からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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思い煩い

いっさいの思い煩いを主にゆだねる

テーマは 『 いっさいの思い煩いを主にゆだねる 』 です

【第1ペテロ5章7節】

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

思い煩いは 現実に問題があるからというより、霊的問題のほうが大きいです。


心配、恐れ、悩みなどは私たちを滅ぼそうとする “サタンの仕業” です。

サタンはいつでも人々を騙し、惑わし、盗みます。


ですからサタンに騙され、思い煩い、恐れるならば、それは信仰が薄いことです。


思い煩いから解放されるために、私たちが取るべき態度があります。




苦難や心配事があった時の態度




苦難にあった時に人々が見せる態度は色々あります。


そこから必死に逃れようとする人、まるで この世が終わったかのように心配で眠れない人、
苦難は私を強くするための神の良い計画だと思い、さらに神に近づき、自分の重荷を主の前に下ろし、思い煩いをいっさい主にゆだねる人がいます。


一番良い態度は、いっさいの思い煩いを主にゆだねる事です。


主の荒野の学校を卒業するならば、次には主が備えた祝福があります。




神を信頼して、いっさいの思い煩いをゆだねる




信仰を働かせることは、真理である神のことばを信じることです。


人々は思い煩いがあると一人で悩んだり、また他人に頼ろうとします。

自分の思い煩いを人にゆだねようとします。


しかし、この姿こそ信仰が薄いと言われる姿です。


私たちは人を信頼することが愚かなことであると知っていながらも、人に信頼して失敗することが多いです。


【エレミヤ書17章5-8節】

主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

思い煩いから解放される一番の方法は 神に頼り、神を信じることです。




神の力を信じる




【マタイの福音書6章27節】

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

私たちは一生懸命 心配しますが、主はそれを見て 心配が無用であることを教えています。

そして主の思いを語りました。


神はすべてをご存知で、私たちを愛し、私たちに良くして下さる方です。


【マタイの福音書6章30-31節】

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

私たちには出来ないことでも 神には出来ます。


私たちには難しいですが、神には簡単です。


私たちには複雑過ぎることも、神には単純です。


私たちには答えが見つからないですが、神は答えを持っておられます。


私たちは心配しても何一つ変えることが出来ませんが、神にはどんなことでも変えることが出来る力があります。



ですから神は、私たちが神の力を信じていっさいの思い煩いを主にゆだねることを願っておられます。

私たちが信仰によって思い煩いを主にゆだねるならば、何でも主はして下さいます。
アーメン (*´∇`*)


2019.3.24
聖日礼拝メッセージ

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ブレないクリスチャンになるためには

テーマは 『 ブレないクリスチャンになるためには 』 です

【ピリピ4章4-7節】

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

最近アメリカで話題になっている7歳の男の子がいます。

皆さんも すでにニュースで知っていると思います。


100メートルを13.48秒で走った「ネクスト・ボルト」と呼ばれる子どもです。

その身体能力に人々がびっくりしました。

そこまで早く走れたのは、単に足が速いからではなく、彼の走りを見た専門家たちによれば、彼の体幹筋がすごいからだと言われました。


4歳の時から体幹筋を強くするトレーニングをやっていると言われました。

毎日トレーニングで体幹筋を鍛えたので体がまったくブレないし、それによって早く走ることが出来たと言われました。


体幹筋は、体の胴体部分で内臓を支える機能とともに、運動時にバランスを取るため骨格筋を動かす際の最初に動かす筋肉です。


この筋肉が弱ると運動が不安定になり、バランスが取りにくく、体がブレてつまずいたりします。

それぐらい体幹筋は体を支える重要な筋肉です。

トレーニングによって鍛えることが出来ます。



ブレないクリスチャンになるためには、私たちの心に体幹筋のような霊の筋肉が必要です。


今日の本文には “どのようにしたら霊の筋肉を訓練によって付けることが出来るか” のヒントになることばがあります。




いつも主にあって喜ぶことです




別のところでも同じことばが語られてあります。


【第1テサロニケ5章16節】

いつも喜んでいなさい。

主の外にいるならば、このことば通りに生きることは不可能です。


しかし主にあって生きるならば出来ます。



罪赦された事、神の子どもになった事、救われた事、主の守りと恵みと助けがある事、これらのことだけでも喜ばずにおられるでしょうか。


それらのものは いのちよりもお金よりも、健康よりも、成功よりも大切なものです。

一番価値あるものです。


それを自覚しているならば、自分を幸せな者と思って喜ぶことが出来ます。




寛容な心を持つことです




どのような心が 寛容な心でしょうか?


