からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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古い人から新しい人へ

テーマは 『 古い人から新しい人へ 』 です

【詩篇51編10-13節】

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、 あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

神様の恵みの中で生きていながらも 神様との関係がうまくいかない人たちが多く、恵みの中で生きながら神様への不従順のために罪責感をもって 生きているクリスチャンも多いです。

「神様を信じているのに、どうして平安がないのか?」というような経験はありませんか?


【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

クリスチャンとはこのような姿です。

しかし私たちは、新しくなった自分の中に、古い姿が相変わらず存在しているので 私たちは信じた後でも古い人の姿で罪を犯しながら苦しみながら生活をしています。


神様は、新しく生まれ変わった者は滅びていく古い人を脱ぎ捨て、心の霊において新しくされ、新しい人を身につけるべきだと教えておられます。

私たちはイエス様を信じた瞬間から、(私たちの)古い姿を思い出さなくなるでしょうか?
神様を信じているのに、自分が考えている思いはそんなに変わらなく、 自分の生活習慣も性格も行動もあまり変わっていない姿を見て、「私はまだ救われていないのかな?」と感じる時があると思います。


確かに私たちは救われました。
しかし自分たちの中にまだ古い性質が色々と残っていて、それがまた新しい罪を生みだすことが多いです。


ダビデの詩篇51編は、悔い改めの祈りであります。
彼が犯した罪は大きな罪です。

神様がダビデに目を留めて、特別に選び 油注ぎを与え、イスラエルの王にしました。
神の心に適う者でしたが、彼が一度も罪を犯したことがない ということではないです。

ある時に誘惑に受け、なぜかダビデは心を守ることができなかったのです。
人妻をとって姦淫の罪を犯し、その罪を隠ぺいするために その夫を殺害する罪をさらに犯しました。

そして彼はその罪までも闇に葬ろうとして 神に悔い改める事もせず隠していました。ばれないと思っていたのです。

しかし、この罪をばらしたのは、神ご自身でした。


アダムが罪を犯した後に、まず行ったことは 神の前から身を隠したことです。
これは光から闇になった姿であります。

人間はいつもそうです。
なぜなら神の御前に出ると、(神様は)心を見ておられるので、私たちは神様から隠れることは出来ないのですが「闇の中にいれば 大丈夫だ」と思って隠れています。

その意味で、人間は本能的に光より闇を愛します。闇に慣れています。


信仰の人であったダビデも 罪を犯してから、罪を闇の中に隠して普段通りに生活をしたのです。
神様は彼がいつ闇から出て来るのかと待っていましたが、出て来ないので、預言者を遣わして隠していた罪を全てばらしました。

しかし、これは良い事なのです。
罪を隠すことが良い事なのか、それとも罪をばらすことが良い事なのか?これは 罪をばらすことが良い事であります。

なぜならば現さなければいけない出来事は、必ず現さなければなりません。罪は隠すものではないです。


罪を隠しておいて、私たちは平安の中で生きることは出来ないです。

罪を隠しておいて、神様と良い関係を結べることはないです。罪があるならば、問題が解決されません。
罪があるならば、どんなに神様に祈っても その祈りは届かないです。


ですので、罪を明らかにされるのは自分にとっては祝福であります。

罪が明らかにされると、私たちは逃げられなくなります。
そうすると悔い改めるようになるのです。「赦してください。」という言葉を使います。
しかし罪を隠している時は「赦してください。」という言葉は使わないです。


神様が私たちの罪をばらすのは殺すためではないです。
神様は情け深い方、憐み深い方、赦す神様でありますので、それを神様が「いつまでも隠しておいたら命を失うから悔い改めなさい。」と赦すために ばらします。


もし死ぬまで隠しておくならば“罪に対する報酬の「死」”の恐ろしい火が、その人の身に迫ってくるのです。

罪に対する厳しい処罰があります。

しかし犯した罪を光に現わして悔い改めるなら、神様はどのような罪であれ赦してくださるのです。


放蕩息子の例えでも分かるように、立ち返った者たちには回復の祝福を与えてくださいます。


アダムが犯した原罪によって人間が失ったものがたくさんありました。

永遠のいのち・神が与えて下さった聖霊、神との霊的交わり、まことの平安、聖と義、善を行う力、神の中にある自由、エデンの園、神の祝福など私たちが古い人のまま生きるならば、これらのものは絶対に受けることはありません。

