からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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望み

私のたましいが神を待ち望む理由

テーマは 『 私のたましいが神を待ち望む理由 』 です

【詩篇62編1-12節】

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁が、ぐらつく石垣のように。

まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

圧政にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富はふえても、それに心を留めるな。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

2月5日、熱海発大島行きの高速ジェット船が クジラと衝突し、海上を漂流していましたが、海上保安部の巡視船が救助に向かって彼らを助けました。


74人が乗っていましたが、全員無事に助けることが出来ました。

クジラとぶつかって船がダメージを受けて漂流し始めましたが すぐに助けを求めたので助かりました。


最近ギリシャのエーゲ海では難民船が次々と漂流したり、沈んだりして多くの人々がいのちを落としています。


彼らがいのちを落としたのは、漂流しても助けを求めるところがなかったからです。

ですから、船に1つでも問題が起きてしまうと 助かることもなく、悲惨な結果に繋がってしまいます。
とても気の毒です。


助けを求めるところがあれば、多くの人が助かったと思います。


それを見ても、助けを求めるところがあるのと ないのとでは天と地ほどの差があります。

それで生死が決まってしまいます。


人生の海上で漂っている時に、助けを求めるところがある人は 本当に幸いです。


本文は、助けを求める所があったダビデの告白です。


助けを求めた後は、助けが来るまで じっと待つ姿が見られます。

これこそ神にすべてをゆだねている姿です。


さらにダビデは、自分がなぜ黙って、ただ神を待ち望むかについて語っています。




・すべての救いは 自分が待ち望む神から来る




この救いは、自分のいのちを狙う者からの救いはもちろん、たましいの救い、絶望からの救い、悪者からの救い、苦しみや患難からの救い、病気や痛みからの救いなども含まれた “すべての救い” です。


私たちが信じる神は “唯一の救い主” であるからです。


世界にはたくさんの宗教があり、「それぞれに救いがある」 と言いますが、まことの救いは、イエス様から来ることを知らないといけないです。


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、 私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

主は私たちの救い主です。

ですから苦しみに会った時には、人間的な方法や思いで救いを得ようとするのではなく、初めから絶対的な信頼を この神に置いて神に助けを求めることです。


これが救われる一番の近道です。

神様にすべての状況を話して 神の助けが来るまで神を待ち望むことです。


この詩篇を書いたダビデも、そのようにしていつも救い出されました。


彼は 救いを神に求めた後は、自分の信仰を次のように告白しながら保っていました。


【詩篇62編1-2節】

私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。



・すべての望みは 自分が待ち望む神にある




人間には様々な希望があります。

救いへの希望もあれば、叶えたい夢もあります。


しかし、人間の欲望が入った希望は むなしく終わることが多いです。


世にあるすべてのものを欲しいままに手に入れ、欲望をすべて満たしたソロモン王が告白したことばを聞いてみましょう。


【伝道者の書で1章14節】

私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。

欲望から出た人間的な望みは消えて行くものです。

自分の欲望によって 永遠の喜びと満足を与えることはないですが、聖徒が持っている望みは それとは違います。


聖徒にある “望み” とはなんでしょうか?


