からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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暗闇

主から知らないと言われた人々

テーマは 『 主から知らないと言われた人々 』 です

【ルカの福音書13章24-27節】

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

福音書には、イエス様と人々の会話の内容がたくさん書かれています。

イエス様ご自身から 人に真理を話すことが多いですが、人々の質問に対してイエス様が答えて教えたこともありました。


本文のことばは、「主よ。救われる者は少ないのですか」という質問に対しての主の答えでした。


結論から言うならば、答えは「救われる人は少なく、救われない人が多い」ということです。


すべての人が救われることが主のみこころではありますが、現実はとても厳しく 実際に救われる人は少ないと聖書は答えています。


そのことが主の悲しみですが、その原因はあくまでも人間にあります。

その原因になっている人間の姿を見たいと思います。


今日のテーマは「主から知らないと言われた人々」ですが、そのように言われた人々が意外とたくさんいました。

一体どのような人に向かって主が「知らない」と言ったのでしょうか。


主の裁きの時、そして再臨の時は、キリスト者と呼ばれる人々の中からも羊とヤギ、麦と毒麦が分けられるように、本物のキリスト者と偽物のキリスト者がきれいに分けられます。


それまで一緒だったのに 急に2つに分けられ、主に受け入られる人と 主から知らないと言われ追い出される人が出てきます。


今その裁きが行れるならば、自分はどちらでしょうか?
メッセージを聞きながら考えて下さい。




不正を行う者




【ルカの福音書13章27節】

『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

主のことばをよく聞いてみると、“あなたがたがどこの者なのか知らない” とは言いましたが、彼らが不正を行う者であることは知っていました。

一見、矛盾しているように聞こえますが、これには意味があります。


【ヨハネの福音書10章27節】

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

イエス様が “知っている” という意味は、「その人が主のもの、主の羊」である意味で、知らないと言うのは「主の羊ではない」という意味です。


イエス様がいるところには いつもたくさんの人が集まり、一緒に食事をしたり、教えを聞いていました。

今も全世界の教会にはたくさんの人が集まって礼拝をしています。


しかし その中には、真実な信仰を持って主を愛し、恐れ、また御心にふさわしく生きるために悔い改めながら罪から離れる人もいれば、悔い改めと信仰のない偽善的、形式的な信仰だけで生きる人も大勢います。


主は同じ扱いはしません。
主に認められる人もいれば、あなたを知らないと厳しく言われる人もいます。

教会に出席する事が、礼拝に参加することが イコール “天国への保証” ではないです。


天国から拒否される人は、信仰をごまかしながら生きる不正を行う者です。

主は不正を行う人を羊とは呼ばないです。


本人たちが いくら「羊です」と主張しても、主の目にはヤギに見えます。

その人の姿が主に似ていないからです。


羊は主の所に入りますが、ヤギは外に追い出されます。


自分のことを てっきり羊だと思っていたヤギは、外に出されてから やっと自分の姿に気付き びっくりして必死でした。

それまではヤギとして形式的な信仰生活をした人たちが、死にもの狂いで「ご主人さま。開けてください」と必死に戸を叩くようになると、イエス様は話しました。


その時、外の暗闇に追い出された人にあるものは恐怖と絶望です。


必死に主の名を呼んでも、一度閉められた戸の向こうから聞こえてくる主のことばは、「知らない」という冷たい言葉だけです。
そのことに耐えられますか?

一度想像してみて下さい。それがもし自分だったならばと――。




不法をなす者たち




【マタイの福音書7章21-23節】

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

不法をなす者とは どのような人でしょうか。


真理を知っていながらも、真理通りに生きることをしない人たちです。


みことばを聞きながらも行わず、砂の上に自分の家を建てる人です。

主を信じると言いながらも、不法をなす者が大勢いると言われましたが、実際大勢います。


信仰の形はありますが、御言葉よりは自分の思いのままに生きています。

そのような人に対して次のように語りました。


【マルコの福音書7章6節】

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

これは神と人を騙している信仰の姿であり、偽りで信仰告白する人の姿です。

そして、偽宗教指導者が不正をなす者たちのことで、自分を偉大な主のしもべだと思って、人の上に君臨する指導者たちです。


自分が主の名によって力ある働きをするので、それに酔って、態度が高慢であったり、人を利用したり、また貪欲であったりと悪い実を結ぶと、主はその人に向かって 「不法をなす者。わたしから離れて行け。」と言います。


