からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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十字架

キリストの十字架

テーマは 『 キリストの十字架 』 です

ハレルヤ
今日も平安がありますように


カルバリの丘で キリストが十字架にかかった時に、多くの人々が集まっていました。


そこにはあらゆる悪い人々がいました。

十字架にかかって苦しんでいる主を見て、勝利を歌いながら喜ぶ者たちがいました。


そこには狡猾な者、罪悪に満ちた者、主に対抗する者たちが多かったです。

そして自分を正しいと思い、自己主張の声が大きかった者たちでした。


キリストを憎み、殺意を持っていた人たちがキリストを十字架につけました。

次の箇所に彼らの様子があります。


【ヨハネの福音書19章15節】

彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」 祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

その激し叫びに負けて、ピラトはキリストを彼らの手に引き渡しました。

殺人者たちの手に引き渡されたキリストは、あっという間に十字架につけられました。


十字架につけられたキリストを見る彼らの顔には、自分たちの思い通りになったことで、満足感と勝利に浸っていました。


そして苦しんでいるイエスに さらに彼らは「自分を救ってみろ」と嘲り呪いました。

良心の呵責(かしゃく)すら彼らは感じていませんでした。

皆、テロリストの姿と変わりなかったです。


別のグループの人たちがいました。


悲しみのあまり 声を出すことも出来ず、遠く離れて泣いている人たちがいました。


主から様々な恵みを受けた人たち、その恵みに感謝している人たち、主の苦しんでいる姿に心を痛めている人たちがいました。


彼らは何も言えず、黙って十字架のキリストを見ていました。

そして彼らは自分をキリストと共に十字架につけ、キリストと共に死にました。


キリストの十字架の前には、中間地帯がありません。

どちらにも属さないでいることは出来なく、ただの見物人で終わることは出来ません。


世の中のことは無関心であっても、それが罪に問われることは それほどないですが、人間を贖うために来られた救い主に対しては、神は「あなたはどちらにつくのか」と問われます。


今、あなたの前で「あなたの罪のために十字架にかかって苦しんでいる救い主を信じて救われたのか。それとも「こんな者は十字架につけろ」と 敵対する者になりたいのか」と聞いておられます。


私は十字架の主を、私の救い主として受け入れました。

皆さんはどうですか?
選ぶのはあなた自身です。
( -д-)ノ


2015.8.14
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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パウロが見たキリストにある自分の姿

テーマは 『 パウロが見たキリストにある自分の姿 』 です

【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

多くの若いクリスチャンたちが集まってワーシップソングを歌っている映像を見ました。

その時の賛美の内容が今日の聖書のことばでした。


舞台に上がって賛美をリードする若者たちも、立ち上がって賛美している多くの若者たちも、目を閉じて、胸に手を置いたり、ある人は手を上げながら賛美していました。

まるで主に今日のことばを自分の信仰告白として告白しているかのように見えました。


しかし次の瞬間 このように思いました。
「本当にそう思って賛美しているのかな?」と。


あまり考えることもなく、ただ賛美に酔っているだけの人もいるでしょうし、口だけの告白かも知れないです。


しかし、パウロの告白には違和感が感じられないです。

なぜならば、その通りに生きたからです。


使徒パウロは、聖書の中に自分の信仰告白と共に、自分がキリストにあって何者であるかを告白しました。

それはキリストにあって発見された自分の姿でした。


みなさんもキリストに会って発見された自分の姿があると思います。

パウロが発見された姿を見てみましょう。


自分がキリストにあって何者であるかを発見することはとても大切なことです。




キリストと共に十字架につけられて死んだ古い自分の姿




十字架は死ぬ場所です。キリストがそこで死にました。

キリストが十字架にかかった時に、パウロが一緒に死んだわけではないです。

それなのに なぜキリストと共に死んだと言えるでしょうか。


自分が罪人である認識がないとキリストの十字架は意味のないものです。


悔い改めも 救いも なぜ必要なのかも分かりません。

しかし、自分が罪人である認識は キリストの十字架の意味を知らせる大きなカギになります。


パウロが よみがえられたイエス様に出会って、初めて分かったのが キリストがメシアであること、十字架の意味、そして自分が罪人であるという認識でした。


そしてキリストの十字架は、自分の罪のためであると認識しました。


自分が死ぬべき場所にキリストが代わりに死んだことを知りました。

それを知ったパウロは 古い自分をその十字架につけました。

それは新しい人として生きるためでした。


古い人のまま生きることは 神の恵みを無にすることであり、キリストの死を無意味にすることだと悟りました。


自分のたましいを救うために犠牲を払った主のために生きるためには 古い人は死ななければならないです。


そしてパウロの中にはいつも十字架がありました。



【ガラテヤ6章14節】

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

パウロはイエス・キリストの十字架を誇りとして生きました。


十字架の力、十字架の福音、十字架の望みを いつも心に刻んで生き、それだけを伝えました。


それが新しく生まれ変わった彼の姿でした。




使徒の中でも もっとも小さい者である姿




【第1コリント15章9-10節】

私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

私たちが見るパウロは 使徒の中でも一番すぐれた使徒ですが、本人はそう思っていなかったです。

それこそが謙遜な姿です。


パウロが使徒として召されたのは、主が生きている時ではありませんでした。

教会に対して迫害しているパウロの前に 主が現われ、彼を選びました。


ある意味 使徒として一番不適格な人物がパウロでした。


パウロ自身も それにはびっくりでしたが、使徒として選んで下さったことは自分に対する大いなる主の恵みであることを知ってパウロは使徒としての務めに全力で取り組みました。

最後までその姿は変わりませんでした。


教会が大きくなる前は 謙遜で良い働きをした主のしもべたちが、教会が大きくなり、信徒の数も増え、有名人になると態度が変わって転落の道をたどる人がとても多いです。

世界的に有名な先生が倒れていくのは、パウロにある姿がないからだと思います。


外側は謙遜に見えますが、うちにあるのは “これは全部私が働いて築いたものだ” という自慢です。

いつの間にか“主”ではなく、“私”が主役になってあります。
もっとも危険な姿です。


しかしパウロはあれほどの働きをしたにもかかわらず、それを自慢したり、高慢になったことがありませんでした。

もし高慢になったならば、神の恵みを無にしたことになります。


たくさんの働きをしたからと言って、自分が偉いわけではなく、むしろ恵みが与えられ、働きが出来たことを主に感謝しないといけないです。


パウロはいつもそのようにしていました。




罪人のかしらである姿




【第1テモテ1章15節】

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

この言葉がパウロの口から出たことはすごいことだと思います。


なぜならば 本来の彼の基準からみたら、自分ほど正しい者はいないからです。

誰よりも律法に熱心で、敬虔な生活を送り、律法を落ち度なく守っていました。


罪を犯しながらも自分は罪人じゃないと思っている人とは違いますね。


パウロは宗教に熱心な典型的なパリサイ人でした。

ですから 他のパリサイ人と同じくイエス様に敵対していました。

それはイエス様や弟子たちを律法を乱す とんでもない罪人と思って迫害しました。


そして救いは律法を守れば大丈夫だと思っていましたので、イエスの存在が理解出来ませんでした。


しかし復活のイエス様に会い、霊の目が開かれてから 本当の自分の姿に気付きました。

自分がとんでもない罪人であることに気付きました。



【第1テモテ1章13節】

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていない時に知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

パウロは無知であった自分に対して、主が豊かな恵みを与えて下さったことに対して 絶えず感謝をささげました。


思い出す度に恵みの大きさに感激しました。

そして彼は生きることも主のため、死ぬことも主のためと決めました。


それからは後ろを振り返ることもなく、主のために、福音のために生涯をささげました。

そこには何の迷いもありませんでした。


なぜならば生きる目的が明確であったからです。


【ガラテヤ2章20節】

いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

アーメン ( ̄‥ ̄)=3

2016.1.10
聖日礼拝メッセージ

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幸いな人とわざわいに陥る人

テーマは 『 幸いな人とわざわいに陥る人 』 です


【箴言28章14節】

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。

人間にとって一番の願望は、幸せになることです。

また人間が一番恐れているのは、わざわいに陥ることです。


箴言28章14節には “幸せになれる人と、わざわいに陥る人” のことが書かれています。


今回は幸いな人とわざわいに陥る人に対して語ります。

決して難しい内容ではないので、聞く耳をもって聞いて下さい。




幸いな人はいつも神を恐れる人です




“恐れる” ことは神様を恐がることでしょうか?
そういう意味ではないです。

色々な意味がありますが、一番の意味は 真実な心と愛をもって神に仕えることです。


神は心を見抜くお方ですから、私たちが偽りの心で神に仕えても 全てお見通しです。

そして、私たちのそのような心と態度を忌み嫌います。


しかし神を信じる人が皆、神を恐れているでしょうか?


恐れる人よりは、恐れない人の方が圧倒的に多いです。


まずは神に対する真実な心があまりないです。

自分の都合によって神に近づいたり、距離を置いたり、離れたりといつも変わります。


その心や愛が本物には見えず、偽りが多いです。


皆さんの心はどうでしょうか?

何があっても神を愛する心に変わりはないですか?


イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロに対して 主が質問したのは1つでした。


「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と三度も聞きました。

自分のいのちが危なくなった時に、ペテロはイエス様を捨てて、「知らない」と言いました。


ペテロ本人はイエス様のことを他の誰よりも愛していると思っていましたが、実際その愛は 真実な愛ではありませんでした。


真実な愛は愛する相手と一緒に重荷を負い、死の道も一緒に歩みます。


私たちが神の愛を確認したのもイエス様の十字架でした。

神はその愛を、イエス・キリストを私たちのために十字架の上で死なせたことで見せました。



【ローマ5章7-8節】

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

愛にはこのように はっきりとした証拠が要求されます。

言葉だけの愛は真実な愛ではありません。


神を恐れている人には 真実な愛があるので、何があっても変わらない愛をもって忠実な態度で神に仕えます。


また神を恐れることばの違う意味は、神に従順することです。


従順のない礼拝に何の意味があるでしょうか。

従順のない信仰は偽善の信仰です。


神は偽善の信仰を一番嫌います。


神が私たちをどれほど愛しているかを私たちが知っていながら、その神に従順しないならば、私たちが 「神を愛する」 と告白しても、そのことばは偽善的なことばにしか聞こえません。

