からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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十字架

聖徒の霊的生活とは

テーマは 『 聖徒の霊的生活とは 』 です

【ピリピ3章17ー21節】

兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

聖徒とは、キリストがご自身の血の代価を払って買い取り、“神の所有とされた人たち” の事です。


聖徒は 天国の国籍を持っている 天国の市民です。

天国の市民として、この地上で生きていくためには、以前とは違う生活が要求されます。


キリストに見習う生活、キリストのための生活、キリスト者として より成熟した生活です。


それらの生活は聖徒の霊的生活ですが、具体的にどのようなことかを 今回は学びます。




キリストに見習う生活




キリストは、神である方が “人間を罪から贖う目的” を持って 人間になられました。

そのために支払った犠牲はすごいものでした。


その犠牲の愛と、十字架の死と復活を信じて救われた人が、今度はキリストに見習う生き方をしなければなりません。


天国の市民になったならば、すでに地上でも それにふさわしく生きるのは当然だと思います。

聖徒にふさわしく生きるために、キリストに見習うべきことは色々ありますが、絶対外せないものがあります。


それは、「 聖、愛、真理 」です。


 聖 について 


【第1テサロニケ4章3ー5節】

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、

各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、

神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、

【ヘブル12章14節】

すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。


 愛 について 


【第1ヨハネ4章7ー8節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

【第1ヨハネ4章16節】

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。


 真理 について 


【第1テモテ2章4節】

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

【第3ヨハネ3ー4節】

兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。

私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。

聖徒であっても真理に歩んでいないと、あっという間に真理とは反対の道を歩みます。

そして十字架の敵として歩みます。


すなわち真理を愛さない、信じない、真理に逆らう、真理から耳をそむけることになります。

そして道に迷い、サタンのわなに陥り、惑わされてしまいます。


真理の中を歩むことは、“キリストの中で歩むこと” です。




霊的競走に励む生活




聖徒は天国を目指して歩む人たちです。


オリンピックの陸上競技に出場する選手たちは、どんなに苦しくても日々訓練し、そして試合に出ると決められた道を全力で走ります。


そこには怠ける姿勢も、言い訳も、諦めることもないです。

体の調子が悪くてもやります。

たとえ最下位になっても、ゴールに向かって全力を尽くします。



天国を目指す人がゴールまで辿り着かないならば どうなりますか?


入れないのはもちろんですが、地獄行きになります。

これだけは避けないといけないです。


(人生・いのち は) 1回限りの競走であることを知らないといけないです。


【ピリピ3章12ー14節】

私は、すでに得たのではなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

霊的競走は決して楽ではないです。

様々な邪魔や誘惑もあります。

それでも足を止めて やめてはいけないです。


なぜならば理由があるからです。


【ローマ8章18節】

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

先にあるものがあまりにも素晴らしいものですから、それを思いながら競走に励むことです。




霊的戦いの生活




この世には、目に見えない霊的戦いが絶えずあります。


見える世界の裏にある “見えない世界での戦いが より厳しくて激しい” です。


見える世界も見えない世界も造ったのは神です。


暗闇の世界では サタンと悪霊がつねに働き、彼らは悪いことしかしません。


神に敵対し、信じる者の信仰を邪魔して信仰から離れさせ、神から離れさせ、滅ぼすためにいつも働きます。

信じない者はすでにサタンに支配されています。


サタンは、信じる者に対して戦いを挑んでくるので、聖徒はそれに対して霊的戦いをしないといけないです。


【エペソ6章11ー13節】

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

【ヤコブ4章7節】

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

【第1ペテロ5章8ー9節】

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

神は霊的戦いを避けるように、そして逃げるようにとは一度も語ったことがありません。

この戦いは、“立ち向かって勝利” するように命じられています。


イエス様は悪魔に勝利した方です。


悪魔が持つ死の力を打ち破って、復活したことでサタンに勝利しました。



主のことば通りに、神の全能の力と神の武具を着けて、恐れず悪魔に立ち向かうならば必ず勝利します。


聖徒はこのような生活をするように召されていることを自覚して、その生活をしていきましょう。


礼拝に参加するだけで、信仰生活をしていると錯覚しては困ります。

キリストが「しなさい」 と言われたことを していくのが 信仰生活です。


キリストを愛するならば、キリスト中心の生活になります。
(。・ω・)ノ゙


2017.9.24
聖日礼拝メッセージ

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隣人への義務

テーマは 『 隣人への義務 』 です

【マタイの福音書22章39節】

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』 という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

先週は、“神への義務” に対して学びました。

今週は、“隣人への義務” に対して学びます。


隣人とは、隣に住んでいる人の事ではなく、自分以外の すべての人であると解釈するのが聖書的です。


『 神への義務 』 が1番優先であり、次に優先になるのが、『 隣人への義務 』 です。

私たちは 『 隣人への義務 』 があることも知らずに生活していますが、主は隣人への義務も 私たちに与えておられます。


どのような義務があるでしょうか?




隣人を愛すること




愛することを 『 義務 』 ではなく、“選択” だと思っていますか?


