からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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委ねる

神の守りと慰め

テーマは 『 神の守りと慰め 』 です

【詩篇116編1-19節】

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり 主を呼び求めよう。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。 まことに、私たちの神はあわれみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、 私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。

私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を 呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを 解かれました。

私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

私は自分の誓いを主に果たそう。 ああ、御民すべてのいる所で。

主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。

祝福の中で、平安の中で、いつも神様と親しい関係を持ちながら神様を第一にして生きる人の信仰は成熟した素晴らしい信仰です。

なぜならば これが意外と難しいからです。
私たちは何も問題がない平安の中でいつも変わらない心で神様を第一にしながら生活をすることは 案外難しいのです。


知らぬ間に、神様への想いが薄れていき、信仰も生温くなり霊的にはダメになってしまうからです。
これは誰にでもなる危険性があるということであります。

神様は人間が苦難の時より、苦難から救い出され 祝福された時のほうが神様のことを忘れる可能性があることを指摘されました。


【申命記8章10-14節】

あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

気をつけなさ い。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

あなたが食 べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、

あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、

あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――

神様のことを“忘れる”という言葉が出てきます。私たちは この言葉を心に留めて気を付けなければいけません。

苦しい時は必死に神様を求めたのに、苦しみが消えた途端 自分に祝福を与えてくださった神様のことを忘れてしまうのです。

詩篇116編は、神様からの救いを体験した者が その恵みを忘れることなく神様への感謝を捧げています。
これが私たちの姿でなければいけないです。


本文を通して、神様がどんなに素晴らしい方であるのか、そして その主に対して私たちがどのような姿勢で接するべきかを考えたいと思います。

私たちが今生きているのは、すべて主の恵みであります。
主の恵みはどのような形で現れたでしょうか。

恵みを受けることだけが大切なことではないです。
受けた後も、私たちは神様に対して正しい姿勢を見せなければならないです。




聖徒たちの祈りと願いを聞いてくださる主



【詩篇116編1-2節】

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり 主を呼び求めよう。

幼子が言葉を覚えてくると、お母さんに1日中 話しかけてきます。
「これは何?」、「どうして?」と好奇心旺盛です。
その姿は とても可愛いですし、嬉しいのですが 1日中だと、お母さんはさすがに疲れてきて うっとうしくなり
「うるさいよ」、「静かにしなさい」と愛する子供であっても 親はだんだん返事もしなくなります。
これは子育てをした人なら誰でも経験したことがあると思います。


しかし、私たちの神様はどうでしょうか?

神様が信徒たちに語る言葉があります。「たえず祈りなさい。」という言葉です。
私たちに絶えず誰かが声をかけてくるならば疲れると思います。でも、神様だけは違います。
絶えず祈りなさいということは、“絶えずわたしに話しかけなさい。”ということであります。

すなわち、神様は私たちがどんなに神様に話しかけても嫌がらないですし、面倒とも思わず むしろ話を聞きたいお方です。

そして願いを叶えてあげ 祝福もしたいと思っています。
死にそうになって助けを求めても誰も聞いてくれる人がいなく、助けてもらえないならば どんなに絶望するでしょうか。


しかし私たちは絶望する必要がありません。

私たちの声にいつでも反応してくださり、そして一番良い時に一番良いものを与えてくださる主がおられることを感謝しましょう。


ある人は「私の祈りは聞かれないんだ。」と言います。
これはどちらの問題だと思いますか?




ある本に次のように書かれていました。

ある人が天国へ行って イエス様によって幻を見せられました。

裁きの座にイエス様が座っておられました。そこに2人の子供を連れた母親の姿がありました。
母親はそこでひざまずくと、瞬間的に御使いによって2人の子供が目の前から消え 残ったのは母親でした。
この母親には旦那さんから受ける苦しみがあったので辛くて 子供を連れて自殺をした身でした。

そこで母親がイエス様に言いました。「私がどれだけ辛かったのかを知っていますか?」
それに対してイエス様は「分かっている。」と答えました。


その旦那さんは小説家で色々なことを妥協してほとんど家に帰ってきませんでした。
母親は2人の子供を育てましたが、苦しみがすごくあるので 旦那さんに色々と言いましたが、旦那さんには聞く耳がありませんでした。
家族をないがしろにし、仕事を優先にしていました。

