からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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信仰生活

狭い門と良い実、岩の上に建てた

テーマは 『 狭い門と良い実、岩の上に建てた 』 です

【マタイの福音書7章13-27節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

この世で神を信じて聖徒として生きることがどういうことであるかを 本文で主が教えて下さいました。


口先の信仰告白と「主よ、主よ。」と言うだけでは、永遠のいのちも神の国に入ることが出来ないです。

主は この世でどのように生きるべきかを教えて下さいました。




狭い門から入り、狭い道を歩む




狭い門から入り、狭い道を歩むためには、次に示された道を歩むことです。


【詩篇1編1節】

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

【ローマ12章2節】

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

【エペソ4章22-24節】

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。


こうする時に聖徒たちは世に属する重荷と罪とを捨てて、信仰の狭い道を最後まで歩くことが出来ます。




良い実を結ぶこと




真理の道を歩み、うわべの信仰ではなく、行いが伴う信仰生活をする時に良い実を結ぶことが出来ます。


悪い実はあざみといばらです。

何の役にも立たないむなしい実です。


偽りの教訓、惑わしに惑わされた者は、たとえ預言者であっても主の目には偽物であり本物ではないです。



良い行いを通して良い実が結ばれます。

良い実を結ぶためには忍耐が必要です。


【ヤコブ5章7-8節】

こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。



岩の上に家を建てること




私たちは行いによって救われたのではないですが、行いを通して自分の信仰が生きた信仰であることを見せなければなりません。


みことばの上に立つ信仰は、患難や苦しい時にも揺れ動くことがありません。


神が下さった祝福や奇跡の上に信仰の家を建てるならば 試練と苦難が来た時に、信仰が根元から取られ倒れてしまいます。


【第2コリント13章5節】

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。

【ヤコブ1章22節】

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。


キリストのみことばに従順したかどうかは神の国に入る時にとても重要です。

裁きの対象になるからです。



イエス・キリストが見せて下さった模範的な生き方は私たちが見習わないといけないです。


主は狭い道を歩み、良い実を結び、神のことばに従順しました。

これが救われた聖徒たちが歩まないといけない道です。


2020.7.12
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活発になったイゼベルの霊

テーマは 『 活発になったイゼベルの霊 』 です

【ヨハネの黙示録2章18-23節】

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。

「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

まずはイゼベルとは誰なのかを見ます。

イゼベルは、旧約に出て来る悪女の中でも代表的な人物です。


彼女は北イスラエルの7代目の王・アハブ王の妻で、異邦人でした。


結婚して彼女がイスラエルに持ち込んだのが偶像崇拝でした。

彼女は熱心なバアル崇拝者で、イスラエルの民にバアル崇拝と宗教的な淫行を行わせ、預言者エリヤとも対決した人物でした。


彼女を妻として迎えたアハブが、まずこのように堕落しました。


【第1列王記21章25-26節】

アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。

彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行った。

王がこのように堕落したので、民もみんな同じことをして堕落しました。

ですから指導者によって大きな影響を受けるので、指導者選びのために多くの祈りが必要です。



神は堕落した民に 神のことばを伝える預言者エリヤを立てていました。

エリヤが民たちに語ったことばはこうでした。


【第1列王記18章21節】

エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。

これだけ見ても神の選民たちがバアルによって どれだけ堕落したかがよく分かります。

妥協しながら信仰生活をしていました。



このようなことが今も教会の中であるので、目を覚まして主への正しい信仰を守らなければなりません。


イゼベルという人物は、今は実在しない人物ですが、しかしイゼベルと同じ活動をする者がたくさん出て来ました。

すなわちニセ預言者や異端、誤った教えが巧妙に社会と教会に入り、人々や信徒たちを惑わしています。



それらの者の中で働く霊を 象徴的に “イゼベルの霊” とも言えます。

イゼベルの霊は言うまでもなく、サタンの霊です。

サタンがその者たちを使って人々を惑わし、滅びに導きます。


以前よりも今はイゼベルの霊が大胆に活動しています。



今年6月にある「世界宗教統合宣言式」、同性婚や差別禁止法を進める活動をする牧師たち、聖書の内容を変える働き(デンマーク聖書協会が20年ぶりに新しく発行した新約聖書から「イスラエル」、「ユダヤ人」ということばを他のことばに書き換えたこと)や、真理から離れた教えなどがいつの間にか多くの教会の中にも浸透し、それをそのまま受け入れているところが増えたことは大変危険なことです。


なぜ人々は真理から離れたことなのに、それを受け入れてしまうのでしょうか。



サタンは人々が惹かれることばをよく知っているので、それを使って人々を誘惑し、惑わします。

自由、平等、共存、愛、寛容、人権、平和などということばを頻繁に使いながら惑わします。

それは どの時代でも使うサタンの騙しであり、変装術です。


サタンがよく使う変装術を伝えます。


  • いつも自分の味方のように変装する
  • いつも自分自身を顧みないようにさせ、そのために洗脳する
  • いつも苦難のない栄光を約束する
  • いつも高慢が高慢でないように思わせる
  • いつも奇跡を約束する

このようにして自分の支配下に入った者に、次にやるのは偶像崇拝、不品行、偶像にささげたものを食べさせます。


これは聖書の教えとは真逆のことです。

これらは教会が始まった時から堅く禁じたことでした。


【使徒の働き15章20-21節】

ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。

昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」


なぜテアテラ教会がイゼベルという女をなすがままにさせてしまったでしょうか。

テアテラ教会は、愛と信仰と奉仕と忍耐、行いでほめられたのに、なぜこのような失敗を犯したでしょうか?


