からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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偽善者

人への施し

ハレルヤ。

今日もすべてが守られる一日になりますように祈ります。


使徒の働き10章にはイタリヤ隊という部隊の百人隊長コルネリオという人物が出てきます。


ある時、彼が祈っている時に、幻の中ではっきりと神の御使いをみました。

御使いは彼に言いました。


「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って覚えられています。」

これは何を意味するでしょうか?


コルネリオの祈りと施しが 神の喜ぶ行為であったことを神が認め、それを受け入れたことを意味します。


祈りは 神を愛し、信頼するところから始めないといけないです。

コルネリオの祈りには、神への愛と信頼がありました。


自分の欲を満たすための祈りではなく、神を愛するので神とともにいる時間が大切でした。

いつも神に祈りをしていました。


神はそのような祈りに耳を傾けます。


しかし神にとって何の意味もない祈りもあります。

祈る人が神に向けて祈らない祈りです。


【マタイの福音書6章5-6節】

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。

祈りが 人に見せるため、自分の欲を満たすためであるならば、その祈りは神に届かない祈りです。


祈ったのに何も答えがないと言う前に、自分の祈りが 神に覚えられる祈りであったかを真剣に考えてみることです。


また施しは、人を愛する心がないと出来ないです。

よく施しをする人は人間関係も良いです。


神様が私たちに “与えなさい” と言われるのは、人を愛する心を私たちが持って欲しいことと、施しは神が喜ぶ良いことだからです。

愛すると言いながらも、何も与えないなら愛していないことです。


何の犠牲もないリップサービスだけで済ませることは神と人を騙す行為です。


また施しをしても、神に受け入れられない施しもあります。


【マタイの福音書6章1-4節】

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。


あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。


コルネリオの施しは、人に見せるため、またほめられたくてした施しではなく、人を愛してした施しだったので 神が喜んで受け入れて下さいました。


そして彼に良い報いを与えて下さいました。

使徒ペテロを彼に送り、聖霊を注ぎ、罪を赦し、水のバプテスマも授けました。


それは、彼を神の民として受け入れて下さったことです。

その時代の異邦人に対しては破格的な出来事でした。
(=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2016.1.15
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか

テーマは 『 あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか 』 です

【ルカの福音書5章27-32節】

「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。

するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

皆さんは自分を正しい者と思っていますか。それとも罪人と思っていますか。

これはとても重要な質問です。

この質問に どのように答えたら良いか、困るでしょうか。

自分を正しい者と言う勇気もないし、罪人と答えるのも嫌な感じがするし、「どちらでもありません」というのが一番無難な気がしますか?


日本は先進国の中で一番クリスチャンが少ない国です。

少ない理由は色々あると思いますが、自分を正しいと思う人が多く、罪人という認識が少ないことがあるかも知れません。

そもそも罪がどういうものか知らないのが問題かも知れません。


そして日本には “本音と建て前” の文化があります。

文化と言えば悪いものだと思わない傾向がありますが、それは偽善者または二重人格者と何が違うでしょうか。

偽善者だと思います。

もし皆さんが他の人から「あなたは偽善者で二重人格者です。」と言われたら すごく腹が立ちますし、良い気持ちがしないですね。




偽善者の姿




偽善者の姿をちょっと見てみたいと思います。

ルーマニアで最も影響力があったリチャード・ウォンブラント牧師ですが、この牧師はチャウシェスク独裁政権の時に、キリスト教の牧師であるだけの理由で捕まり 14年間も共産党本部の地下牢に入れられ、まともな食事も与えられず、日々拷問を受けて奇跡的に生き延びましたが、解放されて世界中を回りながら、その体験を語りました。


