からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

八戸ノ里キリスト教会より メルマガ配信中!

メルマガ購読・解除

読者購読規約
毎朝7時に配信しています! 1日の始まりを神様の恵みで満たしてくださいね
powered by まぐまぐ!
 
         

従順

謙遜の衣を着る

テーマは 『 謙遜の衣を着る 』 です

ハレルヤ。

主の御名をほめたたえます。


信仰告白をしてイエス様を信じて長い年月が過ぎたにも関わらず、人格も行動も変わっていない人の問題点は何でしょうか?


“自分は信仰がある”と言いますが、聖霊に逆らっている人が多いです。


最近、韓国で名の知れた牧師先生の目のあたりにアザが出来ていました。

その先生とは、私も大阪で一緒に食事をしたことがあります。

謙遜な先生で、貧民たちがいるところで教会を開拓し、彼らの世話をしていました。


そして、その教会がある程度大きくなった時に、他の先生を後任者にして自分はそこを去り、田舎の方で また開拓しました。


そして最近、教会の創立記念日が近付いたので、それに参加したい意思を伝えました。

そうしたら、そこの教会から何人かの信徒が訪ねてきました。


理由は“来てほしくない”と言うためでした。

彼らは牧師に対して誤解していました。


再び牧師として戻るのではないかと思って、それを止めたくて来た人たちでした。

その中のひとりの長老が帰り際に、いきなり牧師の顔を一発殴りました。

その長老は、18年前から一緒にいた信徒でした。


そして、その信徒たちは帰っていきました。

牧師は突然殴られたのでびっくりしました。


噂を聞いて、記者が訪ねてきて「その信徒を傷害罪で訴えますか?」と聞かれた時に、牧師は「そんなことはしない」と、はっきりと言いました。

信徒を訴えることは出来ません、赦します、と言いました。


相変わらず謙遜な先生でした。

その態度に安心しましたが、その先生を殴った長老に対して考えてみました。

牧師が何もしていないのに、暴力を振るったことが理解できませんでした。


しかし、聖書の中で答えを見つけました。

敬虔なステパノがユダヤ人たちに語ったことばで分かりました。


【使徒の働き7章51-54節】

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

すなわち、神の教えを聞き、世話をしてもらっても いつもその心が高慢で、心を頑なにしていると、うなじのこわいものになって 神のことばには不従順、聖霊には逆らいます。


心と耳に割礼を受けない者は、いつまで経っても人格も性格も態度も変わることがありません。


彼らに対して預言者はこのように言いました。


【エレミヤ書6章10節】

私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。

私たちは、心と耳に割礼を受けて、神のことばを聞いたら 真理を悟って従順する人になりましょう。


そして謙遜の衣をいつも身にまとうようにしましょう。
(・◇・)ゞ

2016.1.16
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

教会の奉仕

テーマは 『 教会の奉仕 』 です

【第1コリント12章5ー7節】

奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

イエス様こそ神に仕えた最高の奉仕者でした。

父なる神のみこころに従って、人々に仕えるために休む間がないくらい よく働きました。


夜は1人で神にお祈りをしていましたので、いつ寝る時間があったのかと思うほどです。


弟子たちと船に乗り、突風のせいで、船が揺れ、船の中が水浸しになった時 イエス様だけがぐっすり寝ていたのは、たぶん寝不足が続いて熟睡していて何も気づかなかったと思います。

寝たふりしたわけではないですね。


弟子たちも実によく働きました。

イエス様に見習って、1人1人が立派な奉仕者でした。


神から私たちはキリストのからだの器官であると言われましたが、それは “器官としての機能をしなさい” という意味が含まれてあります。


機能しないと器官としての意味がありません。


最近YouTubeで何万人も集まる韓国教会の聖歌隊の賛美を聞きましたが、聖歌隊員の数がものすごく多くてびっくりしました。何百人もいました。

その教会より人数が多い教会でも、一度に集まる聖歌隊員は100人前後ですから、その教会はそれよりも何倍もの数だったので びっくりしました。


それを見て感じたのは、聖歌隊の奉仕が1番人気があるのかなと思いました。

目立つところに、それも指定席のように、決まったところに座りますね。


大きい教会でも 実際は、様々な部署で奉仕者が足りないのが現状です。

清掃の奉仕とか食事当番とか、こどもの世話とかはあまり人気がないですね。

それでお金を払って人を使ったりします。


ある5000人集まる教会で、実際 奉仕している人を調べたら1500人くらいでした。

それは少しだけでも奉仕をしている人を入れた数です。


すると残りの3500人は何もしていないことになります。

すなわち失業者が3500人もいることです。


それは、イエス様の体の器官としての活動をしていないことを意味します。


何もしないことが楽で良いことでしょうか?

もし皆さんが社会で失業者の立場ならば、早く仕事に就きたいと焦る気持ちになると思います。


”神への奉仕を何もしなくて良いだろうか?“ということも考えないといけないです。


神は私たちに御霊の賜物を1人1人に与えて下さいました。

それは働きをさせる目的があったからです。


みなの益となるために 神様は私たちを選んで賜物を与えました。


その賜物を活かして働くことが奉仕です。






奉仕の精神は、イエス様から学ぶ事が出来ます。


【マルコの福音書10章45節】

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

これが基本的な奉仕の姿勢で、人に仕えることが奉仕の姿勢です。


クリスチャンが他の人から仕えられることだけを期待するならば、他の人に仕える機能を失ってしまいます。


教会に対して 愛がないとか非難的なことばを口にする人の中には、自分から人に仕えたことがない人も多いです。


いつも “してもらうことが当たり前” だと思っています。

それはみことばとは違う態度です。


私たちは、互いに仕え合うようにと言われています。

クリスチャンは主のしもべとして 人に仕えるように選ばれた人たちです。


父なる神もイエス様も聖霊様も弟子たちも みな人に仕えました。


その精神をもって聖徒たちは、体の器官として互いに仕えなさいと主から言われています。


奉仕にも働きにもいろいろあると最初から言われました。

それは同じ神様がそのすべての働きを任せて下さいました。


次の箇所にその様子があります。


【マタイの福音書25章15節】

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

それで終わりではないですね。

よほど経ってから しもべたちの主人が帰って来て しもべたちと清算を始めました。


その中で一タラントもらったしもべだけに予想外の問題が生じました。

彼はもらったものを、地を掘って隠して 何も仕事をしませんでした。


他のしもべたちが様々な活動をしていた時に、彼は神の働きに無関心で自分のことだけをしていました。

きっと本人はそれでも大丈夫だと思ったことでしょう。


しかし主人は怒りました。

その態度は、主人への不従順な態度です。


主人は彼を厳しく叱りました。

そして主人は次のように語りました。


【マタイの福音書25章30節】

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

このように命じました。


これで分かるように、自分に与えられたタラントと役割を決して ないがしろにしてはいけないです。


それを小さく考えてもいけないです。

神との清算が始まると大変なことになってしまいます。






また、奉仕はどこでするものですか?


もちろん教会の中にありますが、教会だけに限られているわけでもないです。


ある熱心なクリスチャン主婦が奉仕したい気持ちはたくさんありましたが、時間もお金も足りなく、奉仕の機会も与えらず悲しんでいました。


いつものように神の前に座って、自分の事情を話しながら、奉仕の道が開かれることを祈っていました。

すると小さい娘が近づき、やぶれた人形を直してほしいとせがまれました。


しかしそのお母さんは祈りが邪魔されたことが気に入らず、娘を叱って追い出しました。

祈りが終わって娘の所に行くと、娘は泣いて寝ていました。


その時に神様の声が聞こえました。

「どうしてあなたは手軽なことはないがしろにして、大きなことだけを求めているのか。」


それから彼女は心を変えて、すぐに出来る善行、近くにいる人への伝道奉仕を始めました。

後に さらに大きく神に仕える働き人になりました。


神様への奉仕でほめられた人たちを見ても それが言えます。


献金箱に1番たくさんのお金を入れたとほめられた人物は 金持ちではなく 1番貧しいやもめでした。

彼女にとっては自分に出来る最高の奉仕を主にしました。

自分にある生活費全部を献金箱に入れました。


離れた所で見ていたイエス様がそれを知り 感動しました。


感謝の心が見え、喜んでささげる姿は 主に仕える奉仕の姿です。


イエス様に高い香油を注いだ女性も イエス様にその奉仕のことでほめられました。


主のために自分が出来る大きなことはないと言わないでください。

小さなことのように見えても、それは重要なことです。


小さな奉仕が神の国を広げ、魂を救い、神様を喜ばせます。


裸の者に着るものを与え、病気の人を見舞い、空腹な者に食べ物を与えることも 主に対する奉仕です。

奉仕をする人は与える人で、神の国に投資する人です。


受けることばかり求める人は、与えることを投資だと思っていないです。

とにかく、その人たちは 手元に積み上げようとする人です。


しかし与える人が勝利し、受けてばかりの人は失敗します。

与えられた働きを一生懸命にやった人たちに対して、主はこのように語りました。


【マタイの福音書25章21節】

『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

奉仕によって一番恵まれるのは、奉仕をした “本人” です。

神は絶対に ただ働きをさせる神ではなく、たくさんの利益を与えて下さる神です。


たくさん奉仕をした人は、天国に行くのも楽しみです。

自分のために どのような住まいが用意されているのかが知りたいですね。

どんな報いがあるのかが期待できますね。


働く時間はあまり残されてないです。働ける時に熱心に働いて下さい。


奉仕も喜んでして下さい。


主が注目していますから。
( ̄ー ̄)


