からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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弱さ

花嫁としての準備

テーマは 『 花嫁としての準備 』 です

【詩篇119篇97-104節】

どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

あなたの仰せは、 私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。

私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが 私の思いだからです。

私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。

私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。

私はあなたの定めから離れませんでした。それは、 あなたが私を教えられたからです。

あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。

このみことばを読んで、自分の言葉として主に告白をしました。

私にとって主は、何も無くても いつも私の心を癒して下さる方です。


世の中でどんなに恐ろしいニュースが流れて、終わりの時代に向かっていても――
どんな時でも私の心が主に繋がれているので、私はすぐに主のいる安全なところに逃げ込むことができます。


この詩篇119篇の1節1節を読むと、とても重い言葉だと感じます。
この言葉の中で黙想をしていくと「この告白はまだ自分には出来ないな」など色々と思います。

それでもその中で自分とピッタリのことばを見つけると、とても嬉しくなって(記者と)一緒になって感謝をしたり、私はまだまだ成長過程ですが、 「私にも詩篇の記者と同じ心がありました。感謝します。」という心で主に感謝を捧げることができます。


【雅歌4章9-16節】

私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。

私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。

花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、あなたの舌の裏には蜜と乳がある。あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。

私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。

あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、

ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、香料の最上のものすべて、

庭の泉、湧き水の井戸、 レバノンからの流れ。

北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入り、その最上の実を 食べることができるように。

聖書には“花嫁”という言葉が何度も出てきますが、男性の方にはピンと来ないかも知れません。

でも、この箇所は“自分の心”のことを言っているのです。
つまり、イエス様に捧げる私たちの心を指しています。


私たちの心が、神様に捧げる最上のもので満たされているかどうかを確認してみたいと思います。





~雅歌4章より~




(聖書を読む時に)私たちはこのような言葉をサーッと流してしまうとダメなのです。
そうではなく、自分自身に問い返してみてください。


< 私の妹、花嫁よ >

イエス様があなたをご覧になって、愛のまなざしで私たちの名前を呼んで下さるのです。(自分の名前を入れて読んでみてください)



< あなたの愛は、なんと麗しいことよ >

読んでいて「えっ?本当かな…」と思いませんか?
自分の愛は、イエス様が「あなたの愛は、なんと麗しいことよ」と言ってくださるほど イエス様に対して愛に満ちているでしょうか?



< あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている >

“あなたにとって わたしが一番なのか?”と、イエス様が私たちを見て下さっているのです。


雅歌は、恋人同士の麗しい詩なのです。
ですからイエス様に対する私たちの愛を確かめる詩なのです。


“花嫁よ。あなたの愛はどこにあるのか?あなたの心の中にわたしに捧げる麗しいものは何かあるか?”
今、自分の心を探ってみてください。

イエス様に捧げる美しいものが私たちの心の中にあるでしょうか?


私たちは「イエス様!こうしてください。ああしてください。」と祈ります。

しかし、神様は天におられて、私たちは地にいます。


私たちの心は、神様にピッタリするほど合ってはいないのです。ピントがずれています。
それに加えて私たちの心は麗しくないのです。



< 花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、あなたの舌の裏には蜜と乳がある。 >

イエス様は私たちに「わたしの愛する息子よ。」「わたしの愛する娘よ。」と言ってくださるのですが、雅歌を読み進めていくと、このようなことばが書かれています。

この箇所はどのような意味でしょうか?


私たちのくちびるは神様が造ってくださいましたが、私たちのくちびるからは一体何が出て来るでしょうか―?

口は、心にあるものがそのまま出てきます。

ですから私たちの心が良い思いで満ちていれば 良い言葉が出てきますが、悪い心で満ちているなら 悪い言葉が口を通してそのまま外に出ていきます。


イエス様を喜ばせる愛の告白と、甘い甘い蜜、神様のことばに常に従いたいと思うみことばを 私たちはいつも告白しているでしょうか?

