からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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忍耐

実が結ばれる良い地

テーマは 『 実が結ばれる良い地 』 です

【マタイの福音書13章8節】

別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

【マタイの福音書13章23節】

ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

マタイの福音書13章には種まきのたとえがあります。


四つの異なる所に同じ種が蒔かれました。

すると、まったく実りがない所があれば、豊かな実を結ぶ所もありました。


今回の本文は、豊かな実を結んだ良い地に対して語っています。


私たちも出来れば多くの実を結びたいと願っていますので、どうすれば良い地になって実を結ぶことが出来るかを学びたいと思います。




柔和で謙遜な心は良い地




普通に考えても悪い心から良い実を結ぶことは不可能です。

悪い心からは悪い実が結ばれます。


ですから、良い心から良い実が結ばれることは 神の法則です。

柔和な心は柔らかい心です。


私たちがある人を見て「あの人はいい人だ。」と言う時があります。

柔らかさや暖かさを態度や声で感じると 好印象を受けて、良い人だと思い込みます。


新約聖書で柔和な人で思い浮かぶ人は バルナバです。

“慰めの子” と呼ばれました。


彼の行いを見ると、神の言葉を聞いた時に感動を受けて、自分の畑を売り その代金を使徒たちの足もとに置きました。

大金だと思いますが、それを自慢することもなく、身をかがめて使徒たちの足元に置きました。


そしてもう1つは パウロが回心した後、皆はそのことが信じられず、パウロを恐れて近づかなかったですが、バルナバはパウロを引き受けて、使徒たちに紹介しました。

柔和な人なので、人にとても優しいです。


彼のことを聖書はこのように言いました。


【使徒の働き11章24節】

彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

これは良い実を結んだ姿でしたので、多くの人々が導かれました。






モーセは謙遜な人でした。

普通の謙遜ではないですね。
次のような評価をもらうこと自体、すごい人だなと思いました。


【民数記12章3節】

さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

彼が立派な指導力を発揮して、自分の役割を果たすことが出来たのは、彼の心が良い地であったからです。


心の土壌が荒っぽく かたくなな人は、絶対に立派な人格を備えることが出来ないですし、立派な人生を歩むことも出来ません。


イエス様の謙遜もすべての人にまさっていました。

自ら自分のことを次のように言いました。


【マタイの福音書11章29節】

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば安らぎが来ます。

そのような心があるので 罪人を招き、問題のある人を受け入れ、助けを求めるひとを拒みませんでした。

パウロもその心を見習い、柔和で謙遜な人になりました。

ですから私たちにも良い心になるように命じました。


人を自分よりもすぐれた者と思う心がまた 良い実を結ぶ謙遜な心です。


謙遜と柔和の土壌から良い実がたくさん結ばれます。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

良い地から結ばれる実です。




◎従順する心に良い実が結ばれる




私たちの人生で、良い実を結ぶためには 土壌だけ良ければ、あとはいらないことではないです。


良い土壌に実を結ばせるためには、聞く耳をもって主のことばをよく聞き、そして聞いたことばに従うことです。


【第1サムエル記15章22節】

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

知識ある人も才能ある人も 誰でも実を結ぶためには、主のことばを聞かなければなりません。


御言葉をないがしろにするならば、良い実を結ぶことは出来ません。


御言葉を聞いて、すぐ実行に移すことを “従順” と言います。


いくらみことばの知識をならべても、理論を立てても、行いが伴わないと 実を結ぶことは出来ません。


従順も、“完全な従順” が実を結びます。


聖徒の中でも、聞くことは聞きますが、実行せずにそのままにしている信徒が多いです。

いくら悟っても従順しないならば、価値がありません。

主は天国に入る資格でも次のように語りました。


サウロ王はみことばを聞きましたが、完全な従順ではありませんでした。

それでサムエルが今回のことばを彼に語りました。


主のみこころを知っていても、それを行わないならば天国に入れません。
そして良い実を結ぶことも出来ません。




忍耐する心が実を結ぶ




忍耐は、まず希望をもって忍耐することです。
希望があると忍耐出来ます。


自分の人生の土壌に 実を結ばせたい人は、忍耐することを学ばないといけないです。

忍耐できる土壌は良い土壌です。


いくら実を結ぶ完璧な条件が揃っていても、忍耐出来ないならば、実を結ぶことは出来ません。


ヨブは忍耐の人でした。

すべてが取られ、人生最悪の苦難を受けていましたが、神を呪うことも、神から離れることも、つぶやくこともせずに ひたすら忍耐していました。


忍耐の中での彼の告白でわかります。


【ヨブ記23章9-10節】

左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。

彼のことをヤコブ書にはこのように書いてあります。


【ヤコブ5章11節】

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ヨブは試練の以前よりも試練に耐えた後にさらに豊かになりました。


農夫が 暑さや疲れにも耐えて熱心に働くのは、豊かな収穫を期待するからです。

収穫が農夫の希望です。


忍耐は最後までしなければ、実を刈り取ることが出来ません。


もし途中で諦めるならば、それまでの忍耐も労苦も報われません。


選手がゴールまで辿り着かないと失格になります。

勝利することは出来ません。


リンゴも梨もぶどうも完熟まで待たないと 甘さが足りないので、美味しいとも思わないです。

完熟するまで忍耐が必要です。


【ヘブル10章36節】

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

熱心さも才能も重要です。

しかしそれが全部揃っても忍耐出来ないならば、実は期待出来ません。


主は、私たちが実を結ぶことを期待します。

良い実を期待します。


私たちが実を結ぶ時に、私たちが主の弟子であることが認められます。

それは私たちの土壌が良かったことを意味し、そこに柔和と謙遜な心、主のことばと従順、忍耐がすべてあったことを証明します。


自分の状態をよく見て下さい。

それらのものが揃っているでしょうか。


良い地になるように、日々よく管理しましょう。
(。・ω・)ノ゙

2016.10.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私のたましいが神を待ち望む理由

テーマは 『 私のたましいが神を待ち望む理由 』 です

【詩篇62編1-12節】

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁が、ぐらつく石垣のように。

まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

圧政にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富はふえても、それに心を留めるな。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

2月5日、熱海発大島行きの高速ジェット船が クジラと衝突し、海上を漂流していましたが、海上保安部の巡視船が救助に向かって彼らを助けました。


74人が乗っていましたが、全員無事に助けることが出来ました。

クジラとぶつかって船がダメージを受けて漂流し始めましたが すぐに助けを求めたので助かりました。


最近ギリシャのエーゲ海では難民船が次々と漂流したり、沈んだりして多くの人々がいのちを落としています。


彼らがいのちを落としたのは、漂流しても助けを求めるところがなかったからです。

ですから、船に1つでも問題が起きてしまうと 助かることもなく、悲惨な結果に繋がってしまいます。
とても気の毒です。


助けを求めるところがあれば、多くの人が助かったと思います。


それを見ても、助けを求めるところがあるのと ないのとでは天と地ほどの差があります。

それで生死が決まってしまいます。


人生の海上で漂っている時に、助けを求めるところがある人は 本当に幸いです。


本文は、助けを求める所があったダビデの告白です。


助けを求めた後は、助けが来るまで じっと待つ姿が見られます。

これこそ神にすべてをゆだねている姿です。


さらにダビデは、自分がなぜ黙って、ただ神を待ち望むかについて語っています。




・すべての救いは 自分が待ち望む神から来る




この救いは、自分のいのちを狙う者からの救いはもちろん、たましいの救い、絶望からの救い、悪者からの救い、苦しみや患難からの救い、病気や痛みからの救いなども含まれた “すべての救い” です。


私たちが信じる神は “唯一の救い主” であるからです。


世界にはたくさんの宗教があり、「それぞれに救いがある」 と言いますが、まことの救いは、イエス様から来ることを知らないといけないです。


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、 私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

主は私たちの救い主です。

ですから苦しみに会った時には、人間的な方法や思いで救いを得ようとするのではなく、初めから絶対的な信頼を この神に置いて神に助けを求めることです。


これが救われる一番の近道です。

神様にすべての状況を話して 神の助けが来るまで神を待ち望むことです。


この詩篇を書いたダビデも、そのようにしていつも救い出されました。


彼は 救いを神に求めた後は、自分の信仰を次のように告白しながら保っていました。


【詩篇62編1-2節】

私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。



・すべての望みは 自分が待ち望む神にある




人間には様々な希望があります。

救いへの希望もあれば、叶えたい夢もあります。


しかし、人間の欲望が入った希望は むなしく終わることが多いです。


世にあるすべてのものを欲しいままに手に入れ、欲望をすべて満たしたソロモン王が告白したことばを聞いてみましょう。


【伝道者の書で1章14節】

私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。

欲望から出た人間的な望みは消えて行くものです。

自分の欲望によって 永遠の喜びと満足を与えることはないですが、聖徒が持っている望みは それとは違います。


聖徒にある “望み” とはなんでしょうか?


