からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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主を愛せずにはおられない理由

テーマは 『 主を愛せずにはおられない理由 』 です

【マタイの福音書25章40節】

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

主を知らない人は、主とは無関係です。


彼らは言います。

「主とは誰なんだ。そんな者は知らない。」と言います。


しかし主に出会って、人生が大きく変わった人ならば、主の存在は何ものにも代えがたい存在になります。

愛さずにはおられない存在です。



聖書に出て来る人物の中で、主に出会って人生が大きく変わった人たちがいました。

その中には主が言われた「最も小さい者たち」がいました。


“最も小さい者” とは どのような人のことでしょうか?


空腹な者、着る物がない人、住むところがない人ですか。

彼らは小さい者と言うより、貧しい者と言えます。



本当に小さい者が誰なのかを学びたいと思います。


そして、主が 彼らにどのように接したのか、これが大切です。

それを知らないと、私たちは小さい者をつまずかせてしまいます。


主がどんなに偉大な方で、語ることばが立派であっても、それだけで、小さい者たちが素直に主を信じることはないです。


自分が直接 主に出会って、そこで感じたものがあるので彼らは変わりました。






●ザアカイ

民族の血を吸って金持ちになった取税人ザアカイに対して 主が見せた態度、
彼の名を呼んで、その家に泊まらなかったならば、彼は主が遠い所からわざわざ来られたとしても主を信じて変わることはなかったと思います。


人々から「あの人は罪人のところに行って客となった。」と文句を言われても、イエス様は最も小さい者であるザアカイを見つけて彼を救いました。


ザアカイはあまりにも嬉しくて自分の財産を手放して主を受け入れました。



●姦淫の場で捕らえられた女

姦淫の場で捕らえられた女は、石を手にした律法学者とパリサイ人たちに連れられてイエス様の所に来ました。


彼女は自分の死を悟って恐怖心で震えていたと思います。

人々の手にある石を見たからです。


彼女は殺される寸前でした。

罪を犯した現場で捕らえられたので、逃げることも出来ませんでした。

律法によって死刑の刑罰を受けなければなりませんでした。


この時、主の目には彼女が最も小さい者に見えました。


イエス様は誰よりも大きな愛を持っている方ですが、目の前にいる女を助け出さなかったならば、女にとってイエス様は愛の神ではなく、刑罰を与える怖い神の印象しか受けなかったと思います。


イエス様は彼女を助ける行動に出ました。


主は人を死なせるために来られたのではなく、生かすために来られましたので、彼女を赦しました。


死からいのちを得た彼女にとって イエス様はいのちの恩人であり、罪を赦す神、愛の神であることを知りました。

主を愛さずにはおられない者になりました。



●ラザロ

死んだラザロやその家族のために見せた主の涙で、人々は主が彼らをどれほど愛していたのかを知りました。






愛の神と言われても自分が体験しないと、素直に その愛を信じることは出来ないです。


ゲッセマネの園で、汗が血のしずくになるまで ひれ伏して「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈りました。


それがなかったならば、主が墓から復活したとしても、信じる者が、主が歩んだ道について行くことは難しいです。



主は最も小さい者たちに関心を見せ、彼らが主の愛に触れるようにしました。

主にある救いと恵みを受けるようにしました。


そして彼らが新しい人生を生きるようにして下さいました。



もし 主が高い所におられるなら、最も小さい者たちにとっては雲の上の存在なので、一生 主に触れることはないと思います。

主の救いも 恵みも 愛も受けることはないと諦めると思います。



しかし、主は最も低いところに来て下さいました。

そして私たちも、主のように 最も小さい者に関心をもって欲しいと願っておられます。


私たちも 最も小さい者の1人であったことを思い出しましょう。


【ヘブル4章14-15節】

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

アーメン (・∀・)

2021.6.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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愛とは

テーマは 『 愛とは 』 です


「愛」とはどのようなものでしょうか。

聖書の「愛」は恋愛の「愛」ではなく、心がドキドキするような「愛」ではなく、恋人や夫婦の中の「愛」のことではなく、恋人、夫婦、子ども、兄弟、家族、教会の兄弟姉妹、友達、会社の人、周りの人々すべてに対する「愛」を指します。


【第1コリント13章1-13節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


まずこの箇所を大きく分けると3つに分けることができます。






1)愛なしでは意味なし(1-3節)

2)愛の性質(4-7節)

3)愛は絶えない(8-13節)


2つ目の「愛の性質」を詳しく見ていく前に、先に他の二つを確認していきましょう。


1)愛なしでは意味なし(1-3節)

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


たとえ、どんなに賜物を持っていても、預言が出来ても、知識が優れていても、完全な信仰があったとしても、愛がなければ意味がありません。


すべて それは形だけ、スペックだけがすごくて中身がない人間です。

たとえ、全財産を貧しい人にあげて素晴らしい奉仕をしたとしても、迫害から逃げずに信仰を貫いたとしても、愛がなければ何の価値もないのです。


それほど愛はすべてのうちで最も大切であり、愛がなければ何の意味がないほど、愛は必要不可欠なものなのです。


3)愛は絶えない(8-13節)

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


預言、異言、知識はすべて神様、イエス様についてです。


今は私たちが直接神様、イエス様と会うことができません。

そのため、これから再び来られるイエス様や世の終わり、天の御国についての預言が与えられていますが、その預言は神様について すべて語られているのではなく、一部について語られているのです。