寛容な心は、“広い心” です。

そして一番広い心は、次のような心です。


【マタイの福音書5章44-45節】

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。


イエス様は、神の敵として生きていた私たちを赦し、受け入れ、愛して下さいました。

このように 先に模範を見せて下さいました。


寛容な心をすべての人に知らせなさいと言われたことは、すべての人に対して寛容であることです。

嫌いな人にも、敵にも寛容であることです。


私たちも広い心になれるように、人を赦す訓練、受け入れる訓練が必要です。




思い煩わず、感謝と祈りを絶えずささげることです




思い煩いは、受けた過去の恵みを忘れた時、神に頼らない時に出やすいものです。


思い煩わないためには 過去に受けた主の恵みを絶えず思い起こし、主に頼ることです。

そこから出て来るのが感謝であり、祈りです。


私たちは元々恵みを受ける資格がない者です。

反対に呪いを受けて当然の罪人です。



高慢な人は、自分には恵みを受ける資格があると思うので、主の前でも偉そうにします。

ですから神は高慢な者を忌み嫌い、御前で退きます。


使徒パウロは、絶えず主に感謝と祈りをささげました。

過酷な環境の中でも それが出来た理由は何でしょうか?


彼は主のあわれみと恵みを知り、その後に、自分の高慢を徹底的に砕きました。


パウロの告白でそれが分かります。


【第1コリント15章8-10節】

そして、最後に月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。

私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

救いの恵みを これほどまでに感謝しながら生きている人はあまりいないと思います。


あれほどのたくさんの主の働きをしながらも、これほどまでに謙遜で、主に頼った人物はいないです。

主のために死ぬ時も喜びながら死にました。

霊の軸がまったくブレなかったです。



私たちも パウロの中にあったものがあるならば、どんな環境の中でもその信仰はブレることはないでしょう。

人につまずくことも、倒れることもないと思います。


神のことばを口にする者がクリスチャンではないです。

サタンでさえも神のことばを頻繁に使いながら人々を惑わします。


クリスチャンは イエス様から学び、みことばを実践しながら、ますますイエス様に似る者となり、キリストの香りを放つ者にならないといけないです。


これらのものが備えられるならば、神の平安が心と思いを守って下さると約束して下さいました。


心と思いに神の平安がないならば、何かが欠けてあるからです。

足りないものを訓練して備えましょう。
アーメン ( ̄‥ ̄)=3


2019.2.17
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クリスチャンの経済生活

テーマは 『 クリスチャンの経済生活 』 です

【マタイの福音書6章30-32節】

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、まして、あなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを心配しているのは種類が多いから選ぶことに悩んでいる姿を語っているのではなく、経済的問題を抱えている人がいるということを言われています。

クリスチャンの中でもお金の心配をしている人がとても多いです。

実際にお金を持っている人も心配をし、持っていない人も心配をしています。


主は一言で心配している人に“信仰の薄い人たち”と言っておられます。

その理由は神様に対する信仰、信頼が足りないからです。

神が養っておられることに対して信頼しきっていない信徒たちが多いです。


神様が与えて下さると言っても、それに対して疑っている人も多いのです。

「来年はどうしよう。再来年はどうしよう。お金はどんどん消えていくし、入ってくるところもないし、助けてくれる人もいないし、貯金もないし、これから先どう生きたら良いの?」と先のことが心配でたまらない人たちもいると思います。