それは真理に対して無知であったことと、愛に対して誤解したからです。


真理には妥協が許されないです。


すなわち、“どんな混ぜ物もしてはならない”ことです。

人間の教えが真理に混ざることを主は忌み嫌います。


それは真理ではなくなります。

異端は真理に混ぜ物をして人々を惑わします。






次は愛に対して誤解しました。


エペソ教会はニセ預言者たちを見抜いて、彼らを追い出すことには成功しましたが、初めの愛を失ってしまいました。


テアテラ教会は兄弟愛を深めていきましたが、その代わりニセ預言者たちを追い出すことに失敗しました。

愛に傾いてしまい、教理的な部分ではとても未熟でした。



このバランスを取るのは簡単ではないですが、信仰が成熟していくとバランスを取ることが出来ます。


神はイゼベルの霊に支配されている者に対して 悔い改めることを寛容と忍耐をもって待っていますが、いつまで待つのではなく、神の愛と寛容をいつまでも拒む者たちには厳しい刑罰があることを警告しました。


イゼベルと同じ罪を犯す者たちも同じ刑罰があることを知らなければなりません。

イゼベルの教えに従う者はイゼベルの子です。



教会の中にいても最後まで悔い改めない者は、神の子でないことをはっきりさせてあります。


主は私たちの心だけでなく、行いもすべてご存知なので、それに従って必ず裁く方です。

イゼベルの霊にはくれぐれも気をつけましょう。
アーメン ヽ(TдT)ノ


2020.5.17
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1年間神との関係はどうだったのか

テーマは 『 1年間神との関係はどうだったのか 』 です

【第1ヨハネ2章6節】

神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

今年も もうすぐ終わりです。

数日後には2020年が始まります。


ですから一年間を振り返ってみて、その中で神との関係がどうだったのかに焦点を合わせてメッセージを伝えます。


信仰生活の勝敗は神との関係にあります。


神の国に向かって行くためには勝利しないといけないです。


神は勝利を得る者に様々な祝福を与えます。

負けた者に祝福はありません。


神との関係に問題がない人は勝利し、問題がある人は失敗します。



キリストはいつも父なる神との関係を語りました。

その関係は最高の関係で、完全な信頼関係でした。


私たちは次の項目で神との関係がどうだったのかを考えてみたいと思います。




神と共に歩んだのか




いつでもどこでもエノクのように神と共に歩んだ人は 神との関係に問題はありません。


しかし普段は主を忘れて生活し、日曜日もかろうじて礼拝だけ参加し、時には礼拝もさぼって生活したならば、その人たちにとって神との関係は冷めた関係で、良い関係ではないです。


神と離れられない関係なのか、それとも冷めた関係なのかを調べてみて下さい。




神のみこころを求めて みこころのままに生きたでしょうか




何かをする時にまず主のみこころを求めるでしょうか?

それとも自分で決めた後に主に祝福だけを求めるでしょうか?


神が喜ぶ人はいつも主のみこころを求める人です。

それが主の主権を認める行為であり、主の計画に従う人です。


神の導きの中で生きる人と 神をただ利用する人は、みこころを求めるか求めないかで分かります。


みこころを求めてその通りに生きた人は良い実を結んだ年になったと思います。




神のみことばを実践したのか




神のことばを聞くだけで終わったでしょうか?

それとも一生懸命に実践したでしょうか?


実践した人は自分でも自分の信仰が成長したことに気づいていると思います。

そして多くの神体験もしたと思います。


体験も証もなかったならば、みことばを実践していないことですね。


みことばには多くの約束が伴ってあるので、実践したならば必ず神が約束を果たして恵みを注ぎます。


神はみことばを実践する人を信仰ある人として認めます。




神の前にいつも罪を悔い改めたでしょうか




罪を犯さずに生きることは ほぼ不可能です。


罪を犯した時にいつも心を痛めながら悔い改めていますか。

それとも罪を軽く考えたり、勝手に赦されたと思って何もしなかったでしょうか。


罪は必ず悔い改めないといけないです。


キリストの花嫁の姿は聖い姿でなければなりません。

罪によって汚れたままの姿はキリストにふさわしくありません。


今からでも遅くはないです。

今年の罪をすべて悔い改めて主の赦しを求めましょう。


これらの項目で神との関係を点検してみて下さい。


そして神の前に静まってもう一度神との関係を新しくして新年を迎えて下さい。
アーメン (*´∇`*)


2019.12.29
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イエス様のライフスタイル

テーマは 『 イエス様のライフスタイル 』 です

【ルカの福音書21章37節】

さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。

新しく生まれ変わったクリスチャンならば、イエス様抜きの生き方はしてないと思います。


いつも、どうしたらもっとイエス様に近づけるかを考えると思います。

どうしたらもっと信仰ある者になれるのかを考えます。


なぜなら自分の姿が きっと主の目には「信仰の薄い者」に見えると思うからです。


良い信仰を持つために努力する人もいると思います。

しかし、うまくいかなくて悩む時もあります。


なぜ努力しても良い信仰、主が喜ぶ人間になれないのでしょうか?


