からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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救い主

イエス様はありのままのあなたを待っている

テーマは 『 イエス様はありのままのあなたを待っている 』 です


今日はサマリヤの女の人とイエス様の会話を通して、イエス様がどんな方であるかを見ていきましょう。


【ヨハネの福音書4章1-8節】

イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、

──イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが──

主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。

しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。

そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。

ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。


ガリラヤに向かうためには2つの行き方があり、少し遠回りにはなりますが、サマリヤを避ける道か、そのまま直接サマリヤを通る道のいずれかがあります。


イエス様は後者のサマリヤを通る道の方を選びました。

これは、ただ単に近道だからということではなく、イエス様にはある大切な目的があったからです。



ヤコブの井戸で一人腰をおろして、誰かを待っていました。


それは、サマリヤの女の人でした。

この女性は第六時、つまり、昼の12時頃に一人で水を汲みに来ました。


その当時、水を汲みに行く時は、こんな暑い時間帯ではなく、朝の時間帯か、日が暮れ始めて涼しくなった夕方頃に、女性たち何人かで行くのが普通でした。


しかし、この女性は誰も水を汲みにいかないような時間帯に一人で井戸に行ったのでした。

そのサマリヤの女性にイエス様が話しかけたのです。



【ヨハネの福音書4章9節】

そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──


その当時、ユダヤ人は サマリヤ人を汚れていると思い、サマリヤ人とは関わらないようにしていました。

また、サマリヤ人が売る食べ物は、基本 乾物以外は汚れていると思っていたので、サマリヤ人から食べ物を買うこともほとんどありませんでした。



そんな中で、イエス様は自らサマリヤ人の女性に声をかけ、それだけではなく、『水を飲ませてください』と言ったのです。


普段 周りの人、特にユダヤ人たちは 自分のことを汚れた人と思っているのに、イエス様はそんなユダヤ人とは違って汚れているはずの自分に話しかけてきたので、女性はびっくりして、その理由を聞きました。



【ヨハネの福音書4章10-15節】

イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。

あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」


イエス様は女性の質問に対し、なぜ飲み水を求めるのかについては答えず、イエス様自身がどういう方であるかを この水を通して語り始めました。



イエス様が話しているのは、物理的に体、のどを潤す飲み水のことではなく、イエス様ご自身のこと、生ける水、つまり “心と魂の渇きを満たす水” のことを この女性に紹介し始めました。


しかし、この女性はその意味がわからず、それでも喉を潤す水がもらえると思い、イエス様にそれを求めました。



【ヨハネの福音書4章16-18節】

イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。

あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」


この女性がイエス様の言っている言葉の意味を取れなかったので、イエス様はこの女性が触れたくない、知られたくないと思っている自分の恥ずかしい部分について敢えて話し始めました。



それは、この女性が本当に必要なのは、喉を潤すような水などではなく、心の飢え乾き、恥ずかしい、隠したいと思っている罪の姿を敢えてさらけ出し、それを知っている上で受けとめてくれ、声をかけてくれ、その心を潤せるイエス様自身であることを悟らせるためです。



【ヨハネの福音書4章19-26節】

女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。

私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」


イエス様はさらにこの女性との質問に答えることで、自分自身が誰であるのか、また、この女性がサマリヤ人であることは関係なく、一人の人として、神様、御父を霊とまことによって礼拝することができること、そのような礼拝者を神様は求めていることをこの女性に伝えました。



イエス様自身がメシヤであり、救い主であり、唯一 心とその魂を満たすことができる方です。


たとえ周りの人や自分自身が自分のことを汚れていると思っていたとしても、イエス様は逆にそのような人に自ら近づき、声をかけ、きよめて癒そうとしてくださいます。



その人、一人一人の恥ずかしい部分、罪の部分もすべて知っている上で、その人のことを待ち、その人を赦し、きよめて、その心の渇きを満たそうとしてくださっているのです。

それが、イエス・キリストなのです。


【ヨハネの福音書4章27-29節】

このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。

女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。

「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」


ここで、女性が取った行動は、自分がそれまで必要と思っていた水、肉的に満たしてくださるもの、水がめを置き、自分を嫌っていた人、自分のことを避けていた人々に向かって言って、イエス様がキリストであることを証しに行ったのです。



それまでは、人々になるべく会わないように、みんなが水を汲みに行く時間帯はあえて避け、一人でひっそりと行動していたのに、この時はイエス様に会えた感動、イエス様がどんな方であるのか、またすべてを知っている上でそれを受け止め、自分と話をしてくれ、自分のありのままの姿を受け止めてくれたこのイエス様について、どうしても他の人に伝えたくて 水がめを置いて人々にイエス様の証をしたのです。