私たちはあまりにもこの世に染まって生きているので、1日のうちでイエス様のことを思い出すのはとても短いのです。


私たちは終わりの時、花嫁の姿でイエス様に「主よ、来てください」と言う際に、どうしても必要なものは“整えられた心”です。
私たちの心が 整えられた心になっていないと、花嫁の姿とは言えないです。



< 私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉 ~以下15節まで~ >

ここに書かれているのは全て最上のものです。

私たちは世の中で生きていますが、誰に対しても何に対しても 心を開けていては、心がすぐにゴミだらけになってしまいます。


サタンは私たちの心にゴミをいっぱい入れてやろうと狙っており、いつも待ち構えています。

思い煩い、怒り、ねたみ、嫉妬、苦しみ、他人との比較、競争意識、劣等感など、悪魔がごっそりと持って私たちの心を目がけて投げて来るのです。

それを全て受け取っていたら、私たちの心はあっという間にゴミだらけです。


花嫁の心が“閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉”とはどのような意味でしょうか?

心は大切な方だけに開けるのです。
世の中が私たちに向かって色々なものを投げてくる時には 心を閉じておかなければならないですが、反応しないということではないです。

反応はしますが、神様と一緒に対処していけば良いのです。


私たちの一番大事な心は、一番大切な方のためにいつもとっておきます。

閉じられた庭というのは、最上のもので満ちた庭のことで、その庭をいつも開けて誰かに踏みつけられるままにしている人はいないですね。


一番大事な物、一番麗しいもの、花嫁は花婿のために心を準備しておくのです。

その日のために大事なものは蓄えてしまっておき、いつでもイエス様が来られたら“ どうぞ ”と言って閉じられた庭を開けるのです。



< 北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭に入り、その最上の実を 食べることができるように。 >

祈りは(心を)開けている状態であり、大事な方との“交わりの時”です。
自分の心の中で イエス様に蓄えてきたものが、その時に香りを放ちます。

祈りは戦いのときではありますが、ものすごく甘い時間でもあります。


私の心がイエス様に向いていて、イエス様が私の心をとらえてくださるので、この世で何が起きてもとても落ち着くことができています。


それは イエス様のために、日々心を聖めていこうと努力をしているからです。

悔い改めというものは、自分の心を綺麗にすることで、「愛するイエス様のために日々綺麗にして準備をしていきます」というのが日々の姿勢です。






【創世記3章6節】

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を 取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

これは私たちの普段の姿です。
私たちが肉を殺さないまま生きると、いつも失敗をするのです。


サタンはいつも私たちの五感を通して 良いものに見えるものを持ってきます。

そうすると「良いなぁ」、「あ、これは私が願っていたことだ!」とすぐに手が出ます。
これは肉の姿そのままです。これが私たちの日常の姿なのです。


つまりエバの姿は、私たちも持っているということです。


先ほど、心を守ることについて話をしました。

私たちは心を守らないと、あっという間に罪を犯します。

サタンはいつも私たちをジーっと見ていて目をそらすことがないです。私たちの目にサタンが映らなくても確かに霊の世界があります。


特にクリスチャンは狙われて、1人でも多くのクリスチャンを地獄へ落としたいので しつこくついてきます。

そこで私たちが“御霊によって歩みなさい”というみことばを握っていないと、あっという間に落とされてしまいます。


みことばは私たちの足のともしびです。道の光です。
私たちが歩む道をイエス様が守って下さいと祈っていても、ある1つの選択で道を踏み外すときがあります。

私たちは武装していなければならないです。
世のもので心が充満な時にサタンの試みがやってくると100%落ちてしまいます。


神様は私たちに聖書を通して失敗した人たちの姿を赤裸々に見せていますが、これは“あなたも同じような者だから気をつけなさい。”ということです。






【創世記19章26節】

ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。

これはソドムとゴモラが滅ぼされた時でした。
神様が御使いを送って町を調べに来て滅ぼそうと決めたのです。

アブラハムのとりなしによって ロトと妻、娘たちは救い出されたのですが、ロトの妻だけが塩の柱になりました。

それは御使いが語られた言葉を心に留めていなかったからです。


御使いは次のように語っていました。


【創世記19章17節】

彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも 立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