【箴言10章28節】

正しい者の望みは喜びであり、悪者の期待は消えうせる。

これは、消えることのない喜びです。


【箴言14章32節】

悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。

正しい者は、たとえ死の瞬間でも 神に信頼しているので、永遠のいのちへの希望があります。

“死者の復活” という望みがあります。


この望みほど素晴らしい望みはありません。

これは神の恵みによって与えられる望みです。


【詩篇62編7節】

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

この言葉は 私が辛かった時や、死にそうだった時、そして先が見えなかった時に、本当に力と希望を与えたことばでした。


よく このみことばを告白していました。

望みを抱いて忍耐しました。


他にも支えになったことばがあるので紹介します。


【詩篇68編19節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

【詩篇118編17節】

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のわざを語りつげよう。

【ローマ5章5節】

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

これらのことばを信じ、望みを持って神を待ち望みました。

そして大変な時期を乗り越えました。


ダビデ自身 いつもそのように助け出されました。


【詩篇62編8節】

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

このように勧めています。




・神が一番安全な避け所であるから神をただ待ち望む




これから起こるかも知れない人生の苦難や嵐のための避け所を 必死で造ろうとするのが人間ですね。


財産、人間関係、地位など色々あります。


“それさえあれば助かる、何とかなる” と思いながら頼ります。

しかしそれは不完全であるので、一時的な避け所に過ぎません。


私たちには、安全で決して揺るがされない避け所が必要です。


神の中ほど安全な避け所はありません。


【詩篇63編7-8節】

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

これは、彼がユダの荒野にいた時の告白ですが、避け所である神の中にいる姿です。


神に仕えていたすべての信仰の人たちも苦しみや迫害の中で似たような告白をしました。



【イザヤ書25章4節】

あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。

【エレミヤ書17章17節】

私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。

“神を 自分の一番安全な避け所” と思う聖徒になりましょう。


神に向かって人生の航路を固定しましょう。


なぜなら、神様だけが 私たちの人生に救いを与え、望みを与え、安全な避け所であるからです。


たとえ嵐にぶつかることがあっても主が助けて下さいます。



【詩篇107編27-31節】

彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。

主があらしを静めると、波はないだ。

波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

(・∀・) アーメン

2016.2.7
聖日礼拝メッセージ

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失敗しない信仰生活

テーマは 『 失敗しない信仰生活 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

今回のメッセージタイトルは「失敗しない信仰生活」ですが、なぜこのようなタイトルにしたかと言うと、「信仰生活に失敗も成功もない」と思っている人が多いからです。


たとえば日本では信仰を持っていない人でも、“死んだらみんな天国” という発想がありますね。

ですから 信仰を持っている人は、さらに自分は天国は間違いないと確信を持っているので、果たしてそうなのか?ということを確認したいと思います。


あなたの信仰生活は大丈夫ですか?と聞きたいです。


1節に、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」と ありますが、彼らは誰でしょうか。そしてなぜ私たちを取り巻いているのですか。

彼らは私たちの何を見ているのでしょうか?


多くの証人たちとは、へブル11章に書かれている信仰の先輩たちで、キリストの証人としての働きを全うした人たちです。

すなわち神に勝利者として認められ、天の御国に入れられた人たちです。

信仰を全う出来なかった人たちはその中にはいませんでした。


天にいる彼らは 主の恵みによって、私たちのことを天から観察しています。

彼らは信仰によって生きている後輩たちを応援するために、エールを送っています。


彼らが見ているのは、私たちの信仰の競争です。


大勢が参加する競走を見ると、最後まで全うする人、途中で棄権する人、脱落する人が必ず出てきます。

棄権や脱落する人は、信仰の競争を全う出来ず失敗した姿です。

誰がそこに入るかは分かりませんが、必ずいます。






私たちが棄権や脱落をしないためには、どのようなことに気をつけなければならないでしょうか?


まずは、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てることです。


いっさいの重荷を捨てることは、信仰生活を妨げるすべてのものを捨てる事であり、まつわりつく罪を捨てることは、徹底的に罪を悔い改めることです。


これをやらないと、その信仰生活は必ず失敗に終わります。

教会に通うだけで何とか済ませるようなことではないです。


信仰の競走が何年、何十年前にスタートしたのに、いつも同じ状態ならば、未だにその人は この2つに係わっています。


そのような人は、信仰の妨げになるものがあっても そのままにしていますし、罪に対しても甘い考えを持っています。

この2つを持っている人は、真の信仰とは何か?そして御言葉通りに生きることが どのようなことであるのかを知らない人です。


それは怠けた姿であり、やる気がまったく見えない姿です。

そして不信仰で 形式的に信仰生活をしているので、神はその人を見て “怠けた悪いしもべ” と言います。


みなさんはいつも罪を捨てるための悔い改めをしていますか?


現代教会の大きな問題は、罪と悔い改めのことを叫ばす、信徒の耳に良いことばや世の価値観と妥協するメッセージだけを伝えることです。


牧師が神を意識せず、信徒の表情を意識するならば 罪と悔い改めのことは語りません。

みことばを正しく教えないので、信徒が罪の意識も持たず、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。

これはとても危険です。


罪を捨てないで信仰を全うすることができるでしょうか?

罪を悔い改めないと、その人は罪人の姿のままです。


罪を洗う主の血潮は 悔い改める時に注がれますが、悔い改めないならば 罪は洗われることなく、そのまま残ってしまいます。


全身汚れた姿で主の前に立つことが出来ますか?


その姿が天国にふさわしくない姿であることは自分でも分かると思います。

罪を捨てず、罪を犯し続ける姿を堕落した姿と言います。

その人たちに対することばがあります。



【へブル6章6節】

しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

例えば ずっと盗みの罪を犯し続けているならば、その人はイエス様の手に釘を打ち続けているのです。

また 思いの中で罪を犯し続けているならば、主の頭に いばらの冠を載せ続けているのです。


そうしながらも、いたずらに主の名を呼ぶことはあってはならないことです。


そしてどんなに辛くても信仰の競走は忍耐をもって走り続けることです。


イエス様は自分の十字架を最後まで負いました。

その十字架は、罪を犯したから負った十字架ではなく、悪い人たちが負わせた十字架でした。

正しいことをしたのに迫害されて負わせられた十字架でした。


主が最初から私たちに語った言葉がありました。



【マタイの福音書16章24節】

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

この十字架は自分が犯した罪によって負う十字架ではなく、信仰のために負う十字架、悪い者から受ける迫害の十字架です。


この場合は忍耐しながら最後まで十字架を負ったイエス様のように十字架を負わないといけないです。


忍耐に対して次のように言われました。



【ヤコブ1章2-4節】

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

この忍耐がないと試練の時に倒れてしまいます。


忍耐のために私たちは、私たちを取り巻いて応援する証人たちを見、そして励ましを受けることです。
そうすると、力が得られます。


【ヤコブ5章10-11節】

苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

試練の中でも忍耐して信仰を守り、神のことばに従順した人が証人であり、その人たちが信仰を全うしました。


祝福は受け入れても、苦難を拒む人は信仰の失敗者になります。






失敗しない信仰生活のために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てること、そして忍耐することも重要でありますが、もっとも大切なことはイエス様から目を離さないことだと教えています。


信仰そのものがイエス様を信じることなので、イエス様を見ることは当然でありますね。


しかし見ていない人が多くいます。目を違う所に向けています。

これが失敗の原因になります。


信仰生活において、生きる目的や 目指す目標も すべてイエス・キリストに焦点を合わせないと、競走の道から外れてしまいます。


イエス・キリストに焦点を合わせないすべてのものは間違えています。


信仰生活も、天国だけに目標を置くならば、それも間違いです。

教会を大きくしたくて、教会成長だけに目標を置くならばそれも間違いです。


目標はあくまでも、“イエス・キリスト” でなければならないです。


イエス・キリストに焦点を合わせて信仰生活をするならば、天国には間違いなく入れますし、教会も成長していきます。


証人たちはイエス様から目を離さなかったので、試練の中でも忍耐し信仰を全うすることが出来ました。

イエス様の十字架の勝利を見たので自分たちの十字架を最後まで負うことが出来、そしてイエス様が受けた栄光を見たので、喜びながら競走を走り続けることが出来ました。


イエス様だけを求め、見つめ、思う人は つまずくことも競走にやぶれることも脱落することも失敗することもありません。

しかし目を離してしまうと、その反対のことが起こります。


イエス様から目を離さず、すべての目標もイエス様に定め、すべての焦点もイエス様に合わせましょう。

これ以外に失敗しない方法はありません。
v( ̄∇ ̄)v

2015.10.18
聖日礼拝メッセージ

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誰が冠を受けるのか

テーマは 『  誰が冠を受けるのか 』 です

【第2テモテ4章6-8節】

私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けて下さるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けて下さるのです。

世界で最も値段の高い王冠や宝石をインターネットで調べてみました。

100億円を超えるものから 何十億円のものまでありました。


イギリス王室の王冠などは 宝石がたくさん装飾されており、とても高価に見えますし、他の国の王族やお金持ちが高い宝石を所有していました。


しかし、どんなに高価で輝く王冠や宝石であっても 誰1人それを死後の世界にまで身につけて持っていった人はいません。
誰もが地上に残して行き、その所有者が次々と変わっていきます。


永遠に自分の物にはならず、あっという間に自分から離れて行くものと知っていながらも、人々は地上の様々なものを得るために、自分のいのちさえも惜しまずに必死の努力をします。



最近、東大阪市で 64歳の兄が、61歳の弟を殺害する事件が起きました。

親が残した財産による金銭トラブルでした。

親は子どもの幸せと思って財産を残しましたが、結果は悲惨なものになりました。


持っているために生じるトラブルはたくさんあります。

それでも人はそんなことは心にも留めません。


聖徒もそうやって生きるべきでしょうか?

