からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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憐み

イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか

テーマは 『 イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか 』 です

【ピリピ2章1-5節】

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

私の喜びが 満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、 他の人のことも顧みなさい。

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

全世界の人口は正確には分かりませんが、約70億人近くいます。
その中でキリスト教が一番多く、33%と言われています。22億人がクリスチャンということになります。(プロテスタントとカトリックの比率は50%です)


今、クリスチャン人口が一番増えている国は中国です。
人口13億人のうちの5%にあたる6700万人がクリスチャンであると言われています。
そして2030年になると、2億4700万人がクリスチャンになる計算です。

今はアメリカがクリスチャン人口が一番多いですが、2030年になると中国が世界一キリスト教徒が多い国になります。

日本は、東アジアの中で一番クリスチャン人口が少なく、1%くらいです。

韓国は人口の4分の1はクリスチャンであります。リバイバルをして6万ほどの教会が建っています。
しかし教会が大きくなっていくと様々な問題が生じ、クリスチャン人口が減ってきています。これはとても残念なことです。

原因はクリスチャンたちの生き方が人々に好感を持たせなかったからです。
初めは良かったのですが、大きくなるにつれて様々な問題が生じて人々が離れたり、またそれ以上増えませんでした。


神様は、ただ多くの人たちがクリスチャンになれば喜ぶでしょうか?
たとえ全世界の人がキリストを信じたとしても、神様はそれで満足をするでしょうか?


数え切れないほどの教会が建ったからと言って、イエス様はそれで満足しません。
神様は、このように数字や形には関心がないのです。

主が一番関心のあることは、私たちの心であります。

その心がキリストと一致しているのか、ということです。
それはキリストの心が自分たちの中にも無ければいけないということです。


“うわべ”だけのクリスチャンや、クリスチャンと言いながらも教会に通わず、祈りもまったくせず、みことばも読まないようなクリスチャンを神様は喜ぶでしょうか。

このような信仰で「私と神様は一致している」と言えるでしょうか?

教会に集まる人たちも色々な人たちがいます。
そこで問題や分裂、争いがあります。信徒同士や牧師など色々あります。


しかし、よく考えると その問題の原因になっているものは何かを詳しく調べていかなければなりません。

うわべに表れているものが、その問題の原因ではないです。

例えばピリピ教会の中でも信徒同士に分裂の問題がありました。
その信徒たちの自己中心的で高慢、妬み、争いなど、様々な思いで人間関係が壊れていました。


教会とは頭(かしら)がキリストであります。そして信徒は1つ1つの身体の器官だと聖書に書かれています。
目には見えない神様ですが、頭のない身体は存在しないのです。

そこで私たちが組み合わされているのが教会です。


ですから、そこにイエス様が存在しないならば、建物があって人が集まったとしても そこは教会ではないです。それを神様が教会とは認めないです。

しかし、ある意味で イエス様が存在しない教会が多いのです。形は教会でも、中身は教会ではないのです。

今回のテーマ箇所の3節に「自己中心」ということばが書かれていますが、自己中心が様々な問題の原因となっています。自己中心は、ある意味で高慢であります。「自分が1番」であるのです。


クリスチャンであり神様のことばを聞きながらも変わらない人々がいるのです。自己中心的な人がたくさんいます。
ですから問題が消えなく、分裂が起こります。


信仰歴が長い人でも自分を捨てないならば、自己中心的な思いが消えることはないです。


「私の意見が正しい。私の考えは曲げる必要はない」と自分が間違えていても変えようとしないのは高慢です。


【Ⅱ歴代誌7章14節】

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、 わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

これは全ての人に向けて語ったのではなく、「わたしの名を呼び求めているわたしの民」に語りました。

民になったから全部同じだということではないです。
民と呼ばれているにも関わらず、神様のみこころと反する生き方をする者たちが相変わらずいることを神様は見ておられます。


神様が求めているものは、みずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、悪い道から立ち返り罪から離れる者に対して神様は、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそうという言葉があるのです。

神様は、神様と心が1つになっている者を求めているのです。


【Ⅱ歴代誌16章9節】

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。

世界人口の33%がクリスチャンだと語りましたが、その中から神様と心が1つになっている者を探さなければ見つけることが出来ない状態なのです。

それは神様と全く一つになっている者が少ないということを意味するのです。


私たちはすぐに神様から見つけ出される者でしょうか?