それはまるで鏡にぼんやりと映る姿を見ているようです。

当時の鏡は今私たちが持っているような くっきりとはっきりと映っている鏡ではなく、青銅でできた鏡のため、ぼんやりと映っていたのです。


神様やイエス様のことを私たちは今はっきりと見ることはできず、預言や聖書を通して、どういう方なのか、ぼんやりと知っています。



でもイエス様が再び来られる時、また私たちが天の御国に帰る時には 私たちはいよいよ神様、イエス様と直接顔と顔を合わせて見るようになるのです。


そうなると預言、異言、知識はすべて必要がなくなります。

残るものは聖書に書かれている通り、神様を信じる私たちの信仰、イエス様の中にある希望、神様、そして人々への愛なのです。


この愛は止まることがなく、なくなることがなく、常にあるものなのです。

次に、実際にこの愛とは何か、4-7節を詳しく見ていきましょう。






2)愛の性質(4-7節)

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


① 愛は寛容、親切

この「寛容」は、ギリシャ語では「忍耐」の意味であり、特に「何か怒るようなことがあったのにも関わらず、文句も言わずに我慢すること、忍耐すること」を意味しています。


相手が何かあなたを怒らせるようなことをしたとしても、それに対して文句を言わずに忍耐し、赦すこと、寛容である姿が愛の姿なのです。

しかもそれに加えて、その人に親切にすることが本当の愛の姿です。



私たちが悔い改めをする時、「しまった」と心から反省する時はいつでしょうか?


それは人に指摘され、文句を言われた時でしょうか。

いや、むしろ逆に悪いことをした相手が私たちを赦し、それどころか親切にしてくれた時に心から「申し訳なかった」と悔いたり、反省をしたりするのではないでしょうか。



人の心を溶かし、和らげるのは、指摘の言葉ではありません。

人の心を動かし、和らげるのは、その人を赦す心、寛容な心、相手に対する親切な心、親切な行動なのです。


愛は相手があなたにしたことに対して、文句を言わずに忍耐し、逆にその相手に親切に接することです。





② 妬まない、自慢しない、高慢にならない

妬みとは、他の人が持っているものや、他の人のことを羨ましいと思うことや、誰の方がもっと良いのか、優れているのかと言い争うことです。

また、人の成功を喜ばしいと思わないことです。


ここでの「愛は自慢しない」は、その相手に対して自分のことを自慢しないということです。


「私すごいでしょ、偉いでしょ」と自慢すること、高いプライドを持って相手に接することは愛のない姿です。

それは相手の徳を高めること、つまり人々の役に立つ、人々がよくなるように仕えるのとは正反対であり、「自分自身、自分だけよければ良い」という考え方なのです。


本当の愛の姿は、相手に対して自分のことを自慢せず、相手の上に立とうとしません。






③ 礼儀に反することをせず、不正を喜ばない

礼儀とは、人前での態度、ふるまいです。


ここでは、礼儀に反する事として不品行や、性的な問題なども挙げられます。

今でいう「ハラスメント」をしないということです。


自分自身がしないということだけではなく、相手が行っている不正、つまり聖書的ではないこと、聖書に反することを喜ばないことも愛です。


もし相手が罪を犯しているのならば、その罪自体に私たちは喜ぶべきではありませんし、むしろ相手が正しい道に戻れるよう、神様が喜ぶ姿に変えられるように努めるべきです。


ここでの「真理」は、義と霊的に清いこと、つまりは神様の中で正しく、霊的であることを喜ぶべきだと教えています。





④ 自分のやり方、自分を優先しない

日本語の聖書では、「自分の利益を求めない」と書いてありますが、ギリシャ語には実は「利益」という言葉はなく、「自分の」とまでしか書かれていないのです。


つまりは「自分のもの」を求めない、言い換えると自分のやり方、自分を優先しないということです。






⑤ 怒らず、人のした悪を思わない

ここで「人のした悪を思わない」とありますが、ギリシャ語では、「人のした悪を数えない、記録しない」という意味です。


私たちは よく「この人にこんなことされた」「昔もこんなことしたよね」と相手がした悪いことを心の中で記録しがちです。


でも、人を愛することは、その人がした悪いことを心の中で記録せず、数えないことです。

罪は悪いことですし、犯すべきではないのですが、いつまでも人の罪を私たちが覚えて記録しておくべきではないのです。


神様も罪自体は全く喜ばないですし、私たちが罪を犯さないことを願っていらっしゃいますが、私たちが犯した罪をいつまでも記録して覚え、ずっと責め続けることはなさらないのです。

私たちが支払うべき罪の代価をイエス様が代わりに支払ってくださったからです。


私たちにした人の悪は、私たちが記録せず、代わりにイエス様がその人の代価を支払ってくださったことを覚え、その罪を赦すべきです。






この愛の姿を全部まとめて書いてあるのが、7節です。


すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

この愛の姿ですが、私たちの実際の生活の中で一番想像しやすく、似ている姿は、“赤ちゃんへの母の愛” です。


お母さんは赤ちゃんと共に過ごしながら、その赤ちゃんが泣きまくったり、変えたばかりのおむつにうんちをしたりしても怒らず、そのことを覚えて責めず、それでも赤ちゃんにやさしくし、大切に接するのです。


夜泣きをしてあまり眠れなくても赤ちゃんをあやしますし、それでも赤ちゃんの面倒を見ますし、礼儀に反するようなことはしません。

お母さんはいつも自分のことは優先せず、赤ちゃんを優先して赤ちゃんのことを思います。


その赤ちゃんのためにすべてを我慢し、その赤ちゃんが元気に大きく育っていくことを信じ、期待し、何があっても耐え忍びます。

この親の赤ちゃんに対する愛が、聖書で書かれている愛の姿に一番近い身近な愛の姿です。



また、この世で完全な愛を見せたのは一人しかいません。

それはイエス様が私たちに向けた愛です。


イエス様が私たちを愛したその姿、その愛の形はここで書かれているのにすべて当てはまります。


聖書で書かれているイエス様の姿を見ることによっても、愛がどういうものであるかを私たちは知ることができるのです。


その愛を私たちも実践していかないといけないのです。

なぜ私たちは周りの人を愛さないといけないのでしょうか。


彼らが私たちによくしてくれたからですか。

家族だからですか。


何かをしてくれたから愛すのではなく、その隣人を愛することは神様が私たちに与えた一番大切な命令だからです。


【マタイの福音書22章35-40節】

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


私たちが周りの人を愛す理由は、その人がどうとか、何をしたからとかではなく、神様がそのように私たちに求めているからです。


神様が私たちを愛してくださったのも同じです。

神様が私たちを愛すと決めてくださったから、私たちが罪を犯し、どんな姿であったとしても、私たちを赦し、愛し、信じて待っていてくださるのです。



私たちも神様が私たちにしてくださったように、周りの人を愛すべきなのです。


完全な姿ではないけれども、少しずつキリストの姿に似たものになること、そのためには何よりもキリストが私たちに一番大切だと教えてくれた「隣人を愛しなさい」ということを実践することが大切なのです。