私たちが “選択” と思っても、神は 隣人への 『 義務 』 として与えました。

隣人を愛することを、一番わかりやすく説明して下さったのは、イエス様でした。


ルカの福音書10章には、“良きサマリヤ人のたとえ” があります。


強盗に襲われて、半殺しにされている人がいました。

その道を、主に仕える祭司、そして レビ人が通りました。

しかし、彼らは 倒れた人を見ると、何もせず反対側を通り過ぎました。


その後、サマリヤ人が通りました。
サマリヤ人は彼を見て、かわいそうに思い、傷の手当てをして彼を運び、介抱して面倒を見てあげました。


このたとえを語った後に、イエス様は 『この三人の中で だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。 』  と聞きました。


律法の専門家が、「その人に あわれみをかけてやった人です。」と 答えると、主はすぐに 「 あなたも行って 同じようにしなさい。」 と語りました。


同じことをするのが、隣人を愛する人の姿です。


多くの人は 見知らぬ人を助けることに戸惑いを感じ、そして巻き込まれたくないと思って、かかわりを持たないです。

それは正しいことではないです。


もし倒れた人が自分の家族ならば どうしますか?

そのまま通り過ぎることはあり得ないですね。


力を尽くして助けると思います。

今も困っている人を見て、自分のことのように助ける人がたくさんいます。


そこにあるのは隣人を愛する心です。“無関心” ではなく、“関心” があります。


困っている人に 憐れみと慈悲の心で 手を差し伸べるのが 隣人への愛であり、神がするように命じた義務です。


このような言葉もあります。


【箴言14章21節】

自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。

【箴言14章31節】

寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。



隣人を騙してはいけない




【箴言11章1節】

欺きのはかりは主に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる。

不正な商売行為は、社会の基本秩序を破壊する行為です。

悪徳商人たちは、昔から今に至るまで 不正な方法をたくさん使って 金儲けをしました。


これは隣人の財産を盗む行為でもあります。

律法でも、神は はっきりと このことに対して定めておられます。


【申命記25章13-16節】

あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。

あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。

あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。

すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。

日本は商売で不正をする人は少ないと思いますが、不正が当たり前のように行われる国も多いです。

お金のために平気に不正を行います。


神は不正な商売をしようとする者たちに向かって、預言者を通して 次のように警告しました。


【アモス書8章5節】

あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きのはかりで欺こう。

隣人から 不当な利益を得るのではなく、むしろ隣人に益をもたらすのが “隣人への義務” です。

商売しない人でも、隣人を騙すことは罪であり、信頼を裏切ることです。




隣人と平和を保ちなさい




【ローマ12章18節】

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

平和のために努力するのが 隣人への義務です。


次の箇所に、平和のために努力すべき内容があります。


【ローマ12章17節】

だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が好いと思うことを図りなさい。

【ローマ12章18節】

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

このようにして 隣人との間に、平和を保つ義務を果たしていかなければなりません。

“自分に関する限り ” ということばがあるのは、すべての人と平和を保つことが、いつでも可能なわけではないからです。


それは 完全な愛を持っている人もいないですし、人間はまた 弱さをたくさん持っていますし、この世は罪に満ちているからです。


人間同士 争いも本当に多いです。


【ヤコブ4章1節】

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。

世界でも、戦いが好きで、平和を壊す者たちの働きが とても多いです。

イスラム過激派の無差別な攻撃で 平和が一瞬にして消えます。


近所に わざと嫌がらせをして、人々の日常の平和を壊す人たちもいます。


神はすべての人々が平和の中に生きることを願いますが、人間の欲望が原因で、争い、戦争は絶えず起こっています。


しかし自分に関する限り、すべての人と平和を保つ義務を果たしていかなければなりません。

イエス様は 平和を造った方でした。


【コロサイ1章20節】

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったのです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

主は、次のようにも語りました。


【マタイの福音書5章9節】

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

隣人への非難、悪口、分裂を起こす者は 平和を壊す者です。


平和を保つためには、相手に対して関心、受容、愛が必要です。
(*´ -`) (´- `*)


2017.8.27
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十字架を負って歩む人

テーマは 『 十字架を負って歩む人 』 です

【ルカの福音書9章23-25節】

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

救世軍の創設者であるウィリアム・ブース牧師は、1921年に21世紀教会に対して心配しました。

今から100年前に何を心配したでしょうか?

六つありました。


1. 聖霊のいない教会

2. キリストのいないキリスト教

3. 生まれ変わりがない救い

4. 悔い改めのない赦し

5. 神のいない政治

6. 地獄のない天国


いま世界を見ると、これらのことばが あり得ない話ではなく、実際そのようになってしまった教会も多いです。


あいまいな教え、十字架のないメッセージ、妥協してしまった真理、罪も悔い改めも天国も地獄も語らず、肯定的思考、哲学、道徳、倫理の教えが流行っています。


どんなに素晴らしい教えであっても、キリスト信仰の本質であるイエス・キリストが抜けているならば、それはキリスト教信仰ではありません。


そして十字架を負わない信徒も 主の弟子にはなれないです。

主の弟子は、日々自分の十字架を負って歩む人です。


イエス・キリストの 人としての人生も、自分を捨て、自分の十字架を負ってまっすぐに歩んだ人生でした。


十字架にかかるために生まれ、十字架を負い、十字架の上で死なれました。

なぜでしょうか。

そこにはキリストとしての使命がありました。


人類を罪から救うため 神が立てた計画は、罪のない神の子キリストが 罪人の代わりに十字架の上で死ぬこと でしたので、最初からその十字架を負うために 地上に遣わされました。