しかし、神様はその人達に対して「心配するのはやめなさい。」と語りました。
その理由は、不信仰から心配が出るからです。

神様が教えるクリスチャンの経済生活を正しく学べば、私たちは不要な心配から解放されます。

もし学ばないならば、いつまでも計算をしながら心配から逃れることはできません。


聖書の中で、神は多くの場面で神を信じる人たちに関わりながら、その経済生活を支えているのは、神ご自身であることを見せています。

それをこれから学びたいと思います。




モーセとイスラエルの民から学ぶ





【民数記11章13-15節】

どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。

私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。

私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

モーセの心配と重圧がどれほど大きかったのか、彼は神に向かって「どうか私を殺してください。」と祈りました。

そのモーセの言葉を聞いて、神様は肉を与えると語りました。


【民数記11章18-20節】

あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。

あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、

一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」

そのことばを聞いて、モーセは安心して喜んだでしょうか。

そうではなく、心配する様子が見えました。次の箇所です。


【民数記11章21-22節】

しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。

彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」

モーセは現実を見て、そんなことで実現されるはずがないという不信仰がありました。

それに対して神が語ったことばが次の箇所です。


【民数記11章23節】

主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

そして、その後はどうなりましたか?
主のことば通りになったでしょうか?答えは次の箇所です。


【民数記11章31-32節】

さて、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。

民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、――最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた――彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。

ここで私たちが学ぶことは、人間の思いと、神の思い、人間の計算と神のやり方はまったく違うことに気付くことです。

モーセは羊の群れ、牛の群れ、海の魚と言いましたが、神様はまったく違うやり方で 海の向こうからうずらを運んできました。

それはモーセの考えを超えて働く神の御業でした。


私たちは神様がしようとすることが分かりません。

私たちの計算は、神様の計算とは違うので(私たちの思いは)何の役にも立たず、反対に心配、疑い、不信仰を生じさせるだけなので、それらを捨てなければなりません。


『信じます。主のおことば通りになりますように。』と信仰によって神に期待しながら祈り続けることです。




エリヤの経済生活から学ぶ





【Ⅰ列王記17章1-16節】

ギルアデのティシュべの出のティシュべ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

それから、彼に次のような主のことばがあった。

「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。

そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏(からす)に、そこであなたを養うように命じた。」

それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。

幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。

すると、彼に次のような主のことばがあった。

「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私はパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少し油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

エリヤのこの時の経済状態は無一文でホームレス状態でした。

さらに彼を助ける人は誰もいなく、反対に命が狙われる立場にいました。


そのエリヤにあるものは、神の約束だけでした。
神が養うという約束だけが彼に保証されていました。


そして人間では考えられない方法を、神様はここでも使いました。

この時、神によって用いられたのは、幾羽かのカラスと 一握りの粉と少しの油しか持っていない ひとりのやもめでした。

本来 カラスは人間が食べ残して捨てたゴミを拾って食べます。
最近は餌がなかったので100羽以上のカラスが死んだニュースもありました。


それなのに神が働くと、カラスがパンと肉とを運んで来て、人間を養う鳥に変化しました。

そして社会の中でも一番弱くて貧しいやもめを使って養うことは人間としては考えられない方法ですが、これが神様のやり方です。

人間は、持っている者には養う力があるので、当然そこに期待を寄せます。
しかし神様は、そのことを知っておられるので、その方法は使いません。


私自身もこれは経験済みです。
人間的に期待した所からは得たことが一度もありません。いつも有り得ない所からの助けがありました。


エリヤは神に完全に頼って何も心配せず、経済的なことは神様に任せました。

頼ることは神から言われたことに対して何も言わず、その通りにすることです。


モーセは神のことばに反論しましたが、エリヤは一言も反論せず 神から言われた通りにして神によって養われました。

3年6カ月の間、それも自分だけではなく、やもめとその家族までも養われました。


その日、その日 食べるものが与えられました。(そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならなかった。)




やもめとエリシャから学ぶ





【Ⅱ列王記4章1-7節】

預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

家で入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。

器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。

彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

たくさんの負債を抱え、2人の子どもが奴隷にされる運命になり、持っているものは何もなく、油のつぼ一つしかないやもめで、本当にどうにもならない状況です。

食べ物も持ち物もなく、あるのは借金だけです。


皆さんなら、このような状況でどうしますか?無理心中ですか?