【第1ヨハネ4章7-11節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2021.5.23
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神の深い愛を経験しよう

テーマは 『 神の深い愛を経験しよう 』 です

【第1ヨハネ4章9-11節】

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

クリスチャンが神の愛が何かを知らないならば、信仰に対して何も知らないのと同じです。


なぜなら神は愛だからです。

神を信じる信仰とは、神を愛することです。


他人から恋人関係になるのは、2人が恋に落ちた時からです。

1人だけ愛しているならば、それは片思いの愛であり、恋人にはなっていないです。



神は愛で、私たちを愛しています。

それだけでは私たちが神の愛を知ることは出来ないです。


私たちが主のように自分をささげるまでは 神の愛を知ることが出来ないです。


神から愛されている実感がないと思っているならば、自分が神を愛していないことです。




愛は火のように熱く、死のようにまた真剣です。


1人の女性を愛した2人の男性が、その女性を得るために命を懸けて決闘したことは昔から聞いています。

それほど愛に最高の価値を置いた若い世代がいました。


もちろん今も愛に命を懸けている者もいると思います。



人々がこの世で不満、苦しみ、悲しみの中で生きている理由は、自分たちに対する神の愛がどれほど大きくて素晴らしいかを知らないからです。


雅歌8章6-7節にある愛です。

愛がどんなに強いものであるかを見せてあります。



【雅歌8章6-7節】

私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。

大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。


人間が先に神を愛したことは一度もありません。

神が先に私たちを愛しました。


私たちが罪の中で神に敵対しているのに、それでも愛し続けておられるのが神です。



使徒パウロは、神の愛がどれほど熱い愛かを経験した人でした。


神の教会をつぶし、聖徒たちを激しく迫害したのに、神は怒りではなく、愛の手を彼に差し伸べました。

パウロはその愛を受け入れました。


そして自分も命を懸けて主を愛しました。

ですから神の愛を経験し、このように語りました。



【ローマ8章38-39節】

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


父なる神の愛は、ひとり子イエス・キリストを世に遣わし 十字架につけて、その血で私たちを救い出した “血の愛” です。


すなわちその愛は、キリストの死に現れました。

キリストはなだめの供え物として来られました。


私たちの罪のために いけにえとしてキリストがささげられたことを軽く考えてはいけないです。


そこには命を懸けた愛があるからです。






レビ記の中にいけにえとして ほふられる家畜が どんなにひどい目に会うのかを考えるならば、神の愛、キリストの十字架、罪の赦しが どれほどすごいものであるかを実感することが出来ます。


神にとって一番の苦しみは、人々が神の熱い愛に対して反応しないことです。



神の愛が熱い分、その愛をいつまでも無視する人に対しては、神の怒りが同じくらい燃えることも知らないといけないです。


律法の中で一番大切な戒めが次の箇所です。


【マタイの福音書22章37節】

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』


私たちの中に 少しでも愛があるのは、私たちの心に神の愛が先に感動を与えて下さったからです。


十字架を見上げて主の愛を深く考えるならば、私たちに対する神の愛の大きさに圧倒されて、神を愛せずにはおられなくなります。



神様よりも大きな愛を体験したことがありますか?

神よりも大きな愛を持っている者は存在しません。


本当のクリスチャンは 神の愛に感動して、愛のとりこになって神だけを愛して生きることを決心した人です。



暗闇の中で滅びに向かって歩んでいる者たちを目覚めさせたのも神の愛です。

神の愛を深く知ることが何よりも大切です。


主の御座に近づく者は、もっと主の愛を知ることが出来ます。

主は私たちだけを見て愛して下さいました。


ですから、私たちも神しかいないかのように生きると、毎日 主の深い愛を経験しながら生きることが出来ます。



神への熱い愛も、隣人に対する愛の行為もない人生は、むなしく喜びもないです。


神の愛を経験してみて下さい。

経験すると信仰、生き方、人生、死に対する考え方がすべて変わります。


そしてその愛で本当に心が満たされていきます。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2021.3.14
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アドナイ・イルエ ~もう一人のアブラハム~

テーマは 『 アドナイ・イルエ ~もう一人のアブラハム~ 』 です

【創世記22章1-14節】

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。


今日は皆さんがよくご存知の創世記22章に出てくるアブラハムとイサクの話をしたいと思います。

「あ、またその話か」と思うかもしれないのですが、ぜひ聞いてほしいです。



創世記22章に書いてあるように、アブラハムは神様に「一人息子のイサクをささげなさい」と言われて、朝一に起きて、イサクとともに神様に指定された山に登り、イサクをささげようとしました。