牧師はニュージーランドのクライストチャーチ市に行きました。
都市の名前が「キリストの教会」という意味です。

ですから、牧師はそこに住む人は全員クリスチャンだと思いました。

ある時、レストランで男性と合席になり、そこで会話が始まりましたが、その男性がクリスチャンではないことが分かりました。


牧師は「どうして教会に行かないのですか?」と聞きました。

すると男性は次のように答えました。
「教会に行くと偽善者が多過ぎて、私は教会には行きません。」

それを聞いたリチャード牧師は「私は教会に偽善者が多いので、教会に行くと心がとても楽です。なぜなら私も偽善者ですから。」と答えました。

皆から尊敬される立派な牧師が自らを“偽善者”と認めました。

そのことばの意味を私たちは悟らなければなりません。


皆さんは偽善者ですか。それとも「私は偽善者ではありません」と否定しますか。

今日の本文には偽善者の姿が出て来ました。

それはパリサイ人と律法学者です。彼らのどこが偽善でしょうか。

彼らの生活を見ると偽善的な姿は見えません。むしろ敬虔な姿です。


神のことばを文字通り守りますし、いつも聖書を読むし、よく祈るし、施しも熱心で、献金もよくささげ、落ち度のない敬虔な生活をしていました。

しかし彼らの心をとらえているものがありました。

それは他人に対する優越感、自分を正しいと思う心、それによって他人を裁いていました。

本文でもその姿がありました。


イエス様が自分たちが罪人だと思う人たちと一緒に食事しているのを見て非難しました。


別の箇所でさらに彼らの姿を見たいと思います。


【ルカの福音書18章9-14節】

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんで下さい。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

パリサイ人の姿は“高慢”です。神様が一番嫌う罪は高慢です。


高慢の基にあるのは「私は他の人よりましだ、もっと正しい」と思う優越感です。

この意識に捕えられると、自分より劣る人に対して 自分が審判者になって軽蔑したり、非難したり、裁いたり、また怒ったりします。

イエス様は このパリサイ人に向かって「まむしのすえたち、偽善者」と呼びました。

そのことばを聞いた時に彼らは怒り狂ってイエス様に対して殺意を抱きました。そして後になって十字架につけました。


なぜそこまでしたのでしょうか。
彼らは完全主義者だったからです。

彼らの一番恐ろしいことは、(外見は)謙遜で覆われている高慢です。

それがパリサイ人たちの典型的な姿でした。

教会の中にはパリサイ人のような偽善者もいれば、他人の行動を見てつまずいて 教会を離れるもう一人の偽善者もいます。


リチャード牧師と話をした男性も偽善者です。

なぜその人たちが偽善者だと思いますか。

その人たちが他人を裁く時には「私はあの人のように高慢ではない。私は偽善的ではない。あれでもクリスチャンか、あれでも牧師か、私ならばあんなことはしない」と自分自身を高く評価するからです。

それで教会を離れて、信仰を捨て、他の宗教に改宗する人もいますが、それはその人の信仰が不透明であったことを改めて見せていることです。


信じた時から クリスチャンは世の光、世の塩ですが、(周りが)暗いからといって光を放ちたくないと嫌がる光を見たことがありますか。

(味がなくて)美味しくないから 入って塩味をつけたくないという塩があるでしょうか。

そのような確信がないので 人を見て揺れ動き、他人を非難して人のせいにした挙句、神から離れます。


信仰生活は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない(ヘブル12章2節)生活です。
信仰はイエス・キリストを信じることから始まり、生活はそれを持続することです。


信仰生活は、まずは神様と私たち自身の問題で、次に他の人たちとの間で生きることです。


それなのに他の人たちと生きることが嫌で信仰を捨てるということは矛盾していると思いませんか。


問題は他人ではなく自分自身にあります。
いくら弁明しても自分と神の関係がはっきりしないので心が揺れて人間関係につまずきます。

私たちは人を見て信仰生活をするのではなく、イエス様を見て信仰生活をします。

他人のあやまちや罪を見た時には祈り、自分もそのような罪を犯さないように、罪の誘惑に負けないように気をつけることです。


自分のことは棚にあげて、他人が悪いという偽善者たちにイエス様がはっきりと語りました。


【ルカの福音書5章31-32節】

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」





私たちは体の調子が悪いと病院に行きますね。

病院へ行くと、もちろん病人だらけです。そして あらゆる病気の人がいます。

それが嫌で病院へ行くのを諦めますか?

諦めるならば治る病気も治らず 痛みで苦しむか、病気が悪化して死ぬかです。
多分そんなことで病院へ行くのを諦める人はいないと思います。

医者に病気を隠すどころか、症状を一生懸命説明して、治してほしいと訴えます。


しかし教会に他の罪人が来るのを見て、それが理由で行かないとは自分の魂が死んでいくのに その自覚がなく、自分の魂が死ぬのを放置しているのと同じです。

罪は魂の癌であって、これによっては100%死にます。

また、罪の癌は神様に出会うまでは自覚症状が全くないです。自覚がないので軽く考えています。


日本人が信じている信仰は罪に対しては全く触れないです。
でも触れないからといって罪が存在しないということはないですね。罪は存在します。

イエス・キリストはそれに触れ、その罪を悔い改めるならば、その罪を赦し、そして罪に定めないと恵みを備えています。


それは恵みであり、難しくないですが、サタンはそこから目をそらさせ、そしてアダムとエバを騙したように「あなたは罪人じゃないよ。罪によって死ぬことはない。先祖たちもみんな天国に行ったよ。」と甘いことばでささやきます。

