からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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地獄

聖徒だけが持つ特権

テーマは 『 聖徒だけが持つ特権 』 です

【ヘブル4章16節】

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

“特権” とは特定の人、身分、階級に与えられている、他に優越した権利です。


特権を持つ人は良い待遇を受けることも多いです。

月に何度も飛行機に乗りますが、飛行機一つにしてもダイヤモンドカードを持っている人は優先的に乗れますし、荷物の制限もなく、ラウンジも自由に使えます。

もし自分が持っている特権を知らないならば、その権利を使うことも知らないので、もったいないです。


聖徒である皆さんは “聖徒だけが持つ特権” が何かを知っていますか?


聖徒が持つ 特権も義務も責任も知らないで信仰生活する人が実に多いです。

そして特権を使ってはいますが、それが特権と思わずに使っています。


今回は聖徒だけが持つ特権に対して学びます。




神の御座に近づける特権




これを特権と思わない人が多いですが、これは聖徒だけが持つ特権です。


たとえば安倍総理は日本の総理ですが、いつでも皆さんが会いたいと思う時に会えますか?

たぶん会うのは無理です。


認められる何かがある場合は別だと思いますが、それは簡単ではありません。

しかし安倍さんの子どもならば、家で自由に会うことが出来ますし、別のところでも許可をもらうのは難しくないですね。


神は世界で一人の神ですが、人間が会いたいと言って いつでも会えるでしょうか。
―― 会えないです。


しかし神に贖われて、神の子になると立場が変わります。


聖徒には、神がいつでも神の御座に近づくことが出来る特権を与えておられます。


“キリスト” によって神と和解させられ、神の子になったので、その特権を得ています。


【ヨハネの福音書14章6節】

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

聖徒は、“道” であるイエス様を信じる者なので、キリストも その人のことを知っていて、その道を通って父なる神の前に行ける許可を与えておられます。


「イエスの血で神の前に、イエスの血で父の前に一歩ずつ進む。」

このような賛美があるように、父なる神の前に行ける特権は イエス様によって与えられた素晴らしい特権です。


旧約時代は神の臨在がある聖所には、任命された祭司以外は誰も入ることが出来ませんでした。

しかし新約時代の聖徒たちは、神の臨在の中に入ることが出来ます。


死んだら もっと神は近くにおられます。



【ヨハネの黙示録4章4節】

また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

聖徒にとって、神は 決して遠く離れて近づくことも出来ない神ではなく、いつでも近づくことが出来ます。




永遠のいのちがもらえる特権





【ヨハネの福音書3章36節】

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

“永遠のいのち” ほど価値あるものは 世には存在しません。


金持ちの青年が主の所に来て、永遠の命を得るためには何をしたら良いのかと イエス様に聞きました。

イエス様は、「財産を売って貧しい者に与えてから、私について来なさい」 と言われましたが、金持ちは財産を手放すことが出来ないので、そのまま帰り、2度と帰ってくることはありませんでした。


永遠のいのちは、主に従ってくる聖徒たちに与えられます。

永遠の命はあまりにも高価なので金で買えるようなものではなく、キリストを信じて神の子になった者が、特権として受けられものです。


永遠のいのちは “死とは無縁” です。

それを持っている人は聖徒だけです。


聖徒をやめたら、もはや永遠のいのちは自分のものにはなりません。




祈りが答えられる特権




聖徒の祈りに聞いて下さる方がおられます。

私たちの霊の父である “神様” です。


この世には自分を神と呼ぶ人間がいて、それを信じる者も多いです。


「統一教会」や「神の教会」という異端も、教祖が “人間” なのに、自分自身を神と呼び、それに従う者も(その人物のことを)神と信じています。

(その教祖は)2人とも死にましたが、未だに死人を神と思ってそこから離れません。


中身を見ると教祖が彼らの祈りを聞いて祝福したのではなく、人々が教祖の願いや要求を聞いて、自分たちのもので教祖を満たしていました。


サタンが目をくらませると、悟りがなく盲目的になるので、騙されて利用されるだけです。


人間を神と信じるのも、偶像の神を造って願いを叶えて下さい と祈るのも同じです。



【イザヤ書44章9-11節】

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。

だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。

見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

ですから、彼らが自分の神に祈っても それはむなしく恥を見るだけですが、聖徒たちの祈りは むなしくなることも、恥をかくこともありません。


聞いて答えて下さる神がおられるからです。

聖書には祈りの答えがいっぱいです。


神は喜んで聖徒たちの祈りを聞き、答えて下さいます。

祈らないと特権を使わないことですので損をします。




復活の特権





【第1コリント15章43-44節】

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

復活は永遠のいのちの始まりです。

イエス・キリストがよみがえられたことで、この特権が聖徒にも与えられました。


私たちも、いつかキリストと同じ体になります。

時間や空間の制約、そして朽ちることもない体に復活するのは聖徒だけの特権です。


信じないものは永遠の死ですが、聖徒は永遠に死の支配を受けることがなく、キリストのように死の力を打ち破って復活します。


自分が死んで復活することは、今はどのようなものか想像も出来ませんが、その日には喜び踊る者になると思います。




天国に入る特権




天国は聖徒たちのために主が備えて下さった場所です。

聖徒以外の人は、入ることが許されない場所です。


そこは神がおられる場所で、神が聖徒と共に永遠に住む場所です。

死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない場所です。


信じない人は、どんなに入りたくても入ることが出来ません。


入りたいならば生きている時に、罪を悔い改めて、イエス様を 自分の救い主として心に迎え入れ、聖徒になれば入れます。

天国はお金があるから、良いことたくさんしたから、立派な人だから入れるのではなく、信仰で入る国です。


神を信じて、天国を信じて入る準備をした人が入る所です。

自分を聖徒と思っても、準備出来てない人は入れないです。


天国のたとえで使われた “10人の花嫁の姿” を思い出して下さい。

10人の花嫁は、花婿である主を待ち続けていました。


賢い5人の花嫁はいつ花婿である主が来られても迎えられるように、ともしびと油の備えをしました。


しかし愚かな5人の花嫁は、花婿がいつ来るかもわからないのに、ともしびだけを準備し、油の用意はしていなかったです。

花婿が来るのが遅くなり、今にも ともしびが消えそうになりました。


それで油を買いに行っている間に 花婿が来られて、そこにいた賢い5人の花嫁だけが結婚式場に入りました。

油を買いに行った愚かな5人の花嫁の姿は哀れでした。

彼女たちの様子を次の箇所で見ます。


【マタイの福音書25章11-12節】

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

天国に入ることが出来ず、外の暗やみに置かれてしまいました。


せっかく天国に入る “特権” があったのに、その場にいなかったために、特権が無効になってしまいました。


その特権が認められず、残念な姿でした。

このようになって、聖徒の特権を失う者も実に多いです。


“目をさまして、身を慎み、用意していなさい” と言われた通りにしている聖徒が、天国に入り、言われてもそのようにしていない聖徒は、特権を使うことが出来ません。

世を愛して放蕩生活をしている人に、“天国の扉” は開かれません。


聖徒として準備した人は、問題なく天国に入ります。


このように聖徒としてどのような特権があるかを知り、いつ それを使うかを知って使う人が賢い聖徒です。

神が与えて下さった特権としての祝福をすべて自分のものにしていきましょう。

(・◇・)ゞ

2016.9.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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死の陰の谷はどこなのか

テーマは 『  死の陰の谷はどこなのか 』 です

【詩篇23篇4節】

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

詩篇23篇は、聖書の中で最も愛用されている箇所の一つですが、1節から6節まで全部暗記している人も多いと思います。


今はどのようになっているかは分かりませんが、アメリカの多くの兵士たちが戦争に行く時は 詩篇23篇を書いた紙をポケットに入れて戦場へ行ったと聞きました。


不安と恐れがある時に きっと慰めと力を受けたと思います。


4節に書かれている “死の陰の谷” とはダビデにとってどのような環境だったと思いますか?

私たちは “死” という言葉に反応して「死ぬほど辛い環境」を思い浮かべると思います。

生きるか死ぬか分からない環境の中で、必死に神に叫んでいる姿を想像するでしょう。


アメリカの兵士たちも死と隣り合わせの戦場で戦っていたので、詩篇23篇が慰めになったと思います。


ダビデも数々の戦いがあり、そこで守られたので、自分たちも守られると信じていたと思います。

死は人間にとって最大の恐れであり、最大の敵です。
この死は人間の罪から始まりました。


ですから、環境が厳しかったり、絶望的な中にいるので、そこが “死の谷” ということではないです。

人間が罪を犯して神との関係に問題が生じた時が、人生の一番恐ろしい死の谷であることに気付かなければなりません。


新約聖書でイエス様が 死の道といのちの道について話しました。


【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

主のことばによれば、狭く険しくて辛い道が死の道ではなく、そこはいのちの道でした。

そして広くて楽な道が祝福の道、いのちの道に見えますが、実は“死に至る道”でした。


私たちはダビデにとって死の谷がどこだったのかを知ることで、自分たちの人生でも どこが死の谷であるかを確認し、そこでどのようするかを学びたいと思います。




ガテのツィケラグの谷がダビデにとって死の谷でした




【第1サムエル記21章10-15節】

ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」

ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気が狂っている。なぜ、私のところに連れて来たのか。

私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

ガテとはペリシテの国のことです。


ペリシテは5人の王がいる連合国です。そして ガテはイスラエルと国境を共にする国で、お互いの民が行き来したりもしました。

しかしいつも戦っている敵国でもありました。

当時、無名のダビデを一躍有名にした戦いがゴリヤテとの戦いでしたが、そのゴリヤテはペリシテ人でした。


そのダビデがサウルを恐れ、その追跡を避けて逃げたのが敵国であるガテで、そこでもダビデは人を恐れて気が狂ったふりをしました。

ダビデはこの時、どのような心境だったでしょうか。


彼が神を恐れ、神に頼っていた時には巨人ゴリヤテも倒しましたが、人を恐れた時には、心が不安になり、猫の前のねずみ状態で、いのちを守ろうと醜い姿を見せ、人々の物笑いになりました。

自分も恥をかき、神にも恥をかかせました。


そこからダビデは死の谷に足を踏み入れました。


ダビデはそれからアドラムの洞穴に避難しましたが、そこにイスラエルから色々な人が集まって来ました。

問題を抱えた人たちもいれば、戦いに強い勇士たちもいて、600人までに増えました。


以前は1人だったダビデが600人の部下を抱えたので不安と恐れが消えたでしょうか。

彼は相変わらずサウル1人を恐れていました。その時の告白が次の箇所です。


【第1サムエル記27章1節】

「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

このように思って、再びアキシュ王の所へ行き 安全に住む場所をお願いしました。


アキシュ王も策略家であるので、ダビデと600人を受け入れ、ツィケラグの谷を与えました。

そこでダビデは1年4か月も住むことになります。


サウルは二度とダビデを追うことはしなかったですが、ダビデはそこで何をしたでしょうか。

アキシュ王はダビデを自分の護衛長に任命しました。


“次期イスラエルの王になる” と神から言われたダビデが、敵国であるペリシテの王アキシュの護衛長として働いている姿は本当に情けない姿だと思いませんか。


ダビデにとって肉体的には ある意味安全でした。

そこにいればサウルから逃げる必要もありません。


しかし現実は 神と共に歩みながら、神に仕える姿ではなく、サタンに仕える姿になっていました。

彼は自分の思いで広い道・楽な道を選びました。


ダビデはそこでサウルから苦しめられることなく1年4か月も楽な生活を送っていました。

しかしそこにいる時の彼は、神への1つの賛歌も 信仰の詩も残すことはありませんでした。


ダビデがペリシテの王に仕えたことは人を喜ばせることであって、神を喜ばせることではありませんでした。


肉体は楽でしたが、彼の心は楽ではありません。
その場所で神を礼拝することはありませんでした。


いくら肉体が楽でも、神を礼拝出来ず、神に仕えることが出来ないならば そこが地獄です。


地獄は苦しい場所よりも、神と断絶されたところが地獄です。


その地獄が “死の陰の谷” です。


福音を伝えた為にむち打たれ、牢獄に入れられたパウロとシラスが真夜中に神を賛美し祈りをささげた時に 主がそこに共におられました。

牢獄であっても、主がおられるならばそこが天国です。


自分の肉体を喜ばせ、楽をさせるために礼拝も平気に休んだりするならば、自分がいま死の谷を歩いていることに気付かないといけないです。


広い道、楽な道はいのちの道ではなく、死の道であると 主がはっきりと言われたからです。


ダビデは死の谷で多くの問題にぶつかることになりました。

同族であるイスラエル人とも戦わなければならない場面もあり、家族や財産も全部奪われ、仲間に石打ちにされそうにもなりました。


神様の憐れみと助けがなかったならば、ダビデはイスラエル人から一番憎まれる人になって殺されていたと思います。

自分から死の谷に入りましたので、死にそうなことが起こります。


彼がそこから助け出されたのは神の恵みでした。

ですからダビデは詩篇23篇でそのことを告白しました。


色々な出来事を通して やっと自分がとんでもない所にいることに気付き、神に立ち返ることになりました。


楽な道、広い道を求めてはいけないのは、そこが地獄へとつながる入口だからです。


神が導く道ならば安全ですが、自分の肉の思いから考え出した道は誘惑が多いですし、そこが死の谷になります。




ダビデにとって死の谷はサタンの罠に落ちた所




それはある日起きました。


【第2サムエル11章2-4節】

ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか」との報告を受けた。

ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。―― その女は月のものの汚れをきよめていた―― それから女は自分の家へ帰った。

その時、国は戦争中でしたが、ダビデ王は軍隊を送り出して、自分は遅くまで寝ていて夕暮れにやっと起きました。

ここで彼の生活も霊的状態も怠けていることがすごく分かります。


【マタイの福音書26章41節】

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。

このように主が言われるには意味があります。

いつも信じる者を誘惑しようとサタンが待ち構えているからです。


ダビデは油断していました。
神を経験し、また神は彼を祝福しました。

ですから自分が誘惑に陥るとは考えていなかったです。


しかしサタンは休まず誘惑、罠、策略をつねに考えながらチャンスを狙います。

そして霊的に油断しているダビデを一人の美しい女を通して誘惑しました。


油断していたダビデはあっという間にその誘惑に陥りました。


彼は王宮の屋上から、死の谷に転落しました。

そこから彼の長い地獄生活が始まりました。


女が妊娠してしまい、それを隠ぺいするために様々な策略を試しましたが失敗に終わり、ウリヤが殺されるように仕向け、ウリヤは死にました。

その後、バテ・シェバを自分の妻にしましたが、それは主のことばをさげすむことであり、とても悪いことでした。


生まれた子は死にましたし、家庭に多くの災いが起こりました。

ダビデがそのような罪を犯していた時には、神を呼んだことはなく、神の前に出ることすら出来ませんでした。


もし神が彼を見捨てたならば、彼はどうなっていたでしょうか。


しかし、この時も彼を死の谷から救い出したのは神様でした。

預言者を通して彼を戒め、罪を赦したと宣言しました。


彼自身のあやまちによって二度も死の陰の谷を歩きましたが、神の憐れみと赦しによってそこから救い出されました。


広い道で自分の欲に従って歩み、自分の欲望を満たしても、それが神なしの人生であるならば、その先はいばらの道が待ち構えていることを知らなければなりません。


本当の死の谷は神のみこころにそむいて歩く道、自分の肉の欲望に従う道、神がいなくても平気と思いながら進む道です。それが本当に怖い道です。


生活が苦しくても、問題が大きくても神に求めるならば、神はそのことで死ぬことがないように助けて下さいます。


しかし広い道、楽な道で楽しいと思いながら歩き、私は大丈夫だと思っている人は自分がいつ つまずくかわかりません。


気楽に歩くその人が一番危ない人です。
なぜなら自分が永遠の死の谷を歩いていることを知らないからです。


いま楽な道だからと安心していますか?
私は大丈夫だと油断していませんか?

