からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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失望

神に失望したことがありますか

テーマは 『 神に失望したことがありますか 』 です

【ヨハネの福音書6章60-70節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。

それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである――

そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」

皆さんはいつも神様に対して感謝し神をあがめ、素晴らしい神様だと思っているでしょうか?
それとも神に失望して信じるのはやめようかと思ったことがありますか?


多分、神様に失望したことがあると思います。

祈れば聞かれると言われて、たくさん祈ったのに何も答えられたことがなく、熱心に仕えると祝福があると思って奉仕をしたのに祝福がなく、神様ならば止めることが出来た事故だったのに守ってくれなかった等。

教会でも主のためだと思って新しい計画を進めたのに、失敗に終わったから神様に失望して落ち込み、「神様は一体何をしているのだ」と、つぶやくことが多いと思います。


今日の本文にも1つの悲劇が書かれています。
弟子であった人々の姿です。

弟子とは、イエス様を見て信じ、どこまでも従って行きますと言ってついてきた人たちです。

イエス様があらゆる奇蹟を行いましたが、弟子たちの中には、その恵みを受けて癒された人もいたでしょう。

日々、素晴らしいみわざを現すイエス様を見て 喜んで従ってきました。
自分たちの要求、願いが通ったので喜んで従ってきました。


しかし、イエス様が自分たちに対して要求するものが出た時に、彼らは気を悪くして、その要求に自分たちが答えなければならないことを知ってから態度を変えました。

「何だ。祝福だけをもらおうと思って信じたのに、私が神のために何かをしなければならないのか。それはいやだ。」という思いが出て、「神様を信じるのをやめます。失望しました。」と言って 神様から離れていきました。






信仰生活は神と自分自身が関係を結ぶことです。

神様は私たちに語っておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)」 このことばが嫌いな人はいないと思います。

神様が良くしてくださると思って神に近づき、何でも神様が自分の願い通りにしてくださると、ここから神への誤解が生まれてきます。


私の願いは叶えられ、私の思いのままに神を動かせると勘違いをします。


「○○のために信じます。」「○○をしてくださるならば信じます。」「○○だから信じます。」と理由を並べるのを神様は喜びません。

神様は私たちが、神のみこころに従って歩むことを願っておられます。

教会に来られた人々の中でも「○○があるから教会には行けません。」と言う人がいます。


私たちは教会に 神様に会うために行きます。他の理由は大したことがないです。


神の御前に行き、神を信じ、神に頼ることを神様は求めておられます。

それなのに神に頼らないで、人やお金に頼り、神を無視しながら自分の思い通りにならないと「神様が何もしてくれないから失望しました。」と神のせいにして神様から離れていきます。

また、神様が要求するのは神のみことばに対する従順であるのに、みことばに対しても不従順でありながら、神が悪いと平気で言います。

私の要求が通るならば神様を信じますが、通らないなら信じませんと言うのは正しいことでしょうか――?






最近3分テレフォンメッセージで、マラキ書を語っていますが、当時のイスラエルの民たちは神に失望していました。


自分たちの思い通りになっていない現実を見て、「神様はなぜ私たちを祝福しないのですか。なぜこのような有様なのですか」と すごく不満を持ちました。

実際に彼らが神に失望したのは、神のほうに問題があるのではなく、神のみこころに従わず、勝手に歩んでいた彼らに問題がありました。しかし、そのことに気付いていませんでした。


それで神様は彼らが悟ってほしいと願って、ことば(神の質問)を色々と与えました。

(神)「わたしはあなたがたを愛している。」 → (民たち)「どのようにあなたが私たちを愛されたのですか?」
この答えを聞いても分かるように、どんなに神様から愛されていても、その愛に気付いていませんでした。


むしろ彼らは「神様は私たちを愛していない。愛しているなら、なぜ私たちが困っているのに助けてくれないの?祝福してくれないの?」という思いでいっぱいでした。

また、神様は「もしわたしが父であるなら、どこにわたしへの尊敬があるのか。もしわたしが主人であるなら、どこにわたしへの恐れがあるのか」と質問するほど、イスラエルの 民たちは神様へひどい態度を見せながらも、自分の間違った態度は棚にあげて神様への失望だけが心に満ちていました。


神様が何かを言うと、「何と うるさいことか」と心の中で言っていました。

神様に対して誤解し、神様に対して失望し、尊敬も栄光も捧げず、心が神様から離れ、神様が語ることばに対しても反抗的で不信仰であるならば誰が損をしますか?神様でしょうか?それとも その人たちでしょうか?