そして神はキリストを死からよみがえらせ、天の御座にあげて、すべてのものがその前にひざをかがめるようにしました。


勝利も いのちも 神の国も 主の弟子として使命を全うした人に与えられるものです。

十字架を負って勝利した主は、私たちにも “主の弟子になるために十字架を負う” ように言われました。


イエス様には イエス様の十字架があるように、救われた者は弟子になって、自分が負うべき十字架を負わなければなりません。


これは とても大切なことですが、十字架を語らない教会、十字架を負わせない教会、十字架を負わない信徒たちが多いです。

教会の責任もあり、信徒の責任もあります。


出来るだけ多くの人々を集めることが目標である教会は、信徒たちを まるで “お客様” のように扱います。


お客様を大事にして、お客様が欲しいものを備え、お客様を喜ばせるために色々なイベントを催します。


「楽しんで下さい。何もしなくて良いです。ゆっくりして下さい。」と言います。

負担になる話もしないですし、奉仕もさせないです。気楽に参加して気楽に帰れるように配慮します。


それで人が集まると、教会がリバイバルしたと喜びます。


それが、主の求める弟子の姿であり、リバイバルでしょうか?

弟子はなく、お客さんだらけの教会が、“主の教会” でしょうか?


聖書を読んでみても、そのように教えた箇所は一つもありません。






信じることも、主の所に来ることも 難しいことではありません。


しかし主について行きたいと願うならば、話は違います。


その道は 主が言われるようにしないと、ついて行けない道です。


ですから そのようにしていない人は、弟子ではなく “お客さん” です。

本人がそれに甘んじています。


天国は お客さんを招待する所ではなく、主に従ってきた人が勝利者として入る所です。


私たちは騙されてはいけないです。

広い道を お客さんとして楽に歩いた人に、天国は保証されていないです。


キリストは「楽な道を 楽に歩くのではなく、険しい道を 十字架を負って歩きなさい。」と言われました。


その道を主も歩きました。

ついて行く人に他の道はありません。

キリストは、弟子になる者に 主について来たいならば こうしなさいと言われました。



「自分を捨て」と言われました。

十字架を負って 主に従うための一歩が、自分を捨てることでした。


自分を捨てることは、自我を捨てることです。

人間が最後まで捨てずに固執しているのは “自我” です。


思考、意志、やり方、性格、行動、計画など自分が優先、自分が主人であるという自意識です。


これを否定することが「自分を捨てる」ことですが、自我はなかなか素直に従いません。

神のことばに一番反抗するのも、この自我です。


自我を捨てず、死ぬまで主の働きをすることは出来ます。

しかし、その人の内面は信じる前と何も変わっていないです。
見た目は 信じる人に見えても、その人自身は変わっていないです。


弟子のように見えて、弟子ではないです。


自我を捨てなかったなら、人間は変わることも、十字架の道も歩けないです。


イエス様が神でありながら、人間になって十字架の道を歩けたのは自我を完全に捨てたので可能でした。


【ピリピ2章6-8節】

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

自分を捨てない人が、イエス様を 自分の主人にすることが出来るでしょうか。


私たちが自分を捨てることは、自分の主人を変えることであり、主のことばに従って日々聖なる者に変わっていくことです。


最近 中国で大規模な軍事パレードがありました。

内モンゴル自治区でも 北京でも1万2千人の軍人が参加しました。


内モンゴルでの習近平国家主席の演説だと思いますが、軍人たちに向けて「共産党のために永遠に仕え、命をささげるように」というようなことを語りました。

中国には230万人の軍人がいます。


彼らは共産党にために、国のためにいのちを捨てると思います。

その思いがないと、最初から軍人にはならないと思います。


その演説のことばや軍人たちの姿を見て、あることを ずっと考えていました。

「私はどうなのか ――」と。


共産党のために若い軍人たちがいのちを懸けているのに、私は主のためにいのちを懸けているのかと。


皆さんはどうでしょうか?主のために何が出来ますか?

なかなか答えられないと思います。


なぜなら主のために何が出来るかよりは、“主が 私のために何をしてくれるのか” に もっと関心があるからです。


これは弟子の姿ではなく、お客さんの姿です。


お客さんは自分を満足させてくれることだけを期待します。

しかし弟子は、主を満足させることだけを考えます。


軍人であるならば、命をかけて国のために戦います。

誰かが自分のために戦ってくれることを期待しません。

自分が誰かのために戦います。


それが、彼らが負っている使命の十字架です。


築地市場の火災現場では、消防士たちが一生懸命に消火活動をしていました。

建物の中が激しく燃えているのに、ある消防士が「中に入りましょう。」と声を出しました。


その後、消防士は火の中に入って行きました。

それが、彼らが負っている使命の十字架です。


軍人にふさわしく、消防士にふさわしくなり、その働きをするのが彼らの使命であり、彼らはそのために全力を尽くします。


主について行きたい人も、それにふさわしい者にならないといけないです。


弟子にふさわしい者になるためには 自分を捨て、弟子としての使命の十字架を負わなければなりません。


パウロは主について行く者になりました。

それをこのように表現しました。


【第1コリント9章23-27節】

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

彼はキリストにあって全く新しい者になり、きよくなり、数々の苦難と迫害の中で、自分の十字架を負って弟子の姿になり、勝利者になりました。


【第1テモテ6章14節】

私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。

このように言われてありますが、自分を捨てず、十字架を負わず、死ぬまで お客さんとして満足していますか?

それとも主のことば通りについて歩きますか?