イエス様が地上にいた時は、私たちと同じ “人間” として生活しました。

同じように弱さを持っていました。


しかしイエス様は世の中でも、世に染まらず、偉大な救いのわざを成し遂げました。


なぜそれが出来たでしょうか。

イエス様のライフスタイルを見たら分かります。


そして私たちが努力してもうまく行かない原因も、私たちのライフスタイルにあります。

主のライフスタイルと私たちのライフスタイルがあまりにも違うからです。






本来ならば、イエス様のライフスタイルをマネしなければならないのに、私たちは自分のライフスタイルを優先にします。


主のライフスタイルに従わないです。


それでは いつまで経っても、私たちの信仰生活はうまくいかないです。

もちろん勝利することも難しいです。


毎日習慣的にやることが、その人のライフスタイルです。



イエス様のライフスタイルはどうでしたか?

今日のことばにあります。


「夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。」


イエス様のライフスタイルは、夜になると静かな所で一人になることでした。


毎日大勢の人に囲まれ、昼は多くの働きをしました。

誰よりも忙しかったです。


早朝から人々が集まるので、食事する暇もないほどで、それが毎日繰り返されていました。


しかし夜になると、いつも人からも 弟子たちからも離れて一人になりました。

休むためではなく、父なる神に祈りをささげ、交わりをするためでした。


父なる神と二人で過ごす時間が、イエス様にとってはもっとも貴重な時間で、それが主の働きの原動力になっていました。






「もし明日死ぬならば、今日何をしますか?」
という質問は、みなさんも聞いたことがあると思います。


皆さんなら何をしますか?

いま考えてみて下さい。



イエス様は何をしましたか。


ルカの福音書22章39節は十字架にかかる前日の姿です。

イエス様は自分が次の日に死ぬことも知っていました。


【ルカの福音書22章39節】

それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

人生最後の日でも、いつもと同じようにオリーブ山に行かれ、その晩もいつものように父なる神と時間を過ごしていました。


弟子たちも一緒にいましたが、彼らのライフスタイルは いつも主の近くで寝ることでした。


ですから「目を覚まして祈りなさい。」と何度も聞いたにも関わらず 出来ませんでした。

そして誘惑に負け、倒れました。


しかしイエス様のようなライフスタイルで生きた人たちは、みな勝利の人生を生きました。


もしイエス様のように静かに神と共に過ごすライフスタイルがなく、昼も夜も世の中にどっぷり浸かって、神との時間もまったく持たず、好きなことばかりしたり、眠りをむさぼるライフスタイルならば、誘惑が来た時に倒れてしまいます。


信仰も薄いままです。

もちろん成長も出来ません。


人としてのイエス様は そのライフスタイルを通して、私たちに生き方も教えて下さいました。


自分のライフスタイルを早く変えることが、誘惑の多い世の中で倒れない秘訣でもあります。

アーメン ( ̄‥ ̄)=3


2019.8.11
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なぜ広い道を歩くクリスチャンがいるのか

テーマは 『 なぜ広い道を歩くクリスチャンがいるのか 』 です

【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者は多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

今日はイエス様を信じると言いながらも、広い道を歩くクリスチャンの話をしたいと思います。


イエス様に従う道は いのちの道です。


そして、その “いのちの道は狭い” と言われました。

ですからクリスチャンであるならば、そのことばを当然知っています。


しかし問題は 教会に通いながらも、狭い道には行かず、広い道を歩く人が多いです。

広い道は滅びと死の道なので、その道を歩くことは不幸なことです。



なぜそのような不幸を自ら招きますか?

ある人たちは、自分がその広い道を歩いているのに、狭い道を歩いていると勘違いしています。


なぜ広い道を歩いているのか、その原因と解決策を伝えたいと思います。




広い道を歩く原因




自分のたましいが 不信仰と罪の習性、闇のわざを喜ぶことに慣れているのが原因です。


長い間慣れ親しんだものが身についているので、そちらの道を歩くことが楽で慣れています。


たとえば悪口、陰口、人への非難や裁くことに慣れている人は イエス様を信じても、口を開いたら相変わらず同じことばが口から出てきます。


傲慢なことばを平気に口から出して人を傷つけ、人との間に争いを起こします。

その習性を直してないならば、自然と出てきます。


【ヤコブ3章9-10節】

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

いのちの道を、主と共に歩みながら、主が聞いている前で、いつも人の悪口が言えるでしょうか。


広い道を滅びる人と共に歩いているので、平気に他人の悪口、裁くことばが出てきます。

悪い行動も同じパターンだと思います。



昔、韓国に有名な金ユシンという将軍がいました。

ある時、その将軍は馬の上で眠ってしまいました。


目を覚ましてみると 自宅ではなく、キセン(芸者)の家でした。

それでその将軍は、自分が愛した馬の首をはねました。

いつもそこに通っていたので馬が覚えていました。


しかし将軍は馬の行動で、自分の罪の習性の深刻さに気づきました。



滅びに至る道はとても広いです。

明るく、にぎやかに見えます。


多くのサタンの使いたちが、人々の心を惹きつける魅力的なものを並べて肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などを引き寄せています。


