からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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喜び

神の愛がわかりますか

テーマは 『 神の愛がわかりますか 』 です

【ルカの福音書15章1-7節】

さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

見つけたら、大喜びでその羊をかついで、

帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正し人にまさる喜びが天にあるのです。

【ルカの福音書15章11-32節】

またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。

弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。

立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。

このむすこは、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。

それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、

しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』

すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。

それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

厳しい神のイメージしか持っていない人が多いですが、神の本当の姿は “愛の神” です。


「神は愛です。」と言われてあります。

それを信じていますか?


本文で、神の愛が どのような形で現れたのかを見て、神の愛を感じてほしいです。


神の愛を知ることは、私たちにとって “大きな恵み” です。




ひとりの魂も見捨てず、捜し歩く愛、労苦を惜しまない愛




【ルカの福音書15章4節】

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。



無限の喜びの愛




【ルカの福音書15章5-6節】

見つけたら、大喜びでその羊をかついで、

帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

【ルカの福音書15章22-23節】

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。

【ルカの福音書15章32節】

だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」



すべてを与えて下さる愛




【ルカの福音書15章12節】

弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

【ルカの福音書15章31節】

父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。



帰って来ることを切に待ち望んでいる愛




【ルカの福音書15章20節】

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。



無条件に赦す愛




【ルカの福音書15章21-23節】

息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。



権威を回復させて下さる愛




【ルカの福音書15章22節】

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

失われた一人の魂を捜し求める 神の心が 神の愛です。


一人の魂をどれほど主が大切に思っておられるかを知りましょう


【マタイの福音書18章10-14節】

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

アーメン (・∀・)つ

2017.6.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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三つのことを目指す

テーマは 『 三つのことを目指す 』 です

【第1テサロニケ5章16-18節】
いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

新年をどんな年にしたいと願っていますか?


2017年に対して様々な予測や預言が言われてあります。


神からのものなのか、そうでないかは実際に起こるまでは判断できないです。

世界がどう変わるか、日本がどう変わるかは分りませんが、自分に関しては変わらないといけないので、そのことは真剣に考えないといけないです。

何よりもすでに神から言われた大切なことは、絶対に無視してはいけないと思います。


本文のことばは、どの時代にあっても私たちが目指すべき大切な神のことばです。

これを抜きに神のみこころを行うことは出来ません。


今回は「三つのことを目指す」という内容で伝えます。




いつも喜ぶことを目指す




なぜ 喜ぶことが大切で必要でしょうか?


「別に喜ばなくても良いでしょう。誰かに迷惑かけるわけでもなく、罪を犯しているわけでもないのに」と思っている人がいるかも知れません。

ですが、いつも喜ぶべき理由があります。


まずは喜びがどこから出て来るのかを考えてみましょう。


喜びは、頭や外部からではなく、心から出てきます。

聖霊を受けた人と受けていない人には違いがあります。
心の状態です。


【ヨハネの福音書7章38節】

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

このように書いてあるように、聖霊が心に内住します。

そして喜びは、“生ける水の川” から出てくるものです。


喜びは御霊によるものです。


喜びは御霊の九つの実にも入っています。

生ける水の川が流れる心は とても重要な場所なので、心を見守るように言われました。


【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

心が守られると、そこから絶えず いのちの水が流れて、私たちの心は潤って当然そこから喜びも出てきます。

しかし、心が守られないと 泉は枯れて心はどんどん砂漠化していき、喜びが出なくなります。


心が荒れて疲れ果ててしまいます。

ですから喜びも消えていきます。


“いつも喜んでいなさい” と言われるのは、すなわち心の泉からいつも生ける水が流れる状態を保つためです。


いつも喜んでいる状態は、心が守られている状態です。

いのちの泉も守られている証拠です。

そして聖霊に満たされている状態です。


自分の心の状態を知る1つのしるしが、この “喜び” です。

もし喜びがないなら、胃カメラで胃を調べるように、自分の心を覗いてみて下さい。


聖霊は見えず、何か違うものがそこに詰まっていると思います。

心に “あってはならないもの” が入っていると思います。


喜びがないな と思った時は、すぐに心の状態を調べて下さい。


パウロが迫害され、むち打たれ、ピリピの牢獄の中にいながらも喜んでいたのは、どんな時にも自分の心を守り、聖霊に満たされていたからです。




絶えず祈ることを目指す




現代の信徒たちの特徴は、“祈らないこと” です。


忙しいから祈れないという人が多いです。

本当にそうでしょうか?


忙しいと言いながらも、自分がしたいことは全部しますね。

食べること、テレビを見ること、スマホをいじること、雑談、趣味生活、仕事などの場合は「忙しい」と言って、しないことはないですね。


しかし聖書を読んだり、祈ったりする時間だけは「ない」と言います。

ある意味、私たちは嘘つきです。


自分のためには時間を使っても、神様には時間を使いたくないです。

そうしながら神体験を願い、祝福や恵みを求めます。

そして信仰が強くなることを願います。


なぜ神様は「絶えず祈りなさい」と言われたでしょうか。

神を知るために、神体験するために “祈りは必須” です。


みなさんがメッセージを聞いたり、賛美をしただけで 神体験や神を知ることは難しいです。

神を知るためには、神の前に出る必要があります。


イエス様がどう祈るべきかを教えました。


【マタイの福音書6章6節】

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

神の前に出て、静まる時間が祈りの時間です。

それは神との対面の時間です。


神を知り、神体験が多い人たちは みんな祈りの人でした。

ダニエルは祈るために、わざわざ仕事の合間でも家に帰りました。


一日三度時間を決めて毎日神に祈りました。

神は彼に会って下さいました。


祈ったらいのちが取られることを知っていながらも、いつもと変わらない姿勢で祈るために家に帰りました。

その後にダニエルはすごい神体験をしました。


飢えた獅子の穴に投げ込まれても、えじきにされず 御使いたちによって守られました。


神を信じると言いながら 神への知識、神体験もないことは恥ずかしいことです。

それでは信仰も成長しません。

ですから神はそんな者にならないように “絶えず祈りなさい” と命じました。


祈って下さい。
そうすれば必ず神体験をします。




すべての事について感謝することを目指す




昨年の事を感謝で終えましたか?

