からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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十字架

弟子になれる人と弟子になれない人

テーマは 『 弟子になれる人と弟子になれない人 』 です

【ルカの福音書9章22-27節】

そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目にはよみがえらねばならないのです。」

イエスはみなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」

イエス様が弟子たちを選んだ理由は、もちろん弟子として育てるためでした。


イエス様が死んで三日目によみがえって、そのまま地上に残るのではなく 天に帰るので、弟子たちにはイエス様がなさった同じことをするように伝えました。


彼らにはすでに生活がありましたが、イエス様は彼らが主の弟子になることを要求しました。

そして弟子になることが どういうことかも教えました。


弟子になる人の条件は「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして主に従うこと」です。


自分を捨てることは自己否定です。

自己否定の意味は、罪の性質の中で生きる自己中心性を捨てることです。


“罪” とは悪いことだけではなく、正しいことを知っていながらもそれをしないことです。


自分がしたいことをするために すべきことを知りながらも、しないことが多いです。


自分のものをしっかり握りしめて、それを手放さないで主に従うことは不可能です。


自分を捨てることは、悔い改めとも関連があります。

罪から立ち返り、自分の考え、価値観を変えることです。


今までのような思いのままに生きないことです。

それをむしろ捨てることです。


そして主が与えて下さった新しい使命、主が望むこと、喜ぶことを自分のすべきこととして受け入れ、日々それを目標にして目指すことです。


そのためには犠牲も払います。

それでも その道を選ぶこと、それが自分の十字架を負うことです。


日々の生活の中で、自分が喜ぶことなのか、主が喜ぶことなのか、自分の思いか 主のみこころかを選ぶ中で、主のものを選ぶ人は自分の十字架を負っている人です。


その後に、主について行きます。

自分勝手に動くのでななく、主の導きを受けて歩みます。


このような姿が弟子の姿です。






弟子になれない人もいます。


主が選んでいないからではなく、その人の態度が弟子として生きることが出来ないからです。


主は救われた人がみんな弟子になることを願っています。


弟子になれない人は、


・イエスさまに従うことが物質的な祝福を得て、栄光を受けて天国に入る道だと思っている人です。

すなわち “祝福” が目的で信じる人です。


こういう人はイエス様より、他の人より “自分” が一番重要です。


・この世の事や働きが優先で、時間が余った時にイエス様に従うと決心した人です。


決して神の国やその義を第一にしない人です。

そういう人は多くいますね。


・世に対して未練たっぷりの人は弟子にはなれません。


世を愛し、世に関心があるので、それを捨てて主に従うことは不可能に近いです。


【ルカの福音書9章61-62節】

別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤(すき)につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

こういう人は弟子になれないと言われました。



弟子として生きることは「忠実な良いしもべ」として生きることです。

弟子にならない人は「悪いしもべ」として生きることです。


弟子になるか ならないかは、あなた次第です。
Σ(=゚ω゚=;)


2017.3.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会


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十字架につけながら生きる

テーマは 『 十字架につけながら生きる 』 です

ハレルヤ。

主の平安と恵みがありますように。


新約時代で、信徒たちが一番模範にして見習うべき人は 使徒パウロです。


新約聖書の多くの部分は使徒パウロが書きました。

聖霊が書くようにパウロを用いて下さいました。


キリストに出会って劇的に人生が変わった人です。

出会った瞬間から一直線にキリストを目指して走り続けた人でした。


主に対する愛はあまりにも熱く、その心はイエス様で満たされていましたし、自分の全人生を惜しまずに主にささげました。


彼ほど 主に救われたことに対して、価値を知る人はいないと思います。

私たちは あまりにもその価値に気付いていないですね。


【ルカの福音書9章25節】

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

全世界どころか、わずかなものに 自分のたましいを売る者が実に多いです。


クリスチャンは “救いの値打ち” が全世界よりも “上” であることを知らないといけないです。


パウロは主に出会って初めて自分が何者であるのかに気付きました。

それまでは自分を立派な者だと思っていました。


また、罪のない正しい者と思っていましたし、まともな者だと思っていました。

自己評価が高い者でした。


しかし主に出会って初めて “真の自分の姿” を見ることが出来ました。

そして びっくりしました。

とんでもない姿が そこにありました。


「私は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。私は罪人のかしらでした。(第1テモテ1章13節、15節)」

これがパウロの告白でした。


その後、彼の人生はどのように変わったでしょうか。

まず、パウロがしたことがありました。


【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

古い人を十字架につけました。

そして彼は その十字架を負いました。


“十字架を負う” ということは、情欲、欲望、貪欲、不義、妬みなど 人間の生まれながらの行為を十字架につけながら生きることです。


自分が誇りとしている すべてを捨てて、主を第一にすることです。


自分の十字架を負って生きているパウロの告白です。


【第1コリント15章31節】

兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

彼はどんなに苦しくても、自分の十字架を負って主に従って歩みました。


イエス様が死に至るまで父なる神に従順であったように、パウロも死に至るまでイエス様に従順な人でした。

一度もその心が主から離れたことがありませんでした。


イエス様に出会った後の彼は とても幸せでいのちに溢れ、いつも聖霊に満たされていました。

それがどんな苦難の中でも彼を勝利させる原動力でした。


この姿が私たちにも必要な姿ではないでしょうか。
(;´Д`)

2017.1.2
3分テレフォンメッセージ

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主にあって生きる人

ハレルヤ。

主の守りが今日もありますように。


主にあって生きる人は、どのような生活をしているでしょうか。

今回はそのことを語ります。


主にあって生きる人は、まず自分自身を殺します。

ここで殺すことは、肉体ではなく 自我を殺すことを意味します。


この世のむなしい欲や利己心をすべて十字架に釘づけしないと、真のクリスチャンとして生きることがとても難しいです。


自我が生きている人は、キリストを自分の主人として認めず、自分の思いのまま生きますし、滅びていく古い人の行いをしながら生きています。


ですから、主にあって生きるためには自分の自我を殺し、キリストのことばに従って、キリストのしもべとして生きないといけないです。


自分が主人ではなく、自分は主人であるキリストに仕えるしもべである認識で、自分の肉の欲と自我を日々殺して生きています。


主にあって生きる人は、神の前に捨てるべきものを見つけて、それを捨てる生活をします。

それは不信仰的なもの、神が喜ばないもの、汚れたもの、悪いもの等で、大胆に捨てます。



【エペソ4章31節】

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

【エペソ5章3-4節】

あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。

また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。

【ガラテヤ5章19-21節】

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

このようなものを日々捨てる生活をしています。


そして、主にあって生きる者は聖霊の原理に従って生きます。

御霊の原理は、イエス・キリストのみことばです。


なぜなら御霊の働きは、イエス様がこの世で教えた教訓を私たちに思い出させ、そのように生きるように力を与えて下さるからです。


主にあって生きる人は、イエス・キリストのみことばを生活の中で適用しながら生きています。


人間には みことばを行う力がありませんが、みことばを行って生きるように聖霊が力を与えて下さいます。


ですから、主にあって生きる人は、いつも共におられる聖霊に頼ります。

主にあって生きることは必然です。


皆さんも今日のみことばを参考にして自分に適用してみてください。
v( ̄∇ ̄)v


2016.2.1
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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初めの愛を回復するために