神の真実とサタンの騙しことばを人々に伝えると色々な反応があります。

特に日本人は真理は信じないで、サタンの偽りのことばを信じる人が圧倒的に多いです。

または「自分は罪が多いし、もっとまともになってから信じます」という人がいます。
これも偽善者になりやすい姿です。


なぜなら正直に、道徳的に、倫理的に清く生きることは素晴らしいことですが、それが自己義に変わる時に、それはパリサイ人と同じ悪を行うことになります。

自分が道徳的に倫理的にまともな人間だと思う人に罪人の認識があるでしょうか。

自分を正しい者と思うので、さらに救いからは遠くなります。
その人たちは神様を求めることをせず、自分の努力だけで生きるようになります。

でもそれで罪が消えるわけではないですね。


罪の問題は、神様の赦しを得なければならない次元です。努力では得られないです。

ですから その人たちは自分は罪が多いと言いながらも、実はそこまで罪に対する自覚がないです。

一見、謙遜な姿に見えますが、自分の力でなんとかしようとする高慢が隠れています。


そして自分の罪を全く認めていない人がいます。

目が見えない人の姿です。
正しい者でもないのに、自分を正しい者と勘違いしながら死ぬまで生きる人です。


また、自分の罪を認めてはいますが、自分は罪深い人間だから赦されることはないと勝手に決めてしまう人もいます。

病院では軽い病気は受け入れ、重い病気は受け入れないでしょうか。
絶対にそんなことはないですね。

重い病気の人が優先になります。


神様の赦しにも 重い罪も軽い罪もないです。






そして本文に出てきた人物レビのような人がいます。

レビは取税人です。
彼の仕事はお金はたくさん入りますが、評判の悪い仕事でした。

その理由は、不正な方法でお金を手に入れる人たちが多かったからです。

レビもそのような人だったと思います。

一般の人たちは彼らを罪人と呼びました。


イエス様は彼に目を留め、いきなり呼びました。
「私について来なさい。」とひと言言っただけで、何もかも捨てて、立ち上がってイエス様に従いました。

そして自宅に招いて大ふるまいをしました。それも他の大勢の人を招いて食事会をしました。


それには2つの理由があったと思います。

罪人である自分を招いてくれたことに対する感謝と喜びの気持ちを現すために自宅に招きました。
そして今までお世話になった仲間や愛する人たちとの別れの挨拶でもありました。

古い生活を清算し、新しい生活への出発を祝うためでもあったでしょう。


お金をたくさん手に入れて良い家に住み、毎日ごちそうを食べ、良い服を着て、良い車に乗り、外国へ旅行するのが人生の目的で、それで満足するために生きていますか。

レビはそれを手に入れていましたが、罪の意識だけは消えなかったでしょう。

罪人の自覚は、自分の中には罪があり、弱さがあり、汚い思いがあり、いくら努力しても自分という人間が変わっていないことを認める時に出てきます。


さらに謙遜さも それを認めるところから始まります。

罪に対する自覚があると他人に対する優越感と、優越意識が消えていきます。

そして自分には罪の赦しが必要であると救いを求めます。


レビはイエス様に従って12弟子のひとりになりました。

そして新約聖書のマタイの福音書を書きました。マタイとはレビの別名です。

イエス様の招きを受けたことで彼の人生は罪人から弟子に変わりました。


どちらが良かったと思いますか?

取税人の時の罪を犯しながら贅沢な生活の方が良かったですか。
それともお金もなく苦難も多い弟子になったことが良かったでしょうか。

実際 レビが取税人に戻っていないことを見ると弟子になったことが良かったみたいです。


罪人がイエス様を信じて損することがありますか?