古い人の性質はアダムから流れてきているものであります。
神様は悔い改めて立ち返るなら、失ったものを再び与えます。

悔い改めて立ち返るということは、回復を受ける素晴らしい祝福であります。


神様はそれを願って「立ち返りなさい。罪を悔い改めなさい。そうすればあなたは祝福される。」という言葉を語っておられます。

私たちが救われた後でも罪を犯しながら、その罪から離れようとしないならば、その罪が神様との関係に大きなトラブルを犯し、 神から離れ、自分の本性のままに生き 滅びていくしかないです。


肉の欲に負けて、欲望の中で生きていたダビデがそれを脱ぎ捨てて 新しい人を身につける姿を見たいと思います。


【詩篇51編10節】

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

このように祈ったことはありますか?これはとても大切なことであります。

人々は罪を犯すと、なぜか罪ばかりに焦点を当てて「あぁ、罪を犯してしまった。もうこんな罪を犯したくない」と 罪のことを黙想してしまうのです。 「何でこんな罪を犯したんだろう?あの人が誘惑したから悪いのだ。サタンが悪い。」など罪を研究するのですが、それをするからといって 罪が消えるのでしょうか?

そうではないです。


罪から離れるために罪を見つめても、そこから離れることはできません。
私たちが神様の前に罪を犯さないために一番大切なことは、神のみこころに従う心であります。

神のみこころに従う心を、私たちは求めなければいけないです。


アダムが犯した罪は何でしたか?
人殺しですか?姦淫の罪ですか?妬み、怒り、高慢でしたか?――そのような罪ではありません。

一言でいうならば、神様への不従順でした。
“食べてはならない”と命じておられた 善悪の実を取って食べた不従順の実でした。

人間のすべての罪の根底は神の言葉に対する不従順です。


神様の言葉に従うならば、罪は出て来るはずがないのですが、数えきれない不従順の実が結ばれていきます。

ですから ダビデが罪を犯したのは、自分が神様の言葉に不従順していたことに気付いたので、神様に従うきよい心を求めました。


クリスチャンたちは、神様が「従いなさい。」と言うと すぐに「難しいです。出来ません。」と よく言います。

従順するのが難しいと ほとんどのクリスチャンたちが言います。
しかし、難しいのではないです。


私たちは“従順”という言葉と“不従順”という言葉に対して自分たちが持っているイメージであります。

不従順は、人間の自由であり私の思いのままにできるのだという思いです。また従順は、私は自由ではなくなるのだという思いがあります。

従順することは不自由になるという思いがあるので従えないのです。

そして不従順は、「私の思いのままにしても良いので神様の言葉は関係ない。私がしたいことをする!」という自由に出来るという思いがあるので不従順を選んでしまうのです。


しかし、それは真逆に考えなければなりません。

私たちが従順することは、本当に自由を得る道であります。「真理はあなたがたを自由にします。」というみことばがあります。

しかし真理から離れてしまうと、その時から私たちは自由のように見えるのですが、サタンの束縛の中に入っていきます。サタンこそ束縛する者であります。罪の中にどんどん連れて行って、そこから逃げられないようにします。
これがサタンのやり方です。


ですからダビデは、罪を赦して下さいと祈るよりも、自分に必要なものは従順する きよい心であることを知り、
「罪にそまった私の心を新しくし、きよい心に変えてください。」と祈りました。

私たちが神様に祈る時も、罪を赦してくださいということも重要ですが、それ以前にもっと大切なことは「私の心にきよい心がないから こういう罪を 犯してしまいます。ですから私の心をきよい心に変えてください。」という祈りです。

きよい心は罪を犯さない心であります。
しかし「赦してください。赦してください。」だけでは、心が汚れたままなので また罪を犯すのです。




それからダビデは「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と祈りました。
「ゆるがない霊」とは、真実な霊、神にすべてを頼る心、すなわち信仰を意味します。

信仰とは、神様にすべてを委ねて すべてを頼る心であります。


ダビデはすごく神様に従った者で、彼は様々な場面で素晴らしい信仰を私たちに見せてくれました。
彼の中に信仰があったのですが、信仰が落ちてきた時に罪が出てきて神様から離れていきました。

ダビデがこのように願っているのは、神様への信仰を回復したいという思いがあったからです。


クリスチャンは常に自分の状態を調べながら、このような祈りが必要です。

もし今、イエス様に救われたばかりの頃に持っていた喜びがない、その頃の感動がない、熱い心ではなく生温い心があるならば、この祈りが必要であります。

神様への不従順があると信仰は確実に冷めて弱くなっていきます。
それは他人のせいでも環境のせいでもないです。また 自分の力が足りないからでもないです。

先ほどにも言ったように、常に根底にあるのは神への不従順です。
神様を信じてから、ずっとみことばに従順していたならば その信仰は確実に熱くなりますし、確実に成長していきますし、確実に揺るがないものになります。