テーマは 『 初めの愛を回復するために 』 です

【ヨハネの黙示録2章4-5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその所から取りはずしてしまおう。

信仰生活にも定期的に点検が必要です。


なぜなら、問題があるならば早くそれを直していかないと知らぬ間に重い病気にかかって大変なことになるからです。

放置していいものと放置してはいけないものがあります。


信仰生活が無気力、無感覚になり、喜びも平安もなく、新しく実が結ばれることもなく、信仰生活そのものがしんどく、神との関係も遠くなったような気がするならば、何よりも自分とイエス様との間に問題が生じたことに気付くことです。


信仰生活のほとんどの問題は、自分と主との関係に異変が起きたからです。


それを解決して信仰を立て直していかなければなりません。



今日のことばも 本人が気付いたのではなく、主からの診断でした。


初めの愛から離れただけで 主との関係に大きな問題が生じました。

主が非難したことはそれが罪だからです。


罪じゃないと(神様が)非難することも、悔い改めなさいと言うこともありません。


信仰が回復してほしいので “悔い改めなさい” と言われました。


どのように初めの愛を回復出来るかを今日は学びます。




◎失われた初めの愛を悔い改める




初めの愛がある状態は、すべてにおいて心も思いも尽くして主と共に歩みます。

それが一番の関心で重要なことだからです。


その時は主と共にいることがとても楽しいです。

教会に行くのもとても楽しいですし、聞く耳も開かれています。


しかし、ある時から主を忘れて生活する時間が増え始め、他のことで忙しくなります。


サタンは私たちを誘惑する者ですが、あらゆる方法を使って私たちをイエス様のいない忙しい生活に導きます。


そのことに気付かせず、主との時間を減らしていきます。


心ではイエス様との時間を持つことの大切さを知っていますが、だんだんと他のことで忙しくなり、主のために時間を使わなくなります。
ここから問題が生じます。


【ヨハネの福音書15章6節】

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

イエス様にずっと とどまることが大切なのに、とどまる時間が少なくなっていきます。

他のことに心が取られたり、他のことで忙しくするようにサタンは働きます。


イエス様と分離されていると 不幸になることもよく知っているのに、仕事に縛られたり、時には自分の快楽を求めて主との交わりをおろそかにします。


生活も守っていかないといけないからと人を喜ばせたり、自分を守るためにだんだん主に対して関心が無くなっていきます。

すると主と共に過ごす時間が減るために主を失ってしまいます。


主との間に様々なものが入り込んできます。

すると信仰生活がだんだん義務的になり、つまらなくなり、喜びも無くなってきます。


それを立て直すためには悔い改めが必要です。


どこから落ちたのかを思い出して、要らないものを捨てて時間を作って神の前に出て、その方と会話をしなければなりません。


主と再び愛し合うには ずっと主から目を離さず、会話を増やさないといけないです。


すると私たちの心に主の平安、愛、いのち、力が臨むようになります。

主に対して、教会に対して、とりなしに対して、奉仕に対して無関心になったことは愛で反応していないことです。


初めの愛を回復するためには、必ず “無関心” が罪であることを悟って、無関心を捨て、主を見上げなければなりません。

面と向かってイエス様に敵対するより、主の心を痛めつけるのは主に対する無関心です。


必ず私たちはこの罪を悔い改めないといけないです。

悔い改めないと、たとえ生きているとされても死んだ状態です。

すなわち霊的死です。




◎避けたくなる十字架を負う




イエス様に従いたいならば、弟子になりたいならば、成長したいならば、自分の十字架を負わなければなりません。


イエス様は私たちを愛する心で十字架を負ってカルバリの丘に上って行きました。

その主が私たちに自分の十字架を負ってついて来なさいと言われました。


私たちが十字架を負うならば 主が共に負って下さいます。

イエス様自身が先に十字架を負いましたので、十字架の痛みを知っておられます。


主が共に負って下さらないと、私たちが倒れるので 主が共に負って下さいます。


しかし私たちは十字架を負いたくないので十字架を避けようとします。
これが主への愛が冷めるきっかけになります。


十字架を避けて楽な道を歩みたい欲望が 私たちの中にあります。

この欲望は、主から来たものではなく、サタンから来たものに気付かないといけないです。


イエス様が十字架の死を話した時に、ペテロはすぐさまイエス様を止めました。

「そんなことがあってはいけない」と。

そして十字架を負わないように勧めました。


すると主は「下がれ。サタン。」と厳しく言いました。


今も私たちに十字架を負ってはいけないと誘惑をするのはサタンです。


「楽な道を歩んだら良い。苦難はイヤだろう。重い十字架は負わなくていい。避けたらいい。」と、まるで 私たちの味方のように親切に言います。


これは甘い誘惑です。

主はそれとは違って「自分の十字架を負って私に従いなさい。」と言われました。


十字架を負うことは私たちにとって良いことです。

私たちが地上で主のために十字架を負うと、その十字架は天国への喜びに変わります。


十字架を負うことは永遠の命にかかわる重要なことです。


サタンはそれを知っています。

サタンは、十字架を負いたくないすべての人を、自分の所(地獄)に連れて行きます。


そこには十字架の苦しみと比べられない苦しみが待っています。


サタンは私たちが十字架の道を歩まないように、あらゆる手段を使います。

私たちが永遠の命も永遠の喜びも受けてほしくないからです。


主が私たちの十字架を共に負ってくださるので、私たちはその中で以前は味わったことのない霊の喜びを感じることが出来ます。


主が与えてくださる十字架には、必ず慰めと助けがあります。


その方の愛と助けを信じないと 十字架を負う気がなくなり、十字架が耐えられない苦しみに感じられます。

そうなると本当にみじめな状態になります。


十字架が来た時は「主よ。感謝します。受け入れられるように恵みを下さい。十字架を負って喜んで耐えられるように恵みを与えて下さい。」と祈り求めることです。


苦難は、主と深い交わりが出来るチャンスでもあります。

苦難の時に、私たちは主しか頼れる所がないからです。


十字架の中には豊かな実があり、栄光があります。

十字架の中に勝利と復活があります。


産みの苦しみなしに新しい命の誕生がないのと同じです。


十字架は、私のたましいを この地上から解放して天国に導く有益をもたらします。




◎勝利を与える主の力に頼ること




私たちは自分の怠けさと罪との霊的戦いをしなければなりません。

勝利に戦いはつきものです。


「面倒くさいから今のままでいいんじゃないか?」と思う人に勝利はないです。


このままではいけないと思いながらも 悩むだけで何もせず、後回しにする人は どんどん信仰が弱くなり、無気力になっていきます。
そしてサタンに支配されます。


イエス様もサタンとの激しい戦いをして勝利しました。