朽ちて行くものを得るために人生を懸けるべきでしょうか。


聖徒の生き方はそれとは違います。

聖徒が得ようとするものはむなしく消えて行く世のものではなく、永遠に消えることのない神が備えておられる冠です。


それは神様が与えて下さる聖徒への報いです。

しかし聖徒という理由だけで、自動的に受けられる冠ではないです。


ある人は、“それならあまり価値がない”と言います。


冠が勝利者に与えられるものであることを知らないといけないです。


それならば、どのような人が冠を神様から受けるでしょうか。
今回はそのことを学びたいと思います。




1.人生の最後まで勇敢に戦い、忍耐によって自分の信仰を守った人




主に選ばれ、主を信じた人たちが皆 最後まで信仰を守り、主と共に歩むと思いますか?
――そうではないです。


多くの人が主から離れて行きます。

イエス様の12弟子の1人であったイスカリオテ・ユダも主を裏切り、去って行きました。


また、イエス様が語ったことばに対し、自分たちが気に入らないという理由でつぶやきながら、12弟子ではない他の多くの弟子たちも離れ去っていき、もはやイエス様と共に歩かなかったと聖書に記録されています。


パウロと共に福音伝道に仕えていたテマスも 世を愛した為、パウロを捨てて去って行きました。

毎日奇跡を体験し、神の存在が明確に現れているのを見ながらも、神から離れて行きました。


実際に この教会でも信仰告白をして救われた人が ずっと教会に残っていたならば、今 空いている席はだいぶ埋まっていると思います。


しかし他の教会に移った人よりも 信仰を捨てた人の方が多いので、とても残念に思います。


なぜそのようになってしまったのかを考えると、サタンに惑わされて不信仰になったり、富の誘惑に目がくらんだり、この世を愛する心が強くて、信仰を捨てて世に戻りました。



信仰の道、いのちの道は狭い道であると 主が語って下さったように、その道を歩むためにはこの世から来るあらゆる誘惑や試み、試練に忍耐しながら戦わなければなりません。


ですから信仰を最後まで守ることは簡単なことではないです。


また、時には信仰のために家族や親族、職場からも反対されたり、迫害されたり、侮辱されたり、不当な扱いを受けたりします。

それで信仰を捨てた人も多いです。


しかし そのような中でも、神から離れず信仰を守った人たちには神が素晴らしい報いとして冠をその人たちに与えることは当然のことです。


神は初めから信仰の勝利者のために、永遠に消えることのない いのちの冠、栄光の冠を備えておられます。


いのちをかけて信仰を守ったのに何もないならば、それほど虚しく無駄なことはないです。

しかし神様はそのようなことはなさらない方なので、豊かに祝福して下さいます。


【マタイの福音書24章13節】

しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

このような約束がありますが、救われることは いのちの冠を得ることを意味します。


このいのちは永遠のいのちです。
いのちほど大切なものはないので、これほど素晴らしい祝福はありません。




2.自分に与えられた使命や働きに忠実な人




パウロが神からの冠を期待する理由は、神から与えられた “走るべき道” を走り終えたからです。


走るべき道がまだ残っているのに走りを中断したのではなく、“疲れたから後はゆっくり休もう” ではないです。

ゴールは、“いのちが尽きるところまで” が走り終える地点です。


ある牧師の話です。

年を取ったので、教会からも引退するように言われ、引退しました。

奥さんの方が先に亡くなり、牧師は子供たちに迷惑はかけたくないということで、老人ホームに自ら入りました。


しかし、そこで何もせずに時間を過ごしたのではなく、周りの入居者の様子を見ていました。

そこには寂しさを感じている人、問題を抱えている人、病気の人など様々な人たちがいました。


そこで牧師は毎日 人々の世話を始めました。
そうすると、皆がとても喜んでくれて、施設の関係者たちもすごく喜んでくれました。

そして、全員がその牧師のことを “神様が送って下さった天使” と呼びました。


これが忠実な働きです。

言い訳が多いのは忠実とは言えないです。


私たちは、“死に至るまで忠実でありなさい” と言われています。


神様が(その働きを)取り上げない限り、自ら辞退をしないことです。

それは主から受ける冠を自分から拒否することになります。






ロサンゼルスオリンピックのマラソンで、ある女性選手がフラフラと意識が朦朧になりながらも、ゴールに向かって歩きました。

何度も倒れそうになりながら、ゴールまで辿り着いて倒れました。


選手としてずっと目指して走って来ましたので、簡単に諦めることが出来なかったと思います。


その姿に皆が大拍手を送りました。

メダルは取れませんでしたが、最後まで走りぬく姿勢は 私たちに感動を与えました。


自分に与えられた神からの奉仕をないがしろにして、忠実でもないのに神様が与えてくださる冠に対しては関心と期待が大きい人がとても多いです。


しかしこのような人たちには、忠実な人だけに与えられる冠を受けることが出来ません。


神の働きをするためには、自分がしたいことを先にしてから 残りの時間ですることは出来ません。
神様は、“神の国とその義とをまず第一に求めなさい”と語りました。


自分のことよりも、神様の働きをまず考えて忠実に働いて下さい。


黙示録でも忠実な人たちだけに与えられる祝福がたくさんありました。

そうではない人たちには「悔い改めなさい」と言われました。


「昔はよく奉仕をしましたが、今はしていません」という人たちがいますが、それは自慢話ではなく、その人が忠実な者から今は怠け者になったことを意味します。


特別な事情も もちろんあると思いますが、本当にそれだけの理由なのかをよく考えてみて下さい。

神様は心の内を誰よりも知っておられるからです。




3.福音を伝える人




イエス様がわざわざ地上に来られた目的は何でしょうか。


【ルカの福音書19章10節】

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

イエス様ほど魂に対して関心が強い方はおられません。

神様が1番喜ぶのは、失われた魂を捜して救うことです。


よみがえってから天に上る時に、弟子たちに命じたのが 全世界に福音を宣べ伝えることでした。

福音を伝えるのは聖徒たちに与えられた使命です。


自分だけが救われて天国に行くのではなく、他の人も天国へ行けるようにと福音を伝えます。


弟子たち全員は、なぜ殉教しましたか?
――彼らが主の命令に従って福音を伝え、福音を拒否する人たちによっていのちが奪われました。


日本でも韓国でも、初めに福音を伝えに来た外国人の宣教師たちが多くいのちを落としました。
そして信徒たちも殉教しました。


福音の内容もまともに聞かず、最初から反対されました。

心の頑なな者は聞く耳がないです。


古いものに執着を持っている人や既得権を持って良い思いをしている人たちは、新しいものに対していつも反対し妨害します。
それは全世界どこも同じです。


それでも逃げず、恐れずに福音を伝えることが大切です。


なぜなら福音を聞かせないと彼らは救われることがないからです。

反対する人の中にも、聞いて信じる人がいるかも知れないです。


パウロは福音に命を懸けました。

その様子は次の箇所です。


【第1テサロニケ2章9節】

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

神様はこのように、主のことばに従いながら、働く人に目を留めておられます。

そして彼らの労苦と苦闘に、報いとして栄光の冠をその人たちに与えて下さいます。


この世でも最善を尽くした時に良いものを得ますが、主のために最善を尽くして働いた者たちに対する神からの報いは、私たちが想像することも出来ないほど尊い物であり、永遠のものです。

価値あるものを目指すのが、無駄な人生を歩まない方法です。


財産、権力、名誉、欲しい物のために命を懸けて最善を尽くす人がたくさんいますが、それによって神からいのちの冠、栄光の冠を受けることは出来ません。


聖徒の人生は価値があり 尊いものですので、(まだ救われていない人とは)目指すものが違います。


素晴らしいものを用意しておられる神様に期待しながら、この世で走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し、そして人々に福音を伝えることです。


そのようにしている人は神様が用意した素晴らしい報いがあります。

それは永遠にその人の冠として その人に栄光を与え続けます。


人それぞれの働きに神は正しく報いて下さいますので、いのちと栄光の冠を受けられるように 与えられた人生で最善を尽くしていきましょう。
( ̄∠  ̄ )ノ

2015.8.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の約束を信じたアブラハムの信仰

テーマは 『 神の約束を信じたアブラハムの信仰 』 です

【ローマ4章19-21節】

アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

聖書から、“神のことばと信仰” を除くならば、何が残るでしょうか。

そして、それらを除いた聖書が私たちにどのような意味を残すでしょうか。
それは何の価値もないものになってしまいます。


信仰は神のことばと私たちをつなぐ役割をします。


いくら聖書が真理であり、いのちのことばだとしても、読む人に信仰がないならば聖書をどんなにたくさん読んでも、その人に聖書の価値はわかりません。


ただの一冊の本に過ぎません。


また、ある人が「自分には信仰がある」と言っても、その人の信じるものが真理のことばでないならば、その信仰はむなしいものとなり、その魂を救うことは出来ません。


アブラハムという人物は、“信仰の父”と呼ばれています。
神様は、アブラハムが見せた信仰を 良い信仰だと認めて下さいました。

それはアブラハムが神の言葉に対して信仰をもって受け止め、その信仰が最後まで生きていたからです。


アブラハムは神様を直接見たから神を信じたのでしょうか?