――全くないです。反対に得することだらけです。

人々から罪人だと軽蔑されていたレビは、立派な弟子になり多くの人々からも尊敬される人になりました。






もしイエス様が「私は正しい人を招くために来た」と言われるならば、私たちは皆 その資格がないのです。

しかし罪人を招くために来たというので誰にでも受ける資格があり、とてもありがたいです。


そしてイエス様の魂に対する思いがどんなに強いかを語った箇所があります。


【マタイの福音書18章11-14節】

〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

私も以前は迷い出た一匹の羊でしたが、神様の忍耐と憐れみ、恵みによって救われました。

それがなかったならば、この世がすべてと思って自分がどこに向かっていくのかも知らず生きていたと思います。


でも今は安心しています。
自分がどこに向かっていくのかを知っていますし、真理も知っています。そして永遠の世界も知っています。

自分を主の前で罪人だと認めたことによって得られた祝福はたくさんあります。

罪を告白しただけで赦してもらいましたし、受け入れてもらいましたし、神の子どもになる特権まで与えて下さいました。


こんな素晴らしい祝福を拒否することは本当に大きな損失です。

失った後に胸を叩きながら永遠に後悔することはないようにしましょう。


自分が信じたい時に信じるのではなく「きょう、もし御声を聞くならば心をかたくなにしてはならない。今は恵みの時、今は救いの時です。」と語ったことばのように、今日が恵みを受ける時と思って恵みを受け取って下さい。
(・∀・)つ

2015.6.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリスト者になる方法は?

テーマは 『 キリスト者になる方法 』 です

【ヨハネの福音書3章16-21節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを 持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあって なされたことが明らかにされるためである。

みなさんはどのようにしてイエス・キリストを信じるようになったでしょうか。
それは一人一人違うと思います。

信じるようになったことは大きな祝福であります。
今すぐには分からなくても、私たちが世を離れた時に 救われたことが本当に素晴らしい祝福であったことが分かると思います。

「福音を一度も聞いたことがない」や福音を聞いても信じない人はとても残念であります。


私たちが伝えても、キリスト教を反対する人が多いですね。良いことを伝えているのに、なぜ受け入れられず反対されるのでしょうか ――?

その理由は様々だと思いますが、その中でも キリスト教に対する間違えた先入観があるので拒否する人が多いです。

しかし、伝える人たちが正しく伝え、聞く人が正しくキリスト教に対して理解するならば、キリストを信じる人が多いと思います。


キリスト教は人間の根本的問題を扱う宗教であります。

信じたら天国、信じなかったら地獄 それだけのことではないです。これは福音ではないです。
それだけを言うならば多くの人たちが拒否します。「天国も地獄も信じない。」「死んでみないと分からない。」「別にどちらでもいい。」等
あまり良い反応はなく、キリスト教に対する好感度が下がってしまいます。

それ以前に、本質的なものに触れなければなりません。




①人間は認めたくなくても、本質的に罪の中から生まれた暗闇の子です


まず、私たちが罪人であることを伝えないと何も始まりません。

聖書が私たちに対して語る真理の言葉は、「義人はいない。ひとりもいない。」、「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず。」です。


【エペソ2章1節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって

これらの言葉を総合してみると、一言で皆が「罪人」であるということです。
「私は一体何者なのか」と悩む人が多いですが、私たちは「人間は誰もが罪人です」と答えなければなりません。


聖書で 自分たちは罪人ではないと思っていた人たちが、姦淫の現場で捕らえた女の人をイエス様のところにつれて来て、「モーセは律法の中でこういう女を 石打ちにするように命じています。ところであなたは何と言われますか。」と言った人には罪の意識がなかったと思います。
私たちもモーセの律法にそのように書かれているからと石を投げたと思います。そうしたら女性は殺されていたでしょう。
しかしその時、イエス様は彼らに向かって「あなたがたのうちで罪のない者が 最初に彼女に石を投げなさい。」と言うと、年長者から ひとり ひとり離れていき、誰一人残りませんでした。

これはイエス様が人間の本質に迫ったことです。「あなたたちの罪はないのか?」ということであります。


私には罪がないと言える人は1人もいません。すなわち罪人であります。

アダムから罪を犯しました。エバも罪を犯しました。その息子・長男のカインも人殺しをしました。
初めから罪にまみれたのが人間であります。神様は良いものを造りましたが、人間が罪を犯しました。
その子孫がすべて罪人です。これを私たちは人々に伝えることであります。

私たちは生まれながらに罪の中から出て来て、そして罪を犯している者だということに出会わないと 神様の存在がいらなくなります。


【創世記6章5節】

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

いつも悪い方向に向かっていくのです。自分の心を見てもマイナス(否定的)に傾いていきます。そのことを神様がはっきりと語ってくださいました。


【エレミヤ17章9節】

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

人間は2つのものを持っています。偽善者であります。

心の中にいっぱい悪いものを持っていながら、外見は良い人のフリをするのです。
心の中では他人に対する憎しみがいっぱいですが、「私はあなたを愛しています。」と笑顔で語るのです。
ですから人間ほど恐ろしいものはないです。
動物には出来ませんが、人間は巧みに生きているのです。ですから罪人ではないと言える人は1人もいないです。 もし「罪人ではない」と言う人がいるならば、その人は嘘つきであります。