経済的理由で無理心中した人たちは、今までたくさんいます。
どうにもならないという絶望感でそこに至ります。


でも彼女は自分の苦しい状況を神の人エリシャに話しました。

エリシャから出たことばは「何をしてあげようか。あなたには家にどんな物があるか言いなさい。」でした。


そして彼女が持っている一つのつぼ、また彼女が隣の人みなから借りて来た からの器に神の奇跡が起こりました。

ここで私たちは「これで何になるのか」という小さなものが“祝福の始まり”であることに気付くことです。

まずエリヤの時のやもめは一握りの粉と油を ささげました。


神に種を蒔くと、パン一個が3年6カ月の食べ物の祝福になりました。
捧げなさいと言われたものを捧げて祝福を受けました。

エリシャ時代のやもめは信仰によって、からの器を用意しました。

すると抱えた問題をすべて解決できる油がすべての器にいっぱいになりました。


捧げるものがなかった このやもめは言われた通りに信仰の器を用意したので祝福されました。

私たちは2人の最も貧しかったやもめたちが受けた祝福を見て、無いから捧げないのではなく、無いからこそ蒔かなければならないし、そして蒔いた後は信仰で期待する大切さを学ぶことです。


神様はやもめ、みなしごに対してあわれみ深い方です。


【詩篇68篇5-6節】

みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。



中国奥地へ宣教に行った宣教師から学ぶ




ハリソン・テイラーは宣教師として信仰によって献身しました。

しかし働きはどんどん増え、協力者と宣教費が必要でしたが、彼を助ける人は誰もいませんでした。


彼の精神的負担は大きくなり、夜も眠れなくなり、ついには神経衰弱にかかるほどになりました。

そんなある日、彼はヨハネの福音書15章5節を読みました。


【ヨハネの福音書15章5節】

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

このことばが心にぶつかりました。
その瞬間、急に太陽の光が当たったように、彼の心が明るくなり始めました。

彼は“主はぶどうの木で、私はその枝であるのに 私が心配する必要があるのか?主が水分と栄養を与える木である。私はそれを受け入れれば良いことで、自分がそれに水分と栄養を与えようと心配したことは何と愚かなことであったのか。主よ。この時間からは心配や思い煩いを主に委ねます。私を養ってください。”


このように彼は主の前にひざまずき、自分の愚かさを悔い改めながら問題を主に委ねました。

彼はその後から祈る度に答えられ、成功的に中国宣教ができました。


イエス・キリストを信じる私たちは、私たちの生活現場で起こるすべての問題だけではなく、私たちの経済もすべて神に委ねる訓練をしなければなりません。
(。・ω・)ノ゙



【ピリピ4章19節】

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。


【マタイの福音書7章9-11節】

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

また、子が魚を下さいと言うのに、 だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。 とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

2015.1.11
聖日礼拝メッセージ

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シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝 ❤

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祈りの時に気を付けること

テーマは 『 祈りの時に気を付けること 』 です

【ピリピ4章6節】

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

ただ、祈れば良いということではありません。要らないものは捨てることです。

せっかく祈っているのに、その祈りを無駄にしてしまうものがあります。本文にそのことが簡潔に書かれています。


①いらないものは捨てる(思い煩い)

自分たちが祈る時に、心を覗いてみると思い煩いをいっぱい持って祈る時があります。

思い煩いとは、単に心配事のことをいうのではなく、問題を抱えている人で ため息ばかりつく人がいます。

ため息(汚染された空気のようなもの)をつく時に、それが私たちにどのような影響を与えるでしょうか?
私たちの心と魂を傷つけます。そして病んでいき、心が支配されてしまいます。問題よりも思い煩いによって思いが殺られます。

支配されるということは、その思い煩いが自分の主人になり 奴隷になっている姿であります。


自分たちの心の主人は、いつも神様でなければならないのに 思い煩いがあると主人が変わってしまいます。
祈りを聞いてくださるのは神様ですが、自分の心にあるものは神様ではなく、思い煩いがいっぱいなので口先だけで祈っても その祈りは聞かれることがないです。


思い煩いは信仰から生まれません。反対に、思い煩いは不信仰を生みだします。
神様が聞く祈り、反応する祈り、答えてくださる祈りは 信仰による祈りです。
思い煩いによる祈り、不信仰による祈りに神様は答えません。

思い煩いの中には、疑いがあり、絶望があり、不信仰があり、人間的な思いがあります。
目を神様に向けていなく、心も神様に捧げていません。


私たちの神様はどこにおられるのでしょうか ――?
神様は、聖霊様として自分の心の中におられます。心の真ん中におられるいうことは、聖霊様が主人ということです。

思い煩いをもって祈りをするのは 初めから聞かれない祈りをしていることなのです。

聞かれない祈りをしていながらも、「どうして聞いてくださらないのですか。」と言っても、神様は「わたしに聞くのではなく、自分の祈りの姿勢が正しいかどうかを ちゃんと見なさい。」と言うでしょう。

