テーマは『 他人を祝福する人 』です

【Ⅱコリント1章11節】

聖霊に満たされたパウロは個人に対しても祝福を祈り、教会に対しても祝福をたくさん祈ります。
そしてパウロ自身も信徒たちに向かって「わたしのためにも祈ってください」とお願いすることも多いです。
その祈りが自分にとって大きな祝福になることを知っているからです。

クリスチャンはなぜ他人を祝福しなければならないでしょうか?

自分の祝福だけではなく、なぜ他人を祝福しなければならないのか。 それは――
イエス様を 自分の主人として受け入れた人であるならば当然のことであります。

義務というよりも、それがとても価値あるものだからです。
イエス様は他人を呪ったことはないです。
朝から晩まで、いつも他人を祝福しました。人々が良くなることを誰よりも願いました。
それが神様のみこころなのです。

ですから、キリストに属する人は同じことをしてほしいと、それが神様が喜ぶことであります。

皆さんはクリスチャンになってから、常に人々のことを祝福していますか?
自分が知っている人だけではなく、見知らぬ人のために、困っている人のために、また国のために、
常にその人たちのために実際に祝福をしているでしょうか?

私たちは祝福をしなければならないです。
祝福を与えること、それは素晴らしいことであるのです。

私たちは他人を祝福する時に、どのような心で祝福をすべきでしょうか?
神様は私たちの心の動機を先に見られます。




神様が喜ぶ祝福の心があります。

私たちが相手に対して信じる心です

世の中では、他人を信じては絶対ダメだと言われます。もちろん他人を騙す人はたくさんいますので
信じた時に困る時があります。だからと言って他人を信じないのは不幸だと思います。
「誰も信じられない。」このような心を持っているのなら、とても孤独です。
家族、友達、誰も信じられない・・・信じられるのは自分自身しかいない。
―― そうではないです。

私たちはまず他人を祝福する時には、相手を信じることであります。
「私がこの人のために祝福の祈りをするならば、この人はそのようになるだろう」と必ず祝福される。 と
これが、信じることであります。

「私が祝福を祈っても、この人はそうならない。無駄だ。」ではないです。


愛する心

相手を愛する心がないと、私たちは口先だけの祈りで終わってしまいます。
愛するということは、相手が本当に幸せになってほしい、良くなって栄えてほしいという心でもあります。

しかし 愛する心がないと、たとえ相手に祈りを捧げたり、物を与えても自分自身が幸せではないです。
儀式的になります。まるで施しのように、自分が高い立場に立ってすることではないです。


相手を大切に思う心

大切に思うということは、相手を価値ある者と思うことなのです。
「この人は値打ちがない」というのは他人をけなすことであり、その人を救った神様をけなすことであります。

つい私たちは、悪い人ばかりを考え「そんな人には値打ちがない」と思ってしまいがちで、
私たちの眼はいつも否定的な悪いものだけを見て、自分の心を閉ざすのではなく、
悪い人より良い人がたくさんいるのです。

私たちは、色々な人からたくさん良くしてもらいました。
「誰からも良くしてもらったことがない」という人はいないと思います。もしそうであるならば、
今生きていないと思います。

幼い頃には、親からの愛を受け、世話を受けて大きくなりました。
成長した後も、先生や友達など色々な人によって、私たちは良いものをもらいました。ですから今日があります。

そういう部分で多くの人々は、皆 素晴らしい価値ある人なのです。そう思うことであります。


他人に良いものを与える思い

自分が使わなくて捨てたいものを与えるのではなく、自分が受けて嬉しいものを与えるようにする心を
持たなければいけないです。それこそが神様が喜ぶ 祝福を与える心の姿勢であります。

神様はどのような動機であなたがそれをするのか、まずそれを見ています。
心から良いものと悪いものが流れますので、私たちは良い心を持って人々を祝福していかなければならないです。

そして、祝福する対象は(神様を)信じる人だけではないです。
神様を信じる人も、信じない人たちも、私たちは祝福をしなければならないです。


【Ⅱコリント2章15節】

私たちクリスチャンが、自分たちの口から他人を非難したり罪に定める言葉や悪口を言うならば、
私たちが他人を汚す者になるのです。自分たちが悪臭を放つものになります。

人々を絶望させる言葉、傷を与える言葉、いじめの言葉がどれほど悪いものなのか、
それこそ包丁よりも怖いものです。

結婚をした1/3の人たちが(相手から)DVや言葉の暴力、経済的・肉体的な暴力 等、たくさん受けています。
他人の人格を踏みにじる言葉をたくさん使います。
そういう状態で、その家庭が幸せになることはまず有り得ないです。

