からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

八戸ノ里キリスト教会より メルマガ配信中!

メルマガ購読・解除

読者購読規約
毎朝7時に配信しています! 1日の始まりを神様の恵みで満たしてくださいね
powered by まぐまぐ!
 
         

幸いな人

幸いの基準

テーマは 『 幸いの基準 』 です

【ルカの福音書6章20ー26節】

イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。

いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。

人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。

その日には喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。

いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。

みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。

本文では、それぞれ4種類の幸せな人と、哀れな人の姿があります。


この世の価値観から見ると、正反対になりますね。

聖書が言う幸いな人は、世の価値観や世の基準から見ると 哀れな人であり、聖書が言う哀れな人とは、世の価値観や基準では 幸せな人で羨ましい人になります。


イエス様が弟子たちを見つめながら、この話をしたのはなぜでしょうか。

彼らがイエス様に従ってきたのも 世の幸せが欲しくてついて来ました。

この時はまだ彼らの中に 人間的な欲がたくさんありました。


彼らが本当の幸せに気付いて欲しいという思いが主にありました。


今のクリスチャンも幸せの基準が変わらないと信じても、自分が祝福されていることに気付かず、いつまでも満たされない思いで 神には不満、豊かな世の人を見て みじめな思いになるでしょう。


今日は自分が持つ幸せの基準を神の言葉に合わせていきたいと思います。




・4種類の幸いな者




イエス様が語った幸いな人の姿は「貧しい者、飢えている者、泣いている者、迫害されている者」でした。


どうしてこのような人が幸いな人でしょうか。

ある意味、このような人たちは、世の基準から見ると一番哀れな人たちに見えます。


みことばに対する正しい解釈が必要です。


ここに出てくる人たちは貧困で苦しんでいる人のことではなく、霊的な部分において 自分のたましいの貧しさを感じた人であり、神のみことばに対して渇きをもっている人、自分の罪に対して悲しみ、神の国のために苦難を受けている人たちのことです。


この人たちに神様は目を留めます。

そしてこの世の一時的な栄光と富よりも、やがて来る神の国の栄光のために励む人々に永遠の喜びと栄光で報いて下さると神は約束しました。


【第2コリント4章16ー18節】

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。



・4種類の哀れな者




イエス様が語った哀れな人の姿は「富む者、飽き足りている者、笑っている者、みなの人にほめられる者」でした。


世的に見ると1番幸せそうに見える人たちの姿です。


不足どころか すべてが溢れています。
贅沢です。


しかしなぜ主は彼らを哀れな者と言われたでしょうか?


彼らは神のみこころのままに生きることもなく、一生自分の欲望を満たしながら過ごした人、自分の幸せだけを追求して生きた人、地上に富を蓄えた人たちです。


彼らは主の怒りの日にはすべてを失い裁かれます。


神の価値基準は、この世の基準とはまったく違います。

この世を自分の天国にしている人は永遠の天国には入れないです。


【ヤコブ4章4節】

貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

世の一時的なものに満足し、それに執着する人は 神の永遠の刑罰を受けます。


神の裁きの前で、その人は自分の貧しさを見て泣くようになります。


クリスチャンにも そのような人が多いので、このような警告がありました。

ラオデキヤにある教会に送ったことばです。


【黙示録3章15ー17節】

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

気づいて早く悔い改めないと神から言われた “哀れな人” に入ります。


聖徒はこの世に生きています。

ですから選択しなければなりません。


現実的な幸せに満足し、瞬間の喜びで終わる人生を生きるか、それとも神の永遠の栄光を期待しながら生きるかの選択があります。


イエス様が示した人生の祝福は 決して物質的な豊かさと楽な生活ではなく、霊的な神の祝福と内面の豊かな人生の祝福です。


さらに聖書が示す幸いを紹介します。

幸せの基準を変えるために知る必要があります。


【ヨブ記5章17節】

ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。

【詩篇112編1節】

ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。

【ローマ4章7ー8節】

「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。

主が罪を認めない人は幸いである。」

【ヤコブ1章12節】

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

【黙示録22章7節】

「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

アーメン ( -д-)ノ


2016.7.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

主の再臨の時、幸いな人とは?

本日のテーマは『 主の再臨の時、幸いな人 』です

【ヨハネの黙示録1章7-8節】

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方。万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

7節は、黙示録の中でも一番確信的な言葉であります。そして「喜ぶ」のではなく「嘆く」と書かれています。
それは、悲惨な目に遭うから「嘆く」のです。

それまではのんびりしていた者が、その時は逃れることが出来ないです。
(その時には、すべての人たちが世の)終わりだということが分かるのです。
その時に笑うのはわずかな人だけであり、イエス様を信じていない人が再臨を楽しみにして、
終わりの時を迎えてしまったのならイエス様はその人を迎え入れることはないです。

クリスチャンでも、イエス様の再臨を「早く来てほしい」という人がいます。準備が出来ているのでしょうか?