どんなに大きな問題だったとしても「何も思い煩わないで」と語っていますので、その通りに従うことであります。

私たちにとって大きな問題に思えても 神様にとっては小さなことです。


【ローマ10章13節】

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

このように、主の御名を呼び続けるならば 主が答えてくださいます。
思い煩いを捨てて、主を(自分の)主人として心に迎え入れて何も思い煩わないことが大切です。

主の御名とはイエス様のことであります。
「だれでも救われる」というのは魂が救われるだけではなく、あらゆる問題からも救われるということです。

自分の中の思い煩いが消えるまで「イエス様~!!」と叫んだら良いです。祈りをイエス様で満たしていくなら、イエス様が働いてくださいます。


②祈る時に必要なもの(感謝)

思い煩いは要らないことですが、この「感謝」は必要なことです。

私たちが神様の前に出た時に、まず感謝が必要なのです。

感謝するということは、神様が今まで自分にくださった恵みを覚えることであります。そしてお礼を伝えるのです。
そこには信頼、尊敬、期待、信仰が含まれています。

神様が一番求めているものは感謝であります。感謝の言葉を神様は喜びます。


③神様に祈りを捧げる

神様は 今回のテーマ箇所で「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と語っています。

・謙遜な態度で
・具体的に
・信仰をもって


【ヤコブ5章15節】

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

・期待する
・熱心に祈る


【ヤコブ5章17-18節】

エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

・切なる思いで主を待ち望む


【詩篇40篇1-2節】

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、

私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

切なる思いは必要であります。心を神様に向けている姿です。

自分の祈りでどこが間違えているのか探らなければいけないと思います。

ずっと感謝を蒔き続けたら良いです。そうすると思い煩いが出て来なくなります。 (・∀・)

2014.2.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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すべての事について…感謝❤

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主に委ねるとは?

テーマは『 主に委ねよ 』 です。

【詩篇55編22節】

ダビデが客観的に自分自身に向かって語っている言葉です。
詩篇55編を見ると、ダビデが大変な状況にいることがわかります。


【詩篇55編1-8節】、【詩篇55編16-19節】

ダビデほど色々なことを経験した者はいないです。
詩篇は私たちが苦しい時に読む事が多いです。なぜならば、自分たちの中にある色んな思いを
とても詳しくピッタリと表現をしてくれるからです。それはダビデの頭から出たものではなく、
心、身体、環境で体験をして語った言葉だからです。すべて自分で経験をしたものであります。

ですから、何も経験をしないで頭で考えて書いているものとは全然違います。
それで自分たちが共感をする部分がすごくたくさんあります。

ダビデの敵は、彼の家族でもありました。家族や子供がダビデを苦しめました。
親しい友までもダビデを裏切りました。末っ子であるダビデを兄弟たちは冷たい仕打ちをしました。
結婚をしても家庭が平安ではなく、子供たちがダビデをすごく苦しめましたし、長男はダビデを
殺そうとしました。ダビデは悪い事をしているわけではないのに、彼の周りには敵が多かったです。

主は「ダビデはわたしの心に適った者である」と語りましたが、彼には色々な問題がありました。
しかし、その中でもダビデが潰れなかった理由は何でしょうか――?

【詩篇55篇22節】で語ってある通り、重荷を主にゆだねたので神様は彼を救い出してくださいました。
そのことをダビデは経験をしましたので、このような言葉が言えるのです。

ダビデはどんな時でも神様を見ていました。そして重荷を神様に委ねることを日々体験しました。

(金ヘス牧師が)実際に色々な相談を受ける中で、クリスチャンたちが多くの部分で勘違いをしている部分が
見えてきます。相談をする人には2つのタイプがあります。
表情に「問題があります」と書いてあるような曇った顔をしている人たちがいます。
「何かあったのですか?」と尋ねると「こういうことがありました。」と言います。そして、
「神様が私に与えてくださった十字架なので耐え忍んでいます。」と言って、黙って忍耐をしている人がいますが、
(このような姿は)特に真面目な人に多い傾向があります。

しかし、「十字架」と「重荷」は違います。

十字架は福音のために、主の名のために受ける苦しみです。自分がイエス様を伝えることによって、
また みことばを守ることにより生じた様々な苦しみであります。(ヨブがそうでした。)

