からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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律法

聖徒が逆戻りしてはいけないもの

こちらのメッセージは、シャローム松山教会で9月4日と11日の2週にわたり 語ったメッセージでしたが、八戸ノ里キリスト教会の信徒たちにも知らせたかったので、こちらに載せます。


テーマは 『 聖徒が逆戻りしてはいけないもの 』 です

【ガラテヤ4章8-11節】

しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。

あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。

天国を見た人たち、神の声を聞いた人たちが 共通して言うことばは、天国に入るクリスチャンが意外と少ないと言ったことでした。

何が原因でしょうか?


神の恵みによって せっかく救われたのに、神から離れて逆戻りした人がたくさんいます。

教会には来ていますが、なかなか前に進まない人たちもいます。


御言葉に従ったならば、進むことに問題がないですが、後ろを振り向いたり、逆戻りしたりするので、なかなか前に進めないです。

神の国に向かって進むために、私たちは 荒野でのイスラエルの民のように過ちを犯してはいけないです。

彼らは、神の力と奇跡を体験しながらも 荒野の途中で「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろうと。」と言いだしました。


時には「あの時は美味しいものが食べられたのに、今は何もなく このマナを見るだけだ」と、悪く言いふらしたので、神を怒らせました。

これは、“奴隷の生活に再び戻った方が良い” ということでした。

彼らの思いを神が知り、その結果、彼らは約束の地・カナンに入ることが出来ませんでした。


ですから逆戻りするならば、神から切り離され、神の国に入ることも出来なくなります。


再びサタンの奴隷に戻り、サタンとともに滅びることになります。


聖徒を逆戻りさせるものに何があるでしょうか。

まずは本文からみていきます。





無力、無価値の幼稚な教えに惑わされると逆戻りする




ここでいう教えは律法のことです。

律法そのものに対して非難しているのではないです。

律法は神からのことばですが、正しく解釈しないことに問題があります。


ガラテヤ教会の信徒たちが救われたのは、福音を聞いて救われました。

福音はイエス・キリストの十字架によって罪人が救われることを教えます。


彼らは十字架につけられたキリストに関する福音を聞いて救われました。

しかし、後から教会に入って来た律法主義者たちが 彼らを惑わし、律法を守らないと救いはないと教えました。

するとガラテヤ教会の信徒たちは、それを聞いて十字架の信仰から離れ、救われるために律法生活をし始めました。


キリストの十字架は罪から解放し、自由を与えます。


律法の下に入ることは 律法に縛られ、律法と罪の奴隷になることを意味します。


人間がどんなに頑張っても、律法をすべて守ることは出来ません。

ですから罪から自由になることも救われることも出来ません。


つまり 福音ではなく、律法を守らないと救いがないと言うのは、無価値で幼稚な教えになります。


信仰によって救われたならば、最後までキリストの十字架の贖いを信じて信仰で生きることです。

律法による救いの教えは間違っていますので、それに惑わされたらいけないです。





神の恵みに頼らず、律法による義に頼るならば逆戻りする




【ガラテヤ2章21節】

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

私たちが罪赦され、義人になるのは行いによるものではありません。


パリサイ人はそのことを信じなかったので、行いだけを強調し、イエス様と対決しました。

福音を彼らは認めませんでした。

しかし救いは行いによるものでないことを、次のことばがさらに明確にしてくれます。


【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

いつも恵みの中にとどまり、恵みに感謝して生きることです。





真理から耳をそむけると逆戻りする




【第2テモテ4章3-4節】

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

教会で聞きたいことばは何でしょうか?