2016.11.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

実が結ばれる良い地

テーマは 『 実が結ばれる良い地 』 です

【マタイの福音書13章8節】

別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

【マタイの福音書13章23節】

ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

マタイの福音書13章には種まきのたとえがあります。


四つの異なる所に同じ種が蒔かれました。

すると、まったく実りがない所があれば、豊かな実を結ぶ所もありました。


今回の本文は、豊かな実を結んだ良い地に対して語っています。


私たちも出来れば多くの実を結びたいと願っていますので、どうすれば良い地になって実を結ぶことが出来るかを学びたいと思います。




柔和で謙遜な心は良い地




普通に考えても悪い心から良い実を結ぶことは不可能です。

悪い心からは悪い実が結ばれます。


ですから、良い心から良い実が結ばれることは 神の法則です。

柔和な心は柔らかい心です。


私たちがある人を見て「あの人はいい人だ。」と言う時があります。

柔らかさや暖かさを態度や声で感じると 好印象を受けて、良い人だと思い込みます。


新約聖書で柔和な人で思い浮かぶ人は バルナバです。

“慰めの子” と呼ばれました。


彼の行いを見ると、神の言葉を聞いた時に感動を受けて、自分の畑を売り その代金を使徒たちの足もとに置きました。

大金だと思いますが、それを自慢することもなく、身をかがめて使徒たちの足元に置きました。


そしてもう1つは パウロが回心した後、皆はそのことが信じられず、パウロを恐れて近づかなかったですが、バルナバはパウロを引き受けて、使徒たちに紹介しました。

柔和な人なので、人にとても優しいです。


彼のことを聖書はこのように言いました。


【使徒の働き11章24節】

彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

これは良い実を結んだ姿でしたので、多くの人々が導かれました。






モーセは謙遜な人でした。

普通の謙遜ではないですね。
次のような評価をもらうこと自体、すごい人だなと思いました。


【民数記12章3節】

さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

彼が立派な指導力を発揮して、自分の役割を果たすことが出来たのは、彼の心が良い地であったからです。


心の土壌が荒っぽく かたくなな人は、絶対に立派な人格を備えることが出来ないですし、立派な人生を歩むことも出来ません。


イエス様の謙遜もすべての人にまさっていました。

自ら自分のことを次のように言いました。


【マタイの福音書11章29節】

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば安らぎが来ます。

そのような心があるので 罪人を招き、問題のある人を受け入れ、助けを求めるひとを拒みませんでした。

パウロもその心を見習い、柔和で謙遜な人になりました。

ですから私たちにも良い心になるように命じました。


人を自分よりもすぐれた者と思う心がまた 良い実を結ぶ謙遜な心です。


謙遜と柔和の土壌から良い実がたくさん結ばれます。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

良い地から結ばれる実です。




◎従順する心に良い実が結ばれる




私たちの人生で、良い実を結ぶためには 土壌だけ良ければ、あとはいらないことではないです。


良い土壌に実を結ばせるためには、聞く耳をもって主のことばをよく聞き、そして聞いたことばに従うことです。


【第1サムエル記15章22節】

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

知識ある人も才能ある人も 誰でも実を結ぶためには、主のことばを聞かなければなりません。


御言葉をないがしろにするならば、良い実を結ぶことは出来ません。


御言葉を聞いて、すぐ実行に移すことを “従順” と言います。


いくらみことばの知識をならべても、理論を立てても、行いが伴わないと 実を結ぶことは出来ません。


従順も、“完全な従順” が実を結びます。


聖徒の中でも、聞くことは聞きますが、実行せずにそのままにしている信徒が多いです。

いくら悟っても従順しないならば、価値がありません。

主は天国に入る資格でも次のように語りました。


サウロ王はみことばを聞きましたが、完全な従順ではありませんでした。

それでサムエルが今回のことばを彼に語りました。


主のみこころを知っていても、それを行わないならば天国に入れません。
そして良い実を結ぶことも出来ません。




忍耐する心が実を結ぶ




忍耐は、まず希望をもって忍耐することです。
希望があると忍耐出来ます。


自分の人生の土壌に 実を結ばせたい人は、忍耐することを学ばないといけないです。

忍耐できる土壌は良い土壌です。


いくら実を結ぶ完璧な条件が揃っていても、忍耐出来ないならば、実を結ぶことは出来ません。


ヨブは忍耐の人でした。

すべてが取られ、人生最悪の苦難を受けていましたが、神を呪うことも、神から離れることも、つぶやくこともせずに ひたすら忍耐していました。


忍耐の中での彼の告白でわかります。


【ヨブ記23章9-10節】

左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。

彼のことをヤコブ書にはこのように書いてあります。


【ヤコブ5章11節】

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ヨブは試練の以前よりも試練に耐えた後にさらに豊かになりました。


農夫が 暑さや疲れにも耐えて熱心に働くのは、豊かな収穫を期待するからです。

収穫が農夫の希望です。


忍耐は最後までしなければ、実を刈り取ることが出来ません。


もし途中で諦めるならば、それまでの忍耐も労苦も報われません。


選手がゴールまで辿り着かないと失格になります。

勝利することは出来ません。


リンゴも梨もぶどうも完熟まで待たないと 甘さが足りないので、美味しいとも思わないです。

完熟するまで忍耐が必要です。


【ヘブル10章36節】

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

熱心さも才能も重要です。

しかしそれが全部揃っても忍耐出来ないならば、実は期待出来ません。


主は、私たちが実を結ぶことを期待します。

良い実を期待します。


私たちが実を結ぶ時に、私たちが主の弟子であることが認められます。

それは私たちの土壌が良かったことを意味し、そこに柔和と謙遜な心、主のことばと従順、忍耐がすべてあったことを証明します。


自分の状態をよく見て下さい。

それらのものが揃っているでしょうか。


良い地になるように、日々よく管理しましょう。
(。・ω・)ノ゙

2016.10.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

聖霊に満たされるためには

テーマは 『  聖霊に満たされるためには 』 です

【使徒の働き11章24節】

彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

「使徒の働き」を読むと 主の十二弟子以外にも多くの弟子たちが素晴らしい活動をしたことが記録されてあります。

彼らは十二弟子と変わらない多くの働きをしました。


バルナバは、主の弟子になり、後に偉大な使徒になるパウロを最初に助けた人でもありました。

彼は多くの人々を主の弟子にしました。


それはイエス様から次のように言われた通りの働きをしたことを意味します。


【マタイの福音書28章19節】

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

立派な働きをした弟子たちに共通するものは、聖霊と信仰に満ちた姿でした。


聖霊充満な人は信仰充満な人です。
信仰充満な人は聖霊充満な人です。


信仰がない人は 弟子にはなれませんし、弟子を作ることも出来ません。

そして信仰のない人を神様が用いることもありません。


主の弟子になり、弟子を作る人たちは聖霊充満な人たちです。


聖霊に満たされないと、自分の知恵や力、自分の思いで働くので 神様が喜ぶ働きも勝利の信仰生活も出来ません。


ですから神様は、私たちに “聖霊に満たされなさい” と命じました。


聖霊は、神様が遣わして下さった神の霊です。

私たちを助け、私たちが勝利ある信仰生活が出来るように、また聖霊の力を受けて立派な働きが出来るように助けて下さいます。


信仰生活のために聖霊を受けることは当然です。

聖霊を拒否することは、神を拒否することと同じです。


神を拒否しながら どのような信仰生活を送りますか?

それは むなしい信仰生活で、自己満足に過ぎないので 神とは関係がありません。


聖霊を受けた使徒や弟子たちの働きは、すなわち聖霊による働きでした。
聖霊なしには不可能な働きです。


ですから「使徒の働き」の中に “聖霊” という言葉がたくさん書かれています。

「使徒の働き」を読みながらチェックしてみて下さい。


彼らはどのようにして聖霊に満たされたのでしょうか?

―― 聖霊に関して主が命じた言葉に彼らが従順したので 聖霊に満たされました。


主が聖霊に関して命じたことは何でしょうか。




聖霊を受けなさい





【ヨハネの福音書20章22節】

そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

聖霊は主の霊ですから、もし私たちが主の霊を受けないと、私たちは主の者ではありません。自分の中に聖霊を受け入れることで、聖霊が自分の心の中に住みます。



【第1コリント3章16節】

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

そしてイエス様は次のようにも語りました。


【使徒の働き1章8節】

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

弟子となり キリストの証人になるためには聖霊なしでは不可能です。


ですから聖霊は主のことば通り、必ず受けなければなりません。




御霊を消してはなりません




このことばは次の箇所にもあります。


【第1テサロニケ5章19節】

御霊を消してはなりません。

聖霊を消すことは、その指導を受けることを拒否し、聖書に明確に示された神のみこころに従わないで、それに逆らうことです。


御霊を消してしまうと どのような状態になるでしょうか?


