からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

八戸ノ里キリスト教会より メルマガ配信中!

メルマガ購読・解除

読者購読規約
毎朝7時に配信しています! 1日の始まりを神様の恵みで満たしてくださいね
powered by まぐまぐ!
 
         

復活

復活のいのち

テーマは 『 復活のいのち 』 です

【第1コリント15章3-8節】

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。

そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。

死から復活したことは、死で終わったのではなく、再び いのちとして生まれたことを意味します。


イエス・キリストは十字架の上で確かに死にました。

そして墓に葬られました。


みんなはその死を確認しました。

そして弟子たちがその死体を盗むことがないように、墓の入り口に石を転がして、誰も入れないように防ぎました。


そして番兵が墓の番をしました。

三日間は墓の中に何の変化も起こりませんでした。


しかし三日後に異変が起こりました。

イエス・キリストが前もって言われた通りに、死の力を打ち破ってよみがえりました。


死がイエス様を縛っておくことは出来ませんでした。

完全に復活しました。


死人ではなく、いのちあるキリストの姿になりました。


そのいのちは再び死ぬような一時的なものではなく、二度と死を味わうことのない、朽ちない栄光の体になりました。


その体は多くの人が直接見ました。

目撃者が多かったです。


誰かの作り話ではなく、事実でした。




復活はすでに預言されていた




復活は旧約聖書で、すでに預言されてありました。

そして新約時代に成就されました。


―― 預言 ――
【詩篇16編10節】

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

―― 預言の成就 ――
【マタイの福音書28章5-6節】

すると、御使いたちは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。



イエス・キリストは復活の光




不信の勢力と暗闇の力を、復活の光で勝ちました。


闇と光はどちらが強いでしょうか?

闇が光に勝つことは出来ないです。


どんなに暗い部屋でも、スイッチを入れるとあっという間に闇が消えていきます。

すべての人たちは復活を信じませんでした。


暗い墓の中に、主は入りました。

しかし闇の中にとどまらず 復活の光として闇を消して出て来られました。


死の力を打ち破った主ですから、私たちにいつも力と希望を与えることが出来ます。


【ヨハネの福音書8章12節】

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」



世を救い、いのちを与えるため




イエス・キリストは世を救うために、私たちを救っていのちを与えるためによみがえりました。


【ローマ8章11節】

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。



復活の力を知ることは難しいです




御使いも預言者もパウロも そのことを知ろうと調べ、研究しましたが知ることは出来ませんでした。

なぜならばそれは神の領域の中にあることだからです。


神の中にある測り知れない力を人間がどのように知ることが出来るでしょうか。


人間が持つ理解力も知識も知恵もわずかなものです。

目に見える体のこともよくわかっていない人間が復活の体を研究してもわかるはずはないと思います。


復活の力は神だけが持つ力です。




復活の恵みに預かりたいならば




復活の恵みに預かりたいならば、復活したイエス・キリストを信じることです。


【ヨハネの福音書11章25-26節】

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

そして主と一つになることです。

復活の順番と復活する人がだれかを教えました。


【第1コリント15章23節】

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

キリストに属しながら、キリストの再臨を待ち望んでいる人は、主が復活したように、朽ちない体、栄光の体、死ぬことがない体に生まれ変わります。


どのような体に変わるのか 楽しみではありませんか。 (。・ω・)ノ゙


2017.4.16
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会


~ 新しいブログです ~

Bible66のブログ

みことばサプリ


~ お知らせ ~

からし種の信仰と成長:ブログランキング
人気ブログランキングへ
(別ウィンドウで開きます)

多くの人に読んでもらえる可能性があるので
皆さんのクリックが、福音伝道に繋がります☆


*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

何を感謝するのか、なぜ感謝するのか

テーマは 『 何を感謝するのか、なぜ感謝するのか 』 です

【第1テサロニケ5章18節】

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

神様は、すべての事について感謝しなさい と言われました。

感謝することは、主が喜ばれることであり、またクリスチャンとして当然すべきことでもあります。


聖書に感謝の言葉が入っている聖句を検索したら 186箇所出てきました。

もっとあるかも知れないですね。

内容を少し調べると、本当に様々なことで感謝がささげられていましたし、感謝しなさいという命令もありました。


キリスト教は感謝の宗教です。


感謝をいつも主に捧げていますか?

今日は特に “収穫感謝礼拝” ですので、タイトルを 「何を感謝するのか、なぜ感謝するのか」 にしました。


聖書を調べるとそれが分かります。


旧約聖書を読むと、ユダヤ人には三大祭りがありました。

その祭りは人間が決めたのではなく、すべて神の命令によって決められました。

そして その三大祭りは、すべて感謝祭でした。


それを理解すれば 私たちは “何を、なぜ感謝するのか” が分かります。

祭りの記録があるのは、出エジプト記23章、レビ記23章にあります。




過越の祭り




まず「過越の祭り」は、“種無しのパンの祭り” とも言います。

なぜなら続けてやる祭りであるからです。


【レビ記23章5-8節】

第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。

この月の十五日には、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。

最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。

七日間、火によるささげ物を主にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」

神様は なぜ過越の祭りを行うようにしたのでしょうか?

それはイスラエル民族が解放されたことを感謝する祭りです。


エジプトで430年間 奴隷生活をしながら苦しんでいたイスラエル人を、神はモーセという指導者を遣わして解放する計画を立てて それを実行に移しました。


エジプト王パロがイスラエル人を解放しないので、神は10の災いをエジプトに下しました。

最後にあった わざわいが、エジプトにいるすべての初子が死ぬことでした。


神は事前にパロに伝えましたが、パロはその言葉を聞いても心をかたくなにして聞き入れませんでした。

“まさかそんなことは起こらないだろう” と、彼は神のことばを無視しました。


神はわざわいの時に イスラエル人を区別するために、助かる方法を教えました。


それは羊をほふり、その血を取り、家々の二つの門柱と、かもいにつけると、裁きが下る時に 神がその血を見て、その所を通り越して、そこには滅びのわざわいが起こらないようにすると言われました。


それを信じてイスラエル人は 言われた通りにして、初子が死ぬという悲劇に見舞われた家はありませんでした。


しかしエジプト人の間では、すべての家の初子が死んだので 大変な悲しみがありました。

このわざわいがあってパロはイスラエル人を解放しました。


イスラエル人は430年間の奴隷生活から完全に解放され、カナンの地に向かうことが出来ました。

解放されたことを忘れず、いつも感謝することを覚えさせるために、神はこの過越の祭りを行うように命じました。


教会では聖餐式がこれに当たります。


イエス様は、私たちをサタンの奴隷から神の子どもに、死から命に移すため 私たちのためにほふられた  “過越の小羊“ です。


(イエス様が)流されたその血によって、私たちは守られ 救い出されました。


サタンの奴隷から解放されたこと、救われたことを私たちは感謝しなければなりません。


霊的に “過越の祭り“ は、過越の小羊となったキリストを暗示します。

次のみことばにも書かれています。


【第1コリント5章7-8節】

新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。



五旬節




次の祭りは「五旬節」です。


【出エジプト記23章16節】

また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行わなければならない。

神様は収穫の刈り入れの初穂、すなわち春の収穫の時も 年の終わりの収穫の時も 祭りをするように言われました。


なぜかと言うと、大麦と小麦の収穫の時期が違っていたからです。


この祭りは、日々のすべての糧の生産者も供給者も、“主” であることを認め告白する意味があります。


種を蒔くこと、水を注ぐことは人間に出来ますが、成長させるのは神がなさることです。


私たちは日々の糧を得るために仕事をしていますが、仕事する資本である体は、神様が守って下さらないと自分の力では守れないです。


恵みによって糧を得たことに対して神に感謝することです。

また、この祭りにも霊的意味があります。


収穫の初穂は、“復活したイエス・キリスト” を象徴します。


【第1コリント15章20節】

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

この “復活” は信じる者に大きな希望を与えてあります。


それは私たちも復活の恵みに預かれるからです。


五旬節は、初穂をささげてから50日になる日に行われた祭りです。

この時は1日だけの祭りでした。


この日は労働せずに収穫の感謝を神にささげ、隣人との楽しい交わりをしました。


五旬節の霊的象徴は “聖霊降臨” です。


五旬節に聖霊が下りました。

私たちが神に感謝しないといけないのは、聖霊を私たちのために遣わして下さったからです。


聖霊なしには 生まれ変わることも信じることも、また神の子にふさわしく生きることも出来ないです。


私たちは日々この聖霊によって守られ導かれていますので、このことを大いに感謝しないといけないです。




仮庵の祭り




次の祭りは「仮庵の祭り」です。


【レビ記23章33-34節】

ついで主はモーセに告げて仰せられた。

「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。

この祭りは1年間労苦して得た収穫の後に行う民族最大の祭りでした。


そしてこの祭りは、エジプトの奴隷から解放され40年間 荒野で生活した時も神が自分たちを導き守って下さったことを記念する祭りでした。


七日間家を離れ、野原に仮庵を建てて生活しながら過去の荒野生活を振り返り、信仰を新しくしていました。


聖徒たちは今、この祭りをどのように解釈して行うと良いでしょうか?