感謝で終えた人は、感謝で新年を始めたと思います。


「すべての事について感謝しなさい」と言われると、「アーメン」と答えない人も多いです。


「色々あったから出来ない」という思いがありますね。

神は出来ないことを私たちに要求するのではありません。


「すべての事について感謝する」ことは、すべての事を感謝で解釈することです。


同じものを見ても、感謝する人と感謝しない人の “差” は何でしょうか?

思い出してみましょう。


モーセがカナンの地を探らせるために12人の斥候を送りました。

40日後に彼らは帰って来ました。

10人と2人の報告が正反対でした。


感謝の信仰があったヨシュアとカレブは、神の言葉通りの良い地であったので感謝しながら帰り、うれしい報告をしました。


しかし別の10人は、高い城壁、背の高い住民を見て 恐れが入って、その地をとても悪く言いふらし、自分たちを導いた主に不平不満を言いました。


主のことばで見ると、すべてが感謝ですが、主のことばを忘れ、人間的な目だけで見ると不安と恐れで、不信仰に陥って感謝の代わりにつぶやきが出てきます。


同じものを見てもどう解釈するかは人それぞれ違います。

ですから環境や人のせいで感謝出来ないと言うのは言い訳です。






私たちが住む世界には悪いことがたくさん起こっています。

自然災害、テロ、病気、内戦や戦争がいつの時代にもあります。

ですから自分たちが災難にあったとしても、おかしいことではないです。


特別に悪い人がそのような災難に遭うのではなく、誰にでも起こり得ることです。


ですから苦難を乗り越えていくために、気落ちせず、失望しないため、信仰を守るためには “感謝の解釈” が必要です。


不幸な時、辛い時に感謝が出来ないと、不幸と辛さに飲み込まれてしまいます。

感謝が出来ないと、つまずいて信仰を捨てる場合もあります。


神から離れることは、自分のいのちに関わることです。


どんな時でも感謝することを身に着けるための訓練としては、辛い目にあった時は、いつもイエス様のことを思い出して下さい。


人から侮辱されたり、迫害されたり、ひどい目にあった時は、イエス様がひどい目にあった時の場面を思い出して下さい。

すると慰められます。


自分とは比べられない試練を主は受けながらも感謝しました。

それを学ぶことです。


主がなさったようにするならば、どんな時でも感謝することができます。

主を見るならば我慢が出来、感謝も出来ます。


すべての事について感謝する姿勢は、成熟した信仰の姿勢です。

成熟しているので、その感謝によって多くの実を結ぶことが出来ます。


これらの三つのことは、キリスト・イエスにあって 神が私たちに望んでおられることです。


神の期待に応えますか?

これら三つのことを実行するならば 世界がどう変わるかは関係がなく、充実した一年、成長する一年、祝福される一年になります。


世界の主権者は神です。

神はみこころを行う人を特別扱いして下さいます。


神体験、奇跡、守り、祝福を与えます。
(´∀`*)

2017.1.2
新年礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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初めの愛を回復するために

テーマは 『 初めの愛を回復するために 』 です

【ヨハネの黙示録2章4-5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその所から取りはずしてしまおう。

信仰生活にも定期的に点検が必要です。


なぜなら、問題があるならば早くそれを直していかないと知らぬ間に重い病気にかかって大変なことになるからです。

放置していいものと放置してはいけないものがあります。


信仰生活が無気力、無感覚になり、喜びも平安もなく、新しく実が結ばれることもなく、信仰生活そのものがしんどく、神との関係も遠くなったような気がするならば、何よりも自分とイエス様との間に問題が生じたことに気付くことです。