外見はクリスチャンらしくしていても、神様とは違う心を持っている人が多いのが現実です。それをそのままにしておいても良いでしょうか。

私たちがキリストと同じ心を持っているならば、行くすべてのところの問題が消えていくと思います。
しかし、外見はクリスチャンだとしても 悪魔の心を持っているならば、争いや分裂の原因を作るでしょう。

自己中心的な思いは、どこにいても問題を起こします。


皆さんは精神科病院へ行ったことはありますか?

私は行ったことがあり、精神病にかかった人と多く接しました。見た目は変わったところがなく、分別力もあります。きちんと話もしますが、その人たちの中で共通するものがあります。

皆、自分の話しかしないのです。自分のことにしか関心がありません。
また、被害者意識が強く、他人の話を聞かず、変えようともせず、自分の考えや思いを主張する傾向が強いです。


クリスチャンも「主よ、主よ」と言っている人が、神中心ではなく自己中心な思いがすごくあり、自分の考えを捨てないです。


自己中心は何1つ良い実を結ぶことがないです。


ですからイエス様が「わたしについて来たい者は自分を捨て」という言葉を使いました。
これは自分の良い部分を捨てなさいという意味ではなく、自己中心的な思い、高慢な思いを捨てない限り、(イエス様とは)一致しないということであります。

イエス様と自分の中で葛藤が多い人は、何が問題でしょうか?
神様や環境ではなく、自分自身が問題であります。相変わらず虚栄心などを持っているのでイエス様と合わないのです。

イエス様と一致しない人は、周りの人とも一致ができないです。
一致をするためには、それらを捨てなければならないです。


私たちがイエス様の心を持つための1番の方法は、イエス様をいつも見ることであります。

福音書を読むと、イエス様の姿が出てきます。イエス様から目を離さず、イエス様の姿をジーッと見ることです。
これはイエス様を観察をすることであります。


そして、私たちがイエス様の心を持ちたいと思うならば、へりくだり謙遜にならなければいけないです。

イエス様はもともと神でありました。神が人間の身体をとって地上に来られました。
もうこれだけでも謙遜であります。人間は神になろうとしますが、イエス様(神様)は人間になりました。さらに人に仕えたので、ものすごく謙遜です。

私たちの足を洗い、私たちの重荷を負ってくださるのは、神様の謙遜な姿であります。

私たちが高くなろうとするなら、イエス様と一致するのは不可能です。

しかし、高慢で高ぶっていた者が自分を低くして へりくだっていくならば、だんだんイエス様の心を自分の中で持つことができます。

私たちはイエス様を見ながら、頭を下げて自分の身を低くしていかなければならないです。






愛・憐み・寛容な心は、なぜ必要だと思いますか?

私たちは他人を愛することが出来ない者であります。
自分のことや所有物、家族は愛しても、それ以上の愛がないです。

他人を愛することも、自分の好みの人だけを愛します。自分のことを愛してくれる人を愛します。
少しでも気に入らないと私たちは、その人と縁を切ってしまいます。その人を嫌ったり呪ったりします。
私たちはそのような者であります。


教会の中で、私たちが他人に接する姿をイエス様は見ておられます。
例えば、教会でアルコール中毒者が来たとします。また、麻薬中毒者が入ってきたとしたら、その人たちを歓迎するでしょうか?しないでしょうか?

そのことによって私たちの中にキリストの心があるかどうかが試されていきます。
「あんな人は来なければ良いのに」という思いを持って、その人に見向きもしないならば、自分にキリストの心がないことであります。


イエス様は罪人や遊女、悪霊にとりつかれている者や病人のところへ行きました。
そのことを宗教指導者たちはものすごく軽蔑をして悪口を言いました。

もし私たちが宗教指導者たちと同じ心を持つならば、それはパリサイ人、まむしのすえどもと同じであります。

私たちは自らその場所へ訪ねていかなければならないです。そして歓迎をしなければならないです。
そのような人の中にはイエス様の愛や憐み・寛容な心があるのです。寛容は広い心で、差別することがなく、その人を受け入れる心です。


神様はクリスチャンに願っているのは、イエス様の中にある心を持って欲しいということです。
愛を持って接するならば、死んでいたたましいが生き返ります。


信仰生活を送りながらも、心が冷たい人がいるのです。その人の中に温かいものがないです。人と接する時にも笑顔がないです。

これは鏡で自分の姿を見て、みことばに照らし、「果たして自分はどうなのだろう?」と自分の中にイエス様の心を持っているのかを確認しなければならないです。


イエス様が再臨した時は、信仰歴が長い者でも、奉仕をたくさんする者でもなく、イエス様と心が1つになっている者が一番初めに天に引き上げられます。






バンジージャンプをしたことはありますか?
ロープに身を任せて、高い所から飛び降ります。それはとてもシンプルです。飛び降りれば良いことです。
これは子供にも分かることです。それは理論的に難しいことがないからです。