天の御国に向かって歩んでいる聖徒たちも、主に導かれ守られていますので、そのことを悟らないといけないですし、私たちが肉体という衣を脱ぎ捨てた後は、永遠に安息と平安がある天の住まいで主と共に生きることを悟り、救いを与えて下さった神に常に感謝をすることです。


ただ 衣食住が与えられたこと、そして健康であったこと、守られたことだけが感謝ではなく、もっと大きな霊的恵みが自分たちに与えられていることを覚えて、それを与えて下さった神に感謝することです。


神の一方的な愛と恵みによって救いを受け、日々守られ、助けられ、また天国への道、復活の祝福があることが感謝の内容であり、感謝すべき理由です。



なぜ今の時期に、教会では “収穫感謝礼拝” をするのかを少しだけ話します。


アメリカでの感謝祭の始まりは、1620年に信仰の自由を求めて、イギリスの聖教徒たちがメイフラワー号に乗って新大陸アメリカに渡って行きました。

厳しい冬と直面し、生活もままならず、渡った半分の人は いのちを落としました。

そして先住民に助けられた残りの人たちは、翌年1621年の時に 無事に収穫出来たもので先住民たちも招待し、自分たちを助けて下さった神に感謝をささげたのが感謝祭の始まりでした。


アメリカでは、11月の第四の木曜日が感謝際です。


日本では勤労感謝の日に近い11月の第四主日に礼拝をする教会が多いですが、その日に必ずしなければならないわけでもありません。

イギリスやドイツ、カナダなど感謝祭の日はそれぞれ違います。


“いつする” のが重要ではなく、感謝の心が重要であり、恵みを忘れず、覚えて生きることが大切です。


そして神が命じた感謝祭の内容を悟って、感謝をささげることが大切です。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2016.11.20
収穫感謝礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

キリストの十字架がどう見えますか

テーマは 『 キリストの十字架がどう見えますか 』 です

【第1コリント1章18-19節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

4つの福音書には 十字架につけられたイエス様の姿がありますが、皆さんはその姿が想像出来ますか?

ムチ打たれ、いばらの冠をかぶっている姿を想像しますか?


私たちがどんなに想像しても、当時のイエス様の姿とは かけ離れています。


ある人が幻の中で十字架につけられたイエス様を見ました。
そして大きなショックを受けました。

それは自分の想像をはるかに超えた悲惨な姿だったからです。


ローマの刑罰で十字架につける犯罪人は、まず鞭打つことが慣例でした。

堅い皮のムチは先端だけが分かれていて そこに尖った鉛をつけて打つので、それが体をひどく傷つけるため、十字架につけられる前に死んでしまうこともあると言われています。


力強い兵士たちが 犯罪人を裸にして何十回も打つので、肉は全部裂かれ血が飛びます。


幻を見た人は、ムチ打たれて裂かれた体の部分がまるで線を引いたような模様になり、その傷は深く、骨まで見え、全身 血だらけで人間とは思えない姿であったと言いました。

あまりにも悲惨な姿で そのような姿は映画でも見たことがないと言っていました。


その姿を見た人たちに「この方は救い主で、あなたの罪のために十字架につけられて死にました。ですから信じて救われなさい。」と言うと、人々は首を横に振って信じませんでした。


「あれは犯罪人だ。神ではない。あんな悲惨な死に方をする者が救い主なわけがない。」と受け入れません。


現代人よりも、その時代の人々の方がもっと信じませんでした。

その姿を目の前で見ましたので、ほとんどの人が十字架につまずいてしまいました。

弟子たちは一生懸命に キリストの十字架を伝えました。


福音は キリストの十字架が核心です。


ですから伝えるメッセージも簡単で、“キリストの十字架の死と復活” でした。

『 十字架につけられて死んだ この方が人類を救うメシヤであり、王の王、主の主です。』 と福音のメッセージを伝えましたが、そのメッセージはユダヤ人だけではなく ギリシャ人にもローマ人にも受け入れ難いメッセージでした。


ローマ人の立場から見ると、十字架は 犯罪を犯した奴隷が 悲惨な死を遂げたことなので、救い主と認めることはナンセンスでした。


ギリシャ人は 常に理性的、哲学的知恵を追及しているので、野蛮な方法である十字架刑で死んだ者が 人類を救うことなどあり得ない と思っていました。


ユダヤ人は メシヤがそんな方法で人類を救うことが出来ないから、メシヤである証拠を求めました。

十字架から降りたら信じるとも言いましたが、(イエス様が)降りずに死んだので、メシヤとして認めることは出来ないと思っていました。


“十字架の上で死んで人を救う” ということが、彼らには愚かに見えました。


福音を伝えると必ず人々がこのような反応を見せるのでパウロは今回のテーマ箇所のように語りました。


【第1コリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

現代の人々はどうでしょうか?
昔とあまり変わらないです。

なぜ十字架に対する人々の反応がこんなに固いものでしょうか。


人々は何に憧れ、何を求めますか?

それは 強いもの、美しいもの、良いもの、魅力的なもの、知的なものです。

つまり苦難と苦痛、犠牲を避け、快楽を求めます。


しかし キリストの十字架は、何一つそれに当てはまるものがありません。


十字架を見ると、弱さ、惨めさ、辛さしか見えませんので、何ひとつ魅力的な姿がありません。


イザヤ書にキリストの姿が預言されています。


【イザヤ書53章1-3節】

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

人間の目には、魅力的な姿ではないと預言されています。

これがイエス様の時代や現代でも 十字架が拒まれる原因になってあります。


十字架が現代人の知的欲求、政治的欲求を満たすことも、個人の欲求を満たすことは出来ないです。


ですから「十字架にかかったキリストを信じなさい。」と言われても、それを認め 受け入れることが難しいです。


もし、キリスト教がキリストの十字架を伝えないで 道徳や倫理、愛、施し、正しいことだけを伝えるならば、もっと多くの人が気軽に受け入れると思います。


しかし“キリストの十字架が抜けた キリスト教”は、もはやキリスト教ではないです。






最近、韓国でも教会や伝道する時に キリストの十字架や罪、悔い改め等をほとんど言わず、祝福、恵み、癒し、繁栄のメッセージだけを伝える傾向が強いと聞きました。

それは人々が望むメッセージです。


伝道する時も、教会にはどのような娯楽施設があるか、サークルやイベントなどを宣伝して人を集めていると聞きました。


しかし初代教会の時代は “キリストの十字架”がメインでした。

パウロはキリストの十字架以外は語らないと宣言しました。


“キリストの十字架” に戻らないと、教会は堕落します。


どんなに人が集まっても、主は その教会を “死んだ教会゛ と言われます。


キリストの血なしに罪の赦しはないですし、救いもありません。


神を喜ばせないで 人を喜ばせるために、人々の負担になり、魅力的でないキリストの十字架をいつの間にか後ろに隠して、人々の耳に良い話だけをして 人の数を増やそうとします。


人の目には たくさん人が集まって成功しているように見えても、神の目には堕落した教会の姿でしか見えないです。


人間的な方法や やり方で人間の罪の問題が解決されますか?

人間がどんなに優れた知恵を持っていても、科学がどんなに発達しても解決出来ず、ますます増えていくのが “罪” です。


哲学者や政治家、心理学者も、罪の問題に対して解決策を出した人は1人もいませんし、宗教家たちも解決方法を提示した人は1人もいませんでした。


私たち人間の罪を解決できるのはイエス・キリストの十字架であることを認めなければなりません。


神の知恵である この“十字架” を無視して、人間の知恵だけに頼っているならば、罪の問題は決して解決されず、ますます罪によって 人類はさらなる悲惨な霊的状態になります。


イエス様は自分の十字架が人々を2つに分かれさせることを語りました。


本文にあったように、十字架を愚かだと思っている人は滅びますが、それを神の知恵、神の力と信じる人には救いがあると語りました。


【第1コリント1章23節】

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

十字架を見て救われる人もいれば、つまずく人もいます。


【ローマ9章33節】

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

イエス様はご自身のことを「つまずきの石、妨げの岩」と表現しました。

それはイエス様を受け入れるのが簡単ではなく、拒否感が出てきて負担になるという意味です。


しかし 神様の知恵と思って受け入れる人には決してつまずくことなく、救いの岩になります。


人間の知恵によって十字架を見た人は、みんなつまずきました。

しかし十字架を神の知恵による救いの方法だと信じて受け入れた人は救いを受けました。


どちらが愚かな人でしょうか?