それで母親が苦しく耐えられなくなり 最後には自殺をしましたが、その母親はクリスチャンでした。
母親は「いつも教会へ行き祈りました。だけどイエス様は全然聞いてくださいませんでした。全く旦那は変わらなく 私の苦しみは無くなりませんでした。
ですから私はあまりにも苦しいので死ぬしかありませんでした。」と言いました。


しかしイエス様が語る言葉は違いました。
「わたしはあなたが一生懸命に祈っているのを知っているし聞いていた。あなたの苦しみも全部知っている。
だから あなたがわたしに祈っている時に、わたしはあなたを助けようと思って何度も何度もあなたのところへ訪ねて行った。」と語りました。
そこで母親が「いつイエス様が私に訪ねてくださったのですか?私はイエス様に会ったことがないです。私がどんなに叫んでも聞かれたという思いが1度もないです。」と言いました。


しかしイエス様は「あなたの扉の外に立って、あなたの心を何度も叩いたのだ。でもあなたは1度も心を開いたことがなかった。わたしがあなたの耳に語ろうとしても、あなたの心の中は“あなたの旦那のこと”しか無かった。あなたは祈りの中でもずっと旦那のことしか考えていない。」と語りました。

母親は問題をイエス様に祈りながらも、母親の中にイエス様が入る隙間すらありませんでした。心の中には、100%旦那のことしか入っていませんでした。


私たちは問題があると神様にすごく祈りますが、
自分の心の中に神様が入ってくることが出来ないように問題だけを考えるのです。朝から晩まで問題を黙想するのです。

イエス様のことを黙想するのではなく、問題だけを黙想して心配ばかりをしているのです。

ですからイエス様がどんなにその人が可哀想に思って助けようとしても、結局はその人が拒んでいることになるのです。

イエス様が母親にそのことを語ると、母親は消えてしまいました。
それは天国ではなく 暗いものが来て一瞬にして姿が見えなくなりました。とても恐ろしいものでした。



私たちはイエス様が耳を傾けてくださることを知っていますが、その後は(祈りを)聞いてくださったイエス様が働けるように イエス様を歓迎し、そして問題を考えるのではないです。

私たちは忍耐をしながら希望をもって祈りながら「今日はどのように神様が働くのかなぁ」とイエス様を見れば良いのですが(イエス様を)見ないので失敗してしまうのです。

神様から祝福を受ける一番の手段は祈りなのです。神様は祈りなしに与えることはないです。
祈りは神様との交わりの手段だけではなく、神の恵みの通路です。




患難・苦痛から聖徒を助けてくださる主



祈りを聞いて、それで終わりということではないです。


【詩篇116編3-6節】

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。 まことに、私たちの神はあわれみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

この詩篇を書いた人がどんなに激しい苦しみの中にいたのかが 1つ1つの言葉で伝わってきます。主の御名を呼び求め、救いを訴えました。

苦しみの中、死の恐怖の中にいるならば 人間は生きてはいけないです。
人々は色々な方法を取りますが、クリスチャンはどのような方法を取ったら良いでしょうか?


どのような時でも聖徒たちは、その苦しみの中から出る為の突破口は 神様であります。他のものに頼るのではないです。

小さなことや、人間の力で出来る範囲のことでしたら、人間の力で解決されるかもしれませんが、
抱えている重荷が自分の力ではどうにもならない時は、「神様ならば この突破口を開いてくださることが出来るのだ」と初めから信じなければいけないです。

最強の救い主であり、最強の助け主であります。


この突破口は神様しかいない!という思いで 神様の御前に出てお祈りをしたら一番早いです。それが(問題解決への)一番の近道であります。


【イザヤ書12章2節】

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

どのような時代でも、苦しみの時に神様を呼び求めた聖徒たちは 神様から助けてもらいましたので、同じ告白が出ます。


世の中の人たちは苦しい時に何かに頼ります。しかし 祈りの対象を間違えて偶像の神に必死に求めます。


【詩篇115編2-8節】

なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と。

私たちの神は、天におられ、 その望むところをことごとく行われる。

彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。

口があっても語れず、目があっても見えない。

耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。

手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。

これを造る者も、 これに信頼する者もみな、これと同じである。

人々は誰かに助けを求めますが、多くの者たちが虚しいことをしているのだということです。
どんなにそこに心を注いでも、それは何も出来ない人間が作った偽りの神の姿であるので(助けることが)出来ないのです。ですから祈っても虚しいのです。

