からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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奇跡

感謝と奇跡

テーマは 『 感謝と奇跡 』 です

【ヨハネの福音書6章1-13節】

その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。

大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。

イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。

さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。

もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

みなさんは毎日祈っていますか?


祈っているならば 願いのための祈りが多いですか?

それとも、感謝するための祈りが多いですか?



神様は願いも感謝も聞いておられます。


しかし神様を最も喜ばせるのは “感謝” です。


感謝する時に、さらに強い恵みの雨が天から降ってきます。



そして、感謝の中でも さらに神が喜ぶ感謝があります。

試練の中での感謝と、小さいことに大きな感謝をささげる時に神様はとても喜びます。



いつも感謝している人を見ると、霊的にも精神的にも安定しています。

顔も笑顔です。

口から絶えず感謝のことばが出てきます。


感謝のない人を見るといつも不機嫌な顔、不満げな顔、そして文句を言います。

そこから嫌なものが流れてきます。



今年も既に2ヵ月が過ぎましたが、どれくらい感謝しましたか?


“神の恵みなしには生きていけないな” と思う出来事も色々ありました。

そういうものがあるからこそ、受けている恵みに対して感謝が出てきます。


自分がいま存在していることを神様の恵みだと思っていますか?

自分の足で歩いて来られたことを感謝しましたか?



ある大学2年生の男の人が、交通事故で脊髄を痛めて首から下がマヒしました。

動けなくなりましたが、口に棒をくわえながらパソコンで文字を入力して 友達にメールを送ります。


今は それしか出来ないです。人生が一瞬にして変わりました。

とてもかわいそうでした。


2度も交通事故にあった私から見ると、いま生きているのは すばらしい神の恵みです。

いつもそのことを思っています。






今日のテーマは、“感謝と奇跡“ の話ですが、本文には感謝と奇跡があります。


主は五つのパンと二匹の魚で、男だけで5千人、そして女と子どもを合わせると二万人くらいの人たちに食べさせました。

まさに奇跡です。


その奇跡を起こす “前” のことを 見ていきたいと思います。


主は、父なる神にまず感謝をささげました。

奇跡が起きてからの感謝ではなく、“最初から” 感謝しました。


そして感謝して分け与えた時に、みんなが食べられる分のパンと魚になりました。


主は自分の力を見せびらかすために奇跡を行ったのではないです。



この奇跡は群衆に対する ある思いから始まりました。

本文には出ていないですが、別の福音書には 次のようにあります。


【マルコの福音書6章34節】

イエスは、船から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

彼らの魂を憐れみ、まずは霊のパンを与えました。


それから次の箇所です。


【マタイの福音書15章32節】

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」

食べ物もなく、肉体も弱ってきたことを見て、かわいそうに思い、奇跡を行って彼らを食べさせたいと主は思いました。



聖書にある奇跡を見ると、主のあわれみによって、信仰によって、必要性に応じて奇跡が起きたことが分かります。


誰かに対して憐れみの心を持って祈る時に、その祈りが聞かれることを経験していると思います。


憐れみの心がある時に、私たちの祈りも真剣な祈りになります。


親は常に子どもに対して憐れみの心を持っています。

ですから 惜しむ心がないですし 真剣です。

夫婦でも互いに憐れむ心があると、喧嘩することもなく感謝し合います。


イエス様の奇跡は、とても小さいものから始まりました。



少年が持っていた大麦のパン五つと小さい魚二匹でした。

これは貧しい人たちが食べる食事です。


このみすぼらしい小さい食べ物が主の手に載せられた時に 二万人近い人が食べた “パンの奇跡” になりました。


どんなに小さいものでも、主の手によって大きく用いられることができます。



もちろん主は、無から有を創造することも出来る方です。


神様は大きなものよりは小さいものを用いることを喜びます。


自分には小さいものしかないし、才能もないし、力もないと嘆く必要はないです。

私たちが小さいものを差し出す時に、主は喜びます。


小さいことに感謝出来ず、満足せず、大きなもの、多くのものを求める時が多いですが、私たちは小さいことに対して感謝が必要です。


小さいことも 主から与えられた “恵み” です。






マタイの福音書15章には カナン人の女性が出てきますが、彼女は小さい恵みに大きく感謝した人でした。


悪霊に取りつかれた娘の癒しを求めてイエス様の所に来て懇願しました。

しかしその時の主のことばは意外なものでした。


「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」


女の人はそれに対して、
「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」


彼女は食卓から落ちて来るパンくずの恵みにも感謝出来る人でした。

その感謝によって奇跡が起こりました。


イエス様がパンくずの恵みではなく、その娘を悪霊から解放する奇跡を行いました。


彼女には 受ける前からすでに感謝の心がありました。

これはイエス様からもいつも見られる姿です。


パンの奇跡でも、まずパンを手に取って父なる神に感謝をささげました。

最後の晩餐の時にも、自分の体がむち打たれて死ぬことを知っていながら感謝をささげてパンを裂き、それを弟子たちに配りました。

これから起こる奇跡に感謝しました。



感謝を蒔くと、感謝なことが起こります。


受けてからの感謝も主は喜びますが、受ける前から感謝することは さらに喜びます。


そこには神の奇跡を信じる強い信仰が見られるからです。


これから みなさんもそのような感謝をしてみて下さい。

神様は小さいもの、みすぼらしいものを手に取って神に感謝をささげる人に奇跡を表します。


“不満” では奇跡は起こりません。

“感謝” では奇跡が起こります。


主の感謝でパンと魚に奇跡が起こり、人々は満腹しました。


その後に、主は弟子たちに「余ったものは一つもむだに捨てないように集めなさい。」と言われました。

なぜそうしたでしょうか?


神が私たちに恵みとして与えられたものを むだにしたり、勝手に捨てたりすることは神の恵みをさげすむ行為だからです。


それは神を無視し冒涜する姿です。


いつも “下さい、下さい” ばかり言うのではなく、与えられた恵みを大切に使うことが主の恵みを知っている人の姿です。


どんなに小さい恵みでもそうです。


神は感謝する聖徒を喜びますし、豊かな恵みと奇跡を与えて下さいます。


そして感謝する聖徒たちを サタンは倒すことが出来ません。


感謝は神と周波が合います。

しかし、不満はサタンと周波が合います。



サタンは、感謝する聖徒を誘惑して試みに会わせて倒すことが出来ないです。

すべてに対して感謝しているので隙間がないです。


神から受けた恵みを思い出してみて下さい。

そして心から感謝してみて下さい。


感謝する人の人生にこれから奇跡が起こります。
(・∀・)つ


2017.3.5
聖日礼拝メッセージ

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どのような人が神の恵みを受けるのか

ハレルヤ。
今日も良い日です。

自分が生きていることも、ここまで守られてきたことも、すべて神様の恵みのおかげであることは、クリスチャンになってから初めて分かりました。

それで神の恵みがどんなにありがたいものかを知ったので、今も日々 神の恵みを求めています。


旧約聖書の多くの部分で「神は恵み豊かな神である。」という言葉がありますが、そのことばに触れると心が温かくなります。

この神に愛され、恵みをもらって生きていることが嬉しくなります。


そして神の恵みなしに生きることはできないと本当に思います。

寒い時、雲の間から太陽が出た時に、太陽の熱で身体が温かくなっただけでも神の恵みをすごく感じます。


1つ部屋を暖かくするにもお金がかかるのに、いつもタダでこのような恵みを受けているのだと思うと感謝が出てきます。

すべての恵みは上におられる神から私たちに流れてきます。

信じる者にも信じない者にも 差別なく与えられる恵みはとても多いです。


神は 恵み深い神であるので、私たちにさらに恵みを受ける道を教えてくださいました。

この恵みは一般的な恵みではなく、特別な恵みです。


どのような人が特別な恵みを受けるでしょうか?


恵みは神の主観的なプレゼントであるので、“なぜ私にはそれを下さらないのですか” と誰も言えないです。

恵みは、神の主観的なプレゼントですが、このような人に与えると神が教えてありますので、受けたいならばその通りにしたら良いと思います。


特別な恵みを1番受けやすい人は、謙遜な人です。

“主の食卓から落ちるパンくずでも良いです” と言える人が、パンくずではなく、主の食卓に着いて 主が用意したごちそうを食べることが出来ます。

“私はパンくずなんか食べる人ではない。もっと良いものを出しなさい。”という高慢な人は追い出されます。


祈る人も、神の恵みを受けることが出来ます。

神の前にひざまずく人は挫折をしないです。

反対に 神のみわざを体験します。


聖書で奇跡を体験した人、大きな恵みをもらった人は 砕かれた心を持って主に祈った人たちでした。

また神に恵みを受けた人たちは、神を信じ 信頼した人たちでした。

イエス様に従うことは、自分と自分のすべてを捨てて神に頼りながら 神のみこころを行う生活です。

ダニエルが自分のいのちを捨てた時に、神は彼のいのちを守ってくださいました。


飢えた獅子がいる穴に落ちた人が、傷一つなく命が守られたことは特別な恵みです。


神は、神を恐れて不義を行わず自分の命までも捨てた人に 大きな恵みを与えて下さいましたし、国の中に神の偉大さを表しました。

このような素晴らしい恵みを今も備えておられる神様ですから、神に日々恵みを求めて祈っています。
(*・ω・)ノ

2016.4.21
3分テレフォンメッセージ

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私をあわれんで下さい

テーマは 『 私をあわれんで下さい 』 です

【マタイの福音書15章21-22節】

それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

「どう祈ったら祈りが答えられますか。どう祈ったらいいかわからないです。」と言うクリスチャンが多いです。

このように、祈りを難しく考える人が意外にも多いです。


イエス様がどのような祈りに いち早く反応したかを聖書で調べるならば、どう祈るべきかが分かります。


イエス様の所には常に様々な問題や悩みを抱えた人たちが ひっきりなしに集まって来ました。

数えられないほどの奇跡がありましたが、ある奇跡は聖書に記録されてあります。


きっとそこには 神様が語りたいメッセージがあったので、特別に記録として残したかもしれないです。


今日の聖書の内容からは、答えられる祈りの言葉が出てきました。


主の所に悪霊に取りつかれた娘を抱えた女の人が来ました。

想像するだけでも日々大変な思いをしながら娘を育てていたと思います。


治す方法すらありませんので 先も見えないです。
毎日が戦いの日々です。


私も、今までそういう人たちを 何人も見てきましたし、悪霊も追い出しました。

家族もとてもつらい思いをしていました。


そのような苦しみを抱えた女の人が、主の所に来て話したことばは とても短いことばでした。


「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんで下さい。娘がひどく悪霊に取りつかれているのです。私をあわれんで下さい。」
この言葉がすべてでした。