人間の知恵に頼っている人でしょうか、それとも神の知恵に頼っている人でしょうか。


人間の知恵には限界があることを 謙遜になって認めなければなりません。

そして十字架の秘密を悟るのは、人間の知恵で出来るものでもありません。



キリストの十字架の秘密は、“神の啓示と聖霊による悟り”です。

キリスト教は、啓示の宗教です。
人間の知恵によるものではないです。


自分が努力して救いに至ることはないので、神によって提示された救いを信じて受け入れることです。


キリストの十字架を正確に理解するためには 神の恵みが必要です。

すなわち 悟りの霊が必要です。


聖霊に頼り、神の知恵を求めることです。


【第1コリント1章25節】

なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

( ̄ー ̄)

2016.3.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

復活は事実です

テーマは 『 復活は事実 』 です

【マタイの福音書28章1-8節】

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そ こで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

主が十字架にかかった時は街中の人々が集まり、主が死んでいく姿を見ていました。

それは、その日の一番大きなニュースだったと思います。
新聞ならば一面に載った記事だったと思います。


大祭司やパリサイ人、総督や軍人、一般の人たちまでも関わった事件でした。


復活は人々の目につかない時に起こりました。

安息日が終わり、週の初めの明け方でした。明け方は まだ人が活動する時間ではありませんし、朝早い時間に墓参りへ訪れる人もいません。


そのような時に復活は起こりました。
主が十字架にかかっていた時には、御使いは一度も見えませんでした。

大声で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言っても、神様や御使いは何の反応もありませんでした。


人々は自分を救えないイエスを見て嘲笑いました。
「やはりメシヤではなかった。普通の人じゃないか。」と思いました。

しかし、これで終わりではないことが、キリストが神である証明となります。

何よりも復活こそが神である証明です。


死んで終わりであるならば、ただの人です。ナザレ人イエスが死んだだけのことです。

しかし復活があるので 人間ではなく神であることが証明されました。

そしてその復活は事実です。
また、それは何によって証明されたでしょうか。今回、それを検証します。




1.主イエスの預言の的中




事前に何度も「死んで葬られ、三日目によみがえる」と主は話しましたが、その通りになりました。

墓に入ったことは完全に死んだことを意味しますが、そこから自ら出て来ました。

御使いが石を転がす前には すでによみがえっていて墓の中にはいなく、墓の外にいました。
そして生きている姿を人々に見せました。


イエス様は公の場で活動していた時に、すでに死んでいた人を三人も生き返らせたことがありました。

ナインという町に主が行かれた時に、やもめの一人息子が死んでかつぎ出されるところを見ました。

その母親を見てかわいそうに思い、棺に手をかけて「青年よ。あなたに言う。起きなさい」と言うと その死人は起き上がりました。
それを見て人々は恐れを抱き、神を崇めました。


今度は会堂管理者ヤイロの12歳になる一人娘が死にました。

主はその娘のところへ行き、娘の手を取って「子どもよ。起きなさい」と叫びました。
すると娘の霊が戻って来て娘は起き上がりました。


ラザロも死んで墓に入って四日目になりましたが、主は墓の前に行って「ラザロよ。出て来なさい。」と大声で叫ばれました。

すると 死んでいたラザロが生き返って墓から出て来ました。


この三人を生き返らせたことでも、すでに主は自分が話したことばに対して証明して見せました。

ラザロのお姉さんであるマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と主は言いました。


そして「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言った後に、墓の所へ行ってラザロを生き返らせました。

これらは主がいのちの主権者であることを表した出来事です。
そしてご自身も死からよみがえることを前もって はっきりと見せた出来事でした。




2. 数人の番兵たちが復活の目撃者




彼ら(番兵)は主の味方ではありません。

彼らは祭司長やパリサイ人たちがピラトの所へ行って、弟子たちがイエスの遺体を盗むことがないようにと頼まれたことで ピラトが出した兵士たちでした。

そして兵士たちはイエスを鞭打ち、十字架につけ、復活を信じない者でした。


しかし 突然大きな地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、墓の石を動かす姿などを見て震え上がり死人のようになってしまいました。

夢ではなく現実に自分たちの目で はっきりと見たので恐れおののきました。


そして祭司長たちの所に行って、起こったことを全部報告しました。

その報告を受けた祭司長たちの対応を見ても復活が事実であることが証明されました。


【マタイの福音書28章11-14節】

女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こったことを全部、祭司長たちに報告した。

そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、

こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。

もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」

と言いました。


目撃者にうそを言わせるために多額の金を払うことは、復活が事実であったことを証明するものになります。

十字架につけた者たちも驚かせたのが主の復活でした。




3.主の弟子たちが主の復活の証人




墓を見に来たマグダラのマリヤや他のマリヤが 誰もいない墓や御使いのことばで驚き、それからすぐにイエス様に会い、主は彼女たちに「おはよう」と声をかけまし た。

彼女たちは大喜びでした。それから主の弟子たちが次々と主に会いました。

何度も主に会ったので誰も復活を疑う者はいませんでした。


疑っていたトマスも後に自分の不信仰を恥ずかしく思いました。




4.500人以上の兄弟たちが同時に復活の主に会う




目撃者が多くなればなるほど、それは事実として認められます。


【第1コリント15章6節】

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

これらのことで人々は復活を当然のことのように受け入れました。

聖書の後半部分を読んでも復活に対して異議を申し立てる者はいませんでした。


祭司長たちも後で弟子たちを迫害しても、キリストの復活はうそだとは言えませんでした。




5.主を迫害したパウロが復活の主に会って回心した




パウロの回心は、本人はもちろん誰も予想ができなかったことでした。

彼は誰よりも熱心にキリストを伝える者を迫害し、教会を荒らした者でした。


パウロがダマスコに行って キリストを信じる者たちを縛り上げる目的で進んで行く時に、突然 天からの光で彼は地面に倒れました。

そして声が聞こえてきました。
「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか」 「主よ。あなたはどなたですか。」 「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」


これによって彼は完全に別人になってしまいました。

いくら主のことばを聞いたり、復活の話を聞いても堅く心が閉ざされていた過激派の彼が一瞬にして心が変わり、主の弟子になりました。

そして誰よりも多くの働きをした使徒になりました。

自分が直接目撃したり、体験することが一番影響力が強いです。






もし 今もキリストの復活が信じられないとか、作り話だという人がいるならば、聖書をよく読み、また歴史もよく調べたら良いと思います。読まずに知らないままで否定する人は愚か者です。

確認もせず否定するのはよくないことです。よく調べてから判断することを勧めます。


私たちの罪を贖うために、人間と同じ姿になるしかなかったイエス様でしたが、十字架の死によって贖いの働きを完成しましたので、本来の神の姿に戻るためによみがえりました。

そして、いのちの主として 私たちにも復活のいのちを与えて下さると約束して下さいました。

私たちに起こる復活の姿はこれです。


【第1コリント15章42-44節】

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ 、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

聖徒の復活もすべて主によって与えられる最高の祝福です。


よみがえられたイエス様に心から感謝します。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2015.4.5
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

神様が私たちに伝えたい警告です
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

パウロメッセージの重要テーマ

テーマは 『 パウロメッセージの重要テーマ 』 です

【使徒の働き20章19-21節】

私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。

益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたに教え、

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

パウロは復活したイエス様によって直接使徒として召されました。

その場面は次の箇所にありますが、パウロに対して主が語ったことばです。


【使徒の働き9章15節】

わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

そしてパウロは主の心にかなう働きをしました。
救われた異邦人にとってパウロの存在は本当にいのちの恩人です。


パウロの働きは簡単に出来たわけではありませんでした。

真の神を知らない異邦人の所へ行って、彼は命懸けで福音を伝えました。
多くの迫害と反対の中でも彼は伝えるべきことは大胆に伝えました。


私たちも神様のことを人々に伝えますが、人々が喜んで聞くことはほとんどありません。

その為、私たちは委縮し、消極的になり、何をどう伝えたら良いのかと悩んでしまいます。
聖書のことばはたくさん知っているのに、伝えるべきことばが分からず困ったと言うクリスチャンも多いです。