今は立派な働きのように見えても、いつか捨てられる時がきます。

そして、まことの羊飼いであるキリストに従わないで、悪い偽者の牧者に従っていく人々も 不法をなす者なので、主は “彼らを知らない” と言います。


異端の教祖、自分を再臨イエスという人間について行く者に対しても、主は「知らない」と言います。

主が再臨してもないのに「再臨した」と言うことが間違っているのに、多くの人が惑わされています。


また口では自分は神の子どもと言いながら、行動においては主のことばに耳を傾けないで、従順しない人に対して主は 「知らない」と言います。




油の備えが出来てない人




花婿を迎える10人の娘のたとえがあります。


【マタイの福音書25章1-12節】

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

  • 10人の娘 → “聖徒”
  • ともしび → 聖徒たちの “信仰の姿”
  • 油 → 信仰を維持させる “聖霊”
  • 花婿 → 再臨する “キリスト”
  • 夜中 → “罪が満ちた時 を意味する”

花婿が迎えに来た時間は夜中でした。

油の用意をしなかった愚かな5人は、残念ながら婚礼の祝宴に入ることも出来ず、花婿であるキリストに会う事すら出来ず、花婿から「知らない」と言われましたが、なぜでしょうか。


信仰の形はありますが、信仰を維持させる聖霊の働きがない信仰だったからです。

形だけの信仰は、主に喜ばれる信仰ではなく、それは死んだ信仰です。


生きた信仰は、聖霊の助けによって 神が喜ぶ聖霊の実を結ぶことが出来ます。

そして日々聖霊の導きを受け、主の再臨を準備するために目を覚ましていますので、油の備えがあります。


「いつか用意します」では遅いです。
いつまでも恵みの日が続くのではなく、いつまでも救いのチャンスがあるわけでもないです。

そして、いつまでも神様が忍耐していることもないです。


罪に満ちた世界は裁かれ、そこに残された人々が苦しみを受ける時がきます。


“実” のない信仰生活がその時、自分のいのちを救うことは出来ません。


いくら主を知っていると叫んでも主はあなたを知らないと言います。

主の基準で、私たちの行動が不正、不法であるかによって運命が変わります。


形だけのクリスチャンであった大勢の人が その時には慌てふためきます。


必死になりますが、戸が閉められてからは、すべてが終わりです。

いくら叩いても一度閉められた戸は開かれません。






いま神に逆らう人間が作る秩序が世界をどんどん支配しています。


罪が罪ではなく、真理を行うことが罪に定められるという おかしな時代になりました。

これは裁かれたソドムの時代や、ノアの時代と同じです。


ですから主は 「目を覚ましていなさい」 と警告しています。

最近、日本では大雨や台風に対して 「各自しっかりと対策してください」 と よく聞かれるようになりました。


国だけでは守ることが出来なくなったからです。

それと同じで、準備をしっかりしていないと後で大変なことになります。


目を覚ましていることは具体的にどういうことかを聖書から学びます。


【ローマ12章11節】

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

【ヘブル10章24-25節】

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

【ヤコブ5章8-9節】

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

【第1ペテロ4章7-8節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

世の終わりの姿は、政治・経済・社会などよりは、人々の姿に一番現れています。


どの時代にも 神の裁きは人間が堕落し、神に逆らい、愛が冷め、罪が満ちた時に起こりました。

自分が自分の身に裁きを招きます。


しかし知恵ある人は、万物の主を恐れ、その秩序を守り、時代を分別し、信仰によって備えをします。

いつも伝えていますが、形だけの信仰、眠っている信仰、不従順の信仰が自分を守ることは出来ないです。


「自分は大丈夫だ」 という安心感ではなく、危機意識が必要です。
( ̄‥ ̄)=3

2015.10.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリスト者になる方法は?

テーマは 『 キリスト者になる方法 』 です

【ヨハネの福音書3章16-21節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを 持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあって なされたことが明らかにされるためである。

みなさんはどのようにしてイエス・キリストを信じるようになったでしょうか。
それは一人一人違うと思います。

信じるようになったことは大きな祝福であります。
今すぐには分からなくても、私たちが世を離れた時に 救われたことが本当に素晴らしい祝福であったことが分かると思います。

「福音を一度も聞いたことがない」や福音を聞いても信じない人はとても残念であります。


私たちが伝えても、キリスト教を反対する人が多いですね。良いことを伝えているのに、なぜ受け入れられず反対されるのでしょうか ――?

