からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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救い

十字架につけながら生きる

テーマは 『 十字架につけながら生きる 』 です

ハレルヤ。

主の平安と恵みがありますように。


新約時代で、信徒たちが一番模範にして見習うべき人は 使徒パウロです。


新約聖書の多くの部分は使徒パウロが書きました。

聖霊が書くようにパウロを用いて下さいました。


キリストに出会って劇的に人生が変わった人です。

出会った瞬間から一直線にキリストを目指して走り続けた人でした。


主に対する愛はあまりにも熱く、その心はイエス様で満たされていましたし、自分の全人生を惜しまずに主にささげました。


彼ほど 主に救われたことに対して、価値を知る人はいないと思います。

私たちは あまりにもその価値に気付いていないですね。


【ルカの福音書9章25節】

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

全世界どころか、わずかなものに 自分のたましいを売る者が実に多いです。


クリスチャンは “救いの値打ち” が全世界よりも “上” であることを知らないといけないです。


パウロは主に出会って初めて自分が何者であるのかに気付きました。

それまでは自分を立派な者だと思っていました。


また、罪のない正しい者と思っていましたし、まともな者だと思っていました。

自己評価が高い者でした。


しかし主に出会って初めて “真の自分の姿” を見ることが出来ました。

そして びっくりしました。

とんでもない姿が そこにありました。


「私は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。私は罪人のかしらでした。(第1テモテ1章13節、15節)」

これがパウロの告白でした。


その後、彼の人生はどのように変わったでしょうか。

まず、パウロがしたことがありました。


【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

古い人を十字架につけました。

そして彼は その十字架を負いました。


“十字架を負う” ということは、情欲、欲望、貪欲、不義、妬みなど 人間の生まれながらの行為を十字架につけながら生きることです。


自分が誇りとしている すべてを捨てて、主を第一にすることです。


自分の十字架を負って生きているパウロの告白です。


【第1コリント15章31節】

兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

彼はどんなに苦しくても、自分の十字架を負って主に従って歩みました。


イエス様が死に至るまで父なる神に従順であったように、パウロも死に至るまでイエス様に従順な人でした。

一度もその心が主から離れたことがありませんでした。


イエス様に出会った後の彼は とても幸せでいのちに溢れ、いつも聖霊に満たされていました。

それがどんな苦難の中でも彼を勝利させる原動力でした。


この姿が私たちにも必要な姿ではないでしょうか。
(;´Д`)

2017.1.2
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖徒が逆戻りしてはいけないもの

こちらのメッセージは、シャローム松山教会で9月4日と11日の2週にわたり 語ったメッセージでしたが、八戸ノ里キリスト教会の信徒たちにも知らせたかったので、こちらに載せます。


テーマは 『 聖徒が逆戻りしてはいけないもの 』 です

【ガラテヤ4章8-11節】

しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。

あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。

天国を見た人たち、神の声を聞いた人たちが 共通して言うことばは、天国に入るクリスチャンが意外と少ないと言ったことでした。

何が原因でしょうか?


神の恵みによって せっかく救われたのに、神から離れて逆戻りした人がたくさんいます。

教会には来ていますが、なかなか前に進まない人たちもいます。


御言葉に従ったならば、進むことに問題がないですが、後ろを振り向いたり、逆戻りしたりするので、なかなか前に進めないです。

神の国に向かって進むために、私たちは 荒野でのイスラエルの民のように過ちを犯してはいけないです。

彼らは、神の力と奇跡を体験しながらも 荒野の途中で「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろうと。」と言いだしました。


時には「あの時は美味しいものが食べられたのに、今は何もなく このマナを見るだけだ」と、悪く言いふらしたので、神を怒らせました。

これは、“奴隷の生活に再び戻った方が良い” ということでした。

彼らの思いを神が知り、その結果、彼らは約束の地・カナンに入ることが出来ませんでした。


ですから逆戻りするならば、神から切り離され、神の国に入ることも出来なくなります。


再びサタンの奴隷に戻り、サタンとともに滅びることになります。


聖徒を逆戻りさせるものに何があるでしょうか。

まずは本文からみていきます。





無力、無価値の幼稚な教えに惑わされると逆戻りする




ここでいう教えは律法のことです。

律法そのものに対して非難しているのではないです。

律法は神からのことばですが、正しく解釈しないことに問題があります。


ガラテヤ教会の信徒たちが救われたのは、福音を聞いて救われました。

福音はイエス・キリストの十字架によって罪人が救われることを教えます。


彼らは十字架につけられたキリストに関する福音を聞いて救われました。

しかし、後から教会に入って来た律法主義者たちが 彼らを惑わし、律法を守らないと救いはないと教えました。

するとガラテヤ教会の信徒たちは、それを聞いて十字架の信仰から離れ、救われるために律法生活をし始めました。


キリストの十字架は罪から解放し、自由を与えます。


律法の下に入ることは 律法に縛られ、律法と罪の奴隷になることを意味します。


人間がどんなに頑張っても、律法をすべて守ることは出来ません。

ですから罪から自由になることも救われることも出来ません。


つまり 福音ではなく、律法を守らないと救いがないと言うのは、無価値で幼稚な教えになります。


信仰によって救われたならば、最後までキリストの十字架の贖いを信じて信仰で生きることです。

律法による救いの教えは間違っていますので、それに惑わされたらいけないです。





神の恵みに頼らず、律法による義に頼るならば逆戻りする




【ガラテヤ2章21節】

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

私たちが罪赦され、義人になるのは行いによるものではありません。


パリサイ人はそのことを信じなかったので、行いだけを強調し、イエス様と対決しました。

福音を彼らは認めませんでした。

しかし救いは行いによるものでないことを、次のことばがさらに明確にしてくれます。


【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

いつも恵みの中にとどまり、恵みに感謝して生きることです。





真理から耳をそむけると逆戻りする




【第2テモテ4章3-4節】

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

教会で聞きたいことばは何でしょうか?


耳に良いことばは世にはたくさんあります。

楽しいことばならば、テレビを観たらもっと聞くことが出来ます。


教会では真理が語られなければならないし、信徒たちも真理を聞きに教会に行かなければなりません。


真理は 教会以外の所では聞けないです。

教会まで来て、耳に良いことばだけを求めるならば、それはおかしいと思います。





世を愛すると、この世を求めて逆戻りする




【第2テモテ4章10節】

デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。

デマスは伝道者パウロと共に福音に献身した人でしたが、世を愛することを捨てきれず、途中でその働きから離れ、献身をやめました。

とても残念な人だと思います。

世を愛したために、永遠の命を失いました。


彼は後で自分の愚かさに胸を叩きながら後悔するでしょう。


肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に心を奪われると世に戻ります。





悔い改めないとサタンの支配に逆戻りする




サタンが一番力を発揮する時は、罪を犯した時です。

(その人の)闇が見えたらサタンはすぐに働きます。

闇のわざを悔い改めることもせず、罪の中に生きると再びサタンはその人を支配するので、以前よりもさらに悪い状態になります。


キリストを知らなかった人よりも、信仰から離れた人を取り戻す方が もっと難しいです。


サタンが心を支配し、そそのかして神への疑い、教会への不信感を植え付けて戻れないように邪魔をします。





キリスト教の初歩的な教えにとどまると逆戻りする




【第1コリント3章1-3節】

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

信じてはいますが、いつまでも霊的に未熟な人がいます。
その状態で満足します。


しかし成長しないことは後退することを意味します。


主を知ることを切に求めて、信仰が幼子→成人にならないといけないですし、肉に属する人→霊に属する人にならないといけないです。





救いのない むなしいものを追い求めると逆戻りする




【第1サムエル記12章20-21節】

サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。

役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。

偶像の神に力があるでしょうか?
救うことが出来るでしょうか?