【ヨハネの福音書4章39-42節】

さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。

そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。

そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。

そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」


この女性の証が周りの人、多くの人の心を動かし、イエス様の救いに導き、それだけではなく、この人々自身もただ聞いた話だけではなく、自分自身もイエス様のことを体験することで、心からイエス様を救い主だとして信じ、受け入れたのです。


イエス様の姿、イエス様がどんな方であるかを知ることによって、自分の魂の救いを得、心の渇きは満たされ、それだけではなく、この生ける水を周りの人々にも流して救いに導いていったのです。




イエス様はこのように、私たちが自分でも気づいていない、逆に気づいてはいるけど触れられたくない心の傷、渇き、寂しさ、痛み、むなしさを私たちよりも関心を持っておられ、その飢え乾きを満たしたいと私たちを待っておられる方なのです。


私たちの汚い姿、罪の姿、弱い姿、隠したいところさえもすべて知っている上で、それを受け止め、赦し、愛し、救い、満たしてくださる方なのです。



イエス様はあなたと話すために待っておられます。


あなたの心の必要、本当の必要を満たしたいと思い、待っておられるのです。


アーメン (*´ -`)(´- `*)


2022.12.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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救いの真理

テーマは 『 救いの真理 』 です

【エペソ2章1-9節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。


『あなたは救われましたか?』 と聞かれたら、どのように答えますか?

自分をクリスチャンだと思っている人は、すぐに『救われました』と言わないといけないです。


『救いとは何ですか?』と聞かれたらどう答えますか?

救われたならば きちんと説明をしないといけないです。



救いとは、イエス・キリストを信じ、受け入れる時に神の賜物として受けるものです。


救いは、人にとっていのちと同じです。

救われることによって得るもの、変わるものがあります。


  • 罪過の中で死んでいた者がイエス・キリストによって永遠のいのちを得ます
  • 罪の赦しを受けます。そして義と認められます
  • 聖霊を受け、聖霊の証印が押されます
  • 生まれ変わり、神の子どもになります
  • 天国の民になります


このように救いの中には霊的祝福がたくさんあります。


このような素晴らしい救いを受けたい人は、聖書の真理を信じないといけないです。

次のことを信じていますか?



『神は創造主であり、今も存在している方、イエス・キリストは神の御子で、罪のない方であること。

十字架の上ですべての罪人のために代わりに死んだこと、そして三日後によみがえり、再び来られる方であること。


聖書は神のことばであること、キリストだけが唯一の救い主であること、また良い行いや人間の努力だけでは天国には入れない』 ことを信じないと、救われたとは言えないです。





なぜ救いは必要か




1.すべての人間が “罪人” であるからです


【ローマ3章10節】

「義人はいない。ひとりもいない。


【ローマ3章23節】

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、


自分に対してどのように思っていますか?


『罪人だ。罪を犯したことがない。良い人間だと思う。良心的に生きている。』






2.死んだ後にさばきがあるからです


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、


これは神が人間に対して定めたことです。


しかしあなたは死後に対して どのように思っていますか?


  • 神のさばきがある
  • すべてがすでに終わった
  • 死んでみないと分からない
  • 考えたことない





3.罪に対する厳しい報いがあるからです


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。


ここで言う「死」とは、“第二の死” と言われるものです。


【ヨハネの黙示録21章8節】

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」


地獄で永遠に燃える火の池の中で苦しみ続けるのが 「第二の死」 ですから、神様は誰ひとり第二の死を受けて苦しんで欲しくないので、『みんなが救われて欲しい』 と願っています。



愛の神様は、罪人たちにその愛を実際に見せました。

その愛を知ることが出来るならば、救いを受けるために主を信じるでしょう。


【ローマ5章6-9節】

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。





4.どのような人が永遠のいのちを受けますか?


