『 クリスチャンの行動原則 』 です

【Ⅰコリント10章23-33節】

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。 しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。

地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、 自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、 食べてはいけません。

私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。

もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

クリスチャンがどう生きるべきかは、聖書に書かれています。

その中で1つの重要な役割は、救われた聖徒が神の子どもとして成長していくように人生の方向を示します。
そして人生の目的が何かを教えています。

今までとは全然違う行動基準になります。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と主が語りましたが、それは私たちが毎日みことばを読みながら、 そこに書かれている教えを受け入れて信仰を成長させ、自分の人生を 常に神様が示した教えと基準に合わせていかなければなりません。


今日の本文ではクリスチャンとしての行動原則を教えています。

その行動基準を持って私たちが行動をするなら、私たちは成長していきます。それは他の人にも益をもたらすものになります。



1.自分の利益を求めないで、他人の利益を心がける



【Ⅰコリント10章23-24節】

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

「すべてのことはしてもよい」とは(クリスチャンにあって)自由が与えられているということを意味します。
私たちは多くの人間的な基準や世の中の基準に縛られています。

私たちは真理に出会って、そこから解放されて自由になった部分がたくさんあります。

しかし多くのクリスチャンは、「“神様が何をしても良い”と言われたから、私は好き勝手に生きよう。」と言いますが、そのような意味ではないです。


自由は神様のみことばにある「自由」であります。それを超えてはいけないのです。
神の言葉の中にあって生きるのですが、勘違いをしたクリスチャンが「何をしても良いんだ。」と開き直って、そこで非難を受けたことが実際にありました。

「自由」の使い方を間違えている部分がすごくありましたので、神様が1つの基準を教えたのが「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」でした。


自分の利益を求める姿は自己中心的な姿であります。

「自分さえ良ければ、他人が倒れたり つまずいたり 罪を犯しても関係がない。神様は私を救ってくださったのだから、 私は好きなように生きる。」というのは、果たして神様が私たちに望んでおられる姿でしょうか?

クリスチャンになって1番初めに取り除かなければならないものは、「自己中心的な思い」であります。


これが私たちの古い姿であるのに、更にそれに自由がプラスされて ますます悪くなるならば、何のためにその人が救われたのか分かりません。

神様は、自己中心的な考えから離れて、共同体の利益を求めなさいと教えています。
なぜそうすべきであるのかを23節で語りました。「すべてのことが徳を高める」と書かれています。

自分の利益だけを求めると、他人の徳にならないのです。それは自分だけのものになります。


しかし私たちが自分の利益を求める前に、他人の利益を求めるならば それはその人の徳を高めることになるのです。

このような言葉を聞くと、「じゃあ、自分の利益を求めたらダメですか?いつも他人の利益だけを求めるようにしないといけないのですか?」と思いますが、そのような意味ではありません。

自分のことを無視して他人のことばかりを考えなさいという意味ではなく、神様は自分の利益のために他人を倒したり、つまずかせたり、そのような行動に対する警告であります。


自己満足のための行動が他人に苦しみを与え、つまずきを与えることは私たちの生活の中でたくさんあります。
それはクリスチャンとしてはふさわしくない行動です。

クリスチャンは他人に仕えて、隣人を愛しなさいという言葉が与えられていますので、自分の利益だけを求めるなら自己愛であり、他人を愛することではないです。

模範になる姿とは、他人に対して素晴らしい働きをするので模範になるのです。


自分のために働いていても、人々がそれを見て素晴らしいとは思わないです。
周りから「あの人はいつも自分のことしか考えていない。あの人には絶対についていかない。」となってしまいます。


【ローマ15章1-3節】

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

これが自分の利益を求めないで、他人の利益を求める人の姿であります。

“私たち力のある者”というのは成長した人のことです。
教会に長く通っている人や 人間的な力がある人、ということではなく、信仰の強い人は 成長して自分に与えられた自由を正しく使っている人の姿です。

そういう人たちは、自分が正しく使っている自由をもって 信仰の弱い者たちを助けなさいということであります。
「何でそんなことも出来ないの?」と裁くのではなく、あなたの力をもって助けることです。それは相手の利益を求めることになります。


しかし、信仰があるという人たちが自分たちの言葉や行動によって 信仰が弱い人たちに罪を犯させて倒すことがあるのです。
それは私たちの日常にもそういうことがあると思います。

例えば、長い間 教会に通って自分の信仰を誇る人たちの行動を見て、弱い人がつまずくことがあります。
そこにはすごく自己中心的な姿があるのです。

偉そうに高慢な姿を見せる時があります。すぐに批判をする口があります。
それを見て、弱い人たちがキリストに会いに教会へ来ているのに、人を見てつまずいてしまいます。

ですからクリスチャンは 自分の利益を求める以前に、他人の利益を求めることであります。

“この人にとって何が良いのか”を考えるのです。


他人の利益を求めることにはちゃんと理由があります。
それは相手の徳を高めるだけではなく、33節に「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、 多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」とあるように、このような姿ではないと魂を導くことができないです。

自分の利益よりも 他人の利益を求める人の心の中にあるものは、“愛と命”であります。
他人に対する愛がないならば 他人の利益を全く求めないで自分のためにすることなのです。


イエス様はご自分の利益を1つも求めていないです。ご自分の命まで捧げて、私たちの益のためにイエス様は働きました。その姿の中に愛があります。

私たちが自分を犠牲にしてまでも相手の利益のために働く理由は、その人の魂を救うためです。
魂を救うためには愛がないといけないのです。

私たちの行動を見て、その人たちが「クリスチャンは違う。クリスチャンは最も大切なものを私に与えてくれた」と犠牲や愛を見せ、常に相手の人のことを心掛けて配慮を示すことです。