誘惑を祝福と勘違いしていませんか?
神抜きでも何の問題もないことを喜んでいますか?


ダビデが通った死の谷をみて考えて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.8.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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3通りの立場の人々

テーマは 『 3通りの立場の人々に自分を照らし合わせて吟味する 』 です

【ルカの福音書5章17-25節】

ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレ ムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。

するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そし て、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上 って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。

彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすこ とを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。

『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。

人の子が地上で罪を赦す権威を 持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。



①四人の男性




この四人が中風の家族なのか友人かは不明です。


【ルカの福音書5章18節】

するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

“何とかして”という四人の男性の強い愛とイエス様の前に置いたら必ず癒されるという信仰が伺えます。

しかし、次のようなことばも書かれています。


【ルカの福音書5章19節】

しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので

中風の人をイエス様の前に運び込むことが難しい状況です。

もし私たちが4人のうちの1人だったならどうするでしょうか?
立ちすくんだり、諦めて帰るでしょうか?


しかし四人はこの状況でも諦めずに、聖書に “屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした”と書かれています。

屋上に上って屋根の瓦をはがすことは、普通で考えるとあり得ないことですし、尋常ではない発想です。
周りにいる人々はそれを見て軽蔑したり呆れたと思います。


しかし、中風の人をイエス様の前に連れて行き “何とかして、どうしても癒して欲しい”という切実な思い、強い愛がありました。

これは神様が知恵を与えてくださったと思います。普通ならば思いもよらないことです。

イエス様は屋根を壊したことに対して決して咎めることもなく、愛と熱意を見て中風の人を癒されました。


私たちには様々な妨げがあります。

自分が神様のもとに行こうとしているのに、妨げがあってなかなか前に進めない時があります。

しかし、この箇所で教えられることは、“上を見なさい”ということです。上には天があるだけで、神様がいてくださるのです。


また、この四人の男性を自分に当てはめると、この中風の人は、まだ救われていない家族や知人、友人です。

病気や罪などにどっぷりと浸かって縛られ自分1人では身動きが取れない状態です。

そして、この四人の姿はクリスチャンの祈りです。 それは切実な思いと熱意で、愛ある祈りで神様の前に人々を運ぶことが出来る力です。


みことばを握りしめるというのは どういうことなのか、ある時に教えられたことがあります。


私たちが困っている時にみことばの棒が差し出されます。

私たちは そのみことばの棒を必死で握りしめます。そして神様に“上に上げてください!”と必死で祈ります。

そうすると一生懸命 みことばの棒を掴んでいたのですが、それを引きずり下ろそうと サタンが妨げや攻撃を持ってやってきます。私たちを棒(神様)から引き離そうとします。

でも私たちが必死になって両手で握りしめていると、神様は棒ごと引き上げてくださいます。


私たちがみことばにすがり付いている時に、その姿を見て神様は引き上げてくださり、約束を成就してくださいます。




②中風の人




次に、中風の人と自分たちを照らし合わせてみたいと思います。


床の間まで寝ながら運ばれていくのは、ジロジロ見られるので結構恥ずかしくて辛いだろうなと思いました。
また、自分を運んでくれた四人の男性に申し訳ないという気兼ねもあるかもしれません。

中風の人も、たとえ運ばれたとしても “もしかしたら癒されないのではないか” と疑いを持つかも知れません。


しかしここに書かれている中風の人には、そのような雑念は一切ありませんでした。

自分自身が何とかして癒されたいという切なる願い、そしてイエス様の前に連れて行ってもらえたら必ず自分は癒されるのだという信仰。
そして人々が自分のことをどのように見ようが、そんなことは関係ないというプライドを捨てた謙遜さがありました。


これは私たちにも神様が言ってくださっていることだと思います。

例えば私たちが病気で倒れて身動きが取れなくなって祈れない時があります。自分の力ではどうすることもできないことがあります。

そういうときは周りの四人の人が助けてくれます。
これが教会の姿です。ですから私たちには教会が必要なのです。


私たちが1人で祈れなくても教会の人々が祈ってくれます。

自宅や職場など この世では本音と建前の世界があります。しかし教会では本音と建前は必要ありません。

教会ではプライドを捨てて自分自身の本当の姿をさらけ出して良いところです。
自分を強い者であるとか、信仰が強い者であるなど、見栄をはったりプライドを持つ必要はありません。


周りの助けをもらってでも、神様の前に切実に祈り求めました。そして四人の人は、その姿を見てイエス様の前に運びました。

これが、神様から喜ばれる教会ではないか と私は感じました。




③パリサイ人と律法の教師




【ルカの福音書5章17節】

ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。

【ルカの福音書5章21節】

ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。 「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

神様が癒しをなさる場所にパリサイ人や律法学者がいました。


パリサイ人や律法学者たちは、“自分たちこそが神様の正しいしもべである”と高ぶり、集まっている人々を見下して真実である神様を批判していました。

このような人々は教会にもいます。


この人たちの罪の一番恐ろしいことは、自分たちは神様に反することをしていながら、自分たちは神様の前に正しい者であると勘違いをしているところです。


この教会では、牧師を通して地獄へ行った人々の証を聞きますが、
地獄へおちた人は「なぜ自分がここにいるのですか?!私をここから出して下さい!」とイエス様に叫んでいる姿があり、そのような人が多いです。

この人たちは自分の罪が分からなかったり、知ろうとしなかった人だと思います。


私たちは天国へ行きたいと願っているので、自分たちの罪が分かっていたなら心から悔い改めると思います。そして赦していただいて天国へ行きたいと切に願っています。

しかし地獄へ行った人は自分の罪が分からなかったので悔い改めをすることが出来なかった人も多くいるのではないかと思います。

これこそがパリサイ人や律法学者の姿であると感じました。






私自身もこの罪を犯しているのではないだろうか?と思います。皆さんはどうでしょうか?

自分の罪を悔い改めてはいるけれど、もしかしたら自分が気付いていないところで神様の前に相当大きな罪を犯しているのではないかと恐ろしくなります。

自分が正しいと思って取っている言動や言葉が、本当に正しいかは私たち人間には分かりません。


私たちは相手の側面しか分からず、そこで判断して言葉をかけますが、神様はその人の心の葛藤や苦しみなどすべてをご存知で、私たちの正しいと思っている言動や言葉が本当に正しいかは私たちには判断ができません。

これは神様にしか分からないことです。


しかし自分が正しいと思い込んで勘違いをしていることも多くあるのかも知れないということを今回教えられました。

私たちは信仰・愛・憐み・赦し・知恵・祈り・悔い改め、これらの何1つを取っても、自分の力で出来るものは何1つありません。


すべては神様から与えられる聖霊の油注ぎによらないと自分たちでは出来ません。
しかし、これらを自分の力や行い・正しさ・自分の聖い心でやると勘違いをしていることが大きな罪かもしれないと考えさせられました。


いつも悔い改めをしている罪は神様は既に赦してくださっています。
でも自分たちが気付かないところで悔い改めていない大きな罪が残っているのかもしれません。

罪とは的外れという意味です。私たちが悔い改めをしている時に、もしかしたら的外れな悔い改めをしてしまっているということも思いました。


そうしたら私たちはどのような悔い改めをしたら良いでしょうか?

神様の御前に私たちは謙遜になって、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。
私たちの罪は何なのか、神様が示して教えてくださいと祈ることだと思います。


そして日々の悔い改めと共に私たちが何を悔い改めたら良いのか はっきりと示してくださいと祈るならば、必ず神様ははっきりと教えてくださいます。


悔い改めるなら神様は赦してくださいます。

神様は私たちを決して地獄へ落としたいわけではありません。
私たちが家族や周囲の人と共に天国へ行くことを神様ご自身が願ってくださっています。


そのためには私たち自身の罪の悔い改めが必要です。
そして何が罪であるのか教えてくださいと祈る謙遜な心が必要です。


家族や周囲の人々の救いや癒しのためには、私たちクリスチャンが諦めない祈りと熱意、切実な涙をもった願いと愛が必要であると思います。


私たちが疲れ果てている時に、周りの人たちに祈れない時もあります。ですからそれすらも神様に求めていかなければいけないと思います。

そうするならば神様が必ず私たちの願いを聞いてくださると信じます。
。゜(´Д`)゜。

2014.12.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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何度まで赦すべきでしょうか

テーマは 『 何度まで赦すべきでしょうか 』 です

【マタイの福音書18章21-22節】

そのとき、ぺテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

人間関係には色々と困ったことがあります。
愛したいのに愛せない悩みや 赦したいのに赦せない悩みがあります。

ある人たちは「死んでも赦さない」と言いますが、この場合は最初から赦す気がまったくありません。

こういう人はとても気の毒な人で、きっと誰から何を言われても絶対に赦すことをしないと思います。


赦さないことは、誰かに対して憎しみや恨みがあるということですが、それを死ぬまで持ち続けているなら安らかに眠れるでしょうか。その姿が気の毒に思います。

自分に対して罪を犯した人を赦したことがありますか。
もし赦したならば、それは立派なことです。

しかし、赦していない人がいるならば、その理由は何でしょうか?


今回は赦すことに対して考えたいと思います。


私たちが主のことばに従うために、また自分の心をきよめるためには赦すことをないがしろにしてはいけないです。

まず私たちが自分に対して罪を犯した相手を赦すためにすべきことがあります。




①自分を捨てる道理を学ぶ




本文で、なぜぺテロが「七度まででしょうか」と言ったのでしょうか。

時代背景を考えてみましょう。
ユダヤ人は少なくとも兄弟を3度赦すならば、その人は心の広い寛容な人で立派な人格者だと言われました。

ですからぺテロが「七度まで」と言ったのは、それよりもさらに自分は人格者であることを示したかったと思います。

その心を知っているイエス様は彼の自己中心的な思いを壊すために「七度」を「七十倍」と言いました。


赦しと愛は、人間の義の根拠ではなく誇りにもなりません。
なぜなら、まず神様が私たちを赦し、そして愛してくださったからです。


【Ⅰヨハネ4章10節】

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

“自分には愛があり、心が寛容だから人を赦せる” という思いを捨てて、自分はすでに神様の愛と赦しを受けた者だからこそ神様に借りができているので、私たちもイエス様のように人を愛し、赦していかなければなりません。


また、間違えた教えを捨てなければなりません。


「七度までですか。」とぺテロが言った背景には ユダヤ人の教えがあり、その教えは神から出たものではなく、律法学者などによって教えられたものでした。


赦しの限界を決めて、その限界の中だけで赦しますと言うならば、そこには赦さないと言う意味が含まれています。

人を愛する時に、時間や限界を決めるのではなく、無限に愛するのです。




②終わりのない赦しを学ぶ




イエス様は「七度まででしょうか」と聞いたぺテロに対して「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」

これを計算してみると490という数になりますが、ぺテロが提案した“七度” という数がこれで拒否されました。

主の答えは、赦すのは490度までしなさいということではなく、赦しには限界がないことを意味しています。


人々は他人の過ちを“赦す” と言いながらも、相変わらず過去の嫌な記憶をそのまま心に入れて生活をしています。

そして、また同じ相手から嫌なことをされたり、自分に対して罪を犯したりすると過去の記憶まで思い出し、そのことを再び責めて相手を非難します。


神様が私たちに見せた赦しをみるならば、真の赦しがどういうものかがよく分かります。

私たちが罪を犯した時に、神様は1度赦してくださった(今までの)罪を思い出して私たちを責めたことがありません。それはなぜでしょうか。

聖書には神様の赦しは完全な赦しであることを示すことばがあります。


【イザヤ書1章18節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。


【イザヤ書44章22節】

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを購ったからだ。」

神様の赦しは私たちの罪を完全に忘れることでしたので、私たちの赦しもそのような赦しでなければなりません。


赦したと言いながらもいつまでも過去のことを思い出して責めるならば、それは赦していないことです。

490回だとイエス様が言ったのは、神様が私たちに見せた限りない赦しのように私たちもそのようにしなさいと命令しているのです。


赦しとは、単純に「赦します」 と言葉にすることではなく、自分たちの思いや記憶から消していくことです。


「人間生きている時は誰にでも過ちはある。人を傷付ける時もある。」と思いながら心から赦すことが必要です。


地獄には、“人を赦さない人たちが入る場所” があります。


心の中で妻を赦していない牧師に、イエス様はその場所を見せながら「ここはあなたが来る場所だ」と言いました。
あまりにも驚いた牧師は「妻を赦します!赦します!」と叫びました。

この経験は牧師にとってあまりにも恐ろしいものでした。


人を赦すように命じたことばは聖書に多いです。


【マタイの福音書6章14-15節】

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父も あなたがたの罪をお赦しになりません。


【マタイの福音書18章35節】

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。


【マルコの福音書11章25節】

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、 あなたがたの罪を赦してくださいます。


【コロサイ3章13節】

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい。




③十字架の愛を学ぶ




赦すように語った主のことばの中に必ず天の父ということばが共に出てくる理由は何でしょうか?


それは私たちが天の父から赦しを受けなければならない存在であるからです。


私たちは罪人ですから、神の赦しが必要になります。


自分自身が神様の赦しが必要なのに、人を赦さないで神様の御前に出て「私の罪を赦して下さい。」というのは話にならないことです。

瞬間、瞬間 罪を犯しながら生きている人間に、神様の限りない愛と赦しがないならば、人間は絶望的になります。

そしてその罪のために皆 滅ぼされてしまいます。


イエス様は私たちの弱さを知って私たちをただ責めるのではなく、罪のない方が私たちの罪を負って十字架にかかりましたし、自分を十字架につけた者たちに対しても 十字架の上で赦しのことばを語りました。

イエス様はペテロに対しても限りない愛と赦しをはっきりと示しました。

自分の命を守る為に3度もイエス様のことを知らない人だと言い、また呪いまで口にしたペテロに対して、復活した主は彼に会い、回復されました。


【ヨハネの福音書21章17節】

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と 言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

ペテロを赦し、ペテロを愛し、そして回復されました。これが真の赦しであります。

私たちも早くこのようにしましょう。

相手が生きている時にして、そして自分たちも主に赦していただきましょう。
(´∀`*)

2014.12.7
聖日礼拝メッセージ

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イエス様の驚きと悲しみ

テーマは 『 イエス様の驚きと悲しみ 』 です

【マタイの福音書11章18-24節】

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、 彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、 もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

聖書にはイエス様が驚く場面が出てきます。

百人隊長が素晴らしい信仰を見せた時にイエス様は驚かれました。彼はユダヤ人ではなく、ローマ人です。
しかしユダヤ人よりも素晴らしい信仰を見て、イエス様は『わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』と言いました。


またイエス様は奇蹟をたくさん行なったにもかかわらず信じなかった人々の不信仰な姿を見て驚かれました。

多くの人は「奇跡を見たら信じる」と言いますが、当時は数えきれないほどの奇跡がありました。
それなのに人々は信じませんでした。


【ヘブル書11章6節】

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。

イエス様はその人の財産、権力、名誉などに驚いたことは一度もありません。

イエス様が関心を持っているのは ただ1つです。
「信仰」…その人が信仰を持っているのかどうか、それだけに関心がありました。


良い信仰を見た時にイエス様はとても喜びますが、奇蹟を見ても信じない人や不信仰の姿を見た時にも驚き、また悲しみます。


今の人々の姿を見て、イエス様はどのように思っているでしょうか?