自分に降りかかった苦しみを全部神様に委ねました。
そのことで失ったことに対してはヨブは一言も(不満を)言いませんでした。
私たちは失ったものに対して、ものすごく神様に文句を言います。それは十字架ではないです。

神様によって生じたものだけが十字架であります。

神様は立ち返らせるために、悔い改めの材料にしますが、十字架(使命)ではないです。
ですが、多くのクリスチャンたちが錯覚をして「どうして私にこんな重荷を神様は負わせるのですか?」と
言う時があります。
それは十字架ではないので重荷をおろして神様に委ねなさいと、はっきりと言います。
サタンに騙されている部分がとても多くあります。
サタンは「(あなたは重荷を)負っていなさい。それはあなたの十字架なのだ。」と言います。
しかし、それは十字架ではないのです。その人自身から出て来た色々な思いがそれを手放しません。

本来ならば手放すものなのに「私の訓練だ」と自分の背中に背負います。
そして苦しみながら「忍耐をしないと。耐えなければ神様が喜ばないんだ」と言います。

そのような考え方を変えなければならないです。神様から与えられた十字架ではないので、
それはあなたが背負っている重荷に過ぎません。

みことばには「あなたの重荷を主にゆだねよ。」と書いてありますので、背負ったままですと不従順になります。

神様は私たちが重荷を背負っていることに対して心配をしてくださいます。
神様は問題を見て心配をするのではないです。その問題を手放さないで抱え込んでいる人を見て
心配をするのです。

重荷を手放すと神様が解決させてくださいます。それが神様のみこころであります。

また、重荷以前に 神様は委ねてほしいことがあります。


【詩篇22篇10節】

自分自身を、命を与えてくださった神様に委ねることであります。
「私を神様に委ねます。」、「私を導いてください。」というのが私たちがすべきことであります。


【詩篇22篇8節】、【詩篇37篇5節】

私たちは神様の前で1つ告白すべきことがあります。
「神様、明日の事は私は何1つわかりません。」と、明日何が起こるのか誰もわからないです。
ですから「神様が私の道になってください」と告白をします。

神様はすべてのことを委ねなさいとおっしゃいます。
家族の問題も私たちの力で(解決)出来るものではないです。


【Ⅰペテロ5章7節】

1つの問題が生じると、一瞬にして思い煩いが私たちを襲います。それによって疲れてしまいます。
しかし神様が私たちが思い煩いで嘆いている姿を見て、心配をします。

ダビデも自分の命を狙う者の中で泣きながら うめきました。
だけどそれは思い煩いではなく、祈っている姿であります。
思い煩いと祈りは全く別のものであり、
思い煩いは肉から出たもので、祈りは神様から出たものです。

祈ると神様が働き、思い煩いがあると私たちの中の信仰が消えていきます。
信仰がなくなると、私たちは神様との関係がどんどん遠くなっていきます。

信仰は神様に近づいていく力であります。神様を信頼し、見上げることです。

思い煩いは問題を見る事であります。問題を見つめると、徐々に力を得て問題が大きくなります。
問題が目の前にあっても私たちはそれを見るのではなく、祈りによって神様の力が表れるように
神様が問題を持っていってくださるようにしなければなりません。

祈りは神様を動かす力でもあります。求めるなら与えられる約束があるので、
私たちがその言葉を握りしめて神様に求める時に、神様が答えを持ってきてくださいます。
ダビデのように朝も昼も夜も祈ったら良いのです。神様に訴えたら良いです。

祈るならば問題が早く解決されます。

次のみことばはダビデの姿です。


【Ⅱサムエル記22章31-35節】

委ねて祈ると神様は乗り越える力を与えてくださいます。それによって私たちは問題を解決する
こ とができます。


【Ⅱサムエル記22章47-51節】

このような姿を私たちは学ぶべき姿であります。どのように委ね、どのように神様との関係を
結んでいったのか、このようなことが聖書には書かれています。

敗北した者はいませんでした。委ねた者は全て神様によって救い出され、勝利者になったことを
私たちは学んでいきましょう。

力あるイエス様が傍にいるのに、(自分は)何をしているのか、自分の姿を見てください。

信仰によって主に信頼して委ねようとするならば、恵みを体験することができると思います。 (*´∇`*)

2013.4.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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