愛には従順が必須です。


ですから神は “わたしを愛する者は わたしのことばを守りなさい” と言われました。




神をどのように恐れるのか




神を恐れることは、生まれながらの人間には出来ません。

必ず神様の教えを学ばなければならないです。


神を恐れたことのない人間が、信じてすぐに変わるわけではないです。


神がモーセを通して律法を与えた理由は何でしょうか。


【申命記4章10節】

あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」

私たちが神を恐れ、神からの祝福を受けるためには、神のもとに来て学ばなければならないです。


ですから “神に仕える” と言いながら、神の言葉を聞くことを嫌がる人は 神に愛される資格がありません。


神はホセア預言者を通しても語りました。



【ホセア書6章6節】

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

ですので、ホセアは「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」と民に語りかけました。


どのようにして神を恐れるのかを 神から聞かないとその方法がわかりません。


主のことばを学ばず、興味も持たない人は神を恐れることを知らないので、神を恐れることもしないですし、神の愛も祝福も受けることが出来ません。




神を恐れる人が受ける祝福は何か




神を恐れる人は幸いであると初めから言いましたが、どのような祝福があるでしょうか。

神は蒔いた通りに刈り取る法則を作っておられます。


私たちが祝福を受ける目的で 神に仕えることをしなくても、神は初めから祝福を備えておられます。

祝福の約束が聖書に書かれています。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

この祝福は、この世で生きている間に受ける様々な祝福を意味します。


誉れは 他の人から尊敬される位置にまで上がって神に栄光を現します。

そして最も優れた祝福はいのちです。


いのちとは救いを意味し、永遠のいのちを意味します。


神を恐れる人に 神はこのような祝福を約束し、神の御国を相続させて下さいます。

そして神を恐れる人たちの祈りを神は喜んで聞いて下さいます。


神を恐れず自分勝手に生きて困った時だけ神に助けを求める人と、いつも神を恐れている人が神に求めた時に どちらの人が より祈りの答えを得ると思いますか。

断然、神を恐れる人の祈りです。


神は喜んでその人たちを助け、祝福を与えてくださいます。




心をかたくなにする人が陥るわざわい




かたくなな心に対しての聖書のことばは結構厳しいです。


“かたくなな心” とは、その心が石のように硬くて 神の恵みを受け入れることが出来ない状態です。


恵み深い神様はすべての人に恵みを注ごうとしますが、かたくなな心の持ち主はそれをかたく拒みます。


心を閉ざすので、神の恵みを受けることも出来ないですし、実を結ぶことも出来ません。

金槌のような主のことばで叩いても何とも思いませんし、聖霊の強力な火のようなことばを聞いても何も感じません。


聖書ではこのような人を愚か者と言います。


本人たちは自分を賢い人、慎重な人と思うかも知れませんが、神の目には愚か者に過ぎません。


その心は道ばたのような心です。

なぜ人の心がそこまでかたくなになるのでしょうか?
それは “罪” によるものです。



【ヘブル3章13節】

「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

このように言われたように罪の誘惑を受けると 心がかたくなになり、罪に落ちていきます。


私たちは毎日襲ってくる罪の誘惑を信仰によって勝たなければなりません。

私たちを誘惑する最大の敵は 外にあるのではなく、自分の中にあります。


自分の中にある罪の性質がいつも自分自身に戦いを挑みます。


パウロはこの激しい戦いのことで次のように語りました。



【ローマ7章19-20節】

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


【ローマ7章24節】

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


このように自分の中に激しい戦いがあることを語りました。


外からの誘惑、内からの誘惑に勝たないと ますます心は罪によってかたくなになっていきます。

この世の誘惑に負けると、この世のあらゆるものに心が縛られて、心が石のように堅くなり、なかなか癒されません。


心のかたくなな人が災いに陥る根本的な理由は、神のことばを聞こうともせず、そのことば通りに生きることをしないからです。

そのような人は神のことばを聞くことすら嫌がり、耳を塞いで 「聞きたくないから話すな」 と言います。


皆さんの中で 神のことばを聞きたくないと思っている人がいるならば、その人は自分の心がかたくなになっていることに気付かなければなりません。そして早く悔い改めることです。


心がかたくなになることは なぜ恐ろしいことなのでしょうか。


なぜ災いに陥りますか?


神様は心のかたくなな者に対して干渉せず、好き勝手に生きるように放置します。

するとその人の状態はどのようになるでしょうか。次の箇所です。



【ローマ1章24-32節】

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。


“死罪に当たる” ということばがあるように、最後は永遠の死を迎えるようになります。


自分の好き勝手に出来ることを喜び、地上で何も起こらないからと安心していても、永遠に消えることがない苦痛が待っています。


その人たちは自分自身でわざわいを招いていることに気付かなければなりません。

神を恐れることが祝福への道です。


皆さん全員が神を恐れ、幸いな人生になってほしいです。
(*´∇`*)

2015.9.20
聖日礼拝メッセージ

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復活は事実です

テーマは 『 復活は事実 』 です

【マタイの福音書28章1-8節】

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そ こで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

主が十字架にかかった時は街中の人々が集まり、主が死んでいく姿を見ていました。

それは、その日の一番大きなニュースだったと思います。
新聞ならば一面に載った記事だったと思います。


大祭司やパリサイ人、総督や軍人、一般の人たちまでも関わった事件でした。


復活は人々の目につかない時に起こりました。

安息日が終わり、週の初めの明け方でした。明け方は まだ人が活動する時間ではありませんし、朝早い時間に墓参りへ訪れる人もいません。


そのような時に復活は起こりました。
主が十字架にかかっていた時には、御使いは一度も見えませんでした。

大声で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言っても、神様や御使いは何の反応もありませんでした。


人々は自分を救えないイエスを見て嘲笑いました。
「やはりメシヤではなかった。普通の人じゃないか。」と思いました。

しかし、これで終わりではないことが、キリストが神である証明となります。

何よりも復活こそが神である証明です。


死んで終わりであるならば、ただの人です。ナザレ人イエスが死んだだけのことです。

しかし復活があるので 人間ではなく神であることが証明されました。

そしてその復活は事実です。
また、それは何によって証明されたでしょうか。今回、それを検証します。




1.主イエスの預言の的中




事前に何度も「死んで葬られ、三日目によみがえる」と主は話しましたが、その通りになりました。

墓に入ったことは完全に死んだことを意味しますが、そこから自ら出て来ました。

御使いが石を転がす前には すでによみがえっていて墓の中にはいなく、墓の外にいました。
そして生きている姿を人々に見せました。


イエス様は公の場で活動していた時に、すでに死んでいた人を三人も生き返らせたことがありました。

ナインという町に主が行かれた時に、やもめの一人息子が死んでかつぎ出されるところを見ました。

その母親を見てかわいそうに思い、棺に手をかけて「青年よ。あなたに言う。起きなさい」と言うと その死人は起き上がりました。
それを見て人々は恐れを抱き、神を崇めました。


今度は会堂管理者ヤイロの12歳になる一人娘が死にました。

主はその娘のところへ行き、娘の手を取って「子どもよ。起きなさい」と叫びました。
すると娘の霊が戻って来て娘は起き上がりました。


ラザロも死んで墓に入って四日目になりましたが、主は墓の前に行って「ラザロよ。出て来なさい。」と大声で叫ばれました。

すると 死んでいたラザロが生き返って墓から出て来ました。


この三人を生き返らせたことでも、すでに主は自分が話したことばに対して証明して見せました。

ラザロのお姉さんであるマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と主は言いました。


そして「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言った後に、墓の所へ行ってラザロを生き返らせました。

これらは主がいのちの主権者であることを表した出来事です。
そしてご自身も死からよみがえることを前もって はっきりと見せた出来事でした。




2. 数人の番兵たちが復活の目撃者




彼ら(番兵)は主の味方ではありません。

彼らは祭司長やパリサイ人たちがピラトの所へ行って、弟子たちがイエスの遺体を盗むことがないようにと頼まれたことで ピラトが出した兵士たちでした。

そして兵士たちはイエスを鞭打ち、十字架につけ、復活を信じない者でした。


しかし 突然大きな地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、墓の石を動かす姿などを見て震え上がり死人のようになってしまいました。

夢ではなく現実に自分たちの目で はっきりと見たので恐れおののきました。


そして祭司長たちの所に行って、起こったことを全部報告しました。

その報告を受けた祭司長たちの対応を見ても復活が事実であることが証明されました。


【マタイの福音書28章11-14節】

女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こったことを全部、祭司長たちに報告した。

そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、

こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。

もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」

と言いました。


目撃者にうそを言わせるために多額の金を払うことは、復活が事実であったことを証明するものになります。

十字架につけた者たちも驚かせたのが主の復活でした。




3.主の弟子たちが主の復活の証人




墓を見に来たマグダラのマリヤや他のマリヤが 誰もいない墓や御使いのことばで驚き、それからすぐにイエス様に会い、主は彼女たちに「おはよう」と声をかけまし た。

彼女たちは大喜びでした。それから主の弟子たちが次々と主に会いました。

何度も主に会ったので誰も復活を疑う者はいませんでした。


疑っていたトマスも後に自分の不信仰を恥ずかしく思いました。




4.500人以上の兄弟たちが同時に復活の主に会う




目撃者が多くなればなるほど、それは事実として認められます。


【第1コリント15章6節】

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

これらのことで人々は復活を当然のことのように受け入れました。

聖書の後半部分を読んでも復活に対して異議を申し立てる者はいませんでした。


祭司長たちも後で弟子たちを迫害しても、キリストの復活はうそだとは言えませんでした。




5.主を迫害したパウロが復活の主に会って回心した




パウロの回心は、本人はもちろん誰も予想ができなかったことでした。

彼は誰よりも熱心にキリストを伝える者を迫害し、教会を荒らした者でした。


パウロがダマスコに行って キリストを信じる者たちを縛り上げる目的で進んで行く時に、突然 天からの光で彼は地面に倒れました。

そして声が聞こえてきました。
「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか」 「主よ。あなたはどなたですか。」 「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」


これによって彼は完全に別人になってしまいました。

いくら主のことばを聞いたり、復活の話を聞いても堅く心が閉ざされていた過激派の彼が一瞬にして心が変わり、主の弟子になりました。

そして誰よりも多くの働きをした使徒になりました。

自分が直接目撃したり、体験することが一番影響力が強いです。






もし 今もキリストの復活が信じられないとか、作り話だという人がいるならば、聖書をよく読み、また歴史もよく調べたら良いと思います。読まずに知らないままで否定する人は愚か者です。

確認もせず否定するのはよくないことです。よく調べてから判断することを勧めます。


私たちの罪を贖うために、人間と同じ姿になるしかなかったイエス様でしたが、十字架の死によって贖いの働きを完成しましたので、本来の神の姿に戻るためによみがえりました。

そして、いのちの主として 私たちにも復活のいのちを与えて下さると約束して下さいました。

私たちに起こる復活の姿はこれです。


【第1コリント15章42-44節】

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ 、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

聖徒の復活もすべて主によって与えられる最高の祝福です。


よみがえられたイエス様に心から感謝します。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2015.4.5
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか

テーマは 『 イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか 』 です

【Ⅰコリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

今日は教会歴においてはシュロの日です。

イエスは十字架にかかるためにエルサレムに入りました。
それを知った人々は、今度こそイエスがユダヤの王になると思って、大歓迎しました。


その時、人々はシュロの木の枝を取って、出迎えのために出て行き、
“ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。”と大声で叫びました。