サタンが答えたとしても、与えた後には代価を取ります。その代価とは その人の命です。


しかし私たちの神様は、常に私たちを助けるために来てくださる神様であります。
この神様を心から信頼しなければならないです。

生きておられる神様は ただ1人であり、この神様だけが苦しみの中にいる者を助け 恵みを与え、そして救ってくださいます。




聖徒たちを完全に救いに導いてくださる主



【詩篇116編7-8節】

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、 私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

神様は 私たちの魂だけを救ってくださるために来られたのではなく、魂を死から救うのはもちろん、悲しみの時に慰めを与え、
つまずきから救い出してくださる方です。

イエス様が働いた姿を見ると、魂の救い、病人の癒し、悪霊の追い出し、問題解決、慰め、祝福など何一つ足りないものはありませんでした。

どのような時でも助けてくださる神様に祈らなければならないです。
どんなに小さなことでも、大きなことでも神様にとってすべてが可能であります。


人間にとって不可能なことでも、見捨てることがないです。

人々は試練の中で犯しやすい罪があります。―― それは神様に対するつぶやきです。

ひどい試練の中で、神様につぶやいたり 不平不満の罪を犯しやすいです。
本来ならば神様に助けてもらわなければならない立場なのに、反対に神様の前で罪を犯すので どんどん神様との距離が出来てしまい、なかなか祈りが聞かれなくなるのです。


その中で神様に対する正しい知識を持つことがとても大切であります。
1つのつぶやきがどれほど神様の前で大きい罪かわからないです。

神様に助けてもらうには、つぶやくのではなく 苦しい時、悲しい時、辛い時、どのような時でも神様に信仰によって求めることが大切です。

これが信仰の姿であり、謙遜な姿であります。


自動販売機のようにボタンを押したらすぐに答えが出て来るものではないのです。
頼り続けながら神様に委ねることです。

神様は 私たちを見捨てるどころか このように恵みを与えてくださる方であることを堅く信じてください。


このような素晴らしい神様に対する私たちの態度はどうあるべきでしょうか?
ただ「感謝します。」だけで良いでしょうか?

それで終わってしまうならば、神様の恵みを分かっていない人であります。
私たちは恵みを受けた後が大切であります。

謙遜な態度はもちろん必要ですが、何よりも神様に対する実践的な決断の姿勢が必要です。


【詩篇116編12-17節】

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を 呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを 解かれました。

私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

1回きりではなく、死ぬ時までです。
ずっと神様が良くしてくださったことを忘れないことが、神様への感謝のいけにえであります。
常に思い出して感謝を捧げ、祈りの中で誓いを立てたならば それは必ず果たしていくことです。

これを神様が喜んでくださいます。


恵みをいただいた後に、私たちは神様のところを去り 神様を忘れて好きなように生きるならば、いつかその人の魂は死んでしまいます。

神様を見失ってしまいます。
それがどれほど恐ろしいことなのかを知らなければならないです。 (; ̄Д ̄)

2014.3.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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主の小道とみこころとは?

テーマは 『私たち1人1人に対する 主の小道と主の御心について』 です

【詩篇25編4節】

【ミカ書6章8節】

【申命記10章12-13節】

【ホセア書6章5節】

イエス様を愛している私たちは、誰でも、主のみこころを知り、それに従い栄光を表わす者に
変えられたいと心から願っていると思います。

しかし、神様が私たちを知り尽くしておられるほどに、私たちは神様を知っているでしょうか。
生涯をかけて知ろうとしても知り尽くす事は出来ないでしょう。

主の御思いを知る事は、なんと広く深い事でしょう。と、みことばにあるように、
私たちの思いをはるかに超えたお方だからです。

また、主は、どんなお方でしょうか?
柔和でへりくだり、憐れみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵み深いです。【出エジプト記34章6-7節】
また、私たちをねたむほどに愛してくださっているお方です。【ヤコブ4:5】