その理由は様々だと思いますが、その中でも キリスト教に対する間違えた先入観があるので拒否する人が多いです。

しかし、伝える人たちが正しく伝え、聞く人が正しくキリスト教に対して理解するならば、キリストを信じる人が多いと思います。


キリスト教は人間の根本的問題を扱う宗教であります。

信じたら天国、信じなかったら地獄 それだけのことではないです。これは福音ではないです。
それだけを言うならば多くの人たちが拒否します。「天国も地獄も信じない。」「死んでみないと分からない。」「別にどちらでもいい。」等
あまり良い反応はなく、キリスト教に対する好感度が下がってしまいます。

それ以前に、本質的なものに触れなければなりません。




①人間は認めたくなくても、本質的に罪の中から生まれた暗闇の子です


まず、私たちが罪人であることを伝えないと何も始まりません。

聖書が私たちに対して語る真理の言葉は、「義人はいない。ひとりもいない。」、「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず。」です。


【エペソ2章1節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって

これらの言葉を総合してみると、一言で皆が「罪人」であるということです。
「私は一体何者なのか」と悩む人が多いですが、私たちは「人間は誰もが罪人です」と答えなければなりません。


聖書で 自分たちは罪人ではないと思っていた人たちが、姦淫の現場で捕らえた女の人をイエス様のところにつれて来て、「モーセは律法の中でこういう女を 石打ちにするように命じています。ところであなたは何と言われますか。」と言った人には罪の意識がなかったと思います。
私たちもモーセの律法にそのように書かれているからと石を投げたと思います。そうしたら女性は殺されていたでしょう。
しかしその時、イエス様は彼らに向かって「あなたがたのうちで罪のない者が 最初に彼女に石を投げなさい。」と言うと、年長者から ひとり ひとり離れていき、誰一人残りませんでした。

これはイエス様が人間の本質に迫ったことです。「あなたたちの罪はないのか?」ということであります。


私には罪がないと言える人は1人もいません。すなわち罪人であります。

アダムから罪を犯しました。エバも罪を犯しました。その息子・長男のカインも人殺しをしました。
初めから罪にまみれたのが人間であります。神様は良いものを造りましたが、人間が罪を犯しました。
その子孫がすべて罪人です。これを私たちは人々に伝えることであります。

私たちは生まれながらに罪の中から出て来て、そして罪を犯している者だということに出会わないと 神様の存在がいらなくなります。


【創世記6章5節】

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

いつも悪い方向に向かっていくのです。自分の心を見てもマイナス(否定的)に傾いていきます。そのことを神様がはっきりと語ってくださいました。


【エレミヤ17章9節】

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

人間は2つのものを持っています。偽善者であります。

心の中にいっぱい悪いものを持っていながら、外見は良い人のフリをするのです。
心の中では他人に対する憎しみがいっぱいですが、「私はあなたを愛しています。」と笑顔で語るのです。
ですから人間ほど恐ろしいものはないです。
動物には出来ませんが、人間は巧みに生きているのです。ですから罪人ではないと言える人は1人もいないです。 もし「罪人ではない」と言う人がいるならば、その人は嘘つきであります。

哲学では、人間の存在に対して出した結論は、虚しいということです。




②神様は光であり、そして罪もなく聖い方です


光が世に来たと 今回のテーマである ヨハネの福音書3章19節に書かれています。

イエス様は、自分のことを世の光であると語って下さいました。
光ということは、そこに闇がないことです。罪は暗闇です。罪を犯した人間は光ではなく暗闇なのです。

罪人たちは、誰もが暗闇の中を歩んでいて何も見えないので自分がどこへ向かって行くのかも全く分からないです。

その暗闇でさまよっている者たち、虚しく生きている人たち、滅びに向かって歩んでいる人々を救うために 光であるイエス様が 神様に遣わされて地上に来られました。


さまよっている人たちに必要なものは何でしょうか ――? 食べ物ではないです。
その人たちにとって大切なものは「光」であります。

罪の闇を追い出すために 光であるイエス様が来られました。
闇と光は共存することができません。闇は光によって追い出されます。

自分の中にある闇を追い出すためには光であるイエス様が必要です。光であるイエス様を心の中に迎え入れるならば闇は消えていきます。


しかし、光を受け入れない1つの理由について、暗闇のわざを捨てたくなく、自分が罪人であることを認めたくない人はキリストを信じようとはしません。


【ヨハネの福音書3章19-20節】

光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをする者は光を憎み、 その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