【第1ヨハネ5章11-12節】

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。


救いを受けるのは、死んだ後では間に合わないです。

救いは生きている時だけに限られてあります。


もしこの内容を読んで、救いを受けたいならば、イエス・キリストを自分の救い主として信じて、口で告白して下さい。


【ローマ10章9-10節】

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2022.7.24
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新しいぶどう酒は新しい革袋に

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【マタイの福音書9章14-17節】

するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。

また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」


先週は『新しいことをする神様』に対して話しました。


救い主イエス様が地上に来られてなさったことはすべて新しいことでした。

それに対して、当時の人々もびっくりしました。


新しいことが好きな人には魅力的に見え、古いものに固執する人には目障りで、疑い深い人は戸惑いと疑いの気持ちが出ました。

ある者たちは受け入れずに惑わす者、悪魔だと非難しました。


救い主が来たのに、自分たちの古い考えで受け入れることが出来ず、救いのチャンスを逃しました。




しかし心を開いた人たちは 主から新しい恵みを受け、救いを受けました。


本文は特に神の選民であり、神様から律法を受けたユダヤ人に主が聞かせたいことばでした。

今も主にはその思いがあると思います。


相変わらずユダヤ人は古い革袋から抜け出ずにいます。


本文の前には色々なことがありました。

中風の人の癒し、罪の赦し、レビが選ばれた場面、罪人たちとの食事、断食のことなど、それを問題にしたパリサイ人たちが反論しました。




彼らの目にイエス様は律法破りの不敬虔なとんでもない人に見えました。

理解出来ない人に見えました。



自分たちは律法を落ち度なく必死に守っているのに、イエス様や弟子たちはそれらを平気に破っているので許せなかったと思います。


当時、宗教熱心な人たちは みんな律法主義者でした。

文字通りに律法を守り、そして聖書にも書いていない制度や形式まで作ってそれを守り、また人々にも要求しました。


守っている自分たちは義人で、守らない者は罪人だという基準も決めていました。



ですから自分たちの基準とまったく合わないイエス様を受け入れることは出来ませんでした。

イエス様の行動を見るたびに『なぜ』という思いをいつも持っていました。


パウロも元は誰よりも律法に熱心な者でしたので、イエス様に敵対しました。

消すべき人物だと認識していました。


彼らはみな古い契約に縛られ、古い革袋から抜け出ずにいました。








古い革袋は旧約です。

古いぶどう酒は動物の血です。


新しい革袋は新約です。

そして新しいぶどう酒は、新しい契約の血であるイエス様の血です。


古い契約はモーセの律法で、新しい契約はキリストと御霊の原理です。


旧約ではみんな律法の下にいましたが、キリストが来られてからは 律法の下でなく、いのちの御霊の恵みの下にいるようになりました。



【ローマ7章6節】

しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。


古い文字は律法のことです。

律法に縛られて、救い主を知ることも出来ず、迫害したパウロがそのまま生きていたならば、彼は神の国に入ることは出来なかったと思います。


本人は天国に間違いなく入ると思っていたでしょう。



ですから救われた後に、自分が固執していた古い革袋を思い切り捨てました。

そして新しい革袋に新しいぶどう酒を入れる生き方に変えました。


イエス様が十字架にかかって血を流したのは新しい契約のためでした。



【ルカの福音書22章20節】

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。


ぶどう酒の意味が『わたしの血による新しい契約』の意味で使われています。

またその時にこのようにも言われました。



【マタイの福音書26章28-29節】

これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」


この地上では新しい契約のために主は血を流しました。

そして主が聖徒たちと共に新しいぶどう酒を飲む日が来ることも話して下さいました。


聖霊がすべての人に注がれることを意味するでしょう。


新しい契約によれば罪の赦しは行いでも動物の血でもなく、『 キリストの血 』 によります。








また新しい革袋は、教会の姿です。

決められた場所でしか礼拝をしなかった人たちが、霊とまことによって礼拝するようになったのもイエス様によるものでした。


古いものに執着するのではなく、福音の信仰、新しい教理、新しい思想、新しい生活様式に変えることです。


形式的に行われることを主は忌み嫌います。

律法の中にある神のみこころを悟ってみことばを行わず、形式的にみことばを守ることが間違いです。



人に見せるためではなく、神に見せるためにするのが福音の信仰です。


