テーマは 『 主から知らないと言われた人々 』 です

【ルカの福音書13章24-27節】

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

福音書には、イエス様と人々の会話の内容がたくさん書かれています。

イエス様ご自身から 人に真理を話すことが多いですが、人々の質問に対してイエス様が答えて教えたこともありました。


本文のことばは、「主よ。救われる者は少ないのですか」という質問に対しての主の答えでした。


結論から言うならば、答えは「救われる人は少なく、救われない人が多い」ということです。


すべての人が救われることが主のみこころではありますが、現実はとても厳しく 実際に救われる人は少ないと聖書は答えています。


そのことが主の悲しみですが、その原因はあくまでも人間にあります。

その原因になっている人間の姿を見たいと思います。


今日のテーマは「主から知らないと言われた人々」ですが、そのように言われた人々が意外とたくさんいました。

一体どのような人に向かって主が「知らない」と言ったのでしょうか。


主の裁きの時、そして再臨の時は、キリスト者と呼ばれる人々の中からも羊とヤギ、麦と毒麦が分けられるように、本物のキリスト者と偽物のキリスト者がきれいに分けられます。


それまで一緒だったのに 急に2つに分けられ、主に受け入られる人と 主から知らないと言われ追い出される人が出てきます。


今その裁きが行れるならば、自分はどちらでしょうか?
メッセージを聞きながら考えて下さい。




不正を行う者




【ルカの福音書13章27節】

『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

主のことばをよく聞いてみると、“あなたがたがどこの者なのか知らない” とは言いましたが、彼らが不正を行う者であることは知っていました。

一見、矛盾しているように聞こえますが、これには意味があります。


【ヨハネの福音書10章27節】

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

イエス様が “知っている” という意味は、「その人が主のもの、主の羊」である意味で、知らないと言うのは「主の羊ではない」という意味です。


イエス様がいるところには いつもたくさんの人が集まり、一緒に食事をしたり、教えを聞いていました。

今も全世界の教会にはたくさんの人が集まって礼拝をしています。


しかし その中には、真実な信仰を持って主を愛し、恐れ、また御心にふさわしく生きるために悔い改めながら罪から離れる人もいれば、悔い改めと信仰のない偽善的、形式的な信仰だけで生きる人も大勢います。


主は同じ扱いはしません。
主に認められる人もいれば、あなたを知らないと厳しく言われる人もいます。

教会に出席する事が、礼拝に参加することが イコール “天国への保証” ではないです。


天国から拒否される人は、信仰をごまかしながら生きる不正を行う者です。

主は不正を行う人を羊とは呼ばないです。


本人たちが いくら「羊です」と主張しても、主の目にはヤギに見えます。

その人の姿が主に似ていないからです。


羊は主の所に入りますが、ヤギは外に追い出されます。


自分のことを てっきり羊だと思っていたヤギは、外に出されてから やっと自分の姿に気付き びっくりして必死でした。

それまではヤギとして形式的な信仰生活をした人たちが、死にもの狂いで「ご主人さま。開けてください」と必死に戸を叩くようになると、イエス様は話しました。


その時、外の暗闇に追い出された人にあるものは恐怖と絶望です。


必死に主の名を呼んでも、一度閉められた戸の向こうから聞こえてくる主のことばは、「知らない」という冷たい言葉だけです。
そのことに耐えられますか?

一度想像してみて下さい。それがもし自分だったならばと――。




不法をなす者たち




【マタイの福音書7章21-23節】

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

不法をなす者とは どのような人でしょうか。


真理を知っていながらも、真理通りに生きることをしない人たちです。


みことばを聞きながらも行わず、砂の上に自分の家を建てる人です。

主を信じると言いながらも、不法をなす者が大勢いると言われましたが、実際大勢います。


信仰の形はありますが、御言葉よりは自分の思いのままに生きています。

そのような人に対して次のように語りました。


【マルコの福音書7章6節】

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

これは神と人を騙している信仰の姿であり、偽りで信仰告白する人の姿です。

そして、偽宗教指導者が不正をなす者たちのことで、自分を偉大な主のしもべだと思って、人の上に君臨する指導者たちです。


自分が主の名によって力ある働きをするので、それに酔って、態度が高慢であったり、人を利用したり、また貪欲であったりと悪い実を結ぶと、主はその人に向かって 「不法をなす者。わたしから離れて行け。」と言います。