真の神から離れてそういうものに頼ることは無知なもの、不信仰なものに逆戻りすることです。


誘惑されて再び偶像崇拝をしたり、占いをしたりすることへの警告です。

クリスチャンの中でも相変わらず以前の生き方をする人がいます。





神の対する不従順があると逆戻りする




従わないことは自分の思いのままに生きることであり、以前の生き方に戻ったことです。


不従順は神の権威に対して逆らうことです。


自分の思いを優先するために 不従順することは、神の権威を無視することです。

それに対して神は必ず懲らしめます。


【第1列王記9章6-7節】

もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、

わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。




善から悪に態度を変えると逆戻りする




信仰が良い時には神が喜ぶ善を行いますが、信仰がマンネリ化したり、弱くなると、肉の思いが強くなって、神が喜ぶ善ではなく、肉から出る悪が もっと活発に働くので 悪の実を結びます。


信仰生活に興味もなく、人にも無関心、肉の思いをそのまま生かすと悪い実を結びます。


【詩篇53篇3節】

彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。



しばらくあってそれから消えていくものを追い求めると逆戻りする




世にあるものに、自分のいのちを託して安心出来ますか?

それが永遠の命を保証してくれますか?


残念ながら世にあるものは、自分を完全に守ることは出来ません。


【ルカの福音書12章15-21節】

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」




不敬虔な道を歩むと逆戻りする




神のみこころに従って歩むことが敬虔に生きる道です。


その道から離れると不敬虔な者になり、汚れていき、古い人に戻っていきます。





昔の罪の行為を繰り返すと逆戻りする




悪い習慣、肉の欲を捨てることもなく、そのままにすると同じ罪を繰り返すようになります。


新しくなった人の姿ではありません。

そういう人の状態をこのように語っておられます。


【第2ペテロ2章22節】

彼らに起こったことは「犬は自分の吐いた物に戻る」とか「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。

アーメン (; ̄Д ̄)

2016.10.2
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の選びと召しの目的

テーマは 『 神の選びと召しの目的 』 です


【第2テサロニケ2章13-14節】

しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。

ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。

日本では春と秋に園遊会が開かれます。

天皇、皇后の招待によって、議会の議長、各界の著名人、功績者などが配偶者と共に招かれるので 2千人を超える人々が参加します。


誰でも招かれるのではなく、その時に活躍した人たちが招かれると思います。

招かれた時に、嫌がって断る人がいるでしょうか。

特別な理由がない限り断る人はいないと思います。


むしろ天皇、皇后からの招待だからこそ 光栄と思って喜んで参加するでしょう。


私が思うには まことの天の神に招待されることほど、この世で一番光栄な招待はないと思います。


その価値を知らない人はそうとは思わないでしょうが。


園遊会で天皇と会話をしている人たちを見ると、みんな緊張しているのが見てわかります。


救われた人が いつか天国で神と対面した時はどうでしょうか。

緊張よりは あまりにも嬉しくて言葉も出ないと思います。

想像するだけで心にこみあげてくるものがあります。


神様が私たちを特別に選び、召されるにはどのような目的があるでしょうか?


功績も活動もしていない者たち、罪と咎の多い者をなぜ選ぶのでしょうか。

この世では招かれることもない者たちを 神様が選び召される目的を、私たちは知る必要があります。


知らないと価値が分からず、感謝も出来ず、宝物を持ち腐らせる結果になります。


神様ははっきりとした目的をもって私たちを選んで下さいました。

今回はそのことを伝えます。




1.救いとキリストの栄光を得させるために




今回の本文に そのことが書かれてあります。


神様が私たちを選ぶ目的は たましいの救いを得させるためです。

このことは救われた人ならば皆が知っています。


救われないと誰も神の国に入ることは出来ません。

神の国に入る第一条件は “救われること” です。


神の恵みと福音によって罪人が救われます。

決して人間の努力や力で救いを受けることは出来ません。


神の真理のことばを聞いて 信仰で受け止める時に、神の恵みによって罪赦され、救いを得ます。


そしてキリストの栄光を得させるためです。

人からの栄光ではなく、神の栄光を与えて下さるために召して下さいます。


勝利の行列に私たちを入れて下さいますし、キリストの栄光も与えて下さいます。




2.完全な者、強い者、不動の者とするため




【第1ペテロ5章10節】

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

私たちをありのままの姿で選んで下さる神様ですが、ありのままの姿で生きるのではなく、新しい人にするように私たちを変えるために召して下さいました。

これは祝福です。


神にあって私たちは変わります。

それも弱い者ではなく強い者に、完全な者に変わります。

召しの目的です。




3.聖潔を得させるため




【第1テサロニケ4章7節】

神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためでる。



4.キリストの平和を与えるために




【コロサイ3章15節】

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

救われた人はイエス様によって神と和解した人です。


和解した人に与えられるのがキリストの平和です。

罪人にはこの平和がありません。




5.神のしもべとして用いるために




【ローマ1章1節】

神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、

召されたすべての人は しもべとしておのおの主から受けた召命があります。
忠実に従う時に、神は必ずその人に良い報いを与えて下さいます。




6.祝福を受け継ぐために




第1ペテロ3章9節】

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。

祝福を受け継ぐために召された人は、祝福の種を蒔かなければなりません。


悪を蒔いて祝福を願っても祝福はありません。
蒔いた種が悪いからです。

祝福の種を蒔けば祝福を刈り取ります。


神は このようにすべて良いものを与えるために 私たちを選び、私たちを召されます。


しかし、このことを どんなに人に話してもほとんどの人は関心を示しません。

目に見えるものではないと見向きもしません。

(その人たちは)人からの栄誉ではないと興味も示しません。


ある人は 「そんなものは要りません」 と拒否します。

ある人は知ろうとしません。

また 疑います。
「今は忙しいから いつか考えます」 と言って、神の選びと招待を断ります。


これは本当に愚かな選択だと思います。
自分の祝福を自分で断ることです。


偉い人の招待は 他のことを犠牲にしても喜んで応じる人が、神の招待だけは嫌って断る人が多いです。


このように素晴らしい祝福をどこで得られるでしょうか?

そして、すでにこの召しを受けた人は 召しにふさわしく生き、絶えず神様から受けた恵みに感謝して、さらなる祝福を神から受けましょう。
(・∀・)


2016.5.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私のたましいが神を待ち望む理由

テーマは 『 私のたましいが神を待ち望む理由 』 です

【詩篇62編1-12節】

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁が、ぐらつく石垣のように。

まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

圧政にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富はふえても、それに心を留めるな。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

2月5日、熱海発大島行きの高速ジェット船が クジラと衝突し、海上を漂流していましたが、海上保安部の巡視船が救助に向かって彼らを助けました。


74人が乗っていましたが、全員無事に助けることが出来ました。

クジラとぶつかって船がダメージを受けて漂流し始めましたが すぐに助けを求めたので助かりました。


最近ギリシャのエーゲ海では難民船が次々と漂流したり、沈んだりして多くの人々がいのちを落としています。


彼らがいのちを落としたのは、漂流しても助けを求めるところがなかったからです。

ですから、船に1つでも問題が起きてしまうと 助かることもなく、悲惨な結果に繋がってしまいます。
とても気の毒です。


助けを求めるところがあれば、多くの人が助かったと思います。


それを見ても、助けを求めるところがあるのと ないのとでは天と地ほどの差があります。

それで生死が決まってしまいます。


人生の海上で漂っている時に、助けを求めるところがある人は 本当に幸いです。


本文は、助けを求める所があったダビデの告白です。


助けを求めた後は、助けが来るまで じっと待つ姿が見られます。

これこそ神にすべてをゆだねている姿です。


さらにダビデは、自分がなぜ黙って、ただ神を待ち望むかについて語っています。




・すべての救いは 自分が待ち望む神から来る




この救いは、自分のいのちを狙う者からの救いはもちろん、たましいの救い、絶望からの救い、悪者からの救い、苦しみや患難からの救い、病気や痛みからの救いなども含まれた “すべての救い” です。