しかし不従順を重ねていくと、信仰はだんだん弱くなっていき、神様から遠ざかっていくので信仰が生温いものになります。ですから自分の中に生温いものが感じられるときは、不従順になっていることに気付くべきであります。

神様が自分を捨てたのではないです。自分の不従順があらゆる祝福を邪魔していきます。
自分の状態が祝福を受け取らないようになっているので祝福が来ないのです。


聖書にはそのような場面が出てきます。ロトの妻がそうです。

ロトの妻は ソドムの町から神様の特別な恵みで救い出されたのに、なぜすぐに塩の柱になってしまったのでしょうか?

御使いがはっきりと「後ろを振り返ってはならない」と言われたのに、ロトの妻は不従順して後ろを見たので、その瞬間に塩の柱になりました。

祝福を手に入れていたのですが 一瞬にして祝福を逃してしまいました。

私たちは神様の約束があっても自分のものにならない多くの理由は、ロトの妻のように どこか不従順があるので逃してしまっています。

不従順は、祝福をのろいに変えてしまいますので、ダビデのように信仰の回復を祈ることです。




続いて、ダビデは次のように主に求めました。

【詩篇51編11節】

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

これは、「聖霊様、いつも私と共にいて下さい。」と切に求めた祈りです。

ダビデがこのように求めたのは、以前(自分よりも先に王であった)サウルが罪を犯して悔い改めなかった時に、聖霊がサウルから離れ、代わって悪霊がサウルの中で強く働いて滅びた姿を 目撃していたからです。
その時にダビデが賛美をすると、サウルの中で働く悪霊が出ていき 平安な心になる姿を何度も見ました。


聖霊が離れると、悪霊が入ってきて その人の心を支配し人生が潰れていくことを目の前で見たのです。
それでダビデは怖くなり、聖霊様を自分から取り去らないように祈りました。


私たちは何か力ある働きをしたいから聖霊様を求めるのではないです。それは二の次であります。
私たちから聖霊様が取られると、ただの人になるのではなく、悪霊がすぐに入ってきて心を支配してサタンの奴隷となり 悲惨な状態になってしまいます。


私たちが罪を犯すと聖霊様は悲しみます。
そして自分のほうから聖霊様を悲しませると、聖霊様は去って行きます。
聖霊が去った後 私たちはどうなるのかは、サウルの姿を見たら良いです。




【詩篇51編12節】

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

彼は喜んで仕える霊を求めました。

ダビデが以前、神の恵みに対して歌の中で喜びを現しました。


【詩篇18編1-3節】

彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

ダビデにとって神様は身近な存在であり、神様の偉大さ、素晴らしさ、自分にとってはなくてはならない方であることを褒め称えました。

しかし罪を犯した後のダビデの姿を見ると、喜びがまったく無かったです。
彼が罪を隠していた時には、詩篇が1つも書かれていないです。

私たちが罪を犯して一番最初に消えるものは「平安・喜び」です。


ダビデは悔い改めながら 自分の中から消えてしまった救いの喜びを返してくださいと祈りました。

このようにして神様が彼の罪をばらしたことによって ダビデは勇気を出して神様に祈りました。
そして罪の支配・束縛から離れ、積極的に神様に従順する心で 喜んで主に仕えたいと願いました。

これが私たちの祈りであるべきです。

人々は罪を隠しておいて、罪を楽しむ心があるのです。
罪と知っていながらも離したくないという肉の思いがあるので ズルズルとそこに留まっているのです。

しかし罪と気付いたならば、そこから断ち切ることです。それは悪魔と繋がれた死の綱だからです。


聖書には「心を頑なにするな」という言葉がたくさん出てきます。

私たちが罪を犯すのも、私たちが従順しないのも、環境や弱さ、力や人のせいではありません。
それはすべて「心の問題」であると神様が指摘しているのです。

頑なな心を変えないならば、罪は消えないです。

自分が変わらない理由は、自分の心を変えないからです。
私たちは 自分は変わらないで 相手が変わることを願うのですが、それはとんでもないことであります。


神様は「あなたはわたしの言葉を聞いているのに どうしてあなたは心を頑なにしているのか?」と語ります。
聖書を読むと 神様が語る言葉で、常に私たちに対して厳しく語っているように聞こえてきます。
それは何故だと思いますか?

