からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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奇跡

イエス様の驚きと悲しみ

テーマは 『 イエス様の驚きと悲しみ 』 です

【マタイの福音書11章18-24節】

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、 彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、 もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

聖書にはイエス様が驚く場面が出てきます。

百人隊長が素晴らしい信仰を見せた時にイエス様は驚かれました。彼はユダヤ人ではなく、ローマ人です。
しかしユダヤ人よりも素晴らしい信仰を見て、イエス様は『わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』と言いました。


またイエス様は奇蹟をたくさん行なったにもかかわらず信じなかった人々の不信仰な姿を見て驚かれました。

多くの人は「奇跡を見たら信じる」と言いますが、当時は数えきれないほどの奇跡がありました。
それなのに人々は信じませんでした。


【ヘブル書11章6節】

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。

イエス様はその人の財産、権力、名誉などに驚いたことは一度もありません。

イエス様が関心を持っているのは ただ1つです。
「信仰」…その人が信仰を持っているのかどうか、それだけに関心がありました。


良い信仰を見た時にイエス様はとても喜びますが、奇蹟を見ても信じない人や不信仰の姿を見た時にも驚き、また悲しみます。


今の人々の姿を見て、イエス様はどのように思っているでしょうか?

特に信じている人たち、「私は信じて救われました。聖徒です。」という人たちの信仰を見て、イエス様は喜んでおられるでしょうか?

ある人たちは心の中で言うでしょう。「私には信仰がある。毎週きちんと教会に通っているし、聖書も読むし、祈りもするし、奉仕もするし、献金もささげているし。これ以上何ができるのか?」

自分自身で良い信仰だと思っています。
しかし、イエス様がどのように見ているかは分かりません。


また、ある人たちは心の中で言うでしょう。「ああ、面倒くさい。信仰、信仰と うるさいな。忙しくて それどころではない。したいこともいっぱいあるし、どうでもいいわ。別に地獄に行っても良いわ。」

この言葉は、実際に神様のことを知っている人が言っていました。
これがクリスチャンの口から出たことにびっくりしました。その人たちは信仰の失格者であります。

そのような信仰がその人を天国まで導くことはありません。


天国に入れる信仰は、神様が認め 喜ぶ信仰の者だけです。

自分の信仰が、果たして自分自身を天国に導くものなのか?と、いつも私たちは考えなければならないです。


日々の私たちの態度がどれほど不信仰であり、イエス様を悲しませ、涙を流させているのか。
天国に入った人たちは、そこは素晴らしい世界ですので涙を流す人はいませんが、イエス様だけが泣いています。

救われず、地獄に行くたましいを見て泣いています。教会、信徒が堕落していく姿を見て悲しんでいます。

主から離れた人々、さまよっている人々、イエス様よりこの世をもっと愛する聖徒たちを見て泣いておられます。
イエス様は私たちの姿を見て驚き、嘆き、そして叫んでいます。


イエス様は人々に裏切られ、除け者にされ、未だに苦しみを受けています。
イエス様がその人たちに向けて語ることばは、「どうしてわからないのか。悟らないのか。信じないのか。」です。


主の声を今回、みなさんに届けたいと思います。

「私は救われました」というクリスチャンは、自分の姿をもう一度考えてみる必要があります。




① 聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿




聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿に主は驚き、彼らの最後を知っているので主は心を痛めています。


イエス様を信じていない人たちは もちろん滅ぼされます。
しかしイエス様は「あなたたちの方がもっと悪い」と語りました。

なぜなら、「今、あなたたちは多くの奇跡を目の前で見ているのではないか。神が人間となって直接あなたたちの目の前に来ているのに、それでも信じないのか」


ソドムとゴモラの町は不信仰や同性愛などで滅ぼされました。
しかし彼らよりもあなたたちの罰が重いと言いました。

そしてイエス様は「どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」と はっきりと語りました。

ハデスとは地獄のことです。
消えることがない炎が燃え、入ったら出ることができず、永遠に刑罰を受けるところへ行くのだと語りました。


「私は救われました」と言う人を イエス様が見た時に罪を悔い改めず、昔救われて“いのちの書”に書かれているから何をしても大丈夫だと言う人はハデスに落とされると言いました。

イエス様が語ることは、その通りになります。

イエス様は天国のことよりも地獄のことをたくさん話しました。新約聖書で113回語っています。




② 十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのになぜそれがわからないのか




十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのに、なぜそれがわからないのかと主は驚いています。

イエス様からたくさんの恵みを受けた者たちが、その恩を忘れ、イエス様に対して敵対し、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。

十字架にかかったイエス様を見て、頭を振りながらののしりました。
「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。今十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じるから」と、ののしる者、あざける者がいました。


誰のためにイエス様は十字架にかかってくださったのでしょうか?
罪を犯している私たちのためなのに、私たちはののしり あざけました。


彼らを見て「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈りながら主は人々を見ていました。

イエス様の命を取っている者たちを赦してくださいと、これ以上の愛がどこにあるでしょうか?