ですから、私たちにも勝利出来る力を与えて下さいます。

力を与えたいと願っておられます。


私たちが毎日主の名を呼び、主に頼るならば、その力を得ることが出来ます。


主は私たちを贖う方、助ける方、力を与える方です。

それに対する信頼が必要です。


私たちが主の中にとどまり、主の弟子になるならば、私たちの人生の中に命と豊かな実を結ぶように働いて下さいます。


勝利は主の中にとどまる時だけです。

イエス様は何よりも私たちが主と共にいることを願っています。

そして私たちの愛を願っています。


弟子たちは自分だけの力では勝利することは出来ませんでした。


しかし一日中イエス様のことを考え、主を愛し、主の愛から離れなかったので、自分たちの心を守ることが出来ましたし、信仰を守ることも出来、主を裏切ることもありませんでした。


自分が毎日、主の中にとどまっているのか、主を愛しているのか、主のために犠牲を払う準備が出来ているのか、負うべき十字架を負っているのか、主に対して関心があるのかなど点検してみて下さい。


そして一つ一つ悔い改めながら立て直して下さい。

私たちが自分の中にある問題点に気付いて、主との静かな時間の中で主の前に出て行くならば解決されていきます。

主の前に出ない限り、ますます状態は悪くなっていきます。


主のことばのようにやってみて下さい。
(・◇・)ゞ

2016.8.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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愛を見せなさい

テーマは 『 愛を見せなさい 』 です

【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

男性は愛を見せることがあまり上手ではないところがあります。


“言葉で言わなくても見たら分かるだろう” と勝手に思います。

女性は度々「愛している」という言葉を聞きながら、相手の愛を確認して幸せを感じ安心感を得ると言われています。

それは別に男性を疑っているわけではないです。


夫は、妻が愛のことばを言ってほしいと言われると、うっとうしいと思いますが、女性の心理を知って 理解するのが良いですね。


女性は愛されたい気持ちが強いので 愛を確認したいですし、男性は尊敬されたい思いが強いので 愛のことばよりは 尊敬のことばに感動するそうです。


イエス様は男性でしたが、やさしく愛をよく現していました。
心がとても温かい方でした。


愛は、無言で また何もしなくても感じるものでしょうか?


神様さえも私たちを無言で何もせずに愛したのでなく、行動で愛を現しました。


愛が本当にあるならば、それは必ず見える形で現れます。

ですから神は “愛を見せなさい” と語りました。


イエス様の告別メッセージには、特に “愛” に関することばが多かったですし、それが重要なテーマでした。


本文でも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」と語りました。



また、次の箇所にはこのように語っておられます。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

【ヨハネの福音書14章23-24節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

イエス様はこのように “愛すること” が新しい戒めであると明確に教えて下さいました。


私たちは 愛し合うという新しい戒めを、どれほど守っていますか?


さらに、“神を愛すること”、“互いに愛すること” は切っても切れない関係であることが次の箇所に書かれています。


【第1ヨハネ4章7-16節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

愛を軽く考えてはならないことが、これらのことばでも分かりますね。


愛はことばだけで伝わるのではなく、イエス様を愛する人は主の戒めを守ることで、主への愛が証明され、互いに愛することで神への愛がその人の中にあることが証明されます。


愛は、いのちある種です。

蒔かないと実が結ばない種です。


主の名によってどんなに素晴らしい働きをしても 愛が抜けてあるならば、いのちの実がない葉っぱばかりの働きになってしまいます。


それは実を結ぶことを期待する主を裏切ることになります。


【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

働きと賜物も重視しますが、それを価値あるものにするのは “愛” です。

愛のないものは主が受け取らないです。

この世の評価は すべて結果ですが、主の評価は “愛があるかどうか” です。


なぜ主は、愛で評価をするのでしょうか?

愛は結果ではなく “方向” だからです。


結果ばかり考える人は、目指す方向が “結果” ですから、働きや賜物を重視し、そこにいつも目を向けます。

ですから確かに結果はついてくると思います。


しかし主を愛する人は、愛の対象である “主” に目を向けます。

つまり 愛の方が働きよりも優先です。


ですから、いつも目も心もイエス様に向けます。
その人たちは、イエス様から目を離しません。



【ヘブル12章2節】

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

このように私たちがどこに目を向けるべきかを教えて下さいました。


愛は、愛の対象に関心があり、そこにすべてを向けます。

主がそのようにしました。


働きよりは 人に関心を示し、人を愛することがいつも優先でした。

私たちもそうあるべきであると主は教えました。


マリヤとマルタ姉妹のことは皆さんも知っています。

マルタは働き者です。
しかしマリヤは怠けているように見えました。


なぜならマルタは忙しく回っているのに、マリヤはイエス様の足元に座ってイエス様を見ながら話を聞いていたからです。


手伝わないマリヤを見て、マルタは腹が立ってイエス様にその不満をもらしました。

しかしイエス様からは意外なことばが返って来ました。


【ルカの福音書10章41-42節】

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

多くのクリスチャンが“マルタ状態”かも知れません。


熱心な人は主のために何かをしようとあれこれとやりますが、それが段々しんどくなり、主に会うと文句を言います。


ある人は、自分の仕事や遊びが優先で主と会う約束をいつも破ります。

礼拝や祈りの時間は主と先約した時間です。


しかし、よく破るのでイエス様はその人に会えないです。


イエス様は愛する人を待っているのに、その人が来ないと寂しい思いをします。


主が一番願うのは、私たちが主を愛することです。


そして主との時間を大切にし、主のことばに耳を傾けることです。

そして聞いたことば通りに行動することです。


これが主を一番喜ばせることです。


主を愛する時間もない人は、主を忘れ、いつか主も「あなたが誰なのか知らない」と言います。


いつも主を愛して共にいますか?
それとも忘れていますか?遠く離れていますか?