実際にイサクを薪木の上に置き、縄で縛り、殺そうとした時に 神様がアブラハムの手を止めました。


神様はアブラハムが誰よりも神様を第一にして、愛するその愛の姿、また、神様の御言葉、約束を信じたそのアブラハムを見て、その信仰をほめました。



この話は、新約聖書でも伝えられ、アブラハムはその信仰のゆえに、信仰の父と呼ばれています。


何一つ神様に文句も言わず、疑問も問いかけず、神様の言葉の通りに実行するほどの大きな信仰を持っていたアブラハムの姿は、私たちが見習うべき姿でもあります。






しかし、ここで もう一つ知っておきたいことがあります。


実は聖書ではアブラハム以外にもう一人、自分の愛する一人子をささげた人がいます。

しかも、その人の息子は、イサクのように殺される寸前で助かったのではなく、本当に殺されてしまったのです。



それは、父なる神と、そのひとり子イエス・キリストです。


アブラハムは神様のために、愛するひとり子イサクをささげました。

神様は私たち罪人のために、愛するひとり子イエスをささげました。


イサクは自分がこれから死ぬことも知らず、モリヤの山に自分が上に乗るための薪を担いで登っていきました。



イエスは自分がこれから死ぬことをすべて知りながら、その為にこの世に来て、人々にムチ打たれ、縛られ、自分がつけられる十字架を背負えないほど傷つけられ、代わりにシモンというクレネ人が イエスの十字架を背負い、ゴルゴダの丘に登っていきました。


神様は、愛するひとり子よりも、何よりも神様を愛するアブラハムの信仰を見て、アブラハムがイサクをほふろうとしたのを止めて、イサクを救いました。



神様は、誰よりも私たちを愛するために、ひとり子イエスが十字架にかかり、ムチ打たれ、釘を刺され、血を流し死んでいく姿を見ながらも止めずに、イエスを代わりに死なせ、私たちを救いました。


それが神様の愛です。

ひとり子イエスを死なせてまで、私たちを救われたのは、神様の愛なのです。


神様は、罪人が神様に立ち返り、その罪を洗い清めるために、すべての罪の代価を自分のひとり子イエスに着せたのです。


罪にまみれた私たちが、神様の前に出る価値、資格すらない私たちが、神様と和解するために、何の罪もない、裁かれる必要もなく、苦しむ必要も 死ぬ必要もまったくなかったイエス様が私たちの代わりに、罪の代価をすべて払ってくれたのです。






神様はアブラハムの時のように、イエスを十字架にかけることを止めることもできたのです。


そもそもこの世にイエス様が来ないようにすることもできました。

だけれども、それをやめませんでした。



もしイエス様がこの世に来ず、十字架にかけられず、三日目に蘇らなければ私たちがそのまま滅びていくからです。


神様は私たちのために、自分のひとり子イエスが十字架にかけられ、死ぬことをストップせず、また、イエス・キリストもすべての痛み、苦しみを全部受け止めて、最後までそのミッションを果たしたのです。


そのミッションは急に決まったのではありません。

人が初めて造られ、その人が神様に初めて歯向かい、罪を犯し、自分の姿を見るのも 見せるのも恥ずかしくなって神様から逃げた時に、神様はイエス様を送ることを決意しました。



私たちが一番恥ずかしい時、神様から遠ざかった時、神様よりも偉くなりたいと思った時、自分たちのことで頭がいっぱいになっているその時に、逆に神様は私たちを愛するがゆえに、イエス様をこの世に送り、十字架にかけさせることを決めたのです。


このアダムとエバが罪を犯した時に、アダムとエバ、蛇、それぞれに裁きがありましたが、それと同時に神様が約束されたことがありました。

それは、蛇に対して言った言葉の中にありました。


【創世記3章14-15節】

そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。


アダムとエバの子孫が、蛇の頭を砕いて、蛇はその彼のかかとにかみつくと。

つまりは、のちに来るイエス・キリストが、蛇の頭を砕いて勝利する、と。


そこに勝利があります。

ただ、そこには「彼のかかとにかみつく」、つまり “キリストも攻撃を受けるんだ” という言葉がありました。






人間が神様に一番歯向かった時、そのまま滅ぼされてもおかしくなかったその時に、神様が決断されたこと、それはひとり子のイエス・キリストを送り、苦しみを負わせるが、人間を罪の道へと走らせた悪魔の頭を砕き、完全勝利するということ。


神様はそれを約束されたのです。

人間が何か良いことをしたから、神様の御心にかなったから、イエス様がこの世に来たのではありません。


それはただ、神様の愛であり、許しであり、神様が初めからそうすると決めたからなのです。


【創世記3章21節】

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。


神様は私たちが罪を犯して一番恥ずかしく、一番だめな時に、私たちの罪を、私たちの恥ずかしい姿を覆い、隠すために、皮の衣を作ってくれました。


私たちのために作ってくれたその皮の衣は、動物の犠牲がありました。

私たちのために、ほかの者の命が犠牲になったのです。


これは のちに罪の贖いをするために来られるイエス様を象徴しています。



初めから、私たちの罪を覆い、恥ずかしさを覆うために、ほかの大切な命を犠牲にすること、そうすることを神様が決められたのです。

神様はそうせずに、人間を滅ぼすこともできました。


しかし、神様はイエス様を十字架にかけて私たちを救うことを決意し、イエス様も最後まで逃げることもせず、やめることもせず、初めに神様がした愛の決断をそのまま守り抜き、やり通すことを決めて、十字架の上で私たちに愛を示されました。

なぜそこまでしたのでしょうか。


【第1ヨハネ4章9-10節】

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


理由はただ一つです。


神様が私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを生かすため、その大きな愛ゆえにこの世界に来てくれたのです。


それが、私たちの信じる、私たちがお祝いをするイエス・キリストの姿なのです。

クリスマスは、ただのお祝いや、イベントごとではありません。


神様の決意、イエス様の決意があり、その大きな愛を私たちが受け取る日なのです。

アドナイイルエ、神様が備えてくださった 十字架の救い、神様の愛を受け取りましょう。


このクリスマスまでの期間、神様の愛、イエス様の決意についてもう一度深く考え、その愛を受け止めていましょう。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2020.12.13
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あなたは準備していますか