特に信じている人たち、「私は信じて救われました。聖徒です。」という人たちの信仰を見て、イエス様は喜んでおられるでしょうか?

ある人たちは心の中で言うでしょう。「私には信仰がある。毎週きちんと教会に通っているし、聖書も読むし、祈りもするし、奉仕もするし、献金もささげているし。これ以上何ができるのか?」

自分自身で良い信仰だと思っています。
しかし、イエス様がどのように見ているかは分かりません。


また、ある人たちは心の中で言うでしょう。「ああ、面倒くさい。信仰、信仰と うるさいな。忙しくて それどころではない。したいこともいっぱいあるし、どうでもいいわ。別に地獄に行っても良いわ。」

この言葉は、実際に神様のことを知っている人が言っていました。
これがクリスチャンの口から出たことにびっくりしました。その人たちは信仰の失格者であります。

そのような信仰がその人を天国まで導くことはありません。


天国に入れる信仰は、神様が認め 喜ぶ信仰の者だけです。

自分の信仰が、果たして自分自身を天国に導くものなのか?と、いつも私たちは考えなければならないです。


日々の私たちの態度がどれほど不信仰であり、イエス様を悲しませ、涙を流させているのか。
天国に入った人たちは、そこは素晴らしい世界ですので涙を流す人はいませんが、イエス様だけが泣いています。

救われず、地獄に行くたましいを見て泣いています。教会、信徒が堕落していく姿を見て悲しんでいます。

主から離れた人々、さまよっている人々、イエス様よりこの世をもっと愛する聖徒たちを見て泣いておられます。
イエス様は私たちの姿を見て驚き、嘆き、そして叫んでいます。


イエス様は人々に裏切られ、除け者にされ、未だに苦しみを受けています。
イエス様がその人たちに向けて語ることばは、「どうしてわからないのか。悟らないのか。信じないのか。」です。


主の声を今回、みなさんに届けたいと思います。

「私は救われました」というクリスチャンは、自分の姿をもう一度考えてみる必要があります。




① 聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿




聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿に主は驚き、彼らの最後を知っているので主は心を痛めています。


イエス様を信じていない人たちは もちろん滅ぼされます。
しかしイエス様は「あなたたちの方がもっと悪い」と語りました。

なぜなら、「今、あなたたちは多くの奇跡を目の前で見ているのではないか。神が人間となって直接あなたたちの目の前に来ているのに、それでも信じないのか」


ソドムとゴモラの町は不信仰や同性愛などで滅ぼされました。
しかし彼らよりもあなたたちの罰が重いと言いました。

そしてイエス様は「どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」と はっきりと語りました。

ハデスとは地獄のことです。
消えることがない炎が燃え、入ったら出ることができず、永遠に刑罰を受けるところへ行くのだと語りました。


「私は救われました」と言う人を イエス様が見た時に罪を悔い改めず、昔救われて“いのちの書”に書かれているから何をしても大丈夫だと言う人はハデスに落とされると言いました。

イエス様が語ることは、その通りになります。

イエス様は天国のことよりも地獄のことをたくさん話しました。新約聖書で113回語っています。




② 十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのになぜそれがわからないのか




十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのに、なぜそれがわからないのかと主は驚いています。

イエス様からたくさんの恵みを受けた者たちが、その恩を忘れ、イエス様に対して敵対し、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。

十字架にかかったイエス様を見て、頭を振りながらののしりました。
「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。今十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じるから」と、ののしる者、あざける者がいました。


誰のためにイエス様は十字架にかかってくださったのでしょうか?
罪を犯している私たちのためなのに、私たちはののしり あざけました。


彼らを見て「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈りながら主は人々を見ていました。

イエス様の命を取っている者たちを赦してくださいと、これ以上の愛がどこにあるでしょうか?

私たちがイエス様を十字架につけたのです。その時、あなたはどこにいましたか? その群衆の中にいたのです。


今も主は十字架の上で血を流しながら苦しんでいます。
誰のためですか?イスラムの人々や まだ信じない人々のためです。

十字架は昔のことだと思うでしょうか?
しかし、今はイラクでイスラム過激派の人々の手によってクリスチャンたちが街の中で十字架にかけられ1000人以上が殺されています。


イエス様は信仰のために死んだ人々と共に十字架にかかり、血を流し、涙を流しています。

彼らはののしりあざけっていました。
「あなたたちを愛しているのにどうしてわからないのか。」イエス様は彼らが立ち返るように願っているのです。

実際に、イエス様はクリスチャンたちに「十字架であなたのために死んだ私を忘れることが、私には苦しみである。」と語りました。


みなさんはクリスチャンです。みなさんはイエス様の十字架を日々覚えていますか?

自分のような罪人を、世界の多くの人々の中から自分を選んでくださったということが どれほど大きな恵みであるか分からないです。


イエス様の十字架は私のために血を流してくださったのです。
“なぜわたしの十字架を忘れているのか――?”


忘れているという事実に、イエス様はすごく苦しんでいます。
そのことをクリスチャンは覚えていないといけないです。




③ あなたのことば一つ一つが わたしの心を引き裂いている




「あなたのことば一つ一つがわたしの心を引き裂いていることをどうしてあなたはわからないのか」と主は驚いています。

私たちはイエス様を十字架につけて殺した後、今でもクリスチャンたちがイエス様を痛めつけています。
「私はそんな思いはないです。いつ私がイエス様を十字架につけたのですか?いつ私がイエス様を悲しませたのですか?」

皆さん、気付いていますか?


【ヨハネの福音書6章60節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

イエス様は真理を語っていますが 自分たちの目がふさがれて、心に知恵がなく悟っていないのに、「主よ、私たちはそのことばの意味が分かりません。教えてください。」と聞くのではなく、自分たちの思いで勝手に解釈し、非難をしました。

その後、彼らはどのようにしたでしょうか。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様がこの姿を見た時に、どれほど悲しかったでしょうか?

彼らは霊的なことは分からないのです。それまでは「どこまでもついて行きます」と言った者たちが一瞬にして消えていきました。

イエス様は引き裂かれる思いでした。「真理を語っているのに なぜあなたたちは真理から離れていくのか?」
その辛さは皆さんも経験があると思います。

皆さんが人々に(福音を)語る時に「意味が分からない。聞きたくない。二度と言うな。」
そのような言葉を聞いた時に、私たちはすごく心が痛くなると思います。


そしてイエス様に「あれは悪霊に憑りつかれて気が狂っている。」という言葉を言いながら聖霊を汚しました。

私たちはイエス様に悪霊とは言いませんが、どれほど不信仰なことば、不平不満、つぶやきを言ったでしょうか?

神様のことを自分のしもべのように使う時もあります。


私たちが語る1つ1つのことばによってさばかれると聖書に書かれています。たとえ私たちが言った覚えがないと嘘をついても全て記録されています。

ですから私たちが間違えたことを語るたびにイエス様の心に釘を刺しているのと同じであります。




④ あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか




あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか、どうして分からないのかと主は驚いています。

イエス様の目からは いつも涙が流れています。


皆さんはイエス様を信じてから、自分の良いものを取られたことはありますか?

イエス様は悪いものは捨てなさいと言いますが、良いものを盗む方ではないです。


人々がイエス様から離れるのは、それぞれの理由があります。
「祈っても聞いてくれないから信じるのをやめました」、「忙しいのでそれどころではない」、「今は自分の好きなことをしたい」「金儲けが先」など理由・言い訳がたくさんあります。


しかし、よく考えてみてください。その1つ1つの理由が、離れる理由になるでしょうか。

そのことが自分の命よりも大切なことなのかを考える必要があります。
快楽のためにイエス様から離れ、この世を愛する心や物欲でイエス様から離れるなら、後になってどのようにしますか?

地獄は後悔の場所であり、自分自身の愚かさを憎む場所でもあるのです。
“あの時にイエス様から離れていなければ…地獄に来ることはなかったのに!”


イエス様が語るのは「全世界を手に入れても たましいを失うならば、それが何になるのか?」と語っておられます。
イエス様は「もしあなたの右手が罪を犯すならば切ってしまいなさい。」と語ります。全身を持って地獄へ行くよりは片手がないまま天国に入った方が良いと語ります。


たましいを失うと全てを失います。

地上のわずかなもので自分のたましいをないがしろにして、それによって永遠に出ることのできない地獄で苦しむのは、どちらが皆さんにとって得ですか?


常に聖書のことばを読んでください。聖書のことばは気休めのために書いているのではなく、生きるか死ぬかのために私たちに道を示しているのです。


この真理は変わりません。書かれた通りのことが必ず起こります。

もし今晩あなたが死ぬならば、天国に行けますか。天国に入る人は少ないです。地獄に入る人は大勢います。
イエス様はその姿を見て泣いています。


地獄に多くのクリスチャンたちが行きました。
イエス様が、クリスチャンが地獄へ行った理由を語りました。

その理由は、多くの人々がわたしが願っているようにはせず、わたしを敬わず、愛さず、断食を好まず、忍耐をせず、教会の中に留まることを嫌がり、礼拝が好きではなく、祈らず、みことばを読まず、口先だけで賛美するなど、イエス様がして欲しいことと真逆のことをしているからです。


カインの礼拝を捧げておいて、アベルの祝福を受けようとしているのです。
カインにはカインの裁き、アベルにはアベルの祝福があるのです。

自分が蒔いたとおりに刈り取らせるのが正しい裁きであります。


どれだけ私たちは神様のことばが与えられているでしょうか。

「今日、あなたが主の声を聞いたならば 心を頑なにしてはいけない。悔い改めて立ち返りなさい」とイエスさまが語っておられます。

これ以上、私たちがイエス様を悲しませてはいけないです。死んだ信仰、疑い深い信仰、不信仰を全部捨てなければならないです。


そしてイエス様が認める“あなたの信仰は立派です”と言われる信仰、長血を患った女の人、百人隊長の信仰、娘が悪霊にとりつかれた母親の信仰、イエス様に香油を注いだマリアの信仰、あなたはこのような信仰を持ちなさいと語ります。


へブル書11章は信仰の章です。ほぼ全員が厳しい状況の中で、自分たちの信仰の光を放ちました。

神様だけに頼る信仰はいつ試されるでしょうか?厳しい状況の中で初めて試されるのです。

私たちの信仰は天国に入れるような信仰でしょうか。それとも「信仰、信仰」と言いながらも地獄へ行く信仰でしょうか。これを考えなければなりません。


イスラム教の人々がクリスチャンを狙って殺してきています。終わりの時代が来ています。
その時に私たちが のほほんと「大丈夫。」と言えるでしょうか?

イエス様が目を覚ましなさいと語っています。
あなたに信仰が無ければ、彼らに捕らえられてひざまずくようになります。


大変な状況の中でも神様に信仰を見せる人だけが勝利者であります。
死に至るまで忠実でありなさい。その信仰を持ちましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2014.8.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖徒が逃してはならないチャンス

テーマは 『 聖徒が逃してはならないチャンス 』 です

【イザヤ書1章18節-20節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、 主の御口が語られたからである。

先週は「今悔い改めなさい」という内容のメッセージをみなさんは聞きました。
そのメッセージを聞いて悔い改めた人たちがたくさんいると思います。

悔い改めた人たちにとっては、今という悔い改めのチャンスを逃さずに悔い改めたので、与えられたチャンスを生かした人たちです。

天国は悔い改めた人たちが入る所です。
“良い人”が入るのではなく、“悔い改めて赦された者”が入る所が天国であります。


地獄は“悪い人”が入るのではなく、“悔い改めるチャンスを逃し 罪を持ったまま”の人が入ります。


地獄へ行った人たちが1番願うことは、『私をここから出してください!出してくれるならば悔い改めます!』ということです。

地獄に来た人々は悔い改めのチャンスを逃したために自分たちがここに来ていることが分かっていました。
悔い改めをしなかったことが1番の心残りです。

ですから、地獄へ来ている人たちが1番欲しいと願っていることは「地上での悔い改め」であります。


チャンスは生きている時にしか得られないです。

そこで今回は、聖徒が逃してはならないチャンスが何か? をいくつか語りたいと思います。




①救いをもたらす悔い改めのチャンス




悔い改めない限り 救いはないです。
救いを受けるために悔い改めのチャンスを絶対に逃してはいけないです。

神様は初めから赦しの計画をもって罪人たちに語っておられます。


アダムとエバが罪を犯した時に、2人とも神様から離れて隠れていました。
しかし、神様は2人がどこに隠れているのか全てご存知です。

そこで神様は 怒って彼らを強制的に連れ出して厳しく責めたのではなく、彼らがどこにいるのかを知っていながら「あなたはどこにいるのか」と声をかけました。

「早く出て来い!」ではなく「あなたはどこにいるのか」でした。

これはすべてを知っておられる主のやさしい心から出たことばです。


本文でも「さあ、来たれ。論じ合おう」とやさしい言葉で語りかけています。
これは悔い改めのチャンスを与えていることばです。
神様は既に彼らを赦す計画で「出て来て悔い改めるならば わたしはその罪を赦す」と待っておられるのです。

このことばに耳を傾け、素直に応じて悔い改めるならば、神様はその人の罪を赦し、救いを与えてくださいます。


ここで私たちが反抗する心ならば、救いのチャンスを自分で捨てるようなものです。


神様は裁くために「出てきなさい」と言ったのではなく、裁くために「悔い改めなさい」と言ったのでもないです。

人間はとても心が頑なであります。

自分のために本気になって語ることばはいらないと言います。
そしてサタンは私たちを滅ぼすためにたくさんの偽りを言いますが、その言葉には素直に従順します。


サタンが何も言わなくても、人間は後ろをついて行きます。その道が死の道・滅びの道であるにも関わらず自らサタンの方へと進みます。

これが人間の姿であります。


私たちは最期まで諦めずに(人々に)悔い改めとイエス様を受け入れることを伝えることです。

私たちの周りには 心が頑なな人たちが大勢います。

それは人間が悪いからというのではなく、サタンの支配であります。サタンが(イエス・キリストを)信じないように妨害するのです。その人たちの心を頑なにして地獄へ連れて行く計画があるので そうするのです。


しかし神様が、私たちの周りの人たちのたましいを憐れむなら最期までチャンスを与えますが、最期のチャンスも逃してしまうなら後がないです。


そのような思いで私たちが福音を伝えることであり、「今日が最期かもしれない」という思いで罪を悔い改めたのかを自分自身に聞くことであります。




②主を迎え入れるチャンス




福音は悔い改めだけではないです。

悔い改めて、イエス様を自分の主として迎え入れなければならないです。


【ルカの福音書19章41節-42節】

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら、しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

イエス様は平和の主、救い主、慰め主、世界の光としてこの世に来て下さいました。
まずは選民であるイスラエルに来られました。

しかし彼らの反応は次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

イエス様はご自分の国へ行ったのに、民たちは心を閉ざしました。
もし主を迎え入れていたなら、次のような祝福がありました。


【ヨハネの福音書1章12節】

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

すばらしい祝福を持ってイエス様は来てくださいましたが、民たちは『人間 イエス』につまずきました。

光(イエス様)を拒否し、神の子どもとなる特権も拒否しました。


その後の彼らは苦難の道を歩むようになりました。

イエス様の預言通り、AD70年にローマ軍が入ってきてエルサレム神殿をすべて壊しました。
これはイエス様を受け入れなかったので起きたことでした。

そして全世界に散らされ、どこの国でもユダヤ人は歓迎されず迫害されました。

600万人のユダヤ人が第二次世界大戦の時に殺され、国が再び建国されてからも常に戦争状態です。
今も彼らには覆いがかけられ、メシアを受け入れていない状態です。


歴史を支配しているのは神様であります。






今、プロテスタントとカトリックのことを研究しているところです。

このような書籍は日本でも売っていますが、普段 みことばにふれていない人が書いています。
このように信じていない人の観点ではなく、(準備が出来ましたら)聖書の言葉を通して正確に皆さんに教えようと思います。


黙示録を読むとカトリックの姿がたくさん書かれています。一体、何が間違えているのでしょうか?