私たちを通してその人たちがイエス様を見るようにすることが、私たちの行動基準になります。


クリスチャンが人々をつまずかせると、魂の救いが起こらないです。教会が人々をつまずかせるなら、「絶対に教会には行かない!」と非難をします。

そうすると神様がその魂のために命を捨てたのに、私たち自身が教会を迫害する者になってしまいます。


このような姿があってはいけないのです。
ですから、自分の利益を求める前に このことが他人の利益にもなるのか?を考え、相手の利益になるならば私たちはそれをしても良いです。

しかし、自分がやっていることが相手の利益にならないならばやめることです。

クリスチャンは他人への配慮のために、自分を自制するのです。
自由に生きるのではなく、他人のためならば と自制をすることが神様から見たら最も自由な姿であります。


いつも相手の徳を高めるために、人を喜ばせるために、魂のために、私たちは敢えて自分の利益ではなく他人の利益を求めるのです。

私の隣人は誰かという問題ではなく、私は誰の隣人になるのか?ということが他人の利益を求める道であります。
それをいつも心掛けることをイエス様は願っておられます。



2.すべて神の栄光を現すため



【Ⅰコリント10章31節】

こういうわけで、あながたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

これこそが聖徒たちの究極的な人生の目的です。積極的な姿であります。

ただ “恵みを受ける”という消極的な姿ではなく、あなた自身の方から願って求めて積極的に行動をすることです。


私たちの目に見えるもの全てが神様のものであります。

私たちがご飯を食べる時に感謝の祈りをします。
なぜ感謝の祈りをするのでしょうか?それらの食べ物を作った方がいます。料理をした人以前に、誰が与えてくださったのでしょうか?“天と地” この地上の全てのものは主のものです。

私たちが受けて使っているものは自分のものではなく、主から与えられたものです。神様から与えられたものを自分の欲のために使うのではなく、まずは神様が与えてくださったことを認めるのです。


私たちは神様から全てのものが与えられているので、私たちはそれを使いながら誰のために生きるのか?が大切であります。

主のものを持って自分のために生きるのではなく、主のものを持って 主に栄光を返すために。
持っている物も自分の命も 全てのものが主のものなのです。


【ローマ11章36節】

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

人間も神様が造ったものであります。神様のものなので取ることも与えることもできます。
常に私たちは神様から与えられたものをもって、神様に栄光を返すのは当然であります。

私たちが受けたものは(周りに恵みを)流していき、そこで神様の栄光を現れるようにするのです。

私たちは食べ物が豊かな時は、食べ物の有り難さが分からないです。でも食べ物が何も無い所へ行くならば、私たちは米粒一粒でも どれほど感謝であるか分かりません。

砂漠では水1杯ではなく、水1滴でも欲しいのです。


私たちに不平不満が多いのは神様を知らないことであります。
そして、「あの人は多いのに私は少ない…」など他人と比較する必要もないです。これは愚かなことです。


パウロはどのような状況でも満ち足りることを学びました。
すべてのものが神様から来て、すべてのものが神様のところへ帰ることを知ったのがヨブでした。
私たちには、自分の物は1つもないのです。

クリスチャンは自分に与えられた自由を 自分自身のために使うのではなく、自分を救ってくださった主、自分を愛して下さる主、 そして自分が造られた目的は神の栄光を現すためであることを知り、それが第一目的でなければなりません。


地獄へ堕ちた人の姿も 物を持っている人は1人もいなく、すべての人が裸です。
そして人々が苦しむ姿を見て、サタンは喜んでいます。



まとめ



私たちの姿を神様は見ています。
神様が決めている この2つの基準で、自分の利益を求めず 他人の利益をまず求めます。

「これは自分だけの利益なのかも?」と思うならば、それは間違えています。
他人の徳や利益になるように それを先にすることであります。そうするとその祝福が自分にも返ってきます。

神様は私たちが蒔いたものを刈り取らせますので、与えることで喜びが来て、愛を与えるならば愛が返ってきます。善を蒔くなら善を刈り取ります。
これが神様の方法であります。


そして今、自分がしていることは神様への栄光のためなのか?ということです。

自分がすることはサタンが喜ぶことなのか、神様が喜ぶことなのか、それによって栄光が変わります。
サタンも自分に従ってくる人を通して栄光を受けています。
そして神様も 神様の言葉を聞いて、その通りに行動する人たちから栄光を受けています。


今回学んだ2つの基準は、私たちの日々の生活の行動基準であります。
それだけでも行動が整理されていくと思います。

それを毎日の生活で私たちがしていくならば、その中で成長していくでしょう。その中で魂が導かれていくでしょう。その中で御霊の実を結ぶこともできます。

自分の行動を神様の言葉に照らして、もし自分の行動が間違えているならば 神様の言葉に従うことです。
頑なな心を神様は嫌いますが、従うなら祝福されます。

主がその者を喜んでくださいます。 (⌒-⌒)

2014.6.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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御霊に導かれて

テーマは 『 御霊に導かれて 』 です

【ガラテヤ5章16節、18節、25節】

・御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことは、ありません。

・御霊によって導かれるなら、 あなたがたは律法の下にはいません。

・もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

聖霊様は、どのようなお方でしょうか。

どんな時も助け、慰めを与え、力を与え、励ましてくださり、信頼することのできるお方で、私たちの為にいつもとりなし、愛を注いでくださり、罪を教え悔い改めに導いてくださり、世が与えるものとは違う平安・喜び・希望を与えてくださるお方であります。

御霊は、私たちの内に住んでくださり、教え導いてくださいます。


【ピリピ2章13節】

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

【Ⅰヨハネ2章27節】

あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。 彼の油がすべてのもとについてあなたがたを教えるように、―― その教えは真理であって偽りではありません ――また、その油が あなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

油がすべてのことについて教えてくださいます。
愛するがゆえに、進むべき道を示すために聖霊様を送ってくださり、誰よりも私たちのことを理解してくださっています。


御霊は賜物を与えてくださる

【Ⅰコリント12章8節】

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

知恵の言葉、知識の言葉、信仰、奇跡の力、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力です。

聖霊様の働きを決して留めることのないように気を付けましょう。



神の御霊に導かれるとは、どのようなことでしょうか ――?