聖書でマリヤとマルタの姿を見ても、マリヤの方が主への愛が強いように見えます。


主を愛するのでイエス様から目を離さないでいましたし、主のことばは彼女には一番のごちそうでしたので、みことばを消化していました。


主を愛する人は 主の戒めをないがしろにせず守ります。

それは当然ですね。






ベロニカという女性が主の恵みによって地獄と天国を見学しました。

地獄に多くのクリスチャンがいる姿を見てとても疑問でした。

クリスチャンがいるとは思ってもみなかったからです。


それで 主にその理由を聞きました。


主の答えは「彼らはわたしを信じてはいたが、わたしのことばに従って生きることはしなかった。
多くのクリスチャンが教会の中、家族の前、知り合いの前だけおとなしく行動しているが、彼らは自分自身をいつも騙しながら生きているのだ。
私の父の目はすべてを見ているし、どこでもすべてのことばを聞いているのだ。」でした。


形式的で愛の冷めた結婚生活のような信仰生活を 主が喜ぶでしょうか?


主がもっとも望んでおられるのは愛の関係です。

主の愛は熱い愛なので、なまぬるい愛では満足しません。

“あなたの愛を見せなさい” と言われます。


信じる者として生きることは、愛の関係をずっと保っていくことです。


愛すれば愛するほど 心も霊的にも豊かになります。

そこから多くの実が結ばれていきます。


愛は話したり、考えたり、感じたりする以上のものです。

愛の関係が必要です。


イエス様は、私たちを愛して十字架に架かると話しただけではなく、実際に架かりました。

いのちを実際に捨てました。


喜んで自分を与えるのが愛です。

私たちのために十字架を負った主が語ったことばがあります。


【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主を愛する者ならば 自分の十字架を負って主についていきます。


ある教会で 主の教えとは違って人間的な思いで「こんなに苦労の多い時代に 教会の中でも重たい話を聞くならば ストレスガ溜まって死にます。教会では慰めと平安と安息を得なければなりません。」といつも祝福のメッセージだけを伝えるところがあります。


主の十字架は愛です。

私たちを愛したので死にました。


私たちが負う十字架も愛の十字架です。主への愛です。


自分のストレスの方がもっと大切で、自分が負う十字架を嫌がって拒否することは 主を愛していない証拠です。


愛する人には十字架は決して重荷ではないです。

育児は大変ですが、それを重荷と思って育児を拒否するでしょうか?


大変でも子どもを愛するので犠牲を喜んで払います。

他の理由はありません。


主を愛する人は自分が負う十字架を見るのではなく、愛する主を見て、自分も十字架を負います。


イエス様に対する自分の愛に偽りがあるならば、それは愛ではないです。

愛のない者に主は分からないとまで言われました。


主を愛する者は 父なる神に愛され、イエス様にも愛されます。


愛の本質は まぎれもない愛です。

愛がないならば、それは値打ちも本質も中身もない形だけのむなしいものになります。

互いに愛することで私たちが主を愛していること、そして神を知っていることが分かります。


主を愛していますか?互いに愛していますか?
愛の実が結ばれていますか?


それとも自分だけを愛しながら満足していますか?
Σ(`□´/)/

2016.5.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストの十字架

テーマは 『 キリストの十字架 』 です

ハレルヤ
今日も平安がありますように


カルバリの丘で キリストが十字架にかかった時に、多くの人々が集まっていました。


そこにはあらゆる悪い人々がいました。

十字架にかかって苦しんでいる主を見て、勝利を歌いながら喜ぶ者たちがいました。


そこには狡猾な者、罪悪に満ちた者、主に対抗する者たちが多かったです。

そして自分を正しいと思い、自己主張の声が大きかった者たちでした。


キリストを憎み、殺意を持っていた人たちがキリストを十字架につけました。

次の箇所に彼らの様子があります。


【ヨハネの福音書19章15節】

彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」 祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

その激し叫びに負けて、ピラトはキリストを彼らの手に引き渡しました。

殺人者たちの手に引き渡されたキリストは、あっという間に十字架につけられました。


十字架につけられたキリストを見る彼らの顔には、自分たちの思い通りになったことで、満足感と勝利に浸っていました。


そして苦しんでいるイエスに さらに彼らは「自分を救ってみろ」と嘲り呪いました。

良心の呵責(かしゃく)すら彼らは感じていませんでした。

皆、テロリストの姿と変わりなかったです。


別のグループの人たちがいました。


悲しみのあまり 声を出すことも出来ず、遠く離れて泣いている人たちがいました。


主から様々な恵みを受けた人たち、その恵みに感謝している人たち、主の苦しんでいる姿に心を痛めている人たちがいました。


彼らは何も言えず、黙って十字架のキリストを見ていました。

そして彼らは自分をキリストと共に十字架につけ、キリストと共に死にました。


キリストの十字架の前には、中間地帯がありません。

どちらにも属さないでいることは出来なく、ただの見物人で終わることは出来ません。


世の中のことは無関心であっても、それが罪に問われることは それほどないですが、人間を贖うために来られた救い主に対しては、神は「あなたはどちらにつくのか」と問われます。


今、あなたの前で「あなたの罪のために十字架にかかって苦しんでいる救い主を信じて救われたのか。それとも「こんな者は十字架につけろ」と 敵対する者になりたいのか」と聞いておられます。


私は十字架の主を、私の救い主として受け入れました。

皆さんはどうですか?
選ぶのはあなた自身です。
( -д-)ノ


2015.8.14
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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パウロが見たキリストにある自分の姿