もし私たちの口がそういうものを出し、行動するならば汚物と同じであります。
ですから、神様は「あなたたちの中からそういうものを出してはいけない。」と語っております。

相手を愛する言葉、相手の価値を認める言葉、相手を高める言葉、相手が良くなるように与える言葉、
祝福の言葉、これは絶望の中にいる人々を生かす言葉であります。

私たちが悪い言葉を使う時には、神様の恵みは絶対に流れないです。
逆にサタンが持っている汚いものが相手に流れていきます。

ですから私たちはまず 祝福の祈りをしなければならないです。
私たちは、自分たちの苦しみや問題をたくさん祈ることが多いですが、誰かに問題があって祈る時には、
祝福の祈りをするのが一番です。
「苦しいです」という言葉よりも、明確に祝福の言葉を祈る方が良いです。

それは自分のために祈る時も同じです。
たとえ自分を苦しめる人に対してでも、祝福の言葉を使って祈るのです。

「神様。 主人(息子、娘)を祝福してください。」 「主人が愛の人になるように祝福してください。」
「家庭を大事にする人になるよう祝福してください。」 「私のことを大切にする人になりますように祝福してください。」
「絶望から希望を得て立ち上がる人になれるように祝福してください。」


私たちはつぶやきが多いですが、例え つぶやきの言葉を並べても神様は聞きたくないです。

「死んでしまえ」や「消えてしまえ」という呪いの言葉ではなくて、
「神様、あの人が優しい人になりますように。」というように、祝福を受けてそうなって欲しい姿を祈ります。

他人を祝福するので自分も祝福され、自分も祝福する言葉しか語らないので、いつも心の中が平安であります。

クリスチャンにとって、祈りは誰にでも出来ることです。祈りによって常に人々を祝福することです。

また、それをしていくと何が起こると思いますか?

その祈りをもらっている人たちが、それによって力を受けるのです。
そしてその人たちに 神様が恵みを流していきます。

また、それをしないと 私たちは命取りになります。それは次の箇所です。


【マタイの福音書25章33-36節】

小さな働きなので人々は無視をすることが多いです。しかし神様が一番目を留める働きは、
このような働きでした。


【マタイの福音書25章40節】

大きな働きをしたい人はたくさんいます。我先に「これをしたら大きな祝福が来るだろう」と、
これは自分が受ける祝福のことしか考えていないです。

他人のためと言いながらも、心の中では「人々に尊敬されたい」と計算が働きますが、
このような小さなことは、目立たないことであり、やって何になるんだ?と思うことであっても
神様は「それをしなかったあの者たちは、天国には入れないんだ。」ということです。


【マタイの福音書25章41-46節】

神様は、最も小さな者に価値を与え大切に思い、その人たちを愛し、信じて、
手を差し伸べ、祈りをして必要なものを与え、励まし助ける時に、それが最もわたしが喜ぶ働きである。と、
あなたがその人たちを祝福したので、あなたたちは、父なる神に祝福される。
―― これが聖書が私たちに教えることであります。

家庭でも、会社帰りの旦那さんに家族が何も言わないのではなく、「ご苦労さま」 「ありがとう」と
この言葉は家族を祝福する言葉であります。その言葉を聞いて嬉しくなって更に頑張ることができます。
「働くのは当たり前でしょう?」だと、1日中働いて疲れて家に帰ってきているのに 更に疲れてしまいます。

それは旦那さんも奥さんに対して同じです。
「1日中、のんびりしながら何をしているんだ」ではなく、食事に対して「美味しい」 「ご苦労さん」と
このような一言が相手に対して祝福を与える言葉であります。

言うと自分も幸せになり、お互いが幸せになります。

私たちは言葉で表現をしなければならないです。いくら年をとっていても、このような言葉を聞きたいです。

私たちは家族に対して、そのように祝福の言葉を与えることであります。
大事にすることは、(家族の)奴隷になりなさいということではないです。
お互いの価値を認めることで良くなっていくと思います。