私たちが信じる神は “唯一の救い主” であるからです。


世界にはたくさんの宗教があり、「それぞれに救いがある」 と言いますが、まことの救いは、イエス様から来ることを知らないといけないです。


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、 私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

主は私たちの救い主です。

ですから苦しみに会った時には、人間的な方法や思いで救いを得ようとするのではなく、初めから絶対的な信頼を この神に置いて神に助けを求めることです。


これが救われる一番の近道です。

神様にすべての状況を話して 神の助けが来るまで神を待ち望むことです。


この詩篇を書いたダビデも、そのようにしていつも救い出されました。


彼は 救いを神に求めた後は、自分の信仰を次のように告白しながら保っていました。


【詩篇62編1-2節】

私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。



・すべての望みは 自分が待ち望む神にある




人間には様々な希望があります。

救いへの希望もあれば、叶えたい夢もあります。


しかし、人間の欲望が入った希望は むなしく終わることが多いです。


世にあるすべてのものを欲しいままに手に入れ、欲望をすべて満たしたソロモン王が告白したことばを聞いてみましょう。


【伝道者の書で1章14節】

私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。

欲望から出た人間的な望みは消えて行くものです。

自分の欲望によって 永遠の喜びと満足を与えることはないですが、聖徒が持っている望みは それとは違います。


聖徒にある “望み” とはなんでしょうか?


【箴言10章28節】

正しい者の望みは喜びであり、悪者の期待は消えうせる。

これは、消えることのない喜びです。


【箴言14章32節】

悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。

正しい者は、たとえ死の瞬間でも 神に信頼しているので、永遠のいのちへの希望があります。

“死者の復活” という望みがあります。


この望みほど素晴らしい望みはありません。

これは神の恵みによって与えられる望みです。


【詩篇62編7節】

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

この言葉は 私が辛かった時や、死にそうだった時、そして先が見えなかった時に、本当に力と希望を与えたことばでした。


よく このみことばを告白していました。

望みを抱いて忍耐しました。


他にも支えになったことばがあるので紹介します。


【詩篇68編19節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

【詩篇118編17節】

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のわざを語りつげよう。

【ローマ5章5節】

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

これらのことばを信じ、望みを持って神を待ち望みました。

そして大変な時期を乗り越えました。


ダビデ自身 いつもそのように助け出されました。


【詩篇62編8節】

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

このように勧めています。




・神が一番安全な避け所であるから神をただ待ち望む




これから起こるかも知れない人生の苦難や嵐のための避け所を 必死で造ろうとするのが人間ですね。


財産、人間関係、地位など色々あります。


“それさえあれば助かる、何とかなる” と思いながら頼ります。

しかしそれは不完全であるので、一時的な避け所に過ぎません。


私たちには、安全で決して揺るがされない避け所が必要です。


神の中ほど安全な避け所はありません。


【詩篇63編7-8節】

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

これは、彼がユダの荒野にいた時の告白ですが、避け所である神の中にいる姿です。


神に仕えていたすべての信仰の人たちも苦しみや迫害の中で似たような告白をしました。



【イザヤ書25章4節】

あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。

【エレミヤ書17章17節】

私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。

“神を 自分の一番安全な避け所” と思う聖徒になりましょう。


神に向かって人生の航路を固定しましょう。


なぜなら、神様だけが 私たちの人生に救いを与え、望みを与え、安全な避け所であるからです。


たとえ嵐にぶつかることがあっても主が助けて下さいます。



【詩篇107編27-31節】

彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。

主があらしを静めると、波はないだ。

波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

(・∀・) アーメン

2016.2.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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人間には救いが必要

ハレルヤ。
今日も主の恵みが皆さんにありますように祈ります。


キリスト教以外の宗教では、“人間に救いが必要”であることは教えません。


なぜならば その宗教を始めた人たちが、救いが何かを知らないからです。

罪が何なのかを知らない人たちには、救いの必要性もわからないです。


私たちがイエス様に出会うまでは、そのような状態の中にいましたので、そのことがよくわかります。


道徳的に問題がなく、良いことをすればいい所に行くとか、自分たちの教えをよく守れば天国に行けるとか、教祖に従えば天国に行けるとかを彼らは伝えています。

そして、それを信じている人も多いです。


救いと言うことばがあまり彼らには存在しないです。


自分たちが霊的に死んでいることはほとんどわからないからです。


聖書は、私たちに救いが絶対的に必要であることを教えています。


【箴言14章12節】

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

罪から来る報酬は死ですが、罪のことがわからないから良いことをすれば、それで(天国へ)生けると思って安心します。


そして、自分が進む道の終わりが死の道であることを知らないです。

ある意味 これほど悲惨なことはないです。


(自分が死んだら)天国と思って誰かに従い、教えられた通りに生きたのに、その最後が「死」、それも“永遠の死” であることは とても辛いことだと思います。


死んでから気づくことが さらに辛いですね。なぜならば その時はもう遅いからです。

やり直すチャンスが二度と来ないからです。


救われていない人々の状態は次の通りです。


【ローマ1章21-23節】


彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうものの形に似た物と代えてしまいました。

このような状態が典型的な罪人の状態です。


「人に悪いこともしていないし、犯罪も犯したことがないのに、何で私が罪を犯したというのか」と よく言われます。

しかし 罪の起源は、神を神としてあがめず、感謝もせず、信じない不信仰です。

さらに神でないものを神と呼び、拝むことです。

初詣で人々がやっていることがそうでした。


ですからイエス様はこのように言われました。


【ヨハネの福音書3章3節】

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

新しく生まれることは真の神を信じて救われることです。

罪によって死んだ霊が生まれ変わることです。


皆さんは本当に生まれ変わりましたか?

自分が罪人であることを認めましたか?

救い主イエス様を信じましたか?

罪赦されましたか?


これがないと天国には入れません。


生まれ変わることは、それを信じて救われたか ということです。
Σ(゚д゚;)


2016.1.11
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストとの交わり

テーマは 『 キリストとの交わり 』 です

ジョン・チャールズ・ライルは、19世紀イギリスで チャールズ・スポルジョンと共に清教徒の霊性を持った立派な牧師でした。

その当時のイギリスでは、洗礼を受け、教会に登録するだけで生まれ変わった人、天国の民になったと認めていたので、ライルは天から落ちた爆弾のような存在でした。


なぜならば、彼は福音の教理を絶対に曲げずに、いつも正しい福音を伝えました。

それは人を悔い改めさせ、救いを得させるメッセージでした。


彼は聖霊の人でした。

リバイバルは聖霊によらなければならないことを知って、いつも聖霊の火を求めました。


次のことばは、ある時のメッセージでした。


「残念ながら、救いに至る信仰もなく、キリストとも交わりがないのがはっきりしているのに、死んだら天国に行くという人があまりにも多いです。

しかし、そういう人は天国には相応しくないです。

皆さんは地上でキリストを高く崇めることもしませんでした。

皆さんはキリストとまったく交わりを持ちませんでした。

皆さんはキリストを愛していません。悲しいことです。


皆さんが天国で何が出来るでしょうか。

天国は決して皆さんのためにある所ではありません。

天国の喜びは皆さんのために喜びではないはずです。

天国の幸せは、皆さんが手にすることが出来ない祝福です。

天国での日々が皆さんには負担になり、つまらないでしょう。

遅すぎることがないように悔い改めて、心に変化が起こりますように。


天国への確実な準備はイエス様との交わりです。

洗礼を受けたから、教会に通うから、間違いなく天国に入ることは有り得ないです。

はっきりしているのは、天国はただ私たちに与える神のプレゼントではないことです。

そこはイエス・キリストだけが最高の喜びである所です。

私たちはこの世で生きながら、イエス様が最高の喜びでなければならないです。

ここでイエス様と仲良くしていないのに、天国で永遠に仲良く出来るわけがないです。」


このメッセージはもっともだと思いました。

パウロはイエス様を知らない時には、教会を迫害しましたが、知ってからは別人になりました。

一番の変化は、イエス様に対するパウロの思いでした。


【ピリピ3章8-9節】

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。 私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストと信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