しかしその道は、深く入れば入るほど 中は狭く、暗く、そして息苦しくなります。


私たちの古い人は、死の道を歩むことに慣れているので、何も感じずにその道を選び、平気にその道を歩きます。


今は分からなくても後に自分が歩んでいる道が死の道であることに気づくでしょう。

気づかない人も大勢います。



終わりの時代は、教会の中で 広い道を歩く人が狭い道、いのちの道を歩く人に悪口を言い、裁きます。高慢だからです。


いま誰かをさばいている人は、自分の間違いに気づく必要があります。


その人は広い道を歩いています。




広い道から離れ、いのちの道に戻るための解決策




広い道、死の道を歩くことに慣れている自分自身の罪の習性を殺すことです。

そして、いのちの道を歩く新しい習性を身に着けることです。


偉大な使徒・パウロも、自分自身を絶えず訓練して 新しい習性を身に着けました。


【第1コリント9章27節】

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。


狭い道、いのちの道は主が歩んだ道でした。

そしてこのように言われました。


【マタイの福音書16章24節】

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

狭い道は、最初は狭くて険しく見えても、その中は広く、自由があり、平安と喜びがあります。いのちがあります。


クリスチャン生活がしんどいと思う人は、今も自分が肉の中にとどまっているからです。

教会に通いながらも広い道を歩いているからです。


いまも罪の習性に慣れていて、みことばの自由を味わってないからです。

主と共に歩む生活ではなく、形だけの信仰生活をしているからです。


みなさんはどの門を開いて、中に入りますか。
(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?


2018.10.28
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初めの愛を回復するために

テーマは 『 初めの愛を回復するために 』 です

【ヨハネの黙示録2章4-5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその所から取りはずしてしまおう。

信仰生活にも定期的に点検が必要です。


なぜなら、問題があるならば早くそれを直していかないと知らぬ間に重い病気にかかって大変なことになるからです。

放置していいものと放置してはいけないものがあります。


信仰生活が無気力、無感覚になり、喜びも平安もなく、新しく実が結ばれることもなく、信仰生活そのものがしんどく、神との関係も遠くなったような気がするならば、何よりも自分とイエス様との間に問題が生じたことに気付くことです。