1人の人物を通して 変わっていく状態を調べてみます。

イスラエルの初代王であるサウルは、当時の預言者サムエルを通して神のことばを受けました。


【第1サムエル記10章6節】

主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

そして、すべてのことが言葉通りにサウルに起こりました。


彼は聖霊に満たされ、新しい人となり、力を受けてイスラエルの初代王になりました。

神は彼の力になって下さり、王としての働きが始まりました。


しかし しばらく経たないうちに、彼が神を求めず、人間的な思いを優先にして、神の命令を知っていながらも従わず 不従順しました。

それも1度だけではなく、度重なる彼の不従順に聖霊は彼から離れていきました。


すると悪霊がチャンスを得て、彼の心を完全に支配し、その時から彼は悩まされ、ますます悪を行う者になっていきました。

聖霊を消すことは、悪霊を自分の中に招くことになります。


人間は霊的存在なので、肉体だけで生きることは出来ないです。

聖霊に支配されるか、悪霊に支配されるか どちらかです。


聖霊に逆らいながら 聖霊充満を求めること自体間違えています。

聖霊を消す人に、聖霊充満はありえないことです。


そして聖霊と常に人格的な交わりをせず、空気の存在のように無視したり、交わりをしないと それも聖霊を消すことになります。




聖霊を悲しませてはいけません





【エペソ4章30節】

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

聖霊を悲しませる行為は 罪から離れず、悪いことを行うことです。


聖霊は私たちを助け、私たちが多くの良いわざを行うことを願っているのに、私たちが良いことをせず、悪いことばかりを行うならば聖霊は悲しみます。

それは聖霊との関係を壊すことになります。


罪は聖霊を悲しませる最も大きな原因になります。


聖霊は罪から離れない人とは交わりが出来ません。


聖霊を悲しませると、だんだん罪が神との間に仕切りを造り、関係が悪くなり、祈りは聞かれなくなります。


ですから聖霊に満たされたいならば、罪を悔い改めて、悪から離れ、聖霊との関係を良くしなければなりません。




御霊によって歩みなさい





【ガラテヤ5章16節】

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。


【ガラテヤ5章25節】

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

御霊によって歩むことは、御霊に従順し、すべての罪を悔い改め、聖書にある主の命令に従順して生きることです。


生活全般において常に聖霊と共に歩みながら、聖霊のことばに従うと、他の肉の思いが心を支配することがないので、心の中はいつも聖霊の思いで満たされるようになります。


試合を控えた選手は、コーチや監督のことばには絶対的従順が要求されます。

もし言うことを聞かないならば、その選手はレギュラーから外されるか、試合に出ても負けます。


選手は良い成績を残すためにコーチの指導に全て従います。

どんなに過酷な訓練や暴言に 泣きながらもずっと耐えます。


人間に対しても そのように寄り添って歩むならば、自分のいのちの主、自分の人生を勝利に導こうとする聖霊によって歩むことは なおさら必要なことです。


私たちが本気で聖霊に満たされたいと願うならば、これらの条件を満たしていかなければなりません。

ある瞬間だけではなく、ずっとそれを継続していく時に、その人は聖霊充満な人になります。


その人は日々の生活で聖霊に導かれて歩みますし、主の弟子になりますし、主の弟子を作る人にもなります。

皆さんもこのようにして聖霊充満な人になりますように主の御名によってお祈りします。
(´・ω・`)


2015.12.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

幸いな人とわざわいに陥る人

テーマは 『 幸いな人とわざわいに陥る人 』 です


【箴言28章14節】

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。

人間にとって一番の願望は、幸せになることです。

また人間が一番恐れているのは、わざわいに陥ることです。


箴言28章14節には “幸せになれる人と、わざわいに陥る人” のことが書かれています。


今回は幸いな人とわざわいに陥る人に対して語ります。

決して難しい内容ではないので、聞く耳をもって聞いて下さい。




幸いな人はいつも神を恐れる人です




“恐れる” ことは神様を恐がることでしょうか?
そういう意味ではないです。

色々な意味がありますが、一番の意味は 真実な心と愛をもって神に仕えることです。


神は心を見抜くお方ですから、私たちが偽りの心で神に仕えても 全てお見通しです。

そして、私たちのそのような心と態度を忌み嫌います。


しかし神を信じる人が皆、神を恐れているでしょうか?


恐れる人よりは、恐れない人の方が圧倒的に多いです。


まずは神に対する真実な心があまりないです。

自分の都合によって神に近づいたり、距離を置いたり、離れたりといつも変わります。


その心や愛が本物には見えず、偽りが多いです。


皆さんの心はどうでしょうか?

何があっても神を愛する心に変わりはないですか?


イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロに対して 主が質問したのは1つでした。


「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と三度も聞きました。

自分のいのちが危なくなった時に、ペテロはイエス様を捨てて、「知らない」と言いました。


ペテロ本人はイエス様のことを他の誰よりも愛していると思っていましたが、実際その愛は 真実な愛ではありませんでした。


真実な愛は愛する相手と一緒に重荷を負い、死の道も一緒に歩みます。


私たちが神の愛を確認したのもイエス様の十字架でした。

神はその愛を、イエス・キリストを私たちのために十字架の上で死なせたことで見せました。



【ローマ5章7-8節】

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

愛にはこのように はっきりとした証拠が要求されます。

言葉だけの愛は真実な愛ではありません。


神を恐れている人には 真実な愛があるので、何があっても変わらない愛をもって忠実な態度で神に仕えます。


また神を恐れることばの違う意味は、神に従順することです。


従順のない礼拝に何の意味があるでしょうか。

従順のない信仰は偽善の信仰です。


神は偽善の信仰を一番嫌います。


神が私たちをどれほど愛しているかを私たちが知っていながら、その神に従順しないならば、私たちが 「神を愛する」 と告白しても、そのことばは偽善的なことばにしか聞こえません。

愛には従順が必須です。


ですから神は “わたしを愛する者は わたしのことばを守りなさい” と言われました。




神をどのように恐れるのか




神を恐れることは、生まれながらの人間には出来ません。

必ず神様の教えを学ばなければならないです。


神を恐れたことのない人間が、信じてすぐに変わるわけではないです。


神がモーセを通して律法を与えた理由は何でしょうか。


【申命記4章10節】

あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」

私たちが神を恐れ、神からの祝福を受けるためには、神のもとに来て学ばなければならないです。


ですから “神に仕える” と言いながら、神の言葉を聞くことを嫌がる人は 神に愛される資格がありません。


神はホセア預言者を通しても語りました。



【ホセア書6章6節】

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

ですので、ホセアは「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」と民に語りかけました。


どのようにして神を恐れるのかを 神から聞かないとその方法がわかりません。


主のことばを学ばず、興味も持たない人は神を恐れることを知らないので、神を恐れることもしないですし、神の愛も祝福も受けることが出来ません。




神を恐れる人が受ける祝福は何か




神を恐れる人は幸いであると初めから言いましたが、どのような祝福があるでしょうか。

神は蒔いた通りに刈り取る法則を作っておられます。


私たちが祝福を受ける目的で 神に仕えることをしなくても、神は初めから祝福を備えておられます。

祝福の約束が聖書に書かれています。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

この祝福は、この世で生きている間に受ける様々な祝福を意味します。


誉れは 他の人から尊敬される位置にまで上がって神に栄光を現します。

そして最も優れた祝福はいのちです。


いのちとは救いを意味し、永遠のいのちを意味します。


神を恐れる人に 神はこのような祝福を約束し、神の御国を相続させて下さいます。

そして神を恐れる人たちの祈りを神は喜んで聞いて下さいます。


神を恐れず自分勝手に生きて困った時だけ神に助けを求める人と、いつも神を恐れている人が神に求めた時に どちらの人が より祈りの答えを得ると思いますか。

断然、神を恐れる人の祈りです。


神は喜んでその人たちを助け、祝福を与えてくださいます。




心をかたくなにする人が陥るわざわい




かたくなな心に対しての聖書のことばは結構厳しいです。


“かたくなな心” とは、その心が石のように硬くて 神の恵みを受け入れることが出来ない状態です。


恵み深い神様はすべての人に恵みを注ごうとしますが、かたくなな心の持ち主はそれをかたく拒みます。


心を閉ざすので、神の恵みを受けることも出来ないですし、実を結ぶことも出来ません。

金槌のような主のことばで叩いても何とも思いませんし、聖霊の強力な火のようなことばを聞いても何も感じません。


聖書ではこのような人を愚か者と言います。


本人たちは自分を賢い人、慎重な人と思うかも知れませんが、神の目には愚か者に過ぎません。


その心は道ばたのような心です。

なぜ人の心がそこまでかたくなになるのでしょうか?
それは “罪” によるものです。



【ヘブル3章13節】

「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

このように言われたように罪の誘惑を受けると 心がかたくなになり、罪に落ちていきます。


私たちは毎日襲ってくる罪の誘惑を信仰によって勝たなければなりません。

私たちを誘惑する最大の敵は 外にあるのではなく、自分の中にあります。


自分の中にある罪の性質がいつも自分自身に戦いを挑みます。


パウロはこの激しい戦いのことで次のように語りました。



【ローマ7章19-20節】

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


【ローマ7章24節】

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


このように自分の中に激しい戦いがあることを語りました。


外からの誘惑、内からの誘惑に勝たないと ますます心は罪によってかたくなになっていきます。

この世の誘惑に負けると、この世のあらゆるものに心が縛られて、心が石のように堅くなり、なかなか癒されません。


心のかたくなな人が災いに陥る根本的な理由は、神のことばを聞こうともせず、そのことば通りに生きることをしないからです。

そのような人は神のことばを聞くことすら嫌がり、耳を塞いで 「聞きたくないから話すな」 と言います。


皆さんの中で 神のことばを聞きたくないと思っている人がいるならば、その人は自分の心がかたくなになっていることに気付かなければなりません。そして早く悔い改めることです。


心がかたくなになることは なぜ恐ろしいことなのでしょうか。


なぜ災いに陥りますか?