今回は最高の伝道者であったパウロのメッセージの重要テーマが何であったのかを皆さんに伝えます。

これから皆さんが福音を伝える時に、その内容で伝えたらいいと思います。





1.神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰




【使徒の働き20章21節】

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

悔い改めと信仰は切り離すことが出来ないものです。


悔い改めなしに救われることはないですし、また 信仰なしに救われることもありません。


キリスト教のもっとも基本的な真理は神様に対する悔い改めと信仰です。

罪を犯したことのない人間は世には存在しません。
自分には罪がないという人は罪に気づいてないか、罪が何なのかを知らない人です。

悔い改めとは、自分には罪があることを神の前で認めることであり、罪を憎んで罪を悔いている心の変化を意味します。

そして主イエスに対する信仰は、キリストが十字架の上で死んで成し遂げた贖いとキリストが救い主であることを信じることです。


救いはまず悔い改めがあり、それに信仰が結びつく時に得られるものです。パウロは必ずこのことを語りました。




2.キリストによる罪の赦しと義




【使徒の働き13章38-39節】

ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいて下さい。

モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

パウロはすべての人はキリストを通して神様からの罪の赦しを受けるべきであると強調しました。

なぜならば罪によって神様との関係が断絶された人間は、キリストを通して罪の赦しを受けるまでは神様と和解することが出来ません。


【コロサイ2章13節】

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、

神様は私たちが罪を悔い改める時にその罪を赦して下さる方です。

モーセの律法はそれを犯す者に対する刑罰はあっても罪の赦しや救いの保証はありませんでした。

イエス・キリストは律法が保証しなかった罪の赦しを保証しただけではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められ、救いを得ることまでも保証しました。




3.イエス・キリストの復活




【使徒の働き17章3節】

そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と言った。

キリストの復活は作り話ではなく、実際にありました。

多くの目撃者があり、復活してからも何度も弟子たちや人々の前に現れました。
そしてパウロ自身も復活した主によって使徒と任命されました。

それまでパウロはキリストに敵対し、信徒たちを激しく迫害した者でした。


そして “キリストの復活” こそ信じる者たちの希望です。

キリストの復活がないならば、私たちの信仰もむなしいものになります。




4.神の国(天国)




【使徒の働き19章8節】

それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。

神の国、すなわち天国こそが聖書が提示する究極的なビジョンです。
神の国があるからキリスト教の救いは永遠性を持ちます。


天国がないならば私たちにどんな希望があるでしょうか。どこに向かって歩んだらいいかわからなくなります。

この世がすべてであるならば、私たちは神様を信じる理由がありません。
狭い道を歩む理由も、迫害される理由も、また忍耐する理由もなく、好きなように生きればいいです。


しかし、天国は間違いなくあります。

信仰の人々はどの時代にも天国にあこがれていて、地上では旅人として生活しました。


天国はお金で行ける国でもなく、権力で行ける国でもなく、キリストの十字架を通った人たちが行ける国です。
神様が支配し、涙も苦しみもない平安の場所です。

神様が準備した最高の場所です。
「私の父の家には、住まいがたくさんあります。」とイエス様が教えて下さいました。


地上でどんなに辛いことがあっても、天国があるから先が楽しみです。




5.偶像崇拝者に対する最後のさばき




【使徒の働き17章16節】

さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。

この憤りはパウロ個人の憤りでしょうか?
―― これは神様の憤りです。


なぜならば神様は次のようにはっきりと宣言しました。

「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」 と。


神様を無視し、神でもない偶像を拝む者に対しては厳しい裁きがあります。


【ヨハネの黙示録21章8節】

しかし。おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

パウロはこれ以外にも人々にとって益になることは、少しもためらわずに知らせました。

なぜならばパウロは誰よりも人々の魂を深く愛したからです。
パウロの心と姿勢はイエス様に見習ったものでした。


一人の魂も滅びることを願わない神の心を知って、パウロ自身もその心で福音を伝えました。

私たちは何を伝えたら良いかを考える前に、魂に対する深い愛が自分にあるかどうかを調べなければなりません。
愛がないと語ることが出来ません。


愛がないならば、主に愛の心を求めましょう。
そして愛の心をもって人々の救いのために祈り、パウロが伝えたように伝えましょう。
(・∀・)つ


【使徒の働き20章24-27節】

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。

ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。 私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。

私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

2015.3.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

なぜキリストを信じるのか

テーマは 『 なぜキリストを信じるのか 』 です

【コロサイ1章15-18節】

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

今、キリストを信じている人はなぜキリストを信じていますか?

この世には多くの宗教があり、神々と呼ばれるものがたくさんある中で なぜキリストを信じているのでしょうか?

「偶然信じるようになった」とか、「何となく信じるようになった」とかいう人はいないと思います。


これとは逆に、キリストを信じない人は なぜ信じないのでしょうか?

きっと色々な理由があると思います。

もし、「ほかの神を信じるているので私はキリストはいりません」と言う人がいるならば、その神はどのような神でしょうか?説明できますか?


その神とこれから関わっていて何か得るものがあるでしょうか?

キリストよりもすぐれたものは何でしょうか?もしあるならば教えてもらいたいです。


今回はクリスマス礼拝を捧げているので、キリストに焦点を合わせて話したいと思います。

聖書はキリストが主役であり、キリストの話がたくさん書かれています。


そして聖書の内容は、主役であるキリストの話です。


私はキリストを信じているので、なぜ信じているのか その理由をはっきりと話すことができます。




(1)キリストは見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方




まずは15節にあるように
キリストは見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方だからです。

キリストは人間と同じ肉体を持って生まれた方ですが、ただの人間ではなく、もともと神である方が 目的があり人間の姿となってこの世に来られた方です。

罪の中で生まれ、罪の結果として永遠の死に落ちていく人類を救うために世に来られました。


【Ⅰペテロ1章18-20節】

ご承知のように、あなたがた父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。

しかし、すべての人類がこのことを知り、喜んでキリストを受け入れて救われるのではありません。

2つの反応があります。


【ヨハネの福音書1章9-14節】

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、 世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

ことばは人となって、 私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

私自身も キリストが誰であるのかを知る前は 人間がどこから来て何のために生き、どこへ向かい、
自分が罪の中にいる罪人であること、そして罪の結果として永遠に滅びることや、贖いが必要であることも知りませんでした。


創造主が誰であるのか、天国と地獄がどんな所かも知りませんでした。

結局、最も大切で重要なことは何一つ知りませんでした。


そしてその中で何とも思わず、目に見えるものだけを求めながら生きていました。


しかしある時に私は神の存在を求めるようになりました。
そしてキリストに出会い、聖書を読みながら、それまでまったく知らなかった真理を次々と知るようになり、 目が開かれ悟りを得られ、神の存在や人間の存在もどうしたら救いを得られ、神の子どもになれるのか、どうしたら天国に入れるか すべてを知るようになり、そのすべてを信じ、受け入れました。


このように明確に教えておられる方はキリスト以外にはおられませんでしたし、私の罪を贖うために人間となられて十字架の上で私の身代わりとなって罪を清算して下さった方もほかにおられません。

信じないわけにはいかないです。


今は信じたので、罪が赦され、神の子になり、むなしい生き方をやめ、永遠のいのちを神から受け、この地上を離れる時には天国に行ける祝福をキリストによって受けています。


私は信じて何一つ損したことはなく、むしろ大切でもっとも価値あるものをすべて受けました。




(2)キリストが万物の主権者




キリストが万物の主権者だから信じています。


【コロサイ1章17節】

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

神が創造した世界の中で、今 私たちは生きています。

自分が造った世界の中で生きているのではありません。人間は誰一人 “無”から“有”を創造することはできません。

世界を創造し、秩序を作り、それを治める方がキリストであるので、それを認め、感謝し、従うのは当然であります。


歴史の中でも、今の世の中でも草一本でも造ることが出来ない人間が、自分が神であるとか自分が世界の主権者であるとか、偽りを言う者がたくさんいました。

その嘘に騙されている人間もたくさんいます。
その人間も死ぬ時には普通の人間と変わりがなく、ただ権力欲、名誉欲、物欲に満ちていた人間であったにすぎません。


言葉巧みに人を騙しても、その裏にあるものは貪欲に満ちた人間がいるだけなので絶対に騙されてはいません。

特に聖職者と呼ばれる人間の中に多いので、気をつけなければなりません。


自分を再臨イエスと言い続けた統一教会の文鮮明も死にました。

顔を見てもキリストとまったく似てもない人間が自分を再臨イエスだと言っていることに、多くの者が騙されて今も信じています。気の毒であります。




(3)キリストが死者の中から最初に生まれた方で、今も生きておられるから




キリストが死者の中から最初に生まれた方で、今も生きておられるからです。

キリストは十字架の上で死ぬずっと前から弟子たちに言っていました。


【マタイの福音書16章21節】

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして 三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

その通りにキリストは十字架にかかり、三日目に蘇りました。

常識的には考えられなかったからです。
しかし目撃者は多くいて、誰も復活を否定することができなくなりました。


私が聖書の中でいつも希望を置くことばがあります。次の箇所です。


【Ⅰコリント15章16-21節】

もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

永遠のいのちの約束は復活があったからこそ、信じることができます。




(4)キリストの中にすべての宝がある




キリストの中にすべての宝があるから信じます。


【コロサイ2章3節】

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

キリストに出会って、このことは本当に実感しています。

世の知恵と知識しかなかった時には、目に見えるものしか分かりませんでした。

しかし、キリストを信じてから今に至るまで どれほど神から多くのことを教えられているか分かりません。

これから先に起こることや、また霊の世界のことまで教えてもらいました。
もちろん今も教えてもらっています。まるで目からうろこが落ちた状態です。


悟りが与えられたことで人生を見直すことができ、正しい道を歩むことができました。

人間の愚かさ、人生のむなしさを知り、捨てることができました。

何が善であり、悪であるのかも 神からの知恵で悟ることができました。


皆さんはなぜキリストを信じていますか?
キリストがどのような方であるのか、正しく知っていますか?