みこころを知るには、みことばを通し、聖霊様を通し、預言の言葉を通し、周りの人の助言の中から
教えられることがありますが、それを聖書から見てみようと思います。


①みこころを知る為に、みことばを読む

聖書は、重要な問題の全てを網羅していますが、色々な問題や状況に直面した時に、
「こうしなさい」と細かくはっきりとは書いていません。

ですから、生活をしていく中で、色々な事が起きた時、みことばの中に主の導きを求めます。
すると、みことばをどのように適用していくのかを教えられます。
そして、そこに答えが見つかり、みことばが生きたものとなり、みことばを体験できます。

【詩篇119篇105節】

【エペソ5章17節】


②内におられる聖霊様が、語って下さったり、導きを与えてくださる

【ピリピ2章13節】

私たちの内に思いを与えて、神様が実現させてくださるという みことばです。

ですから、私たちはみことばを心と魂に刻みつけておく必要があります。
すると、聖霊様が時に適ったみことばを思い起こさせて下さり、決断する事を助けてくださいます。


③預言の言葉を通して、みこころを教えられ、励ましを与えられる


④周りの人からの助言で、聖霊様が気付かせてくださる

【箴言12章15節】

【Ⅰ列王記12章8節】

ソロモンの子レハブアムが王になり、民のことで、ソロモンに仕えていた賢明な長老に相談をしましたが、
長老の助言を退け、自分の意見に同調をしてくれるような若者に相談し、決断を下しました。
結果、民たちの心は離れていきました。
私たちは信頼できる人の助言を聞くべきだと思います。

このようにして、みことばを通し、聖霊様を通し、預言、周りの人の助言など、色々な方法で
主のみこころを悟らせて下さいます。




~みこころに従うことを、妨げてしまうもの~

私たちはみことばに従い、みこころに沿って歩みたいと願いますが、うまくいかない事があるのは、
どうしてでしょうか?

それは、私たちの古い人が反応し、それを妨げてしまったり、サタンがみことばに従わないように
妨げるからです。

妨げてしまうものには、どのようなものがあるのかを 一緒に考えてみたいと思います。

  1. 自分の願いと神様の思いが違うならどうしようと、不安になってしまう古い自分
  2. 自分の生き方を変える事を恐れてしまう。 ―― これは自分の考え方から出ようとしない古い自分
  3. 全てを委ねたくても、委ね切ることができない自我。そこにはいつも葛藤があります
  4. 祝福は望んでも、犠牲を払うことを嫌う心。 ―― 肉は犠牲を払うことを嫌います
  5. 世の物に対する色々な執着がないか

このように様々な自我との戦いがありますが、皆さんはいかがでしょうか?

神様の1人1人のご計画は違います。そして弱さも違います。
神様は、私たちが自分の自我と戦い 日々内なる人が強められて、造り変えられていくことを願っておられます。

どのようにして、主のみこころを知る事が出来るでしょうか?


①主に委ねる時に、主のみこころを明らかにしてくださる

【詩篇37編5節】

【詩篇55編22節】

【Ⅰペテロ5章7節】

【箴言16章1-3節】

自分の思いや方法ではなく、神様の導きや方法で従うということです。
人は心に自分の道を思いめぐらしますが、その人の道を確かなものにするのは主です。

私たちは自分にはどうすることも出来ない問題が生じた時に祈ります。
祈ってその問題を主に委ねる決断をします。そして、祈りながら待ちます。

しかし、待っている間に色々な思いがやって来ないでしょうか?
恐れが来たり、心配になったり、不安になったり、自分に対して安心できるものを置いておきたいという
ことはないでしょうか?
この肉との戦いは、生涯あるかと思います。
しかし、神様は私たちが思っている以上のことをしてくださるお方です。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです、とあります。