これだけでも 辛い状況と切なる願いが伝わってきます。

ことば数が多ければ多いほど(祈りが)聞かれると思って、あれこれと言う人が多いですが、主の耳に一番入りやすいことばは「私をあわれんで下さい」ということばです。


なぜなら主は あわれみ深い方なので、この女の人はそれを知って 主のあわれみに訴えかけました。


そして主も そのことばにすぐ反応しました。

その後、イエス様は彼女の信仰を試しますが、それに対してしっかりと信仰を見せました。


さらに女の人は進み出て、主の前にひれ伏して、「主よ。私を助けて下さい」と懇願しました。


主が “あわれみ深い神” だけではなく、 “助け主” であることも知っている女の人は、積極的に主に願いました。

主は女の人の願いを叶えてあげました。

そして娘から悪霊が出て行き、癒されました。


私たちに主に対する揺るがない信仰があるならば「主よ。私をあわれんでください。私を助けて下さい。」と祈るだけでも主は答えて下さいます。






二人の盲人が目の癒しの奇跡を体験しましたが、彼らにも同じものが見られました。



【マタイの福音書9章27節】

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

そして さらにイエス様のみもとまでやって来た時に、イエス様は「私にそんなことが出来ると信じるのか」と聞かれた時に、「そうです。主よ」と自分たちの信仰を見せました。


すると、主はすぐに彼らの目にさわって「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。

そして彼らの目が見えるようになりました。


彼らは「主はあわれみ深い方、奇跡を行う主、願いを叶えて下さる主」であることを信じました。


その信仰を持って「主よ。私たちをあわれんで下さい」と叫んだので 主が癒して下さいました。


【へブル11章6節】

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

このように書かれているように、信仰をもって 主に「私たちをあわれんで下さい」と求めたので、奇跡が彼らに起こりました。


また、祈るために宮に来られた取税人の祈りはどうでしたか。

彼は罪の問題を持ってきました。
次の箇所です。


【ルカの福音書18章13節】

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

彼の前に、律法を守って敬虔な信仰生活していると自任しているパリサイ人の祈りには反応しなかった主が この人の祈りには反応しました。

そして彼の罪を赦して下さいました。


罪人が罪を赦してもらうために あれこれ言ったのではなく、自分の罪を悔い改めながら「神様。私をあわれんで下さい」と言っただけでしたが、それは主がとても喜ぶ祈りでした。


主が罪を赦して下さる主だと信じたので、主に直接お願いしました。


「私をあわれんで下さい」と祈る時に、主はあわれんで下さいます。

「私を助けて下さい」と祈る時に、主は助けて下さいます。


短いことばですが、主はその言葉に その人の辛さ、大変さ、悩み、願いがすべて入っていることを知っておられます。


そして、その言葉とともに主への信仰を持って主に近づく人に 主は答えて下さいます。

あわれみ深い主は、あわれみを求める祈りに すぐに耳を傾けて下さいます。



【ヘブル4章16節】

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

神様は私たちをあわれんで下さる方です。

また助けて下さる方です。


「私を助けて下さい」と信仰の先祖たちが 苦しみの中で主に助けを求めた時に、いつも助けて下さいました。


自分の中に 主への信仰があり、問題を主の所に持って行き 「主よ。私をあわれんで下さい。私を助けて下さい」と言うだけで、主は答えて下さる方です。


たくさん祈らないと主が見向きもして下さらないと勘違いしてはいけないです。


切なる思いで 「主よ。あわれんで下さい」 と祈るだけでも、その祈りは主に届きます。


(神様に)届いた祈りには必ず答えがあります。


「私をあわれんで下さい」という祈りは、謙遜な祈りです。
そして「私を助けて下さい」はSOSの祈りです。



【第1ペテロ5章5節】

みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

主の前にへりくだって切に求める祈りと願いに 主はいち早く答えて下さいます。


「私をあわれんでください。私を助けてください。」は、とても良い祈りのことばです。
(。・ω・)ノ゙

2016.1.24
聖日礼拝メッセージ

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感謝が人生を変える

テーマは 『 感謝が人生を変える 』 です

【詩篇136編1-3節、23-26節】

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。

主の主である方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。


主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。

主は私たちを敵から救い出された。その恵みはとこしえまで。

天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。

今日は収穫感謝礼拝を主に捧げます。


あと1か月半で今年も終わります。あっという間です。


主から受けた恵みを全部覚えていますか?

感謝をしましたか?


昨日パリで連続テロ事件が起こり、世界をびっくりさせました。

フランスにとっては悪夢の日でした。
百何十人が死亡し、多くの人が負傷しました。

テロは突然 何の前触れもなく起こり、多くの尊い いのちが突然奪われました。


6ケ所でテロが起こりましたが、コンサート会場で一番多くの死者が出ました。

アメリカのロックバンドのコンサートでしたから、犠牲者の多くは若者だと思うので、短い人生で終わった人が多かったと思います。


最近はテロ爆発事件で亡くなる人も多いので、自分が いつどこで人生が終わるか分からないです。


人生は短いです。

その人生をどのように生きるかがとても重要です。

ある人たちは人生がいつまでも続くと勘違いしながら生きていますが、人生は短いです。


歳を重ねていくと人生はさらに短く感じます。


しかしある意味では人生は長いです。

まだまだ夢のために、ビジョンのために生きる時間が残されているからです。

そして死後の世界もあるので、その意味で人生が終わることはありません。


「人生とは何か」を論じても それはむなしいですし、答えるのも難しいです。

しかし日々をどのように生きるかによって、人々は自分の人生に対しては答えを出すことが出来ます。


何よりも良い人生を造り出すためには、感謝に優れていないといけないです。


感謝が多い人はまず表情が明るいし、肯定的な人生を生きていますので、幸せオーラが出ています。


反対に 感謝せず、何かと不満が多い人は 表情が険しく、不幸がにじみ出ています。


どちらが良い人生であるかは、見た目でも判断が出来ます。






今回は “ 感謝が人生を変える”  ことに対して話します。


詩篇136編は神の前で感謝をする みことばです。


この箇所には感謝の原理があります。

1節から26節まで 感謝の内容が並べられていますが、神からの受けた多くの恵みを思い出しながら、1つ1つ感謝する内容でした。


主が良くして下さった恵みを忘れないことは良い事です。


しかしそれを神の前に1つ1つ取り上げながら感謝することは神がとても喜ぶ事です。


人間関係においても、もし過去に人から受けた恵みを忘れず、何年後でも相手に感謝を忘れていないことを伝えると「昔のことなのに、未だに覚えているんですか?」と驚きながらも嬉しい気持ちになります。


しかし受けた恵みに対して覚えておらず、感謝のことばも無いならば どのような気持ちになりますか?

これからは何もしないと心で決心しますし、したくなくなります。


皆さんは受けた恵みをよく覚えていますか?