うしろを振り返ってはいけないと言われていましたが、心に留めていませんでした。
それでまさか死ぬとは思っていませんでした。


町は火と硫黄で焼き尽くされてしまいましたが、ロトの家族はその災難からは逃れて神様からの憐みによって逃げましたが、まさかこんな所で (ロトの妻は)死んでしまいました。

これも私たちにとっては他人事ではないです。


私たちは自分が思っているほど強い者ではないです。


自分の姿をよくよく見ると、どんなに汚れた者なのか、と自分の罪を真正面から見て、「自分は弱い者だ。」「自分は罪深い者なんだ。」と自分の姿を知り それを心に留めて必死で生きている者と、のほほんと生きている者とでは試みが来たときに差が生じます。

この時は生きるか死ぬかのところです。試みは私たちの普段の生活の中で色々と出てきます。


ですから、みことばを握って忘れないことです。この時は「いのちがけで逃げなさい。」と言われました。
しかしロトの妻はいのちがけで逃げようとはしていなく、つい後ろを見てしまいました。


こういうことは私たちにもあるのです。

聖書の中の人物を通して自分の姿を見ると、自分の中にある弱さに気が付きます。






【マタイの福音書25章1節】

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

この箇所は皆さんもよくご存知です。

クリスチャンである娘十人がイエス様が帰ってこられるのを待っていました。

5人は準備万端でしたが、5人は準備が足りませんでした。
まさか油が必要になるとは想像もしていませんでした。


でも“まさか”ということが起こるのです。
そして準備のできていない5人は慌て、油が準備できている娘に分けてもらえないかを聞きました。
しかし断られて店に買いにいけば良いと言われました。


その時が来ると準備不足の人が、準備のできている人から助けをもらうことは出来ないです。

主が来られるという約束を私たちは知っています。でもその本気さは人それぞれです。


世の事が忙しくて、「今は他のことをしないといけない」とそれを優先させていると、いつの間にか花婿が来るということをサタンが遠くへ持っていき、思考の中から消してしまいます。


6節に“ところが、夜中になって”という言葉があります。いつの間にか娘たちはウトウトして寝ていました。
ところが夜中の思いもよらない時間に来ました。

私たちにはこういう時が来るのです。


“神様の時”は待ってはくれません。
『思いがけない時に来るから目を覚まして準備をしていなさい。わたしは前もって教えた』 とおっしゃるでしょう。


心を綺麗にしていくことは準備のうちの1つです。
そして、愛を与えていくことも準備のうちの1つです。


私たちは自分のためだけに生きているのではないです。

私たちと一緒にいる人たち、特に家族もそうです。一緒に生きている人たちに、イエス様がされたように愛をいっぱい注いで生きていくことは、≪互いに愛し合いなさい≫ という神様のみことばを実践するものです。


「私は天国へ行ってもあの人のことは知らない。」という心ではイエス様は喜ばれないです。

“あなたを愛している”とイエス様は私たちに言ってくださいます。
“でもあなたの隣にいる人もわたしはとても愛している。だからあなたが生きている間に (その人たちに)わたしのことを伝えてわたしの愛を流していきなさい。天国へ行く者を増やしていきなさい。”とおっしゃるのです。


私たちには天国へ行くための準備が色々とあります。
私たちは祈る時に色々な目が開かれていきます。


自分の思いが潰されていく時に 新しい神様の視点が入ってきます。


自分はこれで良いと思って生きていても、神様がそれはダメだとおっしゃるなら それは捨てなければならないです。


花嫁の姿は純白です。ですので、それに相応しい者になるために―。
私たちにはまだ時間があります。でもいつも目を覚ましていないと突然起こります。


【ヨハネの黙示録22章17-21節】

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、 それをただで受けなさい。

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に 書いてある災害をその人に加えられる。

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と 聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。 主イエスよ、来てください。