その日をシュロの日と言います。


人々にとっては これから自分たちに何か良い事が起こるという期待が大きかったです。
しかしイエスにとっては 苦難の十字架の道が始まる日でした。

それを知っているのはイエスご自身だけでした。

十字架が見えていない時は イエスは人々に歓迎されましたが、十字架が見えた時から人々の反応が分かれ始めました。

十字架に対して人々はどのように変わっていったでしょうか。


そして、みなさんはイエス・キリストの十字架と どのような関係ですか。




1.十字架を愚かと思い、毛嫌って呪う人




「十字架??あれは凶悪な犯罪人が受ける罰ではないか。」

「何だ、あの人は神でもないのに、自分のことを勝手に神と言い、人を惑わした者だったのか。神を冒涜した人は死ななければならない。騙されたことが悔しい。これ以上は騙されないぞ。」


このように怒りが込みあげてきた人たちは激しく叫びました。


「除け。除け。十字架につけろ。カイザルのほかには、私たちには王はありません。」と、世の王を自分たちの王として選び、まことの神を殺してしまいました。


キリストを十字架につけた彼らは 十字架で苦しんでいるイエスを見て、あざ笑って言いました。


「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら自分を救ってみろ。」

「おお、神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

「他人を救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」


このように偉い人たちも十字架にかかったイエスを呪いました。


世の基準で見る十字架は 彼らにとっては犯罪人、呪われた者、愚かな生き方をした者、生きていては困る者たちが死んで当然な場所なので、絶対受け入れることが出来ないものでした。


彼らは自分たちの知恵に頼って、それで満足して、十字架を信じるどころか、拒絶反応を起こして呪います。

死んでも関係を持ちたくない と十字架を遠くに投げる人たちです。




2.十字架に無関心な人たち




「あの人は悪いことをしていないと思うよ。毎日 病人を癒し、奇跡もたくさん行ったし、まじめで優しいし。」

「十字架にかかるとはかわいそう。あの人を殺すなんて悪いことをしたな。」

「生かしておけば もっともっと奇跡が見られたのに。病人が助かるのに もったいない。」

「良い人だったのに もういなくなった。でもどうして神と言った人が十字架にかかって死んだのだろう。」

「意味が分からない。もう死んでしまったから忘れよう。」


このように十字架のイエスに対して無関心に生きる人たちがいます。


「別にいなくても困ることはないし、あの十字架とはもう関わりたくありません。」

「他にも信じているものがあるし、あんな死に方をした人を信じるのはちょっと…。」

「もう良いです。自分も救えなかったでしょう。あの人より立派な働きをした人もたくさんいるし。」


キリストの十字架を “無力” だと思って、他に頼れるものを探して、それに目を向けて自分の都合の良いように生きている人が一番多いです。


この世がすべてで、この世で利益をもたらしてくれるならば 魂でも平気に売る人たちにとって、十字架は関わりたくないものです。

「神のことも、罪のことも、悔い改めのことも、地獄の話も聞きたくはない。別に要らない。」と十字架とは無関係に日々生きています。


私自身も信じる前はそのような者でした。
十字架はキリスト教会のシンボルでしか考えたことがなく、イエス・キリストが死んだ十字架だとしか思いませんでした。

なぜ死んだのかと一度も考えたこともなく、キリストの十字架に対して考え始めたのは信じてからでした。

それまでは自分にとって十字架はまったく関係のないものでした。




3.キリストの十字架から目を離さない人々




実際にキリストが十字架にかかった時、十字架の真の意味を知っている人はイエス・キリスト本人以外には誰もいませんでした。

弟子たちも主の母であるマリアも知りませんでした。

キリストは一人で孤独に死んでいきました。


医者たちが、“キリストがどのくらい苦痛を味わったのか”を医学的に検証しました。

その話を聞いた時に、私たちの想像をはるかに超える痛みでした。


汗が血のしずくになるまで祈った時から、体の中ではストレスで血管が破裂していました。

裸にされてローマの兵士たちが力強く打ったむちで肉が裂かれ、神経が痛み、骨までも見えたと言います。

出血によって歩くことが出来ないほどの貧血状態に陥るとも言われました。


十字架の上ではさらに激しい痛みがあり、息をするたびに全身に鋭い痛みが走るので、ことばでは言い表すことが出来ないほどの痛みだと聞きました。

その激しい痛みの中でもイエス様は自分を十字架につけた人々を赦しました。


そして、涙を流しながら十字架を見上げる人たちがいました。
十字架の意味はまだ分かりませんが、主を愛して主に仕えていた人々でした。

たとえ人々がイエスを激しく呪っても、その人たちは主が与えて下さった恵みが忘れられません。
その愛を裏切ることが出来ません。ただ涙を流しながら、主の死を悲しんでいました。






私自身、何日間も ずっと心の中で流れていた賛美がありました。


韓国の賛美ですが、「主はなぜ私を愛したのか。なぜ私のためにカルバリに登らなければならなかったのか。なぜ私のために十字架にかからなければならなかったのか。」という歌詞です。

そうしたら その賛美の中にペテロもパウロも入って来た思いがしました。

彼らも同じ賛美をしているように感じました。


【 ペテロ 】

「主を三度も知らないと裏切った私をどうして赦し愛しておられますか。なぜ私を愛し、十字架にかかりましたか」


【 パウロ 】

「主を嫌い、教会とあなたと信徒たちを迫害した私をどうして愛して、私の罪のために十字架にかかりましたか。」


私も言いました。

「自分勝手に生きて神様を悲しませた私、多くの罪を犯した私をどうして愛して下さったんですか。なぜ主は私のためにカルバリに登らなければならなかったのですか。」

繰り返し心の中で賛美しました。


なぜ私が主に愛されているのか、なぜ私が赦されているのかがわかりません。
その愛から離れることが出来ないから主の十字架を見上げています。


主の赦しが十字架から流れるので主の十字架を離れることが出来ません。

「主よ。なぜ罪のない方が罪人である私のためにその激しい苦しみを受けなければならなかったのですか。」
罪赦して下さる十字架のキリストから離れて行く所がありません。


目が開かれ十字架に隠された恵み、祝福、神の力が見えてきました。

イエスが罪人ではなく、犯罪人でもなく、死んで当然な人でもなく、人を騙す者でもなく、生きてはいけない人でもなく、神を侮辱した人でもなく、自分を救えない人ではないです。


キリストを十字架につけた偉い人たちや呪った人たち、無関心であった人たち、知らなかった人たちや私たちが 本当は主がかかった十字架にかからなければならない者です。


自分に代わって死んで下さった方を愚か者と思っている人がいるならば、その人は世界一愚か者です。

キリストを侮辱するものは神を侮辱する者で、罰を免れることはありません。


もう一度十字架を見て下さい。
愚かに見えますか。関わりたくない十字架に見えますか。

それとも十字架を見て、「なぜ私を愛して十字架にかかりましたか」と涙が出てきますか。
。゚(゚´Д`゚)゜。

2015.3.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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何度まで赦すべきでしょうか

テーマは 『 何度まで赦すべきでしょうか 』 です

【マタイの福音書18章21-22節】

そのとき、ぺテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

人間関係には色々と困ったことがあります。
愛したいのに愛せない悩みや 赦したいのに赦せない悩みがあります。

ある人たちは「死んでも赦さない」と言いますが、この場合は最初から赦す気がまったくありません。

こういう人はとても気の毒な人で、きっと誰から何を言われても絶対に赦すことをしないと思います。


赦さないことは、誰かに対して憎しみや恨みがあるということですが、それを死ぬまで持ち続けているなら安らかに眠れるでしょうか。その姿が気の毒に思います。

自分に対して罪を犯した人を赦したことがありますか。
もし赦したならば、それは立派なことです。

しかし、赦していない人がいるならば、その理由は何でしょうか?


今回は赦すことに対して考えたいと思います。


私たちが主のことばに従うために、また自分の心をきよめるためには赦すことをないがしろにしてはいけないです。

まず私たちが自分に対して罪を犯した相手を赦すためにすべきことがあります。




①自分を捨てる道理を学ぶ




本文で、なぜぺテロが「七度まででしょうか」と言ったのでしょうか。

時代背景を考えてみましょう。
ユダヤ人は少なくとも兄弟を3度赦すならば、その人は心の広い寛容な人で立派な人格者だと言われました。

ですからぺテロが「七度まで」と言ったのは、それよりもさらに自分は人格者であることを示したかったと思います。

その心を知っているイエス様は彼の自己中心的な思いを壊すために「七度」を「七十倍」と言いました。


赦しと愛は、人間の義の根拠ではなく誇りにもなりません。
なぜなら、まず神様が私たちを赦し、そして愛してくださったからです。


【Ⅰヨハネ4章10節】

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

“自分には愛があり、心が寛容だから人を赦せる” という思いを捨てて、自分はすでに神様の愛と赦しを受けた者だからこそ神様に借りができているので、私たちもイエス様のように人を愛し、赦していかなければなりません。


また、間違えた教えを捨てなければなりません。


「七度までですか。」とぺテロが言った背景には ユダヤ人の教えがあり、その教えは神から出たものではなく、律法学者などによって教えられたものでした。


赦しの限界を決めて、その限界の中だけで赦しますと言うならば、そこには赦さないと言う意味が含まれています。

人を愛する時に、時間や限界を決めるのではなく、無限に愛するのです。




②終わりのない赦しを学ぶ




イエス様は「七度まででしょうか」と聞いたぺテロに対して「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」

これを計算してみると490という数になりますが、ぺテロが提案した“七度” という数がこれで拒否されました。

主の答えは、赦すのは490度までしなさいということではなく、赦しには限界がないことを意味しています。


人々は他人の過ちを“赦す” と言いながらも、相変わらず過去の嫌な記憶をそのまま心に入れて生活をしています。

そして、また同じ相手から嫌なことをされたり、自分に対して罪を犯したりすると過去の記憶まで思い出し、そのことを再び責めて相手を非難します。


神様が私たちに見せた赦しをみるならば、真の赦しがどういうものかがよく分かります。

私たちが罪を犯した時に、神様は1度赦してくださった(今までの)罪を思い出して私たちを責めたことがありません。それはなぜでしょうか。

聖書には神様の赦しは完全な赦しであることを示すことばがあります。


【イザヤ書1章18節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。


【イザヤ書44章22節】

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを購ったからだ。」

神様の赦しは私たちの罪を完全に忘れることでしたので、私たちの赦しもそのような赦しでなければなりません。


赦したと言いながらもいつまでも過去のことを思い出して責めるならば、それは赦していないことです。

490回だとイエス様が言ったのは、神様が私たちに見せた限りない赦しのように私たちもそのようにしなさいと命令しているのです。


赦しとは、単純に「赦します」 と言葉にすることではなく、自分たちの思いや記憶から消していくことです。


「人間生きている時は誰にでも過ちはある。人を傷付ける時もある。」と思いながら心から赦すことが必要です。


地獄には、“人を赦さない人たちが入る場所” があります。


心の中で妻を赦していない牧師に、イエス様はその場所を見せながら「ここはあなたが来る場所だ」と言いました。
あまりにも驚いた牧師は「妻を赦します!赦します!」と叫びました。

この経験は牧師にとってあまりにも恐ろしいものでした。


人を赦すように命じたことばは聖書に多いです。


【マタイの福音書6章14-15節】

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父も あなたがたの罪をお赦しになりません。


【マタイの福音書18章35節】

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。


【マルコの福音書11章25節】

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、 あなたがたの罪を赦してくださいます。


【コロサイ3章13節】

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい。




③十字架の愛を学ぶ




赦すように語った主のことばの中に必ず天の父ということばが共に出てくる理由は何でしょうか?