まだよく知らない人は、知らないまま生きるのではなく、知るために聖書を読み、神を知りたいと祈ってみてください。

ある意味、キリストを信じるか、信じないかは人間にとって最大の決断になります。


永遠の死の世界に行くか、永遠のいのちの世界に行くかを、生きている時に決めないといけない選択ですので、これほど重要な決断が世にあるでしょうか。


私は信じる決断をして神様を信じて、これで良かったといつも思っています。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2014.12.21
クリスマス礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜ *・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘ ス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒ ョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝 ❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

キリストの死は何が違うのか?

テーマは 『 キリストの死は何が違うのか 』 です

【ヨハネの福音書10章17-18節】

わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それを もう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

今は受難週ですので、イエス様に目を向けて イエス様のことをもっと考えたいと思います。

生まれた人間は 必ず死を迎えますが、“人間の死”と“イエス様の死”は同じでしょうか?
それは全く違うものであります。


キリストの死が すべての人の死と同じであるならば、キリストの死には何も特別な意味はありません。

(イエス様は)2千年も前に亡くなった方ですが、普通ならば既に亡くなった人の死を、いつまでも語る必要はありません。

しかし、今もずっとキリストの死が語り続けられているのは、その死がほかの人間の死とは 明らかに違うからです。


キリストは生きている時に、既に 自分の死について語り続けました。
イエス様は33歳で亡くなりました。
30歳から公の場で働きを始めましたが、その時から「死」のことを語っておられます。
年を取った人が死について語るのは不思議ではないです。

しかし 一番力に溢れ、働き盛りの30代前半の男性は いわば「死」とは無縁ですが、自分の死に関して何度も 語りましたので、周りが聞いたら不思議だったと思います。

そして、33歳の時に イエス様ご自身が語られた通りに十字架にかかり死にました。


自分の死に対して「自分から命を捨てるのです。」と言いました。

この世が辛くて死にたいから 自身の死のことを語ったのではないです。
(イエス様は世に対して「嫌だ」と言ったことはないです。)
イエス様は自発的に天から地上に来られましたが、死ぬ時も自発的な死でありました。

これは 誰かが無理やり「死になさい」と言ったのではないです。

この「自発的な死」が、『キリストの死の特徴』です。


ここで なぜ「自発的な死」が必要であったかを考える必要があります。

「自発的な死」でないならば、本人は死にたくないのに(いじめなどで)誰かの強要で自殺に追い込まれることが世の中では起こっています。

しかしキリストが十字架に至るまでの過程は、様々な人間が関わって十字架にかけ 他人によって殺された形にはなっていますが、キリストはそれらのことが起 こる前に 「自らいのちを捨てます。」と自分の死について預言を語り、その死は「自発的な死」であることを明らかにしました。


その「自発的な死」はこのためであります。

人々は普通なら「長生きをして 人々に役立つ働きをしよう。」と考えます。
でも、イエス様はたった3年間しか働きをしていないです。

なぜイエス様に自発的な死が必要だったのでしょうか?それは次の箇所に書かれています。


【ヨハネの福音書10章10-11節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

盗人とはサタンのことです。そして もう1人の盗人は宗教指導者・偽預言者たち、言わば惑わす者であります。
当時も、宗教指導者たちは盗人でした。サタンがその宗教指導者たちの中で働くのです。


その者たちは神様の言葉を伝えますが、イエス様から見れば 全てが「盗人」でありました。
それは魂に関心がないからです。
自分の目の前にいる魂が、狼の餌食になっているのに 魂に関心がなく、自分の地位や権力・豊かな生活に関心があるのです。ですから、羊を食い物にしているのです。

そこでイエス様が羊のために働きをすると、彼らは妬み、敵対し、殺したいと思いました。その姿は盗人であります。
そして、狼が羊を襲うと、彼らは自分の命を守るために逃げるのです。


しかし、イエス様は違いました。
キリストの自発的な死は、羊のために自らがいのちを捧げたことが分かります。

旧約時代においては、神様のことを「羊飼い」と表現しました。民たちのことは「羊」と言いました。

ダビデも詩篇23編で「主は私の羊飼い」と呼びました。


【イザヤ書40章11節】

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

ここには良い羊飼いとしての神様の姿があります。
羊を飼い、世話をし、弱い子羊を引き寄せて主のふところに抱くとは どれほど主は優しいお方でしょう。
これが神様の姿であります。


それは、自分自身が全人類の救い主であることと、主ご自身が神であることの宣言です。


キリストの十字架の死は、本当は(私たち)羊が死ななければならないのですが、代わりに死んでくださったのです。

キリストの死の自発性は 人類の救いにおいては、必要不可欠な要素です。
もし、イエス・キリストの死が自ら選んだ死でないならば、人類を贖う効力(救い)が そこにはないです。
これでは(キリストは)死にたくもないのに殺された ということになるからです。


次の箇所では、キリストの死が自発的であることと、羊のためであったことが書かれています。


【Ⅰペテロ2章24-25節】

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、 自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

キリストの自発的な死のことも書かれていますし、イエス様が私たちの魂の牧者であることと 私たちは羊であることがはっきりと書かれています。

キリストは自分のいのちを捨てる権威があると語りました。そして、自分にはもう一度(いのちを)得る権威があることもヨハネの福音書10章に書かれています。これは、蘇るということをイエス様が宣言したということです。

つまり「死では終わらない」ということであります。

なぜなら、羊にいのちを豊かに与えると約束されたイエス様が 蘇らないならば、いのちがないのですが
復活することによってイエス様が語った通りに、羊にいのちを豊かに注ぐことができるのです。


「死」が無ければ 罪人の贖いはありませんし、キリストの「復活」が無かったなら 永遠のいのちが与えられることもありませんでした。 つまり福音が存在しなくなります。


福音には必ず十字架の死があり、その後に必ず復活があります。これで完全な贖いになります。

罪人たちが死ななければならないのに イエス様が代わりに死に、そして命を得る時にイエス様が3日後に墓から復活したので命が与えられています。


また、キリストの死は さらに他の人たちとの違いがあります。それを みことばで紹介していきます。




従順の死



【ピリピ2章8節】

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は神様がたてられた自分の計画に対して、たとえ死ぬことであっても従順しました。




代表者としての死



【ローマ5章19節】

すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

ひとりの人の不従順とは、人間の代表者であったアダムです。

原罪というものがありますが、人間は生まれがら罪があります。
しかし人々は、罪を知らないので 赤ちゃんを見て、「この子には罪がないです。」と言うのは聖書的ではないです。
まだ自らは罪を犯していなくても アダムから来た原罪の罪があるのです。

すると人々は「それは関係がないでしょう?アダムが犯した罪なのに、何で私が背負わなければならないのか?」と反論します。


もし このように言われたら、皆さんはどうしますか?
アダムは神様が一番初めに造った人間ですので、神様から見たらアダムは人間の代表者です。

この人間の代表が罪を犯したので、それに属するすべての者が汚れた者になっているということになります。


また、“ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです”というのは、イエス様が人類の代表者になるということです。その方の従順によって全人類の罪人たちが義人になるチャンスが与えられたことになりました。


私たちは「アダムのせいで私は滅ぼされるのだ」と不平不満を言う必要がないです。
なぜなら、イエス様が他に救いの道を備えてくださっているからです。

もしイエス様が代表者でないならば、1人の罪を贖うためにイエス様は毎度も死ななければならないのです。
この地球上に70億人が住んでいます。その人たちを救うためにイエス様が70億回死ぬことになりますが、それは出来ないことであります。


ですから、代表者を1人たてて(人々の罪を)イエス様が背負って死ぬならば、他の人たちが十字架にかからなくても イエス様を見て信じる者には神様がそれを認めて義人にしてくださるということです。これが神様の法則であります。