テーマは 『 パウロが見たキリストにある自分の姿 』 です

【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

多くの若いクリスチャンたちが集まってワーシップソングを歌っている映像を見ました。

その時の賛美の内容が今日の聖書のことばでした。


舞台に上がって賛美をリードする若者たちも、立ち上がって賛美している多くの若者たちも、目を閉じて、胸に手を置いたり、ある人は手を上げながら賛美していました。

まるで主に今日のことばを自分の信仰告白として告白しているかのように見えました。


しかし次の瞬間 このように思いました。
「本当にそう思って賛美しているのかな?」と。


あまり考えることもなく、ただ賛美に酔っているだけの人もいるでしょうし、口だけの告白かも知れないです。


しかし、パウロの告白には違和感が感じられないです。

なぜならば、その通りに生きたからです。


使徒パウロは、聖書の中に自分の信仰告白と共に、自分がキリストにあって何者であるかを告白しました。

それはキリストにあって発見された自分の姿でした。


みなさんもキリストに会って発見された自分の姿があると思います。

パウロが発見された姿を見てみましょう。


自分がキリストにあって何者であるかを発見することはとても大切なことです。




キリストと共に十字架につけられて死んだ古い自分の姿




十字架は死ぬ場所です。キリストがそこで死にました。

キリストが十字架にかかった時に、パウロが一緒に死んだわけではないです。

それなのに なぜキリストと共に死んだと言えるでしょうか。


自分が罪人である認識がないとキリストの十字架は意味のないものです。


悔い改めも 救いも なぜ必要なのかも分かりません。

しかし、自分が罪人である認識は キリストの十字架の意味を知らせる大きなカギになります。


パウロが よみがえられたイエス様に出会って、初めて分かったのが キリストがメシアであること、十字架の意味、そして自分が罪人であるという認識でした。


そしてキリストの十字架は、自分の罪のためであると認識しました。


自分が死ぬべき場所にキリストが代わりに死んだことを知りました。

それを知ったパウロは 古い自分をその十字架につけました。

それは新しい人として生きるためでした。


古い人のまま生きることは 神の恵みを無にすることであり、キリストの死を無意味にすることだと悟りました。


自分のたましいを救うために犠牲を払った主のために生きるためには 古い人は死ななければならないです。


そしてパウロの中にはいつも十字架がありました。



【ガラテヤ6章14節】

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

パウロはイエス・キリストの十字架を誇りとして生きました。


十字架の力、十字架の福音、十字架の望みを いつも心に刻んで生き、それだけを伝えました。


それが新しく生まれ変わった彼の姿でした。




使徒の中でも もっとも小さい者である姿




【第1コリント15章9-10節】

私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

私たちが見るパウロは 使徒の中でも一番すぐれた使徒ですが、本人はそう思っていなかったです。

それこそが謙遜な姿です。


パウロが使徒として召されたのは、主が生きている時ではありませんでした。

教会に対して迫害しているパウロの前に 主が現われ、彼を選びました。


ある意味 使徒として一番不適格な人物がパウロでした。


パウロ自身も それにはびっくりでしたが、使徒として選んで下さったことは自分に対する大いなる主の恵みであることを知ってパウロは使徒としての務めに全力で取り組みました。

最後までその姿は変わりませんでした。


教会が大きくなる前は 謙遜で良い働きをした主のしもべたちが、教会が大きくなり、信徒の数も増え、有名人になると態度が変わって転落の道をたどる人がとても多いです。

世界的に有名な先生が倒れていくのは、パウロにある姿がないからだと思います。


外側は謙遜に見えますが、うちにあるのは “これは全部私が働いて築いたものだ” という自慢です。

いつの間にか“主”ではなく、“私”が主役になってあります。
もっとも危険な姿です。


しかしパウロはあれほどの働きをしたにもかかわらず、それを自慢したり、高慢になったことがありませんでした。

もし高慢になったならば、神の恵みを無にしたことになります。


たくさんの働きをしたからと言って、自分が偉いわけではなく、むしろ恵みが与えられ、働きが出来たことを主に感謝しないといけないです。


パウロはいつもそのようにしていました。




罪人のかしらである姿




【第1テモテ1章15節】

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

この言葉がパウロの口から出たことはすごいことだと思います。


なぜならば 本来の彼の基準からみたら、自分ほど正しい者はいないからです。

誰よりも律法に熱心で、敬虔な生活を送り、律法を落ち度なく守っていました。


罪を犯しながらも自分は罪人じゃないと思っている人とは違いますね。


パウロは宗教に熱心な典型的なパリサイ人でした。

ですから 他のパリサイ人と同じくイエス様に敵対していました。

それはイエス様や弟子たちを律法を乱す とんでもない罪人と思って迫害しました。


そして救いは律法を守れば大丈夫だと思っていましたので、イエスの存在が理解出来ませんでした。


しかし復活のイエス様に会い、霊の目が開かれてから 本当の自分の姿に気付きました。

自分がとんでもない罪人であることに気付きました。



【第1テモテ1章13節】

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていない時に知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

パウロは無知であった自分に対して、主が豊かな恵みを与えて下さったことに対して 絶えず感謝をささげました。


思い出す度に恵みの大きさに感激しました。

そして彼は生きることも主のため、死ぬことも主のためと決めました。


それからは後ろを振り返ることもなく、主のために、福音のために生涯をささげました。

そこには何の迷いもありませんでした。


なぜならば生きる目的が明確であったからです。


【ガラテヤ2章20節】

いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

アーメン ( ̄‥ ̄)=3

2016.1.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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幸いな人とわざわいに陥る人

テーマは 『 幸いな人とわざわいに陥る人 』 です


【箴言28章14節】

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。

人間にとって一番の願望は、幸せになることです。

また人間が一番恐れているのは、わざわいに陥ることです。


箴言28章14節には “幸せになれる人と、わざわいに陥る人” のことが書かれています。


今回は幸いな人とわざわいに陥る人に対して語ります。

決して難しい内容ではないので、聞く耳をもって聞いて下さい。




幸いな人はいつも神を恐れる人です




“恐れる” ことは神様を恐がることでしょうか?
そういう意味ではないです。

色々な意味がありますが、一番の意味は 真実な心と愛をもって神に仕えることです。


神は心を見抜くお方ですから、私たちが偽りの心で神に仕えても 全てお見通しです。

そして、私たちのそのような心と態度を忌み嫌います。


しかし神を信じる人が皆、神を恐れているでしょうか?


恐れる人よりは、恐れない人の方が圧倒的に多いです。


まずは神に対する真実な心があまりないです。

自分の都合によって神に近づいたり、距離を置いたり、離れたりといつも変わります。


その心や愛が本物には見えず、偽りが多いです。


皆さんの心はどうでしょうか?

何があっても神を愛する心に変わりはないですか?


イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロに対して 主が質問したのは1つでした。


「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と三度も聞きました。

自分のいのちが危なくなった時に、ペテロはイエス様を捨てて、「知らない」と言いました。


ペテロ本人はイエス様のことを他の誰よりも愛していると思っていましたが、実際その愛は 真実な愛ではありませんでした。


真実な愛は愛する相手と一緒に重荷を負い、死の道も一緒に歩みます。


私たちが神の愛を確認したのもイエス様の十字架でした。

神はその愛を、イエス・キリストを私たちのために十字架の上で死なせたことで見せました。



【ローマ5章7-8節】

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

愛にはこのように はっきりとした証拠が要求されます。

言葉だけの愛は真実な愛ではありません。


神を恐れている人には 真実な愛があるので、何があっても変わらない愛をもって忠実な態度で神に仕えます。


また神を恐れることばの違う意味は、神に従順することです。


従順のない礼拝に何の意味があるでしょうか。

従順のない信仰は偽善の信仰です。


神は偽善の信仰を一番嫌います。


神が私たちをどれほど愛しているかを私たちが知っていながら、その神に従順しないならば、私たちが 「神を愛する」 と告白しても、そのことばは偽善的なことばにしか聞こえません。

愛には従順が必須です。


ですから神は “わたしを愛する者は わたしのことばを守りなさい” と言われました。




神をどのように恐れるのか




神を恐れることは、生まれながらの人間には出来ません。

必ず神様の教えを学ばなければならないです。


神を恐れたことのない人間が、信じてすぐに変わるわけではないです。


神がモーセを通して律法を与えた理由は何でしょうか。


【申命記4章10節】

あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」

私たちが神を恐れ、神からの祝福を受けるためには、神のもとに来て学ばなければならないです。


ですから “神に仕える” と言いながら、神の言葉を聞くことを嫌がる人は 神に愛される資格がありません。


神はホセア預言者を通しても語りました。



【ホセア書6章6節】

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

ですので、ホセアは「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」と民に語りかけました。


どのようにして神を恐れるのかを 神から聞かないとその方法がわかりません。


主のことばを学ばず、興味も持たない人は神を恐れることを知らないので、神を恐れることもしないですし、神の愛も祝福も受けることが出来ません。




神を恐れる人が受ける祝福は何か




神を恐れる人は幸いであると初めから言いましたが、どのような祝福があるでしょうか。

神は蒔いた通りに刈り取る法則を作っておられます。


私たちが祝福を受ける目的で 神に仕えることをしなくても、神は初めから祝福を備えておられます。

祝福の約束が聖書に書かれています。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

この祝福は、この世で生きている間に受ける様々な祝福を意味します。


誉れは 他の人から尊敬される位置にまで上がって神に栄光を現します。

そして最も優れた祝福はいのちです。


いのちとは救いを意味し、永遠のいのちを意味します。


神を恐れる人に 神はこのような祝福を約束し、神の御国を相続させて下さいます。

そして神を恐れる人たちの祈りを神は喜んで聞いて下さいます。


神を恐れず自分勝手に生きて困った時だけ神に助けを求める人と、いつも神を恐れている人が神に求めた時に どちらの人が より祈りの答えを得ると思いますか。

断然、神を恐れる人の祈りです。


神は喜んでその人たちを助け、祝福を与えてくださいます。




心をかたくなにする人が陥るわざわい




かたくなな心に対しての聖書のことばは結構厳しいです。


“かたくなな心” とは、その心が石のように硬くて 神の恵みを受け入れることが出来ない状態です。


恵み深い神様はすべての人に恵みを注ごうとしますが、かたくなな心の持ち主はそれをかたく拒みます。


心を閉ざすので、神の恵みを受けることも出来ないですし、実を結ぶことも出来ません。

金槌のような主のことばで叩いても何とも思いませんし、聖霊の強力な火のようなことばを聞いても何も感じません。


聖書ではこのような人を愚か者と言います。


本人たちは自分を賢い人、慎重な人と思うかも知れませんが、神の目には愚か者に過ぎません。


その心は道ばたのような心です。

なぜ人の心がそこまでかたくなになるのでしょうか?
それは “罪” によるものです。



【ヘブル3章13節】

「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

このように言われたように罪の誘惑を受けると 心がかたくなになり、罪に落ちていきます。


私たちは毎日襲ってくる罪の誘惑を信仰によって勝たなければなりません。

私たちを誘惑する最大の敵は 外にあるのではなく、自分の中にあります。


自分の中にある罪の性質がいつも自分自身に戦いを挑みます。


パウロはこの激しい戦いのことで次のように語りました。



【ローマ7章19-20節】

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


【ローマ7章24節】

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


このように自分の中に激しい戦いがあることを語りました。


外からの誘惑、内からの誘惑に勝たないと ますます心は罪によってかたくなになっていきます。

この世の誘惑に負けると、この世のあらゆるものに心が縛られて、心が石のように堅くなり、なかなか癒されません。


心のかたくなな人が災いに陥る根本的な理由は、神のことばを聞こうともせず、そのことば通りに生きることをしないからです。

そのような人は神のことばを聞くことすら嫌がり、耳を塞いで 「聞きたくないから話すな」 と言います。


皆さんの中で 神のことばを聞きたくないと思っている人がいるならば、その人は自分の心がかたくなになっていることに気付かなければなりません。そして早く悔い改めることです。


心がかたくなになることは なぜ恐ろしいことなのでしょうか。


なぜ災いに陥りますか?


神様は心のかたくなな者に対して干渉せず、好き勝手に生きるように放置します。

するとその人の状態はどのようになるでしょうか。次の箇所です。



【ローマ1章24-32節】

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。


“死罪に当たる” ということばがあるように、最後は永遠の死を迎えるようになります。


自分の好き勝手に出来ることを喜び、地上で何も起こらないからと安心していても、永遠に消えることがない苦痛が待っています。


その人たちは自分自身でわざわいを招いていることに気付かなければなりません。

神を恐れることが祝福への道です。


皆さん全員が神を恐れ、幸いな人生になってほしいです。
(*´∇`*)

2015.9.20
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復活は事実です

テーマは 『 復活は事実 』 です

【マタイの福音書28章1-8節】

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そ こで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

主が十字架にかかった時は街中の人々が集まり、主が死んでいく姿を見ていました。

それは、その日の一番大きなニュースだったと思います。
新聞ならば一面に載った記事だったと思います。


大祭司やパリサイ人、総督や軍人、一般の人たちまでも関わった事件でした。


復活は人々の目につかない時に起こりました。

安息日が終わり、週の初めの明け方でした。明け方は まだ人が活動する時間ではありませんし、朝早い時間に墓参りへ訪れる人もいません。


そのような時に復活は起こりました。
主が十字架にかかっていた時には、御使いは一度も見えませんでした。

大声で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言っても、神様や御使いは何の反応もありませんでした。