哲学では、人間の存在に対して出した結論は、虚しいということです。




②神様は光であり、そして罪もなく聖い方です


光が世に来たと 今回のテーマである ヨハネの福音書3章19節に書かれています。

イエス様は、自分のことを世の光であると語って下さいました。
光ということは、そこに闇がないことです。罪は暗闇です。罪を犯した人間は光ではなく暗闇なのです。

罪人たちは、誰もが暗闇の中を歩んでいて何も見えないので自分がどこへ向かって行くのかも全く分からないです。

その暗闇でさまよっている者たち、虚しく生きている人たち、滅びに向かって歩んでいる人々を救うために 光であるイエス様が 神様に遣わされて地上に来られました。


さまよっている人たちに必要なものは何でしょうか ――? 食べ物ではないです。
その人たちにとって大切なものは「光」であります。

罪の闇を追い出すために 光であるイエス様が来られました。
闇と光は共存することができません。闇は光によって追い出されます。

自分の中にある闇を追い出すためには光であるイエス様が必要です。光であるイエス様を心の中に迎え入れるならば闇は消えていきます。


しかし、光を受け入れない1つの理由について、暗闇のわざを捨てたくなく、自分が罪人であることを認めたくない人はキリストを信じようとはしません。


【ヨハネの福音書3章19-20節】

光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをする者は光を憎み、 その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

「私は罪人です。わたしはイエス様が必要です。」と言う人は、キリスト者になれます。




③私たちはイエス様によって天の父なる神の元へ行くことができます


私たちが人々に伝える時に、天国のことをいきなり語るのではなく、①と②を伝えた後に語ります。
世の中の宗教には、自分たちが語る天国のような場所がありますが 次のように語っています。


【ヨハネの福音書14章6節】

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることは ありません。

もし 私たちが天国に行きたいならば、キリストを通らなければなりません。
キリストの十字架が地上と天国を繋ぐ道であります。
世の宗教は「私たちにも救いの道があります。」と言いますが、それは届かない道であります。


また、神様は私たちを天国へ強制的に入れる方ではありません。
その道を選んで行くか 行かないかは私たちの自由意思、私たちの選択に任せています。

自分でよく考えて自ら決定するようにして下さいました。
これが福音であります。私たちが福音を正しく伝えて相手に委ねることであります。むりやり「信じなさい。」と言う必要はないです。
耳のある者は聞きなさいと神様が語りました。


自分たちがキリスト者になるのも、この過程が必要でありますし、私たちが他の人たちに福音を伝える時も きちんと詳しく説明しながら伝えることが大切です。

そうしないと信じたくても何を信じたら良いのか分からず、自分が何者で キリストがなぜ必要なのか、天国にはどのようにしたら行けるのかが分からないです。


  • 人間は誰もが罪人であること
  • 暗闇の中にいる罪人たちを救うために、光であるイエス・キリストが来られたこと
  • イエス・キリストが天の御国へ行ける唯一の道であること

このことを正しく知り、正しく伝えてください。

それによって相手の人が受け入れるならば、それから神様のみことばを学ぶことでありますし、みこころを知るようになります。
クリスチャンとしてどう生きるべきなのかを教会に来て、みことばを学びながら成長していきます。

私たちは人間の本質に迫って語り、イエス様のことを伝えたら良いと思います。 (・◇・)ゞ

2014.1.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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忠実とは何でしょうか?

テーマは『忠実とは何か?』です

【ルカの福音書19章11-27節】

主は私たちに忠実さを求めておられる方です。なぜなら、神様ご自身が忠実な方であるからです。

【Ⅰコリント1章9節】、【ヘブル2章17節】

神様が1人1人にミナを与えました。ある者は十ミナ。ある者は五ミナ。ある者は一ミナ与えました。
そして、神様はそれを使って商売をしなさいと語りました。
働く時に、神様は働けるように(必要なものを)提供してくださいます。それをもって働きなさい、ということです。

そしてその人たちが働きに出て行きました。あとで計算をするからそれまでに商売をしておきなさい。と、
責任を任せました。あとは彼らがどれほど忠実にそれをもって商売をするかです。