1人の罪人(アダム)によって全てが罪人になり、1人の従順(イエス様)によって私たちが義人になる道が開かれたのが「イエス様の死」です。




無罪の死



【ヘブル7章26-27節】

また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。 というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成した遂げられたからです。

ここに書かれている通り、イエス様は罪人を救うために共にいましたが、彼らと一緒になって罪を犯したことは1度もありませんでした。

無罪で死んだこの方こそが 私たち罪人を救うことができます。

誰が「私にはあなたは要りません。」と言えるでしょうか?
もし そう言うならば、その人は未だに自分が罪人であることを分かっていない人です。

分かっているならば、拒むことはできません。

もし自分が罪人であることを知っているならば、“誰が私をここから救い出してくれるのか、どうやったらこの罪が赦されるだろう?”と求めるようになります。

それに必要な方がイエス様であります。


しかし、イエス様を要りませんと言う人は、自分の罪の代価を自分で払わなければいけないのです。

神様はそのことを知っていましたので 私たちにとって必要なイエス様を無罪であるにも関わらず十字架にかかるようにしてくださったのです。
それによって神様と敵対関係にあった私たちが和解するようになりました。

そこで自分の罪を悔い改めた人は、神様から罪が赦されて、神様の子供になり和解できるのです。


歴史の中でイエス様以外に全人類のために命を捨てた人はいません。
自分の名誉、権力、利益、家族のために命を懸ける者はいるのですが、まったく関係のない全人類のために 罪がない者が死ぬということはないです。

イエス様は自発的にそれをしましたし、死にいたるまで従順しました。
私たちのために犠牲の死を払いました。


この特別な方は、私たちにとって なくてはならない必要な方であります。

「イエス様がいなければ、今も自分の罪の中にいますし、救いとは無縁な者でした。そして天国にも入られない者でした。」ということを自覚して欲しいです。

私たちのために命を捨ててくださったイエス様に、常に感謝をして“この恵みこそが 私たちにとって最も大きな恵みであること”を覚えて感謝しましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2014.4.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

キリストの復活

テーマは『 キリストの復活は歴史的事実 』です

【 マルコの福音書8章31節 】

このことは、イエス様が十字架に架かる前、苦しみを受ける前から弟子たちに教えていました。
しかし 弟子たちは意味もわからず聞いていました。

私たちも みことばを“聞いていることは聞いているけど、どういう意味だろう?”と思うことがあります。
特に預言の言葉は難しく、これから(未来に)起こることを語ると、わけがわからないです。
そして私たちが勝手な解釈をしてしまいます。私たちがどれほど霊的無知であるかがわかります。

復活ということは歴史の中でも1つもありません。
ですから、頭で理解をしようとしても理解ができませんでした。「そんなことは有り得ない」という人が多いです。

イエス様の復活はすべての面において証拠が揃っています。復活は事実であります。

当時のユダヤ教には2つの派に分かれていました。
サドカイ派とパリサイ派です。

この2つの派は神様に対しての解釈が違います。

サドカイ派は、大祭司、祭司、そしてその仲間たち、上流階級の人々でした。
彼らは「肉体の復活はない」、「未来の審判もない」、「報いもない」、「御使いの存在もない」と信じていました。
人々の前に出て神様に礼拝を捧げる者・大祭司がそのように信じるのです。

パリサイ派は、保守派でもあり、とにかく律法に熱心でした。しかし形式的で儀式ばかりを行っていました。
律法を守ることが生きがいでした。そして神様の言葉を守っていない者には罪人だと裁き、プライドが高いです。
彼らは復活を信じていました。

イエス様の弟子たちは、直接イエス様から教えられていましたが、復活や生きたまま十字架にかけられることを
聞いても悟れないので信じていませんでした。

しかし 弟子たちは復活したイエス様に出会って初めてわかりました。
復活がどういうものであるのかをハッキリと見たので信じました。それからキリストの復活を伝えるようになりました。

使徒パウロはパリサイ派で、復活を信じていました。しかし実際には信じていなかったです。
弟子たちがパウロに復活のことを語った時に「復活はない」と腹を立て、クリスチャンたちを迫害した者でした。

マリヤ・マルタ・ラザロの3兄弟も、ラザロが死にましたが、みんなが泣いている時にイエス様が来られました。
「よみがえりを信じるのか」とイエス様が語った時に、マルタは「信じます」と言いました。
しかし そう言いながらも、その事実を否定しました。
マリヤは復活する言葉を聞いた時に、それを事実として受け入れました。

多くの人たちは みことばを知識としては信じています。でも実際には信じないです。
牧師や信徒は「癒しを与えてください」と祈りますが、実際に 自分の身に癒しが起こることは信じないです。

これは「知識」と「実際に信じる信仰」は違うものであるからです。

私たちは聖書の言葉をそのまま信じなければならないです。
そして聖書に書かれていることは今も(起こることだと)しっかりと信じなければいけないです。

【 Ⅰコリント15章 】はパウロが書いた「復活の書」であります。

私たちは、復活と聞いてもピンとこないと思います。死んだら天国へ行くことはクリスチャンなら誰もが
信じています。しかしそれは「復活」ではないです。

天国に行くのが復活ではないです
イエス様は復活した時に、別の身体をもって地上に来られ 40日間活動をされました。

今、天国にいる人たちは地上に来て活動することはできないです。それは霊の存在だからです。
しかし復活は 私たちがもう一度、身体を着ることであります。しかしそれは同じ身体ではないです。
時間・空間・病気などに制限を受けないです。私たちは想像ができない身体で復活をするのです。
クリスチャンはそこまで信じなければいけないです。

私たちは復活にあずかるんだという思いがないです。
「死んで天国に行けば良い」と、それだけであります。ある意味ではそれでも良いのですが、
イエス様を復活させた神様は、私たちにもそれを味あわせるのです。

私たちはいつかはわかりませんが、神様が復活の身体を与えてくださり、永遠に主と共に住むのです。
私たちは復活の証人であります。

私たちもその素晴らしい姿に変わるんだという望みをずっと持ってください。

今、私たちは地上で受けている苦しみがありますが、その苦しみもイエス様の十字架の苦難に比べたら
大したことではないです。

私たちは死にますが、私たちより先にイエス様が体験をされました。
ですから、死を恐れる必要はありません。永遠に死に繋がれることがなく、
私たちに必ず 死→復活という素晴らしい奇跡を与えてくださいます。
クリスチャンはそこに希望があります。

人間は自分自身のことを可哀想に思うのですが、イエス様はいつも人を可哀想に思うのです。
不安と恐れの中にいる弟子たちを見て、可哀想に思って「平安があなたがたにあるように」と語りました。

イエス様は私たちを責めない方であります。
しかし私たちは自分を責めても良いのです。なぜなら自分で蒔いたものであるからです。
自分で自分を責めなければ、誰が責めるのでしょうか?
他人から責められたら恨みや憎しみを持つでしょう。
ですから、罪は自分で気付くべきであります。他人から言われて腹を立てるのではなくて、
自分で自身の心を見て、「何という汚い者であるのか」と気付かないと悔い改めができないです。

自分自身を責めている姿を、イエス様が傍でじっと見ながら
「立ち返れ。あなたが自分の罪のために苦しんでいることをわかっている。しかし目を上げてわたしを見なさい。
わたしはあなたを愛して十字架にかかったのだ。だから罪を洗い清めなさい。もう罪を犯すな。」と語ります。

聖書に出て来る罪人たちも、人々が殺そうとしていても、イエス様は「殺したらいけない」と語りました。
愛は強いものです。

【 Ⅰコリント13章 】に出てくるのが本物の愛の姿であります。

クリスチャンはいつもイエス様を見て 心を強くしていき、心をやわらかくし、心に愛を入れておき、
他人を許す心を持って生きる者であります。

イエス様はイースターで完結されました。私たちもイエス様についていくことであります。
中途半端では、よみがえりの祝福を受けることはできないです。

【Ⅰコリント15章】を読んでください。 (´・ω・`)

2013.3.31
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

・金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
   金ヘス牧師のブログ

・毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会の料理です☆
   主の食卓のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

キリスト復活の目的は?