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【第1テサロニケ4章16-18節】

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。


最近、世界の多くの人々が主の再臨や携挙に関する夢や幻を見ることが増えました。


YouTubeで 『Rapture dream』 や 『携挙』 で調べると、たくさん出て来るので それを参考にしたら良いと思います。

もちろんその中には嘘の内容を載せている人もいるので、惑わされないように気を付けて下さい。



主の再臨の前に携挙(一挙に空中に引き上げられること)があることは聖書に書いてあります。


その時がいつになるかは教えられていないですが、その前に起こることは色々と書いてあります。

詳しい携挙の場面はマタイの福音書24章にあります。


【マタイの福音書24章40-42節】

そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。


信じる者全員ではなく、半分でもなく、携挙される人はとても少ないのが事実です。



携挙のことは世の中の人たちはほとんど知らないです。

クリスチャンの中でも まだ知らない人たちが多いです。


しかし携挙の時が近づいているのは、世の動きを見るとはっきり分かります。



今年のコロナ、それによって生まれた様々な現象を見ると、今までとは違うことが分かります。

そして私自身が特に感じたのは次の箇所です。


【マタイの福音書24章12節】

不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。


アメリカで見る不法、コロナに関連して人々の愛が熱くなったのではなく、距離が出来、徐々に自分のことが優先になり愛が冷たくなってきました。


確実に携挙される人は、いのちの書に名前が消されずに書かれている人です。


それは、このような人です。


【ヨハネの黙示録3章4-5節】

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。


携挙された人たちは主によって神の国に移されて行きます。


【ヨハネの黙示録21章25-27節】

都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。

しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。


主は携挙される人、すなわち命の書に名が書かれてある人たちは知っているので、彼らに携挙のラッパの音を聞かせ、彼らの名を呼びます。

「○○○、ここに上がって来なさい。」と。


その者たちは主の花嫁として空中に引き上げられ、空中で主に会います。


その感激はことばでは言えないと思います。



しかし残された人たちには生き地獄の日々が残されてあります。

ヨハネの黙示録に書いているすべての災いが待っています。


いま目を覚ましている者たちを惑わそうとするサタンの働きはとても強いです。

霊的に眠らせようと必死に攻撃しています。


それに倒されないように、主に目を向け、信仰を失わないように、しっかりと準備出来るようにすることです。


アーメン (・∀・)つ


2020.12.6
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人とは異なる父なる神の思い

テーマは 『 人とは異なる父なる神の思い 』 です

【ルカの福音書15章31-32節】

父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

放蕩息子の例えは、聖書の中でも とても有名な例えです。


自分の過ちによって自分の人生をつぶした者が 父のもとに帰って来た時に、父が彼を迎え入れ、赦したので、彼は人生の再出発が出来ました。

もしお父さんが彼を受け入れなかったならば、彼の人生は終わったと思います。


お父さんの愛と赦しがあったので、彼の新しい人生が始まりました。



主によって新しい人生を始めた人物は聖書にたくさん出てきます。




ヨハネの福音書4章




1人の女がいました。

人目を避けて生きている女でした。


乱れた生活によって、すでに5人の男性と結婚し、今一緒にいる男性は夫でもなかったです。

人との付き合いも出来ないような罪深い人生を生きていました。


彼女の過去を知っているイエス様は、わざわざ彼女に声をかけ、彼女が新しい人生を生きるように希望を与えて下さいました。

彼女の人生はそこから大きく変わりました。




ヨハネの福音書8章




姦淫の場で捕らえられた1人の女が、イエス様の所に連れて来られました。


連れて来られた人たちは律法通りに女を殺すことを決めていました。

しかし それだけではなく、イエス様を告白する理由を得ようと わざわざ連れて来て、イエス様を試みました。


女は死を覚悟した絶望の状態でした。

生きる希望はまったくありませんでした。


死刑に当たる罪を犯したからです。



しかし 死と絶望から女を救ったのは、イエス様の一言でした。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」


その言葉で女に石を投げる勇気ある者は1人もいませんでした。


みんなが去った後に、主は彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と伝えました。



彼女が罪から離れ、新しい人生を生きたことは言うまでもないと思います。




ルカの福音書19章




民からの評判も悪く、罪人のレッテルが張られたザアカイという人物が出てきます。


彼は不正を働いて富を得た取税人のかしらでした。

どんなに金持ちであっても人々から除け者にされ、神の前でも罪人でした。


しかし彼の人生を新しく変えたのもイエス様でした。


その人を救った主のことばは「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」



このように、主が救ったのは 失われた人々、絶望や罪、死の陰を歩いていた人々でした。


彼らの過去の罪や過ちに目を留めず、彼らの未来に関心を寄せました。

そして何度も何度もチャンスを与える方です。



「あなたの過ちや罪によって あなたの人生が終わったかのように見えても、絶望したり、挫折してはならない。わたしの手をつかんで立ち上がりなさい。」と、今日も主は言われます。


【マタイの福音書11章28節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

アーメン (*´∇`*)


2020.10.25
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私たちのアイデンティティ

テーマは 『 私たちのアイデンティティ 』 です

突然ですが、あなたの自己紹介をしてください。


仕事や、家事、育児が忙しくなると、時間に追われ、一生懸命にタスクをこなすと、気づけば一日が終わるのです。

忙しい日々に忙殺され始めると、そのうち私たちは、心も渇き、何か問題があるとそればかりを考えてしまって、憤りを感じるのです。


毎日を生きるだけで精いっぱいになり、そのうち何で生きているのかすらわからなくなったり、もはや何も考えずにただ日々を送るだけになったりしてしまうのです。



そうなると、どうなるでしょうか。

神様の声よりも、人々の声の方を考えて、心がそっちに向いていきます。


そうなると、自分が本当は何者であるのかを忘れ、人から言われる姿をまるでそのようだと勘違いしていくのです。


どんどん苦しくなっていくのです。

一度立ち止まってみてください。


あなたは、本当はどんな人なのでしょうか。

本当はどう生きていくべきなのでしょうか。


今日は、私たちが本当は何者であるのかを知っていきましょう。






しっかりアイデンティティを知ることは、私たちが本来はどんな生活を、どんな人生をどのように生きるべきかを教えてくれ、その道へと導いてくれます。


本来のあるべき姿を生きることによって、私たちの人生の豊かさや、心の平安も変わっていくのです。

一度立ち止まって、聖書を読みながら知っていきましょう。


【エペソ2章10節】

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

私たちは、神様の作品です。


一人一人、神様が造った作品です。

神様は私たち一人一人を、目的を持って造られました。


また、大きな目的の一つとしては、ここに書いてあるように「良い行ないをする、歩む」ことであり、また、それは私たちが自分の力で何とか頑張るのではなく、神様から力を受けて、私たちができることをするのです。