神様は心のかたくなな者に対して干渉せず、好き勝手に生きるように放置します。

するとその人の状態はどのようになるでしょうか。次の箇所です。



【ローマ1章24-32節】

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。


“死罪に当たる” ということばがあるように、最後は永遠の死を迎えるようになります。


自分の好き勝手に出来ることを喜び、地上で何も起こらないからと安心していても、永遠に消えることがない苦痛が待っています。


その人たちは自分自身でわざわいを招いていることに気付かなければなりません。

神を恐れることが祝福への道です。


皆さん全員が神を恐れ、幸いな人生になってほしいです。
(*´∇`*)

2015.9.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

神の約束を信じたアブラハムの信仰

テーマは 『 神の約束を信じたアブラハムの信仰 』 です

【ローマ4章19-21節】

アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

聖書から、“神のことばと信仰” を除くならば、何が残るでしょうか。

そして、それらを除いた聖書が私たちにどのような意味を残すでしょうか。
それは何の価値もないものになってしまいます。


信仰は神のことばと私たちをつなぐ役割をします。


いくら聖書が真理であり、いのちのことばだとしても、読む人に信仰がないならば聖書をどんなにたくさん読んでも、その人に聖書の価値はわかりません。


ただの一冊の本に過ぎません。


また、ある人が「自分には信仰がある」と言っても、その人の信じるものが真理のことばでないならば、その信仰はむなしいものとなり、その魂を救うことは出来ません。


アブラハムという人物は、“信仰の父”と呼ばれています。
神様は、アブラハムが見せた信仰を 良い信仰だと認めて下さいました。

それはアブラハムが神の言葉に対して信仰をもって受け止め、その信仰が最後まで生きていたからです。


アブラハムは神様を直接見たから神を信じたのでしょうか?

神を信じない多くの人は、「神を見せてくれるならば信じる」と言います。


高慢と不信仰な心で「神を見せてくれ」と言っても、神がその人に現れることはありません。

なぜなら神が認める信仰は、見て信じる信仰ではなく、見ずに神の約束を信じる信仰をよしと認めて下さるからです。


信仰がない人に神が現れるのではなく、信仰がある時に神を見ることが出来ます。

(ここで、「見る」というのは自分の肉の目で見るという事ではなく、心の目で見るということです。)


神のことばを信じる人は、心の目で神を見るようにして生きています。






アブラハムの信仰が、どのような信仰であったのかを見たいと思います。

アブラハムはある時に神の声を聞きました。それはアブラハムにとって初体験でした。


目で神を見たのではなく、聞こえてくる神のことばでした。

神から聞かされた内容はあまりにもスケールが大きくてよく理解出来ない神の一方的な約束でした。


【創世記12章1-3節】

主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

もし皆さんがこのようなことばを聞いたならば、理解できますか。
そして神のことばを理解できないまま、すぐに従うことが出来ますか。


すぐに出来るならば、アブラハムの信仰を認めた神が、皆さんの信仰を認めて下さると思います。

しかし出来ないならば、アブラハムの信仰を見習うことです。


アブラハムは神の約束のことばを信じ、主が仰せられた通りに出かけました。
冒険するには75歳という年齢は厳しいと思います。


しかし、アブラハムは従順出来ない理由を捜したのではなく、ただ神から言われた通りに従いました。


その時のアブラハムの信仰は、神に完全に従順する信仰でした。

信仰のない人から見ると無謀な人間に見えたでしょう。
“失敗したらどうするの” と心配する声が周りから大きくなるでしょう。



すぐに心配する人は、なかなか信仰が成長しないです。神のことばよりも自分の感情に忠実だからです。

そのような人は神の言葉よりも自分がどう思うのかが一番です。
自分が安心出来たら(言葉に)従うけど 安心出来ないと、神の言葉に頼るのが苦手です。


しかし アブラハムは神のことばだけに信仰を結び付けて従順しました。

簡単そうに見えても、人々はここで失敗することが多いです。


まずは「そんなことが信じられません、そんなことが起こるはずがありません」 と勝手に神様のことばをつぶして従うことはしません。

神がせっかく語って下さったのに、どれほど多くの人々が、自分たちの不信仰で神の言葉を無視するかわかりません。


まるで神様が嘘つき、詐欺師であるかのように「信じたらダメ」 と否定します。


アブラハムは信じて大胆に出かけました。
神様が喜ぶ信仰は、従順する信仰です。


信仰ある人は、自分の頭で理解出来ず 納得できなくても、神が語ったことばが一番で、そのことばに従います。


アブラハムの信仰は、神の約束を最初から疑わない信仰でした。

最初の神の約束のことばを疑わずに受け入れたアブラハムでしたが、すぐにその信仰が認められ、すべての祝福を受けたでしょうか。


現実はどうでしたか―?

75歳で従順して出かけましたが、25年間何事も起こりませんでした。
25年は決して短い時間ではありません。


自分ならばどうするのかと考えてみて下さい。

信じた私がバカだったと自分に対して腹を立てますか?
また、神様に向かって嘘つきと文句を言いますか。


たぶん私たちならば両方やっていると思います。

しかしアブラバムは、子孫が与えられる約束を受けたにも関わらず、いつの間にか100歳になり、生産不能になり、子を持つことが不可能になったにもかからわず、アブラハムは神の約束を疑いませんでした。


これは素晴らしい信仰です。






人々は信仰よりは不信仰を選び、信仰よりは疑いを選びます。

忍耐よりは諦めて、時間を無駄にするよりは他の方法を捜します。

しかし別の方法も見つからず失望して終わる人が多いです。


沖縄に行った時、海岸にある木を見ましたが、形がちょっとおかしく、木の葉や枝が不揃いでした。

台風が多いので、暴風で枝が折れたり、葉っぱが落ちた為だと思います。


でも激しい風の中でもしっかり立っているのは、植えられた所に、必死に頑張ってしがみついて 根を深く降ろしたから倒れなかったと思います。


疑いは二心です。どうしようかと迷う心です。

根を下ろそうか、やめようかと二心で戦いますが、そのような状態では立ってはおられません。

現実の強い風で倒されてしまいます。


アブラハムは自分や妻が年取ってこどもを産む力がないことを知っていても、信仰が弱ることもなく、神の約束を疑うこともなかった理由は、アブラハムが神の無限なる力と 神は約束を守る神であることを信じたからです。


【イザヤ書55章11節】

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

環境に左右されたり、自分の状態に左右されたりするのは信仰の姿ではありません。


神の絶対的な力と真実さに対する完全な信頼こそ、不可能に見える状況の中でも アブラハムを苛酷な現実から守る信仰の力になっていたと思います。


信仰は力です。

環境を見て信仰が無気力症にかかる人が多いです。それは信仰の根っこが弱いからです。


アブラハムも人間的な目で見ると、大いなる民族の先祖になることは想像出来ない状況でしたが、それでも信じたので 「信仰の先祖」 と呼ばれています。

この姿は私たちが見習わないといけないです。


次々と変わる環境や状況に振り回されて信仰の無気力症に落ちるのではなく、そのような時こそ忍耐をもって神の約束を堅く信じ、耐えることです。


その姿を確信に満ちた信仰と言えます。


確信とは、疑いが入る隙間もないほどに、自分に与えられた神の約束のことばと、神は約束したものを必ず成し遂げる方であることを心の中に満たすことです。


そして日々そのことを黙想することです。

まるでそのことが当たり前であるかのように思われると、信仰の根を深く降ろしたことになるので、過酷な現実の中でも倒れることがありません。


その人たちを倒そうとするサタンの策略も失敗に終わり、さらに試練の中で信仰は強くなり、成長していきます。


見えるものにすぐ心が取られたり、疑ったり、失望すると、倒そうとするサタンに隙を与えることになります。

現実的な可能性があったり、少しでも希望がある時は、信仰を守ることがそんなに難しいことではありません。


ところが、激しい試練や不可能な状況に直面すると、私たちの信仰は病にかかり 倒れやすいですし、疑いと絶望で揺れ動いてしまいます。


しかし、そのような時でもアブラハムがしたように、神に望みを置いて、神の約束を信じ続けるならば、神は約束したことを必ず成就して下さいます。


信仰が弱いと、神から素晴らしい約束を受けても、それを無駄にしてしまうことが多いです。

しかしアブラハムのようにするならば、すべての約束を自分のものにすることが出来ます。


信仰が弱くなったと実感する時は、アブラハムの信仰をもう一度学んで下さい。


彼が教えてくれます。
( ̄‥ ̄)=3

2015.7.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

曜日別の祈りです(リニューアルしました)
今日の祈り

神様からの警告のことばです(新コーナー)
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

神に失望したことがありますか

テーマは 『 神に失望したことがありますか 』 です

【ヨハネの福音書6章60-70節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。

それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである――

そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」

皆さんはいつも神様に対して感謝し神をあがめ、素晴らしい神様だと思っているでしょうか?
それとも神に失望して信じるのはやめようかと思ったことがありますか?