いのちも勝利も救いも最後まで主について行くものが手にすることが出来ます。


十字架を負った者が勝利の主と喜ぶことが出来ます。
v( ̄∇ ̄)v


2017.8.6
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信仰によって大胆に生きる人々

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【ヘブル10章32-39節】

あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。

人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。

あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。

わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

最近、感動的な映像を観ました。


モスルで イラク軍とISの激しい戦闘がある最中に、IS側の地域で 死んだお母さんのそばで座って泣いている6歳のイラク人の女の子を見つけた、デビット・ユベンクというクリスチャンの人が 命を懸けて爆弾が落ちる地域に走って行き、その女の子を救出しました。


彼にも小さい子どもがいますが、死を覚悟して、救出に向かったと言いました。

彼は 英雄と呼ばれることに対して、自分は決して英雄ではなく、すべきことをしたと言われました。


“隣人を愛しなさい” ということばを実行したと思います。

実際いま、中東では、自分のいのちを懸けて福音を伝える多くのクリスチャンたちがいますし、良き働きをしているクリスチャンたちも多いです。


中東のほとんどの国は、イスラム教の世界なので、そこには数少ないクリスチャンがいて激しい迫害を実際受けている人々もいますので、まさに苦難の火の中で信仰を守っているような状態です。

その彼らが、どれほど大胆な信仰をもっているのかを色々と聞きました。


今日の本文でも、激しい苦難の中で戦いながら信仰を守っている人たちがいたことを語っています。


どの時代にも、クリスチャンに対する迫害はありました。

その中で大胆な信仰をもって殉教した多くのクリスチャンたちがいました。


しかし信仰の自由があり、苦難も迫害もないのに、意外と弱々しく不安と恐れの中にいるクリスチャンが多いです。

祝福があるのに、将来に対する恐れ、苦難と迫害に対する恐れがあります。


激しい迫害と苦難があっても、恐れもなく 大胆に生きるクリスチャンがいるのになぜでしょうか。


以前、シリアでもイスラム教徒によって破壊された教会の前で、牧師が大胆にも「壊れたこの教会から離れず、ここでまた礼拝をささげる」と言いました。

恐れはないと言いました。殉教も覚悟しているように見えました。


そのようにシリアやイラク、他の国々でも苦難と迫害の中にいるクリスチャンたちは あまり恐れず、その中で生きていました。


目の前でISの人々や他のイスラム教徒がクリスチャンたちを十字架につけたり、首をはねたりと残虐な行為を繰り返しても、彼らは信仰を守りながら大胆に彼らの中で生活しています。


どうして そのようなことが出来るでしょうか?


彼らは未来だけを見るのではなく、今日という日を熱心に生きています。







アメリカで発行された 「Standing in the fire」 という本の著者が話した内容も少し話します。


西洋の教会では 恐れながら生きている人が多いのに、なぜシリアなど迫害を受けている教会では そういうことがないのかを調べました。


恐れがある主な理由は、“信じる者たちがこの世のTVや放送局で流れるニュースばかり聞きながら考えるからだ” と言いました。


毎日ニュースはテロ、事件、事故、災害など衝撃的なものがほとんどです。

テレビの前で座りながら、それらのニュースの爆弾を受けています。


否定的な知らせ、ムスリム世界のことばかりを聞くと、心に不安と恐れが生じます。

そうすると、だんだんと信仰も弱くなり、恐れ退いていきます。


しかし、信徒たちは恐れ退いてはならないです。


中東の信徒たちは、ムスリム背景から出て来ましたが、そのようには生きていないです。



「使徒の働き」 を読んでみると、聖霊を受ける前の弟子たちも恐れおののいて 隠れていましたが、聖霊を受けた後は 聖霊と力に満たされ、迫害の中でも、大胆に福音を伝えました。


恐れが何もない所に住んでいるクリスチャンが恐れているのに、大きな危険の中に生きているクリスチャンは、それとは反対に 非常に大胆です。


中東にいるクリスチャンに出会って驚いたことは、彼らに恐れがなかったことだと言われました。

彼らは戦争が早く終わるように、迫害が止まるように祈ってはいないそうです。


かえって自分たちが いま経験している すべてのことを通して学ばせて下さいと祈っています。


試練から学び、大胆に苦難を受け、主のために喜んで いのちをささげることが出来るように祈っています。


自分の祝福ばかり祈っているクリスチャンとは 全く違う姿です。


彼らは 神を求めていますが、自由の国のクリスチャンは 祝福を求めます。


信仰よりも自分の生活が守られるように祈っています。

ですから試練に弱く、大胆な信仰も足りないのです。






ニジェールは、世界でも貧しい国の下から二番目のアフリカにある国ですが、そこもイスラム教が多く、教会に対する迫害が強い国です。


そこで20年間宣教している宣教師の報告でも、パリで2015年に起きた新聞社テロの影響を受けて ニジェールでも教会が次々とイスラム教徒らに襲撃されて教会が放火されたり、壊されたりしました。


信徒たちもいやがらせを受けたりしたので、別の所に移った人もいましたが、しばらくすると信徒たちが教会に戻って来ました。

教会が燃えて椅子一つ残されていないので、自分たちの家から椅子を持って来て礼拝しました。


またいつ襲われるか分からないので、死を覚悟して信仰生活をしています。

その国は、ボコハラムというイスラム過激派が活動している危険な所です。

彼らはナイジェリアでも、4千人のキリスト教徒を殺害しました。



しかし、そのような苦難と迫害の中でも 大胆に信仰をもって生きる人々がいるので、私たちは彼らから学ぶ必要があります。


大胆な信仰はどこから来たのでしょうか?