人々は自分を救えないイエスを見て嘲笑いました。
「やはりメシヤではなかった。普通の人じゃないか。」と思いました。

しかし、これで終わりではないことが、キリストが神である証明となります。

何よりも復活こそが神である証明です。


死んで終わりであるならば、ただの人です。ナザレ人イエスが死んだだけのことです。

しかし復活があるので 人間ではなく神であることが証明されました。

そしてその復活は事実です。
また、それは何によって証明されたでしょうか。今回、それを検証します。




1.主イエスの預言の的中




事前に何度も「死んで葬られ、三日目によみがえる」と主は話しましたが、その通りになりました。

墓に入ったことは完全に死んだことを意味しますが、そこから自ら出て来ました。

御使いが石を転がす前には すでによみがえっていて墓の中にはいなく、墓の外にいました。
そして生きている姿を人々に見せました。


イエス様は公の場で活動していた時に、すでに死んでいた人を三人も生き返らせたことがありました。

ナインという町に主が行かれた時に、やもめの一人息子が死んでかつぎ出されるところを見ました。

その母親を見てかわいそうに思い、棺に手をかけて「青年よ。あなたに言う。起きなさい」と言うと その死人は起き上がりました。
それを見て人々は恐れを抱き、神を崇めました。


今度は会堂管理者ヤイロの12歳になる一人娘が死にました。

主はその娘のところへ行き、娘の手を取って「子どもよ。起きなさい」と叫びました。
すると娘の霊が戻って来て娘は起き上がりました。


ラザロも死んで墓に入って四日目になりましたが、主は墓の前に行って「ラザロよ。出て来なさい。」と大声で叫ばれました。

すると 死んでいたラザロが生き返って墓から出て来ました。


この三人を生き返らせたことでも、すでに主は自分が話したことばに対して証明して見せました。

ラザロのお姉さんであるマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と主は言いました。


そして「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言った後に、墓の所へ行ってラザロを生き返らせました。

これらは主がいのちの主権者であることを表した出来事です。
そしてご自身も死からよみがえることを前もって はっきりと見せた出来事でした。




2. 数人の番兵たちが復活の目撃者




彼ら(番兵)は主の味方ではありません。

彼らは祭司長やパリサイ人たちがピラトの所へ行って、弟子たちがイエスの遺体を盗むことがないようにと頼まれたことで ピラトが出した兵士たちでした。

そして兵士たちはイエスを鞭打ち、十字架につけ、復活を信じない者でした。


しかし 突然大きな地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、墓の石を動かす姿などを見て震え上がり死人のようになってしまいました。

夢ではなく現実に自分たちの目で はっきりと見たので恐れおののきました。


そして祭司長たちの所に行って、起こったことを全部報告しました。

その報告を受けた祭司長たちの対応を見ても復活が事実であることが証明されました。


【マタイの福音書28章11-14節】

女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こったことを全部、祭司長たちに報告した。

そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、

こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。

もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」

と言いました。


目撃者にうそを言わせるために多額の金を払うことは、復活が事実であったことを証明するものになります。

十字架につけた者たちも驚かせたのが主の復活でした。




3.主の弟子たちが主の復活の証人




墓を見に来たマグダラのマリヤや他のマリヤが 誰もいない墓や御使いのことばで驚き、それからすぐにイエス様に会い、主は彼女たちに「おはよう」と声をかけまし た。

彼女たちは大喜びでした。それから主の弟子たちが次々と主に会いました。

何度も主に会ったので誰も復活を疑う者はいませんでした。


疑っていたトマスも後に自分の不信仰を恥ずかしく思いました。




4.500人以上の兄弟たちが同時に復活の主に会う




目撃者が多くなればなるほど、それは事実として認められます。


【第1コリント15章6節】

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

これらのことで人々は復活を当然のことのように受け入れました。

聖書の後半部分を読んでも復活に対して異議を申し立てる者はいませんでした。


祭司長たちも後で弟子たちを迫害しても、キリストの復活はうそだとは言えませんでした。




5.主を迫害したパウロが復活の主に会って回心した




パウロの回心は、本人はもちろん誰も予想ができなかったことでした。

彼は誰よりも熱心にキリストを伝える者を迫害し、教会を荒らした者でした。


パウロがダマスコに行って キリストを信じる者たちを縛り上げる目的で進んで行く時に、突然 天からの光で彼は地面に倒れました。

そして声が聞こえてきました。
「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか」 「主よ。あなたはどなたですか。」 「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」


これによって彼は完全に別人になってしまいました。

いくら主のことばを聞いたり、復活の話を聞いても堅く心が閉ざされていた過激派の彼が一瞬にして心が変わり、主の弟子になりました。

そして誰よりも多くの働きをした使徒になりました。

自分が直接目撃したり、体験することが一番影響力が強いです。






もし 今もキリストの復活が信じられないとか、作り話だという人がいるならば、聖書をよく読み、また歴史もよく調べたら良いと思います。読まずに知らないままで否定する人は愚か者です。

確認もせず否定するのはよくないことです。よく調べてから判断することを勧めます。


私たちの罪を贖うために、人間と同じ姿になるしかなかったイエス様でしたが、十字架の死によって贖いの働きを完成しましたので、本来の神の姿に戻るためによみがえりました。

そして、いのちの主として 私たちにも復活のいのちを与えて下さると約束して下さいました。

私たちに起こる復活の姿はこれです。


【第1コリント15章42-44節】

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ 、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

聖徒の復活もすべて主によって与えられる最高の祝福です。


よみがえられたイエス様に心から感謝します。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2015.4.5
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか

テーマは 『 イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか 』 です

【Ⅰコリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

今日は教会歴においてはシュロの日です。

イエスは十字架にかかるためにエルサレムに入りました。
それを知った人々は、今度こそイエスがユダヤの王になると思って、大歓迎しました。


その時、人々はシュロの木の枝を取って、出迎えのために出て行き、
“ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。”と大声で叫びました。


その日をシュロの日と言います。


人々にとっては これから自分たちに何か良い事が起こるという期待が大きかったです。
しかしイエスにとっては 苦難の十字架の道が始まる日でした。

それを知っているのはイエスご自身だけでした。

十字架が見えていない時は イエスは人々に歓迎されましたが、十字架が見えた時から人々の反応が分かれ始めました。

十字架に対して人々はどのように変わっていったでしょうか。


そして、みなさんはイエス・キリストの十字架と どのような関係ですか。




1.十字架を愚かと思い、毛嫌って呪う人




「十字架??あれは凶悪な犯罪人が受ける罰ではないか。」

「何だ、あの人は神でもないのに、自分のことを勝手に神と言い、人を惑わした者だったのか。神を冒涜した人は死ななければならない。騙されたことが悔しい。これ以上は騙されないぞ。」