多分、神様に失望したことがあると思います。

祈れば聞かれると言われて、たくさん祈ったのに何も答えられたことがなく、熱心に仕えると祝福があると思って奉仕をしたのに祝福がなく、神様ならば止めることが出来た事故だったのに守ってくれなかった等。

教会でも主のためだと思って新しい計画を進めたのに、失敗に終わったから神様に失望して落ち込み、「神様は一体何をしているのだ」と、つぶやくことが多いと思います。


今日の本文にも1つの悲劇が書かれています。
弟子であった人々の姿です。

弟子とは、イエス様を見て信じ、どこまでも従って行きますと言ってついてきた人たちです。

イエス様があらゆる奇蹟を行いましたが、弟子たちの中には、その恵みを受けて癒された人もいたでしょう。

日々、素晴らしいみわざを現すイエス様を見て 喜んで従ってきました。
自分たちの要求、願いが通ったので喜んで従ってきました。


しかし、イエス様が自分たちに対して要求するものが出た時に、彼らは気を悪くして、その要求に自分たちが答えなければならないことを知ってから態度を変えました。

「何だ。祝福だけをもらおうと思って信じたのに、私が神のために何かをしなければならないのか。それはいやだ。」という思いが出て、「神様を信じるのをやめます。失望しました。」と言って 神様から離れていきました。






信仰生活は神と自分自身が関係を結ぶことです。

神様は私たちに語っておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)」 このことばが嫌いな人はいないと思います。

神様が良くしてくださると思って神に近づき、何でも神様が自分の願い通りにしてくださると、ここから神への誤解が生まれてきます。


私の願いは叶えられ、私の思いのままに神を動かせると勘違いをします。


「○○のために信じます。」「○○をしてくださるならば信じます。」「○○だから信じます。」と理由を並べるのを神様は喜びません。

神様は私たちが、神のみこころに従って歩むことを願っておられます。

教会に来られた人々の中でも「○○があるから教会には行けません。」と言う人がいます。


私たちは教会に 神様に会うために行きます。他の理由は大したことがないです。


神の御前に行き、神を信じ、神に頼ることを神様は求めておられます。

それなのに神に頼らないで、人やお金に頼り、神を無視しながら自分の思い通りにならないと「神様が何もしてくれないから失望しました。」と神のせいにして神様から離れていきます。

また、神様が要求するのは神のみことばに対する従順であるのに、みことばに対しても不従順でありながら、神が悪いと平気で言います。

私の要求が通るならば神様を信じますが、通らないなら信じませんと言うのは正しいことでしょうか――?






最近3分テレフォンメッセージで、マラキ書を語っていますが、当時のイスラエルの民たちは神に失望していました。


自分たちの思い通りになっていない現実を見て、「神様はなぜ私たちを祝福しないのですか。なぜこのような有様なのですか」と すごく不満を持ちました。

実際に彼らが神に失望したのは、神のほうに問題があるのではなく、神のみこころに従わず、勝手に歩んでいた彼らに問題がありました。しかし、そのことに気付いていませんでした。


それで神様は彼らが悟ってほしいと願って、ことば(神の質問)を色々と与えました。

(神)「わたしはあなたがたを愛している。」 → (民たち)「どのようにあなたが私たちを愛されたのですか?」
この答えを聞いても分かるように、どんなに神様から愛されていても、その愛に気付いていませんでした。


むしろ彼らは「神様は私たちを愛していない。愛しているなら、なぜ私たちが困っているのに助けてくれないの?祝福してくれないの?」という思いでいっぱいでした。

また、神様は「もしわたしが父であるなら、どこにわたしへの尊敬があるのか。もしわたしが主人であるなら、どこにわたしへの恐れがあるのか」と質問するほど、イスラエルの 民たちは神様へひどい態度を見せながらも、自分の間違った態度は棚にあげて神様への失望だけが心に満ちていました。


神様が何かを言うと、「何と うるさいことか」と心の中で言っていました。

神様に対して誤解し、神様に対して失望し、尊敬も栄光も捧げず、心が神様から離れ、神様が語ることばに対しても反抗的で不信仰であるならば誰が損をしますか?神様でしょうか?それとも その人たちでしょうか?






多くの人々が福音を聞きます。しかし反応は分かれます。

ある人は(神が語ったことばが)、自分が思ったことと違うと非難し悪口を言い、失望したと言って離れます。
また ある人は、自分の願いが叶えられて嬉しいと言ってついて来ますが、神様が要求するものを語ると「それは出来ません。無理です。時間がありません。」と言いながら、だんだん神から離れていきます。


しかし、ある人たちは何も自分の思い通りにならなくても救われた恵みにただ感謝して神を愛し、神を信じ、死に至るまで忠実に主に仕えます。

すると主はどの人を一番愛し、祝福してくださるでしょうか?それは言うまでもありません。


神を信じ、頼り、神から離れない人です。


私たちはどのようなタイプでしょうか?

すぐに「神様に失望した。何もしてくれないから、信じても意味がない。」と言うような人には絶対にならないようにしましょう。

これは神の恵みを知らず、神がどういう方なのか まだ分かっていない人が言うことばです。


詩篇116篇の告白を自分の思いとして告白してみてください。
(・∀・)つ


【詩篇116篇1-19節】

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。

私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。

私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。

2014.10.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

神の心にかなった者・ダビデ

テーマは 『 神の心にかなった者・ダビデ 』 です

【使徒の働き13章22節】

それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。 「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する。

神様ほど人を正確に知っておられる方はおられません。
人の行動、考え、心すべてを知っておられます。

ですから 神様が下した人の評価は1つも間違いがないです。


ダビデに対する神様の評価は、「彼はわたしの心にかなった者でわたしのこころを余すところなく実行する者」でした。これは最高の評価だと思います。

神様からこのような言葉をいただけるのは羨ましいです。


私たちが裁きを受ける時に、神様が良い評価をするのなら救われた者として天の御国に入りますが、神様がその人に対して悪く思うならば、追い出されていきます。


生きていた時にダビデは神を喜ばせた者であったことが、ここで はっきりとわかります。
ダビデはサムエル記、列王記、歴代誌にも出てくるので、彼がどういう人であったか知ることができます。
そして詩篇の中に、1人の人間として神様の前に立たされている姿があり、そこに信仰の姿が書かれています。


私たちは色々な苦しみがある時に、詩篇をたくさん読むと思います。
読むと1つ1つの言葉は、自分たちの中にある思いを言葉で表現することはなかなか難しいのですが、
ダビデの祈りを聞くと「私自身もそう思っている。これは私の心だ。」と思って、それを自分たちの祈りにする場合がとても多いです。


ダビデが神様に対してどのような信仰を持っていたかは、詩篇の中に現わされています。
神様が最も目を留めているのは、その信仰の姿勢であります。

神の心をしっかり祈って求めるので、神の御心を知っています。
私たちも神様の心を知っています。

聖書のことばを読むと そこに書かれていますが、私たちがそれを聞いた後にどうするのか とても大切であります。
同じことばを聞いていても、その後の信仰の姿勢がそれぞれ違います。


同じ神様を信じて、同じことばを聞いても ある人は恵まれて、ある人は恵まれていない、ある人は良い評価で、ある人は悪い評価。
これは何かというと、その人の信仰の姿勢であります。

ダビデは従順する人でありました。




①従順する人



ダビデは神様だけに従順する人だったでしょうか?

神様は他人に従順する人を最初に選ぶのです。


【Ⅰサムエル17章17-20節】

エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。

この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。

サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。

ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。

ダビデはお父さんの命令に対して従順している姿が出ています。
この従順する姿は「嫌だ、嫌だ、仕方がないなぁ」という姿ではないです。

翌朝早くということは、自分で考える時間を与えません。
余計なことを考える必要がないのだという態度であります。


私たちが神様の言葉を聞いて、すぐに従順しないと人間の思いが出てきます。そして結局は自分の思いを優先にして従うことが出来ないです。

神様はまず目の前にいる人間に従順するかを見るのです。

それからが神様の出番になり、準備している祝福を与えて働きをさせます。

この後に、イスラエルの人々を苦しめるゴリヤテとの闘いがありました。
ダビデから見るとまさか戦うとは思いませんでした。ゴリヤテと闘うことは ものすごい大きな働きであります。


ある人たちは「私は神様には従っても、人には従わない。」と言う人がいます。
そう言いながら「私は神様に用いられたい。大きな働きがしたい。」と言いますが、神様は絶対にそういう人たちは遣わないです。

他人に従順しない人を遣いませんし、大きい働きをしたいと言いながら小さな働きに無関心であり、ないがしろにする人は神様は遣うことをしないです。


ある意味で人間に仕えている姿は、神様の1つのテストであります。
私たちは小さなことに忠実に働かなければならないです。聖書はそのことを教えています。


【Ⅰヨハネの手紙4章20節】

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

私は神様を愛しています。と言いながらも、他人に対して憎しみをむき出しにすると、神様は「偽り者」と語ります。

また「神様に従順します。」と言いながらも、(周りの人が)自分のために語る言葉や神様の言葉が伝えられた時に「いや、それはしない。」と言うならば、その人は脱落であります。


ダビデは従順に危険が伴うことでも すぐにその言葉を受け止めて何も言わずに、言われた通りに出掛けました。

これを見ても分かるように、従順する人を神様は喜びます。これがダビデの中にある姿でした。
神様は逆らう人は退けますが、喜んで従う人は神に用いられます。




②謙遜な人



イエス様はすごく謙遜な方であります。

神様は謙遜な人が好きですが、高慢な者は退けるという言葉を使いました。
謙遜な人はどこにいても人から愛されます。神からも愛され、人にも愛されます。


サウルとダビデの姿で違いが出てきます。
王として選ばれた時はサウルも従順で謙遜な者でした。

しかし、サウルは王になってから変わりました。
謙遜な者から高慢な者へと変わり、従順の者から不従順の者に変わりました。

ダビデは羊飼いの時の姿と、王になった後の姿は変わらず、従順で謙遜な者でした。


【Ⅱサムエル記7章18-19節】

ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にもはるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。

ダビデは「取るに足りない者」と言いました。
またパウロも「月足らずで生まれた者」と言い、彼らは人間の目で見ると偉大な者たちでしたが、 神の前ではどれほど謙遜な姿でしょう。


私たちはどうでしょうか?