私たちがイエス様を十字架につけたのです。その時、あなたはどこにいましたか? その群衆の中にいたのです。


今も主は十字架の上で血を流しながら苦しんでいます。
誰のためですか?イスラムの人々や まだ信じない人々のためです。

十字架は昔のことだと思うでしょうか?
しかし、今はイラクでイスラム過激派の人々の手によってクリスチャンたちが街の中で十字架にかけられ1000人以上が殺されています。


イエス様は信仰のために死んだ人々と共に十字架にかかり、血を流し、涙を流しています。

彼らはののしりあざけっていました。
「あなたたちを愛しているのにどうしてわからないのか。」イエス様は彼らが立ち返るように願っているのです。

実際に、イエス様はクリスチャンたちに「十字架であなたのために死んだ私を忘れることが、私には苦しみである。」と語りました。


みなさんはクリスチャンです。みなさんはイエス様の十字架を日々覚えていますか?

自分のような罪人を、世界の多くの人々の中から自分を選んでくださったということが どれほど大きな恵みであるか分からないです。


イエス様の十字架は私のために血を流してくださったのです。
“なぜわたしの十字架を忘れているのか――?”


忘れているという事実に、イエス様はすごく苦しんでいます。
そのことをクリスチャンは覚えていないといけないです。




③ あなたのことば一つ一つが わたしの心を引き裂いている




「あなたのことば一つ一つがわたしの心を引き裂いていることをどうしてあなたはわからないのか」と主は驚いています。

私たちはイエス様を十字架につけて殺した後、今でもクリスチャンたちがイエス様を痛めつけています。
「私はそんな思いはないです。いつ私がイエス様を十字架につけたのですか?いつ私がイエス様を悲しませたのですか?」

皆さん、気付いていますか?


【ヨハネの福音書6章60節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

イエス様は真理を語っていますが 自分たちの目がふさがれて、心に知恵がなく悟っていないのに、「主よ、私たちはそのことばの意味が分かりません。教えてください。」と聞くのではなく、自分たちの思いで勝手に解釈し、非難をしました。

その後、彼らはどのようにしたでしょうか。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様がこの姿を見た時に、どれほど悲しかったでしょうか?

彼らは霊的なことは分からないのです。それまでは「どこまでもついて行きます」と言った者たちが一瞬にして消えていきました。

イエス様は引き裂かれる思いでした。「真理を語っているのに なぜあなたたちは真理から離れていくのか?」
その辛さは皆さんも経験があると思います。

皆さんが人々に(福音を)語る時に「意味が分からない。聞きたくない。二度と言うな。」
そのような言葉を聞いた時に、私たちはすごく心が痛くなると思います。


そしてイエス様に「あれは悪霊に憑りつかれて気が狂っている。」という言葉を言いながら聖霊を汚しました。

私たちはイエス様に悪霊とは言いませんが、どれほど不信仰なことば、不平不満、つぶやきを言ったでしょうか?

神様のことを自分のしもべのように使う時もあります。


私たちが語る1つ1つのことばによってさばかれると聖書に書かれています。たとえ私たちが言った覚えがないと嘘をついても全て記録されています。

ですから私たちが間違えたことを語るたびにイエス様の心に釘を刺しているのと同じであります。




④ あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか




あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか、どうして分からないのかと主は驚いています。

イエス様の目からは いつも涙が流れています。


皆さんはイエス様を信じてから、自分の良いものを取られたことはありますか?

イエス様は悪いものは捨てなさいと言いますが、良いものを盗む方ではないです。


人々がイエス様から離れるのは、それぞれの理由があります。
「祈っても聞いてくれないから信じるのをやめました」、「忙しいのでそれどころではない」、「今は自分の好きなことをしたい」「金儲けが先」など理由・言い訳がたくさんあります。


しかし、よく考えてみてください。その1つ1つの理由が、離れる理由になるでしょうか。

そのことが自分の命よりも大切なことなのかを考える必要があります。
快楽のためにイエス様から離れ、この世を愛する心や物欲でイエス様から離れるなら、後になってどのようにしますか?

地獄は後悔の場所であり、自分自身の愚かさを憎む場所でもあるのです。
“あの時にイエス様から離れていなければ…地獄に来ることはなかったのに!”


イエス様が語るのは「全世界を手に入れても たましいを失うならば、それが何になるのか?」と語っておられます。
イエス様は「もしあなたの右手が罪を犯すならば切ってしまいなさい。」と語ります。全身を持って地獄へ行くよりは片手がないまま天国に入った方が良いと語ります。


たましいを失うと全てを失います。

地上のわずかなもので自分のたましいをないがしろにして、それによって永遠に出ることのできない地獄で苦しむのは、どちらが皆さんにとって得ですか?