信仰生活のほとんどの問題は、自分と主との関係に異変が起きたからです。


それを解決して信仰を立て直していかなければなりません。



今日のことばも 本人が気付いたのではなく、主からの診断でした。


初めの愛から離れただけで 主との関係に大きな問題が生じました。

主が非難したことはそれが罪だからです。


罪じゃないと(神様が)非難することも、悔い改めなさいと言うこともありません。


信仰が回復してほしいので “悔い改めなさい” と言われました。


どのように初めの愛を回復出来るかを今日は学びます。




◎失われた初めの愛を悔い改める




初めの愛がある状態は、すべてにおいて心も思いも尽くして主と共に歩みます。

それが一番の関心で重要なことだからです。


その時は主と共にいることがとても楽しいです。

教会に行くのもとても楽しいですし、聞く耳も開かれています。


しかし、ある時から主を忘れて生活する時間が増え始め、他のことで忙しくなります。


サタンは私たちを誘惑する者ですが、あらゆる方法を使って私たちをイエス様のいない忙しい生活に導きます。


そのことに気付かせず、主との時間を減らしていきます。


心ではイエス様との時間を持つことの大切さを知っていますが、だんだんと他のことで忙しくなり、主のために時間を使わなくなります。
ここから問題が生じます。


【ヨハネの福音書15章6節】

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

イエス様にずっと とどまることが大切なのに、とどまる時間が少なくなっていきます。

他のことに心が取られたり、他のことで忙しくするようにサタンは働きます。


イエス様と分離されていると 不幸になることもよく知っているのに、仕事に縛られたり、時には自分の快楽を求めて主との交わりをおろそかにします。


生活も守っていかないといけないからと人を喜ばせたり、自分を守るためにだんだん主に対して関心が無くなっていきます。

すると主と共に過ごす時間が減るために主を失ってしまいます。


主との間に様々なものが入り込んできます。

すると信仰生活がだんだん義務的になり、つまらなくなり、喜びも無くなってきます。


それを立て直すためには悔い改めが必要です。


どこから落ちたのかを思い出して、要らないものを捨てて時間を作って神の前に出て、その方と会話をしなければなりません。


主と再び愛し合うには ずっと主から目を離さず、会話を増やさないといけないです。


すると私たちの心に主の平安、愛、いのち、力が臨むようになります。

主に対して、教会に対して、とりなしに対して、奉仕に対して無関心になったことは愛で反応していないことです。


初めの愛を回復するためには、必ず “無関心” が罪であることを悟って、無関心を捨て、主を見上げなければなりません。

面と向かってイエス様に敵対するより、主の心を痛めつけるのは主に対する無関心です。


必ず私たちはこの罪を悔い改めないといけないです。

悔い改めないと、たとえ生きているとされても死んだ状態です。

すなわち霊的死です。




◎避けたくなる十字架を負う




イエス様に従いたいならば、弟子になりたいならば、成長したいならば、自分の十字架を負わなければなりません。


イエス様は私たちを愛する心で十字架を負ってカルバリの丘に上って行きました。

その主が私たちに自分の十字架を負ってついて来なさいと言われました。


私たちが十字架を負うならば 主が共に負って下さいます。

イエス様自身が先に十字架を負いましたので、十字架の痛みを知っておられます。


主が共に負って下さらないと、私たちが倒れるので 主が共に負って下さいます。


しかし私たちは十字架を負いたくないので十字架を避けようとします。
これが主への愛が冷めるきっかけになります。


十字架を避けて楽な道を歩みたい欲望が 私たちの中にあります。

この欲望は、主から来たものではなく、サタンから来たものに気付かないといけないです。


イエス様が十字架の死を話した時に、ペテロはすぐさまイエス様を止めました。

「そんなことがあってはいけない」と。

そして十字架を負わないように勧めました。


すると主は「下がれ。サタン。」と厳しく言いました。


今も私たちに十字架を負ってはいけないと誘惑をするのはサタンです。


「楽な道を歩んだら良い。苦難はイヤだろう。重い十字架は負わなくていい。避けたらいい。」と、まるで 私たちの味方のように親切に言います。


これは甘い誘惑です。

主はそれとは違って「自分の十字架を負って私に従いなさい。」と言われました。


十字架を負うことは私たちにとって良いことです。

私たちが地上で主のために十字架を負うと、その十字架は天国への喜びに変わります。


十字架を負うことは永遠の命にかかわる重要なことです。


サタンはそれを知っています。

サタンは、十字架を負いたくないすべての人を、自分の所(地獄)に連れて行きます。


そこには十字架の苦しみと比べられない苦しみが待っています。


サタンは私たちが十字架の道を歩まないように、あらゆる手段を使います。

私たちが永遠の命も永遠の喜びも受けてほしくないからです。


主が私たちの十字架を共に負ってくださるので、私たちはその中で以前は味わったことのない霊の喜びを感じることが出来ます。


主が与えてくださる十字架には、必ず慰めと助けがあります。


その方の愛と助けを信じないと 十字架を負う気がなくなり、十字架が耐えられない苦しみに感じられます。

そうなると本当にみじめな状態になります。


十字架が来た時は「主よ。感謝します。受け入れられるように恵みを下さい。十字架を負って喜んで耐えられるように恵みを与えて下さい。」と祈り求めることです。


苦難は、主と深い交わりが出来るチャンスでもあります。

苦難の時に、私たちは主しか頼れる所がないからです。


十字架の中には豊かな実があり、栄光があります。

十字架の中に勝利と復活があります。


産みの苦しみなしに新しい命の誕生がないのと同じです。


十字架は、私のたましいを この地上から解放して天国に導く有益をもたらします。




◎勝利を与える主の力に頼ること




私たちは自分の怠けさと罪との霊的戦いをしなければなりません。

勝利に戦いはつきものです。


「面倒くさいから今のままでいいんじゃないか?」と思う人に勝利はないです。


このままではいけないと思いながらも 悩むだけで何もせず、後回しにする人は どんどん信仰が弱くなり、無気力になっていきます。
そしてサタンに支配されます。


イエス様もサタンとの激しい戦いをして勝利しました。


ですから、私たちにも勝利出来る力を与えて下さいます。

力を与えたいと願っておられます。


私たちが毎日主の名を呼び、主に頼るならば、その力を得ることが出来ます。


主は私たちを贖う方、助ける方、力を与える方です。

それに対する信頼が必要です。


私たちが主の中にとどまり、主の弟子になるならば、私たちの人生の中に命と豊かな実を結ぶように働いて下さいます。


勝利は主の中にとどまる時だけです。

イエス様は何よりも私たちが主と共にいることを願っています。

そして私たちの愛を願っています。


弟子たちは自分だけの力では勝利することは出来ませんでした。


しかし一日中イエス様のことを考え、主を愛し、主の愛から離れなかったので、自分たちの心を守ることが出来ましたし、信仰を守ることも出来、主を裏切ることもありませんでした。


自分が毎日、主の中にとどまっているのか、主を愛しているのか、主のために犠牲を払う準備が出来ているのか、負うべき十字架を負っているのか、主に対して関心があるのかなど点検してみて下さい。


そして一つ一つ悔い改めながら立て直して下さい。

私たちが自分の中にある問題点に気付いて、主との静かな時間の中で主の前に出て行くならば解決されていきます。

主の前に出ない限り、ますます状態は悪くなっていきます。


主のことばのようにやってみて下さい。
(・◇・)ゞ

2016.8.28
聖日礼拝メッセージ

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神のみこころに従って生きる日常生活

テーマは 『  神のみこころに従って生きる日常生活 』 です

【第1テサロニケ5章19-24節】

御霊を消してはなりません。

預言をないがしろにしてはいけません。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

悪はどんな悪でも避けなさい。

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

先週の聖餐式の後に 神様が急に語ったことばがありましたので、皆さんに伝えました。


神様は「良いものを守りなさい」と語りました。

その時に少しだけ説明をしましたが、主がなぜそのことを語ったのでしょうか。


私たちはあらゆることを見て、今の時代が 以前とは違う終末の時代であることを見ていますし、感じています。

終末ということばは 今に始まったことばではなく、昔の人々もその時代を見て語っていました。



終末は まだ来ていない “未来” のことですが、既に自分たちが生きている生活の場、自分の人生の中で動いている人生の過程の延長とも言えます。


終末と言っても何か特別なものとして現れるのではなく、今のように 日常があり、その先にあるのが終末です。


ですから私たちは今の平凡な日常生活の中で 終末論的な霊性をもって生活しないと、主の再臨を喜んで迎えることが出来ないだけではなく、主に責められるようになります。


パウロは終末を生きている聖徒たちに「神のみこころに従って生きる日常生活」を教えました。


今日はそのことについて学びます。




「御霊を消してはいけません。預言をないがしろにしてはいけないです。」




神によって生まれ変わった人の生活は、肉の欲望や自分の思いのままに生きる生活ではなく、御霊に導かれて、御霊と共に歩む生活です。

そのような生活をするには御霊を消しては出来ないことなので、御霊を消してはいけないです。


御霊を消すことはどのようなことでしょうか?


