テーマは 【クリスチャンの人生】 です
【Ⅱコリント5章17節】
みことばを聞きながら自分自身を診断したら良いと思います。
みことばは、クリスチャンの人生とはどういうものであるのかを教えています。
日曜日に礼拝に来るのがクリスチャンだというのは違います。
クリスチャンが礼拝を守るのは当然のことです。
聖書を読んでいるからクリスチャンの人生を生きているというのは 一部分であります。
クリスチャンの人生は、生活の中にクリスチャンとしての様々な姿が実際に出てこなければならないです。
人生は生活そのものであります。
クリスチャンは、キリストにあって古いものが過ぎ去り、全てのものが新しくなった時から
スタートであります。新しくなった その時から新しいものとして生きるのがクリスチャンであります。
しかし、どのように生きたらクリスチャンの人生になるのかは、よく分かっていないです。
その部分を3つに分けて紹介します。
①信仰によって生きる
私たちは、信仰によってクリスチャンになりました。
毎日信仰によって生きるのがクリスチャンの人生であります。
神様は「義人は信仰によって生きる」と語りました。
義人は神様が認める正しい人であります。
神様から見て正しい人というのは、キリストに出会って信仰により救われた姿、罪が洗われた人を言います。
義人になった瞬間から、その人は信仰によって生きなければ意味がないです。
新しい者(義人)になったならば、その時から神様をもっと頼りながら信仰によって生活をしなければ
ならないです。
私たちが救われると、イエス様が私たちの心の中に入ってきます。これがクリスチャンであります。
以前はサタンの奴隷であり、サタンが私たちの心を支配して欲のままに生きていました。
しかし、救われたことによって変わってきました。私たちの中にイエス様が入って来てくださいました。
もし信仰によって生きないならば、「何をしても天国に行く」と言って、相変わらず古い人のままで
生きるならば、主は一緒に暮らすことはできません。その時から私たちの心はエデンの園ではないです。
主が共にいるのでエデンの園であります。
以前、私たちは広い道を歩きました。その道は大勢が歩いています。最期は滅びで、永遠の地獄です。
しかし信仰をもって救われたその時から道が変わってきました。険しくて狭い道であります。
しかし、その道は「命の道」であります。
命の道を通っているのに「この道はしんどい、歩きたくない。辛い。試練も多い。世の中の不利益もある。
日曜日に礼拝に行かなければならない。クリスチャンとしてこれもあれもしなければならない。」
「以前の方が良かった」と言って、そこから再び広い道に行くならば、その先には永遠の命はないです。
毎日、私たちは永遠の命の道を歩いているのかどうかを自分で点検しなければなりません。
狭い道だけを歩くのが信仰の道であります。
毎日、毎日、楽な道を歩くならば、その先は暗闇の世界です。
そのことを私たちは知らなければならないです。
「弱くて、まだ信仰が足りないけれど、『 それでもその道を選ぼう 』と、神様に私の力ではできません。
助けてください。この永遠の道を歩けるように、みことばに従って歩けるように神様 助けてください。」と
私たちが祈りながら神様に頼るならば、それが信仰によって生きる道であります。
完璧に守ることは誰にもできないです。だけど「神様、私は弱い者です。私は倒れやすい者です。
誘惑に負けやすいです。でも神様、信仰によって生きられるように私を助けてください。」と求めます。
信仰とは頼ることであり、自分の力では出来ることではないので、自分の力で出来ないことを認め
神様の力を求めるのが信仰であります。
それが信仰によって生きる人生であります。
②従順によって奇跡を体験する生活
不可能な部分は出来ないというのは、クリスチャンの人生ではないです。
聖書に書かれている出来事は奇跡だらけであります。
奇跡を行う神様ですので、クリスチャンはこの奇跡を必ず体験しなければならないです。
自分の力で「これは不可能で どうにもならない」と思うことを、信仰がある人は神様に奇跡を求めます。
「神様、私の力ではどうにもなりません。不可能に見えます。でも私は不可能であるからといって絶望しません。
神様の奇跡を見せてください。」――それがクリスチャンの人生であります。
神様はいつも奇跡を備えてあります。その時に必要なのが、従順であります。
(多くの奇跡が起こっていることの前提は)「あなたがみことばに従うならば奇跡を見る」――です。
信仰の先祖・アブラハムも同じでした。当時アブラハムは100歳で、サラは90歳でした。
サラは不妊の女性でした。
自然の法則で見ると子供を産むことは100%不可能でありました。
サラは神様の言葉を聞いて心の中で笑いましたが、神様は「約束の言葉を信じなさい」と語りました。
信じることは従順です。
自分の頭の中で「そんなことはない」と言うのは不従順であります。
病気で「余命○カ月です。薬もなくて手を尽くすことができません。」と医者に言われた時に、
「そうですか。」と死ぬ日を待つのは、普通の人であります。
しかし、クリスチャン達はそこで引き下がるのでしょうか?