常に聖書のことばを読んでください。聖書のことばは気休めのために書いているのではなく、生きるか死ぬかのために私たちに道を示しているのです。


この真理は変わりません。書かれた通りのことが必ず起こります。

もし今晩あなたが死ぬならば、天国に行けますか。天国に入る人は少ないです。地獄に入る人は大勢います。
イエス様はその姿を見て泣いています。


地獄に多くのクリスチャンたちが行きました。
イエス様が、クリスチャンが地獄へ行った理由を語りました。

その理由は、多くの人々がわたしが願っているようにはせず、わたしを敬わず、愛さず、断食を好まず、忍耐をせず、教会の中に留まることを嫌がり、礼拝が好きではなく、祈らず、みことばを読まず、口先だけで賛美するなど、イエス様がして欲しいことと真逆のことをしているからです。


カインの礼拝を捧げておいて、アベルの祝福を受けようとしているのです。
カインにはカインの裁き、アベルにはアベルの祝福があるのです。

自分が蒔いたとおりに刈り取らせるのが正しい裁きであります。


どれだけ私たちは神様のことばが与えられているでしょうか。

「今日、あなたが主の声を聞いたならば 心を頑なにしてはいけない。悔い改めて立ち返りなさい」とイエスさまが語っておられます。

これ以上、私たちがイエス様を悲しませてはいけないです。死んだ信仰、疑い深い信仰、不信仰を全部捨てなければならないです。


そしてイエス様が認める“あなたの信仰は立派です”と言われる信仰、長血を患った女の人、百人隊長の信仰、娘が悪霊にとりつかれた母親の信仰、イエス様に香油を注いだマリアの信仰、あなたはこのような信仰を持ちなさいと語ります。


へブル書11章は信仰の章です。ほぼ全員が厳しい状況の中で、自分たちの信仰の光を放ちました。

神様だけに頼る信仰はいつ試されるでしょうか?厳しい状況の中で初めて試されるのです。

私たちの信仰は天国に入れるような信仰でしょうか。それとも「信仰、信仰」と言いながらも地獄へ行く信仰でしょうか。これを考えなければなりません。


イスラム教の人々がクリスチャンを狙って殺してきています。終わりの時代が来ています。
その時に私たちが のほほんと「大丈夫。」と言えるでしょうか?

イエス様が目を覚ましなさいと語っています。
あなたに信仰が無ければ、彼らに捕らえられてひざまずくようになります。


大変な状況の中でも神様に信仰を見せる人だけが勝利者であります。
死に至るまで忠実でありなさい。その信仰を持ちましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2014.8.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの人生とは?

テーマは 【クリスチャンの人生】 です

【Ⅱコリント5章17節】

みことばを聞きながら自分自身を診断したら良いと思います。
みことばは、クリスチャンの人生とはどういうものであるのかを教えています。

日曜日に礼拝に来るのがクリスチャンだというのは違います。
クリスチャンが礼拝を守るのは当然のことです。
聖書を読んでいるからクリスチャンの人生を生きているというのは 一部分であります。

クリスチャンの人生は、生活の中にクリスチャンとしての様々な姿が実際に出てこなければならないです。
人生は生活そのものであります。
クリスチャンは、キリストにあって古いものが過ぎ去り、全てのものが新しくなった時から
スタートであります。新しくなった その時から新しいものとして生きるのがクリスチャンであります。

しかし、どのように生きたらクリスチャンの人生になるのかは、よく分かっていないです。
その部分を3つに分けて紹介します。


①信仰によって生きる

私たちは、信仰によってクリスチャンになりました。
毎日信仰によって生きるのがクリスチャンの人生であります。
神様は「義人は信仰によって生きる」と語りました。
義人は神様が認める正しい人であります。
神様から見て正しい人というのは、キリストに出会って信仰により救われた姿、罪が洗われた人を言います。
義人になった瞬間から、その人は信仰によって生きなければ意味がないです。

新しい者(義人)になったならば、その時から神様をもっと頼りながら信仰によって生活をしなければ
ならないです。

私たちが救われると、イエス様が私たちの心の中に入ってきます。これがクリスチャンであります。

以前はサタンの奴隷であり、サタンが私たちの心を支配して欲のままに生きていました。
しかし、救われたことによって変わってきました。私たちの中にイエス様が入って来てくださいました。
もし信仰によって生きないならば、「何をしても天国に行く」と言って、相変わらず古い人のままで
生きるならば、主は一緒に暮らすことはできません。その時から私たちの心はエデンの園ではないです。
主が共にいるのでエデンの園であります。

以前、私たちは広い道を歩きました。その道は大勢が歩いています。最期は滅びで、永遠の地獄です。
しかし信仰をもって救われたその時から道が変わってきました。険しくて狭い道であります。
しかし、その道は「命の道」であります。