しかし、知識と実際にやることは全く別のものです。
ある者は「出来ます」と言って 身体にロープをつけたのに、直前になって出来ない人もいます。


これを見て、私たちが分かることは、いくら理論を知っていても実際に飛び込まないと分からないことであります。
飛び降りた人が初めてバンジージャンプがこういうものだということが分かるのです。

私たちはイエス様に対しても、そういうことであります。

「イエス様の心を持つことはこういうものです。」と、このように言うこと自体は知識です。
しかしイエス様と親しくなってイエス様の心を持つことは全く別のものです。


理論だけで生きているクリスチャンが多いということです。実際に(イエス様に)飛び込んだ人は少ないということであります。知識を持ったからといって、それが何になるでしょうか。

信仰生活は実際にやらないと分かりません。実際にイエス様に近づかなければ、イエス様がどのような方なのかは分かりません。


クリスチャンは「信仰、信仰」と言っても、キリストの中に飛び込まないと、いつまで経っても その人の心が燃えることはなく、心が変わることもないです。

しかし、私たちがキリストの中に飛び込むなら、キリストも私たちの中に飛び込んでくださるのです。そこで1つになるのです。

信仰は知識ではないです。もしも知識の信仰ならば、その知識が偶像になります。


皆さんはイエス様に出会ったことに対して、どのように思っていますか?
イエス様に出会えたことは人生で最高の恵みだと思っているでしょうか?

皆さん1人1人の信仰の姿は違います。しかし神様が求めるのは1つであります。「わたしの心を持ちなさい。」ということです。

信徒1人1人にその心があるなら、争いが起こらないのです。皆違うのでバラバラになり分裂、争い、戦いがあるのです。

ですから、「自分の心にイエス様の心が無いのが問題であり、いつも私が問題を起こしているのだ。」と思ったら良いです。


自己中心を捨てない限り、イエス様の心が私たちに入ることはないです。

イエス様が行ったことはすべて正しいので分別をする必要がないです。
つまり、イエス様の口から出ることば、すべての行動は正しく、真理そのものですので、私たちがそのまま受け入れて良いということです。


様々な問題は自分自身の中にあるのです。ですから自分自身が変わらなければいけないです。


イエス様の心をもっと持たなければ、イエス様が私たちを見た時に「あなたはどこから来たのか。わたしはあなたを知らない。」という結果になると思います。
ですからそういうことにならないように、イエス様の心を皆さんが持ってください。それが聖徒であります。
(^∀^)

2014.8.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちの罪と神様の恵み

テーマは『 私たちの罪と神様の恵み 』です

【ミカ書7章18-20節】

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、 怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、 すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。

ミカは預言者です。神様は彼の口を通して、罪深いイスラエルに対して裁きの言葉を語りました。

憐み深く、恵み豊かな神様ではありますが、選ばれた民たちが神様の恵みに感謝もせず、仕えることもしないで神様を悲しませました。

聖書には、「憐れむのに飽いた」という言葉があります。神様が何度も憐れんでも、民たちが罪の中に留まり立ち返らないのです。

聖書に出てくる「罪」とは何でしょうか?
全ての人間は罪を犯していますが、人間は神によって造られた被造物であります。
ですから、造られたものは 当然のように神様のみこころに従って歩まなければならないです。
これが救われた人間の義務でもあります。

しかし人間が みこころに従わず、自分勝手に行動をすることが罪なのです。


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

人間はなぜ死ぬのでしょうか。

ただ身体が弱ったから死ぬのではなく、主が語った言葉通りに罪から来る報酬を自ら受け取るので死ななければならないです。

罪は人間から出たものです。自らが罪の種を蒔き、さらに罪を犯して大きくしていきます。
神様は罪がない方であり、神様から出てくるのは恵みであります。
罪を犯している人間に対し 神様は律法通りに裁くならば、その都度 殺さなければならないです。
そうすると地上に人間は存在しなくなります。