新しい革袋に新しいぶどう酒を入れる生活は、イエス様のように自分の十字架を負い、イエス様のあとに従う生活です。



自分の古い考え、自分のやり方、自分の経験ではなく、神のみこころを知り、みこころに従って歩むならば古くなることがないです。

日々新しい生活が出来ます。


新しいものをいつも入れると いつも新しくなりますが、古いものを手放さず、新しいものを拒むならば、その状態は古臭いものになります。




新しいことをする神様を経験するためには、新しい革袋ではないと無理です。


古い革袋のままの人は イエス様を知ることも救いを受けることも出来ないです。


新しい契約を信じないと永遠の命も天国も失います。

残念なことです。


アーメン (・∀・)つ


2022.4.8
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メシヤの受難と勝利

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【イザヤ書53章1-12節】

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。


イザヤ書53章は、メシヤであるイエス・キリストの受難の預言が 一番具体的に書かれてあります。


イエス・キリストが受けた受難を思いながら読むと、説明が要らないほど具体的です。

そのままでもメッセージになります。


この預言は メシヤが来られる700年前に預言されましたが、まるで現場を見ているようです。



メシヤが地上に来られた目的は一つだけでした。

罪人である人間を贖うために 自分が贖いのいけにえになるためでした。


誰も予想出来ない神の計画でした。

聞いても理解する者はいませんでした。



人々は神が示したメシヤではなく、自分たちが考えたメシヤを待っていました。

人間が期待するメシヤとは ヒーローのような存在で、突然現れて悪人たちを一瞬に打ち破って困った自分たちを助けてくれる力があり、格好良いメシヤでした。


ですから似ても似つかないイエスという人が自分のことをメシヤと言ったので疑い、拒否しました。


田舎出身で、学歴もなく、貧しく、みすぼらしく、見とれるような姿も、輝きも、見栄えもしない人をメシヤとして信じることは無理でした。

期待を裏切ることなので拒否しました。


奇跡を行ってもそれはサタンの力だと言い、メシヤと認めず、苦しめ、十字架につけて殺しました。






人々を惹きつけるヒーローのような姿で来たら良いのに、なぜ神はみすぼらしい姿のメシヤを遣わしたのでしょうか。


神は、人が見た目を重視することを知っていました。

目の欲があるからです。


ですから敢えてメシヤを、人目を惹くような姿ではなく、信仰がないと信じることが出来ない姿、神のことばを正しく知らないと受け入れることが出来ない姿にしました。


メシヤは人気を得るためのヒーローではなく、罪人たちを救うために犠牲のいけにえになる小羊としての働きをするために来られました。



自分自身を徹底的に低くした理由は、私たちへの愛でしたが、人々の目にはその愛が見えませんでした。


外見だけを見てつまずきました。

今も十字架のキリストをそのような目で見る人々が大勢います。


ですからペテロはこのように注意を与えました。


【第1ペテロ3章3-4節】

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。


イエス様の内面を見た人はメシヤとして受け入れます。

主の成長の過程や生涯、そして主が受けた受難とみことばによって見るならば、救い主であることが分かります。


キリストが受けた苦難はすべて、罪を犯した私たちのためでした。


【イザヤ書53章8節】

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。


【第1ペテロ2章24節】

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。


罪を犯した人間は、罪の代価を払わないと永遠の死です。


しかし、人間には罪の代価を払うものを持っていないです。


ですからキリストが来られ、ひどい苦しみを受けながら十字架にかかり、血を流して私たちの代わりに罪の代価を払って下さいました。

それを知って自分の罪を告白し、主からの救いの恵みを求める人は罪赦されます。


【マタイの福音書20章28節】

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」





サタンは人間が罪のまま死んで永遠に滅びることを願っています。

しかし神は 人々を愛するので、すべての人が罪から救われることを願ってキリストを通して、罪の代価を払って、救いの道を完成しました。



完成された救いのわざを信仰で信じるならば、永遠のいのちがある神の御国に招き入れられますが、罪のまま死ぬならば、永遠に地獄で苦しみながら罪の代価を払わないといけないです。


救いの恵みはずっと続くことはないです。

サタンもそれを知って、人間が救われないように不信仰の心を与えています。


死んだら無になることは絶対にないです。


キリスト教は、自分の行いによって天国に入るために頑張るのではないです。


いくら良い行いをしても罪は消えないです。


キリストによって すでに完成された救いのわざを 信仰によって受け入れる時に 罪赦され、キリストの恵みによって天国に入ります。


みなさんは救われていますか?