命の道を通っているのに「この道はしんどい、歩きたくない。辛い。試練も多い。世の中の不利益もある。
日曜日に礼拝に行かなければならない。クリスチャンとしてこれもあれもしなければならない。」
「以前の方が良かった」と言って、そこから再び広い道に行くならば、その先には永遠の命はないです。

毎日、私たちは永遠の命の道を歩いているのかどうかを自分で点検しなければなりません。
狭い道だけを歩くのが信仰の道であります。

毎日、毎日、楽な道を歩くならば、その先は暗闇の世界です。
そのことを私たちは知らなければならないです。

「弱くて、まだ信仰が足りないけれど、『 それでもその道を選ぼう 』と、神様に私の力ではできません。
助けてください。この永遠の道を歩けるように、みことばに従って歩けるように神様 助けてください。」と
私たちが祈りながら神様に頼るならば、それが信仰によって生きる道であります。

完璧に守ることは誰にもできないです。だけど「神様、私は弱い者です。私は倒れやすい者です。
誘惑に負けやすいです。でも神様、信仰によって生きられるように私を助けてください。」と求めます。
信仰とは頼ることであり、自分の力では出来ることではないので、自分の力で出来ないことを認め
神様の力を求めるのが信仰であります。
それが信仰によって生きる人生であります。


②従順によって奇跡を体験する生活

不可能な部分は出来ないというのは、クリスチャンの人生ではないです。

聖書に書かれている出来事は奇跡だらけであります。

奇跡を行う神様ですので、クリスチャンはこの奇跡を必ず体験しなければならないです。
自分の力で「これは不可能で どうにもならない」と思うことを、信仰がある人は神様に奇跡を求めます。
「神様、私の力ではどうにもなりません。不可能に見えます。でも私は不可能であるからといって絶望しません。
神様の奇跡を見せてください。」――それがクリスチャンの人生であります。

神様はいつも奇跡を備えてあります。その時に必要なのが、従順であります。
(多くの奇跡が起こっていることの前提は)「あなたがみことばに従うならば奇跡を見る」――です。

信仰の先祖・アブラハムも同じでした。当時アブラハムは100歳で、サラは90歳でした。
サラは不妊の女性でした。
自然の法則で見ると子供を産むことは100%不可能でありました。
サラは神様の言葉を聞いて心の中で笑いましたが、神様は「約束の言葉を信じなさい」と語りました。
信じることは従順です。

自分の頭の中で「そんなことはない」と言うのは不従順であります。

病気で「余命○カ月です。薬もなくて手を尽くすことができません。」と医者に言われた時に、
「そうですか。」と死ぬ日を待つのは、普通の人であります。
しかし、クリスチャン達はそこで引き下がるのでしょうか?
神様の御前に出て、祈るべきであります。神様は奇跡を行いたいです。

従順すると、神様は不思議な方法で道を開いて与えてくださいます。
その奇跡を体験する人は、信仰がどんどん成長していきます。

奇跡を体験しない人たちは、普通の人の生活をします。
クリスチャンでも奇跡を体験しない人、信じない人が大勢います。ですから信仰生活が面白くないです。

奇跡を日々体験する人は、神様なしには生きていけないです。


③毎日生まれ変わること

毎日生まれ変わることによって、新しい者として生きることができます。

どんなに新しい者でも、そのままだったら古い者になります。そうすると枯れて死んでいきます。

日々、イキイキしている人と、最初は(信仰が)熱かったのに段々生温くなり、冷めてやめてしまう人との
生活は何が違うのかと言うと、日々生まれ変わることをするか しないかの違いであります。

日々生まれ変わるということは、どういうことでしょうか?
それは日々、肉や自分の古い性質を十字架につけて殺すことであります。それをしないならば、新しくなれません。

いつも自分が聖くなるための努力をしないと、罪と咎が増えて古い人が蘇ってきます。


【Ⅰペテロ1章15-16節】

儀式を行うからクリスチャンではなく、
信仰によって生きる人生、従順によって奇跡を体験する人生、日々生まれ変わることによって新しくなる人生、
これこそがクリスチャンの人生であります。

クリスチャンとは何ですか?と質問された時に、「教会に行くのがクリスチャンです」と答えるのは大きな間違いです。
教会に行きながらも異邦人がたくさんいますし、教会に行きながらも神様に出会っていない人もたくさんいますし、
教会に行きながらもいつまで経っても(信仰が)赤ちゃんのままの人がたくさんいるのです。

そうではなくて、「信仰によって救われ、信仰によって生きる人です。従順することによって、神様の奇跡を
たくさん体験する人生です。そして古い自分を棄てて、どんどん新しくなっていくのがクリスチャンの人生です。」と
自分たちがそのように生きなければなりませんし、
周りの人にクリスチャンのことを正しく説明しなければならないです。