例えば、誰かが自分に対して罪を犯したとしても神様は「あなたが許しなさい」「憎んではならない」「愛しなさい」と語ります。私たちは「何で私が?!」という思いになるのですが、これにはすべて理由があります。

罪を犯した者に対して怒りや憎しみや恨みが出てきます。その時の私たちの心の状態は 悪魔の心とそっくりであるので、私たちの心を見る神様が苦しむのです。


神様から見たら「あの人も悪いが、その人に対してあなたが抱いている心を見ると、どっちもどっちだ」ということであります。
私たちの顔がだんだん悪魔の顔になるので、それを神様が見たくないので「その思いを捨てなさい」ということです。


反対に「愛しなさい」「許しなさい」となると、私たちの顔が笑顔になっていくのです。

神様の子供である私たちの顔が悪魔に変わっていく姿を見て、神様は喜ぶはずがないです。

あなたの姿が美しい姿であって欲しいので、その意味で神様は「あなたの中にあるものを捨てなさい。」と語ります。


罪を犯した者には、自分で蒔いたものを刈り取らせますが、しかし それに連れられて、あなた自身も罪人になってはいけないので、許すこと、愛すること、受け入れること、親切にすることを みことばによって自分で行わなければいけないです。


それをしない限り、自分の心は美しくならないです。

心を変えないならば、今すぐその人をエデンの園においても、そこで罪を犯します。
それは心が悪いままなので罪を犯すのです。

環境が良くても自分が持っているものは悪いものなので、悪の実を結ぶしかないのです。


ダビデは問題が自分の中にあることに気付きました。
自分の心が悪かったので、そのような罪が生まれたことを知りました。

ダビデは悔い改めて、自分の心を新しくしました。
それを神様が答えてくださり、罪から解放され、死ぬ時まで聖い霊と喜んで仕える霊で主に仕え勝利し偉大な者になりました。


【エペソ4章22-24節】

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着けるべきことでした。

【コロサイ3章9-10、12節】

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、 愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

これは新しい人の姿であります。

こういうものを私たちは日々目指して自分の中に入れることであります。
そうすると人格や生き方が変わり、表情や結ぶ実も変わっていきます。 (´∀`*)

2014.4.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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イエス・キリストを信じる信仰

テーマは『 イエス・キリストを信じる信仰 』です

【エペソ1章19-23節】

私たちはイエス様を信じる者ですが、キリストに対する信仰が自分自身にどのような影響を与えているでしょうか?
キリストにあって、どのような祝福を受けていますか ――。

多くの人は「罪が赦されて天国に行けるんだ」と言いますが、天国に行くだけが私たちに与えた祝福ではないです。
もちろん それも後に受けますが、神様は今回のみことば箇所で はっきりと語っています。

今の世の中でも祝福されないならば、それはみこころではないのです。

なぜ私たちが祝福されなければならないのでしょうか?
それは もともと神様が人間を造った時は祝福されていました。
しかし人間が神様から離れたことによって全てを失いました。
それでイエス様が来られて働いてくださったことによって(祝福が)回復されました。

「死」は十字架によって「命」に取り換えました。その他にもイエス様はたくさん回復してくださいました。

つまりキリストを信じるということは、回復されたものを(受け取ると)初めから約束されているのです。
キリストの中に全てのものが満ちていますので、その祝福を私たちが信じる瞬間から受け取るのであります。

神様はそれを与えたいので私たちを呼んでくださいました。
クリスチャンの生活になるということは、キリストが準備をしているものを相続者として受け、
楽しみながら生活をすることであります。


【イザヤ53章4-6節】

これは救われる者たちのためにしてくださったことです。
病の討ち傷をイエス様が負って、それを回復してくださいましたので私たちが受けるものは癒しであります。
病気になった人が「あぁ、これは主のみこころであるんだ」という人がいますが、とんでもないことです。
主のみこころには、私たちを病気にさせて滅ぼすということはなく、神様が祝福として用意したものではないです。


【Ⅱコリント8章9節】

弟子たちは家族のもとに帰りましたが、イエス様には帰る家がないです。
ですから山に行って、夜通し父なる神様にお祈りし話をしながら寝る事もありました。
しかし、それは何の為でしょうか?