このように怒りが込みあげてきた人たちは激しく叫びました。


「除け。除け。十字架につけろ。カイザルのほかには、私たちには王はありません。」と、世の王を自分たちの王として選び、まことの神を殺してしまいました。


キリストを十字架につけた彼らは 十字架で苦しんでいるイエスを見て、あざ笑って言いました。


「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら自分を救ってみろ。」

「おお、神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

「他人を救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」


このように偉い人たちも十字架にかかったイエスを呪いました。


世の基準で見る十字架は 彼らにとっては犯罪人、呪われた者、愚かな生き方をした者、生きていては困る者たちが死んで当然な場所なので、絶対受け入れることが出来ないものでした。


彼らは自分たちの知恵に頼って、それで満足して、十字架を信じるどころか、拒絶反応を起こして呪います。

死んでも関係を持ちたくない と十字架を遠くに投げる人たちです。




2.十字架に無関心な人たち




「あの人は悪いことをしていないと思うよ。毎日 病人を癒し、奇跡もたくさん行ったし、まじめで優しいし。」

「十字架にかかるとはかわいそう。あの人を殺すなんて悪いことをしたな。」

「生かしておけば もっともっと奇跡が見られたのに。病人が助かるのに もったいない。」

「良い人だったのに もういなくなった。でもどうして神と言った人が十字架にかかって死んだのだろう。」

「意味が分からない。もう死んでしまったから忘れよう。」


このように十字架のイエスに対して無関心に生きる人たちがいます。


「別にいなくても困ることはないし、あの十字架とはもう関わりたくありません。」

「他にも信じているものがあるし、あんな死に方をした人を信じるのはちょっと…。」

「もう良いです。自分も救えなかったでしょう。あの人より立派な働きをした人もたくさんいるし。」


キリストの十字架を “無力” だと思って、他に頼れるものを探して、それに目を向けて自分の都合の良いように生きている人が一番多いです。


この世がすべてで、この世で利益をもたらしてくれるならば 魂でも平気に売る人たちにとって、十字架は関わりたくないものです。

「神のことも、罪のことも、悔い改めのことも、地獄の話も聞きたくはない。別に要らない。」と十字架とは無関係に日々生きています。


私自身も信じる前はそのような者でした。
十字架はキリスト教会のシンボルでしか考えたことがなく、イエス・キリストが死んだ十字架だとしか思いませんでした。

なぜ死んだのかと一度も考えたこともなく、キリストの十字架に対して考え始めたのは信じてからでした。

それまでは自分にとって十字架はまったく関係のないものでした。




3.キリストの十字架から目を離さない人々




実際にキリストが十字架にかかった時、十字架の真の意味を知っている人はイエス・キリスト本人以外には誰もいませんでした。

弟子たちも主の母であるマリアも知りませんでした。

キリストは一人で孤独に死んでいきました。


医者たちが、“キリストがどのくらい苦痛を味わったのか”を医学的に検証しました。

その話を聞いた時に、私たちの想像をはるかに超える痛みでした。


汗が血のしずくになるまで祈った時から、体の中ではストレスで血管が破裂していました。

裸にされてローマの兵士たちが力強く打ったむちで肉が裂かれ、神経が痛み、骨までも見えたと言います。

出血によって歩くことが出来ないほどの貧血状態に陥るとも言われました。


十字架の上ではさらに激しい痛みがあり、息をするたびに全身に鋭い痛みが走るので、ことばでは言い表すことが出来ないほどの痛みだと聞きました。

その激しい痛みの中でもイエス様は自分を十字架につけた人々を赦しました。


そして、涙を流しながら十字架を見上げる人たちがいました。
十字架の意味はまだ分かりませんが、主を愛して主に仕えていた人々でした。

たとえ人々がイエスを激しく呪っても、その人たちは主が与えて下さった恵みが忘れられません。
その愛を裏切ることが出来ません。ただ涙を流しながら、主の死を悲しんでいました。






私自身、何日間も ずっと心の中で流れていた賛美がありました。


韓国の賛美ですが、「主はなぜ私を愛したのか。なぜ私のためにカルバリに登らなければならなかったのか。なぜ私のために十字架にかからなければならなかったのか。」という歌詞です。

そうしたら その賛美の中にペテロもパウロも入って来た思いがしました。

彼らも同じ賛美をしているように感じました。


【 ペテロ 】

「主を三度も知らないと裏切った私をどうして赦し愛しておられますか。なぜ私を愛し、十字架にかかりましたか」


【 パウロ 】

「主を嫌い、教会とあなたと信徒たちを迫害した私をどうして愛して、私の罪のために十字架にかかりましたか。」


私も言いました。

「自分勝手に生きて神様を悲しませた私、多くの罪を犯した私をどうして愛して下さったんですか。なぜ主は私のためにカルバリに登らなければならなかったのですか。」

繰り返し心の中で賛美しました。


なぜ私が主に愛されているのか、なぜ私が赦されているのかがわかりません。
その愛から離れることが出来ないから主の十字架を見上げています。


主の赦しが十字架から流れるので主の十字架を離れることが出来ません。

「主よ。なぜ罪のない方が罪人である私のためにその激しい苦しみを受けなければならなかったのですか。」
罪赦して下さる十字架のキリストから離れて行く所がありません。


目が開かれ十字架に隠された恵み、祝福、神の力が見えてきました。

イエスが罪人ではなく、犯罪人でもなく、死んで当然な人でもなく、人を騙す者でもなく、生きてはいけない人でもなく、神を侮辱した人でもなく、自分を救えない人ではないです。


キリストを十字架につけた偉い人たちや呪った人たち、無関心であった人たち、知らなかった人たちや私たちが 本当は主がかかった十字架にかからなければならない者です。


自分に代わって死んで下さった方を愚か者と思っている人がいるならば、その人は世界一愚か者です。

キリストを侮辱するものは神を侮辱する者で、罰を免れることはありません。


もう一度十字架を見て下さい。
愚かに見えますか。関わりたくない十字架に見えますか。

それとも十字架を見て、「なぜ私を愛して十字架にかかりましたか」と涙が出てきますか。
。゚(゚´Д`゚)゜。

2015.3.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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