そして感謝もしていますか。

感謝は日々の生活の中から生まれて来なければなりません。


私たちの日常は毎日がお祭りではありません。

平凡であるから、感謝そのものを忘れることが多いです。


特別に良いことがあると感謝しやすいですが、そうではないと感謝することもなく、1日が終わることが多いでしょう。


しかし平凡な日常の中でも感謝することを捜して感謝することが大切です。


私たちは食事の時に食べ物に対して感謝の祈りをします。
それは本当に感謝な事です。


イスラエルの民は40年間 荒野を通りましたが、その間ずっと神が与えた特別な食べ物・マナを食べて生きました。


最初は喜んで感謝して食べましたが、しかし しばらく経たないうちにマナに対して悪く言い始めました。

「こんな みじめな物は食べたくないし、もう飽きた。」
感謝が消えて、文句を言いながら “ 肉が食べたい ” と要求しました。


しまいには、奴隷の時を懐かしく思いました。
それには神様もびっくりでした。


もしマナが毎日与えられなかったならば、イスラエルの民は全員荒野で飢え死したと思います。

それは彼らにとっては いのちのパンでした。


しかし毎日与えられると、それが当たり前になり、感謝することもしなくなりました。


昔より今は食べ物が豊富ですが、昔より食べ物に文句を言う人が多いです。

毎日 食べ物があることは すごく感謝で、毎日ご飯が食べられることは素晴らしい恵みです。


神戸地震の時にいつも冷たいおにぎりばかりを食べていた避難民たちは 温かいご飯を食べた時にしみじみと温かいご飯のありがたさを感じました。


そのように平凡な日常の中に感謝なことは たくさんあります。


まずは平凡な日常の中で感謝するものを捜して感謝することです。
それは目に見えるものだけではありません。


昨日 電車で帰る時に、どのような感謝があるのかを考えました。

そしたら正常に呼吸していることが感謝でした。

以前、呼吸困難になったことがありました。


息をすることの しんどさを初めてその時に感じました。

苦しくて酸素缶を買い、酸素を吸いました。1本1000円でしたが、2本買って吸いました。

少しは楽になりましたが、高かったです。


お金も支払わず、タダで空気を吸って呼吸していることは、実はすごく感謝なことです。


見えること、聞こえること、歩けること、話せることも大きな感謝です。


ですから、探せば 感謝出来ることがいくらでも出てきます。

失ったものや、無いものばかりを考えながら生きると、感謝が出て来ることはないですが、あるものに目をとめると、すべてが感謝に変わります。


人生の晴れの日に感謝するのは一般的です。


しかし、人生の雨の日に感謝ができるのは 聖霊充満な人生です。


そのためには普段から すべてを主の手にゆだね、たとえ最悪の状況に出会っても感謝をすると、自分の心に決めておくことが大切です。


なぜなら主の約束のことばがあるからです。


【ローマ8章28節】

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

約束を信じて、心の準備をしておかないと、最悪の時に信仰が揺れ動いて倒れやすくなります。


そして私たちの感謝の出発は「主は慈しみ深い方であり、その恵みはとこしえまで」と信じる信仰からです。

信仰と感謝は比例します。


信仰の目で見ると感謝することがとても多いです。

神様に対する信仰が強いと感謝もそれに比例して多くなります。






神はどのような方ですか?
世界で一番偉大な方です。


神の神、主の主とは、神の偉大さと絶対主権を現すことばです。


人間の力と努力だけで、何かを成功させることは出来ないです。
神の恵みなしにすべては不可能です。


尽きない神の恵みがあって すべてが動いていますし、祝福されています。


苦難と問題の中にいる人が、今 いるかも知れません。


しかし人生の問題は、視覚と思いと信仰の問題です。

信仰があるので すべてが栄え、問題も起こらないとは神が約束していないです。


何があってもいつも喜び、絶えず祈り、すべてについて感謝するのが信仰だと教えました。


太陽の光も、苦難の雨も聖徒たちに降ります。

それは苦難の中で 私たちの人格を整え、肉の視覚を信仰の視覚に変えるためです。

試練の中で聖徒たちは変わっていきます。


イエス様に似る者にするために、“試練”という炉を通ります。


様々な問題の炉を通りながら、内側にある不純物が取り除かれ、聖くなり、悟りを得、問題を克服していく過程の中で さらに成熟していくことが多いです。


ですから、私たちが試練の荒野を通る時には、環境の変化を祈る前に、自分自身の変化のためにまず祈ることです。

また、どんな環境の中でも感謝出来る者になれるように祈ることです。

自分が変わると環境も不思議に変わります。


しかし自分が変わらず、文句ばかり言うならば試練はさらに厳しくなります。

苦難を克服する最善の道は、すべてに感謝する事です。


苦難を“自分が成長するチャンスだ”と信仰で受け止め 感謝すると、信仰も成長し、神様もその人を助けて祝福して下さいます。


感謝をする時に、人生は変わります。


私たちは生まれた時に何も持たずに生まれましたし、何も持たずに世を去ります。


欲深い人は感謝が出来ないですし、その人生は幸せにはならず、むなしい人生で終わります。


しかし小さなことに対しても感謝をする人は、感謝することが多いので、自分の人生をますます幸せにしていきます。


肉の視覚と思いで足りないもの、あらさがしをすると不満がますます増えていきます。

しかし視覚と思いを変えると、不満だったことを感謝の条件に変える事が出来ます。


世を見ると絶望や失望することが多いので、希望が見えてこないです。


しかし目をイエス様に向けると希望が生まれ、喜びが生まれ、感謝が生まれ、平安な心になります。

このように自分の視覚を変えると、人生も変わります。


世界で起こっていること、自分の人生で起こっていることを、神に信頼しながら、信仰の視覚で見ると違って見えます。


神様はすべての状況をすぐにでも変える力がある方ですが、良い目的をもって沈黙を守る時があります。

イエス様が十字架で苦しんでいる時も、神様は沈黙を守りました。

それは、イエス様の死が 人類の救いのために必要であったからです。


もし試練があるならば、そこに神の良い目的があることを信じて感謝してみて下さい。

いつかそれがはっきり分かる時が来ます。


自分は幸福ではないと言う人たちも多いです。

もちろん色々な原因があると思いますが、感謝が足りないことも原因の1つです。


感謝が足りないと魂が渇きますし、感謝はたましいに潤いを与えます。


そして感謝は幸せと祝福の扉を開ける鍵です。

ですから感謝する心は環境を変えますし、さらに人生を変えます。


また、さらに神のみこころも計画も変えることが出来ます。

懲らしめが恵みに変わることがあります。


すべてのことについて感謝することを習慣化して下さい。その感謝によって幸せが訪れ、奇跡が起こります。


感謝は神との関係も人との関係もよくします。

そして神を喜ばせ、人も喜ばせることが出来ます。


感謝のことばが口から絶えることがないようにしましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2015.11.15
収穫感謝祭礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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ダニエルを助けた神様

テーマは 『 ダニエルを助けた神様 』 です

【ダニエル書6章19-28節】

王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。

その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」

すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。

私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出られたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。

王が命じたので、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子とともに捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった。

そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。

「あなたがたに平安が豊かにあるように。私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神、永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。

この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇跡を行い、獅子の力からダニエルを救い出された。」

このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。

聖徒たちが特別な理由もなく苦難を受ける時があります。

また、神様をもっと信じようとする時に、大きな苦難にぶつかる時もあります。


「なぜだろう。神様は私を本当に愛しているだろうか。私を助けて下さるだろうか。」と思う時もあります。

しかし聖書では 信仰の先祖たちも問題にぶつかり苦難の時があったことを知ることができます。
その時、彼らは立派な信仰を見せました。


苦難に会って何をどうしたらよいか分からず 右往左往する弟子たちの姿を見て、イエス様が「なぜ恐れるのか。信仰の薄い人たち」と言われたことがありました。

そのことばでも分かるように、どんなに大きな苦難や試練に会っても、しっかりと信仰の姿勢を見せると神の奇跡を体験することが多いことを聖書で発見することが出来ます。

ですから試練の時は聖書に出てくる信仰の人物を通して、どうすべきかを学ぶことができます。


ダニエルは私たちが学ぶ事が多い信仰の人で、神にも人にも認められた人で、彼は忠実で 何の怠慢も欠点もなく人間としても素晴らしい人でした。

捕虜として連れて来られた者でありながら、その優れた知恵と悟り、また忠実さによっていつの間にかバビロンの総理にまでなりました。

それは神の祝福でもあり、彼が王に信頼されているしるしでもありました。


また彼は祈りの人で、日に三度いつも神様に祈りをささげ、とても敬虔な信仰を持っていました。


しかし、このように祝福されていたダニエルに思いがけない大きな試練が来ました。

それは罪によるものでも、神からの試練でもなく、彼の出世を妬んでいる政治家たちの陰謀による試練でした。

その者たちの心にはダニエルに対する激しい妬みがありました。
サタンも妬みのある人々を使ってダニエルを倒そうとしました。


ダニエルを倒すために彼らが考え出した策略は次の箇所に書かれています。


【ダニエル書6章7節】

国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施して下さることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。

ダニエルを妬んで彼を倒したい人たちは、高い地位にいるすべての人がまるで賛同したかのように嘘をつき、また自分たちが王に忠実な者であるかのように偽って、王の高慢な心と名誉欲をそそりました。