信仰生活のほとんどの問題は、自分と主との関係に異変が起きたからです。


それを解決して信仰を立て直していかなければなりません。



今日のことばも 本人が気付いたのではなく、主からの診断でした。


初めの愛から離れただけで 主との関係に大きな問題が生じました。

主が非難したことはそれが罪だからです。


罪じゃないと(神様が)非難することも、悔い改めなさいと言うこともありません。


信仰が回復してほしいので “悔い改めなさい” と言われました。


どのように初めの愛を回復出来るかを今日は学びます。




◎失われた初めの愛を悔い改める




初めの愛がある状態は、すべてにおいて心も思いも尽くして主と共に歩みます。

それが一番の関心で重要なことだからです。


その時は主と共にいることがとても楽しいです。

教会に行くのもとても楽しいですし、聞く耳も開かれています。


しかし、ある時から主を忘れて生活する時間が増え始め、他のことで忙しくなります。


サタンは私たちを誘惑する者ですが、あらゆる方法を使って私たちをイエス様のいない忙しい生活に導きます。


そのことに気付かせず、主との時間を減らしていきます。


心ではイエス様との時間を持つことの大切さを知っていますが、だんだんと他のことで忙しくなり、主のために時間を使わなくなります。
ここから問題が生じます。


【ヨハネの福音書15章6節】

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

イエス様にずっと とどまることが大切なのに、とどまる時間が少なくなっていきます。

他のことに心が取られたり、他のことで忙しくするようにサタンは働きます。


イエス様と分離されていると 不幸になることもよく知っているのに、仕事に縛られたり、時には自分の快楽を求めて主との交わりをおろそかにします。


生活も守っていかないといけないからと人を喜ばせたり、自分を守るためにだんだん主に対して関心が無くなっていきます。

すると主と共に過ごす時間が減るために主を失ってしまいます。


主との間に様々なものが入り込んできます。

すると信仰生活がだんだん義務的になり、つまらなくなり、喜びも無くなってきます。


それを立て直すためには悔い改めが必要です。


どこから落ちたのかを思い出して、要らないものを捨てて時間を作って神の前に出て、その方と会話をしなければなりません。


主と再び愛し合うには ずっと主から目を離さず、会話を増やさないといけないです。


すると私たちの心に主の平安、愛、いのち、力が臨むようになります。

主に対して、教会に対して、とりなしに対して、奉仕に対して無関心になったことは愛で反応していないことです。


初めの愛を回復するためには、必ず “無関心” が罪であることを悟って、無関心を捨て、主を見上げなければなりません。

面と向かってイエス様に敵対するより、主の心を痛めつけるのは主に対する無関心です。


必ず私たちはこの罪を悔い改めないといけないです。

悔い改めないと、たとえ生きているとされても死んだ状態です。

すなわち霊的死です。




◎避けたくなる十字架を負う




イエス様に従いたいならば、弟子になりたいならば、成長したいならば、自分の十字架を負わなければなりません。


イエス様は私たちを愛する心で十字架を負ってカルバリの丘に上って行きました。

その主が私たちに自分の十字架を負ってついて来なさいと言われました。


私たちが十字架を負うならば 主が共に負って下さいます。

イエス様自身が先に十字架を負いましたので、十字架の痛みを知っておられます。


主が共に負って下さらないと、私たちが倒れるので 主が共に負って下さいます。


しかし私たちは十字架を負いたくないので十字架を避けようとします。
これが主への愛が冷めるきっかけになります。


十字架を避けて楽な道を歩みたい欲望が 私たちの中にあります。

この欲望は、主から来たものではなく、サタンから来たものに気付かないといけないです。


イエス様が十字架の死を話した時に、ペテロはすぐさまイエス様を止めました。

「そんなことがあってはいけない」と。

そして十字架を負わないように勧めました。


すると主は「下がれ。サタン。」と厳しく言いました。


今も私たちに十字架を負ってはいけないと誘惑をするのはサタンです。


「楽な道を歩んだら良い。苦難はイヤだろう。重い十字架は負わなくていい。避けたらいい。」と、まるで 私たちの味方のように親切に言います。


これは甘い誘惑です。

主はそれとは違って「自分の十字架を負って私に従いなさい。」と言われました。


十字架を負うことは私たちにとって良いことです。

私たちが地上で主のために十字架を負うと、その十字架は天国への喜びに変わります。


十字架を負うことは永遠の命にかかわる重要なことです。


サタンはそれを知っています。

サタンは、十字架を負いたくないすべての人を、自分の所(地獄)に連れて行きます。


そこには十字架の苦しみと比べられない苦しみが待っています。


サタンは私たちが十字架の道を歩まないように、あらゆる手段を使います。

私たちが永遠の命も永遠の喜びも受けてほしくないからです。


主が私たちの十字架を共に負ってくださるので、私たちはその中で以前は味わったことのない霊の喜びを感じることが出来ます。


主が与えてくださる十字架には、必ず慰めと助けがあります。


その方の愛と助けを信じないと 十字架を負う気がなくなり、十字架が耐えられない苦しみに感じられます。

そうなると本当にみじめな状態になります。


十字架が来た時は「主よ。感謝します。受け入れられるように恵みを下さい。十字架を負って喜んで耐えられるように恵みを与えて下さい。」と祈り求めることです。


苦難は、主と深い交わりが出来るチャンスでもあります。

苦難の時に、私たちは主しか頼れる所がないからです。


十字架の中には豊かな実があり、栄光があります。

十字架の中に勝利と復活があります。


産みの苦しみなしに新しい命の誕生がないのと同じです。


十字架は、私のたましいを この地上から解放して天国に導く有益をもたらします。




◎勝利を与える主の力に頼ること




私たちは自分の怠けさと罪との霊的戦いをしなければなりません。

勝利に戦いはつきものです。


「面倒くさいから今のままでいいんじゃないか?」と思う人に勝利はないです。


このままではいけないと思いながらも 悩むだけで何もせず、後回しにする人は どんどん信仰が弱くなり、無気力になっていきます。
そしてサタンに支配されます。


イエス様もサタンとの激しい戦いをして勝利しました。


ですから、私たちにも勝利出来る力を与えて下さいます。

力を与えたいと願っておられます。


私たちが毎日主の名を呼び、主に頼るならば、その力を得ることが出来ます。


主は私たちを贖う方、助ける方、力を与える方です。

それに対する信頼が必要です。


私たちが主の中にとどまり、主の弟子になるならば、私たちの人生の中に命と豊かな実を結ぶように働いて下さいます。


勝利は主の中にとどまる時だけです。

イエス様は何よりも私たちが主と共にいることを願っています。

そして私たちの愛を願っています。


弟子たちは自分だけの力では勝利することは出来ませんでした。


しかし一日中イエス様のことを考え、主を愛し、主の愛から離れなかったので、自分たちの心を守ることが出来ましたし、信仰を守ることも出来、主を裏切ることもありませんでした。


自分が毎日、主の中にとどまっているのか、主を愛しているのか、主のために犠牲を払う準備が出来ているのか、負うべき十字架を負っているのか、主に対して関心があるのかなど点検してみて下さい。