十字架にかけられたイエス様を信じた人は、自分もイエス様と共に十字架につけなければいけないです。
それが日々死んで生まれ変わる姿であります。

毎日私が死んでキリストが私の中で生きてくださいというのが、クリスチャンの人生であることを
心に留めてください。

クリスチャンの人生がどういうものであるのか私は知りませんから、このまま生きます。
今まで通りの生き方で生きます。というならば、教会に来ても全く意味がないです。

キリストは従順し 父なる神に信頼し、実際に十字架にかかって死にました。
これを私たちが見習い、ついて行くのがクリスチャンの人生であります。
狭い道ですが命の道を歩む人であります。追い出されることがないです。

そういう人が最後に勝利を勝ち取ります。

そのような生き方をする私たちになりましょう。 ( ̄‥ ̄) =3

2013.4.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリスト教とは?

ハレルヤ

【 詩篇 40編 5節 】 を読んでみてくださいね。

キリスト教は奇跡の宗教です。奇跡を行う神様を信じていますので、奇跡が珍しいことではありません。

「私は信じているのに、奇跡なんか体験したことはない」と言う人はいますか?


イエス様が地上で活動した時のことを思い出してみてください。
毎日 毎日、数えきれない奇跡が起こりました。
イエス様がその奇跡を行いました。しかし、イエス様の前に来ても奇跡を体験することなく、
帰る人たちもいました。

その人たちはイエス様に対する信仰、奇跡に対する信仰がありませんでした。

主は信仰をもって近付き、信仰で願った人たちに奇跡を現わしました。

また、権威を持っておられる神の言葉に聞き従うことが奇跡を体験する道でもあります。

問題を抱えた人がイエス様の前に来て、それを願う時にイエス様はその人に聞きます。
「わたしにそれが出来るとあなたは信じるのか?」

「信じます」と信仰で告白し、本気で奇跡を期待するならば、奇跡はその人に起こります。


今回のテーマ・詩篇40編5節は、ダビデの告白ですが、その告白に偽りはありません。
彼の人生に起きた様々な奇跡を聖書で知ることができます。


私もイエス様を信じてから、多くの奇跡を体験しました。
自分の身にも奇跡が起こりましたし、他の人たちのために祈った時に、その人たちにも奇跡が起こりました。

私たちが奇跡というならば、ビックリすることばかり考えますけども、そうではありません。

生活の中で思いがけない事や導き、助け、癒し、祝福なども奇跡であります。

私も病気の癒しを何度も体験しました。そして祈りが不思議な方法で答えられたことは、
数えきれないほどたくさんあります。ですから、ダビデの告白を私が読んだ時にも、
そこに偽りがないことを知っています。


皆さんも、毎日祈ってみてください。「神様、私に奇跡が起こることを期待します。」
問題、試練があって自分の力ではどうすることもできない時に、「もうダメだ」と失望の言葉を言うのではなくて、
「神様が奇跡を行う時が来ました。」と信仰で神様に期待しましょう。

神様は期待する人に働きます。信仰を持って神に近づく人に神様は奇跡を現す神様です。 (o^∇^o)ノ

2012.1.22
3分テレフォンメッセージより

八戸ノ里キリスト教会

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3分テレフォンメッセージは、こちらで聞くことができます   ( AM 0 時更新 )

06-6618-9105    06-6618-9106

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3タイプ別の信仰

テーマは『信仰者の3タイプ』です。

【ヨハネ20章29節】

復活したイエス様が弟子のトマスに語った言葉です。

信仰には大きく分けると3つのタイプがあります。
イエス様を信じて教会に行っているからといって、その人達が同じ信仰ではないです。
外見は同じ信仰を持っているように見えます。もちろん信仰歴も違いますが、
みんながイエス様を信じているように見えますが、中を覗いてみると違います。

①見ても信じない人
信じているから教会に来ているのに、見ても信じない信仰を持っている人がいますか?
それは実際にいます。教会に来て神様の色々な奇跡を見ていても結局は信仰が無かったという人達です。
イエス様がいる時代、イエス様はたくさんの奇跡を行いました。
すごい数の群衆が集まってきていますが、奇跡が起こらなかった日はないです。
それも数え切れないほどの奇跡が、3年間 毎日起こりました。
聖書に記録できないくらいでした。

イエス様が活動したところで信じた人たちは多いと思いますか?毎日奇跡を起こしましたが、
彼らはイエス様を信じませんでした。 それは(イエス様を)神様として信じませんでした。
多くの人たちが色んなことを語りました。「優れた先生である」など色んな言葉を語って、
イエス様の働きや力は認めました。でも信じることはしなかったです。

私も昔はこういう者でした。救い主としては「あぁ、あの方は神様なのか」と思いましたが、
他人事のような思いでいました。それはなぜかというと、霊的に無関心だったからです。
「(聖書は)神様の言葉なんだ」と認めるのですが、信じないです。
信仰として、自分の救い主としては受け入れることはしなかったです。