私たちは偉そうにしている姿があります。神様に命令を出し、文句を言い、自分を高くして言います。
恵みを受けていても感謝をしなかったり、他人と比較して神様に不平不満を言うのは自分を高く評価することです。

高慢というのは、自分は本来そうではないのに 自分を高く評価することであります。
他人からではなく、自分自身を高く評価することを言います。


本当に評価されるに相応しい人であるならば 神様は高慢とは言いませんが、相応しくもないのに自分を高く評価してアピールするので神様は受け取ることができません。


ダビデは神様の前だけで謙遜な姿を見せたわけではないです。人々の前でも謙遜な姿でした。


【Ⅰサムエル24章14節】

イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、 一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

人々の前では、神の前よりも もっと自分を低くしている姿があります。

日本では「私はそんな者ではありません。」とよく言います。
謙遜な姿があり、自分をあまりアピールせず低く評価します。

しかし相手の人が「本当ですね。あなたは小さい者で、死んだ犬のようですね。」と言ったとしたら、一生恨むと思います。

でもダビデは自ら身を低くして、自分を殺そうとする相手に対しても自分を低くするのは、彼の人格そのものが謙遜な者であるのです。

私たちはやたらと自己卑下をする必要はないのですが、謙遜から出て来るものには評価してくださいます。


クリスチャンは自分を低くしなければなりません。他の人を高く上げます。それが恵みになります。他人が「この人は人格が出来上がった人だと評価します。」




③試練の中でも信仰を堅く守った人



多くのクリスチャンがいつ倒れるのか、いつ信仰を捨てるのか、それは試練の時が多いです。

もちろん良い時にも堕落することがありますが、試練の中で信仰が揺らいで 信仰が弱くなり、神の前で罪を犯す人が多いです。

ダビデは試練の中でも ずっと信仰を守り通していきました。サウロが彼の命を狙っていました。
サウロの命さえ取れば 自分は試練の中にいる必要がない と人間的にはそのような思いが来るはずです。

しかし、人間から来る思いと、神様のみこころとは一致しないことが とても多いです。


信仰を守り通すということは、どのような試練の中でも人間の思いを優先することではなくて 神様のみこころをまず求めることであります。

ダビデは7年間毎日 命を狙われながら生活をしていましたが、(サウロを殺す)チャンスが来ても彼はみこころを行いました。


【Ⅰサムエル記24章6節】

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に 絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。

ダビデの部下が、目の前にサウルが現れたことを見て「チャンスです。殺してください」と言った時に、ダビデの口から出てくる言葉はすべてが信仰による言葉であります。人間的な思いが一切ありません。


私たちは、時と場合によって 信仰と自分の思いを使い分ける時が多いです。それによって聖霊様を悲しませているかもしれません。
しかしダビデは激しい試練の中でも 常に主に目を留めていました。

みこころを行う時には自分で犠牲を払わなければならないことが とても多いです。

しかし犠牲を払った後に、神様の報いが来ます。自分が蒔いたものが信仰なので、後から来るものはとても素晴らしいものであります。


ダビデは信仰第一にしましたので神様のみこころではないと 絶対に私は動かないと頑なな姿がありました。
私たちは信仰に対しては、譲らない姿勢が必要です。「絶対に神の言葉が優先である」と心を決めておかないと、あらゆる誘惑に引っ張られてサタンの餌食になってしまいます。


誰かに「そこまでしなくても良いでしょう?」と言われても良いのです。「これは神様のみこころなので、私は妥協しません。譲れません。」という思いが必要です。
そうすると勝利します。その姿勢を見て、神様が良い報いを与えてくださいます。

信仰によって生きるということは、神様の言葉が1番優先で みこころを行うことが優先であります。




④罪を犯した後に悔い改めた



私たちも罪を犯した後は悔い改めをしていると思ってしまいますが、ダビデの悔い改めは私たちとは違います。

どのような部分が違うのかと言うと、私たちは悔い改めても 時には神様に喜ばれない口先だけのことがあります。
ダビデは深い悲しみをもって本当に悔い改めました。

本当の悔い改めとは、次の箇所です。


【Ⅱサムエル記12章11節】

主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で 取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。』

【Ⅱサムエル記12章14節】

しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

この2箇所とも耐えられないような厳しい言葉であります。
ダビデはウリヤの妻を取り、自分の妻にしましたが、それは神様のみこころに損なったことであり聖霊様をすごく悲しませました。

それに対して神様はダビデが悔い改めるように勧めましたが、それに併せて神様はこちらの言葉を宣告しました。

これらの言葉を受け取った後のダビデの素晴らしい姿勢が次の箇所に書かれています。


【詩篇51編1-4節】

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎を、私から 全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、 あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

ダビデが犯した罪に対して悔い改める心をもって、まず神様に赦しを求めました。これは私たちが罪を悔い改める時も同じで誰もが出来ることです。
ここまでは同じであります。しかし、その後が違うのです。


4節に書かれている“あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。”
神様が宣告されているのは厳しい言葉でした。しかし(その言葉を聞いても)神様は正しいです。あなたはきよくあられます。と言える部分が 私たちにあるかどうかであります。

罪を犯したために償いをしなければならないと、神様が私たちを裁くときがあり試練の嵐が来ます。
すると人間はびっくりして「神様、これは何ですか?サタンの攻撃でしょうか?どうしてこんなことが起こるのか、私は神様に悔い改めたから全部赦してもらったと思ったのに、何ですかこの試練は?」と神様を問い詰める時があるのです。


自分たちは勝手に恵みだけを受けて、神様に「私に良いことだけをしてください。」という思いが強いので、その続きで言った言葉には気付いていないかもしれません。

ダビデは預言者を通して神様の言葉を聞き、罪を償うことを受け取りました。
その後、実際に神様の言葉通りに子供は死にました。

それでもダビデは一切つぶやかないで神様の前に出て礼拝をしました。


私たちもそのようにしたら良いと思います。
「どうしてあの人が用いられて、私は用いてくださらないのか。あの人は祝福して、どうして私は祝福してくださらないのですか。差別していますか?」と言う前に、何が違うのかを聞くことであります。


「あなたと私は何が違うの?あなたはどうやって恵みを受けているの?どうやって信仰が成長したの?どうして神様に用いられているの?」と聞くことであります。

私たちはダビデに聞けたら「わたしはこういう者であった。だから神様がわたしを遣ってくださり恵みを受けたのだ。」と、きっと言うでしょう。

(恵みを受けている人と自分には)必ず何かの違いがあるのです。私たちが信仰成長するには、自分との違いを見付けてやってみることであります。


神様はそのようにしてお互いの姿や、聖書の人物を通して成長して欲しいと願っておられます。

私たちが人物を学ぶことは ものすごく自分の信仰に役に立ちます。 (・∀・)つ

2014.6.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

主の民になったならば

テーマは 『 主の民になったならば 』 です

【エレミヤ書7章21-26節】

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえに加えて、その肉を食べよ。

わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。

ただ、次のことを彼らに命じて言った。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。 あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。」

しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、 たびたび送ったが、

彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。」

人生最大の恵みは何だと思いますか?
私たちが今まで受けた恵みの中で、この恵みが一番だと思っている恵みは何でしょうか?


天地万物の創造主、主権者である神が 自分の神となり、自分が神の民になることは人生最大の恵みであります。


現在、地球上には約70億人が住んでいます。その人たちが皆、神様を信じているでしょうか?
そうではないです。多くの者たちは神様に背を向けています。

彼らも神と呼んでいるものがありますが、その神は実在する神ではないです。
人間が作った偶像の神ですので、そのまま進むならば、彼らに待っているのは裁きしかないです。


この世の多くの人々が捨てられた状態であり 裁きを免れない中で、私たちは天の神の民として生きているのは 恵みの中の恵みです。
これほど素晴らしい恵みはどこにあるでしょうか?そこに自分の永遠の命がかかっているのです。

この世で生きる期間は短いですが、その後に続くのは永遠の世界です。
その永遠の世界で 私たちはどこへ行くのかが重要であります。


私たちはいつも何が大切であるのかを 常に考えなければいけないです。
神様の民である価値を低く考えるならば、その人たちは世のものによって倒れてしまいます。


昨夜、生駒聖書学院長の奥様が病気によって息を引きとりました。その連絡を受けたので祈りました。

しかし、そこには悲しいという思いは一切ありませんでした。
天国がどのような場所であるかを知っていますし、私も天国に憧れているので、
“苦しみから解放されて 今は喜びあふれ、光と平安がある天国でイエス様に出会って喜んでいるでしょう。何と素晴らしいことでしょう?”