それとも  まだですか。


救いを受けてほしいです。


アーメン (・∀・)


2021.3.28
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キリストの犠牲、死、復活の預言

テーマは 『 キリストの犠牲、死、復活の預言 』 です

【ルカの福音書18章29-34節】

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、

この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」

さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。

人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。

彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

イエス様が地上に来られた目的は色々ありますが、目的の一つに神のことばを教えることが入ってありました。


主の教えはそれまで聞いたことのない驚くべき教えでした。

人々は権威ある教えと感じました。


聞く耳がないと何一つ悟りませんが、聞く耳があるならば、悟ることが出来、主のことばはいのちのパンになります。



福音書の中に真理の教えがたくさんありますが、今日の本文では一つの教えと二つの預言があります。


まずは “犠牲” に対する教えです。


主ご自身が最大の犠牲を払って人間となって地上に来られましたし、また大きな犠牲を払うことがこの時予定されてありました。

十字架の犠牲です。




犠牲に対する教え




犠牲は必ず行動が伴います。

行動が伴わない犠牲はありえないです。


私たちが主に従って行こうとする時には、必ず犠牲が必要になります。


主に従うことは、この世の流れに逆らうことになりますので、その時に犠牲が必要です。


手放さないといけないもの、離れないといけないもの、優先しなければならないものが出て来ます。

決断して行動する時に犠牲が出てきます。




キリストの死と苦難の預言




キリストが死ぬことは旧約時代から預言者を通してずっと預言されていました。


ですからイエス様は自分がどんな苦しみを受け、死ぬかを詳しく知っていました。

旧約聖書での主の預言です。


【イザヤ書53章3節】

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

【イザヤ書53章7節】

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

【イザヤ書53章9節】

彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

【詩篇22編16節】

犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。



キリストの復活の預言




【詩篇16編10節】

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

イエス様ご自身も復活に対して前もって預言しました。


【マタイの福音書16章21節】

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

【マタイの福音書17章23節】

そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」

【マタイの福音書20章18-19節】

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。

そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」


このようにキリストに対する預言は、すべて正確に成就しました。

もし預言と間違ったことが起こったならば、イエス様はメシヤではありません。


しかしすべて預言通りになりましたので、イエス・キリストはメシヤです。

これを否定する人が間違えています。


預言と一致した方はイエス・キリストしかいません。

この方が罪人たちを救うために来られた救い主です。


信仰をもって信じて救われますように。
アーメン ( ̄ー ̄)


2019.3.31
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2つの顔を持つキリスト

テーマは 『 2つの顔を持つキリスト 』 です

【イザヤ書9章6-7節】

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

“ 2つの顔を持つ人” と言われると、何が思い出されますか?


私はジキルとハイドのことを思い出しました。

小説に登場する人物で、二重人格で善人と悪人の顔を持っています。


イエス様にも2つの顔がありました。

善人と悪人ではなく、“ 神と人間 ” という まったく異なる性質を同時に持っていました。


イエス様が誕生する700年も前に、神は預言者イザヤを通して、メシアの預言をしました。

そのメシアがイエス・キリストですが、神はイザヤを通して2つの顔を持つ異なるメシアを紹介しました。



これを知らないと、イエス・キリストを理解することは出来ません。

また理解するならば、イエス・キリストがまことのメシアであることが分かります。




神の顔を持つイエス・キリスト




今日の本文が、神としてのイエス・キリストを紹介しました。


「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」
そして「主権、王座、王国」などは神としてのキリストの姿です。

これは人間ではなく、神の性質をもって来られたキリストを語っています。



神としてのキリストを 誰よりもよく知っていたのは悪魔でした。


悪霊に取りつかれて墓場に住んでいた男がイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言いました。


【マルコの福音書5章7節】

「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」

誰もその人から悪霊を追い出すことは出来ませんでしたが、悪霊はイエス様を見るなり、その前にひれ伏しました。



イエス様には 悪霊を制する力があることを知っていたからです。

悪霊は、霊の存在である神を知っています。


悪霊までもがイエス様が神であることを認めました。

そして病人を癒したり、様々な奇跡を行う姿を見て、人々はイエス様が神であることを知りました。



次の箇所にはイエス様の2つの姿を明確に教えています。


【ピリピ2章6-8節】

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。



人間の顔を持つイエス・キリスト




次に、神がイザヤ預言者を通して語ったキリストの姿は、人間の姿です。

それも、苦難を受ける人間の姿です。


イザヤ書53章全体は人間として生まれ、人々から のけ者にされ、痛めつけられ、苦しみを受けるキリストの姿、すなわち十字架の苦しみを受ける姿が預言されてあります。


主のために道を備えたバプテスマのヨハネも、イエス様を見た時に言いました。


【ヨハネの福音書1章29節】

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

なぜ神であるイエス様が人間として生まれ、十字架の苦しみを受けなければならないのか、その理由は世の罪を取り除くためでした。



次の箇所にはキリストについて詳しく書かれてあります。


【第1ペテロ2章22-24節】

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

キリストが人間にならなければ、人間の罪を その身に負うことが出来ないので、人間の姿になりました。



人類を罪から救うためには、誰かが代価を払わなければならないのに、すべての人類の中で それを出来る者が存在しないので、神はひとり子を人間の姿にして地上に送り出しました。