耳に良いことばは世にはたくさんあります。

楽しいことばならば、テレビを観たらもっと聞くことが出来ます。


教会では真理が語られなければならないし、信徒たちも真理を聞きに教会に行かなければなりません。


真理は 教会以外の所では聞けないです。

教会まで来て、耳に良いことばだけを求めるならば、それはおかしいと思います。





世を愛すると、この世を求めて逆戻りする




【第2テモテ4章10節】

デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。

デマスは伝道者パウロと共に福音に献身した人でしたが、世を愛することを捨てきれず、途中でその働きから離れ、献身をやめました。

とても残念な人だと思います。

世を愛したために、永遠の命を失いました。


彼は後で自分の愚かさに胸を叩きながら後悔するでしょう。


肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に心を奪われると世に戻ります。





悔い改めないとサタンの支配に逆戻りする




サタンが一番力を発揮する時は、罪を犯した時です。

(その人の)闇が見えたらサタンはすぐに働きます。

闇のわざを悔い改めることもせず、罪の中に生きると再びサタンはその人を支配するので、以前よりもさらに悪い状態になります。


キリストを知らなかった人よりも、信仰から離れた人を取り戻す方が もっと難しいです。


サタンが心を支配し、そそのかして神への疑い、教会への不信感を植え付けて戻れないように邪魔をします。





キリスト教の初歩的な教えにとどまると逆戻りする




【第1コリント3章1-3節】

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

信じてはいますが、いつまでも霊的に未熟な人がいます。
その状態で満足します。


しかし成長しないことは後退することを意味します。


主を知ることを切に求めて、信仰が幼子→成人にならないといけないですし、肉に属する人→霊に属する人にならないといけないです。





救いのない むなしいものを追い求めると逆戻りする




【第1サムエル記12章20-21節】

サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。

役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。

偶像の神に力があるでしょうか?
救うことが出来るでしょうか?


真の神から離れてそういうものに頼ることは無知なもの、不信仰なものに逆戻りすることです。


誘惑されて再び偶像崇拝をしたり、占いをしたりすることへの警告です。

クリスチャンの中でも相変わらず以前の生き方をする人がいます。





神の対する不従順があると逆戻りする




従わないことは自分の思いのままに生きることであり、以前の生き方に戻ったことです。


不従順は神の権威に対して逆らうことです。


自分の思いを優先するために 不従順することは、神の権威を無視することです。

それに対して神は必ず懲らしめます。


【第1列王記9章6-7節】

もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、

わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。




善から悪に態度を変えると逆戻りする




信仰が良い時には神が喜ぶ善を行いますが、信仰がマンネリ化したり、弱くなると、肉の思いが強くなって、神が喜ぶ善ではなく、肉から出る悪が もっと活発に働くので 悪の実を結びます。


信仰生活に興味もなく、人にも無関心、肉の思いをそのまま生かすと悪い実を結びます。


【詩篇53篇3節】

彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。



しばらくあってそれから消えていくものを追い求めると逆戻りする




世にあるものに、自分のいのちを託して安心出来ますか?

それが永遠の命を保証してくれますか?


残念ながら世にあるものは、自分を完全に守ることは出来ません。


【ルカの福音書12章15-21節】

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」




不敬虔な道を歩むと逆戻りする




神のみこころに従って歩むことが敬虔に生きる道です。


その道から離れると不敬虔な者になり、汚れていき、古い人に戻っていきます。





昔の罪の行為を繰り返すと逆戻りする




悪い習慣、肉の欲を捨てることもなく、そのままにすると同じ罪を繰り返すようになります。


新しくなった人の姿ではありません。

そういう人の状態をこのように語っておられます。


【第2ペテロ2章22節】

彼らに起こったことは「犬は自分の吐いた物に戻る」とか「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。

アーメン (; ̄Д ̄)

2016.10.2
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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パウロが見たキリストにある自分の姿