イエス様ご自身が、人間が地上で何を食べるか何を飲むのか、そのような貧しくて苦しんでいる問題を
回復させる為でした。

今、地球上にいる80%が貧しい者です。食べ物がなくて亡くなる人もいます。家がない人も大勢います。
明日のことを心配する人もたくさんいます。何も心配せずに生きている人は、どれだけいるでしょう。

イエス様は人間の悲惨な状態を見たのです。それをイエス様ご自身も通ってきました。
十字架の上でイエス様が「完了した」と言ったのは、人間が失ったすべてのものをイエス様が回復する働きを
終えたということであります。

ですから私たちが様々な問題の中で苦しむ必要がないということです。


物質についても、(私たちが)貧しいのが神様のみこころであると、どこに書いているでしょうか?
それだとイエス様がずっと貧しく生きていた意味がないです。

昔から教会で間違えた聖書の解釈をするので、真理ではない言葉を流していくのです。
クリスチャンは貧しくなるのが敬虔な姿であるというのは、とんでもないことです。
貧しくなって施しが出来るのですか?人の益になること、物を分け与えることができるのでしょうか?

―― できないです。イエス様は常に人々に与えました。弟子たちにも与えていきました。
そこでキリストを信じる信仰とはこういうものなんだと、イエス様が(信じる者に)準備をした恵みの中に入りなさいと、
これがクリスチャン生活のスタートラインであります。


だからと言って、キリストを信じた瞬間に宝くじに当たってお金が与えられるということではないです。
それは祝福ではないです。キリストの祝福はそんなものではないです。
「何を食べて何を着るかを心配するな」と神様がすべて知っておられるからです。
世の中でも、悪い親でも子供には良いものを与えるように、神様は 神様を求める者たちに悪いものを与えるはずがないのです。

皆さん、クリスチャンの人たちはキリストに出会ってからも なぜ苦しむのですか?
なぜいつも日常の生活の中で、今も罪の問題、病の問題、貧困の問題、家庭の問題などを自分でそれを背負って
苦しむのでしょうか?

それは信仰が間違えているからであります。
なぜ自分がキリストを信じる信仰がそこに1つも影響力がないのでしょうか?
なぜキリストが与えた影響力が自分のものにならないのか、それは神様のせいでしょうか? とんでもないです。

神様は私たちが祈る以前に備えてくださっています。ですから、問題は常に私たちにあります。
その問題点を挙げます。


①キリストと1つになっていない


これはまだ生まれ変わっていないということであります。
信仰が形式的で、信仰の味をまだわかっていないです。私たちが生まれ変わるということは、何だと思いますか?
信仰をもって信じて、キリストと1つになることです。キリストの中に入ることです。
そして その人自身が古い人を脱ぎ捨てて、新しい人になることが生まれ変わったことであります。

古い人のままで生まれ変わることはないです。もはやあなたが生きるのではなくて、キリストがあなたの中で
生きているということを主が語りました。

キリストと1つになって生まれ変わっていないので、キリストが自分のために備えているものが
自分のものになっていないのです。
そして相変わらず 自分で全てのものを背負って「主よ、主よ、どうしてですか?!」になってしまうのです。

これはキリストにある権利を知らないからであります。
私たちがクリスチャンになって出発する時は、キリストが回復しておいた根本的なところに
気が付かなければならないです。
クリスチャンになることは何か?という時に、「あぁ、これから厳しい信仰生活が始まるなぁ」ではなく、
「キリストが回復したものを私が相続するんだ」と全ての良いものを自分が受けるという認識がないといけないです。


聖書に2人の放蕩息子の例えがありますが、これは2人とも間違えていました。
1人の放蕩息子は父の財産を「ください、ください」と言って(父から)もらいましたが、神様の目的とは違う
自分の快楽のために財産を湯水のように使って、結局は父の家にいた時より悲惨な罪の奴隷になりました。

もう1人、家の中に留まっていた長男ですが、この長男の姿のようなクリスチャンが多いです。
自分の弟が帰ってきた時に 父が赦して指輪をはめ、新しい服を着させ、ご馳走を食べさせたことに
ものすごく腹を立てました。
「私は朝から晩まで汗を流しながら働いているのに、私には1つも良いものをくれたことがありません。」と
言いました。長男の問題は何でしょうか?