そして王であるダリヨスは、軽率にもその禁令を承認しました。

その禁令によって (ダリヨスが)大事にしているダニエルを殺すための策略であることも、王はまだ気づいていませんでした。

そしてダニエルはその禁令によって信仰の試練に会いました。


いつも通り、1日3度神様に祈るべきか、それとも1か月間 祈りを休むかを決めなければなりませんでした。

神様を第一にして生きる人にとって、これは大きな試練です。

信仰の薄い人や信仰がない人には何の問題にもならない禁令です。
なぜならば1か月間 祈りを休めば済むことなので悩む必要もないと思うからです。

しかしダニエルのように信仰深い人にとって、祈りは 神との会話であり、霊の呼吸なので、1か月どころか1日でも止めることが出来ない大きな問題でした。

これは呼吸を止めることと同じなので出来ないことです。


特にダニエルは、決まった場所で窓を開けてエルサレムに向かって祈りをささげる規則正しい信仰生活をしていましたし、いつも感謝を捧げていました。

そして禁令が出た後でも、何事もなかったかのように いつも通り祈りをささげていました。

それは“信仰を捨てることも、神に黙っていることも出来ない”というダニエルの意思表示でした。

これによって彼がどのような信仰を持っているのかがはっきりと分かります。


そして私たちが学ぶべき信仰の姿勢があります。

権力や富を得るために罪のない人を殺そうとする人もいますが、それを手放しても信仰を守ろうとするダニエルのような人は、自分のいのちをすべて支配している神に委ねます。

このような人は死をも恐れません。


信仰には必ず勇気ある実践が必要です。

都合が悪い時に退く信仰では神を喜ばせることが出来ません。


信仰は隠すものではありません。


ダニエルの信仰はとても勇気あるものでした。


【マタイの福音書10章28節】

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

【ヘブル10章39節】

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

敵がいくら悪い方法で攻撃をしてきても、熱心に善を行いながら対処するダニエルは素晴らしい人でした。

その時は損をしているように見えますが、後には善を行った人たちが勝利します。


ダニエルは 禁令が自分を殺すためのものであることを知りながらも、「死ぬ時は死ぬんだ」と決心して信仰をもって神様に祈りました。

そして祈る姿が見つかったことで獅子の穴に投げ込まれました。


ダニエルを大切に思っていた王はやっと自分が愚かで軽率な判断をしたことに気づき、ダニエルを助けようとしましたが、結局はその禁令に縛られてダニエルを助けることが出来ず、獅子の穴に投げ込むよう命令を出しました。

それは王にとって辛い決断でした。
王はダニエルのことで一晩中断食をして寝られませんでした。

神様はその時に何をしたでしょうか?


神は、危機の中にいる神の人を見捨てることはしません。


神様はいのちの危険からダニエルを助けるために御使いを送りました。

そして このような形で神様が人を助けるとはだれも想像していませんでした。


決して獅子の穴に入らせないことだけが神の助けではありません。


神様はダニエルが死を覚悟して自分の信仰を見せた後に彼を助けました。

口先だけで 実際信仰の行動がないのに、神を動かすことが出来ると思うことは間違っています。


神様は神に頼る信仰を見たいと願っておられますし、信仰がなくては神を喜ばせることが出来ないと聖書に書かれています。

神様は、聖徒が試練を通して信仰が成長することを願っています。


試練の中でも世に頼らず、最後まで神に頼る時に、神は御使いを送り助けて下さいます。


神様はダニエルが無罪であることを証明して下さいました。

聖徒は神に栄光をささげながら真理も現していかなければなりません。

世の光と塩の役割がある聖徒が 罪を犯して苦しみを受けているならば、それは話にならないです。


しかしダニエルは、自分を陥れようとする悪者たちの策略によって禁令が出来たことを知りました。

ダニエルの前には2つの選択肢がありました。

神の真理を守るか、それとも真理を捨てて妥協しながら死を免れるか。


ダニエルが選んだ道はたとえ死ぬことがあっても、真理を守るといつか神様が自分の真実を証明して下さると信じて大胆に獅子の穴に入りました。

このような信仰が聖徒には必要です。


真実は神によって明らかにされるもので人間によってされるものではありません。


神様は何もかもご存知で、神の目に隠されるものはありません。

たとえ汚名をかぶったとしても真理を守り通すならば、いつか神が真実を証明する時が来ます。

ダニエルの真実は神が彼のいのちを助けたことで証明されました。


ダニエルは獅子の穴で生きていたのでそのことを話しました。

「私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」と、はっきりと語りました。

王はそのことで非常に喜び、そしてダニエルを穴から出すように命じました。


ですから聖徒は理由もなく非難されたり、悪口を言われる時に失望せず、神に任せましょう。
真実が明らかにされる時が必ず来ます。


私もその経験があります。
ある出来事があって2年後に神様は真実を明らかにして下さり、その時は本当に心が晴れました。


神様はダニエルを助けた後に、彼を殺そうとした悪人たちを滅ぼし、ダニエルをさらに祝福しました。

当初ダニエルを訴え、彼が獅子の穴に入ったことを確認した悪者たちは、自分たちの計画通りになり、王様までも騙すことに成功したので勝利の歌を歌いながら大喜びし、自分たちの策略に酔っていたと思います。

そしてこれからは自分たちの思い通りになると考えていました。


しかし彼らを待っていたのは悲惨な結末でした。

偽りと悪を裁く神によって、彼らは自分たちが考えたこともない獅子の穴に投げ出される羽目になりました。
それも家族全員でした。

彼らが投げ込まれた時に、お腹を空かせた獅子たちは飛び上がって彼らを食い尽くしました。


しかし神に助け出されたダニエルはさらに王に信頼され、ますます栄えました。

それだけではなく、王はダニエルを助けた神をほめたたえました。

神のことをよく知らない王であるのに、ダニエルが助けられた姿を見て神を体験しました。

それで全国民に「ダニエルの神の前に震え、おののけ」と宣言しました。
それは神が栄光を受けた瞬間でした。

いのちを懸けたダニエルの信仰が、神の栄光を国中に現す結果となりました。


神様は 神を頼り、離れない者に対しては見捨てることなく必ず守って下さるお方であり、徹底的に守り導いて下さいます。

神がその人の救いとなり、避け所になって下さいます。

神の助けの手は真理を行いながら妥協しない人に差し出されています。


苦難の中で信仰を捨てる人もいます。

しかしある人は苦難の中でさらに信仰が強くなり、さらに神に頼る人もいます。

神に頼り、聖徒に対する神の愛を知っているならば恐れる必要がありません。
神は共におられ助けて下さいます。


もしかしたらその苦難が神を体験するチャンスかも知れません。

ダニエルを助けた神は私たちの神です。

ダニエルのように信頼しましょう。どんな時にも信頼しましょう。
(*´ -`)(´- `*)

2015.6.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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感謝をささげる

テーマは 『 感謝をささげる 』 です

【ピリピ4章6節】

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

外国人が日本に来た時、一番たくさん使う言葉は何だと思いますか?
それは“ありがとう”です。

日本人がアメリカへ行くならば、他より先に覚えていく言葉は“サンキュー”です。
たとえ英語を話せない人でも“サンキュー”を知らない人はほとんどいません。韓国語なら“カムサハムニダ”です。


聖書の中には感謝のことばがたくさん書かれています。
感謝のことば以上に美しいことばは あまりないですね。


感謝は私たちの心や生活を潤すものです。


今回は、今年最後の礼拝でもあるので、特に神様に感謝をささげていきたいと思います。


皆さんは日々どれくらいの感謝を神様にささげていますか?

この一年間どのくらいの感謝を神様にささげたのかを考えてみてください。
“祈りはたくさんしましたが、感謝は少なかったです”と言う人が一番多いかも知れないです。


私たちが神の前に出る主な手段は、祈りであります。

祈りによって自分の願いを神様に伝え、その後は神様が答えてくださることを待ちます。

そして自分が願った通りの答えを得ると神様に感謝をします。


このようなパターンが一番多いです。


間違ってはいないですが、今回のテーマ箇所であるピリピ4章6節には、私たちが信仰の祈りを捧げる時に 従うべき形式が書かれています。

それは祈る時に感謝が必要だということです。

欲しいものを手に入れてから感謝をするのではなく、初めから祈りと願いと共に感謝をささげることが信仰の祈りです。


なぜなら神様が祈りを聞いて働きますし、祈りに応えてくださる方であるので、祈りの中に“感謝”が抜けてはいけないのです。


私自身も祈る時に、まず先にたくさんの感謝をささげることが多いです。
時間がない時でも最初に言うのは、神様への感謝です。

「すべてを感謝します。」と一言で片付けるのではなく、神の愛、主の救い、永遠のいのちのプレゼント、主がいつも共にいてくださること、私を導き祝福してくださったこと、与えられた恵み、教会、信徒、働き、家族などについて神様に感謝をします。

これによってたくさんの感謝を主にささげることができました。


信仰と感謝、感謝と祈りは切り離すことができません。



【Ⅰテサロニケ5章18節】

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

感謝は神様が私たちに望んでおられることです。いつでもすべてのことについて感謝をすることです。

良いことがある時だけ感謝をするのではないです。不幸の中でも感謝します。
実りがなく、何もなくても感謝しなさいと言うのが神からのことばです。


これは感謝には威力があるからです。
感謝生活は私たちの中に喜びを生みだします。


感謝はつまらない生活、単調な人生に活力を与え、人生を潤わせ、肯定的に発展させていきます。

イエス様の地上での生活を見ても、いつも感謝が溢れていました。

聖書の中でイエス様が不平不満を言った場面がありましたか?――まったくありませんでした。


感謝においても、イエス様は私たちに模範を見せてくださいました。

祈りの中にも必ず感謝がありました。次の箇所です。




①5つのパンと2匹の魚




集まった群衆たちが、お腹がすいていることを見て イエス様は彼らを食べさせる計画をしました。

そこにひとりの少年が大麦のパン5つと小さな魚を2匹持ってきました。
イエス様はそこで何をしたでしょうか?