福音を伝えること

兄弟・姉妹の間でも相手の信仰を立たせるために、私たちが助けると、その人が祝福を受けるようになります。
とりなしをたくさんする人は、他人にたくさんの祝福を流している人であります。
それによってどれほど私たちが助かっているかわからないです。パウロも言っています。


【ピリピ4章14-18節】

すごく私たちが反省をしなければならないことであります。
受けることだけを考えて、自分たちが恵みを流さないと、自分の中の恵みが死んでしまいます。

私たちは恵みを受けたならば、常に恵みを流していかなければならないです。
流していくならば、神様は常に新鮮な恵みを流してくださるのです。

「この人は欲望にまみれた人ではなくて、自分が受けたことを感謝して、困っている人たちを助けている」となると
神様は更に大きな祝福を与えてくださいます。

福音を宣べ伝えるのは主の働きなので、それをする人たちが困ったり、苦しむことがないように
共に私たちが助けるならば、それは祝福を与える人であります。そうすれば私たちも霊的祝福を受けられます。

かぐわしい香りは、このような働きをしていく時に、その人自身からかぐわしい香りが放たれます。

自分が地上にいる一生の間、ずっと祝福を受けたいと思うならば、自分が常に祝福を祈り、
祝福を与える人、祝福を蒔く人でなければならないです。

「私だけ、私だけ・・・」となると、汚れて死がくる と神様が語っています。

聖書の言葉をよく理解して、神様が何をおっしゃっているのか、そして その通りにするならば間違いないです。


イエス様に出会って一番幸せなのは、誰だと思いますか?

【マタイの福音書26章6-13節】

誰もイエス様にこのように祝福をした人はいないです。
集まってくる人々は、常に受けることしか考えていなかったです。

あまりにも主を愛する心があり、あまりにも自分が受けた恵みが大きいので
自分が持っているものを全て捧げても、命を捧げても惜しくないという愛の心でした。

彼女も初めは受けるために来ました。罪が赦され、心が回復され、素晴らしいものを受けました。
そして、それに対して主を祝福した人は彼女1人だけでした。

私たちはどれほど主から祝福を受けたのかわからないです。
イエス様にこれほどのもてなしをしたことはないです。
彼女は最高のもてなしをしました。そのことでイエス様が喜ばれました。

私たちは自分の命が死から救われた者であります。人々のたくさんの祈りによって支えられているのです。
それを ただ受けることだけを考えて、更に「ちょうだい」ばかりを言うならば、
神様は「もう(あなたは)いらない」となります。

私たちは流していくのです。小さな者に対して、その人に必要ならば与え、
どんどん祝福を流していくならば、それが自分に祝福として返ってきます。

私たちは言葉1つにしても、行動1つにしても、それが人々の祝福になるようにしなければなりません。
悪いものが出そうな時は止めてください。

人間は皆、幼い頃から好き嫌いがあり、パッと見た瞬間にそれを頭の中で決めてしまいます。
私たちは好きなものは好きで良いのですが、嫌いなものに対しては「嫌い」という言葉よりも
「好きになろう」「嫌いなものを好きになってみよう」と思うならば、徐々にその良さが見えてくるのです。

一言「嫌い」と言ってしまえば、いっぺんにそれを切り捨てることなのです。

人に対しても、「この人の ここは好き、あれは嫌い」となると、愛することができなくなるのです。
しかし、「あぁ、こんなに良いところがあるんだ。」と自分の目線を変えて見るならば、
素晴らしい部分がたくさん見えてきます。

素晴らしいものは「素晴らしい」と言ってあげたら良いです。
悪いところを「悪い、悪い」と言うと、ますます悪くなります。人はその言葉では変わらないです。
ですが、悪いところがあっても 良いところを先に言うと、相手は恵みを受けるので変わっていきます。

自分の良い部分を励ましてくれる相手を裏切りたくない思いになります。

これから私たちは言葉を変えていきましょう。祝福の言葉を使うと人生が変わっていきます。

そして、これからは「私、私、私」よりも、神様の言葉通りに「祝福する人になろう」と他人のために祈る時に
私たちはやわらかい心になります。

家族においても職場においても、祝福を与えるために私たちは選ばれたのです。

キリストの心をもって他人を祝福をする人になりましょう。 (*´∇`*)

2013.6.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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