テーマは『キリストの復活の目的』です

【ローマ10章9節】

神様を知らない人を導く時に、9ー10節はよく伝える箇所です。
私たちの口でイエス様が復活したことを信じて告白するならば救われるという言葉が出て来ます。

イエス様の十字架だけを告白したら救われるということではないです。
ここにはっきりと書いているのは、
「死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら」ば、復活があります。ということです。

『十字架の死、そして復活。』それが完全であります。
十字架だけで終わったら、神様は、その信仰は虚しい信仰であると語ってあります。

イエス様が死んで蘇ってくださらなかったら、私たちが信じても先に希望がないです。
イエス様は復活した理由を色々と語ってあります。

― イエス様が復活した目的はわかりますか?
ただ私たちに永遠の命を与えるために復活をしたのでしょうか。 ―

復活のことを知るには福音書を開くことが多いですが、今回はあえて福音書は開かず、
ローマ書はキリスト教の教理がすごく書かれてあります。
キリスト教とはこういうものなんだ、キリストを信じるということはこういうものであるんだ。
そして復活に対してもローマ書が一番多く書かれてあります。

①【ローマ書1章4節】

神の子であることを神様は復活によって人々の前に示しました。
これはイエス様が十字架になぜ架かったのか、どんな罪を被せられて十字架に架かったのか。
ユダヤ人達、律法学者、パリサイ人、祭司たちはイエス様が死ななければならない大きい罪は
自らを「神の子だ」と言っていることでした。彼は神を冒瀆する者である、と。
神聖冒瀆罪でイエス様は罪にされました。
そのまま死んでしまったならば彼らの言葉通りになっていましたが 
(やはり神の子ではなくただの人の子だったんだ)
ですから神様は、復活をさせて神の御子であることを示しました。
死者から復活した者はいませんが、イエス様は神の子であるので復活できました。

②【ローマ書4章24-25節】

私たちが義と認められる為です。
イエス様が十字架に架かるということは、私たちの罪の為であります。
そこで流した血によって私たちは洗われました。
それだけではなく、蘇ったことを信じる者(十字架を信じ、復活も信じる者)は信仰を義と認められます。
神様が認める義がないと私たちは天国に入ることはできないです。

自己義では入れないです。「私はこういう良いことをしました。だから私は罪のない者です。」
これでは天国には入れません。

【ローマ書3章28節】

十字架を信じる、復活を信じる。これだけで神様は私たちを義と認めて下さいます。

③【ローマ書6章4節】

私たちも、命にあって新しい歩みをするためです。私たちも古い物ではなく、新しい物で復活しました。
イエス様もそうでありました。十字架の前に歩んだ姿と、十字架があり復活もあった後の歩みが違うものでした。
十字架の前の歩みは人間として生きていました。
しかし、復活によってイエス様は再び元に戻り、神として生きます。
人の子として生きることはしないで、神様から力を受けて勝利し、今も神の右の座に座っておられます。

クリスチャンも同じであります。イエス様に出会った後からは歩みが全然違います。
天国に向かって命の道を歩んでいる者であります。
それ以前は全て滅びに向かって死の道を歩んでいた者でした。
しかしイエス様の十字架に出会った時に、
私たちは死んで命を受けて新しい歩みをするために復活の命が与えられてあります。

④【ローマ書6章5節】

将来、私たちも復活します。それの為に、イエス様は復活してくださいました。
前もってイエス様は復活はどういうものであるのかを見せてくださいました。栄光の姿でありました。
「あなたたちも将来、復活する時は私と同じ身体に復活するんだ」

⑤【ローマ書6章9-11節】

死がキリストを支配することができないように、死が私たちを支配することができません。
復活の命を持っている者の上には死は何も力がないです。
神に対してあなた達は生きた者だと思いなさいとおっしゃいます。
これは私たちが死んだ時に経験すると思います。今は肉体が生きているので、
「今生きている」としか考えませんが、肉体を脱ぎ捨てた時には命ある者と命のない者の行く道は
全然違います。
ですからキリストにあって命をもらっていない人は、第2の死が待ってあります。永遠の死です。
永遠の死は無くなって消えるものではなく、永遠に苦しみを受けることです。

しかし私たちが受けているものは永遠の命であります。
死がどんなに力を振って私たちを第2の死に落とそうとしてもできません。
復活の命はそれに飲み込まれません。

⑥【ローマ書7章4節】

目的は「神のために身を結ぶようになるため」です。
神様を信じる人は自分の為に生きるのではないです。聖書に神の栄光の為に生きなさいという言葉があります。
私たちが枝として、ブドウの木であるイエス様に繋がっている状態であります。

イエス様に復活の命がありますので、その力が私たちに流れてきますので聖霊の実を結ぶことができます。
聖霊の実は、イエス様から聖霊の力をもらって命をもらわないと結ぶことができないです。
離れたら命は消えてしまいます。

地上にいるときは命をもって神様のために実を結ぶ者にならなければいけないです。

⑦【ローマ書8章11節】

目的は「あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる」のです。
イエス様がなさったことは全部私たちの為であります。自分の為ではないです。
自分を通して全ての恵みを私たちに流すために、イエス様は十字架の死も復活もこの世に来られたことも
再臨することも全部私たちの為であります。無関係のことは1つもなさらないです。

復活したことも私たちの中にイエス様は御霊を送ってくださいました。その方は命であります。
その方が自分の命の中に住んでおられるならば死ぬことがないです。

サタンが持っているのは死の力であります。
死の力ということは私たちが罪を犯した時に入ってきた力であります。サタンは必ず死を持ってきます。
魂、肉体を殺していきます。ですから悪霊を受け入れている人には死しかないです。

聖霊様は命であります。命が入ってくるならば私たちの肉体が死んだとしても、その命にあって必ず生きます。
魂だけ生きるのではなく、死んだ身体さえも命を与えて栄光の姿に変わっていきます。

⑧【ローマ書8章34節】

罪に定められないようにするために、イエス様は復活されました。
罪に定めようとするのは、サタンであります。
サタンは神の前で訴える者であります。それは私たちに対して弁護士の役割をするのではなく、
まるで裁判にある検事と弁護士の検事です。
弁護士は罪を犯したことを知っていても、弁護をしてくれる存在です。検事と弁護士はいつも対立します。
私たちのとりなしをしてくださるのはイエス様であります。
神様は裁き主であります。サタンは「この者はこんな悪い事をしました。
あんな悪い事をしました。」と私たちが生まれた時から犯した罪のことを言って、
サタンは自分のことは棚に上げて私たちを地獄に落とそうとします。

そこで立ち上がって私たちをとりなして弁護をしてくださるのはイエス様であります。
「この者は罪を犯しました。しかし私を信じて罪が赦されました。私を見てこの人を赦してください。
 私はこの人の為に十字架に架かりました。」 
私たちが罪に定められることがないように、イエス様がずっと言ってくださいます。
イエス様が死んだままなら、誰も私たちを弁護してくれる人はいないです。

⑨【ローマ書10章9節】

私たちを救うために。私たちが救われることは、ただ罪が赦されるだけではないです。
それは2つあります。罪が赦され、そして永遠の命を受けることであります。
イエス様が死んでくださったと信じる時に罪が赦され、
イエス様が復活したことを信じる時に私たちは永遠の命を受けます。
この両方であります。これが本当の救いであります。

ですから苦難から救われる、病気から救われる。それが私たちの救いではないです。魂の救いのことです。
私たちが神様と交わりをして霊が救われないと、私たちは神様と何も関係のない者になり、
永遠の死を迎えるしかないです。
ですので私たちの信仰にはキリストの復活も入っていなければいけません。
その復活を信じなければいけません。
「十字架は信じても、復活は誰かの作り話でしょう?」 それならばその人の信仰は命とは関係がないです。
それは本当の信仰ではないです。

⑩【ローマ書14章9節】

目的は「死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるため」です。
この地上の真の神様はキリストです。キリストは人々に命を与える方ですが、裁き主でもあります。
肉体は生きていてもキリストから命をもらっていない人は既に死んであります。
「私の肉体は生きているけど?」 神様はそれは塵に過ぎないものだとおっしゃいます。

中に命を持ってある人こそが「生きている」者であります。キリストは全ての物に対する主であります。
命の主でもあり、死んだ者たちに対しては裁き主であります。
死んだ者には何も力がないです。命を得ている者が弱そうに見えても一番強い者であります。 

キリストはこのような目的で復活しました。
ですから復活を信じる皆さんは、何故イエス様が復活したのかをローマ書で今日挙げた言葉を覚えてください。

人に伝える時に十字架だけ伝えたら、それは50%しかなっていないです。
必ず復活を言わないといけないです。十字架の目的と復活の目的を両方語って、
それが完璧な福音であります。
それを聞いて人々が信じるならその魂は救われます。
自分の中にそれをしっかりと留めておいてください。(⌒∇⌒)

2012.4.8
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

人間としての苦難

テーマは『キリストの苦難の特徴』です。

【イザヤ53章1-9節】

イザヤ書53章はイエス様に対する預言であります。人間として苦難を受けている姿です。
4月8日はイースター(復活日)です。
復活があるということは、その前に人間としての苦難とイエス様の十字架の死があります。