多くの人々が福音を聞きます。しかし反応は分かれます。

ある人は(神が語ったことばが)、自分が思ったことと違うと非難し悪口を言い、失望したと言って離れます。
また ある人は、自分の願いが叶えられて嬉しいと言ってついて来ますが、神様が要求するものを語ると「それは出来ません。無理です。時間がありません。」と言いながら、だんだん神から離れていきます。


しかし、ある人たちは何も自分の思い通りにならなくても救われた恵みにただ感謝して神を愛し、神を信じ、死に至るまで忠実に主に仕えます。

すると主はどの人を一番愛し、祝福してくださるでしょうか?それは言うまでもありません。


神を信じ、頼り、神から離れない人です。


私たちはどのようなタイプでしょうか?

すぐに「神様に失望した。何もしてくれないから、信じても意味がない。」と言うような人には絶対にならないようにしましょう。

これは神の恵みを知らず、神がどういう方なのか まだ分かっていない人が言うことばです。


詩篇116篇の告白を自分の思いとして告白してみてください。
(・∀・)つ


【詩篇116篇1-19節】

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。

私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。

私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。

2014.10.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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揺るがない土台を据えるには?

テーマは 『 揺るがない土台を据える 』 です

【ルカの福音書6章46-49節】

なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

イエス様は、この話を誰に聞かせたかったでしょうか?
未信者ではなく、みことばをしっかり守って主の中で生きている人でもないです。

46節でイエス様が次のように質問をしていました。
「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」
このような人にイエス様は語りたかったのです。


自分自身ではまだ気付いていない あなたの姿がわたしの目にはこのように映っているということを悟らせたかったのです。

その人たちは「主よ、主よ」と呼べば天国へ行けるから問題がないと思っています。
しかし 心から仕える思いで「主よ、主よ」と言うのではなく、口先だけの信仰は“迷惑だ”というイエス様の思いがあります。

十戒の中に「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」とありますが、これは信仰が伴っていないならば みだりに呼ぶ姿になります。
行いが伴わない信仰を見て、イエス様が喜ぶと思いますか?
神様に従わず、「主よ、主よ」と呼ぶならば それは虚しい言葉になります。


“そのまま(口先だけの信仰で)生きたならば あなたが後でどうなるのかということを今 教えるのでよく聞きなさい。”ということです。
本人は自分の問題に気付かぬまま“宗教活動”をして「教会へ行っています。奉仕もしています。献金も捧げています。」と言いますが、これは目に見える部分です。
しかし、イエス様が見ると その下(見えていない部分)には土台がないのです。


最も大切な土台がないのに、本人は別に気にしていないのです。今のままで良いという思いであります。

イエス様は最も土台が大切なのに、あなたが建てているものは土台なしで建てているから、後で全部倒れ、それも ひどい倒れ方をすると、事前に教えてくださっています。

本人はイエス様が喜ぶ家を建てていると勘違いをしています。


神様の裁きの時は、地震とは比べものにならないです。すべてのものを流して壊していきます。
その中で壊れないものを造らなければいけないです。




土台とは?



土台という言葉は、旧約聖書にも出てきます。

【イザヤ書28章16節】

だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

“堅く据えられた礎、尊いかしら石”と書かれています。
これだけを見ても何の意味なのか分からないと思います。これは預言の言葉でイザヤという預言者を通して神様が与えた言葉であります。

これがイエス様が来られた新約時代になると、この預言を明確に説明する箇所が出てきます。


【Ⅰペテロ2章4-8節】

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、

「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。

この預言はイエス・キリストであるということと、家をどんなに立派に建てたとしても 土台がイエス・キリストでないならば、必ず裁かれるということであります。


その土台に撚り頼まず、「別にそれじゃなくても家は建てられます。」と言います。
実際に土台がなくても家を建てることは出来ます。

多くの人たちが家を建てていますが、イエス・キリストという土台がないです。
「主よ、主よ」と呼びながら建てているので まさか自分の家が倒れるとは 思っていないです。


私たちが想像を絶するような世の終わりの裁きの時に、神様がなさろうとすることがあります。
その時に果たして土台なしに建てた者は生き残れるでしょうか。それは無理であると語っておられます。
神様の裁きの時は 神様以外のものは全て潰していきます。

しかし、神様の中に完全に根を下ろし属している者(土台にくっついている者)は何も被害を受けません。

「神に信頼する者は、決して失望させられることがない。」という言葉があります。ですから心配しなくて良いのです。


しかし土台がない人は、その時に失望するのです。


私たちが「神様、神様」と言っても、自分の生活の中で みことばに従っていない姿があるならば 自分は土台なしに家を建てているのだという認識が必要です。


地獄へ行ったクリスチャンたちは「土台」が問題でした。その人たちも働きをしていなかったわけではないです。
ある者は立派に信仰生活をしました。立派に犠牲を払いました。
全て行ったにも関わらず、地獄へ行ったということは その人たちにはイエス・キリストの土台が無かったことを意味しているのです。