神様の御前に出て、祈るべきであります。神様は奇跡を行いたいです。
従順すると、神様は不思議な方法で道を開いて与えてくださいます。
その奇跡を体験する人は、信仰がどんどん成長していきます。
奇跡を体験しない人たちは、普通の人の生活をします。
クリスチャンでも奇跡を体験しない人、信じない人が大勢います。ですから信仰生活が面白くないです。
奇跡を日々体験する人は、神様なしには生きていけないです。
③毎日生まれ変わること
毎日生まれ変わることによって、新しい者として生きることができます。
どんなに新しい者でも、そのままだったら古い者になります。そうすると枯れて死んでいきます。
日々、イキイキしている人と、最初は(信仰が)熱かったのに段々生温くなり、冷めてやめてしまう人との
生活は何が違うのかと言うと、日々生まれ変わることをするか しないかの違いであります。
日々生まれ変わるということは、どういうことでしょうか?
それは日々、肉や自分の古い性質を十字架につけて殺すことであります。それをしないならば、新しくなれません。
いつも自分が聖くなるための努力をしないと、罪と咎が増えて古い人が蘇ってきます。
【Ⅰペテロ1章15-16節】
儀式を行うからクリスチャンではなく、
信仰によって生きる人生、従順によって奇跡を体験する人生、日々生まれ変わることによって新しくなる人生、
これこそがクリスチャンの人生であります。
クリスチャンとは何ですか?と質問された時に、「教会に行くのがクリスチャンです」と答えるのは大きな間違いです。
教会に行きながらも異邦人がたくさんいますし、教会に行きながらも神様に出会っていない人もたくさんいますし、
教会に行きながらもいつまで経っても(信仰が)赤ちゃんのままの人がたくさんいるのです。
そうではなくて、「信仰によって救われ、信仰によって生きる人です。従順することによって、神様の奇跡を
たくさん体験する人生です。そして古い自分を棄てて、どんどん新しくなっていくのがクリスチャンの人生です。」と
自分たちがそのように生きなければなりませんし、
周りの人にクリスチャンのことを正しく説明しなければならないです。
十字架にかけられたイエス様を信じた人は、自分もイエス様と共に十字架につけなければいけないです。
それが日々死んで生まれ変わる姿であります。
毎日私が死んでキリストが私の中で生きてくださいというのが、クリスチャンの人生であることを
心に留めてください。
クリスチャンの人生がどういうものであるのか私は知りませんから、このまま生きます。
今まで通りの生き方で生きます。というならば、教会に来ても全く意味がないです。
キリストは従順し 父なる神に信頼し、実際に十字架にかかって死にました。
これを私たちが見習い、ついて行くのがクリスチャンの人生であります。
狭い道ですが命の道を歩む人であります。追い出されることがないです。
そういう人が最後に勝利を勝ち取ります。
そのような生き方をする私たちになりましょう。 ( ̄‥ ̄) =3
2013.4.14
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
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