主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

これを自分の言葉として「アーメン」と言ってください。

“しかり。わたしはすぐに来る。”主が来られることを私たちに語っておられます。


それに対して私たちは「アーメン。主イエスよ、来てください。」と心から言えるように準備をするのが大切です。

神様が私たちに前もって準備をさせるので、私たちは本当に幸いです。


でも準備ができない人がたくさんおられるので、そういう方たちの為には私たちを通してたくさんの愛を流して聞く耳を開かせて、そしてそこに必要なみことばを蒔いてください。


時が迫っているからです。
(; ̄Д ̄)

2014.11.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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すべての事について…感謝❤

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人間としての苦難

テーマは『キリストの苦難の特徴』です。

【イザヤ53章1-9節】

イザヤ書53章はイエス様に対する預言であります。人間として苦難を受けている姿です。
4月8日はイースター(復活日)です。
復活があるということは、その前に人間としての苦難とイエス様の十字架の死があります。

人間としてイエスキリストがどのような苦難を受けたのか学んでいきます。

― ①人間としての苦難 ―

イエス様はさげすまれた人生を送りました。 1ー4節まで苦しみ、苦しみ、苦しみ・・・
人間として受けた苦しみがずっと書かれてあります。
イエス様が生まれた時の姿もそうでした。産婦人科で産まれたわけでもなく、自宅でもなく、場所もなく、
馬小屋の暗闇の中でイエス様は産まれました。小さい時もずっと貧しい生活をしていました。
人間として生まれてあらゆる苦難を受けました。

この地上で贅沢な生活をするために、幸せに生きるために、イエス様が来たのではありません。
イエス様が人間の姿で生きるということが預言されています。
人は産まれてその人生が幸せになることを願っていますが、不幸な人生だと「自分は何の為に生まれたのか?」と
自分を責めたり、周りを責めたりします。

幸せになるのが当たり前だという思いがあります。
しかしイエス様は産まれる700年前からイザヤ書に書かれてありました。
人間としてすごく苦難が多いということが預言されていました。

誰よりもイエス様は人間としての苦難が多かったです。
人間が感じる悲しみ、辛さ、苦しみ、寂しさ、全てを体験しました。
私たちと同じ身体を持って、生まれてずっと命を狙われていました。
宗教の指導者達も常にイエス様の命を狙っていました。

人間としての苦難の姿がここにありますが、イエス様ご自身の為ではなく、私たちの為でした。

【ヘブル4章14-16節】

人間としての苦難を受けていないならば、人間にできないことがあります。
イエス様が苦しみを受けましたので、人間がいちいち語らなくても、イエス様は感じます。
悲しんでいる人を見ると、イエス様は人間の弱さがわかるので同情します。
人間の肉体が弱いことも知っておられますので、イエス様は同情をしました。

イエス様ご自身も弱さを持っておられましたので、私たちを生かし、受け入れ、憐れんで助けてくださいます。
そして恵みを与えてくださいます。

もし(天には)神様だけで、イエス様が地上におられなかったら、私たちが地上で「苦しいです~!
イエス様助けてください!」と叫んでも 「何が苦しいんだ?」と、多分同情できないと思います。
その立場に立っていないからです。
イエス様は神様と同じ方でありますから、それは父なる神様が痛みをこらえながらイエス様を人間として送ったことを意味します。

神様が「行って、苦労してきなさい。もっと人間が持ってる弱さを体験し、苦しみを体験して、
彼らの為に働きなさい。」とおっしゃったので、イエス様が来てくださいました。