そして一つ一つ悔い改めながら立て直して下さい。

私たちが自分の中にある問題点に気付いて、主との静かな時間の中で主の前に出て行くならば解決されていきます。

主の前に出ない限り、ますます状態は悪くなっていきます。


主のことばのようにやってみて下さい。
(・◇・)ゞ

2016.8.28
聖日礼拝メッセージ

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失敗しない信仰生活

テーマは 『 失敗しない信仰生活 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

今回のメッセージタイトルは「失敗しない信仰生活」ですが、なぜこのようなタイトルにしたかと言うと、「信仰生活に失敗も成功もない」と思っている人が多いからです。


たとえば日本では信仰を持っていない人でも、“死んだらみんな天国” という発想がありますね。

ですから 信仰を持っている人は、さらに自分は天国は間違いないと確信を持っているので、果たしてそうなのか?ということを確認したいと思います。


あなたの信仰生活は大丈夫ですか?と聞きたいです。


1節に、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」と ありますが、彼らは誰でしょうか。そしてなぜ私たちを取り巻いているのですか。

彼らは私たちの何を見ているのでしょうか?


多くの証人たちとは、へブル11章に書かれている信仰の先輩たちで、キリストの証人としての働きを全うした人たちです。

すなわち神に勝利者として認められ、天の御国に入れられた人たちです。

信仰を全う出来なかった人たちはその中にはいませんでした。


天にいる彼らは 主の恵みによって、私たちのことを天から観察しています。

彼らは信仰によって生きている後輩たちを応援するために、エールを送っています。


彼らが見ているのは、私たちの信仰の競争です。


大勢が参加する競走を見ると、最後まで全うする人、途中で棄権する人、脱落する人が必ず出てきます。

棄権や脱落する人は、信仰の競争を全う出来ず失敗した姿です。

誰がそこに入るかは分かりませんが、必ずいます。






私たちが棄権や脱落をしないためには、どのようなことに気をつけなければならないでしょうか?


まずは、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てることです。


いっさいの重荷を捨てることは、信仰生活を妨げるすべてのものを捨てる事であり、まつわりつく罪を捨てることは、徹底的に罪を悔い改めることです。


これをやらないと、その信仰生活は必ず失敗に終わります。

教会に通うだけで何とか済ませるようなことではないです。


信仰の競走が何年、何十年前にスタートしたのに、いつも同じ状態ならば、未だにその人は この2つに係わっています。


そのような人は、信仰の妨げになるものがあっても そのままにしていますし、罪に対しても甘い考えを持っています。

この2つを持っている人は、真の信仰とは何か?そして御言葉通りに生きることが どのようなことであるのかを知らない人です。


それは怠けた姿であり、やる気がまったく見えない姿です。

そして不信仰で 形式的に信仰生活をしているので、神はその人を見て “怠けた悪いしもべ” と言います。


みなさんはいつも罪を捨てるための悔い改めをしていますか?


現代教会の大きな問題は、罪と悔い改めのことを叫ばす、信徒の耳に良いことばや世の価値観と妥協するメッセージだけを伝えることです。


牧師が神を意識せず、信徒の表情を意識するならば 罪と悔い改めのことは語りません。

みことばを正しく教えないので、信徒が罪の意識も持たず、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。

これはとても危険です。


罪を捨てないで信仰を全うすることができるでしょうか?

罪を悔い改めないと、その人は罪人の姿のままです。


罪を洗う主の血潮は 悔い改める時に注がれますが、悔い改めないならば 罪は洗われることなく、そのまま残ってしまいます。


全身汚れた姿で主の前に立つことが出来ますか?


その姿が天国にふさわしくない姿であることは自分でも分かると思います。

罪を捨てず、罪を犯し続ける姿を堕落した姿と言います。

その人たちに対することばがあります。



【へブル6章6節】

しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

例えば ずっと盗みの罪を犯し続けているならば、その人はイエス様の手に釘を打ち続けているのです。

また 思いの中で罪を犯し続けているならば、主の頭に いばらの冠を載せ続けているのです。


そうしながらも、いたずらに主の名を呼ぶことはあってはならないことです。


そしてどんなに辛くても信仰の競走は忍耐をもって走り続けることです。


イエス様は自分の十字架を最後まで負いました。

その十字架は、罪を犯したから負った十字架ではなく、悪い人たちが負わせた十字架でした。

正しいことをしたのに迫害されて負わせられた十字架でした。


主が最初から私たちに語った言葉がありました。



【マタイの福音書16章24節】

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

この十字架は自分が犯した罪によって負う十字架ではなく、信仰のために負う十字架、悪い者から受ける迫害の十字架です。


この場合は忍耐しながら最後まで十字架を負ったイエス様のように十字架を負わないといけないです。


忍耐に対して次のように言われました。



【ヤコブ1章2-4節】

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

この忍耐がないと試練の時に倒れてしまいます。


忍耐のために私たちは、私たちを取り巻いて応援する証人たちを見、そして励ましを受けることです。
そうすると、力が得られます。


【ヤコブ5章10-11節】

苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

試練の中でも忍耐して信仰を守り、神のことばに従順した人が証人であり、その人たちが信仰を全うしました。


祝福は受け入れても、苦難を拒む人は信仰の失敗者になります。






失敗しない信仰生活のために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てること、そして忍耐することも重要でありますが、もっとも大切なことはイエス様から目を離さないことだと教えています。