しかし、罪を犯しても神様は何度も赦して、私たちを生かしてくださいました。


神様の恵みから離れると(その人から)何が起こるでしょうか――。
自らが罪を犯すと、消えていくものがあります。それは恵みです。

神様の恵みは、みことばや聖霊様から来るものが一滴一滴 自分の中に貯まり、それを飲んで癒されていくのです。

罪を犯すと、一滴一滴の中に毒が撒かれるのと同じであります。つまり飲めない水になるのです。
そうすると汚れてしまい喜びや平安が消えます。
外見では、笑ったり 信仰も形式的に守っていくのですが、その人の深い部分には喜びがないです。
霊が枯れて飲む水がなくなるので その人は死にます。

完全に器を変える為には悔い改めて、神様に洗ってもらわないと心の泉が綺麗にならないです。
神様に立ち返る方法しかないです。
足を洗い、心を洗って帰ってきたら 神様はその人に希望を与えてくださいます。

不従順・不信仰は、神様に敵対することであります。それによって得るものは無いです。

人間が罪を犯すと、罪の奴隷になります。


【箴言5章22節】

悪者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪のなわにつながれる。

これは奴隷の姿であります。
罪を断ち切らないと、繋がれているので離れられなく 罪から解放されることがないです。
初めは小さな誘惑から始まりますが、そこから立ち上がらないのでサタンは足かせをかけておくのです。

サタンの手から逃れるために 必死に もがいて神様を求めるならば、その罪を赦してくださいますが、
ある部分ではその人は その罪を楽しんでいるのです。
自分の肉の欲の方が強いので「私はしばらくここで楽しみたい」とサタンに繋がれているにも関わらず気にしないのです。

神様から「立ち返りなさい。」と言われた時には、“その時 ” が立ち返る時であります。


それが神様の愛と憐みであり、恵みであります。
神様はたくさんの厳しい叱責の言葉を語ります。これは「愛」なのです。愛がなければ言わないです。

なぜなら、そのままだと滅びに至るからです。
それなのに、「イヤだ。良い言葉が欲しい。厳しい言葉は聞きたくない。神様は私のことを憎んでいる。」
これは、目がくらんでいる姿です。罪によって目がくらむと悟りがないのです。自分の足の下には地獄が待っているのに気付いていないです。

周りの人たちは、それに気付いているので 離れるように言いますが、その人は罪によって、みことばに覆いが被されているので暗闇に陥っていきます。

しかし、神様は私たちが罪深い者であることを知っているのです。そして神様の恵みの手が働きます。

今、自分の目が開かれていると思っている人たちは考えなければならないです。本当に自分は目が見えているのでしょうか?

私たちは神様の恵みがないと、生きる道がなく希望がないです。


【Ⅱペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。 かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを 望んでおられるのです。

すべての人が罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることが出来なく、それによって神様は裁きを遅らせているのです。

それは神様の深い愛であり 憐れみであります。「帰ってきなさい。」と恵みのところに来ることを望んでおられます。
このように優しく語ってくださる神様がどこにいるでしょうか?―― この世に神と呼ばれるものはたくさんあっても、
憐み深く、赦してくださる神様はいないです。

他の宗教では、罪の話は全くしないです。彼らがしない理由は そこに救いがないので 初めから触れないのです。
そして良いことをしなさいと言いますが、一度汚れてしまった者に良い服を着せたとしても中身が汚れていますので 絶対に聖い者にはならないです。


しかし 主は汚れた罪を始末する恵みを持っておられます。
私たちは罪や咎ばかりですが、主の恵みで そこから救い出してくださいました。

この素晴らしい神様を悲しませてはいけないです。

自分が今どのような姿なのかを見て、まず自分が先に立ち返ることです。
祈りでも、自分が欲しいものを求めて祈るのではなく、祈りをしてから 神様に耳を傾けることであります。

私たちは神の声を聞くために祈るのです。

立ち返ることは祝福です。主の言葉を信じるのが祝福であり信仰であります。

他人が自分に対して罪を犯した時も、私たちは愛のある者、憐み深い者、許す者にならないといけないです。
他人を裁くと、神様から「あなたはどうなのか?あなたの心のほうが、よっぽど汚れている。しかし わたしがあなたを赦しているのだ。」という声を聞かなければならないです。

私たちを愛し、赦してくださった神様に対して 私たちは本当に感謝をして、私たちも神様を愛し、神様の傍から絶対に離れないようにしましょう。

忍耐をしながら ますます神様に頼っていくならば、神様から来るものは、恵みの上にさらに恵みであります。
命の水が枯れることはないです。 (^∀^)

2013.12.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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