2015.10.24
3分テレフォンメッセージ

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救いをもたらした神のみわざ

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【ルカの福音書1章76-79節】

幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

今日の本文は「ザカリヤの賛歌」と呼ばれる箇所の一部です。


ザカリヤは祭司で、バプテスマのヨハネの父親ですが、この賛歌を聖霊に満たされて預言のことばとして語りました。

生まれてくる息子・ヨハネに与えられた神からの使命と、その使命は「メシヤが来られるための道を備える働きである」と語りました。


メシヤは神が約束した救い主で、神の御子であり、救いをもたらすために来られるイエス・キリストです。


メシヤこそ神のみわざの現れです。


人間には なぜ救いが必要なのかを知らない人がとても多いですし、宗教は何でも良いと言う人も多いので、そのことをはっきりするために必ず語らなければならないのが “罪の問題” です。



今日の本文にもあるように、ヨハネの働きの中には、神の民に “罪の赦しによる救いの知識を与えるため” もありました。


世界が創造された時から罪が存在したのではありません。
もし存在したならば、罪は神が造ったことになります。

罪が存在しない世界に最初に罪をもたらしたのは、最初に造られた人間であるアダムとエバであることは知っていますね。


それ以後、生まれてくる人間の中には、まるで遺伝子のように罪が組み込まれています。

それを聖書は「原罪」と言います。英語ならば “Original Sin” です。


そこからすべての罪が始まります。
原罪なしに生まれる人間は誰もいません。


それなのに人間はそのことに対してあまりにも無知でした。
なぜならそれが自然体であったからです。


何の違和感もなく、(罪が)体の一部として自分の中で働いていたからです。


教会に来るまでは、罪ということばをあまり聞く機会がないですが、教会に来ると “罪” ということばをよく聞くので、「何故 いつも罪、罪と言うのか」と不思議に思う人や聞きたくないと思う人がいます。


それは罪という存在を気付かせるためです。

罪に対して無知であってはならないからです。

罪を理解しないと、救いの定義が分からないですし、なぜ救いが必要なのかも分かりません。


また神の救いがどのように大きな恵みであるかも分からないです。


罪の恐ろしさも知らないと罪を警戒することもしないです。

罪のことをよく言うのは、罪に対していつも警戒してほしいからです。






罪を分かりやすく理解するためには、罪を犯す前の状態と罪を犯した後の状態を見れば良いです。


罪を犯す前の人間の状態は 神を愛し、喜び、神と共に歩む「神中心」の生活でした。

神が「神中心」に生きるように人間を創造しました。


しかし罪を犯した後の状態は「自己中心」になりました。

世界の主人を神とせず、自分自身が直接主人になる姿です。


アダムとエバは神のようになりたくて、神のことばに逆らいました。

しかし人間が神になることは出来ません。

なぜなら人間は、あくまでも人間以上になることは出来ないように神が創造したからです。


ですから今も自分を神だという多くの異端の教祖たちは嘘つきですので、騙されないようにしましょう。


また、そこまでではなくても 神のことばに従順せず、自分の欲に従って好きなように生きようとする利己的な心があります。


罪のない状態を体験したのは、アダムとエバだけであり、その後は皆 原罪をもって生まれて来ました。

ですから罪から逃れることが出来ません。

それで聖書はすべての人間を差別なく「罪人」と呼んでいます。


罪は神の御心から外れた思い、考え、決定、価値観、行動すべてです。
神のことばに不従順するのが罪です。


なぜ人間はそのように生きていながら、罪人の認識がないのでしょうか。


人間は相対的な価値観を持っているので、世の法の基準に合うならば、自分は正しく生きていると錯覚します。


ですから「私は人を殺したこともないし、物を盗んだこともないし、自分なりに正しく生きて来たのに何が悪い。私は罪なんか犯していないし、罪人ではない。」と言い張ります。


それは人間の基準であって、“神の基準” ではありません。


人間は神のことばに従順して生きるように造られ、決して世のことばに従順して生きるように造られてはいないです。


みことばに違反した時から、人間は自分が創造の目的から離れたことに気付かなければなりません。


この罪の深刻さをはっきりと認識する時に、私たちの罪を洗って下さったイエス様の十字架の恵みがどんなに大きいかを知るようになります。

神は、罪によって神から分離された人間に対して怒りや憎しみではなく、憐れみの心を抱きました。


サタンのことばに簡単に騙されて、罪を犯してしまった人間を 神は深いあわれみの心で見ていました。

そこから神の救出作戦が始まりました。


人間を救うための神の壮大な計画でしたが、人間はそんなことも知らないで、相変わらずサタンのことばに騙されて、自分のいのちをサタンに預けています。






難民たちの状況がそれに似ています。

今、ヨーロッパには難民が急増して大変問題になっています。

内戦があるシリアやアフガニスタン、イラクなどから自由と豊かさを求めて危険を覚悟で渡っています。


戦争も内戦もすべて自己中心の人間たちが起こしたことです。

今年だけで既に35万人で、途中で死亡した人の数が2600人に達したと発表されました。


お金を仲介者に支払って、ヨーロッパに向かって行く 多くの人々が仲介者に騙されています。

そこで放置されて死亡する人も多いです。


ヨーロッパの政府も一般の人々も面倒なことだと思って、あまり関心を持たなかったですが、最近シリアからの難民が乗った船が沈んでしまい、乗っていた12人が亡くなり、一緒に乗っていた3歳の男の子が流されて砂浜にうつぶせになって死んでいる映像が世界中で公開され、それを見た人々は感情を揺り動かされて、非常な悲しみを覚えました。


私もそれを見ましたが、本当にかわいそうで心が痛くなりました。

その映像で今まで難民に対して無関心だった一般市民から非常に大きな反響があって、今は難民のための寄付金がたくさん集まる流れに変わっています。


私はそれを見て、これも神様の憐れみだと思いました。


今までも多くの子どもたちが死んでいましたが、戦争がない国の海岸に衣服や靴を身に着けたままの可愛らしい子がうつぶせで死んでいる姿は、自己中心的な人間の心に憐れみの心を起こしました。

自分たちの子どもの姿を思い出したでしょう。


もしかしたら多くの難民を助けるために、その子はその砂浜にたどり着いたのかも知れないです。

それによってヨーロッパの国々が難民のために本格的に対策を考えるようになり、難民を受け入れる国が増えました。


難民たちのことで、なぜかバプテスマのヨハネとイエス様のことを思い出しました。


自分たちを騙している人間に お金まで渡して、保冷トラックの中で窒息して死んだ71人を騙した人たちはサタンの姿に見えました。


死ぬかも知れない危険がいっぱいあるにも関わらず、次から次へとそれに飛び込む人たちは、いま永遠の死の道に向かっているかも知れないと思いながらも、その道を歩んでいる人々と良く似ていると思いました。


人は自分が生まれる国も親も環境も選ぶことが出来ません。


そして変わっていく環境も自分では止められないことが多いです。

ですから自分が努力もしないで与えられる良い環境は本当に恵みだと思います。


良い国や親や環境、そして救いも世に存在します。

しかしそれをみんな受けるのではないです。






先週、マレーシアへ行った時に夜の11時過ぎの繁華街で小さな女の子二人を見ました。


たぶん上の子は5歳位で、下の子は3歳未満の小さな子でしたが、歩きながら手に持っている物を人々に売っていました。
それを見て大変だなと思いました。他にも何人かの物乞いも見ました。


その人たちの環境は厳しいですね。

そしてマレーシアはイスラム教徒がとても多いですが、生まれた環境によってイスラム教の枠から出られないことがとても気の毒に思われました。


特に女性のムスリムは体を隠し、頭にもスカーフをみんな被っていますが、中東から来たと思われるカップルを見ると、男性はTシャツ&短パン姿なのに、女性たちは全身真っ黒の長い服を着て、目だけ見えていました。