憐れみを受けるのはイエス様が体験したから私たちが受けるのです。
何もしていない者に恵みを与えるのは、体験したから助けたのです。その人達を助けて導きたいです。
イエス様が人間としての苦難を受けたからで、自分が何か間違えた事をしたのではなく、
怠け者だから苦難を受けたのではないです。努力していないから苦難を受けたのではなくて、
それも私たちの弱さを同情して憐れみをもって助けるために、イエス様自らがその苦難を受けました。

【マタイ27章39ー44節】

イエス様が人間として苦難を受けた姿が出ています。
十字架で苦しんでいる上、周りの者達はさらに罵りました。
私たちがイエス様の立場に立ったとしたらどうでしょうか?
苦しいのに、人々がそれを見て可哀想にと誰も思わないです。
イエス様に従った人達は助けたい思いはありましたが、それ以外のほとんどの人達は罵っていました。
こんな苦しみは耐えられないと思います。死ぬ直前まで人間としての苦難を受けていました。
有り得ないことですが、実際にあったことです。

私たちは苦しみに遭うとすぐに逃げようとします。だから多くの人達が命を絶っています。
3月になると特に自殺する人が多いです。経済、病気、問題などで苦しいことがあると絶ってしまいます。

もし自分が苦しい立場に立っているならば、このイエス様の姿を思い出すべきです。
十字架の上で鞭打たれて身体が全て割かれて痛いのに、そこに更に人々は追い打ちをかけます。
罵られてもイエス様は静かにしていました。

イエス様は他人を見て「(自身の人生を)こんな人生」と言ったことはありませんでした。
初めからその苦難を受け入れました。

ー②人間のための苦難ー

【イザヤ53章5-6節】

意味のない苦難ではないです。意味のある苦難であります。
罪のないイエス様が、罪人たちの罪を贖うために苦難を受けました。

【Ⅰペテロ2章24節】

【Ⅰペテロ3章18節】

すごく尊い目的を持ってイエス様は来られ、その目的通りに苦難を受けました。
それは受けなければならない苦難でした。
悪い人々の身代わり、悪い者たちの代わりにイエス様が全部罪を背負って死なないと贖いの道が
開かれなかったです。そのためにイエス様は十字架という苦難を受けないといけなかったのです。
罪人達が死ぬべきところを代わりにイエス様が(十字架に)架かって死にました。
これは目的があってなされたことであります。

それによって私たちが受けた祝福が2つあります。

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①神の敵として生きていた私たちが、神様との関係回復が行われたこと。
エペソに「隔ての壁が イエス様の十字架によって壊れ、神の敵だった者たちが和解して神様の家族になる。」
しかし、神の敵として生きている人が多いです。
それを信じて受け入れた人達には、その祝福がそのまま流れます。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

②死の病気から解放され、そして霊肉とも神様が強くしてくださる祝福が与えられました。
私たちの霊が癒されたことを意味します。
ただ「病気が癒されました。」ではないです。
「死にました。」しかし、イエス様の血潮がそこに流れていくときに死人が生き返る祝福が与えられてあります。
私たちは霊的死んだ者は、人間に死にます。

しかし霊が生かされることによって永遠の命の中で力強く働きます。

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

ー③人間による苦難ー

【イザヤ53章7-9節】

サタンが現れて苦しみを与えたのではないです。人々がそうしました。
祭司たちが、民たちが、ローマの兵士たちがそれをしました。

【マタイ27章27-31節】

人間がイエス様に苦しみを与える姿が出ています。
想像してみましょう。イエス様の立場を自分たちの立場だと思ってください。

~ イエス様の周りに隊が集まったのは何人だと思いますか? ~
100人です。そこに百人隊長がいたからです。
100人の男の人達が集まった中に、イエス様が1人でした。
彼らはからかい、面白がってすることでありました。100人の前で侮辱を受けました。
つばきをかけました。犬に対してもつばきはかけないと思います。
これを人間にするということは最も軽蔑することであります。