御霊によって歩きなさい、御霊によって満たされなさい、御霊によって祈りなさい、御霊を消してはいけない。
御霊に拠り頼みなさい ・・・「主よ、導いてください。歩むべき道を示してください。」と祈ったなら、主を信頼し、委ねて待つということです。


困った時、助けが必要な時だけではなく、日常のあらゆる面に、聖霊様をお迎えして信頼し、拠り頼み委ねることを願っておられます。



御霊に導かれて 主のみこころを求め、歩みたいと願う時に邪魔するものがあります。

1つ目は、私たちの内に まだ残っている「肉」です。これは栄光の身体に変えられるまで戦いがあります。
2つ目は、サタンの誘惑・妨害です。


肉から出たもの

【ガラテヤ3章2-3節】

ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

主のために熱心に働きをするのですが、聖霊様に導かれながら進めていくうちに、いつの間にか自分の思いが入ってきて、神の栄光の代わりに自分の栄光へと すり替わってしまっている姿、誘惑され騙され、欺かれた姿です。
聖霊様が気付かせてくださいます。


私たちは、何かをすることによって祝福されるという思い、認められようとする古い自分がいます。
これは思い違いであり、自己義です。またサタンの誘惑です。

律法ではなく、恵みの中に留まるべきです。
私たちが神様のために何かをするのは、恵みに感謝し、主を愛する心から出たものを 主は受け入れられます。

自分の願いや考えを押し通そうとする人は、「周りが悪い」と環境のせいにします。
これは自分の姿が見えていないのです。聖霊様に教えていただき、みことばの鏡に照らし合わせると良いです。


【マタイの福音書12章31-32節】

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、 赦されません。

霊に注意をしましょう。




サタンに騙されている姿

【Ⅱコリント2章11節】

これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

聖書を読んだり、祈っている時に、用事を思い出したりすることはないでしょうか ――?
これもサタンの巧妙な手だと思います。


【ヨハネの福音書10章10節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

みことばを盗み、祝福(平安・喜び)を奪い、信仰を失わせます。
真理から目をそらさせ、確信を揺るがせ、信仰を奪うのです。


【ヨハネの福音書8章44節】

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから 人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。 なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

サタンは嘘つきです。アダムとエバを霊的に殺しました。
私たちも自分の罪過と罪との中に死んでいた者でしたが、キリストの贖いのゆえに私たちの霊が回復されたのです。


サタンは様々な方法で攻撃をしてきて、神様からの祝福を奪おうとします。聖霊様の導きから外そうとします。

誘惑する者、騙す者、惑わす者、嘘・偽り者、欺く者、不安や恐れ、不信仰、これらは私たちのたましい(心)の部分に攻撃をしてきます。

サタンは、私たちの「弱さ」を責めてきます。不信仰な思いを入れてきます。


①自己評価が低い人
劣等感、自己憐憫。「あなたが変わるわけがない。」、「どうせ無駄」、「時間の無駄」

【Ⅱコリント12章9節】

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。 ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

②固定観念
自分はこういう者だから、と固まった思い込み、どうせ抜け出せない。変わることは難しい。
これは騙され 欺かれた姿です。

【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

③高慢な心
私の力が、私の手の力が、私が築いてきた。高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを注いでくださいます。


④理論的思考
「私は知っている。分かっている。」

【Ⅰヨハネ1章8節】

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。


⑤孤独
誰も分かってくれない。理解してくれない。しかし、捨てて孤児にはしないです。みことばの約束があります。

【イザヤ書43章4節】

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

私たちの立場は、神の子ども、罪赦された者、永遠のいのちが約束された者、神の共同相続人です。


聖霊様は、私たちのために何をしてくださるお方であるかを しっかり霊で受け止めて、自分の方法・思いではなく、 聖霊様はどのような計画を持ってくださっているのか、私はどのように進むべきなのだろうかと、導きを求めて祈り、みこころの中を歩んで いきたいと思います。

そしてもっと親しく 信頼し、頼れるお方であることを信じることが大切ではないでしょうか。


【Ⅱコリント3章18節】

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を 変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ますます 主を慕い求めて、キリストに似た者と変えられていきたいと思います。
ですから、私たちは内にいてくださる聖霊様の優しい語りかけ、思いを与えて導いてくださる方に、共に歩んでください。私の人生のすべてを支配し、導いてくださいと祈る者になりたいと思います。


そして、目を覚まして御霊によって祈り、御霊に満たされ、御霊に導かれて歩んでいく者になりましょう。 (^∀^)

2014.3.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主の働きのヒント

テーマは『 主の働きのためのヒント  』です

【ヨハネの福音書5章17-20節】

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。

それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。

イエス様からヒントを得ることができます。

主に召された者たちは、当然のように働き人としての働きもあります。
救いだけ受けて「私は何もしません。世の仕事で忙しいです。自分の人生計画が優先です。」というのは、
相応しくない姿であります。

イエス様はこの地上に遊びに来たのではなく、天国から地上に仕事をしに来られたのです。
その仕事は、父なる神が計画した救いの働きをするために、神の代理人として地上に来られました。
父なる神様が「計画」し、イエス様が「実行」します。
これが三位一体の神様のそれぞれの分担であります。

イエス様は父から命令を聞きます。「父のみこころを行うために わたしは来た」とおっしゃっています。
イエス様に従っていく者たちは、イエス様からそのノウハウを学ばなければいけないです。

「自分で考えた方法があるので、私はその方法でやります。」と言うのは、その時点でピントが外れています。




①父が働くので わたしも働く

基本的にイエス様は、「父が働く時に わたしも働き、父が休む時に わたしも休む」 と、
常に父なる神様から目を離しませんでした。

イエス様が働くので私たちも働くというのが基本であります。

【ヨハネの福音書4章34節】

イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

また、どのように働けば良いのでしょうか ――?


