テーマは『 忘れてはならないこと 』です

【詩篇106編6-15節】

私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行った。

私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。

しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。

主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。さながら荒野を行くように。

主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。水は彼らの仇をおおい、そのひとりさえも残らなかった。

そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。

しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。

彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。

そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。

旧約聖書はイスラエルの歴史と言っても過言ではないです。
しかし 神様はイスラエルという国のことを私たちに知らせるためではなく、
≪彼らの姿を通して あなたの姿を見なさい。≫ということであります。

クリスチャンは、今の時代に選ばれた選民たちであります。罪から贖われて恵みによって救い出された者であります。
ですから、あなたと同じように選ばれたイスラエルの民たちの歴史を通して、「あなたの人生の歴史を振り返ってみなさい。」と神様はたくさんのメッセージを送っています。

決して「昔の歴史であって、今とは違う。私の国の話ではなく、イスラエルの歴史の話は(私には)関係がないでしょう?」ではないです。


教科書ではなく、聖書に書かれているということは、クリスチャンに対して神様が教えたいことであります。

読んでみると、私たちの姿がそこにあります。「こんな姿は見た事がない」と、誰が言えるでしょうか ――。
(自分の姿が)双子のように、そっくりなのです。

神様は歴史を通して、神様に喜ばれた者は1~3人と 本当に数少ないです。その他の者は、好き勝手に生きている姿がそこにあります。
逆らったり、罪を犯したり、神様に敵対心を燃やしたり、あらゆる姿がそこにあります。

私たちはこのような姿を見て、「これは私の姿だ。私もこのようにしている。」と思いながら読まないと
聖書が 自分とは関係のない書物になってしまいます。
神様はいつも「そこにあるのは、あなたの為の教訓である」と語っておられます。

私たちは彼らの姿を見て、何かを忘れている姿があるのです。
神様が忘れてはいけないと言うのに、平気に忘れていくのでそれによって様々な問題が生じます。




①私たちを憐み、苦しみと罪の中から救ってくださった神様の恵みは、絶対に忘れてはならない

イスラエルの民たちは、神様から恵みを受けました。
奴隷生活が何代にも渡って430年ほど続き、圧迫され自由がなく 人間扱いされない生活だったので(彼らは)当然のように その苦しみの中で神様を叫び求めました。

その叫びが天まで届き、神様は彼らの叫びの声を聞いてモーセを立てました。それは素晴らしい恵みであります。
そして彼らをその苦役の中から救い出しました。これは100% 自分たちの力ではないです。

神様が彼らを憐れんで解放する者を送り、そして神様ご自身の御手で彼らを救い、紅海を渡ってカナンの地へ導くと約束をし 連れ出しました。
しかし紅海を渡った瞬間に神様の恵みを忘れました。既にその前にも パロの軍隊が後ろから迫ってきた時にパニックに陥り、神様やモーセに対して文句を言いました。

彼らは都合の良い者たちなのです。自分たちが発した言葉を忘れています。
助けてくださいと散々言っておきながら、神様が助け出した途端に「あの時の方が良かったのに。なぜ私たちをここへ連れ出し、ここを墓場にする気なのか!」と呟きました。

恩知らずで恵みを忘れているのです。このような姿が私たちにもあります。
(恵みを)受けた時だけ「ありがとう」と言って、すぐに顔を変えます。


恵みを忘れる人は高慢であります。まるで自分の力でやってきたかのように、自分の力でそこから救い出されたかのように恵みをすっかり忘れます。

私たちは他人から裏切られると とても心が痛み、長い間苦しむ人が多いですが、一番痛めているのは神様であります。神様から見たら、裏切り者があまりにも多すぎます。ほとんどの者がそうなのです。

皆さん、振り返ってみてください。神様の恵みがどれほどたくさんありましたか?


イエス様はラオデキヤ教会を批判しました。彼らはなぜ批判されなければならなかったのでしょうか。
それは、恵みを忘れている者たちだったからです。
「自分は富んでいる。豊かになった。何一つ乏しいことがない。」と明言しました。
「これは神様のおかげです」と栄光を捧げる言葉がなかったです。

もしも私たちが神様の恵みを忘れて「私の努力で恵みを受けた」と散々言うならば、
「恵みを忘れた者よ、あなた自身の力か」と神様から叱責を受けます。

自分の姿を見た時に、どちらなのかを見なければならないです。

「神様の恵みによって今はこのようになりました」と言える者なのか、「大きなお世話です。神様がいなくても
自分の力で出来ます」と言う者なのか ――。

人は覚えなければならないことを忘れて、覚える必要のないものは しっかり覚えていることがすごく多いです。
神様はどうでもいいことは忘れなさいとおっしゃいます。


神様から一番大切な救いと恵みを受けて 苦しみから助け出されたことを死ぬ時まで忘れてはならないです。

天国へ入っても忘れてはならないです。
神様の恵みで天国へ入ってこられたことを、神様に栄光を捧げなければならないです。
神様の恵みを一つも忘れてはならないと心に刻まなければいけないです。