神様は自由に任せました。ノルマがあるわけではないです。
とにかくそれをもって1人1人、その責任を与えた神様に対してどれほど忠実に働くのか、
それを見たかったです。

どれほどたくさん残すのかではないです。それをどういう風に用いるのか、どれほど忠実なのか、
それを神様が試して、しもべたちの姿勢を見たかったです。

「忠実だったのか」それとも「忠実ではなかったのか」 そのテストでありました。
決して 損得の問題ではなく、忠実であったか・・・です。


①小さなことに忠実でありなさい。

一ミナを受けた者。一ミナはある部分で小さな働きであります。
たくさんやらなければならない働きではないです。
僅かな働きですが、その人は それさえもしませんでした。それが神様は気に入らなかったです。

小さいこととは何でしょうか。なぜ、小さなことにも忠実でなければいけないのでしょうか?
小さなことに対して目が留まるたち人や、小さいことを大切にする人たちの中にある性質があります。
その人たちには抜け目がないです。目配り、気配りが上手です。

人々が見つけられないそういうものに対しても、その人たちは常に目を配ります。
その人たちは自ら小さいことを見つけ出します。
人々が「こんな小さなもの」と捨てたものを、その人たちは拾い上げます。

イエス様がある女性のことを褒めました。カナンの女性です。
主人の食卓にあるパンを犬にはあげないと厳しい言葉を言った時に、彼女が語った言葉は
「その通りです。でも犬も主人の食卓から落ちたパンくずは食べます。」と言いました。
「綺麗なお皿に盛ってある大きなパンは、私にはそんな(食べる)資格はないです。
だけど食べている人たちがこぼしてくるパンくずはいただきます。」ということは、
小さな恵みを知っている者であります。

このような人たちが常に恵みを受けています。
毎日の生活の中で、奇跡は稀でありますが、小さなパンくずのような恵みは毎日あります。
常に主を喜ばせようとする人々は、小さいところに目がいきます。

自分を喜ばせようとする人は、小さなことに興味がないです。
「私は他の人よりも大きい働きをしたい。」と なると、地に足が付いていないです。
本当は恵みは自分の足元にたくさんありますが、そこを見ないで上から大きいものが落ちて来るのを待つ人は、
神様はそういう人たちに恵みを与えないです。

小さいことに忠実な者が、大きいこともします。抜け目がないので大きいことを与えても、
その人たちは小さいことをする時と同じ気持ちでやります。
それを神様は「忠実だ」と言います。


②人の目に見えないところでも忠実な者になりなさい

【マタイの福音書6章1-5節】

ここに2つの忠実な姿があります。1つは、「人が見えないところでよく働く」こと、
もう1つは、「報いを人々に期待しないで、神様に期待をする」

同じ働きでも偽善者たちは、他人に見せるためであります。他人が見ていると働きをし、
他人が見ていないと働きをしないのです。

しかし、神様の大きな目が常に見ていることには気付いていないです。

なぜその人たちは他人の目を気にするのでしょうか?それは、人から報いを期待するからです。
しかし、神様は「あなたがたはそうであってはいけない」と語ってあります。
人々は神様が与えようと準備をしているものには期待をしないで、目の前にいる人たちから褒められたいです。

このようになると神様とは関係がなくなります。

私たちは、まず神様のために働くのです。自分が受けた働きも神様のための働きであります。
まずは神様ですが、他人はどうでも良いというわけではないです。
神様から喜ばれるためにまずは神様の働きをします。
「主が見ておられる」ということを常に認識することであります。

心の中で計算済みで、他人が自分の思い通りにしなければ腹を立てる。
教会の働き・神様の働きは、絶対にそういうものであってはいけません。

他人から受ける報いは僅かなものです。

「 証 」 と 「 自慢 」 は違います。
証は、神様がこんなに良いことをしてくださいましたと栄光を捧げることです。
しかし、自慢は自分を高めることであります。「あなたとわたしは違う」と。これらは全く違います。

神様は誰もいないところでよく働く者が「忠実だ」とおっしゃいます。

神様の報いを期待して一生懸命すること、主人を喜ばせるためにやることは、
神様は「忠実だ」とおっしゃいました。


③そして最後までやり遂げることが忠実です

【ヨハネの黙示録2章10-11節】

第二の死は、永遠の死であります。火と硫黄の中で永遠に出る事ができないところに
落ちるのですが、神様は最後まで忠実な人には そういうことにはならないと語っています。
永遠の天国で喜びがあるところに、その人を入れると神様は語りました。