神のことばに耳を傾けることです。


信仰は キリストのことばを聞いて始まりますし、信仰によって生きることも神のことばによります。


迫害の中で生きる人たちは、いつも神のことばを優先に聞きました。

神のことばで力を受け、神と永遠の世界を知り、真の希望と誰に頼って生きるべきかを学びました。


彼らの世界観は神のことばから来ました。

この世のニュースばかり聞いて、それで判断し、右往左往するならば、信仰によって生きる人ではなく、世に頼って、世の価値観で生きる者になります。


ですから 大胆な信仰のためには、世の騒音を消して、神のことばを聞かなければなりません。



祈祷院で1週間 神に向き合って、ニュースをいっさい聞かなかった時に、本当に心が平安になり、聖霊に満たされました。


山から下りると騒がしいニュースばかりで、心が乱された経験がありました。


今、戦闘地域に住んでいる人たちは 自爆テロや爆弾が落ちたりすると、そこに家族が巻き込まれているかも知れないという不安と恐れを持って、すぐニュースに耳を傾けますが、そこにいるクリスチャンたちは ニュースよりもまず ひざまずいて、「神は真実な神です。神はあわれみ深い方です。神は御民を守って下さる方です。大丈夫だと信じます。」 と祈った後に、詳しいことを調べるらしいです。


しかし自由の世界にいる多くのクリスチャンは 心配と恐れで、まずニュースを聞き、後になって祈ります。


世のすべてのことは、まず信仰の目で見て神に祈ることが優先です。


恐れの目で見てはいけないです。

大胆な信仰によって生きている人は 絶望的な時に、必ず祈ります。

その時、必死に神を求めます。


彼らは、「神に信頼する者は決して失望させられることはない」 ということばを信じています。

そして苦難に耐える時は、神から受ける大きな報いを信じています。


苦難もなく、肉を喜ばせるものが多い所に住む人は、世を愛して いつまでもこの世が続いてほしいと思いますが、苦難や迫害、様々な困難が多い所では、この世よりは天の御国へ行きたい思いが強くなるので、この世のことで くよくよ悩んだり、未来のことで心配ばかりすることはしないです。

その分、恐れも少なくなります。


迫害があり、戦闘がある所では 明日が問題ではなく、今日生きるか死ぬかが問題です。

ですから、“今日” と言う日を神に頼って精いっぱい生きます。


「今日、信仰によって生きないと天国に行けないかも知れない」 という思いで生きています。


ソファーに座ってテレビを観ながら未来に対して不安と恐れを感じて生きるクリスチャンと、必死に祈りながら今日生きている人は、どちらが大胆に生きる人でしょうか?


昔から大胆な信仰を持って生きた人たちは、信仰の戦いが強い時代に生きた人々でした。

今も変わりません。






アメリカで高齢者たちに、「今、後悔していることは何か」 のアンケートを取りました。

結果、「挑戦しなかったことを一番後悔している」 という回答でした。


安全な道、楽な道ばかり求めて生きた結果だと思います。

そして新しいことへの不安と恐れがあるので、挑戦を諦めたと思います。


信仰の道は楽な道ではないです。

その道は せまく険しいと主が語りました。


自分がしたいこと全部しながら歩める道ではないです。

反対に神の声に聞き従いながら歩む道です。


悪の力と戦いながら歩む道です。


しかし、信仰の道を走り終えると 大きな報い、永遠のいのちが得られる素晴らしい道でもあります。


これからの時代は、信仰を守るのが難しくなる時代になると聖書でも預言しました。


大胆な信仰がないと、信仰で生きることが出来ない時代になります。

いま小さい試練の中で訓練して下さい。


忍耐すること、大胆になることを――。
( ̄‥ ̄)=3


2017.7.30
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自分を捨てる者の義務

テーマは 『 自分を捨てる者の義務 』 です

【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主 (イエス・キリスト) について行きたいけど、自分を捨てることが どういうことか分からないという聖徒も多いです。