ですからキリストが十字架にかかり、救いの計画を成し遂げた時に、「完了した。」と宣言しました。



神の救いの計画は、
イエス様が2つの性質、すなわち神の性質と人間の性質を同時に持っていたからこそ出来たことです。


神だけであっても、人間だけであっても、それは不可能でした。

ですから人間の顔しか持っていない者が、「自分は神である」と言っても、それは嘘です。



しかし神の性質を持っている方が、神と言ったらそれは嘘ではないです。


イエス様に対してはこのような証言もありました。

キリストの十字架の死を誰よりも近くで見た者たちの証言です。


【マタイの福音書27章54節】

百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことの神の子であった」と言った。

救い主として世に来られたイエス様に出会い、その救いを受けた人は幸いな人です。



救われずには誰も天国に入ることも、永遠のいのちを得ることも不可能です。


まだ出会ってない人は 必ず救い主イエス・キリストに出会って、魂が救われますように。
アーメン (・∀・)つ


2018.12.23
クリスマス礼拝メッセージ

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キリストの十字架がどう見えますか

テーマは 『 キリストの十字架がどう見えますか 』 です

【第1コリント1章18-19節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

4つの福音書には 十字架につけられたイエス様の姿がありますが、皆さんはその姿が想像出来ますか?

ムチ打たれ、いばらの冠をかぶっている姿を想像しますか?


私たちがどんなに想像しても、当時のイエス様の姿とは かけ離れています。


ある人が幻の中で十字架につけられたイエス様を見ました。
そして大きなショックを受けました。

それは自分の想像をはるかに超えた悲惨な姿だったからです。


ローマの刑罰で十字架につける犯罪人は、まず鞭打つことが慣例でした。

堅い皮のムチは先端だけが分かれていて そこに尖った鉛をつけて打つので、それが体をひどく傷つけるため、十字架につけられる前に死んでしまうこともあると言われています。


力強い兵士たちが 犯罪人を裸にして何十回も打つので、肉は全部裂かれ血が飛びます。


幻を見た人は、ムチ打たれて裂かれた体の部分がまるで線を引いたような模様になり、その傷は深く、骨まで見え、全身 血だらけで人間とは思えない姿であったと言いました。

あまりにも悲惨な姿で そのような姿は映画でも見たことがないと言っていました。


その姿を見た人たちに「この方は救い主で、あなたの罪のために十字架につけられて死にました。ですから信じて救われなさい。」と言うと、人々は首を横に振って信じませんでした。


「あれは犯罪人だ。神ではない。あんな悲惨な死に方をする者が救い主なわけがない。」と受け入れません。


現代人よりも、その時代の人々の方がもっと信じませんでした。

その姿を目の前で見ましたので、ほとんどの人が十字架につまずいてしまいました。

弟子たちは一生懸命に キリストの十字架を伝えました。


福音は キリストの十字架が核心です。


ですから伝えるメッセージも簡単で、“キリストの十字架の死と復活” でした。

『 十字架につけられて死んだ この方が人類を救うメシヤであり、王の王、主の主です。』 と福音のメッセージを伝えましたが、そのメッセージはユダヤ人だけではなく ギリシャ人にもローマ人にも受け入れ難いメッセージでした。


ローマ人の立場から見ると、十字架は 犯罪を犯した奴隷が 悲惨な死を遂げたことなので、救い主と認めることはナンセンスでした。


ギリシャ人は 常に理性的、哲学的知恵を追及しているので、野蛮な方法である十字架刑で死んだ者が 人類を救うことなどあり得ない と思っていました。


ユダヤ人は メシヤがそんな方法で人類を救うことが出来ないから、メシヤである証拠を求めました。

十字架から降りたら信じるとも言いましたが、(イエス様が)降りずに死んだので、メシヤとして認めることは出来ないと思っていました。


“十字架の上で死んで人を救う” ということが、彼らには愚かに見えました。


福音を伝えると必ず人々がこのような反応を見せるのでパウロは今回のテーマ箇所のように語りました。


【第1コリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

現代の人々はどうでしょうか?
昔とあまり変わらないです。

なぜ十字架に対する人々の反応がこんなに固いものでしょうか。


人々は何に憧れ、何を求めますか?