神を信じない多くの人は、「神を見せてくれるならば信じる」と言います。


高慢と不信仰な心で「神を見せてくれ」と言っても、神がその人に現れることはありません。

なぜなら神が認める信仰は、見て信じる信仰ではなく、見ずに神の約束を信じる信仰をよしと認めて下さるからです。


信仰がない人に神が現れるのではなく、信仰がある時に神を見ることが出来ます。

(ここで、「見る」というのは自分の肉の目で見るという事ではなく、心の目で見るということです。)


神のことばを信じる人は、心の目で神を見るようにして生きています。






アブラハムの信仰が、どのような信仰であったのかを見たいと思います。

アブラハムはある時に神の声を聞きました。それはアブラハムにとって初体験でした。


目で神を見たのではなく、聞こえてくる神のことばでした。

神から聞かされた内容はあまりにもスケールが大きくてよく理解出来ない神の一方的な約束でした。


【創世記12章1-3節】

主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

もし皆さんがこのようなことばを聞いたならば、理解できますか。
そして神のことばを理解できないまま、すぐに従うことが出来ますか。


すぐに出来るならば、アブラハムの信仰を認めた神が、皆さんの信仰を認めて下さると思います。

しかし出来ないならば、アブラハムの信仰を見習うことです。


アブラハムは神の約束のことばを信じ、主が仰せられた通りに出かけました。
冒険するには75歳という年齢は厳しいと思います。


しかし、アブラハムは従順出来ない理由を捜したのではなく、ただ神から言われた通りに従いました。


その時のアブラハムの信仰は、神に完全に従順する信仰でした。

信仰のない人から見ると無謀な人間に見えたでしょう。
“失敗したらどうするの” と心配する声が周りから大きくなるでしょう。



すぐに心配する人は、なかなか信仰が成長しないです。神のことばよりも自分の感情に忠実だからです。

そのような人は神の言葉よりも自分がどう思うのかが一番です。
自分が安心出来たら(言葉に)従うけど 安心出来ないと、神の言葉に頼るのが苦手です。


しかし アブラハムは神のことばだけに信仰を結び付けて従順しました。

簡単そうに見えても、人々はここで失敗することが多いです。


まずは「そんなことが信じられません、そんなことが起こるはずがありません」 と勝手に神様のことばをつぶして従うことはしません。

神がせっかく語って下さったのに、どれほど多くの人々が、自分たちの不信仰で神の言葉を無視するかわかりません。


まるで神様が嘘つき、詐欺師であるかのように「信じたらダメ」 と否定します。


アブラハムは信じて大胆に出かけました。
神様が喜ぶ信仰は、従順する信仰です。


信仰ある人は、自分の頭で理解出来ず 納得できなくても、神が語ったことばが一番で、そのことばに従います。


アブラハムの信仰は、神の約束を最初から疑わない信仰でした。

最初の神の約束のことばを疑わずに受け入れたアブラハムでしたが、すぐにその信仰が認められ、すべての祝福を受けたでしょうか。


現実はどうでしたか―?

75歳で従順して出かけましたが、25年間何事も起こりませんでした。
25年は決して短い時間ではありません。


自分ならばどうするのかと考えてみて下さい。

信じた私がバカだったと自分に対して腹を立てますか?
また、神様に向かって嘘つきと文句を言いますか。


たぶん私たちならば両方やっていると思います。

しかしアブラバムは、子孫が与えられる約束を受けたにも関わらず、いつの間にか100歳になり、生産不能になり、子を持つことが不可能になったにもかからわず、アブラハムは神の約束を疑いませんでした。


これは素晴らしい信仰です。






人々は信仰よりは不信仰を選び、信仰よりは疑いを選びます。

忍耐よりは諦めて、時間を無駄にするよりは他の方法を捜します。

しかし別の方法も見つからず失望して終わる人が多いです。


沖縄に行った時、海岸にある木を見ましたが、形がちょっとおかしく、木の葉や枝が不揃いでした。

台風が多いので、暴風で枝が折れたり、葉っぱが落ちた為だと思います。


でも激しい風の中でもしっかり立っているのは、植えられた所に、必死に頑張ってしがみついて 根を深く降ろしたから倒れなかったと思います。


疑いは二心です。どうしようかと迷う心です。

根を下ろそうか、やめようかと二心で戦いますが、そのような状態では立ってはおられません。

現実の強い風で倒されてしまいます。


アブラハムは自分や妻が年取ってこどもを産む力がないことを知っていても、信仰が弱ることもなく、神の約束を疑うこともなかった理由は、アブラハムが神の無限なる力と 神は約束を守る神であることを信じたからです。


【イザヤ書55章11節】

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

環境に左右されたり、自分の状態に左右されたりするのは信仰の姿ではありません。


神の絶対的な力と真実さに対する完全な信頼こそ、不可能に見える状況の中でも アブラハムを苛酷な現実から守る信仰の力になっていたと思います。


信仰は力です。

環境を見て信仰が無気力症にかかる人が多いです。それは信仰の根っこが弱いからです。


アブラハムも人間的な目で見ると、大いなる民族の先祖になることは想像出来ない状況でしたが、それでも信じたので 「信仰の先祖」 と呼ばれています。

この姿は私たちが見習わないといけないです。


次々と変わる環境や状況に振り回されて信仰の無気力症に落ちるのではなく、そのような時こそ忍耐をもって神の約束を堅く信じ、耐えることです。


その姿を確信に満ちた信仰と言えます。


確信とは、疑いが入る隙間もないほどに、自分に与えられた神の約束のことばと、神は約束したものを必ず成し遂げる方であることを心の中に満たすことです。


そして日々そのことを黙想することです。

まるでそのことが当たり前であるかのように思われると、信仰の根を深く降ろしたことになるので、過酷な現実の中でも倒れることがありません。


その人たちを倒そうとするサタンの策略も失敗に終わり、さらに試練の中で信仰は強くなり、成長していきます。


見えるものにすぐ心が取られたり、疑ったり、失望すると、倒そうとするサタンに隙を与えることになります。

現実的な可能性があったり、少しでも希望がある時は、信仰を守ることがそんなに難しいことではありません。


ところが、激しい試練や不可能な状況に直面すると、私たちの信仰は病にかかり 倒れやすいですし、疑いと絶望で揺れ動いてしまいます。


しかし、そのような時でもアブラハムがしたように、神に望みを置いて、神の約束を信じ続けるならば、神は約束したことを必ず成就して下さいます。


信仰が弱いと、神から素晴らしい約束を受けても、それを無駄にしてしまうことが多いです。

しかしアブラハムのようにするならば、すべての約束を自分のものにすることが出来ます。


信仰が弱くなったと実感する時は、アブラハムの信仰をもう一度学んで下さい。


彼が教えてくれます。
( ̄‥ ̄)=3

2015.7.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主が喜ぶ教会とは?

テーマは 『 主が喜ぶ教会 』 です

【ヨハネの黙示録3章7-13節】

また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、 彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。

「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いて おいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

見よ。サタンの会衆に属する者、 すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、 わたしがあなたを愛していることを知らせる。

あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを 試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、 あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。 わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを 書きしるす。

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

ヨハネの黙示録は、キリストによって啓示されたすべての世代のキリスト者に伝える神のことばが書かれています。


そして アジヤにある7つの教会に送ったメッセージを通して、すべての教会に さばき主として来られる主を待ち望みながら どのような姿で存在して対処すべきかを教えています。

特に今回は 主が喜ぶ教会とは、どのような姿なのかを 7つの教会を通して学びたいと思います。


自分たちの教会と比べながら主が喜ぶ教会を目指していきましょう。


(黙示録に書かれている)各教会に対して褒め言葉と叱責、慰めと警告がありました。

7つの教会の中で叱責がなかった教会は2つだけでした。
個人的にはフィラデルフィア教会は素晴らしい教会だと思います。


今回は、神様が喜んだ部分だけを2章、3章から見ていきます。




①主のことばを守り、主の名を否まなかった教会(3章8、10節)



少しばかりの力しかなかったのに、主のことばを守り、主の名を否まなかったです。

神様から受けた賜物がそんなに多くはなく、社会的身分も地位も財産も多くはありませんが、信徒たちは主を愛し、主のことばを守り、あらゆる誘惑や迫害にも屈することをせず、信仰を守っていることは狭い道を選んで歩んでいる姿です。


形式だけの信仰と、この世と妥協して世の富と安楽を求めていく教会がますます増えていく中で、純粋に神のことばを守り、正しい信仰を持って従っていく教会は、これからの時代において最も必要です。


主のことばがと主の名が軽んじられる教会は危険です。

パン種の入っていない真理のことばが語られ、正しい信仰を持って そのことばに徹底的に従う信徒だけが背教することなく、主に従っていくことができます。


そして そのような教会に主の力が現れます。




②悪に加担せず、それに染まらない教会



【ヨハネの黙示録2章2節】

「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが 実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。

教会の中に入ってくる悪とは どのような悪でしょうか?

みことばに反する異端の教えは偽りであり、それは偶像崇拝の罪を犯させます。
間違えた教えは“悪”です。人を惑わします。


実際にペルガモ教会には、バラムの教え、ニコライ派の教えがありました。
またテアテラ教会にはイゼベルという偽預言者がいて、真理から離れて偶像崇拝を行いました。

それだけではなく、倫理的、道徳的にも さまざまな罪が教会に入ってきて、それをそのまま受け入れ 悔い改めもしない教会は悪を行う教会です。

教会が同性愛を認めたり、この世と同じ基準ならば主が喜びません。


神様が罪と言うものを罪と認めて悔い改める教会、悪と言うものを悪と認め、それらを教会から取り除く姿が 主が喜ぶ教会です。


人の顔色をうかがう教会は危険です。

罪や悪に対して、それを指摘することなく 悔い改めるようにも言わない教会は必ず神様に裁かれます。
なぜならその教会はすでにサタンが支配してあるからです。

神が喜ぶ教会は、罪と悪を憎み、そこから離れる教会です。




③よく忍耐し、怠けない教会



【ヨハネの黙示録2章3節】

あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

教会の内部では 間違えた教えと戦い、外部から来る迫害と戦って、主の名のために耐え忍ぶことは主が喜ぶ姿です。

サタンはあらゆる手段を使って教会を倒し、信徒たちが信仰から離れることを狙っています。

ですから教会には偽物を本物のように見せかけて送ります。
そして教会の中に間違えた教えを流して乱そうとします。


また、教会に対する迫害も色々ありますが、その時に見て見ぬふりをすることや、そこから逃げることは消極的な態度です。

そうではなく、間違えた教えに対抗するために みことばを熱心に学んで、その間違えた教えを見抜いて惑わされないようにし、迫害の中でも信仰を守っていくのが、よく忍耐して怠けない教会の姿です。