私はそこで感謝の祈りをしました。
残された家族のためには慰めの祈りをしましたが、
もしその方が イエス様を信じないで亡くなったならば、感謝の心ではなく 憐みの心が出て来ると思います。


しかし、イエス様を信じて神様のところへ行く人たちは 帰るべきところに帰ることなので、すごく感謝であります。御国の民になった者だけが死んでも幸せになります。


また、救われた者 皆が天の御国に入られるのではないです。
ある者は「主よ、主よ」と言っていましたが、天国に入れない者もいました。

なぜ入れなかったのでしょうか?
それは 神様が見た時に、神の民として選んだのに その人の生き方が神の子どもらしくなかったからです。

そして天国には入れずに、そこで歯ぎしりをするのです。


神様は始めから私たちを幸せにするために民として受け入れて下さいました。これはとても大きな恵みです。

神の民になった者は 神の民らしく生きる時に、神様はその人を神の民として認めて下さいます。


イスラエル民族は選民としてのプライドがものすごく強かったです。
しかし神の目にうつった彼らの姿は、神が民として認めることができないほどのひどいものでした。

彼らは不従順によって神に背を向け、ほとんどが荒野で死にました。神の民にふさわしくなかったのです。
私たちは彼らと同じ道をたどってはいけません。


これは彼らだけではなく、今の私たちに語る言葉でもあります。

「あなたはイスラエルの民とは違うのか?彼らのように歩んでいるのか 自分をよく見なさい。」と、
私たちが救われた時から 私たちはイエス様と1つにならなければならないです。


神の子どもになったので真理のことはもちろん重要ですが、いつもイエス様と共に歩きながら神の民らしく生きることが大切であります。


主の民になったならば、どのように生きるべきかを まず考えないといけないです。
自分の神に対して自分がどうすべきかを考えるのは当然です。
そこで、神のことばの中に神の民として生きるべき姿が出てありますので そのことを伝えたいと思います。



①主のことばに聞き従うこと



主は私たちを救い出した方であります。
それまでは神様とは無関係でしたが、私たちが神の民になった瞬間から神様は当然のように私たちの神になりました。
この神の言葉に対して私たちは聞き従うことであります。


神様がイスラエルを選んだ時に いけにえが欲しくて選んだのでしょうか?
そうではないです。いけにえは、いわゆる形式です。神様はいけにえを要らないとは語ってはいません。

ただ、いけにえだけでは満足することはないと語っておられます。


神様が求めておられるのはいけにえをささげる人の心です。


すなわち従順する心、感謝する心、きよい心を願っています。神様は 汚れのないいけにえを持ってきなさいと語りました。もしそれがないなら神は決してそのいけにえを受け入れません。

いけにえを持ってくる人が汚れているならば、そのいけにえも汚れてしまいます。


【エレミヤ6章20節】

いったい、何のため、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、 あなたがたのいけにえはわたしを喜ばせない。」

遠い所からわざわざ神様に捧げる為に良いものを買いました。
それを持って神様のところへ来て、神様が喜ぶと思って捧げたのに、それを神様は拒否しました。

問題はその人の心が神様に相応しくなかったからであります。その人自身が不従順の心があるからです。


神様の言葉には従わないのに、物だけを持ってくるのです。
「神様、これで満足でしょう?」「これで私の罪を赦してください。」「これで私を祝福してください。」
それは賄賂のようなものになります。神様はそのようなものを受け取らないです。


神の民になっても、うなじのこわい者がとても多いです。外見は敬虔なふりをしていますが中身は違います。
ですから神様は「偽善者」という言葉を使います。


神様のことを「私の神様です。」という人は、必ず(神様のことばに)従順をしなければならないです。
従順がないと神様はその者を“神の民”と認めることができないのです。従順しない者に 神様の祝福はないです。

神様は、聞き従う者だけに豊かに恵みを与えるのです。神様が私たちを神の民としている目的は、私たちを幸せにするためであります。

愛の神様ですので、私たちにみことばを与えて 「従いなさい。」ということは、私たちに恵みをたくさん与えたいからです。
これは神のルールを教えているのです。


不従順の罪は悔い改めないと天国には入れないです。
心を頑なにして悔い改めをしないならば神様との関係がなくなります。
いくら神の民であっても神に向かってうなじのこわい者、不従順する者に 救いの恵みが臨むことはありません。


神様は「わたしの声に聞き従うならば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と語りました。また神様は従順する者に聖霊を与え、祝福し、幸せにさせると約束してくださいました。


私たちが主の声に聞き従う時に、神様は私たちを民として認めて下さいます。




②霊とまことによって神に礼拝すること



【エレミヤ書7章21節】

全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえを加えて、その肉を食べよ。

と語りました。

全焼のいけにえとは、完全に焼いて捧げるいけにえなので 肉は残っていません。そして神様は その香りをいけにえとして受けます。それなのに神様は、肉もないのに、ほかのいえにえを食べなさいと言うのは、神様からの非難的な言葉であります。


全焼のいけにえを捧げているのに、神様はそのいけにえを受け取れないということです。神様が拒否する姿です。
それは神様が受け取らなければいけない物なのに、「あなたが食べなさい。」ということは、「わたしは受け取れないのだ。」ということです。

(受け取らないのは全焼の捧げ物の中に)その人の心が入っていないからであります。


今の時代では私たちが牛や羊を捧げることはないですが、神様に霊とまことによって全焼のいけにえを捧げる方法があります。次の箇所です。


【ローマ12章1節】

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

全焼のいけにえ そのものには、“献身”の意味があるのです。
「私の心も身体も神様に捧げます。神様を信頼し、愛します。」というすべての思いが込められて、神様に捧げることなのです。


神様は常に心を見ておられます。
神様を信頼する心も愛する心もなく ささげる礼拝を神様は喜ぶでしょうか。―― 喜びません。

神様が求めておられる礼拝について書かれているのは次の箇所です。


【ヨハネの福音書4章23-24節】

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

神様はこのような礼拝者を求めておられます。

日曜日に教会で神様に礼拝を捧げることだけが礼拝ではありません。


毎日の生活そのものが神の前で生きながら、神の中に根差して、毎日、毎瞬間 神様に礼拝をすることであります。


私たちが霊とまことをもって礼拝をしたいならば、神の目を常に意識しなければなりません。


私たちは気付いていなくても、神様は何もかも常に見ておられます。

「あぁ、そろそろ祈らなければならないか…」と 形式的に祈るならば神様は受け取らないです。
しかし、形式がなくても私たちが心から神様を見て 愛の心を見せながら感謝して生きるならば、24時間礼拝する者になるのです。


ヨセフがそうでした。ヨセフは24時間礼拝をする者でした。
彼は厳しい試練の中を通っている時 一言も神様に文句を言ったことがないです。
どのような環境に置かれても、常に礼拝でした。

毎日、美しい女性に誘惑されても、ヨセフはそれに倒れませんでした。
倒れなかったのは、ヨセフの心が強かったからではないです。

神様を常に意識するからなのです。
「神の前でこんな罪は犯せません。」と、それを堅く決めているのでブレることがなかったのです。


私たちは、あちこちを見たり世の流れに従ったりするので 倒れたりするのです。
信仰が台風に遭っているかのように常に揺れ動いています。それは礼拝をする態度ではないです。

それによって全部失敗をしながら日曜日だけ神様の御前に出て「私は礼拝をしています!」と言うならば、
神様は「違うぞ。あなたの普段はどこへ行っているのか?普段は何をしているのか?」―― それを私たちは意識しなければならないです。


素晴らしい礼拝者は ヨブもそうでした。ヨブがすべてを失った後に主にささげた礼拝は立派な礼拝でした。霊とまことが彼の中に常にありました。

自分の生活全体を通して神の前にははずかしくないように、神を敬い、心から神を求めて生きる人を神様は喜んで下さいますし、その心で礼拝する者を神の民として認めて下さいます。

神様はいつも私たちに良いものを与えてくださるので、それに対して私たちが常に礼拝を捧げる者ならば恵みがなくなることはないです。



③主の声を大切にすること



神様は昔、まだ聖書がない時代にはしもべたち、預言者を通して民に語りました。
彼らが伝えることばは神のことばであり、神の声でした。

しかし彼らは聞かず、耳を傾けませんでした。
主のことばを聞くことを拒否した結果、神のみこころを知らないので あらゆる不従順と罪を行いました。


神様は聖書の言葉を通して主の声を聞かせたり、礼拝メッセージを通して主の声を聞かせます。また兄弟姉妹を通しても御声を聞かせます。
私たちは それを聞く耳をもって聞くことです。


【箴言16章20節】

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

主の声を無視せず、聞く耳をもって聞き、心に入れることです。
みことばを心に刻むと私たちの命になります。


今、私たちはいつでも主のことばを聞けることに対しても喜び 感謝しなければなりません。

人の話には興味があって よく質問までしながら聞くのに、「神の声には聞きたくありません」と耳を閉じるならば 神の民と言えるでしょうか。

個人の生活の中でも、教会でも、神のことばを聞くことほど大切なことはありません。

いつも耳を開いて、主のことばを聞きたいと願う人は主に喜ばれます。


自分が神の民であることを誇りと思っているならば、自分自身がその民にふさわしい者になることは当然です。
神の命令に従順し、霊とまことによって礼拝を捧げ、いつも主の声に耳を傾け、そのことばを大切に真剣に聞くことです。

そのように行う人は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた 民です。


神の言葉を無視するならば、その時から神様は語らなくなります。その人たちには、みことばを聞けない飢饉が必ず来ます。

「聞けることが感謝です。たくさん語ってください。」と謙遜な思いをもって主の前で聞くならば、その人はどんどん神の民らしく生きることが出来ます。 (´∀`*)

2014.5.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

クリスチャンの生活とは?