【箴言10章28節】

正しい者の望みは喜びであり、悪者の期待は消えうせる。

これは、消えることのない喜びです。


【箴言14章32節】

悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。

正しい者は、たとえ死の瞬間でも 神に信頼しているので、永遠のいのちへの希望があります。

“死者の復活” という望みがあります。


この望みほど素晴らしい望みはありません。

これは神の恵みによって与えられる望みです。


【詩篇62編7節】

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

この言葉は 私が辛かった時や、死にそうだった時、そして先が見えなかった時に、本当に力と希望を与えたことばでした。


よく このみことばを告白していました。

望みを抱いて忍耐しました。


他にも支えになったことばがあるので紹介します。


【詩篇68編19節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

【詩篇118編17節】

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のわざを語りつげよう。

【ローマ5章5節】

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

これらのことばを信じ、望みを持って神を待ち望みました。

そして大変な時期を乗り越えました。


ダビデ自身 いつもそのように助け出されました。


【詩篇62編8節】

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

このように勧めています。




・神が一番安全な避け所であるから神をただ待ち望む




これから起こるかも知れない人生の苦難や嵐のための避け所を 必死で造ろうとするのが人間ですね。


財産、人間関係、地位など色々あります。


“それさえあれば助かる、何とかなる” と思いながら頼ります。

しかしそれは不完全であるので、一時的な避け所に過ぎません。


私たちには、安全で決して揺るがされない避け所が必要です。


神の中ほど安全な避け所はありません。


【詩篇63編7-8節】

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

これは、彼がユダの荒野にいた時の告白ですが、避け所である神の中にいる姿です。


神に仕えていたすべての信仰の人たちも苦しみや迫害の中で似たような告白をしました。



【イザヤ書25章4節】

あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。

【エレミヤ書17章17節】

私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。

“神を 自分の一番安全な避け所” と思う聖徒になりましょう。


神に向かって人生の航路を固定しましょう。


なぜなら、神様だけが 私たちの人生に救いを与え、望みを与え、安全な避け所であるからです。


たとえ嵐にぶつかることがあっても主が助けて下さいます。



【詩篇107編27-31節】

彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。

主があらしを静めると、波はないだ。

波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

(・∀・) アーメン

2016.2.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あなたの中に復活信仰がありますか?

テーマは 『 あなたの中に復活の信仰がありますか 』 です

【Ⅱコリント4章7-15節】

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立てさせてくださることを知っているからです。

すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。

私たちは信仰生活をしていますが、自分の中に復活の信仰はあるでしょうか?

イースター礼拝の時になると、復活の信仰がある人は1つのことを考えます。
それは“キリストが私のために十字架にかかって死に、私に命を与えるために蘇ってくださった”ということです。
イースターの時はそれを考えなければいけないです。

受難週の時は、十字架の死について考えますが、イースターの時はキリストが死んで3日後に蘇ったのは 私たちに永遠の命を与えるためであります。

私たちは十字架の死を見た時には、「私の罪のために…」と自分の罪に気付きます。
これは十字架を正しく見ている人であります。


私たちに復活が与えられても今はまだ目に見えていないですが、イエス様が地上に再臨した時に イエス様と同じような身体に復活します。
今はまだ私たちは蘇りの身体を持つ事はできないです。

これには時があり、神様が定めた時にキリストが地上に再臨した時は、死んだ者がまず復活の身体を着ます。次にイエス様を信じている生きている者たちが
復活の栄光の身体を着るようになります。


復活信仰はキリスト教の最も基礎的な信仰であります。
他の宗教には絶対にないものであります。他の宗教では自分たちの教祖の墓を誇り お参りをします。

しかしキリスト教には墓参りがないです。なぜなら、そこにはおられないからです。生きておられる方であります。これが根本的に違います。
ですからキリスト教を信じる人は、この復活の部分まで信じなければいけないです。


自分が死んだ後、キリストが再臨する時に復活するという事実に感謝しながら 復活の信仰をもって臨む信徒たちはそんなに多くはありません。

クリスチャンとして復活信仰を持って生きるということは とても大切であります。
ただそれを信じるだけではなく、この復活信仰を持って生きるようにしないと、私たちの信仰生活は生き生きとはしないです。

同じ神様を信じているのですが、生き生きと信じている人と、力が抜けて生きているのか死んでいるのか分からないような信仰生活は何が違うのかを、私たちは今日 考えてみたいと思います。


復活信仰は、信徒生活の活力源でもあります。そこから活力をもらうので生き生きとした信仰生活をすることができます。

パウロが本文の中で語っているのは、私たちが理解できないような部分もあります。これは当時 パウロや信徒たちに激しい迫害がありましたのでその人たちに向けて手紙を送りました。

今の時代、迫害されていない私たちから見たら意味がよく分からない部分もあります。
しかし私たちはパウロから実践的な信仰生活を学ぶことができます。


イエス様は模範として見せてくださいましたが、神様ですので 私たちが信仰生活を学ぶことは難しいかも知れません。

しかしイエス様からその教えをしっかりともらって、その通りに生きた偉大な使徒であるパウロを見ると、私たちが地上でどういう信仰生活をしたら良いのかヒントを得ることができます。

激しい迫害の中で復活信仰がどのような形として現れたでしょうか?