終わりの時代にはますます信仰生活が難しくなっていきます。

積極的に信仰生活をしていかないと、すぐに疲れて忍耐も出来ませんし 信仰生活も出来ません。




④苦難にも耐え最後まで忠実な教会



【ヨハネの黙示録2章9-10節】

「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。 ―― しかしあなたは実際は富んでいる ―― またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

キリスト教の歴史の中で迫害がなかった時代はありませんでした。

自分の国にはなくても どこかで必ず迫害が起こっています。
そして、それが いつ どこで起こるかは誰にも分かりません。

今の時代はイスラム教が強い地域ではどこでも迫害が起こっています。


シリアでは今も多くのクリスチャンが殺されていますし、アフリカでもパキスタンやインドでも教会や信徒たちが苦しめられています。
日本にもその歴史があり、これからは世界中で迫害が起こる時代が来ます。

その中で勝利する教会は苦難にも耐え、最後まで主に対して忠実な教会です。
恐れ退くならば主は喜ばないと語りました。


イエス様や弟子たち、初代教会の信徒たち、今もシリアやイラクで苦難の中で信仰を守り殉教する多くのクリスチャンがいます。主に対して忠実な姿です。

その反面、苦難を嫌い、世の富と人気と世の教えに寄っている世俗化したラオデキヤ教会のような大教会も世の中にはたくさんあります。


どこを選ぶかは あなたの選択です。
自分を喜ばせるか、主を喜ばせるかを選ばなければなりません。




⑤愛と奉仕があり、すべての面で成長する教会



【ヨハネの黙示録2章19節】

「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。

行いが伴わない教理だけの信仰は不完全でありますが、教理をないがしろにしたまま 行いだけが熱心であるのも それも不完全です。

一番の理想は「信仰と愛と希望。信仰と行い」を調和させていくことです。


【Ⅰヨハネ3章18節】

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

さらに大きな信仰、熱い愛、熱心な奉仕、そして深い希望を持って主に仕え、人に仕えていくならば、ますます成長して豊かな実を結ぶ教会になります。


教会を良くしていくのは私と皆さんです。
外部の人たちが この教会を良くしていくのではないです。

主が喜ぶ教会にしていくために、私たちが自覚して みことばに従って励む時に主が助けてくださいます。

主が喜ぶ教会を 生涯かけて目指していきたいです。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2015.3.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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恐れに対して

テーマは『 恐れに対して 』です

恐れは、「恐怖・不安・心配」であり、クリスチャン=霊の世界の中で生きる者にとっては、恐れの霊によります。
つまり サタンがもたらす霊によって恐れが心の中に湧きあがってきます。

サタンが持ってくる悪魔の種は、「見る・聞く」など身体の五感を通して入ってくることもあります。
五感の扉を通して私たちに様々な考えを吹き込みます。それはサタンが最も得意としている策略です。
怒り・恐れ・情欲・憎しみ・妬みなどの思いを送りこみ 私たちを潰そうとしてきます。

たかが 思いなのですが、この「思い」によって全身に悪影響を及ぼし、病気になったりします。

サタンは「偽りの父」です。
その恐れが私たちの心に入ると無力になってしまいます。そして愚かな決断をしてしまいます。
これでは聖霊による祝福ではなく、呪いをもたらす方向へと歩んでしまうことになります。


【ローマ8章1-2節】

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

いのちの御霊の原理とは、キリスト・イエスにあります。イエス・キリストを信じる信仰によって、
それまでは 罪と死の原理の中で生きていた私たちが、いのちの御霊の原理のほうへ移されることになります。

いのちの御霊の原理は、「愛、希望、喜び、平安」です。
また、罪と死の原理の性質は「絶望」「自分さえ良ければいいという利己主義」「憎しみ」です。

私たち人間は「いのちの御霊の原理」か、「罪と死の原理の中」で暮らしています。

クリスチャンになったからといって、これから先も いのちと御霊の原理の中で歩めるかと言えば、そうではありません。
それは何故でしょうか? ――信仰がないからです。

信仰があれば恐れを抱く必要はありません。しかし、心に恐れがあるので信仰が揺らいでいきます。
「いのちと御霊の原理」と、「罪と死の原理」のどちらが自分のものになるかは、自分次第です。


【箴言18章21節】

死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

私たちがどのようなことを信じて、どのような言葉を口にするかによって、どちらの力が自分のものになるかが決まってきます。
そして、それを支えているのは御使いです。
自分の意思、言葉、行動によって、私たちの歩む方向が決まります。

私たちが選んだものを自分自身が証人として立ち、自分にとっては どちらが真理であるかを立証していかなければなりません。

信仰が心に芽生えると、私たちは自由になります。
ですから サタンは私たちから自由を奪おうと必死になります。

信仰に堅く立ち、信仰による自由を選択しているならば、サタンは私たちに太刀打ちできないことをよく知っています。
ですからサタンは、私たちから信仰を奪おうと必死になっています。

クリスチャンを地獄に突き落とす事が出来ないのなら、サタンはその人から自由を奪って身動きができないようにし、
キリストの証人として立てないようにしてきます。

恐れは神様からもたらされたものではありません。恐れは罪だからです。それはみことばを信じていないことを意味しています。


【Ⅱテモテ1章7節】

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

ここの「おくびょう」という言葉を英語で調べると「fear」になります。その意味は「恐れ」です。


【ローマ8章15節】

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

恐れにとっての最高の友は「疑い」です。疑いは、恐れを抱く前に私たちの頭の中に浮かぶものです。
疑いを抱けば 恐れが結びついていきます。

私たちが神様から与えられている約束の言葉に対して疑いを持つことをサタンは望んでいます。
サタンは私たちに みことばの力とイエスの御名の権威に疑いを抱かせようとしています。

疑いを抱くと、私たちの心の扉が大きく開かれて、恐れが簡単に入ることを知っているので、
常にサタンは疑いの言葉を持ってきて恐れさせようとします。


【ヨブ記1章5節】

こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりの ために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と 思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

ヨブの心の中は不安でいっぱいでした。ヨブが心に恐れを抱いたために、サタンとヨブを隔てる垣根が取り外されてしまいました。
それは神様が取り除いたのではなく、ヨブが恐れを抱いたためでした。

ヨブの恐れの心が磁石となり、ヨブが最も恐れていたことを引きつけてしまったのです。


【ヨブ記3章25節】

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。

ヨブはいつも息子のことで恐れていました。そしてサタンがそこに入ってきました。
その後にヨブはこの告白をしました。

自分の生活の中に、恐れの城壁を築いてしまった時にヨブはサタンに隙を与え、サタンのなすがままになりました。

なぜこのようなことになったのでしょうか――?
それはヨブが神様の約束に拠りすがろうとせず、恐れを選択したからです。

恐れは、聞くことからはじまり、聞くことは悪魔の言葉によるのです。
私たちの生活に祝福をもたらしてくれる法則は 私たちの生活に呪いをもたらす恐れにもそっくり当てはまります。
神様は365日 私たちに「恐れるな」と言われます。




― 恐れの霊を追い出す方法 ―


①恐れを打ち砕くと、はっきりと決意し、滅びの霊を自分から根絶やしにすると決意する


【ローマ8章31-32節】

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、 私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

必ず与えてくださると信じた時に、恐れは出ていきます。


②神がいかに大いなる力で、私たちのことを守って下さっているのかを理解する

神様が今まで私たちをどのように守ってくださったのか、どのように私たちを滅びから救いへと導いてくださったか、
どのように神様は私たちの祈りを聞いてくださったのかを、もう一度思い巡らし、自分に言い聞かせることによって
いかに大いなる神様であることを理解することができます。

イエス様は私たちの救い主です。ということは、私たちは救われた時点で守られることを約束されています。
そのことをしっかりと信じなければなりません。


③神の約束をさらに堅く信じる

私たちは預言の言葉や聖書の言葉を通して 神様から約束をいただいています。
神様からの約束を堅く信じて手放さないようにしなければいけません。


【Ⅱペテロ1章4節】

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲の もたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

サタンがこの約束を軽んじさせようと色々な手段を使ってくるのです。
神様の約束を堅く信じていれば、私たちは山をも動かし、病人を癒すことも出来ます。
しかし サタンは信仰の力を損なわせようと恐れを抱かせます。

もし、疑いや恐れについてあれこれ考えるようになってしまったなら、私たちは戦いに負けたことになります。

私たちは神様からみことばをいただいたのなら絶対に何があっても しがみつき、手放してはいけません。
信仰は神のみことばを聞くことからはじまります。ですから 何度も口で信仰の告白をしていかなければなりません。

すると、神様はその信仰に答えて、私たちが求めている通りに実現させてくださいます。

その時に必要なのは、忍耐です。

神様からの約束をいただいていると、サタンは攻撃をしてきます。
サタンが攻撃してくるところは、自分の弱い部分です。
私たちはそれによって揺らいでしまう時がありますが、忍耐を持ち続けてサタンと戦い、約束の言葉を宣言していくならば、神様は私たちの信仰に働いてくださいます。


④神の言葉により、サタンに対抗すること

イエスの御名によってサタンを追い出すことです。
サタンが囁く言葉に対して、私たちは神様の言葉を振りかざして「 私は神様からこのような言葉をいただいたのだ。お前たちの言葉は嘘だから出て行け 」と宣言しなければなりません。