御霊は神なので、実際に私たちがその存在そのものを消すことは出来ません。

本文での “御霊を消してはいけません” の意味は、聖徒が御霊の御心に反抗したり、その導きを拒否して、聖霊の活動を制限することを意味します。

つまり 聖霊が働けないように邪魔をしたり、妨害したりすることです。


聖霊は信じた時から私たちの中におられ、天国まで導く方ですが、クリスチャンになったからと言ってすべての人が聖霊に従って生活しているとは言えないです。


自分の欲望のために聖霊の導きを負担と思い、神の声を聞くことを嫌がります。

皆さんもこのことを経験していると思います。



いつも喜んで神の声を聞き、導きに従っているでしょうか。

自分の思いと合わなかったり、自分の計画と違うと、神様の導きよりも自分の思いのままに動くことが多いです。


そのような自分の思いがあるので、神から預言のことばを聞いても それをないがしろにします。


私自身、神のことばを伝えたのに、それに対して腹を立てられ攻撃されたことが今までに何度もありました。

そして聖霊の賜物に対しても否定したり、不道徳な生活を続けるとそれは神の品性とは合わないので聖霊が悲しみ、それによって聖霊の活動も制限されます。


聖霊の活動が止まると、信仰生活の中で喜びが消えるのはもちろん、聖霊の実を結ぶことも出来ません。
そして心の中には不安と恐れ、葛藤が生まれてきます。


イスラエルの初代王であったサウルが聖霊に従った時には 彼自身聖霊に満たされて良い実を結び、心も平安でした。
しかし神に逆らい始めた時から、彼の心から喜びも平安も消えて、不安と恐れに悩まされるようになりました。


ダビデも神の言葉に違反して罪を犯した時には聖霊の活動が止まり、彼の心からも平安が消えて、毎日葛藤の続く生活をしました。


神の霊的権威に逆らう生活をすると信仰生活に混乱が生じ、健全な霊的生活は出来なくなります。


士師時代の一番大きな問題は何か分かりますか。
士師記の最後のことばが問題の核心です。


【士師記21章25節】

そのころ、イスラエルには王はなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

王がいないことが問題ではなく、イスラエルの王である神のことばに従うことをせず、皆 自分がしたいようにしました。これが問題でした。


聖霊がなさることを、いちいち人間があれこれと判断し始めると恵みは消え、冷たい律法という物差しと自己義だけが残ってしまいます。

それでは良い実を結ぶ信仰生活は出来ません。


御霊を消さないためには自分の不信仰と かたくなさとを捨て、自分の経験に頼らず、神の導きとみことばに頼ることです。




「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」




肉の欲に従う人に欠けているものは、正しい分別力と判断力です。
なぜなら、欲に目がくらむからです。


しかし私たちのうちにおられる聖霊に支配され、聖霊に導かれるならば、聖霊は私たちに悟りを与え、導いて下さいます。


良いものと悪いもの、有益になるものと害をもたらすもの、創造的なものと消耗するもの、永遠のものと一時的なもの、神が喜ぶものと神が悲しむもの、神の国と世のものを分別させ、私たちの人生に良いものが残り、それによって良い人生が送れるように助けて下さいます。


【ピリピ4章8-9節】

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいて下さいます。


本当に良いものを堅く守るために、自分が良いと思うものではなく、神が良いと思うものが何かを知ってそれを受け入れ堅く守ることです。

日常生活の中でいつも神の基準に従って何が良いものなのかを試し、良いものだけをつかんでそれを奪われないように守ることです。




「悪はどんな悪でも避けなさい。」




良いものを堅く守るためには、悪を避けなければなりません。
悪は良いものを傷物にし、ダメにしてしまいます。


外側だけ敬虔なパリサイ人や律法学者に対して、主は厳しく彼らを叱りました。

彼らが悪を避けず、それを自分たちの中に持っていたからです。


【マタイの福音書23章25ー28節】

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。

目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。

そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

彼らのような生活を もし私たちがいま続けているならば、それは主の再臨を待ち望んでいる人の生活とは言えず、終末を生きている人としてふさわしくありません。

なぜなら必ず主に責められるからです。


聖徒たちは平凡な日常生活の中でも、聖別した生活をしないといけないです。

主が 「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でありなさい」 と命じているからです。


形式的な宗教生活で自分の魂が救われるのではないです。


神の御心に従い、御霊の良い実を結ぶ人は 主の再臨の日に恥を受けることはないです。

そして そのように生きる時に、霊、魂、体を主は守って下さいます。


時間は止まることなく、確実に世の終末に向かって進んでいます。

いま私たちは終末に向かって日々歩んでいます。


誰もが主の前に立つようになります。


その日が、恥を受ける日、後悔する日にならないようにしましょう。

そうではなく、すべての労苦が報いられる日、喜びの日になるようにしましょう。


神の御心に従って歩んでいる人の終末は、希望ある明るい終末です。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚


2015.8.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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古い人から新しい人へ

テーマは 『 古い人から新しい人へ 』 です

【詩篇51編10-13節】

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

私をあなたの御前から、投げ捨てず、 あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

神様の恵みの中で生きていながらも 神様との関係がうまくいかない人たちが多く、恵みの中で生きながら神様への不従順のために罪責感をもって 生きているクリスチャンも多いです。

「神様を信じているのに、どうして平安がないのか?」というような経験はありませんか?