それは私たちが天の父から赦しを受けなければならない存在であるからです。


私たちは罪人ですから、神の赦しが必要になります。


自分自身が神様の赦しが必要なのに、人を赦さないで神様の御前に出て「私の罪を赦して下さい。」というのは話にならないことです。

瞬間、瞬間 罪を犯しながら生きている人間に、神様の限りない愛と赦しがないならば、人間は絶望的になります。

そしてその罪のために皆 滅ぼされてしまいます。


イエス様は私たちの弱さを知って私たちをただ責めるのではなく、罪のない方が私たちの罪を負って十字架にかかりましたし、自分を十字架につけた者たちに対しても 十字架の上で赦しのことばを語りました。

イエス様はペテロに対しても限りない愛と赦しをはっきりと示しました。

自分の命を守る為に3度もイエス様のことを知らない人だと言い、また呪いまで口にしたペテロに対して、復活した主は彼に会い、回復されました。


【ヨハネの福音書21章17節】

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と 言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

ペテロを赦し、ペテロを愛し、そして回復されました。これが真の赦しであります。

私たちも早くこのようにしましょう。

相手が生きている時にして、そして自分たちも主に赦していただきましょう。
(´∀`*)

2014.12.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス様の驚きと悲しみ

テーマは 『 イエス様の驚きと悲しみ 』 です

【マタイの福音書11章18-24節】

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、 彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、 もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

聖書にはイエス様が驚く場面が出てきます。

百人隊長が素晴らしい信仰を見せた時にイエス様は驚かれました。彼はユダヤ人ではなく、ローマ人です。
しかしユダヤ人よりも素晴らしい信仰を見て、イエス様は『わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』と言いました。


またイエス様は奇蹟をたくさん行なったにもかかわらず信じなかった人々の不信仰な姿を見て驚かれました。

多くの人は「奇跡を見たら信じる」と言いますが、当時は数えきれないほどの奇跡がありました。
それなのに人々は信じませんでした。


【ヘブル書11章6節】

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。

イエス様はその人の財産、権力、名誉などに驚いたことは一度もありません。

イエス様が関心を持っているのは ただ1つです。
「信仰」…その人が信仰を持っているのかどうか、それだけに関心がありました。


良い信仰を見た時にイエス様はとても喜びますが、奇蹟を見ても信じない人や不信仰の姿を見た時にも驚き、また悲しみます。


今の人々の姿を見て、イエス様はどのように思っているでしょうか?

特に信じている人たち、「私は信じて救われました。聖徒です。」という人たちの信仰を見て、イエス様は喜んでおられるでしょうか?

ある人たちは心の中で言うでしょう。「私には信仰がある。毎週きちんと教会に通っているし、聖書も読むし、祈りもするし、奉仕もするし、献金もささげているし。これ以上何ができるのか?」

自分自身で良い信仰だと思っています。
しかし、イエス様がどのように見ているかは分かりません。


また、ある人たちは心の中で言うでしょう。「ああ、面倒くさい。信仰、信仰と うるさいな。忙しくて それどころではない。したいこともいっぱいあるし、どうでもいいわ。別に地獄に行っても良いわ。」

この言葉は、実際に神様のことを知っている人が言っていました。
これがクリスチャンの口から出たことにびっくりしました。その人たちは信仰の失格者であります。

そのような信仰がその人を天国まで導くことはありません。


天国に入れる信仰は、神様が認め 喜ぶ信仰の者だけです。

自分の信仰が、果たして自分自身を天国に導くものなのか?と、いつも私たちは考えなければならないです。


日々の私たちの態度がどれほど不信仰であり、イエス様を悲しませ、涙を流させているのか。
天国に入った人たちは、そこは素晴らしい世界ですので涙を流す人はいませんが、イエス様だけが泣いています。

救われず、地獄に行くたましいを見て泣いています。教会、信徒が堕落していく姿を見て悲しんでいます。

主から離れた人々、さまよっている人々、イエス様よりこの世をもっと愛する聖徒たちを見て泣いておられます。
イエス様は私たちの姿を見て驚き、嘆き、そして叫んでいます。


イエス様は人々に裏切られ、除け者にされ、未だに苦しみを受けています。
イエス様がその人たちに向けて語ることばは、「どうしてわからないのか。悟らないのか。信じないのか。」です。


主の声を今回、みなさんに届けたいと思います。

「私は救われました」というクリスチャンは、自分の姿をもう一度考えてみる必要があります。




① 聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿




聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿に主は驚き、彼らの最後を知っているので主は心を痛めています。


イエス様を信じていない人たちは もちろん滅ぼされます。
しかしイエス様は「あなたたちの方がもっと悪い」と語りました。

なぜなら、「今、あなたたちは多くの奇跡を目の前で見ているのではないか。神が人間となって直接あなたたちの目の前に来ているのに、それでも信じないのか」


ソドムとゴモラの町は不信仰や同性愛などで滅ぼされました。
しかし彼らよりもあなたたちの罰が重いと言いました。

そしてイエス様は「どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」と はっきりと語りました。

ハデスとは地獄のことです。
消えることがない炎が燃え、入ったら出ることができず、永遠に刑罰を受けるところへ行くのだと語りました。


「私は救われました」と言う人を イエス様が見た時に罪を悔い改めず、昔救われて“いのちの書”に書かれているから何をしても大丈夫だと言う人はハデスに落とされると言いました。

イエス様が語ることは、その通りになります。

イエス様は天国のことよりも地獄のことをたくさん話しました。新約聖書で113回語っています。




② 十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのになぜそれがわからないのか




十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのに、なぜそれがわからないのかと主は驚いています。

イエス様からたくさんの恵みを受けた者たちが、その恩を忘れ、イエス様に対して敵対し、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。

十字架にかかったイエス様を見て、頭を振りながらののしりました。
「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。今十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じるから」と、ののしる者、あざける者がいました。


誰のためにイエス様は十字架にかかってくださったのでしょうか?
罪を犯している私たちのためなのに、私たちはののしり あざけました。


彼らを見て「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈りながら主は人々を見ていました。

イエス様の命を取っている者たちを赦してくださいと、これ以上の愛がどこにあるでしょうか?

私たちがイエス様を十字架につけたのです。その時、あなたはどこにいましたか? その群衆の中にいたのです。


今も主は十字架の上で血を流しながら苦しんでいます。
誰のためですか?イスラムの人々や まだ信じない人々のためです。

十字架は昔のことだと思うでしょうか?
しかし、今はイラクでイスラム過激派の人々の手によってクリスチャンたちが街の中で十字架にかけられ1000人以上が殺されています。


イエス様は信仰のために死んだ人々と共に十字架にかかり、血を流し、涙を流しています。

彼らはののしりあざけっていました。
「あなたたちを愛しているのにどうしてわからないのか。」イエス様は彼らが立ち返るように願っているのです。

実際に、イエス様はクリスチャンたちに「十字架であなたのために死んだ私を忘れることが、私には苦しみである。」と語りました。


みなさんはクリスチャンです。みなさんはイエス様の十字架を日々覚えていますか?

自分のような罪人を、世界の多くの人々の中から自分を選んでくださったということが どれほど大きな恵みであるか分からないです。


イエス様の十字架は私のために血を流してくださったのです。
“なぜわたしの十字架を忘れているのか――?”


忘れているという事実に、イエス様はすごく苦しんでいます。
そのことをクリスチャンは覚えていないといけないです。




③ あなたのことば一つ一つが わたしの心を引き裂いている




「あなたのことば一つ一つがわたしの心を引き裂いていることをどうしてあなたはわからないのか」と主は驚いています。

私たちはイエス様を十字架につけて殺した後、今でもクリスチャンたちがイエス様を痛めつけています。
「私はそんな思いはないです。いつ私がイエス様を十字架につけたのですか?いつ私がイエス様を悲しませたのですか?」

皆さん、気付いていますか?


【ヨハネの福音書6章60節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

イエス様は真理を語っていますが 自分たちの目がふさがれて、心に知恵がなく悟っていないのに、「主よ、私たちはそのことばの意味が分かりません。教えてください。」と聞くのではなく、自分たちの思いで勝手に解釈し、非難をしました。

その後、彼らはどのようにしたでしょうか。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様がこの姿を見た時に、どれほど悲しかったでしょうか?

彼らは霊的なことは分からないのです。それまでは「どこまでもついて行きます」と言った者たちが一瞬にして消えていきました。

イエス様は引き裂かれる思いでした。「真理を語っているのに なぜあなたたちは真理から離れていくのか?」
その辛さは皆さんも経験があると思います。

皆さんが人々に(福音を)語る時に「意味が分からない。聞きたくない。二度と言うな。」
そのような言葉を聞いた時に、私たちはすごく心が痛くなると思います。


そしてイエス様に「あれは悪霊に憑りつかれて気が狂っている。」という言葉を言いながら聖霊を汚しました。

私たちはイエス様に悪霊とは言いませんが、どれほど不信仰なことば、不平不満、つぶやきを言ったでしょうか?

神様のことを自分のしもべのように使う時もあります。


私たちが語る1つ1つのことばによってさばかれると聖書に書かれています。たとえ私たちが言った覚えがないと嘘をついても全て記録されています。

ですから私たちが間違えたことを語るたびにイエス様の心に釘を刺しているのと同じであります。




④ あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか




あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか、どうして分からないのかと主は驚いています。

イエス様の目からは いつも涙が流れています。


皆さんはイエス様を信じてから、自分の良いものを取られたことはありますか?

イエス様は悪いものは捨てなさいと言いますが、良いものを盗む方ではないです。


人々がイエス様から離れるのは、それぞれの理由があります。
「祈っても聞いてくれないから信じるのをやめました」、「忙しいのでそれどころではない」、「今は自分の好きなことをしたい」「金儲けが先」など理由・言い訳がたくさんあります。


しかし、よく考えてみてください。その1つ1つの理由が、離れる理由になるでしょうか。

そのことが自分の命よりも大切なことなのかを考える必要があります。
快楽のためにイエス様から離れ、この世を愛する心や物欲でイエス様から離れるなら、後になってどのようにしますか?

地獄は後悔の場所であり、自分自身の愚かさを憎む場所でもあるのです。
“あの時にイエス様から離れていなければ…地獄に来ることはなかったのに!”