【ヨハネの福音書6章11節】

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

男だけで5000人、女性・子どもを入れると2万人近い人が奇跡を目撃しました。

わずかなパンと魚で全員が満腹し、さらに余りました。


感謝をもってささげる祈りと願いによって神様が奇跡を行いました。

これは平凡で小さなものに対する感謝です。
感謝が先で、奇跡が後でした。




②失敗の中でも感謝




イエス様は人々に福音を伝え、数々の力あるわざを行われましたが、人々は悔い改めませんでした。

人々は福音を拒否しましたが、その中でもイエス様は信じない人々を見て不満を言ったのではなく、信じる者、そして弟子たちを見て父なる神に感謝をささげ喜びました。


100人の中で1人しか救われていないならば、その少なかった結果に感謝をしない人は多いと思います。
自分の働きが無駄だったと思いがちです。

しかし感謝は、信じて救われた1人を見た時に出てきます。

イエス様は信じない人ではなく、信じた人を見て喜び感謝しました。




③死んだラザロの墓の前で感謝





【ヨハネの福音書11章41節】

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことに感謝いたします。

真実な神様、祈りを聞いてくださる神様に感謝をした時にラザロが生き返る奇跡が現れました。




④最後の晩餐の時に杯とパンを持って感謝




自分が苦しみを受け、体が裂かれ、すべての血を流して死ぬことを知っていながらも神様に感謝をささげました。

主は3日目に復活を信じていましたので、感謝をささげることができました。


永遠のいのちへの希望を持っている信徒たちは患難の中でも感謝をささげることができるのは、イエス様がそうされたからです。


私たちが感謝をすればするほど、神の愛が私たちに更に注がれ、そして感謝が種となって芽を出し、美しい実を結ばせます。

感謝する人は恵みを知っている人です。

感謝する人には神の力が臨みます。感謝は前進する力の源です。


また、神の力を引き寄せる綱のようなものです。
感謝が多ければ多いほど神の祝福があります。

感謝は神様の前にのぼっていく“かおり”です。それは神様が喜ぶかおりです。

一年間守ってくださった神様、育ててくださった神様、命を与えてくださった神様に心から感謝をささげましょう。
(´∀`*)

2014.12.28
聖日礼拝メッセージ

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イエス様の驚きと悲しみ

テーマは 『 イエス様の驚きと悲しみ 』 です

【マタイの福音書11章18-24節】

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、 彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、 もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

聖書にはイエス様が驚く場面が出てきます。

百人隊長が素晴らしい信仰を見せた時にイエス様は驚かれました。彼はユダヤ人ではなく、ローマ人です。
しかしユダヤ人よりも素晴らしい信仰を見て、イエス様は『わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』と言いました。


またイエス様は奇蹟をたくさん行なったにもかかわらず信じなかった人々の不信仰な姿を見て驚かれました。

多くの人は「奇跡を見たら信じる」と言いますが、当時は数えきれないほどの奇跡がありました。
それなのに人々は信じませんでした。


【ヘブル書11章6節】

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。

イエス様はその人の財産、権力、名誉などに驚いたことは一度もありません。

イエス様が関心を持っているのは ただ1つです。
「信仰」…その人が信仰を持っているのかどうか、それだけに関心がありました。


良い信仰を見た時にイエス様はとても喜びますが、奇蹟を見ても信じない人や不信仰の姿を見た時にも驚き、また悲しみます。


今の人々の姿を見て、イエス様はどのように思っているでしょうか?

特に信じている人たち、「私は信じて救われました。聖徒です。」という人たちの信仰を見て、イエス様は喜んでおられるでしょうか?

ある人たちは心の中で言うでしょう。「私には信仰がある。毎週きちんと教会に通っているし、聖書も読むし、祈りもするし、奉仕もするし、献金もささげているし。これ以上何ができるのか?」

自分自身で良い信仰だと思っています。
しかし、イエス様がどのように見ているかは分かりません。


また、ある人たちは心の中で言うでしょう。「ああ、面倒くさい。信仰、信仰と うるさいな。忙しくて それどころではない。したいこともいっぱいあるし、どうでもいいわ。別に地獄に行っても良いわ。」

この言葉は、実際に神様のことを知っている人が言っていました。
これがクリスチャンの口から出たことにびっくりしました。その人たちは信仰の失格者であります。

そのような信仰がその人を天国まで導くことはありません。


天国に入れる信仰は、神様が認め 喜ぶ信仰の者だけです。

自分の信仰が、果たして自分自身を天国に導くものなのか?と、いつも私たちは考えなければならないです。


日々の私たちの態度がどれほど不信仰であり、イエス様を悲しませ、涙を流させているのか。
天国に入った人たちは、そこは素晴らしい世界ですので涙を流す人はいませんが、イエス様だけが泣いています。

救われず、地獄に行くたましいを見て泣いています。教会、信徒が堕落していく姿を見て悲しんでいます。

主から離れた人々、さまよっている人々、イエス様よりこの世をもっと愛する聖徒たちを見て泣いておられます。
イエス様は私たちの姿を見て驚き、嘆き、そして叫んでいます。


イエス様は人々に裏切られ、除け者にされ、未だに苦しみを受けています。
イエス様がその人たちに向けて語ることばは、「どうしてわからないのか。悟らないのか。信じないのか。」です。


主の声を今回、みなさんに届けたいと思います。

「私は救われました」というクリスチャンは、自分の姿をもう一度考えてみる必要があります。




① 聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿




聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿に主は驚き、彼らの最後を知っているので主は心を痛めています。


イエス様を信じていない人たちは もちろん滅ぼされます。
しかしイエス様は「あなたたちの方がもっと悪い」と語りました。

なぜなら、「今、あなたたちは多くの奇跡を目の前で見ているのではないか。神が人間となって直接あなたたちの目の前に来ているのに、それでも信じないのか」


ソドムとゴモラの町は不信仰や同性愛などで滅ぼされました。
しかし彼らよりもあなたたちの罰が重いと言いました。

そしてイエス様は「どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」と はっきりと語りました。

ハデスとは地獄のことです。
消えることがない炎が燃え、入ったら出ることができず、永遠に刑罰を受けるところへ行くのだと語りました。


「私は救われました」と言う人を イエス様が見た時に罪を悔い改めず、昔救われて“いのちの書”に書かれているから何をしても大丈夫だと言う人はハデスに落とされると言いました。

イエス様が語ることは、その通りになります。

イエス様は天国のことよりも地獄のことをたくさん話しました。新約聖書で113回語っています。




② 十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのになぜそれがわからないのか




十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのに、なぜそれがわからないのかと主は驚いています。

イエス様からたくさんの恵みを受けた者たちが、その恩を忘れ、イエス様に対して敵対し、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。

十字架にかかったイエス様を見て、頭を振りながらののしりました。
「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。今十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じるから」と、ののしる者、あざける者がいました。


誰のためにイエス様は十字架にかかってくださったのでしょうか?
罪を犯している私たちのためなのに、私たちはののしり あざけました。


彼らを見て「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈りながら主は人々を見ていました。

イエス様の命を取っている者たちを赦してくださいと、これ以上の愛がどこにあるでしょうか?

私たちがイエス様を十字架につけたのです。その時、あなたはどこにいましたか? その群衆の中にいたのです。


今も主は十字架の上で血を流しながら苦しんでいます。
誰のためですか?イスラムの人々や まだ信じない人々のためです。

十字架は昔のことだと思うでしょうか?
しかし、今はイラクでイスラム過激派の人々の手によってクリスチャンたちが街の中で十字架にかけられ1000人以上が殺されています。


イエス様は信仰のために死んだ人々と共に十字架にかかり、血を流し、涙を流しています。

彼らはののしりあざけっていました。
「あなたたちを愛しているのにどうしてわからないのか。」イエス様は彼らが立ち返るように願っているのです。

実際に、イエス様はクリスチャンたちに「十字架であなたのために死んだ私を忘れることが、私には苦しみである。」と語りました。


みなさんはクリスチャンです。みなさんはイエス様の十字架を日々覚えていますか?

自分のような罪人を、世界の多くの人々の中から自分を選んでくださったということが どれほど大きな恵みであるか分からないです。


イエス様の十字架は私のために血を流してくださったのです。
“なぜわたしの十字架を忘れているのか――?”


忘れているという事実に、イエス様はすごく苦しんでいます。
そのことをクリスチャンは覚えていないといけないです。




③ あなたのことば一つ一つが わたしの心を引き裂いている




「あなたのことば一つ一つがわたしの心を引き裂いていることをどうしてあなたはわからないのか」と主は驚いています。

私たちはイエス様を十字架につけて殺した後、今でもクリスチャンたちがイエス様を痛めつけています。
「私はそんな思いはないです。いつ私がイエス様を十字架につけたのですか?いつ私がイエス様を悲しませたのですか?」

皆さん、気付いていますか?


【ヨハネの福音書6章60節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

イエス様は真理を語っていますが 自分たちの目がふさがれて、心に知恵がなく悟っていないのに、「主よ、私たちはそのことばの意味が分かりません。教えてください。」と聞くのではなく、自分たちの思いで勝手に解釈し、非難をしました。

その後、彼らはどのようにしたでしょうか。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様がこの姿を見た時に、どれほど悲しかったでしょうか?

彼らは霊的なことは分からないのです。それまでは「どこまでもついて行きます」と言った者たちが一瞬にして消えていきました。

イエス様は引き裂かれる思いでした。「真理を語っているのに なぜあなたたちは真理から離れていくのか?」
その辛さは皆さんも経験があると思います。

皆さんが人々に(福音を)語る時に「意味が分からない。聞きたくない。二度と言うな。」
そのような言葉を聞いた時に、私たちはすごく心が痛くなると思います。


そしてイエス様に「あれは悪霊に憑りつかれて気が狂っている。」という言葉を言いながら聖霊を汚しました。

私たちはイエス様に悪霊とは言いませんが、どれほど不信仰なことば、不平不満、つぶやきを言ったでしょうか?