見ても信じない。このような人達は、いつ信じるでしょうか。
こういう場合の人達は、色んな試練に出会ってからイエス様を信じる人が多いです。

イエス様の奇跡を見るために、毎日 見物に行きました。どんな人達が癒されるのか?
今日も奇跡が起きた。悪霊が追い出された。など
毎日それを目で見るのですが、それを神様だと受け入れて、イエス様の弟子になってついて行く
という人は少なかったです。

パウロが、イエス様が復活した後にヨーロッパに行って福音を伝えた時に、
彼らは実際に(イエス様を)見たことがないです。
今の時代のように旅行が自由でもなく行き来ができないです。
しかしパウロは行って、言葉・福音だけを伝えました。彼らは見てもいないのですが、
信じました。反対にその所で信じた人達が多いです。

イスラエルはイエス様が生まれて活動した場所ですが、今でも信じる人が圧倒的に少ないです。
ユダヤ教は多いですが、クリスチャンは少ないです。クリスチャンは今でも迫害されています。

ヨハネの9章で盲人の姿が出てきます。イエス様が可哀想に思い、目が見えるように癒しました。
そして目が見えるようになり、それはどれほど嬉しかったかわからないです。
すると、彼に困ったことが起こりました。
奇跡が起きて証をするのに、宗教の指導者たちが認めませんでした。
「あなたはどうやって見えるようになったのか?」
彼はもともと見えない者でしたので、イエス様から言われた言葉やどのように行動をしたかを
伝えました。
実際目が見えなかった本人が証言しているのに、彼らは何度も何度も呼んで
「誰がそのようなことをした」や「あなたはどう思うのか?」と尋問をしました。

【ヨハネ9章26-36節】

見ても信じない者がたくさんいる中で、盲人だった人に「あなたは信じますか?」という言葉を使いました。
「主よ。その方はどなたでしょうか。」これは目が見えなかったからわからなかったですね。
そして「信じます。」と言いました。

彼らはみことばをよく知っていると言い、イエス様が来られることは聖書に書いてあるのに、
彼らは本当に目が見えない者であります。

【ヨハネ9章39節】

そこでイエス様は彼らに厳しい言葉を言いました。
見ても信じない人は目が見えない者であります。自分では気づいていないです。

信仰は霊的なものであります。目で見て信じることが信仰ではないです。
信仰は「聞いて 信じること」です。信仰は「聞く事から始まり」ということばがあります。

【ローマ10章17節】

私たちが錯覚するのは「見たら 信じる」というものです。
こういうタイプが一番多いです。教会に来ていてもそうです。
聞くだけでは信じられない → この人は根本的なことから間違えています。

この世の中には、目に見える世界と目に見えない霊の世界が2つ同時にあります。
だから信仰というと今まで肉眼で見えない霊の世界。
これを神の言葉によって霊の世界がある、目に見えない神様がそこに存在する。
それを語ってくれるので私たちが見えなくても、その言葉を信じます。
そこから信仰が始まります。

神様は霊であります。ですから私たちは言葉で信じなければならないです。
見えるようにしてくださいと要求しても神様は絶対に応じないです。
これ自体が神のみこころからずれています。信じる気がないです。

【ルカ16章27-31節】

人の心を知っています。モーセと預言者の教え、すなわち神様の言葉を受け入れない者、
それを信じない者は、たとえ奇跡が起きても、絶対に信じないです。
認めることと信仰は全く違うものであります。

②自分が見たものだけを信じる人

自分が見たものだけ。他人が何と言っても、それは信用できない。
トマスがそうでした。
弟子たちにイエス様が復活した姿を見たと言った時に、トマスは「いや、それは私は信じない。」と言いました。
「私のこの目で確かめない限り、本物かどうか触ってみて、本物であれば私は信じる。」
同じものを聞いても、なぜそうなるのでしょうか。
心がとても疑い深いです。そして自分は知恵があると錯覚します。「復活なんか有り得ない」と。
自分の経験をとても大事にします。これは自分の理性が信仰よりも上にあります。
このようなタイプも多いです。

自分が見て自分で確かめたら信じるけど、人が「こんな体験をした。こんなものを見た」
こういうものには信じません。
それは違うものを見たのではないか?悪霊ではないか?と言います。

奇跡は信仰の結果として生まれてくるものです。
ですから私たちは理性だけでは理解ができないです。理性は信仰と正反対のことであり、
信仰を邪魔するものであります。
見ずに信じる者に向かって「あの人は考えが足りない。」とか「何でそんなに単純に信じるのか?」、
「だから知恵がない」とか色々言います。
このような人は神様を試します。 「私に見せてください。あの人は信じるかも知れませんが、
私にはそれだけでは不十分です。私が直接見て、体験しない限り神様を信用できません。」