イエス様が語るのは「全世界を手に入れても たましいを失うならば、それが何になるのか?」と語っておられます。
イエス様は「もしあなたの右手が罪を犯すならば切ってしまいなさい。」と語ります。全身を持って地獄へ行くよりは片手がないまま天国に入った方が良いと語ります。


たましいを失うと全てを失います。

地上のわずかなもので自分のたましいをないがしろにして、それによって永遠に出ることのできない地獄で苦しむのは、どちらが皆さんにとって得ですか?


常に聖書のことばを読んでください。聖書のことばは気休めのために書いているのではなく、生きるか死ぬかのために私たちに道を示しているのです。


この真理は変わりません。書かれた通りのことが必ず起こります。

もし今晩あなたが死ぬならば、天国に行けますか。天国に入る人は少ないです。地獄に入る人は大勢います。
イエス様はその姿を見て泣いています。


地獄に多くのクリスチャンたちが行きました。
イエス様が、クリスチャンが地獄へ行った理由を語りました。

その理由は、多くの人々がわたしが願っているようにはせず、わたしを敬わず、愛さず、断食を好まず、忍耐をせず、教会の中に留まることを嫌がり、礼拝が好きではなく、祈らず、みことばを読まず、口先だけで賛美するなど、イエス様がして欲しいことと真逆のことをしているからです。


カインの礼拝を捧げておいて、アベルの祝福を受けようとしているのです。
カインにはカインの裁き、アベルにはアベルの祝福があるのです。

自分が蒔いたとおりに刈り取らせるのが正しい裁きであります。


どれだけ私たちは神様のことばが与えられているでしょうか。

「今日、あなたが主の声を聞いたならば 心を頑なにしてはいけない。悔い改めて立ち返りなさい」とイエスさまが語っておられます。

これ以上、私たちがイエス様を悲しませてはいけないです。死んだ信仰、疑い深い信仰、不信仰を全部捨てなければならないです。


そしてイエス様が認める“あなたの信仰は立派です”と言われる信仰、長血を患った女の人、百人隊長の信仰、娘が悪霊にとりつかれた母親の信仰、イエス様に香油を注いだマリアの信仰、あなたはこのような信仰を持ちなさいと語ります。


へブル書11章は信仰の章です。ほぼ全員が厳しい状況の中で、自分たちの信仰の光を放ちました。

神様だけに頼る信仰はいつ試されるでしょうか?厳しい状況の中で初めて試されるのです。

私たちの信仰は天国に入れるような信仰でしょうか。それとも「信仰、信仰」と言いながらも地獄へ行く信仰でしょうか。これを考えなければなりません。


イスラム教の人々がクリスチャンを狙って殺してきています。終わりの時代が来ています。
その時に私たちが のほほんと「大丈夫。」と言えるでしょうか?

イエス様が目を覚ましなさいと語っています。
あなたに信仰が無ければ、彼らに捕らえられてひざまずくようになります。


大変な状況の中でも神様に信仰を見せる人だけが勝利者であります。
死に至るまで忠実でありなさい。その信仰を持ちましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2014.8.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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幻と啓示~天国と地獄~

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キリストの死は何が違うのか?

テーマは 『 キリストの死は何が違うのか 』 です

【ヨハネの福音書10章17-18節】

わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それを もう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

今は受難週ですので、イエス様に目を向けて イエス様のことをもっと考えたいと思います。

生まれた人間は 必ず死を迎えますが、“人間の死”と“イエス様の死”は同じでしょうか?
それは全く違うものであります。


キリストの死が すべての人の死と同じであるならば、キリストの死には何も特別な意味はありません。

(イエス様は)2千年も前に亡くなった方ですが、普通ならば既に亡くなった人の死を、いつまでも語る必要はありません。

しかし、今もずっとキリストの死が語り続けられているのは、その死がほかの人間の死とは 明らかに違うからです。


キリストは生きている時に、既に 自分の死について語り続けました。
イエス様は33歳で亡くなりました。
30歳から公の場で働きを始めましたが、その時から「死」のことを語っておられます。
年を取った人が死について語るのは不思議ではないです。

しかし 一番力に溢れ、働き盛りの30代前半の男性は いわば「死」とは無縁ですが、自分の死に関して何度も 語りましたので、周りが聞いたら不思議だったと思います。

そして、33歳の時に イエス様ご自身が語られた通りに十字架にかかり死にました。


自分の死に対して「自分から命を捨てるのです。」と言いました。

この世が辛くて死にたいから 自身の死のことを語ったのではないです。
(イエス様は世に対して「嫌だ」と言ったことはないです。)
イエス様は自発的に天から地上に来られましたが、死ぬ時も自発的な死でありました。

これは 誰かが無理やり「死になさい」と言ったのではないです。

この「自発的な死」が、『キリストの死の特徴』です。


ここで なぜ「自発的な死」が必要であったかを考える必要があります。

「自発的な死」でないならば、本人は死にたくないのに(いじめなどで)誰かの強要で自殺に追い込まれることが世の中では起こっています。

しかしキリストが十字架に至るまでの過程は、様々な人間が関わって十字架にかけ 他人によって殺された形にはなっていますが、キリストはそれらのことが起 こる前に 「自らいのちを捨てます。」と自分の死について預言を語り、その死は「自発的な死」であることを明らかにしました。


その「自発的な死」はこのためであります。

人々は普通なら「長生きをして 人々に役立つ働きをしよう。」と考えます。
でも、イエス様はたった3年間しか働きをしていないです。

なぜイエス様に自発的な死が必要だったのでしょうか?それは次の箇所に書かれています。


【ヨハネの福音書10章10-11節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

盗人とはサタンのことです。そして もう1人の盗人は宗教指導者・偽預言者たち、言わば惑わす者であります。
当時も、宗教指導者たちは盗人でした。サタンがその宗教指導者たちの中で働くのです。


その者たちは神様の言葉を伝えますが、イエス様から見れば 全てが「盗人」でありました。
それは魂に関心がないからです。
自分の目の前にいる魂が、狼の餌食になっているのに 魂に関心がなく、自分の地位や権力・豊かな生活に関心があるのです。ですから、羊を食い物にしているのです。

そこでイエス様が羊のために働きをすると、彼らは妬み、敵対し、殺したいと思いました。その姿は盗人であります。
そして、狼が羊を襲うと、彼らは自分の命を守るために逃げるのです。


しかし、イエス様は違いました。
キリストの自発的な死は、羊のために自らがいのちを捧げたことが分かります。

旧約時代においては、神様のことを「羊飼い」と表現しました。民たちのことは「羊」と言いました。

ダビデも詩篇23編で「主は私の羊飼い」と呼びました。


【イザヤ書40章11節】

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

ここには良い羊飼いとしての神様の姿があります。
羊を飼い、世話をし、弱い子羊を引き寄せて主のふところに抱くとは どれほど主は優しいお方でしょう。
これが神様の姿であります。


それは、自分自身が全人類の救い主であることと、主ご自身が神であることの宣言です。


キリストの十字架の死は、本当は(私たち)羊が死ななければならないのですが、代わりに死んでくださったのです。

キリストの死の自発性は 人類の救いにおいては、必要不可欠な要素です。
もし、イエス・キリストの死が自ら選んだ死でないならば、人類を贖う効力(救い)が そこにはないです。
これでは(キリストは)死にたくもないのに殺された ということになるからです。


次の箇所では、キリストの死が自発的であることと、羊のためであったことが書かれています。


【Ⅰペテロ2章24-25節】

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、 自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

キリストの自発的な死のことも書かれていますし、イエス様が私たちの魂の牧者であることと 私たちは羊であることがはっきりと書かれています。

キリストは自分のいのちを捨てる権威があると語りました。そして、自分にはもう一度(いのちを)得る権威があることもヨハネの福音書10章に書かれています。これは、蘇るということをイエス様が宣言したということです。

つまり「死では終わらない」ということであります。

なぜなら、羊にいのちを豊かに与えると約束されたイエス様が 蘇らないならば、いのちがないのですが
復活することによってイエス様が語った通りに、羊にいのちを豊かに注ぐことができるのです。


「死」が無ければ 罪人の贖いはありませんし、キリストの「復活」が無かったなら 永遠のいのちが与えられることもありませんでした。 つまり福音が存在しなくなります。


福音には必ず十字架の死があり、その後に必ず復活があります。これで完全な贖いになります。

罪人たちが死ななければならないのに イエス様が代わりに死に、そして命を得る時にイエス様が3日後に墓から復活したので命が与えられています。


また、キリストの死は さらに他の人たちとの違いがあります。それを みことばで紹介していきます。




従順の死



【ピリピ2章8節】

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は神様がたてられた自分の計画に対して、たとえ死ぬことであっても従順しました。




代表者としての死



【ローマ5章19節】

すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

ひとりの人の不従順とは、人間の代表者であったアダムです。

原罪というものがありますが、人間は生まれがら罪があります。
しかし人々は、罪を知らないので 赤ちゃんを見て、「この子には罪がないです。」と言うのは聖書的ではないです。
まだ自らは罪を犯していなくても アダムから来た原罪の罪があるのです。

すると人々は「それは関係がないでしょう?アダムが犯した罪なのに、何で私が背負わなければならないのか?」と反論します。


もし このように言われたら、皆さんはどうしますか?
アダムは神様が一番初めに造った人間ですので、神様から見たらアダムは人間の代表者です。

この人間の代表が罪を犯したので、それに属するすべての者が汚れた者になっているということになります。


また、“ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです”というのは、イエス様が人類の代表者になるということです。その方の従順によって全人類の罪人たちが義人になるチャンスが与えられたことになりました。


私たちは「アダムのせいで私は滅ぼされるのだ」と不平不満を言う必要がないです。
なぜなら、イエス様が他に救いの道を備えてくださっているからです。

もしイエス様が代表者でないならば、1人の罪を贖うためにイエス様は毎度も死ななければならないのです。
この地球上に70億人が住んでいます。その人たちを救うためにイエス様が70億回死ぬことになりますが、それは出来ないことであります。


ですから、代表者を1人たてて(人々の罪を)イエス様が背負って死ぬならば、他の人たちが十字架にかからなくても イエス様を見て信じる者には神様がそれを認めて義人にしてくださるということです。これが神様の法則であります。

1人の罪人(アダム)によって全てが罪人になり、1人の従順(イエス様)によって私たちが義人になる道が開かれたのが「イエス様の死」です。




無罪の死



【ヘブル7章26-27節】

また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。 というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成した遂げられたからです。