テーマは 『 クリスチャンの生活 』 です

【ピリピ2章12-18節】

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

神は、みここころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだではなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

根本的にクリスチャン生活とはどのようなものなのか、今回のみことばの中で知ることができます。

キリストに繋がれている者は、当然 頭であるキリストについていくために、似ていく者にならなければいけないです。
世の人から「あなたは本当にクリスチャンだ」と認められないならば、何によって私たちはキリストを現すことができるでしょうか。

模範であったイエス様を見て、謙遜を実践していく姿がクリスチャン生活の1つであります。




①自分の救いを達成していく生活


神様の言葉にクリスチャンが従う1つの目的は、自分の救いの達成であります。
この言葉で誤解をするかも知れません。

「そうしたら、私たちはまだ救われていないのでしょうか?これから自分の努力で救いを得なければならないでしょうか。」と思いそうですが、決してそういうことではないです。

救いの御業は人間ではなく、神によって始まっています。また、私たちが先に神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛しました。そして、私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださったのです。

例えば、人を通して その人を導いたとしても、それは神様から出たものです。
人間は本来、神様を求めない者であります。すべては神様の方から招待が来ました。
私たちがそれを受け入れて救われた時から、聖書を通して多くの言葉が語られました。


救いの計画も、人生の計画も神様が全て持っていますが、私たちは恐れおののいて それに従わなければならないということです。

何に対して恐れおののくのでしょうか?―― 救いを与えてくださった神様に対する敬う心であります。

神様は 私たちをロボットや軍隊のように従わせるのではなく、優しくみことばを語りながら教えてくださるので、私たちが従順しながら歩むのは救いの達成に向かっているのです。


救いの達成に向かって進むということは、荒野でのイスラエルの民たちの姿を思い出したらよく分かります。
神様は奴隷生活した彼らを、一方的な神様の御業を通して救い出しました。彼らの努力は1つもありませんでした。
神様は救い出したいと思い、モーセを用いて全員をそこから出しました。これは救いであります。

神様が先頭に立って、イスラエルの民たちは喜びながらついていくと、荒野が見えて来ました。
それは私たちが救いを達成していくために、進まなければならない道なのです。

彼らにマナを食べさせたり 神様からの恵みをたくさん与えました。
そして神様はカナンの地につれていく計画を立てて その中で神様がずっと律法を語っていました。
「(カナンの地へ行くために)わたしの言葉に聞き従いなさい。」と 恐れおののきなさいと語りました。


しかし、恐れおののいた者はわずかでした。モーセ・カレブ・ヨシュアでありました。それ以外は誰もいませんでした。
彼らは神様の約束の言葉や命令を聞きましたが、人間として責任ある行動が出来なかったのです。
救われてエジプトから出ましたが、神様がずっと見ていて(彼らは)天国に入る者として相応しくなかったのです。

彼らは天国を自分のものにしたいという思いがありましたが、神様を恐れおののかず、ずっと不信仰でした。

神様は(彼らに)たくさんの良い恵みを与えて、奴隷から救い出しましたので(神様の)言葉に従ってくれると思っていました。
しかし、神様の言葉に従わなかったので、人格を持っておられる神様は刑罰を与えました。すると彼らは神様に助けを求めましたが、困った時だけ助けを求めました。そして、それが解決されると また不従順の連続でした。

結局2人しか辿りつけず、他の人たちは荒野で倒れました。これは救いの達成が出来なかったということです。


これは今のクリスチャンも同じであり、私たちは不信仰・不従順になると倒れてしまいます。
神様を恐れおののかないと、そこで倒れるしかないのです。

選ばれた人間は、神様に対する責任ある行動と応答をしていかなければならないです。
従順していくと、神様との距離が近くなり一緒に歩めるようになります。神様はその者を一番喜んでくださるのです。

イエス様が謙遜な姿ということは、自分を捨てたことであります。父の御心にいつも自分を合わせていきました。
それによってイエス様も勝利をしていったのです。

クリスチャンは神様を恐れおののいて従順して、自分の救いを達成していかなければならないです。




②つぶやかず・疑わない生活


救いを達成させるための中身は、つぶやかず、疑わない生活であります。
これは謙遜にならなければ無理です。

高慢な人はつぶやきが多いです。高慢な人は欲望が多過ぎるので満たされることがないです。
自己中心なので自分の思い通りにならないと神様に対してもつぶやきが多いです。

イスラエルの民たちの一番の大きな罪は「つぶやき」でした。不平不満が心に満たされていました。感謝をせず、恵みを覚えていないのです。

謙遜は自分を「無」にすることです。
「無」になると、与えられるどんな小さなものでも恵みなのです。「私は無価値な者なのです。」と本気で思う中で、神様が水を一杯でもくださるなら感謝の気持ちでいっぱいになります。

しかし、自分を高く評価する者は「こんなもの食えるか!私を誰だと思っているのか?」と感謝をしないのです。
イスラエルの民たちはマナに対しても「こんな惨めなものは食べたくない。」と文句を言いました。


私たちも、クリスチャンと言いながらも神様に対してつぶやき、周りの人に対してもつぶやくのは感謝をしないことであります。また、家族に対してもつぶやきます。

これは よく考えたら良いと思います。家族が自分にとって、どのような存在でしょうか?

家族がいなくなったら――?旦那さんが一生懸命働いて家族を養うことは、とても責任あることなのです。
これは立派な働きです。また、休みたくても休まず何十年間も働いています。自分の人生が拘束されて1年間にわずかな休みしかないのです。
会社では辛い事もありますが、我慢をして家族のために働いているのです。

主婦はその点では時間に自由がありますし、楽なのです。
旦那さんから給料を全部取り、わずかな小遣いしか与えないのならとても辛いことだと思います。
もしも、自分が逆の立場だったらどのようにするでしょうか?
常に私たちは逆の立場になって考えたら良いと思います。


神様は、すべてのことに つぶやかず、疑わずに行いなさいと私たちに語りました。
私たちは本気でそのようにすると自分を「無」にして謙遜な姿をもって生きるならば、これは難しいことではないです。

自分の存在価値が高いものだと 勝手に思うので全てが不満になるのです。

霊的に成長すればするほど純真な者になっていきます。私たちの中から肉の不純物がどんどん消えていきます。
肉のものを神様の言葉に服従させて(肉を)消していくならば純粋な者になります。
花嫁の姿の基本は「純真な者」です。日々、自分を綺麗に保っていかなければならないです。

私たちが汚い者になるならば、神様がまとめて火の中に投げ込むのです。

神様の子どもは「光の子ども」であります。悪魔の子どもは「闇の子ども」です。これは水と油のような関係です。
暗闇の中にいても、光るものが1つあれば とても目立ちます。

神様が願うのは、(私たちが)暗闇の中で世の光として目立つ者になってほしいのです。周りの人たちにそれを見せていかなければならないです。

聖書の言葉を握るということは 自分の欲のままではなくて、みことば通りに生きるということなのです。




③喜びの生活


【ピリピ2章17節】

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

パウロは殉教することを知っていましたが、この時は既に捕えられていました。
「わたしは主の働きをして最後に死ぬのだ」ということを知っていましたが、これはキリストの栄光が現れることなので彼はすごく喜んでいました。

死ぬことを喜んでいたのです。キリストと苦難を共にし、わたしが一粒の麦となって死ぬならば、多くの魂の実を結ぶ事ができると見て喜びました。

もしも 私たちが罪を犯して死ぬならば、喜ぶことは出来ないです。
それは何の報いもなく、人々に良い影響を与えるどころか悪い影響を与えるのです。

しかし、キリストのために献身的に働きをし、人のために自分の命を捧げる人は永遠に褒め称えられます。
神様がその人に栄光を注ぎます。その死は新しい命の道に入る1つの扉を開ける栄光の死なのです。
地上での扉は閉まりますが、新しい扉を開けると永遠の命の世界であります。

これは誰でも行ける世界ではないです。黙示録にあるように「勝利する者」という前提があります。
つまり、勝利をしていない者はその恵みを受けることが出来ないのです。


私たちも自分を犠牲にしないと、最期には神様が「あなたは生きる値打ちがない者である。」と犠牲をさせるのです。

私たちの命は自分のために生きるのではないです。キリストにあるものは、キリストのために生きる者であります。

私たちがキリストを取ってしまうならば、それはクリスチャンではないです。
キリストのために生きる者を「クリスチャン」と呼ぶのです。

私たちは生き方によって、神様から救い出された者であることを ずっと見せていかなければならないです。

クリスチャンとして生きることは、教会に行く事、奉仕をすることではないです。

心と生き方すべてのものを神様が喜ぶほうに変えない限り、神様と一致できないですし、救いの達成には至りません。

クリスチャンとしてきちんと生きていく人生を私たちは目指していきましょう。 (・∀・)つ

2014.1.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝 ❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

livedoor プロフィール
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

(^^) からし種 に投票してね
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