私たちの大前提として、私たちは神様の作品であるということをまず覚えておきましょう。


誰かがあなたのことを悪く言おうが、あなたのことを否定しようが、私たちは神様によって目的を持って造られた、一人一人大切な神様の作品なのです。






神様が造ってくださったことを覚え、また、私たちが神様に造られたどんなものであるのか、さらに詳しく、私たちのアイデンティティについて考えていきます。


ところで、先ほど自己紹介をしてください、と言いましたが、聖書でもたくさん自己紹介が載っています。


その人の名前を述べる前に、言うことがあります。

聖書ではよく「ヌンの子ヨシュア」、「アモツの子イザヤ」など、父親の名前をまず紹介してから、その人の名前を紹介します。


では、私たちはどうでしょうか。

私たちは誰の子なのでしょうか。


【ヨハネの福音書1章12-13節】

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

【第1ヨハネの手紙3章1-2節】

私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。


誰かの娘や息子であったり、誰かの妻や夫であったり、あるいは誰かの母親や、父親、また、どこかの会社の一員であったり、学校の生徒である前に、まず第一に、あなたは神様の子どもなのです。


神に選ばれて、神によって生まれた、神の子どもなのです。

私たちが今、自分の名前を紹介するならば、「神の子〇〇」となるのです。


肉の親も もちろんいますが、私たちは、私たちの魂を造られたお父さん、神様の子どもなのです。






さて、神の子どもである私たちは、神様にとってどのような子どもなのでしょうか。

2つのポイントを今日は見ていきます。


【エペソ5章1節】

ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

また、愛のうちに歩みなさい。



キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。


私たちは神様の子どもであり、神様によって愛されている子どもなのです。

私たちへの神様の愛は私たちが想像できるよりもはるかに大きく、深いです。


私たちを愛してくれているのは、私たちが何か特別なことをしたから、素晴らしいことをしたからではないのです。


イエス様が一番私たちへの愛をはっきり表してくれた、その十字架は、私たちが神様のことを求めず、否定し、共に生きず、自分が好きなように罪を犯しまくっていた時、そんな時に示してくれた愛なのです。



私たちがイエス様に何かをしたからじゃない。

イエス様に尽くしたから愛してくれた訳じゃない。

私たちの見た目がきれいだからじゃない。

中身が、性格がきれいだからじゃない。


ただ、そのままのあなたを神様が赦し、受け入れ、愛すると決めたからです。


神様が愛すると決めたから、愛し抜くと決めたから、私たちが一番恥ずかしい瞬間、みじめな姿、汚い姿も全部知ったうえでも、それでも、私たちを受け入れ愛してくれるのが、私たちの父、神様なのです。


私たちはその神様に愛されている子どもなのです。






その大きな愛を知った時、その愛に触れられた時に、私たちは神様のことを愛し、周りの人のことも愛し、赦せるようになるのです。


神様は何もなく突然、「赦しなさい」「愛しなさい」という命令を先に出したのではないです。

その前の部分が、大前提がとても大切なのです。


私たちが人々を赦し、愛し、親切にできるのは、神様が先にそうしてくれたからなのです。


私たちが神様によって愛されているから、だからこそ私たちも神様が愛してくれたように周りの人々を愛するべきなのです。

また、その愛は赦しの愛です。


【エペソ4章32節】

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。


エペソ人への手紙では、パウロは最初ひたすら神様の愛について話しています。

どのように神様が私たちを愛して、救ったか、それをずっと語っているのです。


その愛をしっかり自覚すること、受け入れてかみしめることがまず必要です。

そこから初めて私たちは周りの人々を愛し、赦すことができるのです。


それが、神様が私たちを神様の作品として作り、神様の愛する子どもとして、私たちの生きるべき姿なのです。


私たちがどのように生きるべきか、何をすべきかを考える時、忙しさ、何か問題の中で憤りを感じる時に、まずは神様と向き合うことが大切なのです。



神様ファーストにすることによって、私たちの生きるべき姿が見えてきますし、神様の愛を受けて初めて、周りの人を愛すことができます。

私たちが隣人を愛し、赦せるのは、神様が私たちを愛し、赦してくれたからです。


その隣人が私たちをまず愛したわけでもなく、よくしてくれた訳でもなく、赦しを求めてきた訳でもない。


それでも、その人を赦し、愛することができるようになるのは、私たちが神様の愛と赦し、その大きな恵みを知っているから。

それを体験したからなのです。


神様が私たちを赦してくれたから、だからこそ私たちも私たちの周りの人を赦すのです。






人への怒りや、恨み、憎しみをすべて捨て、赦し、また、愛することは、決して簡単ではないけれど、神様の愛があるから、神様の大きな愛を受けているから可能なことです。


人を赦せないと思った時、何か問題があった時、その時はまずあなたは神様から愛されている子どもであることを思い出してください。


私たちが謝り、反省し、赦しを必死に請う前に、先にイエス様はあなたを愛され、あなたの罪が赦され、あなたが生きるために、代わりにイエス様はご自分のいのちを十字架で捨てたことを思い出し、黙想してください。