ここに書かれている通り、イエス様は罪人を救うために共にいましたが、彼らと一緒になって罪を犯したことは1度もありませんでした。

無罪で死んだこの方こそが 私たち罪人を救うことができます。

誰が「私にはあなたは要りません。」と言えるでしょうか?
もし そう言うならば、その人は未だに自分が罪人であることを分かっていない人です。

分かっているならば、拒むことはできません。

もし自分が罪人であることを知っているならば、“誰が私をここから救い出してくれるのか、どうやったらこの罪が赦されるだろう?”と求めるようになります。

それに必要な方がイエス様であります。


しかし、イエス様を要りませんと言う人は、自分の罪の代価を自分で払わなければいけないのです。

神様はそのことを知っていましたので 私たちにとって必要なイエス様を無罪であるにも関わらず十字架にかかるようにしてくださったのです。
それによって神様と敵対関係にあった私たちが和解するようになりました。

そこで自分の罪を悔い改めた人は、神様から罪が赦されて、神様の子供になり和解できるのです。


歴史の中でイエス様以外に全人類のために命を捨てた人はいません。
自分の名誉、権力、利益、家族のために命を懸ける者はいるのですが、まったく関係のない全人類のために 罪がない者が死ぬということはないです。

イエス様は自発的にそれをしましたし、死にいたるまで従順しました。
私たちのために犠牲の死を払いました。


この特別な方は、私たちにとって なくてはならない必要な方であります。

「イエス様がいなければ、今も自分の罪の中にいますし、救いとは無縁な者でした。そして天国にも入られない者でした。」ということを自覚して欲しいです。

私たちのために命を捨ててくださったイエス様に、常に感謝をして“この恵みこそが 私たちにとって最も大きな恵みであること”を覚えて感謝しましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2014.4.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストが受けた苦難の数々

※ 今回は内容を簡潔にまとめさせていただきました。恵みが三十倍、六十倍、百倍になりますように。


テーマは 『 キリストが受けた苦難の数々 』 です

【ヨハネの福音書1章9-11節】

すべての人を照らすそのまことの光が来ようとしていた。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

4月は キリストの受難週、十字架の死、復活などキリストに関わる重要な出来事が色々ありますので、そのことに対して語ろうと思います。

私たちの目をキリストにしっかり向けて、キリストが私たちのために どのような苦難を受けたのかを今日は知りましょう。


キリストが受けた苦難は むち打たれ、釘打ちにされ、十字架に架かっただけではなく、それ以前からもたくさんありました。

身体に受ける暴力もつらい事ですが、精神的な暴力のほうが ある意味もっときついかも知れません。


拒絶、無視、脅迫、敵対、裏切り、見捨てられるなど 人間から様々な苦しみを受けました。
どのような苦難を受けたのか知っていますか?




(1)人から拒絶されました。喜んで歓迎しなければならないのに、最初から人々はキリストを拒絶しました。



一部の人からではなく、すべての者から拒絶されました。


【イザヤ書53章3節】

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

と、預言された通りのことが 実際に起こりました。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

民から拒絶された姿でした。
イエス様が育ったナザレの人たちは キリストを受け入れ、認めたでしょうか。
ナザレの人々はもっとひどかったです。受け入れないどころか殺そうとしました。


【ルカの福音書4章28-29節】

これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、

立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

ユダヤ人たちもナザレの人々と同じ姿でした。


【ヨハネの福音書7章1節】

その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

どこへ行っても拒絶する人々がたくさんいました。

この状況はとてもつらい状況で 悲しくやりきれない心境になります。

また、家族はキリストを信じ、理解者であったでしょうか。


【ヨハネの福音書7章5節】

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

キリストと認めず 信じませんでした。




(2)出身地と家庭環境によって 人々から蔑まれました。



人々は先入観と差別意識でキリストを見てました。


【ヨハネの福音書1章46節】

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

【ヨハネの福音書7章52節】

彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」

人格を無視されると 私たちの心は本当につらいですね。
イエス様は最初からこのように人格も無視されました。




(3)絶えず人々から来る脅威がありました。



いつも自分を憎んで、妬んで 命を狙う人がいることは大きな苦難です。
キリストは常にそのような状況の中に置かれていました。生まれた時からでした。

キリストが生まれたことを知ったヘロデ王はベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させました。

主の遣いの助けがなかったならば、赤ちゃんの時に殺されたでしょう。
安息日に病人を癒したことでも ユダヤ人はイエス様を迫害しました。
真理を語ると 人々はどのような反応をしたでしょうか。

喜んで受け入れたでしょうか?


【ヨハネの福音書8章40節】

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。



(4)弟子たちもイエス様が理解できず、ある者は裏切り、非難、否定して離れていき キリストを苦しめました。




十二弟子の1人、イスカリオテ・ユダはお金をもらって祭司たちにキリストを売りました。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様が十字架にかかるために とらえられた時には、ほかの弟子たちまでもがキリストから離れていきました。

信頼し、共に生きてきた人が、ある日 突然離れていくことほど つらいことはありません。


牧師としても愛していた信徒が去っていく時、とてもつらい思いをします。

イエス様は みんなが離れていき、一人ぼっちになりました。
どれほど心がつらかったでしょうか。




(5)そして 最もつらかったことは神に捨てられました。



【マタイの福音書27章46節】

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

神は人類の罪をキリストに負わせ、十字架の上に死なせました。

その瞬間は 自分の愛する子としてではなく、罪人とみなし 顔をそむけました。
いつも父と1つであったキリストにとって この瞬間は最もつらかった時だったと思います。

これらのことを見ると、人間社会でイエス様が受けた苦しみは 私たちの想像をはるかに超えた苛酷なものであったことが分かります。


私たちは人からの言葉1つでも、時には「心が傷つけられた。もう許せない。つらい。憎い。つまずいた。」と大騒ぎをします。

しかし、イエス様の立場から見ると、「たったそんなことで つまずくのか。わたしを見なさい。今もあなたはわたしの言うことも聞かず、苦しめ、悲しませているではないか。どれほど わたしがつらいかを考えたことがあるのか。」とおっしゃいます。




イエス様の十字架の証



ある人が幻で十字架に架かって血を流している主を見ました。


あまりにも苦しい姿でしたので、十字架の周りに集まっていた人からも 主がかわいそうで泣いている人も見えました。

多くの人々は 十字架にかかって苦しんでいるイエス様の姿を見るだけで、
なぜイエス様が十字架にかからなければならなかったのかと その理由を知る霊の目を持っている人は誰もいませんでした。


イエス様は肉体の痛みで苦しいよりは、自分が死ななければならない理由と、自分の心境を知らない人々がかわいそうで何倍も心の中で苦しんでいました。


(その幻をみた人は)それを霊で感じとって

「イエス様。力を出して下さい。私はやっと分かりました。
イエス様は全人類の罪のために大きな働きをしているのですね。
イエス様の死は、いのちを与えるための偉大な愛です。

私がこのことを皆に知らせます。そして、主が選んだ民たちを集めます。
そして主の愛を決して忘れません。」


イエス様は、その人を見て 自分の心を知っている人がいることで、うなずき 微笑んでくださいました。






蘇ったイエス様がペテロに3度も「あなたはわたしを愛しますか?」と聞きました。
イエス様を愛さない者たちが イエス様を苦しめました。

裏切り殺しました。


イエス様は私たちが主を愛することを求めています。

イエス様は 私たちを愛してご自身の命まで捧げたのに、私たちが愛さないなら それはイエス様の心を苦しめることになります。


【Ⅰコリント13章4-7節】

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

イエス様を苦しめず、心からこの愛を持って 愛する者になりましょう。

今まで与えた苦しみだけでも、あまりにも大きいですから。 (TДT)

2014.4.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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死んだ行いを悔い改める

テーマは 『 死んだ行いを悔い改める 』 です

【ヨハネの黙示録3章1-6節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『 神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」 』

サルデス教会に送った神様の啓示の言葉は厳しい言葉であります。

今の時代、私たちは本当に聞かなければいけない言葉だと思います。

この箇所を読んで何かを感じることはありますか?
彼らは教会に属して信仰生活をしています。しかし、悲劇的な姿であります。神様が喜ぶ姿ではないです。
神様に叱られている姿であり、悲しい姿であります。


彼らの中で一番悲劇的なのは『福音から離れた生活を行っていること』であります。

私たちは 福音に出会ったので救われました。


イエス様がどのようなお方なのか、なぜイエス様が十字架にかかって死んでくださったのか ――?
私たち罪人がそれを見て「私の罪のために死んでくださったのだ」、「救われる為には十字架に架かってくださったキリストを信じなければいけないのだ」、
「自分が犯した罪を悔い改めなければいけないのだ」と、私たちが罪から離れて自分の罪を悔い改めて イエス様を受け入れて 信じました。

信じたということは、魂が救われたことを意味するのです。


私たちが福音を受け入れたならば、その後はどうでも良いかと言うと決してそうではないです。
その時から本当の信仰生活がスタートするのであります。
生まれ変わった時から、私たちは生まれ変わった者として生きていかなければならないです。

もし 再び死んでしまうならば、どうやって救い出すことができるでしょうか?


サルデス教会の人たちは死人の方が多かったです。多くの中、生きている人は幾人しかいないということでした。
これは教会の姿なのです。イエス様は黙示録で 世の中に対してではなく、教会に対して警告を与えておられます。

「救われたから あとは天国に行けるし安心だ。」 このように思うのは、とんでもないことです。
もし教会の全員が天国へ行けるならば、このような啓示の言葉を教会ではなく まだ信じていない世の人に向けて神様が語ると思いますが、そうではないです。
すべて教会に教えています。



神様が語る言葉は「悔い改めなさい」、「目を覚ましなさい」であります。これは私たちに対する言葉です。
「終わりの時代なのに、まだ寝ているのか ――?」、「あなたは罪の中にどっぷりと浸かっているのか ――?」

福音から離れた生活をするということは、死んでいる状態であります。


福音を受け入れた人は、その時から信仰生活は福音の中に根を深く下ろして、そこから成長をして実を結ばなければいけないです。

根がないのに 実を結ぶことはないのです。私たちは「御霊の実」を結ばなければいけないです。

しかし、福音から離れて 世に根を下ろしている人たちが御霊の実を結ぶのは、有り得ないことであります。



教会の中で信徒たちの姿を見ると、同じ神様を信じて 同じメッセージを聞いて 同じ場所で礼拝を捧げているのに、
ある人たちは福音の力がすごくあります。実をどんどん結んで変化をしています。そして神様が喜ぶ姿に変わってきています。

しかし、ある人は力が全然ないです。クリスチャンであるにも関わらず 無気力で力がないです。
ある人は「私 本当に救われているのかな?」と 確信がないです。


「私、天国に行けるのかな?私、地獄に行くのかな?」 また、ある人は「私は地獄に行くと思います。」と自分で言う人は 地獄へ行くと思います。
「私は まだ救われていないかも知れません。」と自分で言う人は、その人はまだ救われていないのです。
自分の中で確信がないならば まだ救われていないのです。そのことに気付かなければいけないです。






神様は、自分の子どもたちを無理やり地獄へ送りたいとは思っておられません。

イエス様が血を流して代価を払い買い取られた者が堕落していく姿を見た時に 神様はどれほど苦しいでしょうか――?
地獄へ向かっていく人たちを見て、天の父なる神様は 大きな声で一言 次のように語ります。「悲しい ――。」
神様の胸が潰れるような思いであります。


イエス様は色々な人たちを地獄へ連れていき、地獄の姿を見せますが イエス様はそこで泣いておられます。
そこで苦しんでいる魂を見て、憐れみの心で涙を流しています。

そういうことを聞くと人々は「イエス様に憐みの心があるならば、そこで叫んでいる魂や“悔い改めます”と言っている魂を救い出せば良いでしょう?」と言います。
しかし、それは神様の公義ではないです。


イエス様はみことばで はっきりと語りました。
へブル書に「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」という言葉があります。
それを私たちは聞いています。特にクリスチャンであるならば 礼拝がありますので みことばを聞いています。それなのに なぜ化石のような状態になったのでしょうか。

なぜ無気力なクリスチャンになってしまったのでしょうか。なぜ死んでしまったのでしょうか。
これはすごく問題であります。


これは誰のせいでしょうか――?