②神のみこころのままに働く

イエス様の働きの土台となっているのは、「みこころを行う」ということでした。
自分勝手に計画を立てて、勝手なことをするのではなく必ず父のみこころを行うために
私たちは祈りが必要であります。

祈りということは、神様に聞くことなのです。
「どうか神様のみこころを教えてください。私はどうしたら良いでしょうか?何をしたら良いでしょうか?」

働きをする時に、「神様、もしかしたら自分の中に勝手な思いがあるかも知れないです。
そして今、私の中には このような思いが出てきましたが 果たしてこれは主のみこころでしょうか?」
それを求めることなのです。

私たちは教会の働きや 神様と関連している様々な働きがありますが、
その時には必ずみこころを求めなければならないです。人々の命と救いに関することも同じです。

祈ることによって神様と一緒に働くことになるのです。

聖書でも 神様のみこころを求めなかった時は必ず失敗しました。
勝手に人口調査をした時はひどい災いが来ました。
ヨシュアも神様の導きを受けている時は勝利をしましたが、アイの町を攻める時には みこころを祈らなかったです。
勝手な思いで行動をしたので失敗をし 人の命までも失いました。

主の働きは、必ずみこころを聞いて みこころ通りにするのです。イエス様の働きがそうでした。

教会で 神様がそれをしなさいと言われたことならば、私たちは一致して働くと祝福があります。


③聖霊様の力を受けて働く

人間の力だけでは癒しや奇跡を起こすことは出来ないです。
では、どのようにしてイエス様は奇跡を起こしたり 悪霊を追い出したり 病人を癒したでしょうか?
それはイエス様ご自身も聖霊様の力を受けたのです。

【ヨハネの福音書3章34節】

神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

「神が御霊を無限に与えられる」 ということは、力なのです。
力を受けないと、私たちは知識があっても何も実を結ばないです。実とは「御霊の実」であります。
人間の力では御霊の実を結ぶことができないです。
主の証人として選ばれた私たちは当然のように聖霊の力を受けなければならないです。

聖霊を拒んだり、聖霊のことを語らない教会では、信仰に力がないです。そこで奇跡が起こることはないです。
その力を求めないので出来ないのです。

みことばが、力のある言葉になるには 油注ぎが必要です。それが聖霊の力であります。

私たちが主の働きをする時には、まず神様に 「この働きに必要な聖霊の力を私にください。」 と
祈ることであります。


④神の権威を受けて働く

【ヨハネの福音書10章18節】

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

イエス様はハッキリとおっしゃいました。
「わたしに力がないから命が取られたのではなく、自分から命を捨てるのです。」
これを裏付ける言葉があります。十字架に架かる前に何が起きたでしょうか―?


【マタイの福音書26章51-54節】

すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。

だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

ペテロがすぐに剣を出して相手にそのようにしましたが、イエス様がそれを止めました。
しかし次の場面を見ると、イエス様が自ら命を捨てる場面が出てきます。

イエス様はみこころを行うために地上に来られたので、十字架に架かることを初めから分かっていました。
それは権威なのでイエス様が決めることが出来るのです。
力がないので世の権威にひざまずいたのではなく、父のみこころ通りに歩みました。

私たちも働きをする際に、神様から権威をもらわなければならないです。勝手なことをしてはいけないです。
牧師になる者たちも、権威を神様から もらわなければならないです。
自らが出来るものではないです。しかし世の中では自ら牧師になる人もいるのです。

主の働きは、神様がその人に権威を捧げないと (権威というものが)実際に発揮されません。
聖書に偽預言者、偽働き人など たくさん出てくるのは、神様が認めていないことなのです。

私たちは神様から使命をいただかなければならないです。
神様が「あなたはこれをしなさい。」と言うならば、他の人が「あの人は資格がないのに・・・」と言ったとしても
関係がないです。私たちは主の権威の元でしっかりと仕事をすることです。


⑤主の栄光のために働く

【ヨハネの福音書17章4節】

あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

イエス様が働いた目的は、「神の栄光」でした。すべてのことは神の栄光のため 目的は1つでした。

働く人も素晴らしい働きですが、もともとそれを初めに設計する方は もっと立派なのです。
私たちは設計された通りに動く者でありますので、それが完成された時にはその方が栄光を受け取ることなのです。

神様の栄光とは、神様が喜ぶことなのです。私たちがどんなに汗を流して働いたとしても、
神様が喜んでいない働きならば、神様がそれを見て褒めることがないです。

勝手なことをすると、口では神様の栄光のためと言っても 自分がしたいことをしているので
栄光は自分のものになります。

人々に褒めてほしい、人々が認めてほしいという下心があるのです。
自分から出たものは全部 虚栄心・高慢があります。

神様のみこころがあるのに、それには従わないで 何故勝手なことを一生懸命するのでしょうか―?
自分の栄光がかかっているからです。
それは天国には報いが一つもないので神様の栄光にはなりません。

ですから、私たちは下心を捨てるべきです。みこころ通りにすることが神様が一番喜ぶことなのです。

イエス様が十字架の上で「完了した」と言うことは、それこそが神様の栄光なのです。
最期の瞬間まで主の栄光のために、父なる神様が自分を通して栄光を受けてほしいという目的で働きをしました。