「私は罪人です。わたしはイエス様が必要です。」と言う人は、キリスト者になれます。




③私たちはイエス様によって天の父なる神の元へ行くことができます


私たちが人々に伝える時に、天国のことをいきなり語るのではなく、①と②を伝えた後に語ります。
世の中の宗教には、自分たちが語る天国のような場所がありますが 次のように語っています。


【ヨハネの福音書14章6節】

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることは ありません。

もし 私たちが天国に行きたいならば、キリストを通らなければなりません。
キリストの十字架が地上と天国を繋ぐ道であります。
世の宗教は「私たちにも救いの道があります。」と言いますが、それは届かない道であります。


また、神様は私たちを天国へ強制的に入れる方ではありません。
その道を選んで行くか 行かないかは私たちの自由意思、私たちの選択に任せています。

自分でよく考えて自ら決定するようにして下さいました。
これが福音であります。私たちが福音を正しく伝えて相手に委ねることであります。むりやり「信じなさい。」と言う必要はないです。
耳のある者は聞きなさいと神様が語りました。


自分たちがキリスト者になるのも、この過程が必要でありますし、私たちが他の人たちに福音を伝える時も きちんと詳しく説明しながら伝えることが大切です。

そうしないと信じたくても何を信じたら良いのか分からず、自分が何者で キリストがなぜ必要なのか、天国にはどのようにしたら行けるのかが分からないです。


  • 人間は誰もが罪人であること
  • 暗闇の中にいる罪人たちを救うために、光であるイエス・キリストが来られたこと
  • イエス・キリストが天の御国へ行ける唯一の道であること

このことを正しく知り、正しく伝えてください。

それによって相手の人が受け入れるならば、それから神様のみことばを学ぶことでありますし、みこころを知るようになります。
クリスチャンとしてどう生きるべきなのかを教会に来て、みことばを学びながら成長していきます。

私たちは人間の本質に迫って語り、イエス様のことを伝えたら良いと思います。 (・◇・)ゞ

2014.1.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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救いの条件とは?

テーマは『 救いの条件 』です

【マルコの福音書1章15節】

イエス様が語った言葉です。
イエス様を信じていない人が聞いたら、どういう意味かわからないと思います。
しかし、クリスチャンは教会で「救い」という言葉をよく聞くと思います。

「あなたは本当に救われましたか?」と質問をすると、
「はい、救われました。」や、「よくわかりません。」と答えます。

また、「天国へ行けますか?」と質問をすると、
「必ず行きます。」と言う人もいれば、「死んでみないとわかりません。」と言う人もいます。
そして「私、天国へ行けないかもしれません。」という人もいます。

これは問題であります。救いの意味がまだわかっていないのです。
どうやって救いを受けるのか 意味をわかっていないので、
自分が本当に救われているのか、救われていないのかが曖昧なのです。




< 救いを受ける条件 ①>

悔い改め

まず「罪を悔い改めなさい」ということです。

【マルコの福音書1章4節】

この時点では、まだ「信じなさい」という言葉は出ていないです。

現在の教会では信仰のことばかり伝えますが、それだと「半分だけの福音」になります。
ですので、多くの人がそこで間違えています。
イエス様は信仰だけで救われるとは一度も語ったことはないです。
私たちは「悔い改め」と「信仰」によって救われるのです。


【使徒の働き2章37-38節】

【使徒の働き20章21節】

「私は生まれながらに罪人だ。」と自分の罪に気付くことです。
自分には救いが必要だという認識がないと、イエス様の十字架が見えてこないです。

自分に罪の認識が来ると、「あの十字架は、私のための十字架である」と
十字架の意味がわかってきます。

「(罪人の)私はどうしたら良いですか?」という思いが来て、
それに対して主が「わたしを信じなさい。」というのです。
これは、イエス・キリストに対する「信仰」であります。

この2つ(悔い改めと信仰)が救いを受ける条件であります。

悔い改めの意味は、口先ではないです。次の箇所です。


【マタイの福音書3章7-10節】

ユダヤ人たちは天国へ行ける自信がありました。なぜならアブラハムの子孫だからです。
ですが、バプテスマのヨハネがそのことを指摘し「それはあなたの錯覚である。」と語りました。

自分の罪を知り、本当に悔い改めない限り、アブラハムの子孫であっても天国には入れないと
いうことです。これは現在のクリスチャンに語る言葉であります。
悔い改めに相応しい実を結ばないならば、実が成らなく 葉ばかりです。