自分自身のせいです。
自分が福音の中に根を下ろしていないので、神様を信じていても(自分で)好きなように生きています。

みことば中心に生きるのではなくて、自分がしたいように生きています。神様の言葉がもはや その中には存在していないです。


そして 一番の問題は、祝福を与えてくださる神様なので きちんと(祝福を)用意してくださっていますが、
神様を信じる目的が「自分の問題を解決して欲しい」、「病気を癒して欲しい」、「祝福して欲しい」、「私を天国に行かせて欲しい」など、それだけの思いで神様を信じるならば偶像崇拝と何ら変わりがありません。

世の中の人たちが神社やお寺へ行って拝む理由は何でしょうか?
祝福して欲しいからです。「地上で生きている時、私を祝福してください。この問題を解決してください。私の病気を癒してください。」


このように彼らは拝むのですが、クリスチャンが神様に対しても同じで、神様に祈るのが自分の祝福のため、欲しいものを手に入れるため、問題が解決されて欲しいという思いだけならば「偶像崇拝」です。ただイエス様の名を呼ぶことだけが違うことで、それでは神様は喜ばれません。
神様は「わたしを利用しようとするのか。」とおっしゃいます。これはとんでもないことであります。




悔い改め



地獄に落ちる理由は、悔い改めて新しくなる姿がないからです。

私たちは神様を信じるということは、何のために信じるのかを明確にしなければならないです。


皆さんは何のためにイエス様を信じていますか?
ただ単に この世で自分の願いが叶えられて 欲しい物を全部手に入れて 贅沢に生活をしたいためにイエス様を信じているのでしょうか?
もし そうならば、とんでもないことです。

私たちが福音を信じるということは、何を食べるか何を飲むかの問題で信じるのではないです。
“生きるか死ぬか”の問題であります。


福音は生きるか死ぬかをはっきりと分けるのです。
イエス様は「悔い改めて立ち返り 信じる者は救われる。信じない者は永遠の滅びである。」と語りました。
そのことを知らない人はいないと思います。

この言葉を信じて、もう滅ぼされたくないという思いで信じていますが、自分は命の道を歩いているのか?それとも相変わらず世と仲良くして
この世の霊に満たされて 妥協をしながら生きているでしょうか?


神様は今回の本文の中で「いのちの書から消すようなことは決してしない。」と書かれていますが、ある人たちはこの5節のみの言葉を取って「一度救われた人は決して いのちの書から名前が消されることはない。」と断言をしていますが、とんでもない間違いです。

これには神様の条件があります。
「勝利を得る者」と語りました。勝利をした人の姿は4節に書かれています。
死人が多い教会の中で幾人かの人たちだけが名前を消されないということであります。


その他の死んでいる者たちや 寝ている者たちに対して語った言葉は、「盗人のように来る」と語っています。
この意味は、神様はもともと盗人ではないです。盗人はサタンです。サタンが来る目的は盗む、殺す、滅ぼす です。
魂を盗むのです。そのため肉体が死に、永遠の滅びに至ります。つまり地獄に落ちるということであります。


神様が盗人のように来るということは、その者を神様が迎えに来るのではなく、イエス様が来る時は裁きの為で、 再臨は救いの為に来るのではないです。
世の終わりであります。すべてのものが終わりです。


その時に神様は勝利した者たちの魂を守ります。

しかし、霊的に死んでいる人たちや眠っている人たちは滅びていくのです。
その人たちにはサタンが飛びかかり、連れて行くところが地獄であります。


サタンも不思議な業を行います。サタンも病人を癒します。サタンは死人を生き返らせることも出来ます。人の人生の中でサタンはいくらでも働きます。
サタンからそういうものを受けて 安心している私たちの姿を見て、サタンは一番喜びます。

安心をしていると自分を顧みることをしないからです。
今、私は神様のみこころに従って生きているのか?と 自分を点検することをせずに眠っているのです。


ダビデが罪を犯して悔い改めていなかった時に、神様は預言者ナタンを遣わしました。
ダビデは預言者でもあり 王様でもあるのです。すごく神様に愛された者であります。
しかし、罪を隠して悔い改めませんでした。

神様はナタンを遣わしましたが、ナタンは行きたくなかったと思います。殺されるかもしれないからです。
王様に言うのは難しいと、それも隠れた罪を告げるのはとても勇気が必要であります。
それでもナタンは遣わされて行き、ダビデに はっきりと語りました。


ダビデの素晴らしいところは、その言葉を受け入れて その場で神様の前に出て灰をかぶり悔い改めをしました。
もし彼が悔い改めなかったならば、たとえダビデであっても地獄へ落ちたと思います。


神様が「いのちの道は狭く険しい。その道を歩む者はまれである。」と語りました。
これはクリスチャンだからと言って、「私、教会に通っています」ということだけで皆が天国に行くことはないのです。それは錯覚であります。

私たちは福音の中に根を下ろして生活をしなければいけないです。

信仰が強い者と信仰が弱い者の根本的な違いは、“十字架を経験したのか、十字架を経験していないのか”であります。


イエス様に出会い、イエス様が架かった十字架が誰のためであったのか? イエス様がなぜ そこで血と水と汗を流して ご自分の命を捧げたのか?
それは あの隣人のためでしょうか――?それとも、あの罪人のためでしょうか――?
これは あなたが十字架を経験していないことになります。


私のような罪人のために十字架に架かり、十字架の前でイエス様に申し訳ない気持ちで涙を流し、そうする中で自分の魂を救ってくださったイエス様に対して
「私は一生イエス様から離れません。恵みを忘れることはしません。」とイエス様と共に毎日 十字架を経験しながら生きる人は 最後まで大丈夫です。


そのような人たちは、イエス様が自分の罪のために十字架に架かりましたので 罪を軽く考えないのです。
「私がまた罪を犯すならば、それはイエス様を十字架につけることになるのだ。」と考えます。




クリスチャンへの裁き



クリスチャンに対して神様の裁きが厳しいのは何故でしょうか?


イエス様が十字架を背負って歩いた時に、エルサレムの神殿を見て泣きました。
これは教会を見て泣く姿であります。

教会が「私たちは神様に仕えています。立派な教会があります。律法を守っています。毎日行いをしています。」と言うのを聞き泣いておられます。
イエス様が泣く理由は、堕落しているからです。


神様のことを知っていると言いながらも、本当は知らないのです。
みこころのままに歩いておらず、クリスチャンが今 罪を犯しているならば
その人たちは日々イエス様を十字架につけています。ですから罪が厳しいのです。

裁きも教会から始まります。つまり、そこにいる信徒たちから始まるということであります。


地獄へ行った人たちの 色々な証を聞いていますが、全員が共通して言うことは、「地獄にクリスチャンがたくさんいた」ということです。牧師たちもたくさんいました。



―― 地獄の証 ① ――

ある南米の女性が イエス様に地獄へ連れて行かれた時に 火が燃えている場所や許さない心を持っていた人が入る場所を見ました。
そこでイエス様が「あなたはどちらに入るのかを選びなさい。」と語りました。彼女が驚いて「それはどういう意味ですか?」と聞きました。

イエス様が語った言葉は「ここは他人を絶対に許さない人が入る場所である。あなたの心の中に未だに許していない人がいるだろう?」とおっしゃいました。


神様は私たちに言いました。
「あなたが人を許すならば、天におられる神様もあなたを赦す」と語りました。

しかし、クリスチャンではありますが いつまでたっても「あの人だけは死んでも許しません!」と言うなら、この地獄があなたを待っているということです。


それで彼女が瞬間的に思い出しました。
彼女は長い間 祖母に対して憎しみの心が消えることがなかったのです。
もし祖母を許さないならば、自分はこの場所に来るのだと分かったので、その場で祖母を本気で許しました。

1人を許さないだけで、永遠に出られない恐ろしい地獄の火の中で(全身の)肉が落ちて苦しみ叫び、悲鳴を上げる暗闇の世界に自分は行きたくないと思いました。


聖書の言葉には従順しなさいということが書かれています。
私たちがこの1つ1つの言葉に不従順するならば、天の御国には入れないです。

不従順するということは、神様に敵対して生きるということであります。不従順はサタンからくる霊であります。



―― 地獄の証 ② ――

また他の人の地獄の証では、ある教会にいる信仰の良い信徒が亡くなりました。

誰もが「あの人は本当に素晴らしい信仰生活をしていたから、イエス様のところへ行って素晴らしい報いを受けるだろう。」と思っていました。

しかし、何と地獄で見つけたのです。
その姿を見てあまりにもびっくりしました。


「イエス様。あの人は生きている時に イエス様のことをすごく愛していました。イエス様からの言葉も“わたしも彼女を愛していた”でした。彼女は神様にたくさんのものを捧げました。彼女は素晴らしい働きをしました。素晴らしい信仰をもっていました。」とイエス様に聞きました。

これらの1つ1つのことに対してイエス様は知っておられて「彼女はそのようにした。しかし彼女は悔い改めなかった。」と言いました。


「何を悔い改めなかったのですか?」と聞くと 神様が見せる場面がありました。
彼女が生きていた時の普段の生活を見せてくれました。


彼女には1人の親しい友人がいました。
友人は病院に勤めていて薬を処方する担当をしていました。
彼女は病気を患っていて、ずっと飲み続けなければいけない薬があり、その薬代が高いので、彼女は友人にお金を支払わないで薬を得る方法を見付けました。

病院の受付時間内ではなく、誰もいない時間にその薬を貰っていました。
これは友人がさせたことではなく、その人が頼んだことでした。
本来ならばきちんと料金を支払って薬を得なければならないのですが、お金を払うのがもったいないという思いが働きました。


神様は 彼女が初めてそれを行った時に、心の中に「それは罪なんだよ。」という思いを入れました。

しかし、彼女は「あ、これは神様からの思いではない。」と考えました。
彼女の中での罪の認識は、人を殺す・盗みなど十戒に書かれているようなものであって
今回のことは合理的に考えました。「少しくらい貰っても」という思いでした。この罪を彼女は小さく考えました。

「私は主のために いっぱい働きをしていて、神様を愛しているし、信仰生活もまともにしているし、貧しい者もたくさん助けたから、地獄へ行くことは考えられない」と思っていました。


(神様は)警告を与えましたが「いや、これは大きな罪ではない。こんな罪で地獄へ行くことは有り得ない。」と ずっと思っていました。
神様の警告を「これはきっと私の考えだから、もう考えないことにしよう。」と死ぬ時まで これをやり続けました。

つまり死ぬ時まで泥棒をしていました。
そして それだけではなく、友人までも罪をずっと犯させ、もう1人の魂も罪人にさせていました。
そして彼女は悔い改めることもなく亡くなりました。


悔い改めなかったので地獄へ来たのです。

それまでどんなにその人が神様の働きをしていても、悔い改めない者は地獄へ行きます。




姦淫



また、姦淫を犯すクリスチャンもとても多いです。

これをやめようとせず 平気に行います。たくさんの罪が相変わらず行われているのです。


これをその人たちは安心しきっているのです。
「私はクリスチャンだし、命の書から私の名前が消されることはない。」という思いであります。

ですから、その人たちが地獄へ落ちた時に 一番びっくりするのです。「何で私はここに来ているの?」と。
そしてイエス様を見た時に「イエス様!私の罪を赦してください!」と叫びます。


しかしイエス様は「もう遅い。」
「何度も何度もあなたに警告をしたが、あなたは聞き入れなかった。罪から手を洗おうとはしなかった。」と語りました。






私たちはいつ死ぬか分からないでしょう?