信仰そのものがイエス様を信じることなので、イエス様を見ることは当然でありますね。


しかし見ていない人が多くいます。目を違う所に向けています。

これが失敗の原因になります。


信仰生活において、生きる目的や 目指す目標も すべてイエス・キリストに焦点を合わせないと、競走の道から外れてしまいます。


イエス・キリストに焦点を合わせないすべてのものは間違えています。


信仰生活も、天国だけに目標を置くならば、それも間違いです。

教会を大きくしたくて、教会成長だけに目標を置くならばそれも間違いです。


目標はあくまでも、“イエス・キリスト” でなければならないです。


イエス・キリストに焦点を合わせて信仰生活をするならば、天国には間違いなく入れますし、教会も成長していきます。


証人たちはイエス様から目を離さなかったので、試練の中でも忍耐し信仰を全うすることが出来ました。

イエス様の十字架の勝利を見たので自分たちの十字架を最後まで負うことが出来、そしてイエス様が受けた栄光を見たので、喜びながら競走を走り続けることが出来ました。


イエス様だけを求め、見つめ、思う人は つまずくことも競走にやぶれることも脱落することも失敗することもありません。

しかし目を離してしまうと、その反対のことが起こります。


イエス様から目を離さず、すべての目標もイエス様に定め、すべての焦点もイエス様に合わせましょう。

これ以外に失敗しない方法はありません。
v( ̄∇ ̄)v

2015.10.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖書に出てくる地域教会①

テーマは 『  聖書に出てくる地域教会① 』 です

【使徒の働き8章1節】

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

聖書に出てくる地域教会に対して、今回と次回の2回にわたってメッセージを伝えたいと思います。


ヨハネの黙示録に出てくるアジアの七つの教会に対してはよく聞きますが、それ以外の教会もありますので、今回は七つの教会以外の教会はどのような教会であったのかをみて、自分たちの教会も良い所は学びたいと思います。


イギリスに留学中の韓国留学生たちが、宣教師と教会を探していました。

イギリスには古くから大きな教会がたくさんありますが、
彼らが使わない時間に教会を借りようと思い、ロンドンにある多くの教会を訪ねました。


すると、すべての教会の責任者たちから まず最初に聞かれたことは、“賃貸料としていくら支払うのか?”でした。


なぜ皆が同じ事を聞くのか、だんだんと不思議な気がして来ました。

どうして教会がお金のことを先に聞くのかと思い、その理由を聞きました。


そうしたら、どこの教会も貧しいので冷暖房を使うことが難しく、もし冷暖房を使用するならお金が必要である為、お金のことを先に聞いたと言われました。


教会の建物は立派ですが、信徒は年寄りばかりで 前から2列目まで人が座り、その後ろは空席状態でした。

イギリスは18世紀から19世紀にかけて信徒が多く、世界的に有名な説教者たちも多かったです。

スポルジョンの教会には6千人の座席があり、世界中に宣教師たちも送りました。


しかし、今はどこの教会も人が少ないので、以前のような輝きは完全に消えてしまいました。



反対にイスラム教を信じる人がすごく増えて、教会の建物までイスラム教が買い占め、建物はそのままで、十字架だけを取り除き、そこにイスラム教のシンボルである三日月を飾っています。