それは 強いもの、美しいもの、良いもの、魅力的なもの、知的なものです。

つまり苦難と苦痛、犠牲を避け、快楽を求めます。


しかし キリストの十字架は、何一つそれに当てはまるものがありません。


十字架を見ると、弱さ、惨めさ、辛さしか見えませんので、何ひとつ魅力的な姿がありません。


イザヤ書にキリストの姿が預言されています。


【イザヤ書53章1-3節】

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

人間の目には、魅力的な姿ではないと預言されています。

これがイエス様の時代や現代でも 十字架が拒まれる原因になってあります。


十字架が現代人の知的欲求、政治的欲求を満たすことも、個人の欲求を満たすことは出来ないです。


ですから「十字架にかかったキリストを信じなさい。」と言われても、それを認め 受け入れることが難しいです。


もし、キリスト教がキリストの十字架を伝えないで 道徳や倫理、愛、施し、正しいことだけを伝えるならば、もっと多くの人が気軽に受け入れると思います。


しかし“キリストの十字架が抜けた キリスト教”は、もはやキリスト教ではないです。






最近、韓国でも教会や伝道する時に キリストの十字架や罪、悔い改め等をほとんど言わず、祝福、恵み、癒し、繁栄のメッセージだけを伝える傾向が強いと聞きました。

それは人々が望むメッセージです。


伝道する時も、教会にはどのような娯楽施設があるか、サークルやイベントなどを宣伝して人を集めていると聞きました。


しかし初代教会の時代は “キリストの十字架”がメインでした。

パウロはキリストの十字架以外は語らないと宣言しました。


“キリストの十字架” に戻らないと、教会は堕落します。


どんなに人が集まっても、主は その教会を “死んだ教会゛ と言われます。


キリストの血なしに罪の赦しはないですし、救いもありません。


神を喜ばせないで 人を喜ばせるために、人々の負担になり、魅力的でないキリストの十字架をいつの間にか後ろに隠して、人々の耳に良い話だけをして 人の数を増やそうとします。


人の目には たくさん人が集まって成功しているように見えても、神の目には堕落した教会の姿でしか見えないです。


人間的な方法や やり方で人間の罪の問題が解決されますか?

人間がどんなに優れた知恵を持っていても、科学がどんなに発達しても解決出来ず、ますます増えていくのが “罪” です。


哲学者や政治家、心理学者も、罪の問題に対して解決策を出した人は1人もいませんし、宗教家たちも解決方法を提示した人は1人もいませんでした。


私たち人間の罪を解決できるのはイエス・キリストの十字架であることを認めなければなりません。


神の知恵である この“十字架” を無視して、人間の知恵だけに頼っているならば、罪の問題は決して解決されず、ますます罪によって 人類はさらなる悲惨な霊的状態になります。


イエス様は自分の十字架が人々を2つに分かれさせることを語りました。


本文にあったように、十字架を愚かだと思っている人は滅びますが、それを神の知恵、神の力と信じる人には救いがあると語りました。


【第1コリント1章23節】

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

十字架を見て救われる人もいれば、つまずく人もいます。


【ローマ9章33節】

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

イエス様はご自身のことを「つまずきの石、妨げの岩」と表現しました。

それはイエス様を受け入れるのが簡単ではなく、拒否感が出てきて負担になるという意味です。


しかし 神様の知恵と思って受け入れる人には決してつまずくことなく、救いの岩になります。


人間の知恵によって十字架を見た人は、みんなつまずきました。

しかし十字架を神の知恵による救いの方法だと信じて受け入れた人は救いを受けました。


どちらが愚かな人でしょうか?

人間の知恵に頼っている人でしょうか、それとも神の知恵に頼っている人でしょうか。


人間の知恵には限界があることを 謙遜になって認めなければなりません。

そして十字架の秘密を悟るのは、人間の知恵で出来るものでもありません。



キリストの十字架の秘密は、“神の啓示と聖霊による悟り”です。

キリスト教は、啓示の宗教です。
人間の知恵によるものではないです。


自分が努力して救いに至ることはないので、神によって提示された救いを信じて受け入れることです。


キリストの十字架を正確に理解するためには 神の恵みが必要です。

すなわち 悟りの霊が必要です。


聖霊に頼り、神の知恵を求めることです。


【第1コリント1章25節】

なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

( ̄ー ̄)