①いつも主の臨在の中で生きること



もしイエス様が墓の中にいるならば臨在はないですし、何も出てくるものが無く 助けるものもないです。

しかし“臨在”ということは、今 生きておられるイエス様ですので、その中で私たちが生きることが復活信仰生活であります。

死人に頼って生きることと、生きている方に頼る信仰では 天と地ほどの差があります。

パウロ自身はキリストに出会ってから激しい苦難に次々と遭いました。


しかし彼はキリストに出会った瞬間から彼は自分に与えられた素晴らしい恵みに気付きました。
この恵みに気付いていない人は、イエス様を信じて何十年経っていても神様は見えないです。自分が何のために信仰生活をするのかも分からないです。


しかし恵みを知っている人は、神様の恵みによって自分が救い出された確信を得ているので苦難があっても忍耐ができます。
私たちが苦しみの中で忍耐が出来て、苦しみの中で勝利をするのは自分の力ではないです。
神様の力や恵みによって、その人たちが勝利し感謝することができます。


激しい迫害の中でもパウロは感謝を捧げていました。常にその中で感謝と賛美をしていたのです。これは臨在の中で生きることであります。

「主よ。私に力を注いでください。私を強めてください。」と祈るよりも 自分自身が主の中に入っていくことが大切です。私たちのように小さなものの中に入ってくるよりは、大きなイエス様の中に私たちが入るのが良いのです。


主はすべてのことを成し遂げられました。それを私たちは信じて主の中・臨在の中で生きると、常にそこから力が与えられるのです。

パウロは常にキリストの中で生きることを意識して生活をしていました。ですから力が強く 彼の信仰は常に前進でした。




②復活信仰はいつも未来を見ながら生きる信仰



世の中では現実を見なさいと言いますが、クリスチャンはそうではないです。

もちろん現実も見るのですが、現実がすべてではないのです。
私たちは現実を見てから 必ず未来を見なければなりません。

現実的に見るならば福音のために毎日激しい苦難を受けていたパウロの姿はあわれな姿でありました。それは8節~10節の言葉に書かれています。

その他にもパウロの手紙にはたくさん語っています。


【ローマ8章36節】

一日中死に定められている

【Ⅰコリント15章31節】

私にとって毎日が死の連続です

【ガラテヤ6章17節】

私はこの身にイエスの焼き印を帯びているのです

このように自分が受けている苦難を表現しました。

しかし この中で絶望している姿は1つもなく、不平不満を言っている姿も1つもありませんでした。
彼は現実だけを見ておらず、常に霊の目が開かれて未来を見ていました。

復活の信仰を持っている人たちは必ず先を見るのです。今は苦しみがあっても、このままでは終わらないのだと次の2箇所で語りました。


【ローマ8章17-18節】

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

栄光を共に受けるために苦難が必要であります。クリスチャンになるということは苦しみが全く無いということではないです。


なぜ患難があるでしょうか?
パウロは命をかけて主のために働きをしているので、激しい苦難の中でも常に神様がパウロを助けることによって福音は前進していきました。
それを通して神様が見せたいものは、苦しみがあるからこれが終わりではないのだと、その中で神様が力を与えて恵みを与え助けることによってこの世に福音が異邦人にも伝わっていることを直接見せてくださいました。

パウロは苦しみから救い出されるために神様の力を体験しました。


私たちに苦しみがある時に神様に助けを求めます。私たちが実際に受けている苦しみはパウロが受けている苦しみとは違います。
福音のために迫害を受けていることはほとんどないです。ある意味で自分たちの肉から出てくるものによって苦しみを受けることが多いので、その時 私たちは神様に立ち返らなければならないです。悔い改めて立ち返って主の中に留まることによって私たちは救い出されます。


パウロは自分の人生を全て主に捧げて仕えていました。パウロが受けた苦難は私たちの想像を遥かに超えたものであります。
しかしそれも全て神様の計画であるのです。

私たちは苦しい時「神様はなぜ助けてくださらないのですか?」と それだけを祈るのではなく、自分の苦しみがどこから来ているのかを考えるべきであります。

自分が蒔いて刈り取っているのか、それとも自分が実際に迫害を受けて苦しみがあるのかによって結果が違います。

迫害されて苦しみがあるならば、神様は常にその人を見捨てることがなく助けてくださいます。そして神の御力をその人に見せて希望を与えてくださるのです。


【Ⅱテモテ2章8-11節】

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのてめに、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