こういうことは多分、クリスチャンの人も分からないと思います。


しかし、クリスチャンこそ正しく知らないと、惑わしの霊がたくさん来た時に騙されてしまいます。

そして教会の教えも、有名な先生だからといって、語ることばが全て真実かといえば、そうではありません。
大きな教会でも反キリストの霊が多く働いています。

世の中の色々なことに騙されないように、聖書のことばと照らしてプリントを配ろうと思います。


今の時代は、ただ教会へ行けば良いということはなく、その教会で正しい真理が語られているのかが大切です。


今は恵みの時、救いの時です。恵みを受けてはじめて私たちの信仰が成長し神を知るようになります。

しかし、まだ神を受け入れていない人は、誰かが福音を語る時は、今がイエス様に出会うチャンスなのです。
もしそれを逃したら、いつ誰がその人に福音を語るでしょうか?その後クリスチャンに出会うこともなく世を去る場合もあるのです。

私たちは伝えていかなければならないです。
拒否をする人たちもたくさんいますが、それは(受け入れなかった)その人の問題(責任)であります。




③献身・召命実践のチャンス




クリスチャンは恵みだけを受けて「あぁ良かった。天国に入るまで何もしなくて良いのだ。」ではないです。

マタイの福音書25章はクリスチャンに向けたメッセージです。
選ばれた者がどのように献身し歩むべきなのかを教えています。


一タラント、二タラント、五タラントがあり、これは召命実践のチャンスです。
召命は皆違います。皆が同じ賜物や同じ働きはないのです。神様は1人1人に応じて使命を与えました。

私たちは自分は神様からどんな召命を受けたのか知らなければなりません。
祈りながら主に聞いてみて下さい。「私は主のために何をしたら良いでしょうか」と。

ある者には一タラント、ある者には二タラント、ある者には五タラントを任せました。そして働くように言いました。


あなたが受けた召命を、実践によって実を結びなさいということです。

二タラントと五タラントをもらった2人は一生懸命働いて次のように報告しました。


【マタイの福音書25章20-21節】

すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、 ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」

その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ。」

その人たちは死に至るまで忠実な人でした。ですから このような素晴らしい決算が出来ました。
主人がその人の働きをとても喜び褒めてくださいました。このしもべは天国でたくさんの報いを神様から受けます。


そして、一タラントもらった者は何と言ったでしょうか。次の箇所です。


【マタイの福音書25章25節】

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。

彼は働かず地の中に隠していたので、何1つ増えていなかったのです。その人は死ぬまで自分が(神様から)何をもらっていたのかを知らず、関心すらありませんでした。

働きが一切無いのです。土の中に入れましたので、それを主人に持ってきました。
主人は次のように言いました。


【マタイの福音書25章26-30節】

ところが、主人は彼に答えて言った。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、 持たない物は、持っているものまでも取り上げられるのです。

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

3人のしもべたちは、選ばれた信じる者なのです。

2人はきちんと主人の言葉通りに商売をして もうけました。
しかし1人は言うことを聞きませんでした。それは主人を侮ったことであります。


神様は怠け者、そして主人に対して悪い思いを持っている者は役に立たない者であるので、外の暗やみに追い出しました。外の暗やみの世界とは地獄であります。


私たちはチャンスを逃してはいけないです。「私はこんなに小さな働きだから…」ではないです。

どんなに小さな働きであっても、その時にそれが与えられたなら 一タラントであっても忠実に働くことが、すごく大切なことであります。


五タラントもらった人が二タラントの働きしかしていないならば、その人は怠け者です。五タラントには五タラントの働きが必要です。

働きは、教会だけに限られていないです。どこにいても私たちは主のみこころに従うなら、働く場所があるのです。
私たちが働く場所は人間なのです。他人に仕えることです。

家庭でも私たちはクリスチャンとして仕える働きがあるのです。


主が喜ぶ働きをするなら、立派な奉仕です。24時間どこででも私たちは奉仕が出来るのです。




献身のチャンスとは?




自分の召命のために働くことも献身ですが、あなた自身を捧げないと出来ないことがあります。

これは誰にでも出来ることです。

そして献身のチャンスを逃した人たちの言い訳の姿は次の箇所です。


【マタイ25章44-45節】

そのとき彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、 お世話をしなかったのでしょうか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、 この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

最も小さい者は私たちの目には入らないでしょう。
これは献身する思いがないと、自分を捧げることができないです。
自分のものを主張しないことであります。


聖書で見るならば、良きサマリヤ人の姿です。
憐れんで手を差し伸べる者こそが神様が求める者であり献身であります。

愛と関心、そして自分がその人に対して何かをしてあげようという思いがあれば出来ます。


「私は助けるものがなくて出来ません。」というのは全て言い訳であります。
私たちは有り余って処分するのが困るくらい持っているのです。

それなのに、本当に困っている人がいるのに助けないのは無関心の姿であります。


私たちはいつもアンテナをはって「私が助けなければならない人はどこにいるのか。」と、見ることであります。

私たちは与えることが愛であります。相手から返してもらおうと思うのは計算をしたことになります。


このチャンスも生きている時にしかできないです。本当に困っている時に知らんぷりではなく、食べ物を与え、着る者を与え、助けることが必要です。




④再臨の主を迎えるチャンス




このチャンスを逃したら本当の意味で終わりです。


【ルカの福音書17章34-35節】

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台で男がふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

これは再臨の主が来られる前の姿です。

イエス様は雲に乗って来られ、既に亡くなった聖徒たちが復活し、地上に残された聖徒たちが天に引き上げられます。


その時にクリスチャンたちの中でも、ふたりのうちひとりが残されるのです。

引き上げられる人と残される人の違いは、主が再臨することを常に知っていて準備をした人と、いつ来るか分からないから今は飲み食いしよう、人生1度きりだから楽しいことだけをしようと準備をしなかった人です。


神様は準備をしている者としていない者の違いを教えてくださいました。

目を覚ませというのはクリスチャンに言っていることであります。主は必ず再臨なさいます。

そこで残されたクリスチャンは悲惨であります。なぜなら大患難に突入するからです。


大患難は私たちが地上で考えたことも聞いたこともないほどの患難だと言っています。
今 信仰を持たなかった人が患難の時に反キリストが出て来て“666”を受けないと何も買えない状況になった時に、果たして信仰は見られるでしょうか?

ものすごく厳しい時代になると思います。




再臨の準備はどのようにしたら良いのか?




仕事を辞めて、祈りとみことばを読む生活をしたら良いでしょうか?と言う人がいますが、イエス様はそういうことではないと語られました。

それはイエス様が望む姿ではないです。次の箇所で良い助言が与えられています。


【Ⅰペテロ4章7-10節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。 愛は多くの罪をおおうからです。

つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

それぞれが賜物を受けているのですから、 神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

これは再臨を準備する姿です。

私たちは毎日の生活の中で準備をするのです。イエス様が喜ぶ生き方をするのが準備をする姿であります。

特別なことではなく、主は ここで3つのことを語りました。


・互いに熱心に愛し合いなさい(8節)

愛は神様から出て来るものであります。神様の兄弟姉妹たちに語ることばです。

・互いに親切にもてなし合いなさい(9節)

教会で食事をすることも、これは愛する姿であります。親切にもてなし合う姿です。
初代教会にその姿がありました。それを私たちが今 実践していくことです。


・互いに仕え合いなさい(10節)


この3つを私たちが実践していたら、その人たちはきちんと再臨の主を迎える準備をしている姿であります。
このような人は非難されるところがないので 何も心配する必要はないです。

これを日々行うことが未来を準備する姿であります。Ⅰペテロ4章7節の「心を整え身を慎む」姿です。

物を蓄えるのは、私たちの魂を救うことは出来ないです。


今、神様によってチャンスが与えられていること自体が恵みであります。今日 生きている者はチャンスがあります。

「明日から」というのはサタンが与える言葉です。どんどん先延ばしにして私たちが出来ないようにします。

ですから、今から行動する人がチャンスを逃さない人であり、「明日からします。」と言う人はチャンスを全て逃す人です。


今からしないといけないのだという思いで全てのことをして欲しいと思います。
(・∀・)

2014.7.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
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シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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今、悔い改めなさい

テーマは 『 今、悔い改めなさい 』 です

【ヨハネの黙示録3章19節】

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

今まで「悔い改めなさい」というメッセージを何度かしたことがあり、最近では3月に語りましたが、
その時の悔い改めのメッセージと、今回の悔い改めのメッセージは神様は違った形で語ってくださいました。

イエス様は教会や信徒に対して、本文に書かれてあるように「熱心になって悔い改めなさい。」と語りました。


ある人がイエス様の導きで天国に連れて行かれました。

天国の素晴らしさを見て感動しました。
そして天国をすべて見せた後に、イエス様は小さな箱のようなものを持ってきました。
その箱を開けてみると、そこにはムチが入っていました。

天国ではムチは相応しくないものですが、イエス様はムチを取り出して近くにあった椅子を思いっきり叩きました。
イエス様がムチを打ちながら語った言葉が「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」でした。


これは悔い改めない神の子どもたちに対し、神様は懲らしめるために愛する者をムチで打つのだということをイエス様が見せてくださいました。

「今、悔い改めなさい」という言葉を聞いている人は幸いです。既に地獄へ行っている人にはそのチャンスがないのです。

悔い改めるチャンスを逃した人が地獄に入り、そこで永遠に苦しまなければならないのです。


教会にこのような言葉を送るということは、信じた後は誰でも罪を犯したり倒れたり堕落したとしても関係なしに天国へ行けるのだという言葉を否定するものです。

もし、罪を犯しても天国へ行けることが事実ならば、イエス様は「熱心になって悔い改めなさい」と言う必要がないです。

しかし聖書には悔い改めなさいという言葉がたくさん書かれています。


まだ(イエス様を)信じていなく罪の中にどっぷりと浸かっている人に対しては当然のように「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから 信じて救われなさい。」と伝えます。私たちもその言葉によって救われました。

神様は、神様の子どもになった人に対しても、「熱心になって悔い改めなさい。」と伝えます。

ムチ打たれても悔い改めないならば、その後はないです。神様は命を取ります。
そして行くところは地獄であります。




地獄の証



以前に話をしたことがありますが、クリスチャンが地獄を見た時に、そこには多くのクリスチャンがいることにびっくりします。

イエス・キリストを信じなくて地獄へ来た人もいますが、中には以前クリスチャンだった人たちが地獄にいるので きっと驚くと思います。


イエス様は多くの人々に天国と地獄を見せていますが、その目的はただ1つです。

人々が信じないからです。
世の中の人たちは地獄など存在しないと思っていますし、クリスチャンたちは “私たちは何をしても天国に入れる”と考えており、地獄は関係がないと思っているので イエス様は天国と地獄を見せて、裁きがあることを伝えているのです。

そして地獄を見た人たちは“他の人たちに伝えなさい”ということで頻繁にそのようなことが起きています。


終わりの時代ですので、誰も地獄には行って欲しくないという強い思いが イエス様にはあります。


ある姉妹が、地獄を見た時にびっくりしました。

それは以前 同じ教会にいた献身的な信徒で、イエス様を愛し、よく仕え、たくさんの奉仕をし、聖書に書かれている善行もたくさん行っていた人でした。

捧げものもきちんと捧げ、貧しい者にも愛をもって施しをした人なので、誰が見ても天国でイエス様に歓迎されて冠を受けて一番良い所に座っていると思われるような人でした。

何と その人を地獄で見付けました。それを見た姉妹が心に激しい動揺を感じました。


火の中で燃えている姉妹を見て、イエス様に「クリスチャンも地獄に来るんですか?彼女は評判の良いクリスチャンでした。なぜ あの姉妹がここにいるんですか? 信じられません。私たち教会の人々は彼女が天国でたくさんの報いを受けていると思いました。」と言いました。


そこでイエス様は、このように語りました。

“彼女はサタンの嘘に騙されていたのだ。
サタンは彼女の耳元で「大きい罪は悔い改めても、小さい罪は悔い改めをしなくて良い」と囁き、 彼女は大きな罪と小さな罪を自分で区別していた。”


私たちは大きな罪は神様の御前で悔い改めますが、小さな罪には罪責感を感じますが それが命取りになるとは思っていないのです。

しかし彼女は悔い改めをせず、小さなことだと思い それを延々と続けました。
サタンが彼女を騙していたので、神様は何度も“悔い改めなさい”と語りましたが、彼女にはサタンの言葉の方が都合が良かったのです。

なぜなら 自分が犯している小さな罪を捨てたくなかったからです。
ずっと小さな罪を続けて、最期まで小さなことだと思って悔い改めなかったのです。


ですから神様は「彼女がわたしを愛したとしても 彼女は最期までわたしのことばに耳を傾けず、罪を持ったまま死んだ。だから地獄へ来たのだ。」と語りました。

私がその証を読んでいる時に、突然 心の深い所から震えるほどの恐怖心を抱きました。それは「自分が地獄に落ちるのではないか」という恐れでした。
今までの罪は悔い改めて生きていますが「私はサタンに騙されていることはないでしょうか?」と。主の前で「私の罪を赦してください。」と、すぐに悔い改めのお祈りをしました。


今まで神様に甘えて「天国へ行くのだ」と思っていましたが、地獄へ行った彼女が立派な信仰生活をしていたにも関わらず、そのような人も地獄へ行くならば 私も例外ではないと必死に震え上がりながら祈りました。恐ろしくてまるで自分が地獄にいるような感じがしました。





そこで主が語った言葉があります。次の箇所です。


【Ⅰコリント9章27節】

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私が他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