【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

クリスチャンとはこのような姿です。

しかし私たちは、新しくなった自分の中に、古い姿が相変わらず存在しているので 私たちは信じた後でも古い人の姿で罪を犯しながら苦しみながら生活をしています。


神様は、新しく生まれ変わった者は滅びていく古い人を脱ぎ捨て、心の霊において新しくされ、新しい人を身につけるべきだと教えておられます。

私たちはイエス様を信じた瞬間から、(私たちの)古い姿を思い出さなくなるでしょうか?
神様を信じているのに、自分が考えている思いはそんなに変わらなく、 自分の生活習慣も性格も行動もあまり変わっていない姿を見て、「私はまだ救われていないのかな?」と感じる時があると思います。


確かに私たちは救われました。
しかし自分たちの中にまだ古い性質が色々と残っていて、それがまた新しい罪を生みだすことが多いです。


ダビデの詩篇51編は、悔い改めの祈りであります。
彼が犯した罪は大きな罪です。

神様がダビデに目を留めて、特別に選び 油注ぎを与え、イスラエルの王にしました。
神の心に適う者でしたが、彼が一度も罪を犯したことがない ということではないです。

ある時に誘惑に受け、なぜかダビデは心を守ることができなかったのです。
人妻をとって姦淫の罪を犯し、その罪を隠ぺいするために その夫を殺害する罪をさらに犯しました。

そして彼はその罪までも闇に葬ろうとして 神に悔い改める事もせず隠していました。ばれないと思っていたのです。

しかし、この罪をばらしたのは、神ご自身でした。


アダムが罪を犯した後に、まず行ったことは 神の前から身を隠したことです。
これは光から闇になった姿であります。

人間はいつもそうです。
なぜなら神の御前に出ると、(神様は)心を見ておられるので、私たちは神様から隠れることは出来ないのですが「闇の中にいれば 大丈夫だ」と思って隠れています。

その意味で、人間は本能的に光より闇を愛します。闇に慣れています。


信仰の人であったダビデも 罪を犯してから、罪を闇の中に隠して普段通りに生活をしたのです。
神様は彼がいつ闇から出て来るのかと待っていましたが、出て来ないので、預言者を遣わして隠していた罪を全てばらしました。

しかし、これは良い事なのです。
罪を隠すことが良い事なのか、それとも罪をばらすことが良い事なのか?これは 罪をばらすことが良い事であります。

なぜならば現さなければいけない出来事は、必ず現さなければなりません。罪は隠すものではないです。


罪を隠しておいて、私たちは平安の中で生きることは出来ないです。

罪を隠しておいて、神様と良い関係を結べることはないです。罪があるならば、問題が解決されません。
罪があるならば、どんなに神様に祈っても その祈りは届かないです。


ですので、罪を明らかにされるのは自分にとっては祝福であります。

罪が明らかにされると、私たちは逃げられなくなります。
そうすると悔い改めるようになるのです。「赦してください。」という言葉を使います。
しかし罪を隠している時は「赦してください。」という言葉は使わないです。


神様が私たちの罪をばらすのは殺すためではないです。
神様は情け深い方、憐み深い方、赦す神様でありますので、それを神様が「いつまでも隠しておいたら命を失うから悔い改めなさい。」と赦すために ばらします。


もし死ぬまで隠しておくならば“罪に対する報酬の「死」”の恐ろしい火が、その人の身に迫ってくるのです。

罪に対する厳しい処罰があります。

しかし犯した罪を光に現わして悔い改めるなら、神様はどのような罪であれ赦してくださるのです。


放蕩息子の例えでも分かるように、立ち返った者たちには回復の祝福を与えてくださいます。


アダムが犯した原罪によって人間が失ったものがたくさんありました。

永遠のいのち・神が与えて下さった聖霊、神との霊的交わり、まことの平安、聖と義、善を行う力、神の中にある自由、エデンの園、神の祝福など私たちが古い人のまま生きるならば、これらのものは絶対に受けることはありません。

古い人の性質はアダムから流れてきているものであります。
神様は悔い改めて立ち返るなら、失ったものを再び与えます。

悔い改めて立ち返るということは、回復を受ける素晴らしい祝福であります。


神様はそれを願って「立ち返りなさい。罪を悔い改めなさい。そうすればあなたは祝福される。」という言葉を語っておられます。

私たちが救われた後でも罪を犯しながら、その罪から離れようとしないならば、その罪が神様との関係に大きなトラブルを犯し、 神から離れ、自分の本性のままに生き 滅びていくしかないです。


肉の欲に負けて、欲望の中で生きていたダビデがそれを脱ぎ捨てて 新しい人を身につける姿を見たいと思います。


【詩篇51編10節】

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

このように祈ったことはありますか?これはとても大切なことであります。

人々は罪を犯すと、なぜか罪ばかりに焦点を当てて「あぁ、罪を犯してしまった。もうこんな罪を犯したくない」と 罪のことを黙想してしまうのです。 「何でこんな罪を犯したんだろう?あの人が誘惑したから悪いのだ。サタンが悪い。」など罪を研究するのですが、それをするからといって 罪が消えるのでしょうか?

そうではないです。


罪から離れるために罪を見つめても、そこから離れることはできません。
私たちが神様の前に罪を犯さないために一番大切なことは、神のみこころに従う心であります。

神のみこころに従う心を、私たちは求めなければいけないです。


アダムが犯した罪は何でしたか?
人殺しですか?姦淫の罪ですか?妬み、怒り、高慢でしたか?――そのような罪ではありません。

一言でいうならば、神様への不従順でした。
“食べてはならない”と命じておられた 善悪の実を取って食べた不従順の実でした。

人間のすべての罪の根底は神の言葉に対する不従順です。


神様の言葉に従うならば、罪は出て来るはずがないのですが、数えきれない不従順の実が結ばれていきます。

ですから ダビデが罪を犯したのは、自分が神様の言葉に不従順していたことに気付いたので、神様に従うきよい心を求めました。


クリスチャンたちは、神様が「従いなさい。」と言うと すぐに「難しいです。出来ません。」と よく言います。

従順するのが難しいと ほとんどのクリスチャンたちが言います。
しかし、難しいのではないです。


私たちは“従順”という言葉と“不従順”という言葉に対して自分たちが持っているイメージであります。

不従順は、人間の自由であり私の思いのままにできるのだという思いです。また従順は、私は自由ではなくなるのだという思いがあります。

従順することは不自由になるという思いがあるので従えないのです。

そして不従順は、「私の思いのままにしても良いので神様の言葉は関係ない。私がしたいことをする!」という自由に出来るという思いがあるので不従順を選んでしまうのです。


しかし、それは真逆に考えなければなりません。

私たちが従順することは、本当に自由を得る道であります。「真理はあなたがたを自由にします。」というみことばがあります。

しかし真理から離れてしまうと、その時から私たちは自由のように見えるのですが、サタンの束縛の中に入っていきます。サタンこそ束縛する者であります。罪の中にどんどん連れて行って、そこから逃げられないようにします。
これがサタンのやり方です。