教会での働きも「したくない」ではなく、主がしなさいと言うならば どんなことであっても忠実に働くならば
それを通して神様は同じ栄光を受けるのです。

「目立つ、目立たない」 は自分の目線であります。神様は隅々まで見ているのです。
神様から言われた所ではなく、違う所で何かをしているのなら、神様はその時からその人を見なくなります。
自分勝手に自分のために働く者。そうではなく、まったく目立たない所でも神様がそれを見て喜ぶならば、
神様はその人を通して栄光を受けます。


⑥父の御名によって働く

【ヨハネの福音書17章11節】

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

父の御名によって働きをするということは、その父から私は委任された代理人という意味です。

命令に従順するということです。少しでも違うことをしていたら、主の名がはずかしめを受けて汚れます。

「私はしもべとして働きます。主の名が汚れないようにします。」ということです。
ですから、私たちが仕事をする時も 「クリスチャン」 ということはキリストに属する者ですので、
クリスチャン1人が何か変な事をすると、キリスト教全体が傷むのです。

クリスチャンという名に相応しく生きましょう。

私たちが主の働きをする時には、その名が汚されないように、その名に相応しく働きをすることなのです。

今回学んだところが、主の働きのためのヒントを得る方法です。
聖書に全て出てきますので、私たちがその通りに働くならば、イエス様が語ったように私たちも完了し、
「主よ、どうぞ私の魂を受け取ってください。」と この世で勝利し、神様に栄光を捧げ、
安らかに主のもとへ行けると思います。
アーメン (*´∇`*)

2013.9.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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ダビデの感謝の心から学ぶ

テーマは『 ダビデの感謝の心 』です

【Ⅰ歴代誌29章9-19節】

こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。

ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。

今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。

すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。

私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。

わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。」

私たちは日々 祈りを捧げていますが、このようなダビデが捧げたような内容の祈りをしたことがあるでしょうか?

これは感動的であり、美しい祈りであります。

ダビデは人生の旅路の終わりの時になって、彼は自分の人生を振り返ってみながら神様が自分に対して
どのようにしてくださったのか、神様がどういうお方であったのか、神様に栄光・賛美・感謝を捧げる祈りです。

この箇所には真実のことが書かれています。
ここに書かれているのは神様が私たちに常に求めるものです。

  • 神様に栄光を捧げること
  • 所有物に対して、どのような価値観を持つのか
  • 喜びとはどのようなものなのか
  • 本当の感謝とはどのようなものなのか

ダビデは神様を熱心に愛する者でした。


【Ⅰ歴代誌29章3節】

そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。

それまで集めた財産はたくさんありましたが、神様に惜しまずに全部捧げました。


【Ⅰ歴代誌29章5節(後半部分)】

そこで、きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。

すると、地位の高い者たちから身分の低い者たち皆がみずから喜んで神様に捧げました。
それをダビデが見てとても喜びました。そしてその後にダビデは神様の前に出て感謝の祈りをしているのです。
「神様、見てください。すごいでしょう。」ではないです。

彼が語っている言葉1つ1つを見ると、彼がどんな想いで神様に対する成長した信仰の姿がどのような姿なのか、
献身している姿がどのようなものであるのかが分かります。

私たちがこのような言葉を聞いた時に、普段 自分が神様に信仰告白する姿と何が違うでしょうか?
私たちが考えている神様と、ダビデが語っている神様の姿は何が違うのか―――。

自分はこのように喜んで神様に捧げたことがあるのだろうか?
みことばを読む時には、いつもそれを見ることです。

正しく神様を知っている人たち、正しく信仰を持って神様の前で生きた人たちの姿を見て、「私とは関係がない」と
言うならば、その人の信仰は虚しいものです。成長することが まず考えられないです。

成長をするということは、自分よりも先に進んで行く人たちの姿を見て学ぶことなのです。
そして、自分でも真似していく時に少しずつ分かってくるのです。
すると自分自身で体験をするようになっていきます。


【Ⅰ歴代誌29章11節】

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

神様が絶対主権を持っておられます。
全世界は神様が創造したものであり、偶然に造られたものではないです。誰かの物でもないです。
すべては主のものであります。


【Ⅰ歴代誌29章12-13節】

富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

このダビデの告白を聞いて分かるのは、自分自身に頼って生きるのではなくて、
私たちはこの神様に頼らなければならないのです。
自分の思い、計画、人生すべてのものを神様に焦点を合わせていかなければならないです。


【Ⅰ歴代誌29章14節】

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。
すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

神様の恵みを知っている者が語る告白であります。
神様の恵みを知らない者は、「すべて私の力」と言って捧げません。

信仰がある人と、信仰がない人は ここが違います。

世の中を見ても、貧しい者は豊かな者たちよりも圧倒的に多いです。80%が食べ物に困っています。
しかし、神様が与えていないから貧しいわけではないです。
20%の人たちが、80%の人たちの分まで握って贅沢三昧をしているのです。
ですから貧しい人たちに関心がないのです。

服をたくさん持っている者が1枚ずつ 持っていない人たちに渡すと、世界に裸のままでいる人はいなくなります。

神様の世界は乏しいことがないです。でも欲張りの人たちが手を差し伸べないので、神様はクリスチャンに
「良い業を行いなさい。」と語ります。
もともと神様が与えた物なので、神様に捧げなさいということは、
小さい者にしたことは わたし(神様)にしたことであります。


【Ⅰ歴代誌29章15節】

私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。

人間はこの地上で永遠に生きる存在ではないです。人間は1度生まれたものは、1度は死ぬのです。
その後に裁きがあります。これが神様が決めたものです。

「異国人」というのは、私たちの国籍がここにあるのではなく、私たちの国籍は天にあります。
自分の為に地上に蓄えるのはやめなさい ということです。地上で蓄える人はたくさんいます。
そして使うこともせずに残して死にます。死んだ後は無一文です。
自分で買った土地が付いて墓の中に入るわけでもないです。