神様のことを自分のしもべのように使う時もあります。


私たちが語る1つ1つのことばによってさばかれると聖書に書かれています。たとえ私たちが言った覚えがないと嘘をついても全て記録されています。

ですから私たちが間違えたことを語るたびにイエス様の心に釘を刺しているのと同じであります。




④ あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか




あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか、どうして分からないのかと主は驚いています。

イエス様の目からは いつも涙が流れています。


皆さんはイエス様を信じてから、自分の良いものを取られたことはありますか?

イエス様は悪いものは捨てなさいと言いますが、良いものを盗む方ではないです。


人々がイエス様から離れるのは、それぞれの理由があります。
「祈っても聞いてくれないから信じるのをやめました」、「忙しいのでそれどころではない」、「今は自分の好きなことをしたい」「金儲けが先」など理由・言い訳がたくさんあります。


しかし、よく考えてみてください。その1つ1つの理由が、離れる理由になるでしょうか。

そのことが自分の命よりも大切なことなのかを考える必要があります。
快楽のためにイエス様から離れ、この世を愛する心や物欲でイエス様から離れるなら、後になってどのようにしますか?

地獄は後悔の場所であり、自分自身の愚かさを憎む場所でもあるのです。
“あの時にイエス様から離れていなければ…地獄に来ることはなかったのに!”


イエス様が語るのは「全世界を手に入れても たましいを失うならば、それが何になるのか?」と語っておられます。
イエス様は「もしあなたの右手が罪を犯すならば切ってしまいなさい。」と語ります。全身を持って地獄へ行くよりは片手がないまま天国に入った方が良いと語ります。


たましいを失うと全てを失います。

地上のわずかなもので自分のたましいをないがしろにして、それによって永遠に出ることのできない地獄で苦しむのは、どちらが皆さんにとって得ですか?


常に聖書のことばを読んでください。聖書のことばは気休めのために書いているのではなく、生きるか死ぬかのために私たちに道を示しているのです。


この真理は変わりません。書かれた通りのことが必ず起こります。

もし今晩あなたが死ぬならば、天国に行けますか。天国に入る人は少ないです。地獄に入る人は大勢います。
イエス様はその姿を見て泣いています。


地獄に多くのクリスチャンたちが行きました。
イエス様が、クリスチャンが地獄へ行った理由を語りました。

その理由は、多くの人々がわたしが願っているようにはせず、わたしを敬わず、愛さず、断食を好まず、忍耐をせず、教会の中に留まることを嫌がり、礼拝が好きではなく、祈らず、みことばを読まず、口先だけで賛美するなど、イエス様がして欲しいことと真逆のことをしているからです。


カインの礼拝を捧げておいて、アベルの祝福を受けようとしているのです。
カインにはカインの裁き、アベルにはアベルの祝福があるのです。

自分が蒔いたとおりに刈り取らせるのが正しい裁きであります。


どれだけ私たちは神様のことばが与えられているでしょうか。

「今日、あなたが主の声を聞いたならば 心を頑なにしてはいけない。悔い改めて立ち返りなさい」とイエスさまが語っておられます。

これ以上、私たちがイエス様を悲しませてはいけないです。死んだ信仰、疑い深い信仰、不信仰を全部捨てなければならないです。


そしてイエス様が認める“あなたの信仰は立派です”と言われる信仰、長血を患った女の人、百人隊長の信仰、娘が悪霊にとりつかれた母親の信仰、イエス様に香油を注いだマリアの信仰、あなたはこのような信仰を持ちなさいと語ります。


へブル書11章は信仰の章です。ほぼ全員が厳しい状況の中で、自分たちの信仰の光を放ちました。

神様だけに頼る信仰はいつ試されるでしょうか?厳しい状況の中で初めて試されるのです。

私たちの信仰は天国に入れるような信仰でしょうか。それとも「信仰、信仰」と言いながらも地獄へ行く信仰でしょうか。これを考えなければなりません。


イスラム教の人々がクリスチャンを狙って殺してきています。終わりの時代が来ています。
その時に私たちが のほほんと「大丈夫。」と言えるでしょうか?

イエス様が目を覚ましなさいと語っています。
あなたに信仰が無ければ、彼らに捕らえられてひざまずくようになります。


大変な状況の中でも神様に信仰を見せる人だけが勝利者であります。
死に至るまで忠実でありなさい。その信仰を持ちましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2014.8.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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幻と啓示~天国と地獄~

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クリスチャンの人生とは?

テーマは 【クリスチャンの人生】 です

【Ⅱコリント5章17節】

みことばを聞きながら自分自身を診断したら良いと思います。
みことばは、クリスチャンの人生とはどういうものであるのかを教えています。

日曜日に礼拝に来るのがクリスチャンだというのは違います。
クリスチャンが礼拝を守るのは当然のことです。
聖書を読んでいるからクリスチャンの人生を生きているというのは 一部分であります。

クリスチャンの人生は、生活の中にクリスチャンとしての様々な姿が実際に出てこなければならないです。
人生は生活そのものであります。
クリスチャンは、キリストにあって古いものが過ぎ去り、全てのものが新しくなった時から
スタートであります。新しくなった その時から新しいものとして生きるのがクリスチャンであります。

しかし、どのように生きたらクリスチャンの人生になるのかは、よく分かっていないです。
その部分を3つに分けて紹介します。


①信仰によって生きる

私たちは、信仰によってクリスチャンになりました。
毎日信仰によって生きるのがクリスチャンの人生であります。
神様は「義人は信仰によって生きる」と語りました。
義人は神様が認める正しい人であります。
神様から見て正しい人というのは、キリストに出会って信仰により救われた姿、罪が洗われた人を言います。
義人になった瞬間から、その人は信仰によって生きなければ意味がないです。

新しい者(義人)になったならば、その時から神様をもっと頼りながら信仰によって生活をしなければ
ならないです。

私たちが救われると、イエス様が私たちの心の中に入ってきます。これがクリスチャンであります。

以前はサタンの奴隷であり、サタンが私たちの心を支配して欲のままに生きていました。
しかし、救われたことによって変わってきました。私たちの中にイエス様が入って来てくださいました。
もし信仰によって生きないならば、「何をしても天国に行く」と言って、相変わらず古い人のままで
生きるならば、主は一緒に暮らすことはできません。その時から私たちの心はエデンの園ではないです。
主が共にいるのでエデンの園であります。

以前、私たちは広い道を歩きました。その道は大勢が歩いています。最期は滅びで、永遠の地獄です。
しかし信仰をもって救われたその時から道が変わってきました。険しくて狭い道であります。
しかし、その道は「命の道」であります。

命の道を通っているのに「この道はしんどい、歩きたくない。辛い。試練も多い。世の中の不利益もある。
日曜日に礼拝に行かなければならない。クリスチャンとしてこれもあれもしなければならない。」
「以前の方が良かった」と言って、そこから再び広い道に行くならば、その先には永遠の命はないです。

毎日、私たちは永遠の命の道を歩いているのかどうかを自分で点検しなければなりません。
狭い道だけを歩くのが信仰の道であります。

毎日、毎日、楽な道を歩くならば、その先は暗闇の世界です。
そのことを私たちは知らなければならないです。

「弱くて、まだ信仰が足りないけれど、『 それでもその道を選ぼう 』と、神様に私の力ではできません。
助けてください。この永遠の道を歩けるように、みことばに従って歩けるように神様 助けてください。」と
私たちが祈りながら神様に頼るならば、それが信仰によって生きる道であります。

完璧に守ることは誰にもできないです。だけど「神様、私は弱い者です。私は倒れやすい者です。
誘惑に負けやすいです。でも神様、信仰によって生きられるように私を助けてください。」と求めます。
信仰とは頼ることであり、自分の力では出来ることではないので、自分の力で出来ないことを認め
神様の力を求めるのが信仰であります。
それが信仰によって生きる人生であります。


②従順によって奇跡を体験する生活

不可能な部分は出来ないというのは、クリスチャンの人生ではないです。

聖書に書かれている出来事は奇跡だらけであります。

奇跡を行う神様ですので、クリスチャンはこの奇跡を必ず体験しなければならないです。
自分の力で「これは不可能で どうにもならない」と思うことを、信仰がある人は神様に奇跡を求めます。
「神様、私の力ではどうにもなりません。不可能に見えます。でも私は不可能であるからといって絶望しません。
神様の奇跡を見せてください。」――それがクリスチャンの人生であります。

神様はいつも奇跡を備えてあります。その時に必要なのが、従順であります。
(多くの奇跡が起こっていることの前提は)「あなたがみことばに従うならば奇跡を見る」――です。

信仰の先祖・アブラハムも同じでした。当時アブラハムは100歳で、サラは90歳でした。
サラは不妊の女性でした。
自然の法則で見ると子供を産むことは100%不可能でありました。
サラは神様の言葉を聞いて心の中で笑いましたが、神様は「約束の言葉を信じなさい」と語りました。
信じることは従順です。

自分の頭の中で「そんなことはない」と言うのは不従順であります。

病気で「余命○カ月です。薬もなくて手を尽くすことができません。」と医者に言われた時に、
「そうですか。」と死ぬ日を待つのは、普通の人であります。
しかし、クリスチャン達はそこで引き下がるのでしょうか?
神様の御前に出て、祈るべきであります。神様は奇跡を行いたいです。