神様は、強い信仰を持っている人だけに働くのではないです。

私たち1人1人がどんなに弱い者であっても、神様は働いてくださいます。また私たちの弱さや信仰のレベルも すべてご存知です。ですから、それぞれ信仰の強さが違っても、悪魔に立ち向かう決意をして追い出していくならば、神様は助けてくださいます。

私たちの信仰が弱いからと諦めるのではなく、自分たちがどんなに弱くても神様の子どもである サタンに立ち向かわなければならないと決意をすることです。


【ルカの福音書10章17-19節】

さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」

イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。

確かに、 わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは 何一つありません。

サタンを追い出した後に宣言をし、そして神様からの約束の言葉を告白します。


【ローマ8章37節】

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私たちは弱い者ですが、イエス様は勝利者です。そしてイエスの御名に力があります。
そのイエスの御名を使う時に、私たちは圧倒的な勝利者になります。
その信仰に働いてくださるからです。 v( ̄∇ ̄)v

2013.12.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あらゆる恵みに満ちた神

テーマは『 あらゆる恵みに満ちた神 』です

【Ⅰペテロ5章10節】

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

神様に出会うまでは、私たちは神様の存在を頭の中で自由に想像していました。
それも人間の数ほどの神様がいます。
自分がこういう神がいたら良いなぁと思う神を作ったり、誰かが作った神を自分の神だと信じる人がいます。
私たちも(救われるまでは)その中にいた者でした。

私たちが本物の神様に出会うまでは知らなかったことがあります。
それは神様が私たちに与えてくださった「恵み」であります。


私が生かされているのも神様の恵みであり、あれもこれも自分の命も、神様から受けたものであるのだという
認識がとても乏しかったのです。

親のおかげであったり自分の力であるという思いがたくさんありました。

しかし 本物の神様に出会って恵みの世界が分かりました。

すべてのことが神様からの恵みだったということが 聖書を読んで初めて正しく知ることができます。

皆さんはどのような恵みを実際に神様から受けたでしょうか?
ある人は恵みに気付いていますし、ある人はまだ気付いていないかもしれません。

神様は今回のみことばで「あらゆる恵み」という言葉を使っています。
その中で1つの恵みが表れています。
それは「苦しみの中の恵み」であります。

この時代の人々は特に迫害が多かったので、苦しみの中にいたと思います。
キリストを信じること自体が苦難の道に足を踏み入れることでありました。
苦難を受けたくないと思うならば、神様を信じることが出来ないです。


ローマ時代はどれほど迫害を受けたのか、歴史を通して知ることができます。
ローマには皇帝がいましたが、クリスチャンを見せ物にしていました。
競技場の中でクリスチャンたちに油をかけて たいまつのように使い燃えさせて、自分たちは飲み食いをして
楽しんでいました。このような悲惨な歴史がたくさんあります。

ですから、その中で「私は クリスチャンになります。」と言うことは、死ぬ覚悟がないと絶対にできないです。

今の時代はそんなに迫害はないです。しかし、いつか このような迫害が必ずあると聖書に預言されています。
ですが、それは災いではなくて神様の恵みであるということを、この聖書箇所で教えています。


苦しみの中の恵みとは どのようなものでしょうか?
苦しみの後で完全になるということは 忍耐であり、忍耐を最後まで出来る人は
完全なる者であります。

人間は完璧ではないのですが、忍耐を働かせると信仰の部分で完全になります。
それらのことを苦しみの中で実を結ぶことができます。

苦しみは誰もが嫌だと思います。
しかし、私たちは平安の中だけでは あまり変わらなく忍耐を学ぶこともないです。
強くなることもないです。苦難の中で耐える時に、あらゆるものが変わっていきます。
ただ ジーッとしているのではなくて、その中で神様に頼ることを学びますし、信仰の激しい戦いがあります。
「こんなに苦しくても(神様を)信じるのか?」と色々な自分との戦いがあります。

だけどその中でも神様は恵みを与えて私をさらに強くしてくださるのだという思いで生きていますので、
その苦しみが ただの苦しみに終わるのではなく、それが自分たちにとって恵みになるのです。

強い者にしてくれる恵み。苦しみがないと、そういう者にはなれないのだという認識が出てきます。

ヨブが激しい苦しみを受けている中で、愚痴をこぼさずに耐えました。
迫害の中にいる人々は、苦しみを神様の恵みだと思いました。恵みと思わないと、絶対に耐えることが出来ないです。
「神様を信じて、何でこんな苦しみが来るの?こんなはずではなかった。」と思う人は、簡単に心を変えて 世に出て行きます。

パウロは一番の苦しみを受けましたが、一度も不平不満を言ったことがないです。
「わたしはますますここで変えられていく。ますますここで耐え忍ぶ。なぜなら神様の恵みは充分にあるから。」と、生きていました。

ですので、もし 苦しみがあるならば災いだと思う必要はないです。
ただ、自分の罪によって来る苦しみは災いです。
しかし、そうではなくて主のために働いて受ける苦しみは 災いではなく、神様の恵みであります。


【Ⅱテモテ2章9-13節】

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

苦しみ自体も恵みを受ける1つの道であります。

恵み豊かな神様は、主のために受ける苦難を見て何もしない方ではないです。
その中でも守り、その人に良いものを流し 支え、助けてくださる神様であります。




そして、私たちが神様から受けた恵みで、どのような恵みがあるでしょうか。

- 救いの恵み -

【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、もちろん 私たちの信仰も働きましたが、それは主の恵みであります。
救われた人たちは、神様に「私はこういう者だから救いを受けた。だけど、あの人は救いを受ける資格がない。」と、
誰も言える立場ではないです。

行いによって「救い」を獲得したのではなく、100% 神様の恵みによって救いを受けたことを悟るべきです。


【Ⅰコリント15章9-10節】

私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

-奉仕をする恵み-

私たちは奉仕について勘違いをすることが多いです。

「私が神様に対してしているのだ」と思うのですが、神様は「あなたが奉仕できるのも、わたしの恵みなのだ。」と語りました。

奉仕を「恵み」だと考えないと、長続きできないです。
神様から何か報いを受けるために奉仕をするとか、他人に見せるためにするのは良くないことです。
それは本来の意味から離れています。

私たちが主のために 何か小さな働きでも出来るなら、それは神様の恵みが働いているから出来るのです。
奉仕を恵みと考えていないならば、少し奉仕をしていただけで疲れてしまい 続けることが出来ないと思います。
「誰も分かってくれないな。これをしたのに何も良いことがないな。」と言ったら、すごく嫌になります。
ですから奉仕から離れていきます。

でも何年も変わらない心で奉仕をする人たちの中にあるのは、言われたから仕方がなくするのではなく、
何が原動力になっているのかと言うと、「私のような者を参加させてくださっている」という恵みなのです。
これはとても素晴らしい恵みであります。


もし神様が「あなたは役に立たない者だから、何もしなくて良い」と言って何もさせないならば、それは良いことでしょうか?
それは違うと思います。きっと自分自身のことを価値がない者だと思ってしまいます。

神様に奉仕をすることは素晴らしい恵みなのに、それを自分のほうから拒むということは自分の手で恵みを投げ捨てることであります。
神様が見た時に、(その人に)出来る力があるので それをさせるのです。
ですから、私たちの認識を変えなければいけないです。

何か奉仕をして、すぐに30倍 60倍 100倍の祝福を貰おうという思いだと、そのようにならない時には失望するでしょう。
そして投げ出してしまいます。

天国へ行って報いを受けるというのは、私たちが地上で働いた行いによって 天国で受けるものです。
神様は地上で与えないこともあるのです。地上で全部の祝福を受けてしまうと、天国へは持ってはいけないからです。

天国には魂だけが行きます。地上のものは置いていかなければなりません。

天国へ行った時に自分の住まいに、私たちが地上でした行いに応じて備えてくださっています。
奉仕はその為の恵みの働きだと思うならば、私たちの心は喜びで溢れると思います。




【ローマ5章17節】

もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

「ひとりの違反」とは、アダムとエバのことであります。サタンの惑わしを受けて 善悪の知識の木の実を食べてしまいました。
それで神様の言葉通りに、死がこの世界に入るようになりました。
罪が入ったことで汚れました。
罪というシミが付くことによって人間が汚れ、その子孫である私たちが罪の中で生まれ、汚れた者になりました。

それをイエス様が聖めてくださいました。
イエス様の十字架は、罪人のために流した血であります。
本人はシミがついていることに気付かないですが、神様や他人が見た時に、それがよく見えます。

罪を犯しながら外見を綺麗にしていても、神様はいつも私たちの心を見ているのです。
罪の臭いと汚れが丸見えであります。

パリサイ人にもイエス様は「白く塗った墓よ」と語りました。敬虔な者に見えても、いざフタを開けると汚れでいっぱいでした。

たとえ あなたの罪が火のように赤くても、悔い改めて主の血潮を求めるならば、雪のように白くなります。
これは真理であり、イエス様が与えてくださった恵みなのです。


【ローマ6章17-18節】

神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、

罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

義の奴隷ということは、聖められ罪が洗われたということです。神様の前では、その者が汚れた者ではなくて血潮を浴びて聖くなった姿に見えるのです。


【ローマ6章22節】

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

聖くないと天の御国に入ることは出来ないと語りました。


【Ⅱコリント8章1-9節】

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、

聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

私たちが何かを主に捧げるということは、犠牲が伴います。

神様に献金を捧げる時に、自分の方から出さなければならないです。
お金を大切に思わない人はいないと思います。
なぜなら生活に必要であるので、「たくさんあれば良いなぁ」と誰もが思っているでしょう。