これは真理を語ってあります。
それを知っていながらも不安だからと蓄えていくのは自分に頼って生きる姿です。


【Ⅰ歴代誌29章16節】

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。

神様のものは神様に返して当然なのです。神様に自慢できるものは何もないです。


【Ⅰ歴代誌29章17節】

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。

ダビデが自分自身も神様に捧げる時には、見せる為でもなく、仕方がなく捧げたのでもないです。
どこにも人間的な思いが入っていないです。
真っ直ぐな心で、神様が見ても恥ずかしくない心で捧げました。
自ら進んで捧げることは神様が喜ぶことです。


【Ⅰ歴代誌29章18節】

私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。

ダビデがなぜ この祈りをしたと思いますか?
今の民たちの状況は皆が喜んで捧げました。しかし、人間の思いほど変わりやすいものがないです。
いつその心が腐敗するのか。世の中で一番信じられないのは人間の心なのです。
自分でも自分の心が信じられなく、昨日思っていたことも今日は違う心になっています。

民たちの心が変わらないで欲しいという思いがダビデの中で出たので、神様にそのことを祈りました。
心が守られないと私たちの人生は崩れていくのです。
心を守るならば、どのような状態の中でも しっかり守ることが出来るのです。


【Ⅰ歴代誌29章28節】

彼は長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。

ダビデの人生の結末です。波乱万丈でしたが、どれほど素晴らしい人生の結末でしょうか。

私たち人間の価値はいつ出ると思いますか――?

その人の業績で、その人の価値が決まるのではないです。
その人の人生そのものが、その人の価値を決めるのです。
最期になって決算した時に、はじめてその人がどのような価値があるのかが決まります。

満ち満ちた人生ということは勝利者であります。神様が認めた人生だということです。
たくさん捧げても捧げても、神様は満ちるようにしてくださるのです。


これを私たちはダビデから学びます。

ダビデは罪も犯しましたが、神様は彼がその中でも 神様がどのようなお方であるかを正しく知っており、
正しく神様との関係を結び、その人生を歩みましたので勝利で終わったということを見なければならないです。

ダビデの素晴らしい信仰を学びましょう。

私たちの信仰は問題がたくさんあると思います。本文を読んで1人1人が鏡のように照らしてみると良いです。
修正していくのが学びであります。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.7.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様の栄光のため

※テーマが語られませんでしたので、内容を聞き 決めましたことをお許しください。

テーマは『 神様の栄光 』です

【ヨハネの福音書17章1-5節】

この箇所は、イエス様が自分のために、そして父なる神のための祈りです。
6-19節は弟子たちのためのとりなしの祈りです。そして20-26節は新約時代の聖徒たちのための祈りです。

ヨハネの福音書17章は、イエス様がどういう祈りをしたのか知ることができます。
それは私たちの祈りの生活においてすべて役に立つものであります。

イエス様が人々のためにとりなしの祈りをする前に、ご自分のためにも祈りました。
イエス様はご自分で何でも出来る方ですが、何でも自分の思いのまましなかったのがイエス様の姿であります。

イエス様はここで「父よ。」という言葉を使いました。
これはイエス様と神様の関係を表す言葉であります。

旧約聖書では、神様のことを「父よ。」と呼んだ人は1人もいません。イエス様が最初であります。

また、イエス様が「神様。」と呼んだ時もあります。それは十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしを
お見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27章46節)と、この箇所だけであります。
他の箇所は全て「父よ。」と呼んでいます。

これは、イエス様がそのように呼ぶことによって、私たちも呼んで良いのだということであります。
イエス様は「あなたたちも祈る時に、父よ。と呼びなさい」と教えてくださいました。

「父」と呼ぶのは、とても親密な関係であります。「神様」は遠い存在であり、恐れおののかなければ
ならない存在でありましたが、イエス様が和解させたことによって近い存在になりました。

【マタイの福音書23章9節】

血を分けた肉親の「お父さん」のことを神様は止めたのではなく、他の存在に対して私たちが「われらの父」と
呼んではならないということです。

私たちが祈る時に「父よ。」ということができます。それは罪でもなく、神様を軽く見たのでもないです。
パリサイ人は、みだりに呼んではならないと色々と非難をしましたが、イエス様ご自身が 父よ、と呼びながら
私たちに対しても 父よ、と呼びなさいと語っておりますので、私たちも呼ぶことができます。

ヨハネの福音書17章1節に書かれている「時」というのは、十字架にかかる時のことで、
イエス様は十字架にかかることはどういうことかをよく知っておられました。どれほど苦しみがあるものであるのか、
どういう死に方をするのかを最初から知っていました。それが目の前に迫ってきていることがわかりました。

そして十字架にかかることは、父のみこころに適うことでしたので最後まで出来るようにしてください。
そうでなければ主の栄光が表れないので、そのためにイエス様が来られました。

イエス様は神のみこころを行うために来られた生涯でありました。

そして人間そのものが創造された時に目的がありました。
人間は神の栄光のために創造されました。ですから私たちは、その人生を生きなければならないです。

しかし罪が入ってきてから人間は自分勝手に歩む者になりました。

「神様の栄光と私は何の関係があるのですか?そのために私が生まれてきたなんて考えられません」と
クリスチャンがそのように言ってはいけないです。

世の中の人たちは、神様という存在すら知らないので、自分が神によって造られたことも知らないです。
ですから、目的を知らないです。

でもクリスチャンは、神様に救われてから聖書を読んで初めて人間がなぜ生まれてきたのか、
自分がなぜ救われたのかを知りました。神様は「あなたは私の栄光を表すため造られたのだ。
あなたが選ばれたのも、わたしが造られた通りに
あなたがそれを悟って生きるためであるのだ。」とおっしゃいます。
ですから私たちが救われてから1番の目的は「神様の栄光のために生きる」ことであります。

イエス様は一度もご自分の意思で決めたことがないです。


【ヨハネの福音書5章30節】

これが神様の栄光を表すことであります。
神様の栄光を表すと言いながら 自分が望むままをするのは、どうやって神様の栄光を表すのですか?