この人たちは自分の価値観・ビジョン・要望・出世、このようなものが土台でした。




真理について



キリスト教の真理が土台でないならば、必ずそれは倒れる家になります。

【マタイの福音書24章35節】

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

裁きの時に、神様はすべてのものを巻物のように滅び去ります。
しかし世の中にあるたった1つの真理は神様の言葉だけであり、それは変わらないものであります。


真理の上に土台を立てなければいけませんが、今の時代は どんどん教会そのものも、信徒たちの信仰も 神の真理の言葉から離れています。

多くの妥協があり真理から離れていても平気であるのです。それは教団も同じなのです。
すべての教団ではないですが、ある教団の堕落している姿がありました。

アメリカでは同性愛者が多いです。とある教会で牧師になる人たちに向けて質問をすることがありました。
「私たちは(同性愛を)認めます。世の中の法律でも認めているのだから、私たちの教会も認めます。
ですから 同性愛者も教会に来てください。」ということを言いました。


これは真理の上に立っている姿でしょうか ――?

とんでもないことであります。
これは神様が忌み嫌うことなのです。ソドムとゴモラが滅びたのも同性愛でした。

しかし時代が違うからと言って、教会が同性愛を認めるということは、その教会の牧師が同性愛者であっても問題ではないということでした。


それだけではなく、もう1つは「あなたは神様の言葉だけが真理だと思いますか?」という質問に対して
「はい。そう思います。」と答えた人は、教団の牧師にはなれないというもので、「他の宗教にあるものも良いものだと認めます。」と言わないと牧師になれないのです。

ある牧師が同じく質問をされた時に、「私は認めません。同性愛を認めません。すべての宗教に救いがあることも認めません。神の言葉だけが真理であります。」と
答えると、「あなたは ここの教団の牧師にはなれません。」と言われたそうです。


初代教会の人たちがなぜ迫害されて 命が懸かっていたのでしょうか ――?
それは真理を曲げなかったからであります。命をかけて真理を守っていました。
たとえ殺されたとしても妥協しませんでした。


終わりの時にはたくさんの迫害や困難が来ます。そのことを次の箇所で教えています。

【Ⅰテモテ4章1-3節】

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、

結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

このみことばに書かれている「後の時代」とは、今のことです。
サタンが強く働きますが、どのように働くでしょうか?それは 惑わしの霊と悪霊の教えを持ってくるのです。
それは人間が持っている「欲」の部分をくすぐるものであります。サタンは巧妙に働き、妥協させます。

私たちに真理の土台がないと騙されてしまうのです。
あらゆる教えに心が取られて それを信じて、どんどん真理から離れたやり方をするのです。

信仰生活を、真理ではないところでするようになります。


【ヨハネの黙示録22章18-19節】

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

「少しでも」という言葉があります。つまり 妥協は許されないのです。
真理はそこに混ぜ物をしてはいけないですし、妥協をしてもいけないのです。


変わらない真理の土台の上に信仰生活を築いていなければ、後で黙示録に書かれていることが あなたに起こります。そしていのちの木、聖なる都から取り除かれるので、神様の祝福の世界にいることができないのです。
これはすごく大切であります。


イエス・キリストの土台がなくても、真理の土台がなくても、勝手に自分で建てたいものを建てておいて 自分の信仰生活を送り「私は敬虔な生活をしていました」というのは、パリサイ人たちがそうでした。

パリサイ人たちの信仰生活にはイエス様がいませんでした。
そして真理だけではなく、自分たちが勝手に作り出した言い伝えをたくさん作り何が何だか分からないものの上で必死になって信仰生活をしました。
このような生き方をするならば、サタンやパリサイ人がいるところに自分も一緒にいることになります。


しかし、キリストという真理の土台に、日々イエス様に拠り頼み みことばを実行しながら、すべての働きも「イエス様のために」という動機で働くならば、最期の裁きの時に その人たちは決して見捨てられることがないです。

その人たちは失望することがないのです。苦労があっても最期の時にすべてが報われるのです。


この地上での生活をあと何年生きられるでしょうか?自分の寿命通りに生きられるのではないです。
イエス様がいつ来られるかわからないのです。
もし明日来られたら「私は間違いなく天国に行ける」という確信があるでしょうか?


確信が無ければ、自分の信仰生活をやり直さなければいけないということであります。

「このままで良いんだ」と思うのは、今はそれでも良いかも知れません。
しかし 行く道が違うのでイエス様の守りがないのです。自分からイエス様のところを離れたからです。

自分の肉を打ち叩きながら「私は後で滅びを刈り取るのだ」という思いを持たなければならないです。

土台だけを建てておいて、あとは何もしないのも いけないことであります。


聞く耳があるということは、まだ恵みの時であり 救いの時であります。
神様は土台を築くことを求めておられます。
(´・ω・`)

2014.3.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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