ですからダビデは、罪を赦して下さいと祈るよりも、自分に必要なものは従順する きよい心であることを知り、
「罪にそまった私の心を新しくし、きよい心に変えてください。」と祈りました。

私たちが神様に祈る時も、罪を赦してくださいということも重要ですが、それ以前にもっと大切なことは「私の心にきよい心がないから こういう罪を 犯してしまいます。ですから私の心をきよい心に変えてください。」という祈りです。

きよい心は罪を犯さない心であります。
しかし「赦してください。赦してください。」だけでは、心が汚れたままなので また罪を犯すのです。




それからダビデは「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と祈りました。
「ゆるがない霊」とは、真実な霊、神にすべてを頼る心、すなわち信仰を意味します。

信仰とは、神様にすべてを委ねて すべてを頼る心であります。


ダビデはすごく神様に従った者で、彼は様々な場面で素晴らしい信仰を私たちに見せてくれました。
彼の中に信仰があったのですが、信仰が落ちてきた時に罪が出てきて神様から離れていきました。

ダビデがこのように願っているのは、神様への信仰を回復したいという思いがあったからです。


クリスチャンは常に自分の状態を調べながら、このような祈りが必要です。

もし今、イエス様に救われたばかりの頃に持っていた喜びがない、その頃の感動がない、熱い心ではなく生温い心があるならば、この祈りが必要であります。

神様への不従順があると信仰は確実に冷めて弱くなっていきます。
それは他人のせいでも環境のせいでもないです。また 自分の力が足りないからでもないです。

先ほどにも言ったように、常に根底にあるのは神への不従順です。
神様を信じてから、ずっとみことばに従順していたならば その信仰は確実に熱くなりますし、確実に成長していきますし、確実に揺るがないものになります。


しかし不従順を重ねていくと、信仰はだんだん弱くなっていき、神様から遠ざかっていくので信仰が生温いものになります。ですから自分の中に生温いものが感じられるときは、不従順になっていることに気付くべきであります。

神様が自分を捨てたのではないです。自分の不従順があらゆる祝福を邪魔していきます。
自分の状態が祝福を受け取らないようになっているので祝福が来ないのです。


聖書にはそのような場面が出てきます。ロトの妻がそうです。

ロトの妻は ソドムの町から神様の特別な恵みで救い出されたのに、なぜすぐに塩の柱になってしまったのでしょうか?

御使いがはっきりと「後ろを振り返ってはならない」と言われたのに、ロトの妻は不従順して後ろを見たので、その瞬間に塩の柱になりました。

祝福を手に入れていたのですが 一瞬にして祝福を逃してしまいました。

私たちは神様の約束があっても自分のものにならない多くの理由は、ロトの妻のように どこか不従順があるので逃してしまっています。

不従順は、祝福をのろいに変えてしまいますので、ダビデのように信仰の回復を祈ることです。




続いて、ダビデは次のように主に求めました。

【詩篇51編11節】

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

これは、「聖霊様、いつも私と共にいて下さい。」と切に求めた祈りです。

ダビデがこのように求めたのは、以前(自分よりも先に王であった)サウルが罪を犯して悔い改めなかった時に、聖霊がサウルから離れ、代わって悪霊がサウルの中で強く働いて滅びた姿を 目撃していたからです。
その時にダビデが賛美をすると、サウルの中で働く悪霊が出ていき 平安な心になる姿を何度も見ました。


聖霊が離れると、悪霊が入ってきて その人の心を支配し人生が潰れていくことを目の前で見たのです。
それでダビデは怖くなり、聖霊様を自分から取り去らないように祈りました。


私たちは何か力ある働きをしたいから聖霊様を求めるのではないです。それは二の次であります。
私たちから聖霊様が取られると、ただの人になるのではなく、悪霊がすぐに入ってきて心を支配してサタンの奴隷となり 悲惨な状態になってしまいます。


私たちが罪を犯すと聖霊様は悲しみます。
そして自分のほうから聖霊様を悲しませると、聖霊様は去って行きます。
聖霊が去った後 私たちはどうなるのかは、サウルの姿を見たら良いです。




【詩篇51編12節】

あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

彼は喜んで仕える霊を求めました。

ダビデが以前、神の恵みに対して歌の中で喜びを現しました。


【詩篇18編1-3節】

彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

ダビデにとって神様は身近な存在であり、神様の偉大さ、素晴らしさ、自分にとってはなくてはならない方であることを褒め称えました。

しかし罪を犯した後のダビデの姿を見ると、喜びがまったく無かったです。
彼が罪を隠していた時には、詩篇が1つも書かれていないです。

私たちが罪を犯して一番最初に消えるものは「平安・喜び」です。


ダビデは悔い改めながら 自分の中から消えてしまった救いの喜びを返してくださいと祈りました。

このようにして神様が彼の罪をばらしたことによって ダビデは勇気を出して神様に祈りました。
そして罪の支配・束縛から離れ、積極的に神様に従順する心で 喜んで主に仕えたいと願いました。

これが私たちの祈りであるべきです。

人々は罪を隠しておいて、罪を楽しむ心があるのです。
罪と知っていながらも離したくないという肉の思いがあるので ズルズルとそこに留まっているのです。

しかし罪と気付いたならば、そこから断ち切ることです。それは悪魔と繋がれた死の綱だからです。


聖書には「心を頑なにするな」という言葉がたくさん出てきます。

私たちが罪を犯すのも、私たちが従順しないのも、環境や弱さ、力や人のせいではありません。
それはすべて「心の問題」であると神様が指摘しているのです。

頑なな心を変えないならば、罪は消えないです。

自分が変わらない理由は、自分の心を変えないからです。
私たちは 自分は変わらないで 相手が変わることを願うのですが、それはとんでもないことであります。


神様は「あなたはわたしの言葉を聞いているのに どうしてあなたは心を頑なにしているのか?」と語ります。
聖書を読むと 神様が語る言葉で、常に私たちに対して厳しく語っているように聞こえてきます。
それは何故だと思いますか?