テーマは 『 パウロが見たキリストにある自分の姿 』 です

【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

多くの若いクリスチャンたちが集まってワーシップソングを歌っている映像を見ました。

その時の賛美の内容が今日の聖書のことばでした。


舞台に上がって賛美をリードする若者たちも、立ち上がって賛美している多くの若者たちも、目を閉じて、胸に手を置いたり、ある人は手を上げながら賛美していました。

まるで主に今日のことばを自分の信仰告白として告白しているかのように見えました。


しかし次の瞬間 このように思いました。
「本当にそう思って賛美しているのかな?」と。


あまり考えることもなく、ただ賛美に酔っているだけの人もいるでしょうし、口だけの告白かも知れないです。


しかし、パウロの告白には違和感が感じられないです。

なぜならば、その通りに生きたからです。


使徒パウロは、聖書の中に自分の信仰告白と共に、自分がキリストにあって何者であるかを告白しました。

それはキリストにあって発見された自分の姿でした。


みなさんもキリストに会って発見された自分の姿があると思います。

パウロが発見された姿を見てみましょう。


自分がキリストにあって何者であるかを発見することはとても大切なことです。




キリストと共に十字架につけられて死んだ古い自分の姿




十字架は死ぬ場所です。キリストがそこで死にました。

キリストが十字架にかかった時に、パウロが一緒に死んだわけではないです。

それなのに なぜキリストと共に死んだと言えるでしょうか。


自分が罪人である認識がないとキリストの十字架は意味のないものです。


悔い改めも 救いも なぜ必要なのかも分かりません。

しかし、自分が罪人である認識は キリストの十字架の意味を知らせる大きなカギになります。


パウロが よみがえられたイエス様に出会って、初めて分かったのが キリストがメシアであること、十字架の意味、そして自分が罪人であるという認識でした。


そしてキリストの十字架は、自分の罪のためであると認識しました。


自分が死ぬべき場所にキリストが代わりに死んだことを知りました。

それを知ったパウロは 古い自分をその十字架につけました。

それは新しい人として生きるためでした。


古い人のまま生きることは 神の恵みを無にすることであり、キリストの死を無意味にすることだと悟りました。


自分のたましいを救うために犠牲を払った主のために生きるためには 古い人は死ななければならないです。


そしてパウロの中にはいつも十字架がありました。



【ガラテヤ6章14節】

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

パウロはイエス・キリストの十字架を誇りとして生きました。


十字架の力、十字架の福音、十字架の望みを いつも心に刻んで生き、それだけを伝えました。


それが新しく生まれ変わった彼の姿でした。




使徒の中でも もっとも小さい者である姿




【第1コリント15章9-10節】

私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

私たちが見るパウロは 使徒の中でも一番すぐれた使徒ですが、本人はそう思っていなかったです。

それこそが謙遜な姿です。


パウロが使徒として召されたのは、主が生きている時ではありませんでした。

教会に対して迫害しているパウロの前に 主が現われ、彼を選びました。


ある意味 使徒として一番不適格な人物がパウロでした。


パウロ自身も それにはびっくりでしたが、使徒として選んで下さったことは自分に対する大いなる主の恵みであることを知ってパウロは使徒としての務めに全力で取り組みました。

最後までその姿は変わりませんでした。


教会が大きくなる前は 謙遜で良い働きをした主のしもべたちが、教会が大きくなり、信徒の数も増え、有名人になると態度が変わって転落の道をたどる人がとても多いです。

世界的に有名な先生が倒れていくのは、パウロにある姿がないからだと思います。


外側は謙遜に見えますが、うちにあるのは “これは全部私が働いて築いたものだ” という自慢です。

いつの間にか“主”ではなく、“私”が主役になってあります。
もっとも危険な姿です。


しかしパウロはあれほどの働きをしたにもかかわらず、それを自慢したり、高慢になったことがありませんでした。

もし高慢になったならば、神の恵みを無にしたことになります。


たくさんの働きをしたからと言って、自分が偉いわけではなく、むしろ恵みが与えられ、働きが出来たことを主に感謝しないといけないです。


パウロはいつもそのようにしていました。




罪人のかしらである姿




【第1テモテ1章15節】

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

この言葉がパウロの口から出たことはすごいことだと思います。


なぜならば 本来の彼の基準からみたら、自分ほど正しい者はいないからです。

誰よりも律法に熱心で、敬虔な生活を送り、律法を落ち度なく守っていました。


罪を犯しながらも自分は罪人じゃないと思っている人とは違いますね。


パウロは宗教に熱心な典型的なパリサイ人でした。

ですから 他のパリサイ人と同じくイエス様に敵対していました。

それはイエス様や弟子たちを律法を乱す とんでもない罪人と思って迫害しました。


そして救いは律法を守れば大丈夫だと思っていましたので、イエスの存在が理解出来ませんでした。


しかし復活のイエス様に会い、霊の目が開かれてから 本当の自分の姿に気付きました。

自分がとんでもない罪人であることに気付きました。



【第1テモテ1章13節】

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていない時に知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

パウロは無知であった自分に対して、主が豊かな恵みを与えて下さったことに対して 絶えず感謝をささげました。


思い出す度に恵みの大きさに感激しました。

そして彼は生きることも主のため、死ぬことも主のためと決めました。


それからは後ろを振り返ることもなく、主のために、福音のために生涯をささげました。

そこには何の迷いもありませんでした。


なぜならば生きる目的が明確であったからです。


【ガラテヤ2章20節】

いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

アーメン ( ̄‥ ̄)=3

2016.1.10
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