多くの人は出発は良いのですが、いつの間にか何もしなくなって、いつの間にか神様から離れて、
いなくなる人たちがいます。

聖書には小さなことに忠実な人の姿がたくさん出てきます。
私たちも小さい者ですが、神様が私たちを見て「あなたなら信頼できる」と、
そういう者でなければならないです。

私たちは他に色んな資質が足りなくても、忠実さは心があればできることであります。
主が私にくださったことだけは最後まで忠実に成し遂げようと、使命を与えてくださった神様を喜ばせようと
すると最後に良い報いを与えてくださいます。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2013.1.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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自分の心を聖くする

テーマは『自分の心を聖くする』です

【マタイ5章8節】

神様は肉眼では見ることができない方です。神様は霊であります。
人々は「(神様を)見たら信じます」というのがとても多いですが、その人達の心は
信じたい心で見るのではないです。それは自分の心を満足させたいだけです。

しかし、信仰は「見ずに信じるもの」です。これは定義であります。
肉の目で見たいと思っている人は、死ぬまで神様を信じることができないです。
これは心を閉ざして、自分を信じる者の姿であります。

イエス様は「見ずに信じる者は本物だ」と語ってあります。
この人達は神様の言葉を握っている人です。

人は外側(上辺)だけを見るものです。
そして自分自身も外側は良く見せたい。そして他人を見る時も、上辺だけを見ます。
その心の内もわかっていないのに上辺だけを見て「あぁだ、こうだ」と他人を評価します。
人間の姿はいつもそうです。
その人がどういう動機や目的でそうするのか、何もわかっていないのに勝手な想像をします。

しかし神様は「違う」と語りました。神様は心を見る方であります。
人が視覚的なもので評価をすることに対して否定をしています。

心が聖いということはどういうことでしょうか?
それは、内側が純潔であるということです。混じり気のない純潔さです。

パリサイ人、律法学者、聖書を研究する者たちは外側から見えるものに ものすごく重点を置きました。
一生懸命、律法を形式的に守りました。そしてイエス様や十二弟子たちを徹底的に非難しました。
パウロも以前はパリサイ人でしたので律法的に義とされるものを徹底的に守りました。
什一献金、施し、その他、律法が命じたものは全てやりました。
彼らの姿は人々から敬虔な者に映っていました。これが彼らにとって自慢でした。

【ルカ18章10-12節】

行っている行動自体は間違えていないです。自分が行ったことに対して酔っています。
「私は正しい、私は神様の前で非難されることはない」と自慢しています。
そして「自分はあの人(取税人)のようではないんだ」と言うのは、高慢・高ぶりであります。

【ルカ18章13節】

彼は自分の心を見ている者であります。
自分の心が汚れていること、心だけではなく外側も汚れているので彼は叫び、主に憐みを求めました。
自分の義がないです。

ここでイエス様が語った言葉は【ルカ18章14節】です。

【箴言16章2節】

主は人の心を見るということであります。主は人の心にとても関心があります。
もちろん私たちの行いも見ています。
人は人を騙します。良い行いを見せて、自分達の中の汚れたものを見せないので、
周りの人は騙されます。それを神様は偽善者と語ります。

【マタイ23章25-28節】

イエス様は公の場で暴きました。この人達はイエス様のあら探しに来ていました。とても目つきが悪いです。
人は目を見るとわかります。
私たちは背中には目が付いていませんが、誰かが自分を見ていることに目線を感じる時があります。
優しい目で見られているのはそんなに感じませんが、
嫌な目線には後ろを振り向かなくてもその目線を感じることがあります。
皆さんも「あの人が私を見ているんだ。
それもあら探しをする為に、非難する為に、何かを探る為に」というのを感じたことがあると思います。

パリサイ人がイエス様に対する妬みと高慢な心で、イエス様が神様の働きを潰すために
彼らは自分が義人のようにして潰そうとしました。

【マタイ23章33節】

イエス様の止めの言葉であります。
教会の中で、地獄へ行く者が多いということです。自分が一番神様を信じる者だと誇っていた者であります。
汚れた心では神を見ることはできないです。汚れた心で見るものはサタンであります。

このマタイ23章のみことばは私たちに対する警告の言葉です。

【マタイ5章-7章】

イエス様が要求する義が書かれてあります。
「兄弟姉妹を愛します。」と言って、心の中では憎むならば、誰がそれを受け入れるでしょう。
だから心から聖くしなさいと語ってあります。