②日々、自分に死ぬ

「私の願いや思いはこうです。」と思う事は間違いではないです。
しかし、「主のみこころはどうでしょうか?」と祈る事は、とても大切です。
イエス様ご自身も「私の願うようにではなく、あなたのみこころのようになさって下さい。」と、
祈っておられます。

私たちは、時として犠牲を払わなければならない事もあるかも知れません。そして失うこともあるかも
知れません。
しかし、失うことによって得る恵みもあります。失うことによる恵みが大きいかも知れません。
私たちの肉は、難しく考えたり、律法的になったり、壁を作り、神様の働きを止めてしまう事があります。
また、自分の思いや考えを押し通そうとするなら、神様は決して働く事が出来ませんし、用いることも出来ません。

意外と自分の姿には気付かないことがありますが、聖霊様が気付かせてくださいます。
その時に、素直に従う者に神様の祝福があります。

また、思いこみが強く、自分の思いをしっかりと持っていると、自分の姿を知ることすら出来ません。
ですから聖書にある通り、砕かれた心、柔らかい心、鳩のように素直な心、また教えられやすい心をもって、
いつも心を開いて、主の御前に出る者となりたいです。

そうする時に、日々 自我に死ぬ者とされます。


③神様に全き信頼を置く者に、道を開いてくださる

神様は、しばしば試練を通して、いっさいを主に委ねる事を、分からせようとして下さいます。
しかし、私たちの気持ちを無視して 何かをすることはせずに、私たちが気付くようにしてくださいます。
じっと待ってくださるお方で、愛と忍耐の主です。

たとえ、自分の願い通りにならなくても、主は最善を成してくださるお方だと信頼し、委ねる時に
私たちが思っている以上の素晴らしい恵みを体験し、主の御業を見ることができます。

主に信頼する者は、失望させられることがありません。
そして、私たちは「自分が信じている方を知っています。」と告白することができます。


【Ⅰテサロニケ4章3節】

【ローマ12章2節】

どんなに素晴らしい神様のメッセージを聞いたとしても、古い革袋に入れるならば
恵みとして残らずに、どんどん漏れてしまいます。

「古い革袋」とは、生まれながらの性質そのものであり、「新しい革袋」とは、考え方を変えることです。

新しい革袋に入れて、恵みが漏れないように気をつけなければなりません。
つまり、≪自分の生き方を変える≫ ということです。


④神様に従順する時に、私たちが歩むべき小道へと導いてくださる

【ヨブ記23章8-10節】

試練の道、涙の道、曲がりくねった道、先が見通せない道・・・どんな道も知ってくださっています。
私たちの歩む道もすべて主が知って下さっています。

なんと幸いなことでしょうか。

【イザヤ書43章2節】

私たちは、神様が遠くに感じてしまう時や、孤独を感じる時こそ、主は最も近くにいてくださいます。

【詩篇142編3節】

【詩篇138編7節】

主のみことばの約束は満ちています。

盲目のテノール歌手・新垣勉氏

皆さんは この方をご存知でしょうか?
アメリカ人の父と、日本人の母との間から生まれてすぐに、助産婦の手違いで、
目に劇薬を入れられて失明しました。
その後 両親が離婚し、彼は父を恨み、中学生の時に自殺をはかりました。
しかし、その時にラジオから流れて来た賛美歌を聴いて 教会へと導かれました。
牧師との温かい交わりの中で、そこで彼はイエス様に出会い、そして信じました。
その後、様々な良き出会いを通じて、テノール歌手として多くの人々に生きる希望を与えておられます。

彼の名言:  ナンバーワンにならなくても良い。オンリーワン。(自分にしか出来ない生き方)
SMAPの「世界に一つだけの花」は、新垣勉氏の「オンリーワン」から出来た歌だと言われています。


私たちも世界に一つしかない花です。
私たちにしか出来ない生き方を、主は用意してくださっています。

他人と比べる必要はありません。
また、(自分に)無いものを捜すのではなく、与えられているものに感謝する者は幸いです。
私たちの内に働く力によって、私たちが願い、想いを超えて豊かに恵みを注いでくださる主です。