例えば、誰かが自分に対して罪を犯したとしても神様は「あなたが許しなさい」「憎んではならない」「愛しなさい」と語ります。私たちは「何で私が?!」という思いになるのですが、これにはすべて理由があります。

罪を犯した者に対して怒りや憎しみや恨みが出てきます。その時の私たちの心の状態は 悪魔の心とそっくりであるので、私たちの心を見る神様が苦しむのです。


神様から見たら「あの人も悪いが、その人に対してあなたが抱いている心を見ると、どっちもどっちだ」ということであります。
私たちの顔がだんだん悪魔の顔になるので、それを神様が見たくないので「その思いを捨てなさい」ということです。


反対に「愛しなさい」「許しなさい」となると、私たちの顔が笑顔になっていくのです。

神様の子供である私たちの顔が悪魔に変わっていく姿を見て、神様は喜ぶはずがないです。

あなたの姿が美しい姿であって欲しいので、その意味で神様は「あなたの中にあるものを捨てなさい。」と語ります。


罪を犯した者には、自分で蒔いたものを刈り取らせますが、しかし それに連れられて、あなた自身も罪人になってはいけないので、許すこと、愛すること、受け入れること、親切にすることを みことばによって自分で行わなければいけないです。


それをしない限り、自分の心は美しくならないです。

心を変えないならば、今すぐその人をエデンの園においても、そこで罪を犯します。
それは心が悪いままなので罪を犯すのです。

環境が良くても自分が持っているものは悪いものなので、悪の実を結ぶしかないのです。


ダビデは問題が自分の中にあることに気付きました。
自分の心が悪かったので、そのような罪が生まれたことを知りました。

ダビデは悔い改めて、自分の心を新しくしました。
それを神様が答えてくださり、罪から解放され、死ぬ時まで聖い霊と喜んで仕える霊で主に仕え勝利し偉大な者になりました。


【エペソ4章22-24節】

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着けるべきことでした。

【コロサイ3章9-10、12節】

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、 愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

これは新しい人の姿であります。

こういうものを私たちは日々目指して自分の中に入れることであります。
そうすると人格や生き方が変わり、表情や結ぶ実も変わっていきます。 (´∀`*)

2014.4.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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人生で大切なものは?

テーマは『 人生において大切なもの 』です。

【伝道者の書3章12-13節】

ソロモンの口を通して何を神様は伝えたかったのでしょうか?

あなたの人生の中で一番大切なものは何ですか?
自分の関心はどこにありますか?お金、持ち物、命、家族…色々あると思います。

若い人達は「命の次には携帯電話」だという人もいて、自分の命を落とす人もいますが、
これは何も気付いていないことであります。

決して「物」ではないです。物は一瞬で消えていきます。「人」でもないです。
人ほど移り変わりやすい、裏切りやすいものもないです。
朝霧のように消えていくものですので、神様はそんなものに信頼するなとおっしゃいます。

ソロモンはこの地上で生まれた人の中で一番全ての物を持っていた人物です。
父・ダビデも素晴らしい人でした。神を信じ、知恵、お金、名誉、権力、欲しい物、全てを持っていました。
そして全てのものを経験していました。妻を1000人。あらゆる快楽も全部経験しました。

そのソロモンが語る言葉なので、私たちはすごく納得できます。実際に経験して書いたものが
伝道者の書です。その中でソロモンは「全てのものが虚しかった」と言っています。

それでは一体、生きてる人間は何が楽しみなのでしょうか?
虚しさの中で、「それでは、何故 神様は人間を造ったのだろうか?」
それでソロモンが主にあって悟ったことが、人生の中で一番大切なものが、伝道者の書3章12節のことばでした。

食べたり、飲んだりするのは、「それは快楽でしょう?」と思いがちですが、
私たちが喜び楽しむことは神様からのプレゼントです。
それなら私たちは喜び楽しまなければならない者だということです。

そうなると矛盾を感じてしまいますが、ここで神様が語っているのは私たちの平凡な日常生活の中でということです。
私たちは毎日食べたり飲んだりしています。

「飲む」というのはお酒のことではないです。
人々は特別なことがあると嬉しいと喜びますが、平凡な1日の生活の中では何も感じなくなっています。
しかし日々の生活そのものが、あなたたちにとって神様が与えてくださった喜びであります。

もちろん神様から離れて食べたり飲んだりするならば虚しさだけが残ります。

【伝道者の書2章24-25節】

神様の主権の中で日常生活を楽しみ喜ぶことが大切なことです。

日々、何も感じずにいた部分が1日取り上げられたらどうなるでしょうか?
食べ物が無くなったらどうなるでしょうか?毎年世界では10億人が飢えで命を失くしています。
アフリカでは飲み水がなく、不衛生な水しかない地域もあります。
韓国のある地域では、洪水が起こり各家庭に水が届かなくなりました。すると住人はトイレに行きたいのに
水が出ないから使えませんでした。すると1~2時間後、都会のマンションの裏には汚物が至る所にありました。

人々は1~2時間止まっただけでパニックになります。トイレの水が出ることがどれだけ感謝なことでしょうか。

神様は生きる為に必要なものをいつも与えてくださっています。
祈りの中で語ったことばで、《日毎の糧を今日もお与えください。いつも主にあって求めなさい。》
当たり前ではないです。与えてくださっていることに感謝しましょう。
そして与えられた時は、神様が与えてくださった素晴らしいものを喜び楽しみましょう。

お金が喜びを与えることはないです。お金はあればあるほどあらゆる誘惑に陥る、と。
これは【Ⅰテモテ6章】にあります。

明日の心配はするな。明日は明日祈れば良い。今日守られたことを感謝しますと
喜び楽しみなさい。平凡なことを当たり前ではないことだと気付きなさいと神様がおっしゃっています。
それはとても大切なことで、これらが崩れると全てが崩れるということであります。

【伝道者の書3章22節】

もう1つ人生において大切なことで、「自分の仕事を楽しむこと」です。
人間は働くように造ってあります。たった1度限りの人生です。
2度とやり直すチャンスが来ないということです。だから最善を尽くします。

年老いた人で悔いることは最善を尽くさなかったことで「若かったあの時に、もっと努力していれば――。」
と、よく後ろを振り返ります。わずかな時間の人生の中で、最善を尽くさなかったことを一番後悔します。