現実は、徐々に死に向かっていきます。あらゆる苦しみがあります。肉体も死にます。
しかし未来にあるものは“とこしえの栄光”です。これが復活の信仰であります。

復活の信仰は苦難だけを見るのではなく、苦難がどのような実を結ぶのか、苦難によって自分は何が得られるのか それを常に見るのです。

いつもイエス様を見て、イエス様がどのような道を辿って、どのような姿になっているのか それは将来の自分の姿であります。

苦しみは永遠に続くことはなく消えていきます。そして主の栄光を見る時に慰められます。


復活の信仰には良いものがいっぱいあります。栄光の姿を常に見ているので、喜びが出てきます。感謝が出てきます。力が湧いてきます。希望が出てきます。

絶望がないです。そこに弱々しい姿はないです。もしかしたら現実はそのような姿かもしれないです。弱さがあり、いつ壊れるかわからない土の器のようなものであります。
また 限界があります。

しかしキリストによって復活の力が自分たちの中で働くので どんな時でも希望があり、慰め・力があります。



③望みをこの世におかず、天においているので、この世を愛することをせず、
またこの世のどんな艱難に対して恐れません



いつも現実を見て恐れをたくさん持っている人がいます。
それは何故だと思いますか?

この世に対して、執着心が多いからです。この世ばかりを見るのです。
その人の関心事が全てこの世のものなので、この世に抑えられてしまうのです。この世に支配されるので、少し変化しただけで怯えて心配をするのです。


聖書には クリスチャンはこの世を見ながら、この世と仲良くして生きなさいとは語っていないです。
反対にこの世から聖められなさいと、クリスチャン生活は聖められる生活であります。この世の汚れから洗って内側を聖くし、この世の光として塩として聖い者として生きるように神様が選んでおられます。

そう生きるためには この世に対して執着を持つのではないです。この世を愛するのでもないです。
世に執着して愛する人は多いですが、この世は自分を愛してはくれないです。


しかし 神様のことを愛するならば、もっともっと大きな愛を神様から受けるようになります。
神様が与えてくださるものは、小さなものでも私たちの心を本当に満たしてくれるものであります。
神様に望みをかけるなら、神様は私たちに本当に必要な喜び・平安・力・命を絶えず与えてくださるのです。

神様が私たちに願うのは、私たちが地上で旅人として旅をしながら勝利し 天の御国に入ってくることを心待ちにしておられます。

でも旅人がこの世に執着して天国を見ないならば神様は残念に思います。

パウロは地上で色々なことがあっても そこに彼の心が捕らえられることはありませんでした。


信仰が弱い人たちは この世に倒されたり裏切られたりすることがありますが、
目をイエス様に向けて 自分の目的地を天に定めている人たちは、周りで色々言われても そこにあまり関心がないです。

「まぁ そういうこともあって、確かに生きている時に必要かも知れないけど、それが全てではないし大切なことではない。」とはっきりと自分の心に区切りをつけるのです。
「私が目指すのはここである。私はそれに向かって前進するのだ」と。このような人たちには恐れがないです。

自分が帰るところを知っていますので苦しみの中にいる人たちはそのようにして勝利していきました。


私たちが生きている時代も終末に向かって歩んでいます。
これからもっと様々なことが起こります。毎日、世界で事件があり 国の危機があり 個人の危機があります。
それを見て私たちがいつも恐れるならば心がもたないです。


「これは神様が聖書の中で教えてくださった黙示録の世界を生きているのだ。」と、その中で自分はどのように生きるべきなのかを、また 自分の望みをどこにかけるのかを考えるべきであります。

神様が備えてくださっている素晴らしいところがあるから迎えに来てくださるのだということです。


私たちはいつどのような姿でこの世を去るか分かりませんが、復活信仰を持っているならば どのような状況の中でも苦しみで終わるのではなくて
「私の地上での旅路が終わるのだ。しかし私はこれで終わりではない。私のためにイエス様が備えた永遠の住まいがある。もうすぐイエス様に会えるのだ。」と
このような希望があります。


ですから私たちが生きている時に復活信仰を持っていることの大切さが そこにあります。

復活信仰を持つなら 生き生きとした信仰生活ができます。持っていないならば小さな風で倒されて恐れて死んでしまうのです。
(・◇・)ゞ

2014.4.20
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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