【詩篇143編8節】

【エレミヤ書10章23節】

【箴言3章6節】

【イザヤ書30章21節】

【Ⅰ列王記13章】

Ⅰ列王記13章には、騙されて神様のみこころから離れてしまった人のことが書かれています。

みこころを求め、神とともに歩む時に主が用意してくださった小道へと導かれます。
自分が何かをしようとするのではなく、いっさいを成し遂げて下さる主に明け渡して、信頼し
主が与えてくださる小道を真っ直ぐに歩みたいものです。

私たちがこの地上で生きている間、誘惑もあると思います。また、惑わされることもあるでしょう。
しかし、みことばをしっかり心に蓄えて、内におられる聖霊様に導かれて右にも左にもそれず
私たち1人1人に与えられている小道を歩んで行く者になりたいと思います。

命に至る道は、細く狭いとありますが、主の小道は 「天国へと通じる道」 です。

自分の将来も計画も主に委ね、自我を十字架につけ、信頼し従順する者に、
神様のみこころの道を歩むことの喜びと祝福があります。

主は1人1人の歩むべき道、最善の道を知ってくださっています。

大切なことは、何かをしてきたか ではなく、どのように主に仕えてきたか ではないでしょうか。

聖霊様に導かれ、日々自我を十字架につけ、
御心を求めながら 主が用意してくださっている それぞれの小道を歩んでいきましょう。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.5.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主に委ねるとは?

テーマは『 主に委ねよ 』 です。

【詩篇55編22節】

ダビデが客観的に自分自身に向かって語っている言葉です。
詩篇55編を見ると、ダビデが大変な状況にいることがわかります。


【詩篇55編1-8節】、【詩篇55編16-19節】

ダビデほど色々なことを経験した者はいないです。
詩篇は私たちが苦しい時に読む事が多いです。なぜならば、自分たちの中にある色んな思いを
とても詳しくピッタリと表現をしてくれるからです。それはダビデの頭から出たものではなく、
心、身体、環境で体験をして語った言葉だからです。すべて自分で経験をしたものであります。

ですから、何も経験をしないで頭で考えて書いているものとは全然違います。
それで自分たちが共感をする部分がすごくたくさんあります。

ダビデの敵は、彼の家族でもありました。家族や子供がダビデを苦しめました。
親しい友までもダビデを裏切りました。末っ子であるダビデを兄弟たちは冷たい仕打ちをしました。
結婚をしても家庭が平安ではなく、子供たちがダビデをすごく苦しめましたし、長男はダビデを
殺そうとしました。ダビデは悪い事をしているわけではないのに、彼の周りには敵が多かったです。

主は「ダビデはわたしの心に適った者である」と語りましたが、彼には色々な問題がありました。
しかし、その中でもダビデが潰れなかった理由は何でしょうか――?

【詩篇55篇22節】で語ってある通り、重荷を主にゆだねたので神様は彼を救い出してくださいました。
そのことをダビデは経験をしましたので、このような言葉が言えるのです。

ダビデはどんな時でも神様を見ていました。そして重荷を神様に委ねることを日々体験しました。

(金ヘス牧師が)実際に色々な相談を受ける中で、クリスチャンたちが多くの部分で勘違いをしている部分が
見えてきます。相談をする人には2つのタイプがあります。
表情に「問題があります」と書いてあるような曇った顔をしている人たちがいます。
「何かあったのですか?」と尋ねると「こういうことがありました。」と言います。そして、
「神様が私に与えてくださった十字架なので耐え忍んでいます。」と言って、黙って忍耐をしている人がいますが、
(このような姿は)特に真面目な人に多い傾向があります。

しかし、「十字架」と「重荷」は違います。

十字架は福音のために、主の名のために受ける苦しみです。自分がイエス様を伝えることによって、
また みことばを守ることにより生じた様々な苦しみであります。(ヨブがそうでした。)

自分に降りかかった苦しみを全部神様に委ねました。
そのことで失ったことに対してはヨブは一言も(不満を)言いませんでした。
私たちは失ったものに対して、ものすごく神様に文句を言います。それは十字架ではないです。