従順すると、神様は不思議な方法で道を開いて与えてくださいます。
その奇跡を体験する人は、信仰がどんどん成長していきます。

奇跡を体験しない人たちは、普通の人の生活をします。
クリスチャンでも奇跡を体験しない人、信じない人が大勢います。ですから信仰生活が面白くないです。

奇跡を日々体験する人は、神様なしには生きていけないです。


③毎日生まれ変わること

毎日生まれ変わることによって、新しい者として生きることができます。

どんなに新しい者でも、そのままだったら古い者になります。そうすると枯れて死んでいきます。

日々、イキイキしている人と、最初は(信仰が)熱かったのに段々生温くなり、冷めてやめてしまう人との
生活は何が違うのかと言うと、日々生まれ変わることをするか しないかの違いであります。

日々生まれ変わるということは、どういうことでしょうか?
それは日々、肉や自分の古い性質を十字架につけて殺すことであります。それをしないならば、新しくなれません。

いつも自分が聖くなるための努力をしないと、罪と咎が増えて古い人が蘇ってきます。


【Ⅰペテロ1章15-16節】

儀式を行うからクリスチャンではなく、
信仰によって生きる人生、従順によって奇跡を体験する人生、日々生まれ変わることによって新しくなる人生、
これこそがクリスチャンの人生であります。

クリスチャンとは何ですか?と質問された時に、「教会に行くのがクリスチャンです」と答えるのは大きな間違いです。
教会に行きながらも異邦人がたくさんいますし、教会に行きながらも神様に出会っていない人もたくさんいますし、
教会に行きながらもいつまで経っても(信仰が)赤ちゃんのままの人がたくさんいるのです。

そうではなくて、「信仰によって救われ、信仰によって生きる人です。従順することによって、神様の奇跡を
たくさん体験する人生です。そして古い自分を棄てて、どんどん新しくなっていくのがクリスチャンの人生です。」と
自分たちがそのように生きなければなりませんし、
周りの人にクリスチャンのことを正しく説明しなければならないです。

十字架にかけられたイエス様を信じた人は、自分もイエス様と共に十字架につけなければいけないです。
それが日々死んで生まれ変わる姿であります。

毎日私が死んでキリストが私の中で生きてくださいというのが、クリスチャンの人生であることを
心に留めてください。

クリスチャンの人生がどういうものであるのか私は知りませんから、このまま生きます。
今まで通りの生き方で生きます。というならば、教会に来ても全く意味がないです。

キリストは従順し 父なる神に信頼し、実際に十字架にかかって死にました。
これを私たちが見習い、ついて行くのがクリスチャンの人生であります。
狭い道ですが命の道を歩む人であります。追い出されることがないです。

そういう人が最後に勝利を勝ち取ります。

そのような生き方をする私たちになりましょう。 ( ̄‥ ̄) =3

2013.4.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリスト教とは?

ハレルヤ

【 詩篇 40編 5節 】 を読んでみてくださいね。

キリスト教は奇跡の宗教です。奇跡を行う神様を信じていますので、奇跡が珍しいことではありません。

「私は信じているのに、奇跡なんか体験したことはない」と言う人はいますか?


イエス様が地上で活動した時のことを思い出してみてください。
毎日 毎日、数えきれない奇跡が起こりました。
イエス様がその奇跡を行いました。しかし、イエス様の前に来ても奇跡を体験することなく、
帰る人たちもいました。

その人たちはイエス様に対する信仰、奇跡に対する信仰がありませんでした。

主は信仰をもって近付き、信仰で願った人たちに奇跡を現わしました。

また、権威を持っておられる神の言葉に聞き従うことが奇跡を体験する道でもあります。

問題を抱えた人がイエス様の前に来て、それを願う時にイエス様はその人に聞きます。
「わたしにそれが出来るとあなたは信じるのか?」

「信じます」と信仰で告白し、本気で奇跡を期待するならば、奇跡はその人に起こります。


今回のテーマ・詩篇40編5節は、ダビデの告白ですが、その告白に偽りはありません。
彼の人生に起きた様々な奇跡を聖書で知ることができます。


私もイエス様を信じてから、多くの奇跡を体験しました。
自分の身にも奇跡が起こりましたし、他の人たちのために祈った時に、その人たちにも奇跡が起こりました。

私たちが奇跡というならば、ビックリすることばかり考えますけども、そうではありません。

生活の中で思いがけない事や導き、助け、癒し、祝福なども奇跡であります。

私も病気の癒しを何度も体験しました。そして祈りが不思議な方法で答えられたことは、
数えきれないほどたくさんあります。ですから、ダビデの告白を私が読んだ時にも、
そこに偽りがないことを知っています。


皆さんも、毎日祈ってみてください。「神様、私に奇跡が起こることを期待します。」
問題、試練があって自分の力ではどうすることもできない時に、「もうダメだ」と失望の言葉を言うのではなくて、
「神様が奇跡を行う時が来ました。」と信仰で神様に期待しましょう。

神様は期待する人に働きます。信仰を持って神に近づく人に神様は奇跡を現す神様です。 (o^∇^o)ノ

2012.1.22
3分テレフォンメッセージより

八戸ノ里キリスト教会

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3分テレフォンメッセージは、こちらで聞くことができます   ( AM 0 時更新 )

06-6618-9105    06-6618-9106

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3タイプ別の信仰

テーマは『信仰者の3タイプ』です。

【ヨハネ20章29節】

復活したイエス様が弟子のトマスに語った言葉です。

信仰には大きく分けると3つのタイプがあります。
イエス様を信じて教会に行っているからといって、その人達が同じ信仰ではないです。
外見は同じ信仰を持っているように見えます。もちろん信仰歴も違いますが、
みんながイエス様を信じているように見えますが、中を覗いてみると違います。

①見ても信じない人
信じているから教会に来ているのに、見ても信じない信仰を持っている人がいますか?
それは実際にいます。教会に来て神様の色々な奇跡を見ていても結局は信仰が無かったという人達です。
イエス様がいる時代、イエス様はたくさんの奇跡を行いました。
すごい数の群衆が集まってきていますが、奇跡が起こらなかった日はないです。
それも数え切れないほどの奇跡が、3年間 毎日起こりました。
聖書に記録できないくらいでした。

イエス様が活動したところで信じた人たちは多いと思いますか?毎日奇跡を起こしましたが、
彼らはイエス様を信じませんでした。 それは(イエス様を)神様として信じませんでした。
多くの人たちが色んなことを語りました。「優れた先生である」など色んな言葉を語って、
イエス様の働きや力は認めました。でも信じることはしなかったです。

私も昔はこういう者でした。救い主としては「あぁ、あの方は神様なのか」と思いましたが、
他人事のような思いでいました。それはなぜかというと、霊的に無関心だったからです。
「(聖書は)神様の言葉なんだ」と認めるのですが、信じないです。
信仰として、自分の救い主としては受け入れることはしなかったです。

見ても信じない。このような人達は、いつ信じるでしょうか。
こういう場合の人達は、色んな試練に出会ってからイエス様を信じる人が多いです。

イエス様の奇跡を見るために、毎日 見物に行きました。どんな人達が癒されるのか?
今日も奇跡が起きた。悪霊が追い出された。など
毎日それを目で見るのですが、それを神様だと受け入れて、イエス様の弟子になってついて行く
という人は少なかったです。

パウロが、イエス様が復活した後にヨーロッパに行って福音を伝えた時に、
彼らは実際に(イエス様を)見たことがないです。
今の時代のように旅行が自由でもなく行き来ができないです。
しかしパウロは行って、言葉・福音だけを伝えました。彼らは見てもいないのですが、
信じました。反対にその所で信じた人達が多いです。

イスラエルはイエス様が生まれて活動した場所ですが、今でも信じる人が圧倒的に少ないです。
ユダヤ教は多いですが、クリスチャンは少ないです。クリスチャンは今でも迫害されています。

ヨハネの9章で盲人の姿が出てきます。イエス様が可哀想に思い、目が見えるように癒しました。
そして目が見えるようになり、それはどれほど嬉しかったかわからないです。
すると、彼に困ったことが起こりました。
奇跡が起きて証をするのに、宗教の指導者たちが認めませんでした。
「あなたはどうやって見えるようになったのか?」
彼はもともと見えない者でしたので、イエス様から言われた言葉やどのように行動をしたかを
伝えました。
実際目が見えなかった本人が証言しているのに、彼らは何度も何度も呼んで
「誰がそのようなことをした」や「あなたはどう思うのか?」と尋問をしました。

【ヨハネ9章26-36節】

見ても信じない者がたくさんいる中で、盲人だった人に「あなたは信じますか?」という言葉を使いました。
「主よ。その方はどなたでしょうか。」これは目が見えなかったからわからなかったですね。
そして「信じます。」と言いました。

彼らはみことばをよく知っていると言い、イエス様が来られることは聖書に書いてあるのに、
彼らは本当に目が見えない者であります。

【ヨハネ9章39節】

そこでイエス様は彼らに厳しい言葉を言いました。
見ても信じない人は目が見えない者であります。自分では気づいていないです。

信仰は霊的なものであります。目で見て信じることが信仰ではないです。
信仰は「聞いて 信じること」です。信仰は「聞く事から始まり」ということばがあります。

【ローマ10章17節】

私たちが錯覚するのは「見たら 信じる」というものです。
こういうタイプが一番多いです。教会に来ていてもそうです。
聞くだけでは信じられない → この人は根本的なことから間違えています。