自分のからだを打つということは、罪と激しく戦う姿です。
神の言葉に自分の肉の思いを従わせるのです。

パウロは人々に福音を伝えていますが、パウロは日々 自分のたましいを見ながら罪と戦い、悔い改めていました。


しかし多くの牧師や伝道師が地獄にいる姿があります。
それは他人に伝えておきながら自分は落ちている姿です。


ですから自分を聖める為に、日々自分を打ち叩かなければならないです。
他人を叩くのではなく、今 自分が犯している罪は何かを調べて打ち叩くのです。そして立ち返ることです。
パウロがやっていたことは毎日毎日悔い改めて罪と戦い自分自身を罪から守ったことでした。

パウロの言葉に常に出てくるのは「勝利」であります。
それはただ地上の働きを勝利したという意味ではなく、神様のみこころを正しく行い、自分自身が救われて天の御国に入ったということです。


罪を行なう行為が聖霊を悲しませる行為だと語りました。
神の御霊を悲しませてはいけませんとエペソに書かれています。

何をしたら聖霊が悲しむのかと言うと、罪を犯して悔い改めず放置することが聖霊様を悲しませることです。

罪を行う行為が 不法を行う姿であります。


神様は罪の大きさは(大きくても小さくても)関係がないと語りました。
罪は罪であります。「小さいから汚れではない」ではないです。

イエス様は悔い改めない人の姿はこうであると語った箇所があります。次の箇所です。


【マタイの福音書5章13節】

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、 外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

“塩が塩けをなくす”ということは、外から何かが入ってきて塩けがなくなったのではないです。
そうではなく内側で何かが起きたことであります。

イエス様はこれは小さなことではなく1番の犯罪だと語りました。内面的深刻な危機です。

外から来る誘惑よりも、自分の中に悔い改めをしない心が 塩けをなくしているのです。
自分たちの中にある悔い改めない心こそが最も強い敵です。心が不法と汚れで満ちています。

私たちが悔い改めるなら聖められて回復します。


しかし、これは小さなことだと思って「これくらいイエス様ぐちゃぐちゃ言わないでください。」と、他人から言われても「皆がやっていることだ。これが私の命を取るとは思えないわ」と心を頑なにして相変わらず同じ生活をするのです。


これが命取りになるということはアモス書に書かれています。

【アモス5章19節】

人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。

外から誘惑がたくさん来ると、私たちは誘惑されてはいけないと吠えたける獅子の前から逃げます。熊のように襲うものもあります。
しかし家に入ったから安心・大丈夫だと思っても、家の中にはもっと大きな敵がいるのです。

家の中というのは、自分たちの心の中のことであり、外よりも内にはもっと恐ろしい蛇がいるのです。


蛇はサタンです。獅子や熊よりも蛇の方が恐ろしいです。
蛇は大きくはないですが、毒を持っているので咬まれたら死にます。

内側にある悔い改めない心、これこそがあなたの命を奪います。


私たちは誘惑されて 時には倒れることがあり、外側から来るものにはすぐに気が付き悔い改めますが、自分の中で ずっと共に住んでいるのに、存在すら気付いていない蛇が咬みついていることに気が付かないのです。

隠れた罪も神様はすべてご存知です。
私たちが隠している部分にはそこに蛇が住んでいると思わなければいけないです。

偽り、憎しみの心は蛇のようなものだと思っていますか?「あの人が憎い!」という思いがありますか?


しかし神様は愛の方でありますので、神様の中には憎しみがないです。
私たちは神様が持っていないものを自分で持ちながら天の御国に平気で入ろうとするならば、「あなたの心は地獄に相応しい」と言われて天国には入れないです。

皆さんは他人を憎む心がある時に平安がありますか? ――ないですね。


平安は聖霊様が与える心なので、憎しみがあるところには平安が絶対に来ないです。自分が死にたくない(地獄へ行きたくない)なら赦すことです。
これはとても大切なことであります。

「死んでも赦さない」というのは、クリスチャンには相応しい言葉ではないです。





適当に妥協することも神様は罪であると語りました。
なぜなら神様の言葉を自分に都合の良いように解釈をして変えてしまうからです。


教会の中には、聖霊を欺く罪がすごく多いです。
什一献金を正確にしてください。ごまかしていながらも「捧げました」と言うのは聖霊を欺くことであります。
大きな金額が入ったときには もったいないなと思って捧げないのです。

ボーナスが入った時には什一献金を捧げてください。それは収入でありますので正確にしてください。

神様に指摘をされた時に「バレたか」ではないです。それが命取りになるのです。


主の心が激しく痛み、涙を流しているのは世の中にある多くの教会がサルデスのような教会、ラオデキアの教会のような姿であるからです。 教会とは聖徒たちの姿です。


【ヨハネの黙示録3章1-3節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、 わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。 もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

自分では生きていると思っていても、実は死んでいて、目をさましていると思っていても眠っている姿。そして自分は全うしたと思っているのに、神様はそうではないと語ります。

ですから評価が全然違うのです。この時に私たちは(自分の評価ではなく)神様の言葉を聞くことであります。


【ヨハネの黙示録3章14-17節】

また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

私たちは自分のことをきちんとみことばに当てはめないので知らないのです。
ですから 悔い改めをしないで放置をして、結局それが命取りになってしまいます。

みことばを読む時に、“これはあの人のための言葉だ ”と思ってはいけないです。


“これは私に語る言葉であるのだ ”と常に自分のことだと思わないならば、神様と私たちは何の関係でしょうか?他人を見ている場合ではないです。


【ヨハネの黙示録3章5節】

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして私は彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない 。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

いのちの書に自分の名前が書かれていないと、もちろん天の御国には入れないですが、以前に いのちの書に書かれていたのに名前を消されてしまった人も入ることができないです。
いのちの書から名前を消されたら痕が残らないです。


「勝利を得る者は、いのちの書から消さない」と神様が語るということは、“名前が消されることもある”という意味だと私たちは解釈しなければならないです。

私たちが信じた時から、神様は冠と報いを準備してくださっていますが、ある者たちは堕落をしたのでそれらの報いが使い物にならなくなりました。

その使い物にならなくなった物を見て、イエス様は苦しんでおられます。


神様は私たちの姿を見て、悔い改めに導いてくださいますが、悔い改めに導く主の姿を見てみたいと思います。
どのような時に私たちが気付いて悔い改めるべきでしょうか?




みことばを聞く時に罪を自覚する




【使徒の働き2章37-38節】

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。


皆さんがこのような厳しい話を聞いていると、心が刺されると思います。
心が刺されていない人は、聞く耳と心を閉ざしているということで問題であります。

しかし 聞く耳を開いている人は、この言葉が自分の心に刺さると思います。
心が刺されるということは、罪の自覚があるということです。


罪の自覚があるならば、今が悔い改めるチャンスであり、気付いた時に悔い改めないならば、罪をそのままにしている状態です。

気付いたならば、その場で悔い改めて立ち返ることです。
自覚をしたということは悔い改めのチャンスが与えられた恵みであります。

罪を悔い改めなかったために命ではなく、滅ぼされてしまう人たちがどんなに多いか分かりません。




神の慈愛




【ローマ2章4節】

それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

神様の慈愛は、私たちにすぐムチを打たないということです。
罪を犯して まだ悔い改めをしていないのに、神様は裁かずに見てくださっています。

神様は裁き主ですが、裁かずにジーッと見ながら祝福も与えてくださいます。


私たちが「善い者」だから祝福が与えられているわけではないです。これは全て神様の慈愛であります。


神様から何も言われないからと安心して悔い改めをするチャンスを逃して死んでしまうならば、その人は終わりです。

何かがあった時に、私たちはすぐに悔い改めないと、神様の慈愛と忍耐と寛容を無視することになりますので、その過ちを犯さないようにしましょう。




神の忍耐




【Ⅱペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して 忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

主が再臨することは昔から言われていますが、今 主は準備をし、御使いたちは既にラッパを持っている状態です。そして吹く準備も出来ています。

しかし、なぜラッパを吹かないのでしょうか ――?
それは地上にいる神を信じる者たちの準備が まだ出来ていないからです。
ですから神様が忍耐をして延ばしてくださっています。


しかし今は、もうこれ以上は延ばせないのだと何度も語っておられます。

神様の忍耐がある時に悔い改めをしないといけないです。神様の忍耐が切れた時は世の終わりであります。

私たちは悔い改めの時間が与えられている時に、本気で悔い改めなければならないです。
悔い改めをせずに、その時を逃した者が滅びている姿が黙示録に書かれています。


【ヨハネの黙示録2章21-22節】

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

大きな患難は世の終わりです。
最後の患難の時は誰も主を信じることが出来ないですし、生き延びることすら出来ません。


悔い改める機会を与えていたのに、悔い改めようとしなかったということですので、私たちは絶対にそういうことにならないように気をつけなければいけないです。




悔い改めの姿勢




しかし私たちが主の前で悔い改める時に、どのような姿勢で悔い改めるべきでしょうか?

口先だけで「悪かったです。神様、これからはそんなことはしません。」と言うのが悔い改めではなく、
悔い改める時の状態は、このような状態であるとⅡコリント7章9-10節に書かれています。

みなさんが悔い改める時はどうでしょうか?比べてみてください。


【Ⅱコリント7章9-10節】

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがた悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

「私は本当に罪深い姿であるのだ」と主の前に震えあがりながら罪を告白して、自分の罪ある姿を悲しむ姿で主の前に出て悔い改めることが、神様が受け入れてくださる悔い改めの姿です。


罪のない者は1人もいないです。昨日(罪を)洗っても、今日また罪を犯す――。

ですが、罪を放置しないことです。今日またイエス様に悔い改めることであります。
毎日 毎日、今日が世の終わりかも知れないという思いで悔い改めなければいけないです。






皆さんは罪をどのようなものと思っているかは分かりませんが、私は罪のことを蛇だと思うことにしました。

自分自身が罪を嫌わないならば、罪から足を洗って手放すことが出来ないので「蛇が私を咬もうとしている。追い出してやろう。」と捨てることにします。


ニュースを見ていると、高齢者の万引きがとても増えたそうです。
その記事に書かれている言葉は、“万引き”という言葉が悪いと書かれていました。

万引きと言うと 軽いイメージなので、「窃盗罪」という言葉だと重たく感じて“刑務所へ行くかも知れない”と思えるので言葉を変えないといけないということでした。

「脱法ハーブ」も若者が事故を起こしていても「ハーブ」と言うから簡単に手を出すので、「麻薬」に変えなければならないのと同じです。

ですから 軽い言葉を使うと、人々はそれが重大なことであるにも関わらず、軽く考えてしまいます。


私たちは罪に対しても、軽く聞き流すならば罪の認識がありません。
「罪は蛇なので咬まれたら死ぬ」と警戒をしないと、後でそれによって命が取られてしまいます。


皆さんにとって天国へ行くことはどのようなことでしょうか?

すべてのものを手に入れても、命を失って地獄へ行くなら何になるでしょう。


自分の肉を打ち殺すことは、とても大変なことです。それを神様の言葉に服従させることは1番大変なことです。
しかし 永遠の世界がありますので、それは価値あることです。

イエス様は世界に向けて、教会に向けて、個人に向けて熱心になって悔い改めなさいと語っておられます。

世の中では罪という言葉は使わないです。
教会でも罪のことが語られなければ、その教会は“死んだ教会”であります。


私の教会は死んだ教会にはしたくないので、神様が熱心に語れとおっしゃるので、まず自分に語り 皆さんにも語って目を覚ますように言いたいです。

今回聞いたならば、その後 どうするかは皆さん1人1人の決断です。
命を得るのか、滅びを選ぶか、それは自由であります。

ですが、命を選んで欲しいです。
大したことのない罪の中に留まって 命をないがしろにするのは愚かであります。
ヽ(TдT)ノ

2014.7.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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リニューアルし、読みやすくなりました❤

地獄はこのような場所です。
幻と啓示~天国と地獄~

心の状態によって選んで、みことばを読んでくださいね!
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救いは神からの賜物

テーマは 『 救いは神からの賜物 』 です

【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、キリスト教信仰の基本です。
聖書では救いのことを色々なことばで表現しています。

救いが何かをはっきりと知らないと、救われましたと言っても それが何になるのかが分からないです。


様々な宗教では “たましいの救い” について、ほとんど聞いたことがないと思います。

また、クリスチャンであっても救いについて聞かれると きちんと答えられない人が多いです。
中には「私、本当に救われたのでしょうか?確信がありません。」、「救いとは何ですか?」と言う人もいます。




今回は、救いがどういうものであるのかを はっきりと伝えていきたいと思います。


まず、この救いとは人間にとって命のようなものです。

命以上に大切なものはありますか?これは私たちが肉体と共に持っている命のことではないです。

この命とは、私たちが地上を離れてから “永遠に生きるのか” 、 “永遠に苦しむのか” どちらかのための永遠の命のことです。


そして聖書の中で色々な言葉で救いのことを表現しています。

例えば、「永遠のいのちを受けた」、「罪の赦しを受けた」、「生まれ変わった」、「神の子どもになった」、「イエス・キリストを私の救い主として受け入れた」、「私はイエス・キリストを信じます」、「神様と和解した」、「天国の民となった」、「神から義と認められた」 これらは全て救いのことであります。


ですから どの言葉をとっても “救い” は私たちにとって大切なことですが、人々はそのことに対して どのような反応をしているのかと言えば、ピンと来ていないです。


ここで1つの質問をしてみたいと思います。



1.あなたにとって一番重要な問題は何ですか?



「あなたにとって一番重要な問題は何ですか?」と聞かれたら、どのように答えますか?


色々な答えがあると思います。
ある人たちは「健康です。成功です。勉強です。携帯です。お金です。家族です。」など色々あると思います。

人は自分が一番重要だと思うことをいつも考え、目指し、また求めます。

聖書は、そのような姿を見て語ることばがあります。


【マルコの福音書8章36-37節】

人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。

自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

イエス様が語るのは肉体のいのちではなく、永遠のいのちのことを語っています。


全世界よりも永遠のいのちの方が重要であるのに それらに関心がなく、人々は消えていくものばかりに関心があります。

ですからイエス様は このようにその人たちに語りました。


さらに質問があります。


≪ 今の人生に対してどう思いますか? ≫


このように質問をするならば、人々は色々な答えを言います。

「何の問題もなく楽しいです。」、「まあまあ満足していますので救いは別に要らないです。」
またある人々は「むなしいです。不幸でつらいです。死にたいです。消えて楽になりたいです。救いなんかあるわけないでしょう。」

このどちらの答えも、救いは私とは関係のないものだと思っています。
救いを受ける真理に関心がありません。


ですから福音を聞いても「やめて。私は聞きたくないから。救いなんか私にはどうでも良いことだ。」

教会に来てくださいと誘っても「入りたくない」と言います。



2.自分に対してはどう思いますか。死んだ後は?