悪と善の基準は何でしょうか?

「良い事だからこれは全て善である。反対にこれは悪い事だから悪である。」 というのではなく、
聖書の善と悪は、みこころを行ったのか、みこころと違うことを行なったのか、であります。神様が基準なのです。
自分の判断が基準ではないです。士師記の時代は、皆が自分の判断で動きましたので秩序がありませんでした。

みこころをそのまま聞いた通りに行うことが、神様の栄光に繋がります。
なぜならそれは神様が喜ぶからです。(神様が)してほしいことを行う時に神様はとても喜ばれます。
神様がそれを栄光として受け取ります。

たとえ良い事であっても、神様は今して欲しいことと、今して欲しくないことがあります。
礼拝中のみこころは、私たちがみことばを聞くことであります。マリアのように一生懸命に聞きます。
しかし、「○○をしなければ」と他のことをするならば、たとえ信徒たちに仕えることであっても
神様は喜ぶはずがないです。


【ヨハネの福音書6章38節】

目的がはっきりとしていて、これが揺れたことはないです。
父なる神様が栄光を受けるように、そして父なる神様が栄光を受けるならば、それが自分たちの栄光になります。


【ヨハネの福音書17章5節】

イエス様ご自身が最期の最期まで父なる神の栄光を表すために生きた生涯でありました。
イエス様は生まれた時から聖い生活をしながら父の栄光を表していました。
過酷な人生でありましたが、いつでも、どんな時でも父に感謝を捧げていました。
感謝を捧げる生活は、神様に栄光を捧げる生活であります。
罪から離れて自分を聖く保つ生活も、神様に栄光を捧げる生活です。

私たちが何か業績を残したり、何か働きをするのが、神様の栄光だと思う人が多いですが、
そうではないです。

私たちが聖なる者になればなるほど、神様は栄光を受けます。

人々から「クリスチャンはやっぱり違う。」と言われた瞬間に、父なる神様は喜びます。
神様に出会って変わっていくことが 神様が一番喜ぶことであります。
神様に出会っても何一つ変わっていないというのは、神様を悲しませることであります。

私たちが従順するのは、みこころを行う姿ですから 神様が栄光を受けます。
そしてサタンに勝利したことによって父は栄光を受けました。
サタンの奴隷にされてしまうと、神様は本当に悲しまれます。

サタンの誘惑が来ても 闘って勝利をするならば、私たちは勝利者になって、それが神様の栄光になります。

私たちは、イエス様を見て栄光を表す姿がどういうものであるのかを見ます。
私たちは自分の力では出来ませんので、祈りの中でイエス様が祈ったように祈るべきであります。

「私の生涯が死ぬまで父の栄光を表す生涯になりますように。
私が何をしていても、そこに父の栄光が表れるものになりますように。私が神様に恥をかかせる者ではなく、神様の心に私が苦しみを与える者ではなくて、
私は小さな者ですが、父のみこころを行うことで 父が栄光を受けますように。栄光を捧げる人生になりますように。」
それを私たちが祈ることであります。

ただ自分たちの願いを言うのではなくて、私たちが神様の栄光を表すことを1番目にすることです。

私たちは明日死ぬかも知れないし、あさって死ぬかも知れないし、私たちは自分の「時」がわからないです。
ですから命を与えられている今、そのことをしなければならないです。

毎日毎日、主の栄光を表すことを1番にし、その後に色々な自分の計画をすることで
神様は私たち自身の栄光をも表してくださいます。それを覚えましょう。

神様の栄光を後にして、自分の栄光を先に受けようとするならば、神様は与えないです。

すべてのことを神様の栄光のためにするならば、私たちの人生は本当に豊かな実と
神様に喜ばれる実がたくさん結ばれると思います。

イエス様がそうなられたように、私たちもそうなると思います。 (*´ω`*)

2013.5.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの特権

テーマは『 主に出会った時に与えられたもの 』です

【 ヨハネの福音書1章12節 】

私たちがクリスチャンになって神様から与えられたものを知らなければならないです。
それは全て霊的なものです。

聖書を読んでいると無知という言葉がたくさん出てきます。
神様を知らない人だけが無知なのではなく、神様に出会って自分がどういう存在に変わり、
神様から何が与えられたのかを知らないということも無知であります。

それらを知らないと、救われたにも関わらず(自分が)神様についているのかも分からず、
古い人のままなのか、新しい人になったのか 分からないので さまよいます。ですから簡単に妥協します。

クリスチャンになったからといって、急に顔や生活習慣、性格や行動が変わるわけでもないです。
しかし内側は全く違うものに変わっていることを気付かなければならないです。
気付かなければ、そのように生きることができないです。

今回は自分は何者なのかということを語りたいと思います。


【 ヨハネの福音書1章12節 】

神の子どもになった「特権」とありますが、これは身分であります。
神の子どもというのは、私たちが生まれながらに神様の子どもということではないです。

もともとは神様に造られた子どもですが、私たちが罪によって自分の魂をサタンに売り渡していました。
ですから以前は罪の奴隷でありましたが、イエス様の血によって代価を払い神様の子どもとされました。