こんな侮辱、耐えられますか?私たちならば早く死にたいと思います。こんなに恥ずかしいことはないです。

これで解放されたわけではなく、さらに十字架にかけられました。
誰が耐えられますか?それをイエス様は人間から苦難を受けました。

しかし復活されました。
今もイエス様は生きておられます。私たちはイエス様に対してどうしているでしょうか?
イエス様が今も死人であるならば、私たちが何をしても感じないと思います。

再臨なんて有り得ないとか、イエス様は死んでいるから聞いているはずがないとか
イエス様に対して悪を働く者たちがその時になって驚くことになります。

自分達がイエス様の前で行っている姿が、こういう兵士たちがやっている姿なのか?
私たちの口から出る言葉がイエス様に対するからかう言葉でしょうか?軽蔑する言葉でしょうか?
時には、罵る言葉でしょうか?直接「呪います」とは言わなくても、「あんたなんか信じたくもない」と。

自分が感情的になって主の前に語る言葉は、すごく恐ろしい言葉であります。

【ヘブル4章13節】

神の前に立つ日が来ます。
≪あなたは私に何をしたんだ?≫ 私たちがどんなに隠そうとしても隠せないことであります。
その時になって恥をかきます。隠したくても、神の目にはそれは不可能であります。

今の私たちの行動が、イエス様が十字架にかかる前の人々の行動と似ている行動をするならば、
私たちはその仲間であります。
つばきをかけなくても、私たちの口から出る言葉がつばきをかけることと同じであります。

苦難の後に蘇ったイエス様は今も私たちの全てを見ておられます。

イエス様の前で私たちはまず何をしたら良いでしょうか?
「あの苦難は私のための苦難であったんだ。私の罪のため。
イエス様が人間の姿で来なければならなかったのも、イエス様が討たれたのも、私の罪のため。
そして私がイエス様にも十字架を知る前にそういう風にイエス様をからかった者であった。
イエス様を罵った者であった。」

以前はそうでありました。今はそうであってはいけないです。
今はその主に対して心を開いて受け入れて感謝して、それからみことばに従順する人。
これなら私たちは問題ないと思います。

イエス様が願うのは、それであります。 ≪ 私の前で生きる者になりなさい。≫

イエス様が来られた時も、神の前でも主を喜ぶ姿で生きるならば、私たちは恥をかかずに済むと思います。
その姿で生きる者になりましょう。

2012.3.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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謙遜な人パウロから学ぶ

テーマは『 謙遜な人・パウロに対して 』です。

【Ⅱコリント12章9-10節】

パウロは新約聖書の中で信徒たちに多くの手紙を書いた、使徒の中の「使徒」の存在でした。
学ぶべきことがとても多い人物です。私たちが目指す姿であります。

目標はもちろんイエス様ですが、あまりにも素晴らしい方なので目指すには難しい部分がありますが、
パウロは自分たちと同じような性質(境遇)を持っている者です。

― パウロは、なぜ良い働きができたのでしょうか? ―
特別な者ではなく、パウロは救われた時から謙遜な者でした。
教えてくれる先生がいたわけではなく、主の言葉を聞いて、まず自分を打ちたたくことをしました。 

「傲慢な者は退ける」・・・自分の働きをアピールした者もいましたが、
そのように言った彼らをイエス様は「知らない」と退けました。 ≪傲慢な者よ。≫

主の働きをしているにも関わらず、「自分はイエス様に対して何もしていません。」という者に
神様は覚えてくださいます。(パウロの姿)

弱さを誇る者になること。(自らの弱さを認め、謙遜な者になる)
この世の中のルールでは、自分を強く見せようとしますが、それは神様から見ると傲慢になります。
もちろん、自分のことを「弱いです」と悲観的になって終わるのではなく、
「主よ。私はこんなに弱い者です。どうか私の内で働いて下さい。力を満たして、使ってください。」と祈ります。