父のものが自分のものだという認識がないのです。
つまり求めなかったことです。彼の中には「あれはお父さんのものであって、私のものではない」と思っていました。
ですから一度も父に「ください。」と言ったことがないです。
ただ黙々と死にそうな思いで働いたうえに、父に対して不満な心がありました。


父のものは自分のものだという根本的な権利を知らない長男でした。
知らないので1つも自分のものになっていないのです。こんなに金持ちの父親がいても、奴隷なのです。

「私が心の中でこんなに想っていても1つも叶えられない」というのは、世の中の宗教の信仰と同じであります。
信仰で必死に求めているのですが、それを叶えてくれるものがいないのです。
つまり神がいないということです。聞いてくれないものに いくら自分たちが拝んでも得るものはないです。


私たちの信仰も、(神様は)父のものはあなたのものなのに、なぜ自分のものだという認識がないのか―?と
語ります。自分のものだという認識があるならば、自由に使って良かったのです。
いちいち父親に許可をもらわなくても、正しくそれを使うならば、父親は喜んだと思います。
彼がその中で喜んで生活をする姿を見たら父親も嬉しいのに、いくら経っても何一つ求めないのです。
そして、いつ見ても不満な顔をしているのです。

クリスチャン生活はそのようなものではないです。信じる者の為にイエス様が犠牲を払って回復してくださいました。
天国に無いものはないです。

歪んだ信仰で何が生まれてくるでしょうか? 私たちは正しい者でなければいけないのです。


②期待しないものに神様は絶対に働かない


奇跡を行う神様だと期待をしないので奇跡が起こらないです。期待をしないので御使いも現れないです。

聖書はすべて言葉で書かれていますが、
言葉が働くのは、私たちが信じて期待をして宣言をする時に言葉が動き出します。
言葉は私たちが宣言をしない限り、絶対に動かないです。

私たちが色々な問題を抱えた時に みことばを宣言するのです。
「キリストの懲らしめによって私は平安になった。サタンよ、出て行け!」と潰すことです。
病気の時は「キリストの討ち傷によって私は癒された!」と宣言をします。
「もっとひどくなるのかな?」と、このような言葉を言うならば 癒しは絶対に起こらないです。

困った時だけ神様に求めるのではなく、初めから自分のものなのです。その中で生きることです。
キリストと自分が別々に生活をして、困った時にその問題を持ってわざわざキリストの所へ行き、
「私 困りました。」では得られないです。


キリストの中に住むということは、自分の人生すべてをいつも委ねて生きることなのです。
心の王座に自分が座っていてはいけないです。そこにはキリストが座るのです。
多くの人達が「主よ、主よ。」と言いながら、全部自分の力で色々なことをしようとします。

ちっぽけな人生を自ら歩もうとするのは、キリストが見て「それが信仰か」と泣いています。
私たちは「王の王、主の主」の子どもなのです。

祈って委ねると大胆になれます。毎日幸せだと宣言をします。
口から出る(不信仰な)言葉が恵みを閉ざしてしまいます。
不満を言うのはキリストが何をしてくださったのかをまだわかっていないです。
「私はまだ生まれ変わっていないんだ」と知り、反省をしなければならないです。

体験のない信仰は、信仰が1つも動いていないことであります。みことばが自分の生活の中で動いていないです。
それはその言葉を使っていないからです。


「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのすべてのものは与えられます。」
ということは、キリストの中で自分が今生きている目的は「キリストなんだ」ということです。
私のために良い事をしてくださったキリストを喜ばせる生活、キリストを愛する生活、キリストを敬う生活、
これが私たちの日々することであり、それをやっておけば自然と蛇口をひねって恵みが流れるように
主が備えてある祝福は全部自分のものになるのです。

ですから、自分の努力で得る必要は一切ありません。主のみことば通りにすれば、自然とついてくるものです。

信仰生活は最初から祝福を受け取る生活です。努力をして何もないところから一から始めるのではなく、
初めからあるものを信仰によって受け取るのです。

自分がいかに信仰によって、それを自分のものとして使うのか、これが試されているのです。
喜びながら、心配をしないことが信仰なのです。「豊かな祝福を一生受けます」と宣言をしてください。

一体、私は誰なんだ? ―― 私は王様の息子、娘であるということをもっと自覚して欲しいです。
以前は奴隷であったけど、今は違うという大胆さです。

嵐が起きていても立ち止まる必要がないです。蹴ったら良いです。
誘惑するものに向かって、いちいち立ち止まって潰れて、元の道に戻ることはサタンに負けることであります。
「下がれ。サタン。お前と私に何の関係があるのか。今の私は以前とは違うぞ」と戦うことであります。

イエス様がしてくださったものを、しっかりと受け止めてください。 (・◇・)ゞ

2013.7.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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