神様によって生じたものだけが十字架であります。

神様は立ち返らせるために、悔い改めの材料にしますが、十字架(使命)ではないです。
ですが、多くのクリスチャンたちが錯覚をして「どうして私にこんな重荷を神様は負わせるのですか?」と
言う時があります。
それは十字架ではないので重荷をおろして神様に委ねなさいと、はっきりと言います。
サタンに騙されている部分がとても多くあります。
サタンは「(あなたは重荷を)負っていなさい。それはあなたの十字架なのだ。」と言います。
しかし、それは十字架ではないのです。その人自身から出て来た色々な思いがそれを手放しません。

本来ならば手放すものなのに「私の訓練だ」と自分の背中に背負います。
そして苦しみながら「忍耐をしないと。耐えなければ神様が喜ばないんだ」と言います。

そのような考え方を変えなければならないです。神様から与えられた十字架ではないので、
それはあなたが背負っている重荷に過ぎません。

みことばには「あなたの重荷を主にゆだねよ。」と書いてありますので、背負ったままですと不従順になります。

神様は私たちが重荷を背負っていることに対して心配をしてくださいます。
神様は問題を見て心配をするのではないです。その問題を手放さないで抱え込んでいる人を見て
心配をするのです。

重荷を手放すと神様が解決させてくださいます。それが神様のみこころであります。

また、重荷以前に 神様は委ねてほしいことがあります。


【詩篇22篇10節】

自分自身を、命を与えてくださった神様に委ねることであります。
「私を神様に委ねます。」、「私を導いてください。」というのが私たちがすべきことであります。


【詩篇22篇8節】、【詩篇37篇5節】

私たちは神様の前で1つ告白すべきことがあります。
「神様、明日の事は私は何1つわかりません。」と、明日何が起こるのか誰もわからないです。
ですから「神様が私の道になってください」と告白をします。

神様はすべてのことを委ねなさいとおっしゃいます。
家族の問題も私たちの力で(解決)出来るものではないです。


【Ⅰペテロ5章7節】

1つの問題が生じると、一瞬にして思い煩いが私たちを襲います。それによって疲れてしまいます。
しかし神様が私たちが思い煩いで嘆いている姿を見て、心配をします。

ダビデも自分の命を狙う者の中で泣きながら うめきました。
だけどそれは思い煩いではなく、祈っている姿であります。
思い煩いと祈りは全く別のものであり、
思い煩いは肉から出たもので、祈りは神様から出たものです。

祈ると神様が働き、思い煩いがあると私たちの中の信仰が消えていきます。
信仰がなくなると、私たちは神様との関係がどんどん遠くなっていきます。

信仰は神様に近づいていく力であります。神様を信頼し、見上げることです。

思い煩いは問題を見る事であります。問題を見つめると、徐々に力を得て問題が大きくなります。
問題が目の前にあっても私たちはそれを見るのではなく、祈りによって神様の力が表れるように
神様が問題を持っていってくださるようにしなければなりません。

祈りは神様を動かす力でもあります。求めるなら与えられる約束があるので、
私たちがその言葉を握りしめて神様に求める時に、神様が答えを持ってきてくださいます。
ダビデのように朝も昼も夜も祈ったら良いのです。神様に訴えたら良いです。

祈るならば問題が早く解決されます。

次のみことばはダビデの姿です。


【Ⅱサムエル記22章31-35節】

委ねて祈ると神様は乗り越える力を与えてくださいます。それによって私たちは問題を解決する
こ とができます。


【Ⅱサムエル記22章47-51節】

このような姿を私たちは学ぶべき姿であります。どのように委ね、どのように神様との関係を
結んでいったのか、このようなことが聖書には書かれています。

敗北した者はいませんでした。委ねた者は全て神様によって救い出され、勝利者になったことを
私たちは学んでいきましょう。

力あるイエス様が傍にいるのに、(自分は)何をしているのか、自分の姿を見てください。

信仰によって主に信頼して委ねようとするならば、恵みを体験することができると思います。 (*´∇`*)

2013.4.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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人生を委ねるとは?