もし繰り返し生まれ変われるのであれば、私たちは怠けてしまいます。
しかしそのようなことはありません。1度だけのチャンスです。

だから自分に与えられた仕事・働きに最善を尽くすことが大切です。
手抜きをすると必ず後で自分に返ってきます。後悔ばかりの人生になります。
自分に仕事が与えられたことを感謝しましょう。

世の中には色々な仕事がありますが、自分の仕事に不満を持っている人がとても多いです。
不満があると手抜きになっていきます。心がそこにいかないからです。
不満ではなく、今自分に仕事が与えられていることに感謝しようと最善を尽くすならば
次にすごく良いものが待ってあります。

最善を尽くさない人に神様は祝福を与えないです。
「何で私がこんなことをしなければならないの」と不満を言うのではないです。
日本や韓国は就職難だと言われていますが、そうではないです。
大学生は一流企業を目指していますが、中小企業では人手が足りなくて困っています。

人々の益にならない仕事(詐欺師やヤクザなど)ではなく、
それ以外の仕事の人たちは、私たちにとっていなければ困る存在です。

例えば、ごみ収集の人達がいなければどうなるでしょうか?
1~2日で街中はゴミだらけになってしまいます。臭いもします。本当にその人達に対して感謝であります。

主婦の仕事や会社の仕事を喜び楽しみながら臨むと、努力した成果が出てきます。周りの人も見ています。

最善を尽くすことが大切です。手抜き・不満ではないです。

【エレミヤ書31章3節】

神様は何でもできるお方ですが、全てのことに最善を尽くす神様であります。
小さいことに忠実な者に大きいことを任せるということは、小さいことだからないがしろにするのではなく、
それを本当に心を込めて最善を尽くす人に神様は祝福を備えてくださいます。

「こんなこと…」ではなくて、私たちは与えられたことに対して最善を尽くす時に
神様はそれよりも大きいものを次から次へと備えてくださいます。
そのような人達が人生で成功します。人生で後悔もないです。

力を残すと、後で後悔し引きずってしまうので、引きずらない為にもその時に出来る精一杯のことをします。
「私に出来ることは何か?」探してみて、力が残らないようにやってみます。
それが終わったら、それ以上出来ることはないから感謝し、引きずらないことです。

神様は1つのことを教えてくださっています。
今日という日、それは今 生きているこの瞬間のことであります。
私たちは「明日が…、あさってが…。10年後が…、20年後が…。」いつもそれを見ているのは
それはしっかりと地に足がついていないことです。

【へブル3章13-15節】

今日1日、最善を尽くしましょう。「明日がどうなるかあなたにはわかるのか? わからないんだ。
今の時間が永遠に続くことはない。あなたに与えられた時間は今しかないんだ。
今日この時間が大切であり、すべきことをしなさい。神様を愛することを今日しなさい。」
今日与えられたことは、自分が持っている力を使うことです。自分に与えられた分だけ最善を尽くします。

隣人に対してもずっと自分といるわけではないです。「今日」愛すること。
仕事、家族、隣人に対してもそれを楽しみながら最善を尽くすと自分が満たされていきます。
そして自分が成長していきます。
しかし、「明日にしたら良い」となると、終わりの日になると後悔ばかり、引きずることばかりになります。
その人生は失敗になります。

【伝道者の書7章1-4節】

良い名声…これは有名になって、色んなことをして業績を残す、ということでないです。
神様と人々から受ける良い評判のことです。
霊的な姿、人格、行いの動機が神様から認められることです。
パウロのようになりたいな、ペテロのようになりたいなというのが良い名声ということです。

生まれたその日から、罪や労苦、心配が始まります。冷静に見ると苦労が多いです。
だれもが通る道です。
神様がいなければ死ぬ日は地獄へ行くので恐ろしいですが、私たちは主にあって
死ぬ日は全てから解放される日であります。労苦から悲しみから心配から解放されて
安息の地に入ることです。これが聖書が教える死後の世界です。信じる者が入る世界であります。
これを悟らなければならないです。

喪中の家に行くと、私たちの心が謙虚になります。自分もいつかこうなるんだろうと
誰も避けることができないので、自分を顧みる時間になります。そこで教わることが多いです。

肉体を喜ばせる快楽の人生が良いと求める人がとても多いです。
「それが無いと生きた意味がない」という人は、愚かな者です。
肉の満足だけの為に生きる人生は滅びだけが待っています。
大切なことは自分の未来を準備する人が本当に知恵ある者であります。

あらゆるものを通して学びなさい。
人々の心にいつまでも残る人になりなさい。どこに向かって歩くのか?

【伝道者の書12章13節】

最も大切なことであります。神様の栄光のために人間を造ったからです。

【イザヤ43章7節】(人間を造った目的であります。)

自分の為にこうしてくださいと次元の低い祈りではなく、そして神様を自分の為に使うのではなくて、
順番を間違えてはいけません。神様の為に私が造られたということです。

しかし神様は怖いお方ではありません。

あまりにも素晴らしいお方、偉大さの前で、それに対する尊敬の思いが「恐れ」であります。
その前に自分が軽率にできないからです。自分と同レベルだと思ったらいけないです。

神様を心から尊敬する人が、神様の命令を守ります。
神様を軽く考えるから、神様の命令を軽く扱います。自分が何者かを知るべきです。

①生きている間、日々の生活の中で喜び楽しむこと。
②自分の仕事を楽しみ、最善を尽くすこと。
③死んだ後に良い名声を残すように生きること。
④神を恐れ、その命令を守ること。

これらが最も大切なことです。悔いがない人生が成功した人生です。
日々の生活の中で実行してみてください。どう生きるべきかを知って生きる、知恵ある者になります。

そういう人がたくさんの良い実を結ぶことができます。
神様が、わからないなら学びなさいと教えてくださっています。
あなたの人生を楽しみながら生きなさい。苦しみながら、泣きながら生きるのは、神様のみこころではないです。
私たちの生き方が間違えているから、たくさんの苦しみに遭っているだけです。

教えられた通りにやってみるならば満たされます。
他人が認めるかどうかは関係なく、自分自身の心が満たされます。

今日学んだことを自分に当てはめて、生き方を直す部分があれば直してみてください。(^∀^)

2012.2.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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