この世の中には、目に見える世界と目に見えない霊の世界が2つ同時にあります。
だから信仰というと今まで肉眼で見えない霊の世界。
これを神の言葉によって霊の世界がある、目に見えない神様がそこに存在する。
それを語ってくれるので私たちが見えなくても、その言葉を信じます。
そこから信仰が始まります。

神様は霊であります。ですから私たちは言葉で信じなければならないです。
見えるようにしてくださいと要求しても神様は絶対に応じないです。
これ自体が神のみこころからずれています。信じる気がないです。

【ルカ16章27-31節】

人の心を知っています。モーセと預言者の教え、すなわち神様の言葉を受け入れない者、
それを信じない者は、たとえ奇跡が起きても、絶対に信じないです。
認めることと信仰は全く違うものであります。

②自分が見たものだけを信じる人

自分が見たものだけ。他人が何と言っても、それは信用できない。
トマスがそうでした。
弟子たちにイエス様が復活した姿を見たと言った時に、トマスは「いや、それは私は信じない。」と言いました。
「私のこの目で確かめない限り、本物かどうか触ってみて、本物であれば私は信じる。」
同じものを聞いても、なぜそうなるのでしょうか。
心がとても疑い深いです。そして自分は知恵があると錯覚します。「復活なんか有り得ない」と。
自分の経験をとても大事にします。これは自分の理性が信仰よりも上にあります。
このようなタイプも多いです。

自分が見て自分で確かめたら信じるけど、人が「こんな体験をした。こんなものを見た」
こういうものには信じません。
それは違うものを見たのではないか?悪霊ではないか?と言います。

奇跡は信仰の結果として生まれてくるものです。
ですから私たちは理性だけでは理解ができないです。理性は信仰と正反対のことであり、
信仰を邪魔するものであります。
見ずに信じる者に向かって「あの人は考えが足りない。」とか「何でそんなに単純に信じるのか?」、
「だから知恵がない」とか色々言います。
このような人は神様を試します。 「私に見せてください。あの人は信じるかも知れませんが、
私にはそれだけでは不十分です。私が直接見て、体験しない限り神様を信用できません。」

しかしこのような人は自分の理性で考えているようで、そうではありません。
「見える」ということは「感覚」であります。「見る・触る」これらは感覚であります。
ある意味、理性ではないです。しかし自分は理性的で論理的であり合理的である、そういう錯覚をします。

ギデオンがそうでした。神様の言葉を聞いた時に、疑いが入ってきました。 
「私のような者が~」とか「神様、本当にいるならば、どうして私の国がこんな目に遭うのか」 と
色んなものがありました。神様が民を救いだしなさいと言った時も、神様をテストしました。
「神様、こういう奇跡を起こして下さい。」 そして神様はそれを聞いてあげました。
そしたらそれでもまだ満足しないで「神様、お願いします。もう1度奇跡を・・・」と
神様をテストしました。神様はそれも叶えてあげました。そしたら「信じます」と言いました。

神様は本当の意味では触らせません。触ってみなさいという言葉は使いましたが、
触れるなということであります。なぜなら疑いの心でイエス様に触れるなら汚れてあります。
自分達の心を見ると、色んな疑いが出てくると目が濁ってきます。心も濁ってきます。
まともに見えません。
自分ではまともに見えると思いますが、錯覚が多いです。自分の心の汚れを取り除かなければならないです。

疑いが多いと二心であります。ある意味で神様に疑いを持って祈ってもそれは答えられないです。
その人の心はいつも不安定で、風や波のように揺れるので、
そのような者の祈りは神様は受け取ることができないんだとおっしゃいます。
疑って得るものは1つもないです。せっかくの良い物も全て失っていきます。
神様を信じたら心が平安になります。信じる事がイエス様が私たちに求められておられることであります。
自分の求めているものが答えられる為にも、完全に信じることであります。

③見ずに信じる信仰は幸いである

イエス様がトマスに語りました。
これはみことばをありのまま、「主がそのように語っておられるから私はそれを信じます。」と
これは謙遜な信仰であります。

「印を見せてください。印を見せてくれたら私は信じます。」これは傲慢な心であります。

神様をテストすることが謙遜な心でしょうか? そうではないです。
私たちは他人からテストされることは嫌なんです。
相手が自分を疑う心でテストをすると「何で疑うの?」、「何で私がテストされなければならないの?」と。
私たちは弱い者ですので、時には神様は聞いてくださいますが、神を試みてはならない。
と聖書に書かれてあります。

「神が言ったならば、それを謙遜な心で信じなさい」神様は私たちの信仰の対象であります。
それが神様が一番喜ぶ信仰であります。見ずに信じる者、それはその人自身が見えなくても
神様のみことばを心から信じるその姿勢です。 「聞いて 信じる」この姿であります。

ノアが神様から聞いた言葉が「この世が洪水で滅びるから箱舟を造りなさい。」
神様が語った時に、彼は何も見ていないです。過去にそういう事が起こったことも聞いたことがなく、
箱舟も見たことがありませんでした。でも神様が1つ1つ指示をしました。その通りに彼は箱舟を造りました。
将来起こることを信じました。100年くらいかけて、ノアは箱舟を造りました。
見ていないのにしました。これが信仰であります。だから神様はノアを認めました。

アブラハムは神様から言葉を聞きました。(目では)見ていないです。
神様がカナンの地の写真を見せて、この地をあなたに与えるとは言っていないです。
どこに行くのかも神様は教えていないです。
「あなたの父の家、生まれ故郷を離れなさい」と言われてどこへ行くのかも知らないで、
ただその言葉だけを信頼し、「神様が私を導いてくださる。神様が私を祝福する」と彼は出ていきました。

ヘブル書11章に出てくる信仰の人は、全員このような人でした。
全員が神様に対して、絶対的な信頼を置きました。そして信じて行動をしました。
だから神様は彼らを祝福し、彼らを用いてくださいました。

イエス様の復活もある意味、人間の経験・知識では信じることができないものであります。
「信じられない。」、「そんなことが起こるはずがない」と。
ですから、トマスのような人は多いです。
他の弟子たちも初めは復活を信じませんでした。だけどその後、見た時に本当に信じました。
トマスは弟子たちの言葉を信じませんでした。

でも神様は信じられないことを信じなさいと語っておられます。
信じられないことを信じるのが信仰であります。

誰もが見て、十分信じられる可能性があるもの、それを信じることは信仰ではないです。

例えば、コップを見せながら「これはコップです。」と言うなら、目で見ているのでコップだと信じます。
「いえ、それは違います。」という人はいないと思います。
目で見えて、誰でも(コップだと)認めるものだからです。神様が「信じなさい」と言わなくても、
私たちは「言わなくても知っている」となります。

しかし信仰というものは人間的な理性では絶対に可能性がないものであります。
信じることができないものを、私たちはただ「神様が語るから」、「神様から出た言葉であるから」
私たちはそれを信じることであります。
だからイエス様はそういう人は幸いであると語りました。

誰も神様を見た者はいないです。しかし神様が生きておられることを信じています。
なぜなら言葉を聞いたからです。

【ヨハネの黙示録1章3節】

心に留める=信じることであります。この人たちが祝福を受ける人であります。
その人達が本物の信仰を持っている人達であります。

イエス様は子供のようになりなさいという言葉をよく使いますが、
それは子供たちは単純な心だからです。
子供が頭の中で計算をしたり、論理的に計算して理性的にすることはないです。
子供たちは単純にそれを信じます。それで騙されて誘拐されることがありますが、
神様の言葉には偽りがありません。騙すことがないです。

真理を聞いて信じられないという人は不幸な者であります。
見えない世界の方がある意味現実であります。それを神様は信じなさいと語ってあります。

「見せてください。見せてください。見せてください。」 と言うのは、神様は信仰の薄い者とおっしゃいます。
弟子たちがそうでした。

私たちがいつまで経っても「見ないと信じられません。見せてください。」と言うなら、
神様は「いつまで弱い信仰のままであるのか。本物の信仰を持ちなさい。みことばを信じなさい。
見なくても、神から出た言葉として見ずに信じなさい。」そしたらそれが現実に現れます。

奇跡は信じてから現れるものです。奇跡を見て信仰が生まれることではないです。
何も見えなくても信じるから奇跡が起こります。
だから奇跡を見たいならば、「見せて下さい」ではなく、「信じますか?」から始めます。

「神様は奇跡の神様であることを信じます。」、「私は神様のみことばをそのまま信じます。
ですから神様、これらのこと、主よ 働いてください。
そうすると私は神様が奇跡を起こしてくださることを信じるので、それが起こることを感謝します。」
このように、まず信仰を見せることであります。
信仰がないから神様は答えることができないのです。

ですから私たちは順番を間違えてはいけないです。
神から得る全てのものは私たちの信仰から得るものであります。
「ですから神様、わからないですけど、信じます。信じます。」
口先ではなく、心から信じることであります。そしたら神様が「わかった。あなたの信仰が奇跡を現す。」
私たちは口の告白がとても大事です。疑いの心があるから信仰を持つことができないです。

見ずに信じること、この道以外にはないということを心で信じてください。
私たちも信仰ある者になりましょう。 (*^・ェ・)ノ

2012.4.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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