それほどまでに、あなたはイエス様によって愛されているのです。



その愛が、あなたに触れる時、あなたもイエス様があなたを愛したように、人々を愛すことができるのです。


私たちの力でするのではなく、神様の愛によって愛することなのです。

その愛によって、私たちの周りの人も神様の愛を見るようになるのです。


神様の子どもとして、愛されている子どもとして、人々を愛していくべきであるということを見てきましたが、もう一つ合わせて見ておきましょう。


【エペソ5章8節】

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。


私たちは神様によって生まれた、光の子どもなのです。

それが私たちのアイデンティティです。


暗闇、つまり罪は常に私たちを追ってきます。

しつこく影のように追ってきます。



私たちは、信仰が強い時、燃えている時はまだ罪を拒否することができます。


でも少しでも揺らぐと、「あぁ、結局私はまた負けてしまうんだ。罪を犯したくないのに犯してしまうんだ」と思い、苦しい思いをしながらもまた同じ罪を繰り返してしまいます。


罪を断ち切ることは簡単なことではないです。


あのパウロさえも、ローマ7章19-20節で


「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」

と言っているほどです。


しかし、私たちはその罪の下には、その暗闇の下にはもういないはずで、主にあって光に移され、光の子どもとなったはずなのです。


自ら暗闇に戻っていく必要もないですし、暗闇に支配される必要もありません。


【エペソ5章14節】

明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」





光の子どもとして生きるのは自分の力でできるもの、自分で光を放てるのではありません。


キリストに近づき、キリストの光によって照らされることによって可能なのです。

罪から離れ、キリストに近づくことです。


私たちとキリストは月と太陽のようです。

月である私たちは、私たちだけでは光を放てませんが、太陽であるキリストによって照らされるのです。


勇気を持って、その罪を捨てましょう。


私たちにふさわしくないからです。

私たちは罪を行うために生まれたわけでも、そのために生きているわけでもない。



私たちが生きているのは光の子どもとして、愛されている子どもとして、良い行ないを行い、神様を愛し、また人々を愛するために生きているのです。


この暗闇の中で、暗闇として生きるのではなく、光である神様とともに生き、キリストの光によって照らされ、光の子どもとして生きましょう。



光の子どもとして、罪を捨て、罪の中ではなく、神様の中で生き続けるために、覚えておくべきことが一つあります。


それは、私たちが罪を行う時に、私たちよりも神様が、聖霊様が悲しまれていることです。


【エペソ4章30-32節】

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。


私たちが罪を犯すとき、罪の中で生きる時、私たちだけが苦しい思いをしているのではありません。

何よりも、私たちの中に住まわれる聖霊様が悲しむのです。


「娘よ、なぜそうするのか」「息子よ、私が一緒にいるのではないか」「一緒に生きているのに、私のことを見向きもせず、その罪の方を選ぶのか」と、聖霊様が悲しむのです。


私たち以上に、苦しく、悲しい思いをするのです。


それでも、あなたの目の前にあるその罪は、神様以上に、一緒に心の中に住まわれている聖霊様以上に価値があるもの、捨てられないものですか。


神様を悲しませてもいいと思えるほど、必要なことなのですか。

すべきことなのですか。


罪の誘惑が来た時、十字架の前に出てきてください。

そのイエス様の愛を見てください。


あなたの中に住んでいる聖霊様を見てください。


こんなに愛してくださる方を裏切ってもいいのか、悲しませてもいいのか、それでも私は喜ぶのか、それでも何よりもその罪の方が大切なのか、そう考える時、その罪を手放せるようになります。

捨てることができます。


罪を見ていても、ただ腹が立ったり、悲しくなったり、苦しくなりつらくなるだけです。






私たちが見るべきは罪ではなく、十字架であり、聖霊様と向き合うことなのです。


光の子どもとして、一切の闇を捨てましょう。

捨て去りましょう。


あなたがその罪を捨てる時、聖霊様はきっと喜んでくださいますし、私たちの心に平安が来、心が解放されるのです。


罪を捨てて生きることは、光の中に歩み、罪から解放されて、心に平安が来て、生きることなのです。


それが私たちの本来の生きるべき姿なのです。



最後にもう一度言います。


自己紹介をしてください。あなたは誰ですか。


今日学んだこと、悟ったことをしっかり黙想しながら明日からも神様から愛されている子ども、光の子どもとして生きていきましょう。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2020.9.6
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地の塩と世界の光

テーマは 『 地の塩と世界の光 』 です

【マタイの福音書5章13-16節】

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

主によって救われた者に 主が期待するものは、「地の塩と世界の光」として生きることです。


塩と光のように なくてはならない存在になることを願っています。


存在するだけで、悪をもたらす人間がいっぱいいます。

世界を汚染させている人間も多いです。


教会や主のしもべの中にも 悪影響を与える者がいます。


福音の道を邪魔し、神の名を汚す人間は塩けをなくした者であり、光ではなく闇です。

聖霊をとても悲しませる姿です。



私たちが塩と光として生きるならば、人々はそれを見て、天におられる父なる神をあがめるようになります。

主に栄光をささげる姿です。


どのように生きることが塩として光として生きる姿かを学びます。




塩と光としての生き方




 罪から離れて敬虔に生きる


【第1テモテ6章11節】

しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

【第2テモテ3章12節】

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。


 聖く正しく生きる


人に見せるための偽善や形式、偽りから離れ、聖なる神にふさわしく聖くなり、正しく生きることです。


【マタイの福音書5章8節】

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。


 正直に生きる


サタンに心を奪われると、聖霊を欺く生き方をします。


しかし聖霊に導かれて生きる人は正直に生きることが出来ます。

共におられる聖霊を騙すことが出来ないからです。


【エペソ5章8-9節】

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

―― 光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです ――


 人々に益をもたらし、分け与え、良い影響を与えながら生きる


人を敵とみなさず、お客さんのように開かれた心で仕える生き方は 良い香りを放つ人生です。


【ルカの福音書6章35-36節】

ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。


 愛と赦しと和解の生き方をする


こじれた人間関係のまま生きていては塩と光の役割は出来ないです。

神が喜ばない悪を抱いたままでは塩けをなくし、光も消えていきます。


主から愛を受け、赦しを受け、和解を受けた者として神への感謝の心で自分たちも人を愛し、赦し、和解しなければなりません。

それによって神が栄光を受けます。


「さすがわたしの子どもだ」と主が喜んで下さいます。



神を知らない人は私たちを通して神を見ます。

ですから主はこのように仰せられました。


【イザヤ書60章1-3節】

起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。

見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。

国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2020.8.9
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愛とは何か