暑いのに1年中そのような姿はかわいそうな気がしました。


家族以外に自分の姿を見せることも、おしゃれをして歩くこともないので、そのような国で生まれなくて良かったと思いました。

そして どんなに熱心に礼拝し、規律に従って生きても 救いを得られないことがとても残念と思いました。


キリスト教以外の、どの宗教も人間の罪に対しては触れません。


そのことに触れると、罪が何なのか、どこから始まったのか、救われる方法があるのかを説明しないといけないので、それには触れず、自分たちの言う通りにすれば天国へ行けるし、良い生活が出来ると言います。


しかしキリスト教だけは、神の存在、人間の創造と罪、堕落、罪の赦し、救い、天国や地獄、裁きなど何一つ隠すこともなく明確に教えていますし、サタンの存在も教えます。また、神がどのような方であるのかも教えます。
そして、その先のことも聖書は預言しています。


これは真の神ではないと出来ないことです。

バプテスマのヨハネの出現も、すでに旧約で預言されていました。


【マラキ書3章1節】

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。

その預言通りにヨハネは来て、メシヤのための道を整える為に、神からのメッセージを伝え、水のバプテスマを授けました。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいた」と叫びました。


人々はそのメッセージを聞いて、自分の罪を告白して、ヨルダン川でヨハネから水のバプテスマを受けました。

そして さらに人々に語りました。


【マタイの福音書3章11節】

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

このように人々に罪の認識をさせ、告白するように導き、罪を赦して下さるメシヤが来られることを待ち望むように準備をさせました。


それからメシヤはその預言通りに来られ、その方がイエス様であることは、ヨハネも聖霊によって教えられて確認しました。

ヨハネ自身は、罪を認めず 罪を楽しむ者の手によって 首を切られて殉教しました。30代前半でした。

そして神の預言通りにメシヤである神の子イエス・キリストが来られて救いが完成しました。


イエス・キリストが来られたのは、罪人に対する神の深いあわれみ以外に何ものでもありません。


罪の恐ろしさも深刻さも知らないで生きている人間に対するあわれみです。


神ご自身はそのために御子イエス・キリストを犠牲にしなければならない深い痛みを伴いましたが、それでも人間のために尊い犠牲を払いました。


その犠牲の象徴であるイエス・キリストの十字架を見て、罪に無関心だった人間がやっと罪に気付き、神の憐れみに対しても無反応だった人間がやっと反応するようになりました。


人間の罪に対する無関心は、他人が犯したひどい罪によって、無関心から関心に変わります。

人間がこんなにひどいことを平気にやるんだ と、人間の罪深さや残忍さに改めて気付きます。


難民事故も幼い命の悲惨な姿を見て 人々は自己中心から、少しだけ人の痛みにも目を配るようになりました。






イエス・キリストの悲惨な十字架がなかったならば、神の愛も憐れみも罪の赦しも人々は気付くことがありません。

罪のない方が なぜ死んだのかに関心がある人は、神の言葉に耳を傾けます。


しかし、私とは何の関係もないと言う人は 救いが存在しても、それに気付くことがないです。

自分が好む方法で自分の罪を解決しようとしても、罪の問題は解決されません。


十字架だけが人間の罪を赦し、悪の力から救い出し、暗黒と死の陰から光に導くことが出来ます。


人間はキリストの血の贖いを信じる信仰によって救われることが出来ます。
これは100%神の恵みによります。

福音を聞かされたことが恵みであり、救いを受けたことは人生最大の祝福であります。


人生の中で一度も福音を聞くことがなく死ぬ人も大勢いますし、聞かされても信じない人も多くいます。


そのような中で、福音を聞いて救われたことがどれほど大きい祝福であるか分かりますか?

救われたことは ただ事ではないです。本当に特権であります。


地上に生きていながら、真の神を知り、神からの救いを受け、神の守りの中で天に向かって歩む人生は自由と豊かさと平和を得ています。


これらのものは自分が努力して得たものではなく、すべて神の憐れみと恵みによります。


「私のような者がこんなに大きい祝福を得て良いのでしょうか?」と聞くぐらいに謙遜にならないといけないですね。

救われた環境の中にいる人は一番幸せな人です。


【エペソ2章1-9節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです ――

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救われる前の姿と救われた後の姿では どちらが良いでしょうか。

この地上ではどちらの姿でも 自分で選ぶことができます。


しかしその後の世界では、神が私たちを見て決めますので、自分で選ぶことは出来ないです。


神が持っている基準は、救われているかどうかです。

それを変えることは人間には出来ないことです。


神は私たちを憐れんで、救いの恵みを与えようとして今も人々を待っておられます。

この神の所に来ませんか?
(*´ -`)(´- `*)

2015.9.6
聖日礼拝メッセージ

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神の計画と神の願い

テーマは 『 神の計画と神の願い 』 です

【エペソ1章3-6節】

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

本文には、神の人類に対する壮大なプロジェクトがあります。

その計画を立てたのは神であり、このプロジェクトは変わることもなく今も続いています。

このプロジェクトはイエス・キリストの誕生、十字架の苦難、復活、昇天によってその内容が明らかになりました。


みなさんは神の人類に対する計画を知っていますか?

今回はその計画の内容と神の願いに対して学びたいと思います。



■神の計画の内容について■



1.イエス・キリストの恵みによって人類を罪から贖う計画




人間は創造主に出会うまでは人間の始まりや、尊厳、役割、堕落や罪がどのようなものであるのか、そして自分に贖いが必要であることも知ることが出来ません。

創造主に出会わないと、でたらめなことを聞いても分別がつかず 信じてしまいます。


そして人々は、人間がサルから進化しているという進化論を疑うことなく信じています。

もしも、それが事実であるならば、今もサルは進化を続けなければなりません。
サルはサル、人間は人間であるので、まったく別物です。

創造主に出会って初めて人間は神の作品であり、その目的は神の栄光を現す存在として造られたことが分かります。


【エペソ2章10節】

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

しかし、創世記3章に最初の人間であったアダムとエバが神の命令に自ら不従順することによって 神の前に罪を犯しました。

罪とは神の言葉に対しての違反行為を意味します。

人間は神の祝福と神の愛を受ける存在として造られましたし、神様に栄光をささげる特別な存在でもありました。

それなのに、神様からしてはならないと命じられたことに対して違反しました。


その違反によって神との関係が壊れ、祝福を失い、その代わりに死、呪い、労苦、罪の奴隷、サタンに支配されるようになりました。


それによって、まったく希望のない絶望状態になりました。
しかし、それを見てかわいそうに思ったのも神様でした。

そして死と絶望状態の中に陥ってしまった人間を救う神のプロジェクトが始まりました。

そのプロジェクトの中心的な存在がイエス・キリストでした。


次の箇所に全貌があります。


【ヨハネの福音書3章16-17節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

人間が神に対して罪を犯し堕落していても、人間に対する神の愛は変わりませんでした。
救いは神の愛そのものです。

救いを受けることは神の愛を受け止めることです。救いを拒むことは神の愛を拒むことと同じです。

その愛を拒み続けることは永遠に自分自身を神から離す行為です。

それによって罪の結果である死を免れることがなく、神の怒りを招くことになります。


救いは人間として生まれたならば、誰にでも必要です。
なぜなら神の前に違反行為をしてない人は1人もいないからです。

しかし救いは私たちの努力によって得られるものではなく、神がすでにキリストにあって用意した恵みを信じて受け取ることです。


救いとは無関係であった人が救いを受ける過程をエペソ書2章で知ることが出来ます。


【エペソ2章1-9節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中で死んでいた者であって、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中で死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、そのすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、(私たちの)努力も資格も罪の状態も関係なく、救いを求めるすべての人に神のプレゼントとして与えられます。

これは尊いプレゼントなので必ず受け取る必要があります。

自分が罪ある人間であることを告白し、イエス・キリストが救い主であることを信じるならば恵みとして救いを受けます。




2.私たちを選び、神の子にして、素晴らしい祝福を相続する者にする計画




救いは、罪によって神との関係を分離された人間が 再び神と和解して新しい関係になることですが、その関係は最も親密な関係である“父と子の関係”、すなわち神の家族になることです。