今は立派な働きのように見えても、いつか捨てられる時がきます。

そして、まことの羊飼いであるキリストに従わないで、悪い偽者の牧者に従っていく人々も 不法をなす者なので、主は “彼らを知らない” と言います。


異端の教祖、自分を再臨イエスという人間について行く者に対しても、主は「知らない」と言います。

主が再臨してもないのに「再臨した」と言うことが間違っているのに、多くの人が惑わされています。


また口では自分は神の子どもと言いながら、行動においては主のことばに耳を傾けないで、従順しない人に対して主は 「知らない」と言います。




油の備えが出来てない人




花婿を迎える10人の娘のたとえがあります。


【マタイの福音書25章1-12節】

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

  • 10人の娘 → “聖徒”
  • ともしび → 聖徒たちの “信仰の姿”
  • 油 → 信仰を維持させる “聖霊”
  • 花婿 → 再臨する “キリスト”
  • 夜中 → “罪が満ちた時 を意味する”

花婿が迎えに来た時間は夜中でした。

油の用意をしなかった愚かな5人は、残念ながら婚礼の祝宴に入ることも出来ず、花婿であるキリストに会う事すら出来ず、花婿から「知らない」と言われましたが、なぜでしょうか。


信仰の形はありますが、信仰を維持させる聖霊の働きがない信仰だったからです。

形だけの信仰は、主に喜ばれる信仰ではなく、それは死んだ信仰です。


生きた信仰は、聖霊の助けによって 神が喜ぶ聖霊の実を結ぶことが出来ます。

そして日々聖霊の導きを受け、主の再臨を準備するために目を覚ましていますので、油の備えがあります。


「いつか用意します」では遅いです。
いつまでも恵みの日が続くのではなく、いつまでも救いのチャンスがあるわけでもないです。

そして、いつまでも神様が忍耐していることもないです。


罪に満ちた世界は裁かれ、そこに残された人々が苦しみを受ける時がきます。


“実” のない信仰生活がその時、自分のいのちを救うことは出来ません。


いくら主を知っていると叫んでも主はあなたを知らないと言います。

主の基準で、私たちの行動が不正、不法であるかによって運命が変わります。


形だけのクリスチャンであった大勢の人が その時には慌てふためきます。


必死になりますが、戸が閉められてからは、すべてが終わりです。

いくら叩いても一度閉められた戸は開かれません。






いま神に逆らう人間が作る秩序が世界をどんどん支配しています。


罪が罪ではなく、真理を行うことが罪に定められるという おかしな時代になりました。

これは裁かれたソドムの時代や、ノアの時代と同じです。


ですから主は 「目を覚ましていなさい」 と警告しています。

最近、日本では大雨や台風に対して 「各自しっかりと対策してください」 と よく聞かれるようになりました。


国だけでは守ることが出来なくなったからです。

それと同じで、準備をしっかりしていないと後で大変なことになります。


目を覚ましていることは具体的にどういうことかを聖書から学びます。


【ローマ12章11節】

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

【ヘブル10章24-25節】

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

【ヤコブ5章8-9節】

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

【第1ペテロ4章7-8節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

世の終わりの姿は、政治・経済・社会などよりは、人々の姿に一番現れています。


どの時代にも 神の裁きは人間が堕落し、神に逆らい、愛が冷め、罪が満ちた時に起こりました。

自分が自分の身に裁きを招きます。


しかし知恵ある人は、万物の主を恐れ、その秩序を守り、時代を分別し、信仰によって備えをします。

いつも伝えていますが、形だけの信仰、眠っている信仰、不従順の信仰が自分を守ることは出来ないです。


「自分は大丈夫だ」 という安心感ではなく、危機意識が必要です。
( ̄‥ ̄)=3

2015.10.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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