今回は、自分を捨てる者の義務について伝えます。




1.世の心配を捨てる


【マタイの福音書6章25ー34節】

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。



2.自分の思いよりも、主の思いを優先する


【ルカの福音書14章26ー27節】

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。



3.放蕩に走らないように気をつける


【ルカの福音書21章34節】

あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに望むことのないように、よく気をつけていなさい。



4.兄弟のつまずきになるようなことはしない


【ローマ14章21節】

肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。



5.信仰の弱い者のために自分の行動を自制する


【ローマ15章1節】

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。



6.他人の利益に心がける


【第1コリント10章24節】

たれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。



7.肉の欲を取り除く


【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。



8.情欲によって滅びていく古い人を脱ぎ捨てること


【エペソ4章22節】

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、




9.たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざける


【第1ペテロ2章11節】

愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。



10.罪の生活から離れる


【ローマ6章6ー7節】

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

(。・ω・)ノ゙ アーメン

2017.5.14
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復活のいのち

テーマは 『 復活のいのち 』 です

【第1コリント15章3-8節】

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。

そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。

死から復活したことは、死で終わったのではなく、再び いのちとして生まれたことを意味します。


イエス・キリストは十字架の上で確かに死にました。

そして墓に葬られました。


みんなはその死を確認しました。

そして弟子たちがその死体を盗むことがないように、墓の入り口に石を転がして、誰も入れないように防ぎました。


そして番兵が墓の番をしました。

三日間は墓の中に何の変化も起こりませんでした。


しかし三日後に異変が起こりました。

イエス・キリストが前もって言われた通りに、死の力を打ち破ってよみがえりました。


死がイエス様を縛っておくことは出来ませんでした。

完全に復活しました。


死人ではなく、いのちあるキリストの姿になりました。


そのいのちは再び死ぬような一時的なものではなく、二度と死を味わうことのない、朽ちない栄光の体になりました。


その体は多くの人が直接見ました。

目撃者が多かったです。


誰かの作り話ではなく、事実でした。




復活はすでに預言されていた




復活は旧約聖書で、すでに預言されてありました。

そして新約時代に成就されました。


―― 預言 ――
【詩篇16編10節】

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

―― 預言の成就 ――
【マタイの福音書28章5-6節】

すると、御使いたちは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。



イエス・キリストは復活の光




不信の勢力と暗闇の力を、復活の光で勝ちました。


闇と光はどちらが強いでしょうか?

闇が光に勝つことは出来ないです。


どんなに暗い部屋でも、スイッチを入れるとあっという間に闇が消えていきます。

すべての人たちは復活を信じませんでした。


暗い墓の中に、主は入りました。

しかし闇の中にとどまらず 復活の光として闇を消して出て来られました。


死の力を打ち破った主ですから、私たちにいつも力と希望を与えることが出来ます。


【ヨハネの福音書8章12節】

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」



世を救い、いのちを与えるため




イエス・キリストは世を救うために、私たちを救っていのちを与えるためによみがえりました。


【ローマ8章11節】

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。



復活の力を知ることは難しいです




御使いも預言者もパウロも そのことを知ろうと調べ、研究しましたが知ることは出来ませんでした。

なぜならばそれは神の領域の中にあることだからです。


神の中にある測り知れない力を人間がどのように知ることが出来るでしょうか。


人間が持つ理解力も知識も知恵もわずかなものです。

目に見える体のこともよくわかっていない人間が復活の体を研究してもわかるはずはないと思います。


復活の力は神だけが持つ力です。




復活の恵みに預かりたいならば




復活の恵みに預かりたいならば、復活したイエス・キリストを信じることです。


【ヨハネの福音書11章25-26節】

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

そして主と一つになることです。

復活の順番と復活する人がだれかを教えました。


【第1コリント15章23節】

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

キリストに属しながら、キリストの再臨を待ち望んでいる人は、主が復活したように、朽ちない体、栄光の体、死ぬことがない体に生まれ変わります。


どのような体に変わるのか 楽しみではありませんか。 (。・ω・)ノ゙


2017.4.16
イースター礼拝メッセージ

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キリストの十字架と私

テーマは 『 キリストの十字架と私 』 です

【ガラテヤ1章4節】

キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり、父である方のみこころによったのです。

今週はキリストの受難週です。

キリストが苦しみを受け、十字架につけられ死んだ時期です。


みなさんは十字架を見た時に、そこに釘づけられて死んだキリストをすぐに思い出しますか?

それとも 何も思わないですか?


クリスチャンならば、キリストを思い出すと思います。


キリストが 罪人の罪を贖うために十字架の上で死んだことは、聖書を通して聞いていますので、それは信じていると思います。


しかし、その “十字架と自分” をしっかり結びつけないと、キリストの十字架に特別な意味があっても、それが自分とは何の関係もないものになります。


今回はまず「キリストの十字架の特別な意味」を語り、そのあとに「キリストの十字架と私」に対して学びます。





キリストの十字架の特別な意味




キリストの十字架の意味を はっきり知って信じることで、私たちは神がすでに備えた驚くべき恵みを受けることが出来ます。

知らないならばもちろん何の恵みも受けられません。


《 罪を赦す力 = 罪によって人間はきよい神との関係が断絶されました 》


なぜなら “罪” は、神との関係を断絶させるからです。


ですから神との関係を回復するためには、罪が洗われる必要と罪の赦しが必要になります。


神はイエス・キリストの十字架の苦難と死 という方法で、私たちの罪を赦しました。


私たちがキリストの十字架の前に来て 自分の罪を悔い改めて信じる時に、キリストの血が罪を洗い、罪の赦しを受けることが出来ます。


キリストの血には、“罪を赦す力” があります。


【ガラテヤ1章4節】

キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

罪が赦されると たましいが救われ、神との関係も回復します。



《 愛の力 = 十字架の贖いは 神が人間を愛している証拠 》


“キリストの十字架のみ” が私たちを神の愛に導きます。


イエス様が人間を愛していなかったならば、自分のいのちをささげることは出来なかったと思います。


【ローマ5章8節】

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。


《 神と出会う場所 = 十字架の力だけが私たちを神に導きます 》


旧約時代に幕屋で神に会ったように、私たちはキリストの十字架を通して神に会います。


神がご自身を現し、私たちを呼ぶのもキリストの十字架を通してです。

そのように神が決めましたので、それ以外の道はありません。





キリストの十字架と私




・十字架の上で古い人は死んで、新しい人になりましたか?