みことばを聞くだけで、恵みを受けるだけでは、どうにもならないことであります。
「○○教会に所属していました。」と、いくらイエス様に伝えても、
神様が「全然、悔い改めていないではないか。あなたは罪の中にいるのではないか。
だから切り落とすのだ。」と語ります。


【マタイの福音書11章20-24節】

毎日、奇跡を見ながらもイエス様が望んでおられる 悔い改めにふさわしい実が
見えないです。その姿で天国に入れると思っているのかと、イエス様がはっきりとおっしゃいました。

本気で悔い改めをしなく、教会を行ったり来たりしているから大丈夫だというのは、
イエス様は「目を覚ましなさい。それでは(天国には)行けないんだ。」とおっしゃいます。

ですから、自分自身が「私は罪人だ。」という認識がないならば、まだ救われていないのです。
自分の姿をみことばで照らしてみてください。

主の前で、自分が罪人であることを告白し、罪を赦してもらえるように祈らなければならないです。


人々に福音を伝える時も、必ず悔い改めのメッセージを伝えなければいけないです。

「イエス様を信じたら天国へ行きます。」というのは、悔い改めの部分を完全に無視しています。
相手の機嫌が悪くなったらどうしようと思っているので言わないのです。
日本の教会では悔い改めの言葉をあまり言わないです。罪人という言葉も言わないです。

なぜ言わないのかというと、人々が聞きたがらないからです。
神様が伝えたいメッセージではなく、人々が聞きたいメッセージを伝えるのです。
ですから「愛・祝福がありますように。」以外には言わないのです。
そのような教会にはたくさんの人が集まります。牧師がまるでコメディアンです。
初めから終わりまで冗談を言うので信徒たちは笑っています。
しかし福音は語らないです。


【ルカの福音書5章31-32節】

悔い改めをすることは、認識をすることです。
誰が死から救い出すことができるのか? それにはイエス様が必要です。




< 救いを受ける条件 ②>

信仰とは?

律法の行いだけでは救われないということを教えるために、信仰という言葉が出ました。


【ローマ3章27-28節】

律法の権威の下にいるので、私たちは呪いから逃げることができないです。
罪からくる報酬は死なので、誰も死から逃げることができないのです。
ですから、すべてのものが「死」に閉じ込められています。
自分でどんなに努力し 聖い生活を励んでいても、結局シミ(罪)が付いているので、
罪人になり、その判決は「死」です。

神様は、救い主・キリストを送り(キリストが)救いを完成されました。
救いとは それを信じ、キリストを自分の救い主として心に受け入れることです。


【ヨハネの福音書1章12節】

尊い代価(十字架で流した血)を払って 罪の奴隷から私たちを神様の御国に入れてくださいました。
私たちを買い取ってくださった方が私たちの主人であります。王の王、主の主です。

私たちがイエス様を王様として心に招き入れて、王様に対する態度を見せないならば、
それは救われない信仰であります。

例えば、結婚のことで言うならば、
結婚する前の姿を見てください。男の人は女の人をまるで お姫様のように大切に扱います。
一番良いものを与えて(女の人を)大事にします。女の人も、自分が愛する人に対して
自分のものを惜しまずに与えます。「この人の為なら、命を捧げることもできる」と、大切にします。
そして お互いに「死ぬまで一緒にいたい。」という思いで結婚をします。

結婚してからも、その思いのままで生活をする人は本当に幸せです。

しかし、結婚した途端に男の人は妻を家政婦のように扱います。
そして家政婦ではなく奴隷と思っている人もいます。
いつも怒り 命令をして、自分に少しでも逆らうとDVです。そういうことが今は多いです。

また、妻も結婚するまでは大事にしていたのに、旦那さんに対して、外で奴隷のように働いて
お金だけ運ぶもの。まるでお金を作り出す機械のように王様としての扱いをしないです。

私たちはイエス様を心の中に受け入れてからは、どうでしょうか?
イエス様を王様のように自分が仕えているのか、それともイエス様を自分の奴隷のように命令を
しているでしょうか。


【ヨハネの黙示録3章14-20節】

ラオデキヤ教会は正統派の教会です。異端ではないです。
しかし、イエス様はどこにいるでしょうか?  20節にあるように、イエス様は外にいます。
王様の扱いではなくて、いつの間にか追い出してしまいました。
生温いということは、信仰が死んでいるのです。
イエス様が全ての主権を持っておられます。私たちはその主権のもとでひざまずかなければいけないです。