【 ヨハネの福音書3章16節 】

「永遠の命」です。これは私たちが自ら棄てない限り、永遠に私たちのものであります。


【 ヨハネの福音書8章32節 】

「真理」です。真理はイエス様であります。そのイエス様を知るということは、イエス様に出会ったことであります。
“あなたがたを自由にします”という言葉は、罪の奴隷から自由になるということです。
誘惑は必ず来ます。
以前は罪の奴隷だったけど、今はキリストにあって私は自由になったと言葉で宣言をすることで
サタンは逃げていきます。


【 マタイの福音書11章28-29節 】

安らぎ=「平安」です。イエス様が来なさいとおっしゃられて、その言葉を聞き、来た人は安らぎを得ます。
安らぎを得た人の姿が書かれている箇所は【 マルコの福音書5章32-34節 】です。
長い間、長血でとても苦しんでいた彼女は全てがダメになるほど酷い目に遭いましたが、
自らイエス様の前に出て  イエス様の衣に触れました。そして彼女は心も体も癒されて平安な心で帰りました。
私たちもイエス様に色々なことを打ち明けて、重荷を降ろして帰るのが主が私たちに与えてくださった
祝福の約束であります。

ですから心に安らぎがない時に、主の前に来てください。そして重荷を降ろしてください。
重荷を降ろさないで、ただ愚痴だけをこぼして そのまま帰るのではないです。
「私に平安をください。私の重荷を全部イエス様に委ねます。」と任せて、安心して帰ったら良いと思います。


【 使徒の働き2章38-39節 】

「聖霊」が与えられています。私たちが罪を悔い改めてイエス様を信じた時に、賜物で与えてくださいました。
聖霊はお金を払って得られるものではないです。
信じたら誰にでも聖霊を受けることができます。


【 使徒の働き16章31節 】

「救い」が与えられます。救いを受けるためには他に道はないです。
信じたら救われます。魂の救いがないと天国に入ることができないです。


【 ローマ3章26節 】

「義」です。イエス様を信じるということは自然とイエス様が十字架に架けられた時に流した血が注がれています。
血を流すことによって罪が赦されます。罪が赦された状態が「義」(正しい者)であります。
自分で一生懸命 努力をして正しい事を行い、私を義と認めてくださいと言っても
神様は絶対にそれは認めないです。
それは神様の方法とは違うからです。イエス様の血を注いで初めてその者を義と認めてくださるので
私たちが信じたその時に、神様の目から見て義とされています。


【 ローマ8章30節 】

「栄光」です。(みことばは)過去形で書かれてあります。信じた者だけに神様が次々と与えてくださったものです。
人間の努力によって得られるものは1つもないです。すべてイエス様によって私たちが得るものなのです。


【 Ⅱコリント2章14節 】

「勝利」です。私たちは神様から勝利を得ている者であります。
以前はどんなに世の中で立派な地位を得ても、結局その道は滅びの道でありますので
全てが虚しいものになっていき、敗北者で終わります。
しかしイエス様を信じたその時から 私たちはイエス様の足跡についていくものになります。
主は勝利をしましたので、イエス様と共にいる者は、その行列に入れてもらえます。
キリストが私たちを勝利者にしてくださいました。


【 Ⅱコリント5章17節 】

「新しいもの」にしてくださいました。自分にその認識がないと新しい者としての生き方ができません。
この世に引っ張られ妥協をしながら古い人のまま生きているのは、
神様のみこころと自分が何者かを知らない者であります。
私は新しく造られた者なんだと宣言をしたら良いです。私は神様の子どもの特権があることを告白していきましょう。


【 Ⅰヨハネ1章7節 】

「罪の赦し」です。神様は私たちがこれからも罪を犯すことを知っておられます。
イエス様の血には私たちの過去、現在、未来の全ての罪までも聖める力があります。
私たちは罪から生まれた者であり、私たちの中にそのようなものが染みついています。
ですから罪を犯した時は、そういうことを告白するなら 神様は またイエス様の血をもって注ぎ、
私たちの罪を赦し、聖めてくださいます。
悔い改めないなら赦されませんが、悔い改めるなら神様によって聖められます。これは聖書の真理であります。


【 ヨハネの黙示録3章5節 】

信じる者は、いのちの書に名前が書かれます。「○月○日にわたし(神様)の子どもになった」と
これがないと神の御国に入ることができないです。

クリスチャンの中に疑問に思っている人たち、開き直っている人たちは
信じた時にいのちの書に名前が書かれてあるから、その後は神様から離れて罪を犯したとしても、
神様は名前を消すことがないから、私は必ず天国に入るんだ。という人たちがいます。

それは全て真理でしょうか――?
そうではないです。なぜかと言うと【 ヨハネの黙示録5章5節 】に書かれてあります。
もちろん神様は信じたその時に、いのちの書に名前を書いてくださいますが、
その者が神様に背を向け、裏切り、悔い改めることもせず、罪の中にどっぷり浸かって生活をするならば
もはや、その者は神の子ではないです。そして いのちの書から名前が消されます。
しかし勝利をする者は、神様の方から いのちの書の名前を消すことは決してないです。


勝利をするということは、特別なことをするのではく、神様の中にしっかりと留まることであります。
そして、いのちの道を最後まで歩く者が勝利者であります。

まとめると次のとおりです。

  • 神の子どもになりました。
  • 永遠の命を受けました。
  • 自由を受けました。
  • 安らぎを受けました。
  • 聖霊を受けました。
  • 救いを受けました。
  • 義と認められました。
  • 栄光を受けました。
  • 勝利を受けました。
  • 新しくなりました。
  • 罪の赦しを受けました。
  • いのちの書に自分の名前が書かれました。

これらは素晴らしいものであります。これを私たちが信じた時に、神によって全て受け取ってあります。
どれほどクリスチャンという身分は素晴らしい身分であり 特権があるのか、
素晴らしい祝福を私たちが既に受けています。

主に感謝をしながら、その者らしく私たちが生きるべきであります。 ( ´∀`)つ

2013.4.21
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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