しかしこのような人は自分の理性で考えているようで、そうではありません。
「見える」ということは「感覚」であります。「見る・触る」これらは感覚であります。
ある意味、理性ではないです。しかし自分は理性的で論理的であり合理的である、そういう錯覚をします。

ギデオンがそうでした。神様の言葉を聞いた時に、疑いが入ってきました。 
「私のような者が~」とか「神様、本当にいるならば、どうして私の国がこんな目に遭うのか」 と
色んなものがありました。神様が民を救いだしなさいと言った時も、神様をテストしました。
「神様、こういう奇跡を起こして下さい。」 そして神様はそれを聞いてあげました。
そしたらそれでもまだ満足しないで「神様、お願いします。もう1度奇跡を・・・」と
神様をテストしました。神様はそれも叶えてあげました。そしたら「信じます」と言いました。

神様は本当の意味では触らせません。触ってみなさいという言葉は使いましたが、
触れるなということであります。なぜなら疑いの心でイエス様に触れるなら汚れてあります。
自分達の心を見ると、色んな疑いが出てくると目が濁ってきます。心も濁ってきます。
まともに見えません。
自分ではまともに見えると思いますが、錯覚が多いです。自分の心の汚れを取り除かなければならないです。

疑いが多いと二心であります。ある意味で神様に疑いを持って祈ってもそれは答えられないです。
その人の心はいつも不安定で、風や波のように揺れるので、
そのような者の祈りは神様は受け取ることができないんだとおっしゃいます。
疑って得るものは1つもないです。せっかくの良い物も全て失っていきます。
神様を信じたら心が平安になります。信じる事がイエス様が私たちに求められておられることであります。
自分の求めているものが答えられる為にも、完全に信じることであります。

③見ずに信じる信仰は幸いである

イエス様がトマスに語りました。
これはみことばをありのまま、「主がそのように語っておられるから私はそれを信じます。」と
これは謙遜な信仰であります。

「印を見せてください。印を見せてくれたら私は信じます。」これは傲慢な心であります。

神様をテストすることが謙遜な心でしょうか? そうではないです。
私たちは他人からテストされることは嫌なんです。
相手が自分を疑う心でテストをすると「何で疑うの?」、「何で私がテストされなければならないの?」と。
私たちは弱い者ですので、時には神様は聞いてくださいますが、神を試みてはならない。
と聖書に書かれてあります。

「神が言ったならば、それを謙遜な心で信じなさい」神様は私たちの信仰の対象であります。
それが神様が一番喜ぶ信仰であります。見ずに信じる者、それはその人自身が見えなくても
神様のみことばを心から信じるその姿勢です。 「聞いて 信じる」この姿であります。

ノアが神様から聞いた言葉が「この世が洪水で滅びるから箱舟を造りなさい。」
神様が語った時に、彼は何も見ていないです。過去にそういう事が起こったことも聞いたことがなく、
箱舟も見たことがありませんでした。でも神様が1つ1つ指示をしました。その通りに彼は箱舟を造りました。
将来起こることを信じました。100年くらいかけて、ノアは箱舟を造りました。
見ていないのにしました。これが信仰であります。だから神様はノアを認めました。

アブラハムは神様から言葉を聞きました。(目では)見ていないです。
神様がカナンの地の写真を見せて、この地をあなたに与えるとは言っていないです。
どこに行くのかも神様は教えていないです。
「あなたの父の家、生まれ故郷を離れなさい」と言われてどこへ行くのかも知らないで、
ただその言葉だけを信頼し、「神様が私を導いてくださる。神様が私を祝福する」と彼は出ていきました。

ヘブル書11章に出てくる信仰の人は、全員このような人でした。
全員が神様に対して、絶対的な信頼を置きました。そして信じて行動をしました。
だから神様は彼らを祝福し、彼らを用いてくださいました。

イエス様の復活もある意味、人間の経験・知識では信じることができないものであります。
「信じられない。」、「そんなことが起こるはずがない」と。
ですから、トマスのような人は多いです。
他の弟子たちも初めは復活を信じませんでした。だけどその後、見た時に本当に信じました。
トマスは弟子たちの言葉を信じませんでした。

でも神様は信じられないことを信じなさいと語っておられます。
信じられないことを信じるのが信仰であります。

誰もが見て、十分信じられる可能性があるもの、それを信じることは信仰ではないです。

例えば、コップを見せながら「これはコップです。」と言うなら、目で見ているのでコップだと信じます。
「いえ、それは違います。」という人はいないと思います。
目で見えて、誰でも(コップだと)認めるものだからです。神様が「信じなさい」と言わなくても、
私たちは「言わなくても知っている」となります。

しかし信仰というものは人間的な理性では絶対に可能性がないものであります。
信じることができないものを、私たちはただ「神様が語るから」、「神様から出た言葉であるから」
私たちはそれを信じることであります。
だからイエス様はそういう人は幸いであると語りました。