2016.3.20
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キリストの十字架

テーマは 『 キリストの十字架 』 です

ハレルヤ
今日も平安がありますように


カルバリの丘で キリストが十字架にかかった時に、多くの人々が集まっていました。


そこにはあらゆる悪い人々がいました。

十字架にかかって苦しんでいる主を見て、勝利を歌いながら喜ぶ者たちがいました。


そこには狡猾な者、罪悪に満ちた者、主に対抗する者たちが多かったです。

そして自分を正しいと思い、自己主張の声が大きかった者たちでした。


キリストを憎み、殺意を持っていた人たちがキリストを十字架につけました。

次の箇所に彼らの様子があります。


【ヨハネの福音書19章15節】

彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」 祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

その激し叫びに負けて、ピラトはキリストを彼らの手に引き渡しました。

殺人者たちの手に引き渡されたキリストは、あっという間に十字架につけられました。


十字架につけられたキリストを見る彼らの顔には、自分たちの思い通りになったことで、満足感と勝利に浸っていました。


そして苦しんでいるイエスに さらに彼らは「自分を救ってみろ」と嘲り呪いました。

良心の呵責(かしゃく)すら彼らは感じていませんでした。

皆、テロリストの姿と変わりなかったです。


別のグループの人たちがいました。


悲しみのあまり 声を出すことも出来ず、遠く離れて泣いている人たちがいました。


主から様々な恵みを受けた人たち、その恵みに感謝している人たち、主の苦しんでいる姿に心を痛めている人たちがいました。


彼らは何も言えず、黙って十字架のキリストを見ていました。

そして彼らは自分をキリストと共に十字架につけ、キリストと共に死にました。


キリストの十字架の前には、中間地帯がありません。

どちらにも属さないでいることは出来なく、ただの見物人で終わることは出来ません。


世の中のことは無関心であっても、それが罪に問われることは それほどないですが、人間を贖うために来られた救い主に対しては、神は「あなたはどちらにつくのか」と問われます。


今、あなたの前で「あなたの罪のために十字架にかかって苦しんでいる救い主を信じて救われたのか。それとも「こんな者は十字架につけろ」と 敵対する者になりたいのか」と聞いておられます。


私は十字架の主を、私の救い主として受け入れました。

皆さんはどうですか?
選ぶのはあなた自身です。
( -д-)ノ


2015.8.14
3分テレフォンメッセージ

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人間には救いが必要

ハレルヤ。
今日も主の恵みが皆さんにありますように祈ります。


キリスト教以外の宗教では、“人間に救いが必要”であることは教えません。


なぜならば その宗教を始めた人たちが、救いが何かを知らないからです。

罪が何なのかを知らない人たちには、救いの必要性もわからないです。


私たちがイエス様に出会うまでは、そのような状態の中にいましたので、そのことがよくわかります。


道徳的に問題がなく、良いことをすればいい所に行くとか、自分たちの教えをよく守れば天国に行けるとか、教祖に従えば天国に行けるとかを彼らは伝えています。

そして、それを信じている人も多いです。


救いと言うことばがあまり彼らには存在しないです。


自分たちが霊的に死んでいることはほとんどわからないからです。


聖書は、私たちに救いが絶対的に必要であることを教えています。


【箴言14章12節】

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

罪から来る報酬は死ですが、罪のことがわからないから良いことをすれば、それで(天国へ)生けると思って安心します。


そして、自分が進む道の終わりが死の道であることを知らないです。

ある意味 これほど悲惨なことはないです。


(自分が死んだら)天国と思って誰かに従い、教えられた通りに生きたのに、その最後が「死」、それも“永遠の死” であることは とても辛いことだと思います。


死んでから気づくことが さらに辛いですね。なぜならば その時はもう遅いからです。

やり直すチャンスが二度と来ないからです。


救われていない人々の状態は次の通りです。


【ローマ1章21-23節】


彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうものの形に似た物と代えてしまいました。

このような状態が典型的な罪人の状態です。


「人に悪いこともしていないし、犯罪も犯したことがないのに、何で私が罪を犯したというのか」と よく言われます。

しかし 罪の起源は、神を神としてあがめず、感謝もせず、信じない不信仰です。

さらに神でないものを神と呼び、拝むことです。

初詣で人々がやっていることがそうでした。


ですからイエス様はこのように言われました。


【ヨハネの福音書3章3節】

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

新しく生まれることは真の神を信じて救われることです。

罪によって死んだ霊が生まれ変わることです。


皆さんは本当に生まれ変わりましたか?

自分が罪人であることを認めましたか?

救い主イエス様を信じましたか?

罪赦されましたか?


これがないと天国には入れません。


生まれ変わることは、それを信じて救われたか ということです。
Σ(゚д゚;)


2016.1.11
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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