ですから、日々準備が出来ていないといけないです。
のほほんとしているのは寝ている姿であります。

本文の「あなたの行いを知っている。」とは(神様は)全ての行いを見ているのです。
その行いを見て「それでもクリスチャンか」と言います。


人を憎む。神様のものは盗む。赦さない。不品行を行う。あらゆる世の人が行う罪を全て犯していながら 日曜日が来たら 教会でメッセージを聞いて、そしてすぐに忘れて あとは好きなように この世と仲良く生きています。


そうしながら自分が天国へ行くと思うのは錯覚であります。




福音を正しく伝えない



牧師たちが地獄へ落ちる一番多い原因は「福音を正しく伝えなかったこと」です。


「悔い改めなさい」という言葉を語らず、韓国の教会でも堕落をしている多くの理由は「天国も地獄も語らない」です。
「今は21世紀なのに天国とか地獄とか、そんなことを言うのは無知な者が言う言葉でしょう?」

このように一番大切なものが教会で語られずに「この世で祝福を受けましょう。」という言葉に皆が飛びついて「権力と富を手に入れましょう」とメッセージをします。

神様はそれを見て「それはあなたの魂を滅ぼすものなのに、それを求めるのか。」と語ります。


私たちが神様を信じるということは、区別された生活をすることであります。
この世の流れに従って生きるのではなく 私たちをそこから離して生き方を変えていかなければいけないです。

クリスチャンであるのに、口が悪い。他人を裁く。妬み 憎しみ 高慢 これらが身体に付いていると、いつの間にか汚れた衣になっていきます。
臭いがプンプンしている汚れた衣を着ている人を、神様は天国に入れるわけがないでしょう。


悔い改めるということは、その汚れた衣を綺麗に白く洗うことなのです。


黙示録で褒められた教会では悔い改めの言葉がないですが、非難された教会のすべては「悔い改めなさい」という言葉でした。

悔い改めが足りないということは、自分の罪に対する認識が足りないということであります。


これは毎日 十字架を経験していない姿です。十字架を見るならば、自分が犯した罪を思い出すのです。
「今日もこの罪でイエス様を釘つけてしまいました。主よ、本当に申し訳ありません。私の罪を赦してください。」
十字架を見て悔い改めないならば、何なのですか?
十字架の上で苦しんでいるイエス様を見て、「お金をください」「病気を癒してください」と言えるでしょうか。


十字架に架かったイエス様を経験することは、「そこで死ななければならないのは私なのです!罪人である この私なのです。」このように ひざまずいて悔い改めなければいけないです。

言葉だけではなく、毎日の自分の生活が 主に立ち返ってイエス様を見て生きないといけないです。
そして自分の中の小さな罪も、ガン細胞のように 後で私を滅びに落とすのだという怖い思いを持たないといけないのです。


もし自分の体にガン細胞を見付けたとしたら、小さいからと言って無視をしますか?「まだ小さいから病院に行かなくても大丈夫だ」とは誰も言わないと思います。
「小さいうちに見つかって良かった。早く病院へ行ってそれを取ろう」という思いになるでしょう。
お金をたくさん使っても診察へ行くと思います。それをそのまま放置することはないと思います。


それなのに、自分の魂に対しては 関心がないです。

その罪が自分の足かせになって、自分を永遠の滅びに陥れているのに、罪を捨てるどころか、
罪を楽しみながら、罪を増やしながら全身ガン細胞で蝕まれています。そうしたら死ぬしかないのです。




魂に対する準備



神様は 時はいつなのか、今は終わりの時であります。

地震が起こることは災いであるのです。

ある幻が開かれた人は、世界各地へ神様が連れて行き その国を見せるのです。
ソドムとゴモラを見た時に神様は何をされましたか?
同性愛で本当に汚れているので火をもって滅ぼしました。


日本でも、地震が起きるとずっと警告があります。先日も地震がありました。
これは神様が警告をしていることなのです。


私たちは準備をすることはもちろんですが、魂に対する準備は出来ているでしょうか?

私たちは地上でたくさん欲しいと求めていますが、これは肉の目で見るから地上のものを一生懸命集めようとします。しかし、もし私たちが神様の目で見るならば、考え方が180度変わると思います。

180度変わることで、「あの時に 私がもっと霊的になれば良かったのに。あの時にもっと神様に捧げたら良かったのに。あの時 もっと主のために仕えたら良かったのに。あの時に もっと信仰生活をきちんとしておけば良かったのに。」と、全て逆になります。


肉の目で見るなら、「地上のあれも これも欲しい。もっと欲しい。」と まるで永遠に地上で生きるかのように食べますが、神様の目から見たら、神様と私たちの思いは天と地ほどの差があると言います。

神様は霊的に見ているので、私たちの霊的状態を見ておられます。
そして「何と貧しい者であるのか。何と堕落しているのか。何と汚れた者であるのか。」

もし私たちが上から(自分自身の状態を)見るならば、自分の姿を見て飽きれると思います。


「何をしているの?服が汚れているよ!洗いなさい。今、あなたはサタンと仲良くしているよ。どんどん地獄に近付いているよ。早く立ち返りなさい!もっと神様に喜ばれる者になりなさい。」と、霊の目で見るならば、私たちはきっとそのように言うと思います。

神様が一度救われた者は、何をしても どのような罪を犯したとしても天国へ行けるというのは 間違えていると教えています。


聖書には「悔い改めないならば」という言葉がたくさん出てきます。

盗人のように来る、暗闇の中に落とされる、外の暗闇で歯ぎしりする、大きな艱難の中に投げ込む、火の中に投げ込む、「主よ、主よ」と言うものが皆天国に入るのではない。
この言葉を (多少 罪を犯しても天国へ行けると安心している人は)どのように解釈をするのでしょうか?


聖書全体の言葉、主のみこころは何か、悔い改める者に対する神様の恵みはいつでもあります。

しかし、悔い改めることをせずに それを軽く考えていつまでもそこに留まっているならば、いつの間にか罪によって その人を飲み込んでしまいます。

天国は罪人が入れないところであります。


死んだ行い、死んだ自分の心、死んだ信仰生活を悔い改めなければいけないです。


私たちの中に様々な問題を よく考えると神様と自分の関係が悪いと問題が消えることはないです。

この世にどっぷり浸かって生活をするならば、サタンが絶えず問題を持ってきます。
私たちを滅ぼし盗むために、そして私たちが死んだ時に誰よりも早く来るのはサタンです。


神様にたくさん仕えた人たちや、神様がいのちの書に名前を書いている人たちは、死んだ時に悪魔は来られなく、御使いたちが迎えにきます。
しかし どっぷりと罪の中で生活をしていたクリスチャンには、御使いが来ないです。悪魔サタンがその人の肉体から魂を奪い取って地獄へ連れていきます。

また 中途半端な信仰生活をしている人は、御使いとサタンが来て戦います。「これはわたしのものだ」とサタンが主張をし、御使いも「わたしのものだ」と言います。
そこで霊的戦いが起こります。


私たちが想像できないほど地獄は苦しみの場所であります。
すべての感覚が残ったまま 地上では有り得ないような拷問を受けて暗闇で悲劇的な目に遭います。


一番厳しい裁きは何だと思いますか?
神様から切り離され、神様がその人から目を逸らして 断絶された裁きが一番厳しいのです。

神様は私たちの いのちの主であります。その神様が私たちの命に関心がなくなり、助け主ですが もう助けることをしなく、私たちにとって希望ですがそれも神様がしない者に一番厳しい裁きがあります。


ですから地獄にいるその人たちは 必死にサタンに助けを求めますが、サタンは助けることをしないです。
イエス様がたまに訪問すると 魂が助けを求めてきます。しかし地獄から出た者は誰一人いません。そこに来ている人がそこから出て自由を得ることは有り得ないことであります。

天国に入っても同じことです。完全に死んだ人がその所から出たり入ったりすることはないのです。


天国と地獄を「(自分で)見てみなければ分からない。」と言うのではなく、見た時は既に遅いのです。

私たちクリスチャンにとって 天国が一番の希望であります。地上でいくら苦しい生活をしていても天の御国を本気で信じている人は希望があるのです。


悔い改めて「神様、私の魂を守ってください。私を苦しみのないところに導いてください。」と福音の中に深く根を下ろして神様に頼り みこころを行いながら天国に望みを抱き 生活できるように導いてくださいと 毎日自分の力で生きることが出来ないのでイエス様の力を求めるのです。

神様は何もかも知っておられます。そして私たちが今のままで良いのかを考えることであります。
もし今 神様が自分を呼ぶなら天国へ行けるのか ――? 行けない人たちもたくさんいるのです。

ですから神様が「目を覚ましなさい」とおっしゃいます。


このメッセージは神様が伝えて欲しいメッセージであります。


寝ているでしょう?―― 起きなさい。
死にかかっているでしょう?―― 生きなさい。
罪を罪とも思っていないでしょう?―― 悔い改めなさい。


教会へ行くのもイヤだ。神様を信じるのも面倒くさいと言っていたら、それが後になって自分の首を絞める言葉になります。自分で自分を地獄へ落とすことになります。


イエス様が「地上では辛いこともある。苦しいこともある。」
しかし私のいのちの主が私たちのために33歳で地上を離れたイエス様、苦しみを受けたイエス様を悲しませるのではなく、その恵みの中に留まる必要があります。 (・◇・)ゞ

2014.3.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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