【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

使徒パウロの告白ですが、キリストに本当に出会ったならば、このような同じ告白が私たちからも出なければなりません。


神を知らなかった時の姿は古い姿です。

自分の思いのままに生きた姿でした。


しかしキリストを信じることは、古い人を捨てて 新しい人として生きることを意味します。


罪から離れ、義のために生きることです。


【第1ペテロ2章24節】

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。


【第2コリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

この新しく生まれ変わった経験がない人は、まだ救われていないです。


変わったならば、本人が一番それに気付くはずです。

罪から離れてキリストの中にいま生きていますか。



・十字架のために迫害を受けていますか?


【ガラテヤ5章11節】

兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。


【ガラテヤ6章12節】

あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見をよくしたい人たちです。 彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。

行いや儀式によって救いを受け、祝福を受けると思っている人は それらを重んじ、それらに魅力を感じ、一生懸命にそれを追い求めます。

そういう人が迫害を受けることはあまりないです。


しかし それを拒否し、キリストの十字架を信じる信仰のみに救いがあるという人は、迫害を受けます。


その迫害を受けたくないから妥協したり、ごまかしたりして生きるならば、それは十字架を知らない人です。


イエス様は主の弟子になる人は、誰でも迫害を受けると言われました。

殉教するほどの迫害もあれば、周りから受ける不当な扱いや嫌がらせなどの小さい迫害もあります。


十字架によって新しくなった人は、迫害を受けてもキリストから離れません。

さらにキリストに近付きます。


そのようにしていますか?

それとも迫害は絶対に嫌だと キリストから離れますか?



・誇っているのは十字架ですか、それとも肉のものですか?


【ガラテヤ6章14節】

しかし私には、私たち主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

自分にとって価値のないものを誇る人はいません。

その人が愛するもの、関心が高いもの、大事にするものは、その人が誇るもので分かります。


次の言葉で自分の状態を調べるならば、自分がどこに属し、何を誇り、何に従っているかが分かります。


【ローマ8章5-10節】

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

肉にある者は神を喜ばせることができません。

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

キリストの十字架を一番の誇りとしている人は、十字架の意味と価値を知っている人です。


そうでない人は、まだ十字架の意味と価値を知らない人です。



・日々自分の十字架を負っていますか?


【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

何かを負うことはしなければならない責任があります。


どんな責任でも負うことは しんどいことです。

出来れば責任は負いたくないと思ってしまいます。


キリストも重い死の十字架を背負いました。

その苦難はとてもつらい苦難でした。


しかし最後まで十字架を負いました。

それによって 人類の罪が赦される道、救いの道、神との和解の道が出来ました。

私たちにも主が負わせた十字架があります。


ある人はそれが嫌でどこかに投げ捨てました。

負担もなくなり、身軽になって良かったと思うでしょう。


しかし いま笑う者は後で泣きます。いま泣く者は後で笑います。


もし十字架を負わせられたならば、黙ってそれを負って主に従うことです。



子ロバは、イエス様が自分の上に乗った時に 黙って歩き出しました。


主が私たちに負わせる十字架は、祝福の十字架です。


後に 主と清算する時に、多くの報いをもたらすものになります。


しかし投げ捨てて十字架を負わなかった人にあるのは、厳しい叱責です。

「悪い怠けたしもべだ」と聞くでしょう。


十字架のない人生を選ぶか、十字架のある人生を選ぶかは自分で選べます。


しかし天国へ行くのは自分では選べないです。

神様が決めます。


十字架と共に歩んだ人には、天国の道を開きます。

なぜなら十字架の道が天国への道だからです。


十字架を愛して生きる人もいれば、十字架の敵として生きている人も多いです。


あなたはどらちですか?
(゚Д゚≡゚Д゚)


2017.4.9
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弟子になれる人と弟子になれない人

テーマは 『 弟子になれる人と弟子になれない人 』 です

【ルカの福音書9章22-27節】

そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目にはよみがえらねばならないのです。」

イエスはみなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」

イエス様が弟子たちを選んだ理由は、もちろん弟子として育てるためでした。


イエス様が死んで三日目によみがえって、そのまま地上に残るのではなく 天に帰るので、弟子たちにはイエス様がなさった同じことをするように伝えました。


彼らにはすでに生活がありましたが、イエス様は彼らが主の弟子になることを要求しました。

そして弟子になることが どういうことかも教えました。


弟子になる人の条件は「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして主に従うこと」です。


自分を捨てることは自己否定です。

自己否定の意味は、罪の性質の中で生きる自己中心性を捨てることです。


“罪” とは悪いことだけではなく、正しいことを知っていながらもそれをしないことです。


自分がしたいことをするために すべきことを知りながらも、しないことが多いです。


自分のものをしっかり握りしめて、それを手放さないで主に従うことは不可能です。


自分を捨てることは、悔い改めとも関連があります。

罪から立ち返り、自分の考え、価値観を変えることです。


今までのような思いのままに生きないことです。

それをむしろ捨てることです。


そして主が与えて下さった新しい使命、主が望むこと、喜ぶことを自分のすべきこととして受け入れ、日々それを目標にして目指すことです。


そのためには犠牲も払います。

それでも その道を選ぶこと、それが自分の十字架を負うことです。


日々の生活の中で、自分が喜ぶことなのか、主が喜ぶことなのか、自分の思いか 主のみこころかを選ぶ中で、主のものを選ぶ人は自分の十字架を負っている人です。


その後に、主について行きます。

自分勝手に動くのでななく、主の導きを受けて歩みます。


このような姿が弟子の姿です。






弟子になれない人もいます。


主が選んでいないからではなく、その人の態度が弟子として生きることが出来ないからです。


主は救われた人がみんな弟子になることを願っています。


弟子になれない人は、


・イエスさまに従うことが物質的な祝福を得て、栄光を受けて天国に入る道だと思っている人です。

すなわち “祝福” が目的で信じる人です。


こういう人はイエス様より、他の人より “自分” が一番重要です。


・この世の事や働きが優先で、時間が余った時にイエス様に従うと決心した人です。


決して神の国やその義を第一にしない人です。

そういう人は多くいますね。


・世に対して未練たっぷりの人は弟子にはなれません。


世を愛し、世に関心があるので、それを捨てて主に従うことは不可能に近いです。


【ルカの福音書9章61-62節】

別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤(すき)につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