人間としてイエスキリストがどのような苦難を受けたのか学んでいきます。

― ①人間としての苦難 ―

イエス様はさげすまれた人生を送りました。 1ー4節まで苦しみ、苦しみ、苦しみ・・・
人間として受けた苦しみがずっと書かれてあります。
イエス様が生まれた時の姿もそうでした。産婦人科で産まれたわけでもなく、自宅でもなく、場所もなく、
馬小屋の暗闇の中でイエス様は産まれました。小さい時もずっと貧しい生活をしていました。
人間として生まれてあらゆる苦難を受けました。

この地上で贅沢な生活をするために、幸せに生きるために、イエス様が来たのではありません。
イエス様が人間の姿で生きるということが預言されています。
人は産まれてその人生が幸せになることを願っていますが、不幸な人生だと「自分は何の為に生まれたのか?」と
自分を責めたり、周りを責めたりします。

幸せになるのが当たり前だという思いがあります。
しかしイエス様は産まれる700年前からイザヤ書に書かれてありました。
人間としてすごく苦難が多いということが預言されていました。

誰よりもイエス様は人間としての苦難が多かったです。
人間が感じる悲しみ、辛さ、苦しみ、寂しさ、全てを体験しました。
私たちと同じ身体を持って、生まれてずっと命を狙われていました。
宗教の指導者達も常にイエス様の命を狙っていました。

人間としての苦難の姿がここにありますが、イエス様ご自身の為ではなく、私たちの為でした。

【ヘブル4章14-16節】

人間としての苦難を受けていないならば、人間にできないことがあります。
イエス様が苦しみを受けましたので、人間がいちいち語らなくても、イエス様は感じます。
悲しんでいる人を見ると、イエス様は人間の弱さがわかるので同情します。
人間の肉体が弱いことも知っておられますので、イエス様は同情をしました。

イエス様ご自身も弱さを持っておられましたので、私たちを生かし、受け入れ、憐れんで助けてくださいます。
そして恵みを与えてくださいます。

もし(天には)神様だけで、イエス様が地上におられなかったら、私たちが地上で「苦しいです~!
イエス様助けてください!」と叫んでも 「何が苦しいんだ?」と、多分同情できないと思います。
その立場に立っていないからです。
イエス様は神様と同じ方でありますから、それは父なる神様が痛みをこらえながらイエス様を人間として送ったことを意味します。

神様が「行って、苦労してきなさい。もっと人間が持ってる弱さを体験し、苦しみを体験して、
彼らの為に働きなさい。」とおっしゃったので、イエス様が来てくださいました。

憐れみを受けるのはイエス様が体験したから私たちが受けるのです。
何もしていない者に恵みを与えるのは、体験したから助けたのです。その人達を助けて導きたいです。
イエス様が人間としての苦難を受けたからで、自分が何か間違えた事をしたのではなく、
怠け者だから苦難を受けたのではないです。努力していないから苦難を受けたのではなくて、
それも私たちの弱さを同情して憐れみをもって助けるために、イエス様自らがその苦難を受けました。

【マタイ27章39ー44節】

イエス様が人間として苦難を受けた姿が出ています。
十字架で苦しんでいる上、周りの者達はさらに罵りました。
私たちがイエス様の立場に立ったとしたらどうでしょうか?
苦しいのに、人々がそれを見て可哀想にと誰も思わないです。
イエス様に従った人達は助けたい思いはありましたが、それ以外のほとんどの人達は罵っていました。
こんな苦しみは耐えられないと思います。死ぬ直前まで人間としての苦難を受けていました。
有り得ないことですが、実際にあったことです。

私たちは苦しみに遭うとすぐに逃げようとします。だから多くの人達が命を絶っています。
3月になると特に自殺する人が多いです。経済、病気、問題などで苦しいことがあると絶ってしまいます。

もし自分が苦しい立場に立っているならば、このイエス様の姿を思い出すべきです。
十字架の上で鞭打たれて身体が全て割かれて痛いのに、そこに更に人々は追い打ちをかけます。
罵られてもイエス様は静かにしていました。

イエス様は他人を見て「(自身の人生を)こんな人生」と言ったことはありませんでした。
初めからその苦難を受け入れました。

ー②人間のための苦難ー

【イザヤ53章5-6節】

意味のない苦難ではないです。意味のある苦難であります。
罪のないイエス様が、罪人たちの罪を贖うために苦難を受けました。

【Ⅰペテロ2章24節】

【Ⅰペテロ3章18節】

すごく尊い目的を持ってイエス様は来られ、その目的通りに苦難を受けました。
それは受けなければならない苦難でした。
悪い人々の身代わり、悪い者たちの代わりにイエス様が全部罪を背負って死なないと贖いの道が
開かれなかったです。そのためにイエス様は十字架という苦難を受けないといけなかったのです。
罪人達が死ぬべきところを代わりにイエス様が(十字架に)架かって死にました。
これは目的があってなされたことであります。

それによって私たちが受けた祝福が2つあります。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

①神の敵として生きていた私たちが、神様との関係回復が行われたこと。
エペソに「隔ての壁が イエス様の十字架によって壊れ、神の敵だった者たちが和解して神様の家族になる。」
しかし、神の敵として生きている人が多いです。
それを信じて受け入れた人達には、その祝福がそのまま流れます。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

②死の病気から解放され、そして霊肉とも神様が強くしてくださる祝福が与えられました。
私たちの霊が癒されたことを意味します。
ただ「病気が癒されました。」ではないです。
「死にました。」しかし、イエス様の血潮がそこに流れていくときに死人が生き返る祝福が与えられてあります。
私たちは霊的死んだ者は、人間に死にます。

しかし霊が生かされることによって永遠の命の中で力強く働きます。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

ー③人間による苦難ー

【イザヤ53章7-9節】

サタンが現れて苦しみを与えたのではないです。人々がそうしました。
祭司たちが、民たちが、ローマの兵士たちがそれをしました。

【マタイ27章27-31節】

人間がイエス様に苦しみを与える姿が出ています。
想像してみましょう。イエス様の立場を自分たちの立場だと思ってください。

~ イエス様の周りに隊が集まったのは何人だと思いますか? ~
100人です。そこに百人隊長がいたからです。
100人の男の人達が集まった中に、イエス様が1人でした。
彼らはからかい、面白がってすることでありました。100人の前で侮辱を受けました。
つばきをかけました。犬に対してもつばきはかけないと思います。
これを人間にするということは最も軽蔑することであります。

こんな侮辱、耐えられますか?私たちならば早く死にたいと思います。こんなに恥ずかしいことはないです。

これで解放されたわけではなく、さらに十字架にかけられました。
誰が耐えられますか?それをイエス様は人間から苦難を受けました。

しかし復活されました。
今もイエス様は生きておられます。私たちはイエス様に対してどうしているでしょうか?
イエス様が今も死人であるならば、私たちが何をしても感じないと思います。

再臨なんて有り得ないとか、イエス様は死んでいるから聞いているはずがないとか
イエス様に対して悪を働く者たちがその時になって驚くことになります。

自分達がイエス様の前で行っている姿が、こういう兵士たちがやっている姿なのか?
私たちの口から出る言葉がイエス様に対するからかう言葉でしょうか?軽蔑する言葉でしょうか?
時には、罵る言葉でしょうか?直接「呪います」とは言わなくても、「あんたなんか信じたくもない」と。

自分が感情的になって主の前に語る言葉は、すごく恐ろしい言葉であります。

【ヘブル4章13節】

神の前に立つ日が来ます。
≪あなたは私に何をしたんだ?≫ 私たちがどんなに隠そうとしても隠せないことであります。
その時になって恥をかきます。隠したくても、神の目にはそれは不可能であります。

今の私たちの行動が、イエス様が十字架にかかる前の人々の行動と似ている行動をするならば、
私たちはその仲間であります。
つばきをかけなくても、私たちの口から出る言葉がつばきをかけることと同じであります。

苦難の後に蘇ったイエス様は今も私たちの全てを見ておられます。

イエス様の前で私たちはまず何をしたら良いでしょうか?
「あの苦難は私のための苦難であったんだ。私の罪のため。
イエス様が人間の姿で来なければならなかったのも、イエス様が討たれたのも、私の罪のため。
そして私がイエス様にも十字架を知る前にそういう風にイエス様をからかった者であった。
イエス様を罵った者であった。」

以前はそうでありました。今はそうであってはいけないです。
今はその主に対して心を開いて受け入れて感謝して、それからみことばに従順する人。
これなら私たちは問題ないと思います。

イエス様が願うのは、それであります。 ≪ 私の前で生きる者になりなさい。≫

イエス様が来られた時も、神の前でも主を喜ぶ姿で生きるならば、私たちは恥をかかずに済むと思います。
その姿で生きる者になりましょう。

2012.3.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

livedoor プロフィール
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

(^^) からし種 に投票してね
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