神の家族になるということは神と共に生きることです。

神から遠く離れていた者が神と共に生きる者になると、今までとは違う生活になり、日々 神様と個人的な交わりをします。

神様は神の子どもたちに素晴らしい祝福を相続させる計画をもっています。


そのことを神のことばで確認します。


【ヨハネの福音書1章12節】

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

【ガラテヤ3章26節】

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

【ガラテヤ4章6-7節】

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

神から相続するものは天にあるすべての霊的祝福です。
この霊的祝福は私たちが想像も出来ないほどの素晴らしい祝福です。


イエス様が弟子たちに「私の父の家には住まいがたくさんあります。」と話したこともあります。

これは天国の話ですね。
また、黙示録にも私たちが相続するものがたくさん書かれています。

すべてが素晴らしい祝福です。神の家族になった者だけがその祝福を相続することが出来ます。


日本では死んだら誰でも天国に行くような話をよく聞きます。

「天国に行ってもお酒を飲んだり、マージャンをしてください」と、まるで地上と同じ生活をするように言いますが、その根拠はどこにあるのでしょうか?

また地獄の話も聞きますが、それなら地獄は誰が行くでしょうか?

明確な根拠もないのに、そのように言うのは “そうあってほしい” という希望があるからだと思います。


そういうわけで明確な根拠があるものを信じたら心配なく天国に行けます。




3.地の果てにまで証人として主に仕えさせるための計画




イエス・キリストは十二弟子を選びました。

彼らは特別に偉い者でもなく、どこにでもいるような平凡な人々でした。

その人たちを主は3年間訓練して証人として世に遣わしました。

イエス様はすべての人が救われることを願って弟子たちに出て行って福音を伝えるように命じました。


【マルコの福音書16章15-16節】

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

【マルコの福音書16章19-20節】

主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。

弟子たちは証人としての働きを いのちを懸けてしました。

平凡な人たちでしたが、主の命令に従って出て行った時に、主は彼らに力を与え、その働きが出来るようにして下さいました。


信じる者はすべて弟子にならないといけないです。

弟子とはイエス様に従う人ですが、それだけではなく、生活の中でイエス様の姿を再現していく人たちです。

主から学んだことを実行していき、また主に似る者になることです。


最初の弟子たちによって救われた人々も次々と弟子になりました。


【第2テモテ2章2節】

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

【第2テモテ2章9-10節】

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

このように証人たちの働きによって福音は全世界に広がって行きます。


【マタイの福音書24章14節】

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

ここに神様の願いが込められてあります。

救いの対象は全世界の人々です。


救いの良い知らせを人々に聞かせて魂を救うのが神様の願いです。


救いを受ける者は最初から決まっていると言う人もいますが、聖書は次のように書いています。


【第1テモテ2章4節】

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

すべての人が救われることが神の最大の願いです。

そして次のように救いの門を開いておられます。


【マタイの福音書11章28節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

【ヨハネの黙示録3章20節】

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

すべての人の救いに主は関心があります。

救いの恵みを与えたいと願って今も人々を招待しています。


主の声を聞いて心に招くならば その人は救いを受け、神の家族、御国を相続する者、主の証人になります。

―― 救いを受けていますか?
救いは物ではありません。


自分の存在を “どこに所属させるか” です。

まことの神の所属になることが救いであります。
(*´∇`*)

2015.6.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか

テーマは 『 あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか 』 です

【ルカの福音書5章27-32節】

「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。

するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

皆さんは自分を正しい者と思っていますか。それとも罪人と思っていますか。

これはとても重要な質問です。

この質問に どのように答えたら良いか、困るでしょうか。

自分を正しい者と言う勇気もないし、罪人と答えるのも嫌な感じがするし、「どちらでもありません」というのが一番無難な気がしますか?


日本は先進国の中で一番クリスチャンが少ない国です。

少ない理由は色々あると思いますが、自分を正しいと思う人が多く、罪人という認識が少ないことがあるかも知れません。

そもそも罪がどういうものか知らないのが問題かも知れません。


そして日本には “本音と建て前” の文化があります。

文化と言えば悪いものだと思わない傾向がありますが、それは偽善者または二重人格者と何が違うでしょうか。

偽善者だと思います。

もし皆さんが他の人から「あなたは偽善者で二重人格者です。」と言われたら すごく腹が立ちますし、良い気持ちがしないですね。




偽善者の姿




偽善者の姿をちょっと見てみたいと思います。

ルーマニアで最も影響力があったリチャード・ウォンブラント牧師ですが、この牧師はチャウシェスク独裁政権の時に、キリスト教の牧師であるだけの理由で捕まり 14年間も共産党本部の地下牢に入れられ、まともな食事も与えられず、日々拷問を受けて奇跡的に生き延びましたが、解放されて世界中を回りながら、その体験を語りました。


牧師はニュージーランドのクライストチャーチ市に行きました。
都市の名前が「キリストの教会」という意味です。

ですから、牧師はそこに住む人は全員クリスチャンだと思いました。

ある時、レストランで男性と合席になり、そこで会話が始まりましたが、その男性がクリスチャンではないことが分かりました。


牧師は「どうして教会に行かないのですか?」と聞きました。

すると男性は次のように答えました。
「教会に行くと偽善者が多過ぎて、私は教会には行きません。」

それを聞いたリチャード牧師は「私は教会に偽善者が多いので、教会に行くと心がとても楽です。なぜなら私も偽善者ですから。」と答えました。

皆から尊敬される立派な牧師が自らを“偽善者”と認めました。

そのことばの意味を私たちは悟らなければなりません。


皆さんは偽善者ですか。それとも「私は偽善者ではありません」と否定しますか。

今日の本文には偽善者の姿が出て来ました。

それはパリサイ人と律法学者です。彼らのどこが偽善でしょうか。

彼らの生活を見ると偽善的な姿は見えません。むしろ敬虔な姿です。


神のことばを文字通り守りますし、いつも聖書を読むし、よく祈るし、施しも熱心で、献金もよくささげ、落ち度のない敬虔な生活をしていました。

しかし彼らの心をとらえているものがありました。

それは他人に対する優越感、自分を正しいと思う心、それによって他人を裁いていました。

本文でもその姿がありました。


イエス様が自分たちが罪人だと思う人たちと一緒に食事しているのを見て非難しました。


別の箇所でさらに彼らの姿を見たいと思います。


【ルカの福音書18章9-14節】

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんで下さい。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

パリサイ人の姿は“高慢”です。神様が一番嫌う罪は高慢です。


高慢の基にあるのは「私は他の人よりましだ、もっと正しい」と思う優越感です。

この意識に捕えられると、自分より劣る人に対して 自分が審判者になって軽蔑したり、非難したり、裁いたり、また怒ったりします。

イエス様は このパリサイ人に向かって「まむしのすえたち、偽善者」と呼びました。

そのことばを聞いた時に彼らは怒り狂ってイエス様に対して殺意を抱きました。そして後になって十字架につけました。


なぜそこまでしたのでしょうか。
彼らは完全主義者だったからです。

彼らの一番恐ろしいことは、(外見は)謙遜で覆われている高慢です。

それがパリサイ人たちの典型的な姿でした。

教会の中にはパリサイ人のような偽善者もいれば、他人の行動を見てつまずいて 教会を離れるもう一人の偽善者もいます。


リチャード牧師と話をした男性も偽善者です。

なぜその人たちが偽善者だと思いますか。

その人たちが他人を裁く時には「私はあの人のように高慢ではない。私は偽善的ではない。あれでもクリスチャンか、あれでも牧師か、私ならばあんなことはしない」と自分自身を高く評価するからです。