パウロは、イエス様に出会って初めて自分の本当の姿を見ました。
それまでは他の者より優れていると誇っていました。しかし、罪人だということに気付きました。
自分の弱さを見つけるのが、謙遜なことです。

【Ⅰコリント1章26-29節】

この聖句で、神様は誰を選んだのでしょうか? 
神様はもちろん世の中すべての人を救いたいですが、ここに書かれている者を神様は選んでくださいます。
幸いな者です。弱かったこと、愚かな者であったことも感謝しなければなりません。(ここで悲観してはいけません。)

パウロは、その中のものと関連していることを悟り、弱さを誇る者になりました。
私自身は弱くても、神様は偉大な力を持っておられます。

特に日本人は、自分の悪いところばかり目につけて悲観しますが、
良い部分を伸ばしていくようにしなければなりません。
神様の中のことばに従って、弱い者だと悲しむ必要はないです。さらに神様が力を与えてくださいます。

【Ⅱコリント12章7節】

パウロは肉体に病気を持ったまま働きをしていました。これは「私も誘惑に弱い者だ」ということです。
私たちは自分の姿が一番信じられない姿で、世の中でも自分自身が一番裏切る者です。
パウロは自分自身を信じていませんでした。
「自分は大丈夫」という者は本当の姿を知らない者で、サタンによって倒されます。

ペテロは、イエス様から離れませんと言っていましたが、イエス様のことを一番に「知りません。」と言いました。
このペテロの姿が、私たちの姿でもあります。勘違いの性格。自分を信じるのは傲慢です。

しかし、このような者は何か苦難があるとすぐ神様に不満を言います。

【Ⅱコリント11章30節】

いつも自分の姿を見ていて、信仰生活の中で一番必要なことです。そして自らを低くする者。

「自分は弱いです。」と言いますが、その中には「頑固な心」がある人もいます。
人の言うことを聞かない、愛をもって語る言葉を聞かないならば謙遜な者にはなれません。
それを砕かなければいけないです。

【Ⅰコリント9章16節】

福音を伝えることはクリスチャンにとって義務なので、自慢することではありません。
「従います。アーメン。」と言うだけです。 義務は誇る必要がありません。

福音を伝えるチャンスが来たら、語ったりチラシを渡すなど、いつでも準備しておきます。

【Ⅰコリント9章18節】

奉仕をしているから恵みを与えてくださるだろうと取引をしている牧師や信徒がいます。
田舎や島には、牧師や伝道師がいない教会もあります。
人手が不足しているのではなく、実際は牧師や伝道師は余っています。
しかし、生活しにくいという理由で動かなかったりしています。これはお金を求めて動いたらいけないということです。

色んな働きがありますが、それらを誇ってはいけません。(神様は、既にたくさんの恵みを与えたではないか――。)
神様に「させて下さって感謝します!」と思ってすることです。

【Ⅰコリント9章19節】

奴隷は自分の権利を放棄した者だということです。これこそ謙遜な者です。「下で仕える姿」です。

【Ⅰコリント15章9節】

謙遜な心から出る思いであります。自分をけなした言葉ではありません。偽善的でもありません。
この聖句を自分の告白にしなければなりません。
自分では謙遜していても、他人から「その通りですね。」と言われると腹が立ちます。
心が高ぶる時に、叩かなければなりません。謙遜になってへりくだる時、神様は高く上げてくださいます。

【Ⅰコリント15章10節】

「全て神様の恵みによってなりました。」
栄光の告白です。恵みがなければできませんでした、と。全てのところで神様のことを出さなければなりません。
「自分、自分、自分・・・」ではないです。全て自分のおかげだと言う者は、何もわかっていないことです。
神様の恵みがない所はありません。

パウロを見習いましょう。(謙遜、忠実、聖霊、愛の姿)そうすると、自分が地上から離れる時まで
ずっと神様が共にいてくださり、祝福を与えてくださいます。(⌒∇⌒)

2011.11.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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