②無限なる神様の力を忘れてはならない

イスラエルの民たちが救われたのは神様の力なのです。

なぜ私たちがこの力の業を忘れてはならないのかと言うと、小さな問題にぶつかるとすぐに神様に対して疑い、
不信仰の心が出てくるからであります。

それは神様が過去にどれほど大きな力をもって自分たちを導き 救い出してくださったのか、と それを忘れるので(疑いや不信仰の心が)出てくるのです。


(神様の力の業を)しっかりと覚える人たちは「あの時は自分の力ではどうにもならなかったのに、神様の力によって
私はそこから助け出され、それで問題が解決されました。自分の力でも、他人の力でもなく、神様の力によって出来ました。」と、このことが いざ問題にぶつかった時に思い出すのです。

あの時にしてくださった神様の力は「昨日も今日もいつまでも同じ力である。この力がまた働いて神様が私をまた助けてくださる。」となります。

しかし私たちがそれを忘れてしまうと、問題の前で倒れるのです。
「どうしよう、どうしよう」と明日の事を心配し、神様に呟くのです。

イスラエルの民たちも、あれほど大きな恵みや力を見ながら、目の前にある本当にわずかなことで
つまずいたのであります。私たちもそうでしょう?

他人に語る時は「神様は力ある神様だから信じなさい。」と言うのですが、いざ自分が問題を抱えてしまうと
急に信仰がどこかへ消えてしまいます。そして、いつの間にか無能な神様と思ってしまいます。

これは神様の力を忘れたことであります。


【エレミヤ書32章17-22節】

「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を 造られました。あなたには何一つできないことはありません。

あなたは、恵みを千代にまで施し、 先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。

おもんばかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方に したがい、行いの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。

あなたは今日まで、 エジプトの国で、イスラエルと、人の中で、しるしと不思議を行われ、ご自身の名を今日のようにされました。

あなたはまた、御民イスラエルを、しるしと、不思議と、強い御手と、伸べた御腕と、大いなる恐れとをもって、 エジプトの国から連れ出し、

あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を 彼らに授けられました。

神様の大いなる力の姿が書かれています。
それを体験したイスラエルの民たちが この後どのようにしたでしょうか。次の聖書箇所に続きがあります。




③不義を行う者に対しては必ず神様の懲らしめがある


【エレミヤ書32章23-24節】

彼らは、そこに行って、これを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、 あなたが彼らにせよと命じた事を何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいに 会わせなさいました。

ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、 剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は 成就しました。ご覧のとおりです。

神様がエジプトの国に対して多くの災いを下したこと、そしてパロとその兵士たちを紅海の海の中に沈めたことを イスラエルの民たちは全て忘れてしまいました。

神様は、神様に敵対する者・不信仰な者・高慢な者に対しては、たとえそれが選ばれた選民であっても
神様は正しく裁く方でありますので同じようになさるのです。
信じない者だけに災いを下して、自分が選んだ民たちが悪い事をたくさんしていても それを黙認する神様ではないです。

彼らの高慢な姿が出てきます。
「私たちは悪いことをしていても 神様が愛して選んだ者であるから、私たちにはそんなものは来ないのだ。」という特別意識があります。
祝福は来ても、災いを下す神様ではないと思いました。これは彼らの大きな勘違いであります。

災いを下さないと、それは甘やかすことになります。
それこそ父(=神様)に逆らう子になるので懲らしめるのです。
イスラエルの民たちが神様に逆らった時は、異邦人よりもひどい目に遭いました。


神様の裁きの時は、神の家から始めると語りました。まずは毒麦とヤギを取り除いて、そこから聖めます。

聖書の言葉は、信じる者にも信じない者にも同じく当てはまるのです。

神様は真理の言葉で私たちを正しく裁く方であり、そこで違反している者に対しては(神様が)同じようになさいます。
ですから、免れることがないです。

神様は 苦難がある時にはすぐに立ち返りなさいと語りました。
イスラエルの民を見て、自分の姿を見ることなのです。

私たちの内側が、神様が願うように いつも恵みを覚えて感謝し、神様の力に完全に頼り、そして神様が喜ばないことはしないことです。神様がおっしゃったことに喜んで仕えるならば、何一つ心配することがないです。


私たちは皆、足りない者で まだまだ失敗が多いですし、弱い者であり、知恵のない者であります。

ですから私たちは言葉を聞いて「神様、赦してください。恵みを忘れてしまいました。神様の力を信頼しませんでした。神様がこんなに良くしてくださったのに、私は自分勝手にそれに甘えて勝手な道を歩みました。主の声を無視しました。自分には災いが来ないと偉そうにしていました。赦してください。恵みを忘れません。神の力を忘れません。不義な者に対する神様の懲らしめも忘れません。」と悔い改めます。

これが今回の本文を通して神様が私たちに教えることであります。


耳のある者は聞きなさい、と私たちは主の前で本当に謙遜になる必要があるのです。
私たちは朝霧のように消え去っていく者であります。

今、平気でやっている小さなことによって 後で大きな代償を払わなければならない時が来たら、多分耐えられないと思います。
ですから私たちは、神様を 本当に恐れなければならないです。
神様という存在を軽く見てはいけないということであります。

受けた恵みに心から感謝して、この神様から絶対に離れないで信頼するならば、主は喜んでくださいます。


私たちが悔い改めをするのは、不義な者に対して神様の懲らしめがあるからなのです。

地上の小さなものばかりを頭の中に入れておいて、神様の存在を遠いところに投げ出して形式的な信仰生活をしているならば、後で 主の手の中で潰されます。

今回の言葉はしっかりと心に留めてください。これは忘れてはいけないことであります。
神様の道が一番安全であり、命の道、将来が保証される道であります。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2013.10.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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