生活をするにはお金は必要ですが、私たちがあれこれ心配し 計算高く将来の為に貯めて、「神様に捧げるものはないわ」とケチる心で神様に捧げるならば、それは恵みではないです。

マケドニヤ教会の人は極度の貧しさの中にいました。当時はクリスチャンであるだけで仕事場から追い出されたり
権利が奪い取られたりしたので、どんどん貧しくなっていきました。

しかし、何もない中でも、その人たちに「捧げたい」という心が出てきました。
神様はそれ自体が恵みであると語りました。惜しまずに捧げたいという心を持っている人は、恵みの中にいるのです。


ですが、計算機を出して「私の老後や子供のほうが大切だ」と捧げ物を減らして、ますます握りしめていくのです。
そのような人たちは神様の恵みを知らない人であります。
「あなたが持っているものは、全てわたしが与えた物である。」とイエス様は聖書で例えを語りました。

自分の命も神様の恵みであり、命を支えてくださっていることも、ものすごい神様の恵みであります。
もしも癌になって手術を受けるなら、何百万円もかかるのです。今、神様が健康を与えてくださっていることは、
ある意味では何百万円以上の祝福を受けていることなのです。

足が動かなくなれば何も出来ないです。
私たちはどれほどタダで神様から恵みを受けているでしょうか。

惜しみなく捧げる人は 恵みを悟った人であります。

マケドニヤ教会の人たちは、何のために献金を捧げたのかと言うと、自分たちも苦しいのですが、自分たちよりも
さらに苦しみを受けている人々に施しをしたのです。
私たちもそのようにしましょう。自分に出来ることを分けてあげる思いでしてあげることです。

地上で生きている時に神様が充分にしてくださるので、神様に信頼したら良いと思います。


【ヤコブ4章6節】

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

高ぶる人とは、恵みを知らない人であります。へりくだっている人は、恵みを知っている人です。

恵みを知っている者には、神様がさらに豊かな恵みを与えてくださると約束してあります。

どうやったら恵みを受けるのかと言うと、恵みを知れば受けます。
自分が生きていること、今まで導いてくださったのは神様であります という思いで感謝を捧げたら恵みを与えてくださいます。
恵みを知らない人は恵みをないがしろにしてしまいます。

私たちは今年もたくさん神様の恵みをいただきました。毎日、毎日 守られて生きてきました。

健康も平安も与えられて、あらゆる災いの中でも守られてきました。
どのような時でも 神様の見えない御手が私たちを支え、恵みが天から流れてきて、それによって生かされたことに感謝しましょう。

来週は、収穫感謝祭であります。
今年受けた恵みを1週間じっくりと考えて、歩みを振り返り1つ1つ神様の御前で感謝を捧げてください。 (*´∇`*)

2013.11.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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霊的成長するには?

テーマは『 霊的成長のための祈り 』です

【コロサイ1章9-12節】

こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

パウロのコロサイ人に対する祈りです。

パウロは福音を伝えて教会を建てていきます。そして そこに集まる信徒たちに みことばをもって教育していきます。
彼らが神を知り 神の中で新しい者に変えられ、霊的に成長をして主の弟子たちになり、
彼らが次の世代に福音を宣べ伝えていくことが一番の願いであります。

そのためには救われただけでは話にならないです。
救われた者ということは、新しく生まれ変わったことを意味します。その人たちは、霊的赤ちゃんであります。
赤ちゃんのままでは何も使い物にならないです。
その人たちには恵みだけが必要で 養っていかなければならないです。

生まれ変わった人は自分自身が霊的成長することを求めなければならないです。
しかし、霊的成長は努力だけで出来ることではないです。

成長したいのにどうしたら良いのか?教会へ行き、みことばを聞き、皆と交わりをしたら成長できるのか?
みことばだけを読んだら良いのか、奉仕をしたら成長できるのか――。

それ以前に私たちは神様から受けなければならないものがあります。

このような(パウロの)祈りを 求め続けて、強くされていかないと成長することができないです。
私たちはこの祈りに沿って霊的成長のために日々 生活の中で祈らなければならないと思います。


9節の「あらゆる霊的な知識と理解力によって」というのは何を意味しているでしょうか?
物事を総合的に判断する力であります。
人々は何かを見て判断することが出来ますが、それは偏っています。偏った判断は間違えています。
全体を総合的に見る力は、神様による知恵がないと出来ないです。

霊的な知恵と理解力、これがないと私たちは先に進められないです。
霊的なことがよく分からないのに、私たちはどうやって霊的に成長をして、霊的な働きができるでしょうか。

ソロモンが祈った祈りを思い出したら良いと思います。
神様に「正しい裁きが出来るように、わたしに聞き分ける力をください。」と判断力を求めました。
これこそが霊的知恵・霊的理解力であります。

これは聖霊様が与えてくださる賜物です。賜物は聖霊様が持っているものですので 求めることであります。


9節に「神のみこころ」とありますが、神様のみこころが何であるかと言うと、神様が喜ぶことです。
神様が喜ぶことが何であるかを私たちがはっきりと知ることが大切であります。
私たちは自分が喜ぶことが良いことだと思っていますが、それは神様のみこころと違うことが多いです。

霊的知恵と霊的理解力があれば、神様のみこころを知ることは それほど難しくないです。
霊的なものを求めることは、神様が喜ぶことであります。

多くの者は肉のものをたくさん求めます。
高慢な思いで求めたり、みこころに適わないものを一生懸命祈っています。ですから叶えられません。
しかし、神様が喜ぶ霊的なものを求める時には惜しまずに与えてくださいます。

主にかなった歩みをすることは召しに相応しく歩くことであります。
みこころを知ると自分に対する召しが分かります。

私たちが自分勝手に歩くと、そこに罪が生まれます。


10節に「あらゆる点で主に喜ばれ」とありますが、神様を喜ばせる働きをすることです。

主を喜ばせるためには、時には自分の思いを神様の前で消していかなければならないです。
自分の計画、習慣、性格、色々なクセ、苦難、このようなものを私たちは消さなければならないです。
全部を持ったままでは神様に喜ばれる姿にはならないです。

この姿は、どのような姿でしょうか――?
主のみこころの全てにおいて従順する姿であります。

自分の思いが神様に敵対する思いになりますので、それらを十字架につけます。
霊的成長のために、肉のものはどんどん捨てなければならないです。
肉のものを捨てた時に、そこに霊のものが入ってきます。

その結果として 実を結ぶことができます。それが聖霊の実であり 美しい実です。(10節)

神様のことを知りたいという人が多いですが、このように歩んで実を結んでいくと自然に神様のことが
分かるようになります。

みこころに従順して、上にあるもの(霊のもの)を求めて成長し実を結んでいくと、実を結ぶ過程の中で
神様がどのような方であるのか すごく分かるのです。


【コロサイ1章11節】

また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし

力は自分にあるのではないです。神様によって私たちは力を受けなければならないです。内側の力であります。

内側に力がないと、忍耐ができません。

信徒たちの生活において、忍耐はとても大切なものです。忍耐できない人は成長は無理なのです。
成長する時には忍耐が必要です。
あらゆる訓練や苦しみや苦難、その中で 自分の思い通りにならなくてもその中で待ち望む力は内側の力であります。

「神様、私は力がない者なのです。忍耐をしようとしても力がなくて、すぐに切れてしまいます。
切れた瞬間に成長が止まってしまうのです。ですから、神様。私に力をください。実を結ぶためにも
忍耐が必要であります。そのために神様によって強くされる必要がありますので力をください。」と
肉の力に頼るのではなくて、日々 祈りによって主に求めることです。

希望を持って生きることができます。


11節に「寛容」とありますが、これは神様に対することではなく、人に対する寛容であります。

特に私たちが寛容を示さなければならないのは、自分が気に入らない人たち、自分が敵だと思っている人たち、
自分を苦しめる人たちです。
そういう人たちに対して狭い心ではなくて、広い心をもって恵みを与え続けることであります。

内側にその力があると敵を許すことができます。
狭い心は、クリスチャンの心ではないです。

私たちは元々、本当に狭い心なのですが神様から力を受けて、どんどん器を広くしなければならないです。


12節に「感謝をささげるように」とあります。

これも主に祈らなければならないです。「私が感謝の人でありますように。」

 

何を求めて生活をするのか、神様が一番願うのは霊的成長です。
これを求めないならば、神様は与えたものまでも取り上げてしまわれます。
しかし、豊かに持っている者は、さらに与えられます。

周りの人たちに影響力を与える人になってください。 (・◇・)ゞ

2013.7.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンと苦難

テーマは『信者と苦難の問題』です

【ヨハネ16章33節】

信者と苦難の問題は、誰にでもあることです。人間は生まれながら苦難は付き物です。
どの家庭、どの環境に生まれていてもあります。

イエス様が教える苦難の中で、私たちが必ず勝たなければならない苦難がありますし、
そのまま受け入れて忍耐していかなければならない苦難もあります。

しかし、私たちが実際に受けている苦難を見ると、受けなくていい苦難を自ら蒔いて
苦しみの中にいる人がほとんどです。90%以上がそれに当たります。


― 受けなくていい苦難 ――――――――――――――

①罪からくる苦難

自分が犯した罪のために、自分が苦しみを受ける苦難です。
すべての人間は罪人ですので、私たちには罪の性質がたっぷりあります。
良い方よりは、大人になると悪い方に傾いていきます。
罪を犯したからと言って、すぐに刈り取ることはそんなにないですが、
しばらくすると、それによって自分に災難がふりかかることが すごくあります。