こういう人は弟子になれないと言われました。



弟子として生きることは「忠実な良いしもべ」として生きることです。

弟子にならない人は「悪いしもべ」として生きることです。


弟子になるか ならないかは、あなた次第です。
Σ(=゚ω゚=;)


2017.3.12
聖日礼拝メッセージ

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十字架につけながら生きる

テーマは 『 十字架につけながら生きる 』 です

ハレルヤ。

主の平安と恵みがありますように。


新約時代で、信徒たちが一番模範にして見習うべき人は 使徒パウロです。


新約聖書の多くの部分は使徒パウロが書きました。

聖霊が書くようにパウロを用いて下さいました。


キリストに出会って劇的に人生が変わった人です。

出会った瞬間から一直線にキリストを目指して走り続けた人でした。


主に対する愛はあまりにも熱く、その心はイエス様で満たされていましたし、自分の全人生を惜しまずに主にささげました。


彼ほど 主に救われたことに対して、価値を知る人はいないと思います。

私たちは あまりにもその価値に気付いていないですね。


【ルカの福音書9章25節】

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

全世界どころか、わずかなものに 自分のたましいを売る者が実に多いです。


クリスチャンは “救いの値打ち” が全世界よりも “上” であることを知らないといけないです。


パウロは主に出会って初めて自分が何者であるのかに気付きました。

それまでは自分を立派な者だと思っていました。


また、罪のない正しい者と思っていましたし、まともな者だと思っていました。

自己評価が高い者でした。


しかし主に出会って初めて “真の自分の姿” を見ることが出来ました。

そして びっくりしました。

とんでもない姿が そこにありました。


「私は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。私は罪人のかしらでした。(第1テモテ1章13節、15節)」

これがパウロの告白でした。


その後、彼の人生はどのように変わったでしょうか。

まず、パウロがしたことがありました。


【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

古い人を十字架につけました。

そして彼は その十字架を負いました。


“十字架を負う” ということは、情欲、欲望、貪欲、不義、妬みなど 人間の生まれながらの行為を十字架につけながら生きることです。


自分が誇りとしている すべてを捨てて、主を第一にすることです。


自分の十字架を負って生きているパウロの告白です。


【第1コリント15章31節】

兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

彼はどんなに苦しくても、自分の十字架を負って主に従って歩みました。


イエス様が死に至るまで父なる神に従順であったように、パウロも死に至るまでイエス様に従順な人でした。

一度もその心が主から離れたことがありませんでした。


イエス様に出会った後の彼は とても幸せでいのちに溢れ、いつも聖霊に満たされていました。

それがどんな苦難の中でも彼を勝利させる原動力でした。


この姿が私たちにも必要な姿ではないでしょうか。
(;´Д`)

2017.1.2
3分テレフォンメッセージ

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主にあって生きる人

ハレルヤ。

主の守りが今日もありますように。


主にあって生きる人は、どのような生活をしているでしょうか。

今回はそのことを語ります。


主にあって生きる人は、まず自分自身を殺します。

ここで殺すことは、肉体ではなく 自我を殺すことを意味します。


この世のむなしい欲や利己心をすべて十字架に釘づけしないと、真のクリスチャンとして生きることがとても難しいです。


自我が生きている人は、キリストを自分の主人として認めず、自分の思いのまま生きますし、滅びていく古い人の行いをしながら生きています。


ですから、主にあって生きるためには自分の自我を殺し、キリストのことばに従って、キリストのしもべとして生きないといけないです。


自分が主人ではなく、自分は主人であるキリストに仕えるしもべである認識で、自分の肉の欲と自我を日々殺して生きています。


主にあって生きる人は、神の前に捨てるべきものを見つけて、それを捨てる生活をします。

それは不信仰的なもの、神が喜ばないもの、汚れたもの、悪いもの等で、大胆に捨てます。



【エペソ4章31節】

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

【エペソ5章3-4節】

あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。

また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。

【ガラテヤ5章19-21節】

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

このようなものを日々捨てる生活をしています。


そして、主にあって生きる者は聖霊の原理に従って生きます。

御霊の原理は、イエス・キリストのみことばです。


なぜなら御霊の働きは、イエス様がこの世で教えた教訓を私たちに思い出させ、そのように生きるように力を与えて下さるからです。


主にあって生きる人は、イエス・キリストのみことばを生活の中で適用しながら生きています。


人間には みことばを行う力がありませんが、みことばを行って生きるように聖霊が力を与えて下さいます。


ですから、主にあって生きる人は、いつも共におられる聖霊に頼ります。

主にあって生きることは必然です。


皆さんも今日のみことばを参考にして自分に適用してみてください。
v( ̄∇ ̄)v


2016.2.1
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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