【マタイの福音書22章1-14節】

王様として主を迎えて、主の言葉通りにする人は少ないです。
天国に入る人は、全人口の3%しかいないです。
このみことば箇所を見ればわかります。王様から招待をされていましたが、無視をして来ませんでした。
そして礼服というのは、王様に対しての礼儀を表すものです。ですが自分のやり方で入ってきました。

【マタイの福音書24章45-51節】

自分は救われたと思っている人です。しかし主人を軽く見ているのです。
主人の言うとおりにしないで、自分の欲望のままに生活をしています。

【マタイの福音書25章14-30節】

主人が言われた通りに従順して従っていく人に対しては、神様はその人を認めてくださいます。
1タラントをもらった しもべは、主人のことを悪い主人だと思っていました。
ですから主人の言うことを聞かないのです。主人から言われたにも関わらず従いませんでした。

これらのみことばの箇所で、主人の言う通りにした者は天に入りましたが、
言う通りにしなかった者、自分勝手に動いた者、それは主人の顔に泥を塗った者です。
この人達はすべて暗闇に出されました。

これは私たちの裁きの時には同じことを受けるのです。その時に2つの道に分かれます。


【ルカの福音書6章46-49節】

その人の人生が、裁きの時に 虚しく崩れ去って行く姿をここで見せています。
私たちは死ぬ時に悔い改めをしたら良いと思っても、ある人は一瞬にして亡くなります。
地獄へ行っても構わないと強気で言う人もたくさんいます。

クリスチャンは騙されてはいけないです。クリスチャンは自分が罪人であることを忘れてはいけないです。
常にイエス様に対する信じる心と、信じた後でも常に足を洗わなければならないです。

罪を悔い改めて立ち返り、主のみこころ通りに聖くなることを目標にしているならば
その人たちは、救いから もれることはないです。このことを心に留めてください。 ( -д-)ノ

2013.6.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストが来られた目的

テーマは『 神様と人間の関係の為に来られたイエス様 』です。

【使徒の働き20章35節】

私たちは与えるより、受ける方が良いと思いますが、イエス様は逆のことを言われています。
そしてイエス様はそれを実行されました。

私たちは主に対して何かを与えましたか?
献金でしょうか? ――それは違います。

人間は生まれた時は裸であり、何も持っていません。
与えられないと生きていけないのが人間であります。
すべて神様から与えられたものですが、正しい人間に必要なものを与える為に、
イエス様は人の姿になって来られました。

目に見えるものは価値がなく、錆びて古くなっていきます。

イエス様のものは、努力して与えられるものではありません。
受けているのに「受けていません」というクリスチャンが多くいます。
なぜかというと、それらのものは全て「 目に見えるものを言っている 」からです。

すでに与えられている神様からの恵みに気付いて感謝をしましょう。

神様と人間の関係を良くする為に、イエス様が来られましたが、人間は心が頑なであり
神様に対しても頑なな心があります。神様から造られた人間が神様を必要ないと言います。

【エペソ2章14節】

仲介者(イエス様)が必要です。争いなさいとは一言も言っていません。
暗闇の中にいる人類のところへイエス様は来られましたが、
救われる前は、暗闇の心が私たちの中にありました。しかし救われてからは光の子となりました。

【エペソ5章8節】

人間として生きているのに何の為に生きているのかわからない。
どこが道なのかわからないので道を示してくださいました。

贖いの恵みはなぜ必要でしょうか?

【創世記3章16-19節】

人間には労苦・のろいがあります。人間以外に被造物にもあります。嘆く人生に人間はなりました。

【マルコ10章45節】(人の子=キリスト)

イエス様の命 → 人間の罪を贖いました。
イエス様を信じると、恵みによって罪が赦されます。永遠の命が与えられます。

【エペソ2章1節】、【ヨハネ6章51節】

本当のパンのことではないです。
霊的に開かれていないと、霊的なことばを聞いても肉的なもので解釈をしてしまいます。
信じること、受け入れること = パンを食べること

人は 「 ないです。」 と言いながら、亡くなる時にたくさんの物を蓄えていることがわかります。
残された人が大変な作業をします。
イエス様は何一つありませんでした。与えるためだけに来られました。
いつでも恵みを与えるイエス様です。(´∀`*)

2011.12.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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