今回語る聖書箇所で自分の姿を見てください。
再臨の日が私にとって喜びなのか、それとも「主よ、なぜ今 来てしまったのですか?」と思うのか、どちらでしょうか。


【ヨハネの黙示録1章3節】

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

最近は、不吉な予感がたくさんあります。地震、洪水、大嵐、内乱、戦争の噂などが、ずっと出ています。
終末の足音であることは、クリスチャンではなくても分かります。時が近づいていることが明確であります。

ですが、この時に何をしている人が幸いでしょうか?
神様がこれから起こることを語りますが、それをしっかりと聞いて心に留めるということは、
知識として聞くのではなく、神の真理の言葉として受け入れて従順をすることです。

聖書の祝福は、救い以外では、自分が従順して初めて手に入れる祝福なのです。

神様が「この言葉をわたしの言葉として信じているのか。」と、私たちが本気で信じると、
信じた通りの行動をするのです。

この言葉が本当に起こるなら、私は何をすべきなのか?どんな生き方をしたら良いのかを考えてしまいます。
「いつ起こるか分からないことで、今からそんなことばかりを考える必要がないわ。
好きなように生きて、その時に目を覚ましたら良い」と、それでは遅いのです。

1日中動かないだけでも、筋肉の力が落ちるのと同じように、私たちの心の中も日々栄養を入れておかないと
命の水が出て来ないと、だんだん枯れて心の中から力が出て来ないです。

一度立ち止まってしまうと、次の一歩を出したいのに足が出て来なく、なかなか主の前に出てくることが
出来ないです。

これは誰もが経験をすることです。ですから、しんどくても言葉を実行していくとそこに力が付くのであって、
立ち止まると どこかに漏れて出てしまい、後で気付くと全然力が無い者になっているのです。


【ヨハネの黙示録16章15節】

――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないように
する者は幸いである――

再臨の時に、ある者は寝ています。身に着物を着けていない人がいるのです。裸で歩いている人がいるのです。
霊的に目を覚ましていなさいということです。クリスチャンはイエス様の血潮によって聖められた者、
義と認められた者であります。イエス様が義の衣を着せてくださっているということです。

しかし、そのものを再び罪を犯して、この世の汚れで真っ黒にしてしまうなら、
その人が着ている衣は「義の衣」ではないです。

「罪」というものは恥をもたらします。人はそれを隠していると思うのですが、神様の目には、罪は裸の状態です。

イエス様を 裸の状態で迎えるのですか?
ですから、義となった状態を維持していくことが大切なのです。


【ヨハネの黙示録19章9節】

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

イエス様が再臨する時に、自分は本当に招かれた者であるのか、そして資格があるのか。
口先だけで「小羊の花嫁です。」と言っても「残念ながらあなたの名前はないです。」と入ることができません。

ですから、自分の名前が消されていないのか、イエス様を受け入れた者は天国に入るまでイエス様と共に
歩みながら生きて行かなければならないです。

生きている時はチャンスがありますが、再臨の時はチャンスがないです。

クリスチャンだからといって安心してはいけないです。黙示録はクリスチャンに語った言葉であります。


【ヨハネの黙示録22章7節】

「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

ヨハネの黙示録1章~22章まで啓示した主の言葉のままです。


【ヨハネの黙示録22章18-19節】

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

真理の言葉をいじるからです。神様の言葉は完璧です。
それを人間が勝手な思いで切り刻んだり、違うものを入れるとそれが災いになります。


(ヘス牧師の教会では)悔い改めのことをよく語りますが、悔い改めは自分の着物を洗うことであります。

もともとイエス様が十字架の血潮によって、私たちが悔い改めた時に真っ白な綺麗なものにしてくださいました。
でもその後も罪を犯すので、着物も汚れてくるのです。しかし私たちがその時もそれを放置するのではなくて、
悔い改めるならば さらにイエス様の血潮が注がれて綺麗になるのです。

ですから天国に入るまで繰り返しが必要なのです。

罪を贖ってくださる神様の恵みを求めながらイエス様の血潮によって洗われていなければならないです。
白い衣を着て準備が出来た人だけが上げられて、汚れたものを着ている人は相応しくないので地上に残されます。

他人のことを心配をしている場合ではないです。自分が準備出来てから、他人を準備させます。

自分は目を覚ましているのか、自分の行いが主の前で正しい行いなのか、着物を洗っているのか、愛があるのか
色々と考えなければならないです。

地上でのことばかりを心配するのではなく、目を天に向けて、一生懸命準備して私の家族も準備させようという思いで働くと毎日、毎日時間がないと思います。
私たちはのんきに暮らすのではなくて、(再臨は)いつか分からないけど
いつか分からないからこそ、いつでも準備をしておかなければいけないという思いでしてください。 (´・ω・`)

2013.9.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

livedoor プロフィール
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

(^^) からし種 に投票してね
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