自分たちで好きな神々を作り それを信じます。

「自分に対してはどう思いますか?」と質問をしても、言い訳のようなことを言って自分は知恵ある者だと思って「聞きたくない」と言います。

死後のことは哲学ではないので、哲学者の思想を聞く必要がないです。
あなたは何者ですか?それこそ己を知ることがどれほど大切であるか分かりません。


ここでも色々な答えがあると思います。
「私は罪を犯したことがないです。」「私は良い人だと思います。」「私は今まで真面目に生きてきました。」と自慢をする人もいます。


しかし、“あなたは一体誰ですか?”と聞かれた時に、本当の自分の姿は『罪人』であります。

自分の目で 自分を見ても分からないと思います。


「懲役○年生きてきた」、「執行猶予を受けた」という人だけが罪人というわけではないです。


もしも「私は生まれてから一度も罪を犯したことがない」という人がいるなら、その人は世界中で1番の嘘つきであります。


私たちは数々の罪を犯して生きてきましたが、罪人という認識がないだけです。


私がイエス様を受け入れたのは、初めて自分の心に響いて来た主の声を聞いた時でした。
「あなたは罪人ではないのか?」という声を聞き、私はびっくりしました。

もちろん 悪いことは1つもしていないとは思っていませんが、罪人という認識がまったくありませんでした。
それまでも教会へ行ったことは何度もありましたが、賛美が良いとか雰囲気が良いとか、本当に見物人でした。自分の事など分かっていませんでした。
「あなたは罪人ではないのか?」という声は、私をあわれみ私を救おうとした主の導きでした。


そしてなぜか分かってきました。自分が罪人であることが。それで涙が溢れ出て30分以上も泣き続けました。
その後に私はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れました。
そこからの私の人生はものすごく変わって「この神様は私にとって1番」という想いになりました。


【ローマ3章10節】

義人はいない。ひとりもいない。

これは神様から見た時に、「罪がないです。」と言える人は1人もいないということです。


【ローマ3章23節】

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

「私は罪を犯していません。」と言うなら、神様はその人が産まれた時から今までの行動をすべて見ていますので、
その姿を神様がパノラマのように見せる時に大恥をかくと思います。

私たちが罪に対して鈍かったので、罪を罪とも思わなかっただけであります。


すべての人間は罪人です。
そして、この罪が私たちにもたらす結果があります。次の箇所です。


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。

ここでの「死」とは、神様から引き離された永遠の死であります。
死んだら「無」になることではなく、死の地獄で永遠に苦しむという報いであります。


例えば、人を何人も殺した殺人者が捕まり 裁判を受けたとします。
もし裁判官がその人に「あなたは懲役1年です。」と判決するならば人々は何と言うでしょうか。
「それはおかしい。何人も殺したのに1年は軽すぎる。もっと厳しくしないといけない。死刑にしなければならない。」と怒るでしょう。


犯した罪が軽いか重いかという以前に、罪から来る報酬は死であります。
それは自分が刈り取らなければならないのです。

神様の前に立った時は 私たちもそのような姿です。そして神様の前に立つと裁判が行われます。
その時は自分たちが考えていた以上に違反行為が出て来ると思います。


神様が最後に「あなたは死だ」と言うならば、永遠の死を受けなければならないのです。

「そんなこと分かるはずがないでしょう?」と言う人たちがいるかも知れませんが、聖書には変わらない真理があります。次の箇所です。


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

1度死ぬことに対しては誰も反論ができないです。なぜなら生まれた人間は必ず死ぬからです。
それは議論する余地もないです。

しかし、その後のことには考えない人が多いです。
「死んだら終わり」と言うのは―― 果たしてそうでしょうか?


肉体が死んでから神のさばきがあることを語りました。この死後にさばきを受けることの方が恐いのです。
なぜなら、地上よりも死後の世界の方が、永遠に続く世界だからです。人々はここで一番つまずきます。


死後の世界は、夢ではなく、現実の世界であります。


人々は「死んだらすべてが終わりだ。死んでみないとわからない。そんなのよくわからない。考えたくもない。」
日本では「死」という言葉がタブーになっています。誰もが必ず死にますが、それについては触れないです。
しかし生まれることについては すごく喜びとしています。

「死についてのことは何も言うな。聞きたくない。そんな話はしたらいけない。」と言います。


しかしキリスト教では、それがすごく大切なことですので、私が牧会する教会では死に対してもたくさん語ります。
なぜならそれが現実であり、その後の世界は実在するからです。



3.罪人たちが救われる道はありますか?



地獄へ行っている人たちは、私たちが想像も出来ない苦しみを受けています。


イエス様は地獄が実在することを私たちに知らせたいので、神様からの特別な恵みで信徒たちに地獄を見せることがあります。地獄にいる人たちがイエス様に向かって同じ言葉を語ります。

地獄の炎の中で苦しんでいる人々が叫びました。「ここから出してください!地上に1分でも良いから、1秒でも良いから出してください!」

そして彼らは「私たちが出たら必ず悔い改めてイエス様を信じます!地獄から出られたら何でもします!」と願います。


信じなかった人々、地獄なんか存在しない、地獄に行っても別に構わない、と言った人々が、実際に耐えられない地獄におちると それが彼らの現実となります。


イエス様は「それはできないんだ。もう遅い。人間は生きている時だけチャンスがあるんだよ。」と語ります。


「私は地獄へ行っても構わない。行ってやろうか?地獄の方が私には相応しいかも!」と言うのは、地獄があることを信じて語る言葉ではなく、皮肉で語る言葉です。そんなことがある訳が無いでしょう?という思いです。




もともとサタンは、御使いが堕落してサタンになりました。
御使いはもともと神に造られたものなのに、御使いが「神になろう」と神の権威に挑戦をして滅ぼされました。


アダムとエバが堕落した理由も同じです。
サタンが近づき誘惑し、「善悪の知識の木の実を食べたら、あなたたちも神のようになる」という言葉を使いました。
サタンは “神のようになりたい” と思い、サタンが人間を誘惑した時も “神のようになれる” と言いました。


日本でよく言われる “仏になるんだ” という言葉は、人間として生きてきた者は死んだら “神になる” ことを指しているのです。

これはサタンの思想であります。自分たちの思いと語る言葉が「神のようになりたい」という高慢な思いです。
人間が神に生まれ変わるはずがありません。

しかし、サタンはそのような思想を人間の思いに入れるのです。

真理の言葉には耳を傾けないのに、自分たちの都合の良いようにそれを信じています。


罪をたくさん犯した者が 聖い神様になれるわけがありません。




先ほども言ったように、罪人として死ぬならば永遠の死を刈り取ることになります。

すると私たちは「罪人たちが救われる道はないのですか?皆が地獄に行くしかないのですか?どうせ地獄へ行くなら、自分の欲のままに生きても良いじゃないか」と思います。

しかし真理を知ると悟りが来ます。
神様は1つの救いの道を用意してくださいました。


天国への道は 1つであります。この たった1つの救いの道を信じるならば救われるのです。


世の中には多くの宗教があります。それらの宗教が語る言葉と、キリストが語る言葉の違いを1つ伝えます。

世の中のすべての宗教は「善行をすれば、その行いによって極楽へ行く」など 必ず “行い” のことを語ります。
「たくさん捧げたら…」、「たくさん良いことをすれば…」
これはカトリックでもイスラム教でも仏教でも言います。


しかし、今回の聖書テーマ箇所で≪ 行いによるのではありません ≫と書かれていました。

どんなに良い行いをする努力をしても救いを受けることはないのです。


例えば、良いことばかりをしてきた善人がいたとします。

しかし、その人がある時に誰かを殺してしまったとします。
裁判に掛けられた時に「私の人生を見てください。私は今までずっと真面目に生きました。他人にも良いことをたくさんしました。ですから、このたった1つの殺人を犯した罪を許してください。私は本当に何十年も良いことをしてきました。」と言ったとすると、

裁判官は「分かった。あなたは1つ悪いことをしたが、今までは良いことをしてきたので罪は無いことにしよう。」と言うでしょうか?絶対にそうはならないです。

裁判官は「今まで良いことをしてきたのは分かった。だが殺人は罪であるから あなたは刑務所に入らなければならない。」と言うでしょう。


罪はあくまでも「罪」なのです。
良い行いは「良い行い」としてありますが、その良い行いによって 罪が消されることはありません。


このように人間の努力では罪を消すことが出来ないので、神の方から提示しました。
その提示が、救い主イエス・キリストを信じることでありました。


【使徒の働き10章42-43節】

イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

イエス・キリストの十字架には、私たち罪人のために代わりに罪を負って死んでくださったという意味があります。


本来ならば私たちが死ななければならないのに、(私たちが神の御前に立った時に)イエス様が出てこられて「この人の罪をわたしが背負います。わたしがこの人の代わりに死にますので、どうかこの人を解放してください。この人の罪を赦して下さい。」と言うならば身代わりになるということです。

それによって私たちの罪が赦されるということを主が語ってくださいました。


イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。


救いの道、神様の国が救われた人たちの行くところであります。
しかしそれはイエス様の十字架を通らなければ入ることが出来ないとはっきりと言われました。


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。 天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。」

世界のあちこちで「ここに救いがあります。」、「ここにも救いがあります。」と言います。
それなのに、どうしてキリスト教だけが救いがあると言うのですか?それはおかしいでしょう?と反論をします。


その人たちに私たちが示さなければならないことは、「あなたたちの信仰の教祖が、あなたの代わりに死にましたか?その人は神から出た者なのですか?その教祖も罪人なのに誰がその罪を背負うのですか?」


教え自体は良いかも知れないです。ですが 私たちはその教えのことを言うのではなく、「本当にその教祖があなたの罪をどのようにしたのですか?」という部分です。

罪が赦されていないと私たちは地獄へ行くしかないのです。


ですから どんなに教えが良いものであっても、真理ではないです。
それを私たちは言わなければなりません。


救いは神が決めたことを信仰によって受け入れる時に神からのプレゼントとして与えられます。

私たちは信じることだけで、その代わりに何かの代価を払う必要もないです。
「キリストが私のために十字架にかかったことを信じます。」という1つの言葉だけで救いがあるのです。


しかし、世の中の人々の「ふーん。そんなことで救われるの?」と言う人たちに語る言葉があります。


【Ⅰコリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

「何もせずに、そんなにすごいこと(救い)を受け取れるなんておかしい」と言います。
なぜならば、今まで散々「良い事をしなければ、努力をしなければ…」という行いが強調されて聞かされてきたからです。

私たちは生きているうちに救いを受けておかなければならないです。


赤ちゃんは母の胎内にいる時に男か女か性別が決まります。生まれてから決まるのではないです。
それも親が性別を決めることはできなく、神様が既に胎内にいる前から決めています。


これは何を意味しているのでしょうか ――?


私たちが地上で生きている時というのは、胎内で生きている命と同じであります。そして胎から出た時に救いを受けていたか受けていないかによって、そのたましいの行く所が決定されます。

ですから私たちは地上にいる時に、自分で行き先を決めなければならないということです。


自分が今 天国に向かって歩んでいるか?それとも地獄に向かって歩んでいるかをよく考えて下さい。
地上にいる時に、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを受け入れ、日々主と共に歩むならば神の御国に入ることができます。


私たちはいつ死ぬかは分かりません。神様は今が恵みの時、救いの時だとおっしゃいます。

地獄へ行って一番びっくりするのは本人であります。

「実際に地獄があることを知っていたならば、生きていた時にキリストを信じれば良かった」と実感すると思います。


また、口先だけで「信じます。」と言えば良いのだと錯覚をしてはいけないです。


救いの内容がどのようなものであるのか、自分が罪人であることをはっきりと知り、「キリストが私の罪のために既に十字架にかかって死んでくださり、 この方以外には救いがないということを私は信じます。受け入れます。そして感謝します。」

このように理解をして信じないと意味がないです。


自分の命の恩人が誰なのかも知らないで、どのようにして自分が救い出されたのか、救いがどういうものなのか、自分の正体がどんな者であったのかも知らず、 教会に来ているから救われていると思うのは とんでもないことであります。

何十年教会に通っていても、自分の受けた救いが何なのか よく分からない人たちもいます。

ですから、私たちは正しく みことばを通して知らなければならないです。 ( ̄‥ ̄)=3

2014.7.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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死んだ行いを悔い改める

テーマは 『 死んだ行いを悔い改める 』 です

【ヨハネの黙示録3章1-6節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『 神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」 』

サルデス教会に送った神様の啓示の言葉は厳しい言葉であります。

今の時代、私たちは本当に聞かなければいけない言葉だと思います。

この箇所を読んで何かを感じることはありますか?
彼らは教会に属して信仰生活をしています。しかし、悲劇的な姿であります。神様が喜ぶ姿ではないです。
神様に叱られている姿であり、悲しい姿であります。


彼らの中で一番悲劇的なのは『福音から離れた生活を行っていること』であります。

私たちは 福音に出会ったので救われました。


イエス様がどのようなお方なのか、なぜイエス様が十字架にかかって死んでくださったのか ――?
私たち罪人がそれを見て「私の罪のために死んでくださったのだ」、「救われる為には十字架に架かってくださったキリストを信じなければいけないのだ」、
「自分が犯した罪を悔い改めなければいけないのだ」と、私たちが罪から離れて自分の罪を悔い改めて イエス様を受け入れて 信じました。

信じたということは、魂が救われたことを意味するのです。


私たちが福音を受け入れたならば、その後はどうでも良いかと言うと決してそうではないです。
その時から本当の信仰生活がスタートするのであります。
生まれ変わった時から、私たちは生まれ変わった者として生きていかなければならないです。

もし 再び死んでしまうならば、どうやって救い出すことができるでしょうか?


サルデス教会の人たちは死人の方が多かったです。多くの中、生きている人は幾人しかいないということでした。
これは教会の姿なのです。イエス様は黙示録で 世の中に対してではなく、教会に対して警告を与えておられます。

「救われたから あとは天国に行けるし安心だ。」 このように思うのは、とんでもないことです。
もし教会の全員が天国へ行けるならば、このような啓示の言葉を教会ではなく まだ信じていない世の人に向けて神様が語ると思いますが、そうではないです。
すべて教会に教えています。



神様が語る言葉は「悔い改めなさい」、「目を覚ましなさい」であります。これは私たちに対する言葉です。
「終わりの時代なのに、まだ寝ているのか ――?」、「あなたは罪の中にどっぷりと浸かっているのか ――?」

福音から離れた生活をするということは、死んでいる状態であります。


福音を受け入れた人は、その時から信仰生活は福音の中に根を深く下ろして、そこから成長をして実を結ばなければいけないです。

根がないのに 実を結ぶことはないのです。私たちは「御霊の実」を結ばなければいけないです。

しかし、福音から離れて 世に根を下ろしている人たちが御霊の実を結ぶのは、有り得ないことであります。



教会の中で信徒たちの姿を見ると、同じ神様を信じて 同じメッセージを聞いて 同じ場所で礼拝を捧げているのに、
ある人たちは福音の力がすごくあります。実をどんどん結んで変化をしています。そして神様が喜ぶ姿に変わってきています。

しかし、ある人は力が全然ないです。クリスチャンであるにも関わらず 無気力で力がないです。
ある人は「私 本当に救われているのかな?」と 確信がないです。


「私、天国に行けるのかな?私、地獄に行くのかな?」 また、ある人は「私は地獄に行くと思います。」と自分で言う人は 地獄へ行くと思います。
「私は まだ救われていないかも知れません。」と自分で言う人は、その人はまだ救われていないのです。
自分の中で確信がないならば まだ救われていないのです。そのことに気付かなければいけないです。






神様は、自分の子どもたちを無理やり地獄へ送りたいとは思っておられません。

イエス様が血を流して代価を払い買い取られた者が堕落していく姿を見た時に 神様はどれほど苦しいでしょうか――?
地獄へ向かっていく人たちを見て、天の父なる神様は 大きな声で一言 次のように語ります。「悲しい ――。」
神様の胸が潰れるような思いであります。


イエス様は色々な人たちを地獄へ連れていき、地獄の姿を見せますが イエス様はそこで泣いておられます。
そこで苦しんでいる魂を見て、憐れみの心で涙を流しています。

そういうことを聞くと人々は「イエス様に憐みの心があるならば、そこで叫んでいる魂や“悔い改めます”と言っている魂を救い出せば良いでしょう?」と言います。
しかし、それは神様の公義ではないです。


イエス様はみことばで はっきりと語りました。
へブル書に「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」という言葉があります。
それを私たちは聞いています。特にクリスチャンであるならば 礼拝がありますので みことばを聞いています。それなのに なぜ化石のような状態になったのでしょうか。

なぜ無気力なクリスチャンになってしまったのでしょうか。なぜ死んでしまったのでしょうか。
これはすごく問題であります。


これは誰のせいでしょうか――?