誰も神様を見た者はいないです。しかし神様が生きておられることを信じています。
なぜなら言葉を聞いたからです。

【ヨハネの黙示録1章3節】

心に留める=信じることであります。この人たちが祝福を受ける人であります。
その人達が本物の信仰を持っている人達であります。

イエス様は子供のようになりなさいという言葉をよく使いますが、
それは子供たちは単純な心だからです。
子供が頭の中で計算をしたり、論理的に計算して理性的にすることはないです。
子供たちは単純にそれを信じます。それで騙されて誘拐されることがありますが、
神様の言葉には偽りがありません。騙すことがないです。

真理を聞いて信じられないという人は不幸な者であります。
見えない世界の方がある意味現実であります。それを神様は信じなさいと語ってあります。

「見せてください。見せてください。見せてください。」 と言うのは、神様は信仰の薄い者とおっしゃいます。
弟子たちがそうでした。

私たちがいつまで経っても「見ないと信じられません。見せてください。」と言うなら、
神様は「いつまで弱い信仰のままであるのか。本物の信仰を持ちなさい。みことばを信じなさい。
見なくても、神から出た言葉として見ずに信じなさい。」そしたらそれが現実に現れます。

奇跡は信じてから現れるものです。奇跡を見て信仰が生まれることではないです。
何も見えなくても信じるから奇跡が起こります。
だから奇跡を見たいならば、「見せて下さい」ではなく、「信じますか?」から始めます。

「神様は奇跡の神様であることを信じます。」、「私は神様のみことばをそのまま信じます。
ですから神様、これらのこと、主よ 働いてください。
そうすると私は神様が奇跡を起こしてくださることを信じるので、それが起こることを感謝します。」
このように、まず信仰を見せることであります。
信仰がないから神様は答えることができないのです。

ですから私たちは順番を間違えてはいけないです。
神から得る全てのものは私たちの信仰から得るものであります。
「ですから神様、わからないですけど、信じます。信じます。」
口先ではなく、心から信じることであります。そしたら神様が「わかった。あなたの信仰が奇跡を現す。」
私たちは口の告白がとても大事です。疑いの心があるから信仰を持つことができないです。

見ずに信じること、この道以外にはないということを心で信じてください。
私たちも信仰ある者になりましょう。 (*^・ェ・)ノ

2012.4.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様に祈るならば道は開かれます

テーマは 『 ヨルダン川が分かれる奇跡 』 です。

【ヨシュア3章14-17節】

神様がヨルダン川で奇跡を何度も行いました。ヨルダン川は3回分かれました。

-1回目-
人の目では、どう見ても渡ることは不可能でした。
自分でできない時、賢い人は神様に祈ります。
奇跡は神様がなさることなので、私たちは信仰を持って祈りましょう。
「神ならばできる」 そして神様がどう語るのかを注意して聞かなければなりません。

【ヨシュア3章7節】

聞き従うことをしないと、いくら自分の力でやっても無駄であり、時間が過ぎるだけです。
私たちには知恵も力もないです。神様がなさるわざは自分たちが考える方法とは違います。

常に新しいことをされます。

言われた通りに行動するなら、神様の働き・奇跡を体験します。≪ 従いなさい。≫
1歩足を踏み出すなら、奇跡が起こります。みことば通りに行動するのが信仰です。
「道を開いてください」と祈ります。
しかし、神様にお願いをするだけで 自分が行動をしなければ、奇跡を体験することができません。
障害物(ヨルダン川)は、自分の目の前にあっても、信仰で勇気を持って歩き出しましょう。

-2回目-
【Ⅱ列王記2章8節】

エリヤは、神様に頼って歩んでいました。
主の力を持って進む人は、サタンが邪魔をできません。
サタンは、心配する者 ・ 油断をしている者 ・ 弱い者 ・ 不信仰の言葉を使う者を狙います。
『 私の目の前から崩れされ。 』と宣言します。

-3回目-
【Ⅱ列王記2章13-14節】

エリシャはなぜ渡れたのでしょうか?
エリシャは他の者とは違って霊に関心があったので自分の信仰を神様に試しました。

【Ⅱ列王記2章9節】

世のものに関心があります。(エサウがそうです。)
エリシャは霊的価値を知っていました。
私たちはもっと霊的価値を知らなければいけません。みこころであるなら、その通りになります。

神様を慕い求めるなら、力と恵みが与えられます。
知恵があるなら、どこででも生きることができます。

神様は、私たちがこの地でも成功することを願っておられます。
≪ 私がいるではないか ≫ ≪ 自分の力に頼るな ≫

正直に、「私は力がないです」と神様に言って祈るならば、ヨルダン川のように分かれて
道が開かれます。求めましょう。

2012.2.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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