私たちは心が汚れて悪い思いがたくさんあると、反対に外側を綺麗に見せようとします。
偽善者を装います。
なぜなら外側の汚れた姿を見せると人々から嫌われるので、心の中で隠しておこうとますます外側に
力を入れていきます。 しかし、神様は「無駄な抵抗はするな」であります。

【ヨハネ15章3節】

心を純潔にする段階があります。自分の力では出来ることではないです。
ただ、言葉を聞いたから自分達が聖くなったのではないです。
神の言葉には「聖める力」があると語ってあります。そして真理の言葉によって聖めてくださいと
イエス様が祈ってくださいました。
それはみことばを聞いている者たちが、権威ある神様からの言葉として聞き、その言葉をもって
自分の中に使わなければならないです。

 

【へブル4章12節】

みことばを聞いたならば、両刃の鋭い剣にし、自分を変えなければならないことであります。
両刃を自分に向けるならば、それによって自分の益になります。

自分にではなく、他人に向けるならば、どうなりますか?
裁く姿を神様が見て、同じく裁かれるようになります。
「汚いあなたが、誰のことを裁いているのか?あなた自身がまず聖くなりなさい。」

パウロが「いつも聖いことを考えなさい。」と語りました。
私たちが汚いことを考えるならば、ますます心が汚くなります。
「自分の心が聖くなることを強く求めなさい。」

誰でも他人を羨ましいなぁと思う気持ちはあります。妬みの心も出てきます。
でもそれは「良くないことだ」と止めてみてください。
誰かを妬むと、その人に対する妬みの心がどんどん どんどん大きくなって潰したくなる心が出てきます。
そしてあら探しをして、その人を非難します。
これは自分の首を絞めることと同じであります。

他人が受ける祝福もあれば、自分が受ける祝福もあります。
神様は私たちに正しい心があれば祝福してくださいます。

そして私たちの心はいつもイエス様の十字架を握らないといけないです。
日々、自分の汚れが目に見えてきます。十字架の前でイエス様に罪を赦してくださいと
悔い改めるなら、神様は祈りを聞いてくださいます。
本当に聖くされた人は、悔い改めの実を結びます。

【Ⅱテモテ2章21-26節】

神様の言葉を聞いて、自分はどんな者であるのか調べて、神様から尊いことに用いられる器なのか、
それともサタンの手に遣わされる滅びの器なのかを自分で知らなければならないです。

22節の、自分が誰と一緒にいるのかが大切なことであります。
高慢・高ぶる者と一緒にいるなら、自分も同じ者であります。そこで何を学びますか?高慢な者になるだけです。
不平不満を言う者と一緒にいるなら、自分もそのようになります。イスラエルの民たちがそうでした。

私たちは人を見る時に、その人に聖い心があるのかを見てください。外側ではないです。
その人がどういう思いでそれをしているのか、私たちはキャッチしなければならないです。
そして心の動機が悪いならば、その人と一緒に居てはいけないです。言葉を聞いてはダメです。
聖い心で主を呼び求める人たちと共に追い求めなさいということであります。

23節が指すことばは、知恵ではないです。
「これは正しいと思います」と自分から出た知識、みことばには無いもの、間違った解釈、
それは安易であります。
愚かで無知であるから、自分がサタンに遣わされていることに気付いていないです。
これは誰でもなることであります。「私はそうはならない。」これは違います。

一番強い戦いは、自分自身との戦いです。
24時間自分の魂を見張って油断せず、腹が立つことがあっても自分は何をやっているんだろうと気付き、
イエス様を見て助けてくださいと必死になって自分の心を守ることです。

そして他人が流す悪いものは受け取ってはいけないです。同じ者になります。
自分自身がサタンに遣わされた者にならないように、真理の上に立つことです。
他人を見ている暇がないです。自分の泉を守るのに精一杯で大変なのに、
他人を見て自分が裁き主でもないのに裁くのは、神様が「そんなに心が汚れてどうする?」と心配をしています。 本当に気を付けてください。

他人を見て、「あの人が気を付けなければならない」ではなく、「自分が気を付けなければならない」です。
私たちが目覚めて悔い改め、主に立ち返ること、尊い器になること。そうすると神にとっても、
人にとっても有益ものになります。
私たちは共にみことばを聞いて従順していきましょう。 ( -д-)ノ

<今週の目標>

心の聖い者になる。
悔い改めて、みことばを読み自分の姿と見比べると心が透き通ったものになる。

2012.6.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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