自分自身のせいです。
自分が福音の中に根を下ろしていないので、神様を信じていても(自分で)好きなように生きています。

みことば中心に生きるのではなくて、自分がしたいように生きています。神様の言葉がもはや その中には存在していないです。


そして 一番の問題は、祝福を与えてくださる神様なので きちんと(祝福を)用意してくださっていますが、
神様を信じる目的が「自分の問題を解決して欲しい」、「病気を癒して欲しい」、「祝福して欲しい」、「私を天国に行かせて欲しい」など、それだけの思いで神様を信じるならば偶像崇拝と何ら変わりがありません。

世の中の人たちが神社やお寺へ行って拝む理由は何でしょうか?
祝福して欲しいからです。「地上で生きている時、私を祝福してください。この問題を解決してください。私の病気を癒してください。」


このように彼らは拝むのですが、クリスチャンが神様に対しても同じで、神様に祈るのが自分の祝福のため、欲しいものを手に入れるため、問題が解決されて欲しいという思いだけならば「偶像崇拝」です。ただイエス様の名を呼ぶことだけが違うことで、それでは神様は喜ばれません。
神様は「わたしを利用しようとするのか。」とおっしゃいます。これはとんでもないことであります。




悔い改め



地獄に落ちる理由は、悔い改めて新しくなる姿がないからです。

私たちは神様を信じるということは、何のために信じるのかを明確にしなければならないです。


皆さんは何のためにイエス様を信じていますか?
ただ単に この世で自分の願いが叶えられて 欲しい物を全部手に入れて 贅沢に生活をしたいためにイエス様を信じているのでしょうか?
もし そうならば、とんでもないことです。

私たちが福音を信じるということは、何を食べるか何を飲むかの問題で信じるのではないです。
“生きるか死ぬか”の問題であります。


福音は生きるか死ぬかをはっきりと分けるのです。
イエス様は「悔い改めて立ち返り 信じる者は救われる。信じない者は永遠の滅びである。」と語りました。
そのことを知らない人はいないと思います。

この言葉を信じて、もう滅ぼされたくないという思いで信じていますが、自分は命の道を歩いているのか?それとも相変わらず世と仲良くして
この世の霊に満たされて 妥協をしながら生きているでしょうか?


神様は今回の本文の中で「いのちの書から消すようなことは決してしない。」と書かれていますが、ある人たちはこの5節のみの言葉を取って「一度救われた人は決して いのちの書から名前が消されることはない。」と断言をしていますが、とんでもない間違いです。

これには神様の条件があります。
「勝利を得る者」と語りました。勝利をした人の姿は4節に書かれています。
死人が多い教会の中で幾人かの人たちだけが名前を消されないということであります。


その他の死んでいる者たちや 寝ている者たちに対して語った言葉は、「盗人のように来る」と語っています。
この意味は、神様はもともと盗人ではないです。盗人はサタンです。サタンが来る目的は盗む、殺す、滅ぼす です。
魂を盗むのです。そのため肉体が死に、永遠の滅びに至ります。つまり地獄に落ちるということであります。


神様が盗人のように来るということは、その者を神様が迎えに来るのではなく、イエス様が来る時は裁きの為で、 再臨は救いの為に来るのではないです。
世の終わりであります。すべてのものが終わりです。


その時に神様は勝利した者たちの魂を守ります。

しかし、霊的に死んでいる人たちや眠っている人たちは滅びていくのです。
その人たちにはサタンが飛びかかり、連れて行くところが地獄であります。


サタンも不思議な業を行います。サタンも病人を癒します。サタンは死人を生き返らせることも出来ます。人の人生の中でサタンはいくらでも働きます。
サタンからそういうものを受けて 安心している私たちの姿を見て、サタンは一番喜びます。

安心をしていると自分を顧みることをしないからです。
今、私は神様のみこころに従って生きているのか?と 自分を点検することをせずに眠っているのです。


ダビデが罪を犯して悔い改めていなかった時に、神様は預言者ナタンを遣わしました。
ダビデは預言者でもあり 王様でもあるのです。すごく神様に愛された者であります。
しかし、罪を隠して悔い改めませんでした。

神様はナタンを遣わしましたが、ナタンは行きたくなかったと思います。殺されるかもしれないからです。
王様に言うのは難しいと、それも隠れた罪を告げるのはとても勇気が必要であります。
それでもナタンは遣わされて行き、ダビデに はっきりと語りました。


ダビデの素晴らしいところは、その言葉を受け入れて その場で神様の前に出て灰をかぶり悔い改めをしました。
もし彼が悔い改めなかったならば、たとえダビデであっても地獄へ落ちたと思います。


神様が「いのちの道は狭く険しい。その道を歩む者はまれである。」と語りました。
これはクリスチャンだからと言って、「私、教会に通っています」ということだけで皆が天国に行くことはないのです。それは錯覚であります。

私たちは福音の中に根を下ろして生活をしなければいけないです。

信仰が強い者と信仰が弱い者の根本的な違いは、“十字架を経験したのか、十字架を経験していないのか”であります。


イエス様に出会い、イエス様が架かった十字架が誰のためであったのか? イエス様がなぜ そこで血と水と汗を流して ご自分の命を捧げたのか?
それは あの隣人のためでしょうか――?それとも、あの罪人のためでしょうか――?
これは あなたが十字架を経験していないことになります。


私のような罪人のために十字架に架かり、十字架の前でイエス様に申し訳ない気持ちで涙を流し、そうする中で自分の魂を救ってくださったイエス様に対して
「私は一生イエス様から離れません。恵みを忘れることはしません。」とイエス様と共に毎日 十字架を経験しながら生きる人は 最後まで大丈夫です。


そのような人たちは、イエス様が自分の罪のために十字架に架かりましたので 罪を軽く考えないのです。
「私がまた罪を犯すならば、それはイエス様を十字架につけることになるのだ。」と考えます。




クリスチャンへの裁き



クリスチャンに対して神様の裁きが厳しいのは何故でしょうか?


イエス様が十字架を背負って歩いた時に、エルサレムの神殿を見て泣きました。
これは教会を見て泣く姿であります。

教会が「私たちは神様に仕えています。立派な教会があります。律法を守っています。毎日行いをしています。」と言うのを聞き泣いておられます。
イエス様が泣く理由は、堕落しているからです。


神様のことを知っていると言いながらも、本当は知らないのです。
みこころのままに歩いておらず、クリスチャンが今 罪を犯しているならば
その人たちは日々イエス様を十字架につけています。ですから罪が厳しいのです。

裁きも教会から始まります。つまり、そこにいる信徒たちから始まるということであります。


地獄へ行った人たちの 色々な証を聞いていますが、全員が共通して言うことは、「地獄にクリスチャンがたくさんいた」ということです。牧師たちもたくさんいました。



―― 地獄の証 ① ――

ある南米の女性が イエス様に地獄へ連れて行かれた時に 火が燃えている場所や許さない心を持っていた人が入る場所を見ました。
そこでイエス様が「あなたはどちらに入るのかを選びなさい。」と語りました。彼女が驚いて「それはどういう意味ですか?」と聞きました。

イエス様が語った言葉は「ここは他人を絶対に許さない人が入る場所である。あなたの心の中に未だに許していない人がいるだろう?」とおっしゃいました。


神様は私たちに言いました。
「あなたが人を許すならば、天におられる神様もあなたを赦す」と語りました。

しかし、クリスチャンではありますが いつまでたっても「あの人だけは死んでも許しません!」と言うなら、この地獄があなたを待っているということです。


それで彼女が瞬間的に思い出しました。
彼女は長い間 祖母に対して憎しみの心が消えることがなかったのです。
もし祖母を許さないならば、自分はこの場所に来るのだと分かったので、その場で祖母を本気で許しました。

1人を許さないだけで、永遠に出られない恐ろしい地獄の火の中で(全身の)肉が落ちて苦しみ叫び、悲鳴を上げる暗闇の世界に自分は行きたくないと思いました。


聖書の言葉には従順しなさいということが書かれています。
私たちがこの1つ1つの言葉に不従順するならば、天の御国には入れないです。

不従順するということは、神様に敵対して生きるということであります。不従順はサタンからくる霊であります。



―― 地獄の証 ② ――

また他の人の地獄の証では、ある教会にいる信仰の良い信徒が亡くなりました。

誰もが「あの人は本当に素晴らしい信仰生活をしていたから、イエス様のところへ行って素晴らしい報いを受けるだろう。」と思っていました。

しかし、何と地獄で見つけたのです。
その姿を見てあまりにもびっくりしました。


「イエス様。あの人は生きている時に イエス様のことをすごく愛していました。イエス様からの言葉も“わたしも彼女を愛していた”でした。彼女は神様にたくさんのものを捧げました。彼女は素晴らしい働きをしました。素晴らしい信仰をもっていました。」とイエス様に聞きました。

これらの1つ1つのことに対してイエス様は知っておられて「彼女はそのようにした。しかし彼女は悔い改めなかった。」と言いました。


「何を悔い改めなかったのですか?」と聞くと 神様が見せる場面がありました。
彼女が生きていた時の普段の生活を見せてくれました。


彼女には1人の親しい友人がいました。
友人は病院に勤めていて薬を処方する担当をしていました。
彼女は病気を患っていて、ずっと飲み続けなければいけない薬があり、その薬代が高いので、彼女は友人にお金を支払わないで薬を得る方法を見付けました。

病院の受付時間内ではなく、誰もいない時間にその薬を貰っていました。
これは友人がさせたことではなく、その人が頼んだことでした。
本来ならばきちんと料金を支払って薬を得なければならないのですが、お金を払うのがもったいないという思いが働きました。


神様は 彼女が初めてそれを行った時に、心の中に「それは罪なんだよ。」という思いを入れました。

しかし、彼女は「あ、これは神様からの思いではない。」と考えました。
彼女の中での罪の認識は、人を殺す・盗みなど十戒に書かれているようなものであって
今回のことは合理的に考えました。「少しくらい貰っても」という思いでした。この罪を彼女は小さく考えました。

「私は主のために いっぱい働きをしていて、神様を愛しているし、信仰生活もまともにしているし、貧しい者もたくさん助けたから、地獄へ行くことは考えられない」と思っていました。


(神様は)警告を与えましたが「いや、これは大きな罪ではない。こんな罪で地獄へ行くことは有り得ない。」と ずっと思っていました。
神様の警告を「これはきっと私の考えだから、もう考えないことにしよう。」と死ぬ時まで これをやり続けました。

つまり死ぬ時まで泥棒をしていました。
そして それだけではなく、友人までも罪をずっと犯させ、もう1人の魂も罪人にさせていました。
そして彼女は悔い改めることもなく亡くなりました。


悔い改めなかったので地獄へ来たのです。

それまでどんなにその人が神様の働きをしていても、悔い改めない者は地獄へ行きます。




姦淫



また、姦淫を犯すクリスチャンもとても多いです。

これをやめようとせず 平気に行います。たくさんの罪が相変わらず行われているのです。


これをその人たちは安心しきっているのです。
「私はクリスチャンだし、命の書から私の名前が消されることはない。」という思いであります。

ですから、その人たちが地獄へ落ちた時に 一番びっくりするのです。「何で私はここに来ているの?」と。
そしてイエス様を見た時に「イエス様!私の罪を赦してください!」と叫びます。


しかしイエス様は「もう遅い。」
「何度も何度もあなたに警告をしたが、あなたは聞き入れなかった。罪から手を洗おうとはしなかった。」と語りました。






私たちはいつ死ぬか分からないでしょう?

ですから、日々準備が出来ていないといけないです。
のほほんとしているのは寝ている姿であります。

本文の「あなたの行いを知っている。」とは(神様は)全ての行いを見ているのです。
その行いを見て「それでもクリスチャンか」と言います。


人を憎む。神様のものは盗む。赦さない。不品行を行う。あらゆる世の人が行う罪を全て犯していながら 日曜日が来たら 教会でメッセージを聞いて、そしてすぐに忘れて あとは好きなように この世と仲良く生きています。


そうしながら自分が天国へ行くと思うのは錯覚であります。




福音を正しく伝えない



牧師たちが地獄へ落ちる一番多い原因は「福音を正しく伝えなかったこと」です。


「悔い改めなさい」という言葉を語らず、韓国の教会でも堕落をしている多くの理由は「天国も地獄も語らない」です。
「今は21世紀なのに天国とか地獄とか、そんなことを言うのは無知な者が言う言葉でしょう?」

このように一番大切なものが教会で語られずに「この世で祝福を受けましょう。」という言葉に皆が飛びついて「権力と富を手に入れましょう」とメッセージをします。

神様はそれを見て「それはあなたの魂を滅ぼすものなのに、それを求めるのか。」と語ります。


私たちが神様を信じるということは、区別された生活をすることであります。
この世の流れに従って生きるのではなく 私たちをそこから離して生き方を変えていかなければいけないです。

クリスチャンであるのに、口が悪い。他人を裁く。妬み 憎しみ 高慢 これらが身体に付いていると、いつの間にか汚れた衣になっていきます。
臭いがプンプンしている汚れた衣を着ている人を、神様は天国に入れるわけがないでしょう。


悔い改めるということは、その汚れた衣を綺麗に白く洗うことなのです。


黙示録で褒められた教会では悔い改めの言葉がないですが、非難された教会のすべては「悔い改めなさい」という言葉でした。

悔い改めが足りないということは、自分の罪に対する認識が足りないということであります。


これは毎日 十字架を経験していない姿です。十字架を見るならば、自分が犯した罪を思い出すのです。
「今日もこの罪でイエス様を釘つけてしまいました。主よ、本当に申し訳ありません。私の罪を赦してください。」
十字架を見て悔い改めないならば、何なのですか?
十字架の上で苦しんでいるイエス様を見て、「お金をください」「病気を癒してください」と言えるでしょうか。


十字架に架かったイエス様を経験することは、「そこで死ななければならないのは私なのです!罪人である この私なのです。」このように ひざまずいて悔い改めなければいけないです。

言葉だけではなく、毎日の自分の生活が 主に立ち返ってイエス様を見て生きないといけないです。
そして自分の中の小さな罪も、ガン細胞のように 後で私を滅びに落とすのだという怖い思いを持たないといけないのです。


もし自分の体にガン細胞を見付けたとしたら、小さいからと言って無視をしますか?「まだ小さいから病院に行かなくても大丈夫だ」とは誰も言わないと思います。
「小さいうちに見つかって良かった。早く病院へ行ってそれを取ろう」という思いになるでしょう。
お金をたくさん使っても診察へ行くと思います。それをそのまま放置することはないと思います。


それなのに、自分の魂に対しては 関心がないです。

その罪が自分の足かせになって、自分を永遠の滅びに陥れているのに、罪を捨てるどころか、
罪を楽しみながら、罪を増やしながら全身ガン細胞で蝕まれています。そうしたら死ぬしかないのです。




魂に対する準備



神様は 時はいつなのか、今は終わりの時であります。

地震が起こることは災いであるのです。

ある幻が開かれた人は、世界各地へ神様が連れて行き その国を見せるのです。
ソドムとゴモラを見た時に神様は何をされましたか?
同性愛で本当に汚れているので火をもって滅ぼしました。


日本でも、地震が起きるとずっと警告があります。先日も地震がありました。
これは神様が警告をしていることなのです。


私たちは準備をすることはもちろんですが、魂に対する準備は出来ているでしょうか?