テーマは 『 愛とは何か 』 です

【第1コリント13章1-8節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

聖書で語る愛はいつ変質するか分からないような ドロドロした愛ではなく、純真な愛です。


その純真な愛が何かを教えた個所が4節から7節です。

自分たちが思う愛とは違う愛であることがよく分かります。




愛とは何か




【第1コリント13章4-7節】

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


このような愛が私たちにあるでしょうか。

―― ないと思います。


いくつか当てはまるものはあるかも知れませんが、すべてを持っている人はいないと思います。



この愛は成熟した信徒の特徴です。

そして聖霊充満な状態に現れるものです。


この愛があって初めて聖なる者になれます。

それまでは未熟な状態です。


【第1ヨハネ3章11節】

互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。


このように教えられていますが、教会の兄弟たちの間でも妬み、高慢、争い、陰口、怒り、敵対心があるのではないでしょうか?


愛がないので、そのようなことが起こります。

神はそのような私たちを見て「偽り者」と言います。


【第1ヨハネ4章20-21節】

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。


この命令を守らないので、教会の中でも人間関係に問題が起こります。


例えどんなに仲の良い者たちであっても一緒にいる時間が長くなると葛藤や争いが起こったりします。

どのように解決しますか?


愛が一番の解決策になります。


相手に対して今日の愛のことばを適用していくならば、だんだんと相手に対してすまない気持ちと赦す気持ちが出てきます。




愛がないならば




どんなに優れたものを持っていても、力があっても、人のためにいのちをささげても、愛がないならば評価されないです。


主は愛がないならばやかましいどら、うるさいシンバルと語りました。

迷惑だということです。



さらに愛がないならば何の値打ちもなく、何の役にも立たないと言われました。

何をしても主からは評価されないです。


すなわち愛から出ていないことは、人のためではなく自分のためにしたことになります。


きっと主は心の動機を見ておられると思います。

愛は動機と行動が一致しないといけないです。




愛の偉大さ




預言も異言も知識もすたれます。


【第1コリント13章13節】

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

【マタイの福音書22章36-40節】

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2020.7.26
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後悔しない人生

テーマは 『 後悔しない人生 』 です

【ヤコブ4章13-17節】

聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。

あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。

むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

2020年は歴史に残る年になりますね。

今まで経験しなかったことを いま世界の人々が同時に経験しているからです。


そしてコロナウイルスによって、人々の考えが色々と変わってきたと思います。

今日の聖書のことばにあることを実際に体験しています。


人間はあす何が起こるか分からないこと、そして人のいのちも消えていく霧に過ぎないことを実感しています。


コロナウイルスによって多くの人々が突然亡くなりました。

体の苦しみだけではなく、不完全燃焼の人生のことで苦しんだ人や後悔しながら亡くなった人もたくさんいると思います。


ですから生きている人間は、今まで通りの生き方ではなく、自分の人生を真剣に考えないといけないです。


何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを真剣に考えるのではなく、自分の存在そのものを考えることです。


後悔しない賢い人生のために どのように生きるべきかを考えることです。


みことばは その道を私たちに教えています。




信仰によって生きる




信仰によって生きることは、神のみこころを知り、御心に従って生きることです。


自分が立てた計画に従って生きるのではなく、自分の人生に対する神の計画を知り、それに従うことです。


自分の思い、計画を優先する人は、神のみこころに関心がありません。


そのような人たちが一番後悔する人生を送ります。

一生懸命努力して生きても、神のみこころとは反対の道を歩むので、神の前に評価されることはないです。


砂の上に家を建てた人のようになります。

風を追うような人生です。



神が自分の主人であるならば、自分が主人のようにふるまってはいけないです。

しもべとして主人のみこころを行うことです。




神が与えて下さった使命に忠実に生きる




このような生き方は、聖書に出て来る信仰の人々から学ぶことが出来ます。


【ピリピ2章13-17節】

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。


試練があっても最後まで主を裏切らず、主に従って生きる姿が忠実な姿です。




互いに愛し合いながら生きる




自分も他人も愛さない人、自分は愛しても他人は愛せない人は不幸な人です。


愛のない心は潤いのない砂漠や荒野のような心です。

いばらとあざみ、とげがあります。



しかし、愛のある心はオアシスのような心です。

そこには喜び、潤い、安らぎがあります。


愛の神である主が共におられます。

その愛は神から来るものです。


【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。


人生は短いので、愛し合うことに時間を使うことです。

それを憎しみ合いながら生きたならば、後悔のない良い人生だと言えるでしょうか?


神は、愛を知らない人を神の国には入れません。


なぜなら神の国に一番ふさわしくないからです。

その人は神を知らない人だからです。






今までの自分の生き方を変えることは簡単ではないです。

しかし裁きの時に主の前に立つことを考えてみて下さい。


そしてこの世での時間は短いですが、死んでからは永遠の時間が始まります。


暗闇の世界か、光の世界かどちらかに行きます。


【第2コリント5章7-10節】

確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。

そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2020.3.22
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