それで教会を離れて、信仰を捨て、他の宗教に改宗する人もいますが、それはその人の信仰が不透明であったことを改めて見せていることです。


信じた時から クリスチャンは世の光、世の塩ですが、(周りが)暗いからといって光を放ちたくないと嫌がる光を見たことがありますか。

(味がなくて)美味しくないから 入って塩味をつけたくないという塩があるでしょうか。

そのような確信がないので 人を見て揺れ動き、他人を非難して人のせいにした挙句、神から離れます。


信仰生活は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない(ヘブル12章2節)生活です。
信仰はイエス・キリストを信じることから始まり、生活はそれを持続することです。


信仰生活は、まずは神様と私たち自身の問題で、次に他の人たちとの間で生きることです。


それなのに他の人たちと生きることが嫌で信仰を捨てるということは矛盾していると思いませんか。


問題は他人ではなく自分自身にあります。
いくら弁明しても自分と神の関係がはっきりしないので心が揺れて人間関係につまずきます。

私たちは人を見て信仰生活をするのではなく、イエス様を見て信仰生活をします。

他人のあやまちや罪を見た時には祈り、自分もそのような罪を犯さないように、罪の誘惑に負けないように気をつけることです。


自分のことは棚にあげて、他人が悪いという偽善者たちにイエス様がはっきりと語りました。


【ルカの福音書5章31-32節】

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」





私たちは体の調子が悪いと病院に行きますね。

病院へ行くと、もちろん病人だらけです。そして あらゆる病気の人がいます。

それが嫌で病院へ行くのを諦めますか?

諦めるならば治る病気も治らず 痛みで苦しむか、病気が悪化して死ぬかです。
多分そんなことで病院へ行くのを諦める人はいないと思います。

医者に病気を隠すどころか、症状を一生懸命説明して、治してほしいと訴えます。


しかし教会に他の罪人が来るのを見て、それが理由で行かないとは自分の魂が死んでいくのに その自覚がなく、自分の魂が死ぬのを放置しているのと同じです。

罪は魂の癌であって、これによっては100%死にます。

また、罪の癌は神様に出会うまでは自覚症状が全くないです。自覚がないので軽く考えています。


日本人が信じている信仰は罪に対しては全く触れないです。
でも触れないからといって罪が存在しないということはないですね。罪は存在します。

イエス・キリストはそれに触れ、その罪を悔い改めるならば、その罪を赦し、そして罪に定めないと恵みを備えています。


それは恵みであり、難しくないですが、サタンはそこから目をそらさせ、そしてアダムとエバを騙したように「あなたは罪人じゃないよ。罪によって死ぬことはない。先祖たちもみんな天国に行ったよ。」と甘いことばでささやきます。

神の真実とサタンの騙しことばを人々に伝えると色々な反応があります。

特に日本人は真理は信じないで、サタンの偽りのことばを信じる人が圧倒的に多いです。

または「自分は罪が多いし、もっとまともになってから信じます」という人がいます。
これも偽善者になりやすい姿です。


なぜなら正直に、道徳的に、倫理的に清く生きることは素晴らしいことですが、それが自己義に変わる時に、それはパリサイ人と同じ悪を行うことになります。

自分が道徳的に倫理的にまともな人間だと思う人に罪人の認識があるでしょうか。

自分を正しい者と思うので、さらに救いからは遠くなります。
その人たちは神様を求めることをせず、自分の努力だけで生きるようになります。

でもそれで罪が消えるわけではないですね。


罪の問題は、神様の赦しを得なければならない次元です。努力では得られないです。

ですから その人たちは自分は罪が多いと言いながらも、実はそこまで罪に対する自覚がないです。

一見、謙遜な姿に見えますが、自分の力でなんとかしようとする高慢が隠れています。


そして自分の罪を全く認めていない人がいます。

目が見えない人の姿です。
正しい者でもないのに、自分を正しい者と勘違いしながら死ぬまで生きる人です。


また、自分の罪を認めてはいますが、自分は罪深い人間だから赦されることはないと勝手に決めてしまう人もいます。

病院では軽い病気は受け入れ、重い病気は受け入れないでしょうか。
絶対にそんなことはないですね。

重い病気の人が優先になります。


神様の赦しにも 重い罪も軽い罪もないです。






そして本文に出てきた人物レビのような人がいます。

レビは取税人です。
彼の仕事はお金はたくさん入りますが、評判の悪い仕事でした。

その理由は、不正な方法でお金を手に入れる人たちが多かったからです。

レビもそのような人だったと思います。

一般の人たちは彼らを罪人と呼びました。


イエス様は彼に目を留め、いきなり呼びました。
「私について来なさい。」とひと言言っただけで、何もかも捨てて、立ち上がってイエス様に従いました。

そして自宅に招いて大ふるまいをしました。それも他の大勢の人を招いて食事会をしました。


それには2つの理由があったと思います。

罪人である自分を招いてくれたことに対する感謝と喜びの気持ちを現すために自宅に招きました。
そして今までお世話になった仲間や愛する人たちとの別れの挨拶でもありました。

古い生活を清算し、新しい生活への出発を祝うためでもあったでしょう。


お金をたくさん手に入れて良い家に住み、毎日ごちそうを食べ、良い服を着て、良い車に乗り、外国へ旅行するのが人生の目的で、それで満足するために生きていますか。

レビはそれを手に入れていましたが、罪の意識だけは消えなかったでしょう。

罪人の自覚は、自分の中には罪があり、弱さがあり、汚い思いがあり、いくら努力しても自分という人間が変わっていないことを認める時に出てきます。


さらに謙遜さも それを認めるところから始まります。

罪に対する自覚があると他人に対する優越感と、優越意識が消えていきます。

そして自分には罪の赦しが必要であると救いを求めます。


レビはイエス様に従って12弟子のひとりになりました。

そして新約聖書のマタイの福音書を書きました。マタイとはレビの別名です。

イエス様の招きを受けたことで彼の人生は罪人から弟子に変わりました。


どちらが良かったと思いますか?

取税人の時の罪を犯しながら贅沢な生活の方が良かったですか。
それともお金もなく苦難も多い弟子になったことが良かったでしょうか。

実際 レビが取税人に戻っていないことを見ると弟子になったことが良かったみたいです。


罪人がイエス様を信じて損することがありますか?

――全くないです。反対に得することだらけです。

人々から罪人だと軽蔑されていたレビは、立派な弟子になり多くの人々からも尊敬される人になりました。






もしイエス様が「私は正しい人を招くために来た」と言われるならば、私たちは皆 その資格がないのです。

しかし罪人を招くために来たというので誰にでも受ける資格があり、とてもありがたいです。


そしてイエス様の魂に対する思いがどんなに強いかを語った箇所があります。


【マタイの福音書18章11-14節】

〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

私も以前は迷い出た一匹の羊でしたが、神様の忍耐と憐れみ、恵みによって救われました。

それがなかったならば、この世がすべてと思って自分がどこに向かっていくのかも知らず生きていたと思います。


でも今は安心しています。
自分がどこに向かっていくのかを知っていますし、真理も知っています。そして永遠の世界も知っています。

自分を主の前で罪人だと認めたことによって得られた祝福はたくさんあります。

罪を告白しただけで赦してもらいましたし、受け入れてもらいましたし、神の子どもになる特権まで与えて下さいました。


こんな素晴らしい祝福を拒否することは本当に大きな損失です。

失った後に胸を叩きながら永遠に後悔することはないようにしましょう。


自分が信じたい時に信じるのではなく「きょう、もし御声を聞くならば心をかたくなにしてはならない。今は恵みの時、今は救いの時です。」と語ったことばのように、今日が恵みを受ける時と思って恵みを受け取って下さい。
(・∀・)つ

2015.6.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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苦難の時に何をするのか

テーマは 『 苦難の時に何をするのか 』 です

【ヨナ書2章1-10節】

ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、

言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。 私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。

あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」と。

水は、私ののどを締めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。

私は山々の根元まで下り、地のかんぬきがいつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

本文には、ヨナという人物が出てきます。
ヨナは預言者です。

この時、彼はどこにいるでしょうか。
魚の腹の中という有り得ない場所にいます。

なぜ彼はそのような場所にいて、ありえない苦しみを受けているのでしょうか。


実際彼が受けている苦しみは、死よりも辛い苦しみかも知れません。

私たちがもし同じ状況の中にいるならば、「なぜあの時に死ななかったのか。死んだ方がましだ。」という思いになります。


なぜなら、息が出来ないことによる肉体の苦しみがひどいからです。
水に溺れている状況なので、まともに息が出来ないです。

肉体の苦しみの中で 痛みがあることも辛いですが、息が出来ない苦しみも相当辛いです。


また、体の身動きがとれない苦しみもとても辛いです。

そして精神的にもかなり辛い状況でした。それは自分が人間世界から隔離されてしまったからです。


地球上での海と陸の割合は7:3です。

昨年失踪したマレーシア航空機が海に消えたと言われて、今も捜索していますが、まったく見付かっていない状況です。

(陸ではなく海の中だと)分かって探しても 見付からないほど広くて深い海という環境が、さらに絶望を大きくします。そこは救助される期待すら出来ない場所です。


霊的には自分が神様から受けた使命を拒んだことで自分の身に降りかかった試練なので、霊的にも追い込まれた状況でした。

『あの時、主の命令通りにニネベに行って神のメッセージを伝えればこんなことにはならなかったのに』 という後悔と神との関係が断絶され霊的にも絶望的でした。

神の命令に不従順した罪の刑罰として海に投げ出されたヨナはすべてに追い込まれていました。


生きているのか死んでいるのかが分からないような状況です。
生きるのも死ぬのも両方しんどい状態でした。

叫んでも自分の声が誰にも届かないですし、自分がそこにいることを誰も知らないことも最大の苦しみでした。

あらゆる面からも、ヨナの状況は最悪であることは間違いないです。


多くの人は状況をみて怯え、諦め、完全に絶望し、死を選ぶことが多いです。

また ある人は、死ぬ選択すら出来ずに生き地獄の中で生きています。

しかし苦難はその時に何をするかによって解決されるか、苦難が続くかに分かれます。



ヨナの神への不従順は私たちが学んではいけないことですが、生き地獄の苦難の中で 彼が選んだ方法は私たちが学ばなければなりません。

それは祈りでした。
祈り以外に彼に出来ることは残されていませんでした。


身動きが取れなくても、息が出来なくても、闇の中にいても、誰も助ける人が周りにいなくても、そこで唯一出来ることは “祈り” であることをヨナが見せてくれました。




救いの神を思い出した




罪に対して厳しくさばく神であることを ヨナは身をもって体験している最中ですが、その苦しみの中で、救いの神を求めました。


自分に必要な助けだけを求めたのではなく、神自身を求めました。

深い海の中、魚の腹の中から生き返ることは、ヨナの力では不可能でしたので、あらゆる苦難から救い出して下さる主を見上げました。

苦難の時は、何よりも主を求めることです。
神は私たちがどこで叫んでもその声を聞くことが出来るお方です。


さらに主が 自分を救い出してくださると信じて感謝と希望の祈りを捧げました。

私たちは、いつ感謝の祈りをしますか。
解決された後でしょうか?それは信仰による感謝ではないです。

それは当たり前の感謝です。

信仰による感謝は、苦難の中で祈り始めた時から捧げます。



ヨナは9節で感謝の祈りをしました。


【ヨナ書2章9節】

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

感謝と希望の祈りは神への礼拝です。

偶像へのむなしい礼拝ではなく、生きておられる神への礼拝です。神は礼拝を受け入れて下さるお方です。


【ヨナ書2章7節】

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

どんなに絶望的な状況の中でも 最後まで信仰を捨てず、神の臨在を求め、神が救い出して下さることを信じて感謝を捧げることは、主を礼拝する姿です。


【詩篇107篇10-16節】

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、

彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。

それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。

主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

聖書は苦難の時に主を求め、神が彼らに救いの手を差し伸べた事実がたくさんありますので、それを信じて神を求めることを勧めます。




悔い改めの祈りをした




人間は罪を知らないから罪を犯すのではなく、知っていながらも 罪の誘惑に弱い者であるので、次から次へと罪を犯します。

悔い改めが必要のない日はあるでしょうか。
「今日私は何一つ罪を犯していない」と言える人がいますか?


主のことばから はみ出た行動はいくらでも自分たちにはあります。

“罪から来る報酬は死” であることに変わりはないです。


しかし神様は罪人が罪の中に留まって死ぬことを願わないので、悔い改める者に恵みと救いを用意しておられます。


神の命令に不従順して神から刑罰を受けているヨナに対しても神はすぐに彼を死なせず、魚の腹の中に入れたのは悔い改めるチャンスを与えたことでした。

悔い改めのチャンスは主のあわれみです。主の恵みです。悔い改めのチャンスは助かるチャンスでもあります。


ヨナにとっても助かる道は、悔い改める道しか残されていませんでした。

きっと涙を流しながら三日間 心の中で泣き叫んで祈ったでしょう。

息苦しくて声を出すことが出来ないので、声なき声で叫んだことでしょう。


「私が悪かったです。もう2度と主に逆らいません。私の罪を赦して下さい。ここから助けて下さるならば言う事を聞いてニネベに行って主のことばを伝えます。」と誓いを立てながら悔い改めの祈りをしたでしょう。


悔い改めの祈りほど神に早く届く祈りはないと思います。

それは、なぜだと思いますか。


多くの願いの祈りは、神様を変えてでも自分の願いを押し付けて、欲しいものを手に入れたい思いがあります。

しかし、悔い改めは 祈る人自身が変わらないと出来ないことなので、その祈りをする人自身が変わったので神様が喜び、その祈りに早く答えて下さいます。


ヨナも苦難の中で変わりました。
罪の恐ろしさが分かり、自分の愚かさにも気付きました。

そして罪を捨てて、神に立ち返りました。

救いの神が救うことが出来るように 神を呼ぶ者になりました。


悔い改めていない者を助けたとしても、その人たちは神様を侮ります。

「誰が助けてくれと頼んだのか。ほっといてくれ。」と言います。


しかし悔い改めた人は、主の助けと救いに心からの感謝が出てきます。

神様は悔い改めるヨナを見て、救いの手を差し伸べました。魚の中から彼が生還出来るように恵みを与えました。

悔い改めたことによってヨナは再び太陽の光を見ることができ、自由に息をすること、そして体を動かすことが出来るようになりました。

絶望から希望に移されました。そして再び主の働きが出来るようになりました。

もしヨナに祈りがなかったならば、聖書に「ヨナ書」は存在しなかったですし、ヨナが誰なのかも私たちは分かりません。


イエス様も悔い改めの祈りがもたらす祝福について次のように教えて下さいました。


【ルカの福音書18章13-14節】

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖徒たちにとって、祈りは必須です。それは祈りによって神との会話が成立するからです。

祈りを通して神様と交わりをし、霊的呼吸をします。

しかしすべての祈りが神様と通じるものでもないです。


悔い改めの祈り、神を求める祈り、神を信じて感謝と希望を持って祈る時、苦難の時に救いの神を切に求める祈りをする時に、主は救いの手を、救いの道を開いて下さいます。

それならば何でも聞いて下さいますかと質問する人がいますが、それを確認して祈るのではなく、 神をただ信頼して祈ることが大切です。


目に見えなくても、しるしがなくても、何も確認が出来なくても 今も働いておられる神がおられることを信じて、本人が必死に祈り求めることです。すべてを懸けて助けを求めます。


祈りを他人任せにする人がいますが、そうするとその人自身の苦難は根本的に解決出来ないです。

それはその本人の問題なので、神様はその人を待っておられます。

長い間、絶望と落胆の中にいる人がいるならば、それは未だに悔い改めていない自分の罪の為ではないのかを考えてみて下さい。

そしてヨナのようにやってみて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.5.31
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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