私たちは地上でたくさん欲しいと求めていますが、これは肉の目で見るから地上のものを一生懸命集めようとします。しかし、もし私たちが神様の目で見るならば、考え方が180度変わると思います。

180度変わることで、「あの時に 私がもっと霊的になれば良かったのに。あの時にもっと神様に捧げたら良かったのに。あの時 もっと主のために仕えたら良かったのに。あの時に もっと信仰生活をきちんとしておけば良かったのに。」と、全て逆になります。


肉の目で見るなら、「地上のあれも これも欲しい。もっと欲しい。」と まるで永遠に地上で生きるかのように食べますが、神様の目から見たら、神様と私たちの思いは天と地ほどの差があると言います。

神様は霊的に見ているので、私たちの霊的状態を見ておられます。
そして「何と貧しい者であるのか。何と堕落しているのか。何と汚れた者であるのか。」

もし私たちが上から(自分自身の状態を)見るならば、自分の姿を見て飽きれると思います。


「何をしているの?服が汚れているよ!洗いなさい。今、あなたはサタンと仲良くしているよ。どんどん地獄に近付いているよ。早く立ち返りなさい!もっと神様に喜ばれる者になりなさい。」と、霊の目で見るならば、私たちはきっとそのように言うと思います。

神様が一度救われた者は、何をしても どのような罪を犯したとしても天国へ行けるというのは 間違えていると教えています。


聖書には「悔い改めないならば」という言葉がたくさん出てきます。

盗人のように来る、暗闇の中に落とされる、外の暗闇で歯ぎしりする、大きな艱難の中に投げ込む、火の中に投げ込む、「主よ、主よ」と言うものが皆天国に入るのではない。
この言葉を (多少 罪を犯しても天国へ行けると安心している人は)どのように解釈をするのでしょうか?


聖書全体の言葉、主のみこころは何か、悔い改める者に対する神様の恵みはいつでもあります。

しかし、悔い改めることをせずに それを軽く考えていつまでもそこに留まっているならば、いつの間にか罪によって その人を飲み込んでしまいます。

天国は罪人が入れないところであります。


死んだ行い、死んだ自分の心、死んだ信仰生活を悔い改めなければいけないです。


私たちの中に様々な問題を よく考えると神様と自分の関係が悪いと問題が消えることはないです。

この世にどっぷり浸かって生活をするならば、サタンが絶えず問題を持ってきます。
私たちを滅ぼし盗むために、そして私たちが死んだ時に誰よりも早く来るのはサタンです。


神様にたくさん仕えた人たちや、神様がいのちの書に名前を書いている人たちは、死んだ時に悪魔は来られなく、御使いたちが迎えにきます。
しかし どっぷりと罪の中で生活をしていたクリスチャンには、御使いが来ないです。悪魔サタンがその人の肉体から魂を奪い取って地獄へ連れていきます。

また 中途半端な信仰生活をしている人は、御使いとサタンが来て戦います。「これはわたしのものだ」とサタンが主張をし、御使いも「わたしのものだ」と言います。
そこで霊的戦いが起こります。


私たちが想像できないほど地獄は苦しみの場所であります。
すべての感覚が残ったまま 地上では有り得ないような拷問を受けて暗闇で悲劇的な目に遭います。


一番厳しい裁きは何だと思いますか?
神様から切り離され、神様がその人から目を逸らして 断絶された裁きが一番厳しいのです。

神様は私たちの いのちの主であります。その神様が私たちの命に関心がなくなり、助け主ですが もう助けることをしなく、私たちにとって希望ですがそれも神様がしない者に一番厳しい裁きがあります。


ですから地獄にいるその人たちは 必死にサタンに助けを求めますが、サタンは助けることをしないです。
イエス様がたまに訪問すると 魂が助けを求めてきます。しかし地獄から出た者は誰一人いません。そこに来ている人がそこから出て自由を得ることは有り得ないことであります。

天国に入っても同じことです。完全に死んだ人がその所から出たり入ったりすることはないのです。


天国と地獄を「(自分で)見てみなければ分からない。」と言うのではなく、見た時は既に遅いのです。

私たちクリスチャンにとって 天国が一番の希望であります。地上でいくら苦しい生活をしていても天の御国を本気で信じている人は希望があるのです。


悔い改めて「神様、私の魂を守ってください。私を苦しみのないところに導いてください。」と福音の中に深く根を下ろして神様に頼り みこころを行いながら天国に望みを抱き 生活できるように導いてくださいと 毎日自分の力で生きることが出来ないのでイエス様の力を求めるのです。

神様は何もかも知っておられます。そして私たちが今のままで良いのかを考えることであります。
もし今 神様が自分を呼ぶなら天国へ行けるのか ――? 行けない人たちもたくさんいるのです。

ですから神様が「目を覚ましなさい」とおっしゃいます。


このメッセージは神様が伝えて欲しいメッセージであります。


寝ているでしょう?―― 起きなさい。
死にかかっているでしょう?―― 生きなさい。
罪を罪とも思っていないでしょう?―― 悔い改めなさい。


教会へ行くのもイヤだ。神様を信じるのも面倒くさいと言っていたら、それが後になって自分の首を絞める言葉になります。自分で自分を地獄へ落とすことになります。


イエス様が「地上では辛いこともある。苦しいこともある。」
しかし私のいのちの主が私たちのために33歳で地上を離れたイエス様、苦しみを受けたイエス様を悲しませるのではなく、その恵みの中に留まる必要があります。 (・◇・)ゞ

2014.3.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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すべての事について…感謝❤

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あなたは誰ですか?伝道について

テーマは 『 伝道するために 』 です

【ルカの福音書15章3-10節】

魂を救う為に、伝道しなければならないということは知っていますが、
「どうやったら伝道できるのか?」と悩んでいる人が結構多いです。

神様が一番喜ぶことは、罪人が悔い改めて、主に立ち返ることです。

天国に喜びを与えるために私たちが人を導くのではないです。
救われた人たちは、まず救いがどういうものであるのかを理解しなければならないです。

【Ⅰペテロ2章9ー10節】

救いを受ける前と、救いを受けた後は、状態が変わったことをこの箇所で主が教えてくださいました。
救いを受けた人たちは、今度はそれを伝えなければならないです。
その使命を神様が私たちに与えてあります。
私たちは(世の人たちと)区別されていますが、私たちも以前はそこにいた者で、神様から救い出されました。
ですから今度は私たちが行って、その人たちをそこから救い出しなさいというのが神様が私たちにさせることです。

伝道をする時に、いくつかの方法があります。“語るべき言葉”です。


① 「あなたは誰ですか?」

この質問をするなら、びっくりすると思います。それで相手の人は名前を言うかも知れませんし、
自分が所属している名称を言うかも知れません。

ですが、本当の意味で あなたという存在は、何ですか?と聞くことであります。
質問を受けた人々は答えられないと思います。
自分という本質は何であるのか――?わからないと思います。
ですから、神様を求めないのです。救いが何であるのかがわからないのです。

聖書には、全ての人間はこういう者であると教えてあります。

【ローマ3章23節】

神様から見る私たちの姿は「罪人」であります。これは全ての人間に共通した部分です。
これを伝えなければいけないです。

「私が何の罪を犯したんですか?」と腹を立てるかも知れません。
その時に「神様があなたを罪人だと言っている姿はこの姿です。」と教える部分は、
人間だけは神様の姿に似せて造られたものですが、それは神様の栄光を現す為に造られた目的があります。

しかし、人間が神様の初めの言葉を無視して逆らいました。それが罪の始まりでした。
神様が人間を造った(本来の)目的通りではないです。

ですから神様の栄光を受けるに相応しくなく、栄光を現す事もできないのであります。
その姿が、神様の目から見たら罪人なのです。

すべての人間は汚れているので、罪とは言わないで「似た者同士でしょう~」と、
お互いの汚い部分は見ようともしません。

しかし、聖い神様の目から人間を見ると、誰もが罪人です。それを神様が教えてあります。

それでも「私は罪人ではない」と語るならば、その人たちの罪を見せることです。それが次の箇所です。

【ローマ1章19-32節】

この箇所に1つも当てはまらないという人はいないです。これらは罪の姿であります。
私たちはこういう罪を人々に見せなければならないです。


② 「あなたはどこに向かっていくんですか?」

私たちの人生はどこかに向かって歩いています。立ち止まった人はいないです。
永遠にこの世で生きる人はいないです。
どこかに行くのです。

それを相手に聞きます。
人によって「知りません。」、「天国に行きます。」、「死んだら【無】でしょう?」等と答えるでしょう。
しかし、それが真理でしょうか?
神様から出た真理の言葉はそうではないです。

【ヘブル9章27節】

どこに向かっていくのですか? ――神様の裁きの座に私たちは死んでから、まず向かっていきます。
そこに誰もが立たなければならないです。

「私は【無】になった方が良いです。」と言っても誰も逃げることができないです。
なぜなら、世界を造ったのは神様であり、法則を造ったのも神様であるからです。

自分は願っていても、これだけは避けることができないです。

【ヨハネの黙示録20章11-15節】 、 【ヨハネの黙示録21章7-8節】

いのちの書に書かれている人は、勝利者として神様の御国に入ります。
もう1つは、その人達の不信仰によって、数々の罪によって火と硫黄の燃える池の中に永遠に閉じ込められます。

ですから、「どちらに行きますか?」ということであります。あなたは、どちらに行きたいですか?
これは2つに1つで、その中間はないです。

もし「救いの道に行きたいです」と言うならば、そのまま(救いの道に)行くのではないです。
“みことばを通して神様は「そこに行きたいならば、こうしなさい。」と、あなたに対する解決策を
神様が持っていらっしゃいます。”と、次の箇所を伝えます。

【エペソ2章8-9節】

信仰というものは、神様の言葉を聞く事であります。
福音は悔い改めなしには無理なのです。私たちの信仰には悔い改めが必要であります。

救いは悔い改めなしには、救いはないです。悔い改める時にイエス様の血潮が注がれるのです。

現代の福音は間違ったものが多いです。教会でも悔い改める事を語らず恵みだけを伝えることは、
それによって魂は救われません。

信仰を見せるということは、罪を認めて立ち返ることであります。
罪人であると自分を認めることです。「私には救いが必要です。私を救ってくださるのは神様しかいません。」と
それが信仰であります。

【ヨハネの福音書3章14-16節】

【民数記21章4-9節】

自分の罪によって死んでいく者であっても、イエス様の言葉を信じて十字架を見上げるならば、
その人は生きます。
しかし、不信仰なまま神様の言葉を耳に入れないならば、その人はそのまま死にます。
ですから同じように蛇にかまれた者であっても、1人は生き、1人は死にます。
その違いは神様の言葉を信じたか、信じなかったか、です。

行いを良くするからと言って、罪が消されることはないです。
自分の汚れは、それを洗い落とさない限り汚れが付いたままです。
イエス様の血潮でないと、その汚れは絶対に無くならないです。

それが神様が用いた方法・解決策であります。

私たちは十字架がこういうものであるのだということを“民数記とヨハネの福音書”の聖書箇所で
知ることができます。
私たちは愛だけを伝えるのですが、それだけを伝えると十字架が見えてこないです。
罪人のためにイエス様が十字架に架かって死んでくださいました。


③ 「あなたはどうしますか?」

決断は私たちがするのではなくて、
みことばを聞いた人たち、解決策を聞いた人たちが選ばなければならないです。

あなたがそれを信じて、決断をするならば、こうなりますと次の箇所があります。

【ヨハネの福音書1章12節】 、 【ヨハネの福音書5章24-25】

神様はどんな時でも私たちがみことばを聞いて、信じて救われる事を望んでおられます。

救いは軽いものではなくて、本当に永遠の命を得るか、永遠の死を受けるか、一番大きい問題であります。

ある人たちは、平気に「地獄が良い」という人がいます。
それは地獄を見ていないから言えるのです。

この地上でも地震が起きたり、テロが起きている悲惨な場面を見ているだけでも、ゾッとします。
恐怖や不安でいっぱいになります。

だけど、それは地獄に比べたらある意味では大したことではないです。なぜならそこから逃れる道があるからです。

しかし、地獄というところは、どんなに逃げたくても逃げられなく、終わって欲しいと願っても終わらない世界です。
どうやって人間を常に苦しめようかと楽しんでいるサタンが取り囲んでいます。
燃える火に投げ込まれても、一度入れられたらどうにもならないです。

「天国はつまらなさそう」という人もいます。その人がそういう世界があることを信じないから言うのですが、
「本当に 本当に、そのような世界があったらあなたはどうするのか?」と
「死んでしまったらもう遅いよ!」と私たちはその人たちを責めなければならないです。
「それでも良いのか!?」と私たちは語るべきであります。

私たちは神様の素晴らしさを伝える使命があります。しかし、(私たちに)みことばが何もないのなら、
人々にただ「信じなさい」と言っても、その人達は何を信じたら良いのかわからないです。

なぜ信じなければならないのか、その意味もわからないのです。
ですから私たちは、みことばには力があるので順序正しく、「あなたはこういう者です。」
「あなたはどこに向かっていくんですか?」とそれを教えることであり、
そして「救いはこういうものであります」と自分の努力や行いでは救われなく、
どんなに拝んでも、良い働きをしても、それでは救われません、と

それを教えることであり、救われたらこういう素晴らしい状態になりますと私たちは伝えることであります。

始まりがあり、終わりがあります。中途半端に教えるのではわからないです。
罪人であることを教えない限り、悔い改めることはしないでしょう。
悔い改めなしに主に立ち返ることもないです。救われることもないです。

罪がないと十字架がいらないです。十字架が意味のないものになってしまいます。
ですから、十字架は何のためにあるのか・・・。
    → 「罪人である あなたのためにあります」。

神様はあなたが滅びに行くことを願わないです。1人も滅びに行くことを願わないです。
それで神様がそうしました、と。そして福音を伝えることであります。

これが伝道するということです。
私たちが正しいものを伝えない限り、正しい道に導くことはできないです。
今回のみことばは紙に書いてカバンの中に入れておいてください。

こういう伝道方法を用いて、魂を導いてください。 (・◇・)ゞ

2013.2.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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