クリスチャンは、この苦難はどこから来たのか?
「あの人から来た」ではないです。根本的にどこから来たのかというと【罪】から来ました。

【イザヤ59章1-13節】(みなさんは イザヤ書59章を読んでください)

これを止めない限り、いくら叫んでいても 仕切りになっています。
ですから光が届きません。声も届きません。
神様は光であります。自分たちの罪が、光が入らないように 仕切りを作ると
いくら私たちが神様に求めても、どんなに祈りを積んでも何も起こりません。

この苦難を乗り越えるにはどうしたら良いのでしょうか―――?
十字架の前に出てこなければならないです。
イエス様は私たちの罪を背負って十字架に架かって死んでくださいました。
十字架の前に来て悔い改めて、自分の罪を洗わない限り、いくら「この苦しみから私を救ってください」と
祈っても聞かれることはなく、悔い改めた時に まるで扉が開かれるように消え去っていきます。
そして光が届き、神様の救いが届きます。

自分の罪、家族の罪から出てくる苦難が一番多いです。
自分たちの罪を(自分で)知っています。知っているのですが立ち返りません。
ですからいつまで経っても苦難は消えることがありません。

自分の心に苦しみがたくさんあり、喜びがない、平安がないなら、暗闇の道にいるのです。
十字架の下に返り、イエス様に悔い改めて自分の罪を捨てて、
イエス様の血を求めて洗い聖められた時にその苦難が消えていきます。

②病気

「これは神様のみこころです。」と言う人がいますが、とんでもないです。
みこころであるなら、なぜイエス様は病気を癒したのでしょうか。

【イザヤ書53章4-5節】

イエス様の打ち傷によって癒されたと言っています。
ですから、病気になるのは神様のみこころではないです。
癒され、病気にならないのが、神様のみこころであります。

【詩篇103篇3節】、【Ⅰペテロ2章24節】

罪から来る苦難はいらないものであります。受けてはならない苦難です。
病気で絶望するのではなく、イエス様に癒してくださいと、イエス様に触れることであります。

【申命記28章】

罪から病気になります。私たちは罪から離れることによって変わることが多いです。
ただ「癒してください」ではなく、私たちのガン細胞【罪】というものを
自分の中に留めておくと腐っていきます。そこから病気が出てきます。

病気になった時に私たちが、まず すべき事は悔い改めることであります。

③経済的な貧困

全世界を見ると、この経済的貧困によって苦しみを受けている人がとても多いです。
ですが、クリスチャンが経済的貧困になるのは、みこころではないです。

【Ⅱコリント8章9節】

日本の牧師は貧困意識が強いです。
貧しさが美徳と言っていますが、それは聖書を知らない牧師の姿であります。
敬虔に生きることは問題がないですが、
まるで貧しい生活をするのが敬虔な者であるかのように認識しているのは聖書を知らない者です。

(聖書箇所は)貧しさの中でも献金を捧げた人に対して神様が与えた祝福であります。

神様に捧げることがもったいないというのは信仰でも何ものでもありません。
ますます貧困になっていきます。
天国の銀行に積んでいくと、30倍、60倍、100倍の利子がつきます。
神様に投資をします。それは破たんすることもなく、倒産することもないです。
利子が返ってこないこともなく、元金が無くなることもないです。

献金をケチってみてください。他のことでお金が出ていきます。

神様を信じるので貧困意識がないです。
クリスチャンは世の中の人とは違い、神様の中でその祝福を 私たちが神様の法則で正しく使うならば、
貧困になることはないです。持っていなくても豊かであります。

④失敗の苦難

マイナス思考で否定的な思いで満たされてありますので、何をしても失敗をします。
なぜなら その人の口は「何をしても上手くいかない」と言っているからです。
「 私にはできない 」 「 無理 」これは全て失敗意識であります。

【ローマ8章28節】

勝利の意識を持っている人だけが勝利します。
感謝は良い事が起きた時だけが、感謝ではないです。


― 受けなければならない苦難 ―――――――――――

⑤神様のために、福音のために受ける苦難

これはイエス様が与える苦難であります。
神様にひたすら頼りながら忍耐することであります。

使徒パウロはイエス様に出会うまでは全てが順調でした。
しかし、パウロがイエス様に出会ってからは苦難の扉が開かれてしまいました。
「この苦難は救い出してくださいと言うような苦難ではなく、自分の罪からきたのではない。
これは福音のために自分が背負わなければならない苦難であります。」
その苦難を受けながら魂を導かなければならない苦難です。

【Ⅱコリント1章4-5節】

これは、そこから「救い出す」のではなく 慰めであります。
イエス様もその苦難の道を通ったことと、全世界の人々を救うために
わたしもその十字架の苦難と人々からの迫害、そこから来るあらゆるものを わたしは黙って受けたから、
あなたも私の足跡に ついて来なさい。
ですから、イエス様を見ると慰めが来ます。

北朝鮮ではクリスチャンがどれほどの迫害を受けているでしょう。(※下記、詳細へ)
踏まれ、焼き殺されても誰1人、イエス様を否む人はいません。
彼らは皆、その中で黙って重労働をしていました。踏まれる度に「主よー!!」と叫び
彼らのような苦難を受けている人は、ここでは誰もいないです。
このような苦難を受けている人はいないので、今 私たちが受けている苦難は受ける必要がないもの、
自分から出てきた苦難であります。

「何で私がこんなに苦難を受けているんですか?」と神様に言える立場ではないです。
私たちが悔い改めて立ち返るならば、その苦難は祝福に変わっていきます。

【ヨハネの黙示録2章10節】

終わりの時代に艱難があるということは、信仰が試されるということであります。
死んでも良いので苦しみを受けて忠実でありなさい。と、そのような人だけが命の冠を受けます。
神様ご自身が「誰が信仰を持っているのか、信仰を持っていないのか」とジッと見ています。

信仰が不合格な人には、神様は何も言いません。「あなたの信仰はそれしかなかったのか。」
ですが、苦しみの中で耐えて信仰を守る人は、神様は大喜びであります。
全てのクリスチャンではないです。ヤギとヒツジに分けます。これは試してみないとわからないです。

クリスチャンは苦難に対して否定的な思いを持ってはいけないです。
苦難が来た時に自分を振り返ってみるべきです。私が間違った生き方をしたのか――?
私の中にまだ罪があるのか?どの罪がこの苦難をもたらしたのか?
私に感謝が足りなかったのか?神様が願うように私は生きたのか?全然違う道を生きたのか?

このように自分を調べる時間にしたら良いです。

ただ単に「助けてください」ではなく、原因を知らなければいけないです。
そうしないと、その問題が解決されないことであります。

悔い改めることは霊的に目が覚めることです。
口では「神様」と言いますが、神様を本気で求めなかった人が、
ひどい苦難が来た時に初めて本気で求めて従順する人もたくさんいます。
そういう面から見ると、苦難は悪いということではないです。

苦難の圧迫の中で強くなることが多いです。苦難の中で免疫ができます。
同情する者になり、愛のなかった者が愛のある者に変わり、
憐みの心がなかった者が自分の苦しみを通して憐みを知る者になります。その中で人格が変わっていきます。
苦難の中で感謝しなさい。それまで受けたものがどれほど感謝なことだったのか。

【ヨハネの黙示録2章9節】

信徒の姿です。外側から見ると乏しく見えても、彼らの内側には祝福がいっぱい詰まっています。

【ヨハネの黙示録3章17節】

全く逆の姿です。この2つの姿は、自分たちがよく学ぶべきことであります。
私の姿はどうなんだ、と。この苦難は何だ、と。

苦しみの中で変わってください。苦しみの中で自分自身のことをもう一度振り返ってください。
感謝を生み出し、悔い改めると自分の自我が砕かれます。 
謙遜な者は神様に頼る者、そうなると皆さんからいらない苦難が去っていきます。


北朝鮮のクリスチャンに対しての現状です。

北朝鮮ではクリスチャンの迫害が強くあります。
いわゆる“将軍様”を信じない者には、想像を遥かに超えた拷問があります。
これは、北朝鮮から韓国へ脱北した人が、
世界中の人々に伝えたいということでネット上に情報を公開したそうです。
情報を載せた人は、クリスチャンではなく共産党関係の人です。

突然、政治犯収容所での勤務を命じられ、その人は暗い場所へ連れていかれました。
――そこには溶鉱炉がありました。
そして、そこにはクリスチャン達が働かされていました。
ほとんど寝かされず、そして食べ物もほとんど与えられていないので、
その姿は骸骨のようにお腹と背中の部分がくっついていました。
正常な皮膚がどこにもない状態でした。

その人は、遠くから彼らを見ると黒い服を着ているように見えましたが、
少し近くに寄ると1枚の黒い前掛けをした格好でした。
動物以下の扱いを受けて、牛革でできたムチを何度も受けていました。
何度も踏みつけられて、うめき声をあげていました。

『見えない神を捨てて、将軍様を信じろ!』と怒鳴ってムチを打っても、彼らは無言を貫きました。
さらに『勝負だ!』と言って、溶鉱炉へ向かって走り 燃え盛る鉄をバケツに汲んで、彼らにかけました。
彼らは一瞬のうちに炭のような姿になり命を落しました。

その人は、その後 収容所での勤務を離れることができ、韓国へ脱北しました。
目を閉じると、一瞬で炭のようになった姿が浮かぶので恐ろしくて目を閉じることができませんでした。

愛する兄弟姉妹が実際に遭っている現状を知り、その人達のことを祈ることが私たちに出来ることです。

2012.9.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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