テーマは 『 人生の道を委ねる 』 です

【詩篇37編5-6節】

私たちは永遠にこの地上で定着をして生活はできません。
そういう人は世界中を探しても1人もいないです。みんな出発して終わり(生死)があります。

みんなそれぞれ違う道を歩みます。
私たちは、自分が進む道に何があるのか、明日 自分の人生に何が起こるのか、
10年先はどうなっているのか、誰1人知りません。それは未知の世界であります。

これから歩む道というのは、「未知の道」であります。
もし、私たちの人生に対する素晴らしい助言をしてくださる方がいるならば、私たちは聞きたいです。
「どうやったら私たちに与えられた人生を豊かな人生に生きることができるのか?もっと良い人生に出来るのか?」
そういう助言をして欲しいと願うと思います。

私たちの人生において案内してくれる人がいるならば、私たちは拒む必要はないです。
神様は私たちに素晴らしい助言を、今日の聖書箇所で教えてくださっています。(※主にゆだねよ)

大切な自分の人生の道を委ねるということは、その基本になるものがあります。
その基本がないと、委ねることは絶対に出来ないです。その基本は3節に書いてあります。
まずは、主に信頼をすることです。

ただ苦しいから神様に拝む・・・ではないです。これだと「信頼」がないからです。
「信頼」はお互いの関係で築かれるものであります。

私たちは神様を信じる時に周りの人がからかう時があります。
「神様を信じる人は弱い人ばかりだ。弱いから神様を信じるんだろう。自分の力で生きなさい。」
このような言葉をすごく聞きます。
しかし、それは間違っていることです。弱いから頼っていることではないです。
無知な者だから頼るのです。

世の中には「私は強い」という人がいますね。何が強いのかはわかりませんが、
強くある人が多いです。

しかし神様は「主に信頼をするということは、弱いことではないんだ。
自分を知っている者がやることなんだ。」とおっしゃいます。

自分には限界があることを知っている者、明日のことも知らない無知な者だと知っている者、
知恵のない者だということを、悟っている人であります。

これらを悟っているので、それを知っておられる神様に色々な助言をいただくのは、
知恵ある人の態度であります。

知恵がないのに自分の力でなんでもかんでもするのは、どうすれば良いのかがわからなくなります。

「このお方は何でもできる」、「ものすごい力がある」、「私が倒れても助けてくださるお方である」と
このような意味の信頼であります。

これから自分が歩む全ての道、人生の計画を委ねていくならば、神様はその人にどうすると語りましたか――?
5-6節に神様が教えてあります。真昼ということは、光が一番強く輝くことだとおっしゃいます。

私たちは自分の行いで、自分を義なる者としようとすることがとても多いです。
“私の力で”、“私の努力で”、“私の能力でします”。「ですから誰にも頼りません。」
このような人は、神様は「真っ逆さまに倒れるんだ」とおっしゃいます。
障害物に当たって倒れた時に、誰も起き上がらせる人がいません。

主に信頼をする時に神様は、その人の人生を輝くようにしてくださいます。
神様の助けと守りが、常にその人にあると、神様が語ってくださいました。
恥を受けないように神様がしてくださいます。

神様から見て、人間らしく生きて欲しい姿で生きるのが勝利の人生であります。
虚しい人生にしたくなければ、【伝道者の書】を読んでください。

【箴言3章5-7節】

【イザヤ書42章16節】

私たちは目が見えてはいても、先のことが見えない者(盲人)であります。
自分たちの道を神様に委ねるならば、神様は闇を光にしてくださいます。
委ねる者を神様が守るという約束であります。

ですから、私たちは目が見えるという勘違いをしないことであります。
今、目の前にあるものしか見えていません。

「神様が私たちの目になるように、神様が自分たちの歩む道の光になってくださるように、主よ、お願いします。」と祈ると神様は聞いてくださいます。

【詩篇25編8-10節】

信頼をするということは、お互いに結んだ契約を守ることであります。
神様は契約を勝手に破る方ではないので、私たちの方で神様に信頼していくならば、
私たちが歩むその道は、恵み、真、それに満たされてあります。

神様は頼る者たちを見捨てたことがありません。

自分の力だけでこれから生きようとする人たちは一番愚かであります。

知恵ある神様の言葉に従って、自分の人生を委ねていきましょう。 v( ̄∇ ̄)v 

2013.2.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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