三日月は発展を意味します。


モスクに違和感を持っているヨーロッパ人が多いので、教会を買ってそのようにすると 周りの人がモスクだと気付かず、教会だと思っているようです。


イスラム教徒は世界で4人に1人です。
日本でも外国人を含めて11万人のイスラム教徒がいます。お金の力でどんどん浸透しています。


このような時代ですので、教会がしっかりしないと 後でとんでもないことが現実に起こります。


リバイバルした時代の教会の姿が聖書に出てくるので、それを学んで初心に戻らないと、すべての教会が衰退すると思います。


信徒の数が増えるのもリバイバルですが、霊的に強くならないと サタンやこの世に潰されてしまいます。


ですから、その時代の教会の姿をしっかりと学び、受け入れるべきものは受け入れたいです。
今、とても弱さを感じていますので、教会が変わって欲しいと思います。


これから初代教会の姿をみていきます。




エルサレム教会




エルサレム教会は聖霊降臨の後に最初に出来た教会で、霊的に一番強い教会でした。

教会の指導者たちが主の弟子たちでした。


【使徒の働き2章40-47節】

ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。

信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

特徴としては、聖霊の働きが活発で 多くの奇跡が起きたこと、そして主のことばに対する全き従順、信徒たちの深い交わり、霊的祝福を何よりも求めた教会でした。


そして評判の良い教会でしたので、毎日救われる人がたくさんいて、爆発的なリバイバルがありました。

しかしこのような状態は長く続きませんでした。

サタンによる激しい迫害が始まり、それによって使徒たち以外はエルサレムに留まることが出来ず、諸地方に散らされていきました。


散らされた人たちは、ただ逃げたのではなく、みことばを宣べながら巡り歩きました。

そして彼らが行く町に奇跡が起こり、大きな喜びが起こりました。


しかし迫害によって使徒ヤコブが殉教し、他の使徒たちも苦難を受け、多くの信徒たちも苦難や殉教をしましたが、その中でも彼らは喜んでいました。


最強の教会でした。


それが出来たのは、信徒たちが聖霊に満たされ、みことばに満たされ、伝道に熱い思いを持っており、神の国とその義とを第一に求めたからです。


これは心を神に向ける時に可能ですので、私たちが学ぶべき姿です。


形式的な信仰生活では、迫害にすぐ倒されてしまいます。

そのような信仰生活では聖霊に満たされることも、従順することも、使命に燃えることも出来ません。


私たちにはこれが足りないと思います。
形式的で生ぬるい信仰がとても多いので、悔い改めが必要です。




アンテオケ教会




次はアンテオケ教会の姿です。


【使徒の働き11章25-26節】

バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、

彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

アンテオケはローマ帝國で、ローマ、アレクサンドリアに続いて 3番目に大きな都市で人口は50万人いました。


アンテオケ教会に初めて異邦人伝道の基地が設置され、バルナバとサウロ(=パウロ)がそこで人々を教えました。

ここは異邦人教会の中心地であり、宣教基地でした。


この時、初めてキリスト者と呼ばれたということは、キリスト教がユダヤ教とは完全に区別された新しい宗教であると認められたことを意味します。

それまでユダヤ人は、キリストを信じる者を “ナザレ人”や“ガリラヤ人”と呼んでいました。


アンテオケ教会は、断食と祈りをしながら聖霊の導きを受けて、正式にバルナバとサウロを宣教師として派遣しました。

そしてこの教会は 愛がある教会で、ユダヤにいる信徒たちがききんのために困っている知らせを聞くと、それぞれの力に応じて救援物資を送りました。


アンテオケ教会は霊的に成長し、数においても大きく成長した教会でした。

教えられたみことばをよく守り、よく祈り、愛の労苦があったのでリバイバルしました。


数は多くても霊的に弱い教会も多いですが、アンテオケ教会はバランスの取れた教会でした。




カイザリヤ教会




カイザリヤ教会に対しては知らない人も多いと思います。

カイザリヤは地中海に面した所にありますが、ここはエルサレム教会の執事であったピリポの故郷でした。


ピリポはエルサレム教会で最初に選ばれた7人執事の1人でした。

その時に選ばれた執事の条件は、「御霊と信仰と知恵に満ち、評判が良いこと」でしたが、7人の中で一番活躍したのはピリポでした。


彼の活躍は使徒の働き8章に書かれていますが、たくさんの奇跡を行い、誰よりも伝道に熱心で、至る所で福音を伝えました。


【使徒の働き8章40節】

それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

自分の故郷へ行って教会を設立しました。

私たちもこの姿勢を学ぶべきです。
直接私たちが行けないならば、自分の故郷に教会が出来るように祈ることです。


日本人はキリスト教に対して興味がなく、無関心な人がとても多いです。


しかしキリストを信じている人は、その人たちに関心を持って自分たちの故郷にも教会が出来るように祈ることです。


教会がないと、たとえ救われたとしても礼拝する場所がないので困ります。

私たちはピリポのように、執事でも このような立派な働きが出来ることを知って挑戦することです。


牧師だけが教会を建てるのではなく、信徒たちも出来ます。
熱心に伝道したら教会が建ちます。


神戸教会は魂が救われてから出来た教会でしたし、私も信徒の時に教会を開拓しました。


熱心に伝道する信徒がいると、教会はリバイバルしますし、伝道しないとリバイバルはないです。


伝道して下さい。たましいにみことばを伝えて下さい。
そうすると聖霊が働きます。




ローマ教会




伝承によれば、最初 ローマに福音を伝えたのは、バルナバと言われています。


この教会は、ローマ帝國の最大都市であるローマに出来た教会でした。

人口が80万人もいる大きな都市でした。

皇帝が存在し、多くの神殿がありましたし、帝國らしいあらゆる設備が整った大都会でした。


ローマ教会の構成は、ユダヤ人と異邦人が混ざっていましたが、異邦人の方が多かったです。


ユダヤ人と異邦人が一緒にいることで、教会の中には様々な摩擦がありました。

間違えた律法主義信仰を持ったユダヤ人と、それとは反対のキリストにある自由を強調する異邦人の間で意見の衝突がありました。


ローマ書は キリスト教の教理が一番書かれていますが、それは教会の問題点を解決するためにパウロが、救いや信仰、律法、キリスト者の生活全般に対して詳しく教えました。


ローマ教会だけではなく、異邦人がいる教会では同じ問題がありましたので、代表的存在であるローマ教会に教理を伝えました。

ローマ教会は地理的な面もありますが、異邦人教会の代表的な存在になっていきました。


ネロ皇帝は自分でローマ市に火をつけておきながら、その犯人がキリスト教徒であるとして大迫害を加え、焼き殺しました。

また何人かの皇帝によって激しい迫害があり、信徒たちは地下に潜るようになりましたし、その迫害の中で多くのキリスト教徒が殉教し、ペテロもパウロも殉教しました。


それでも信徒たちは信仰を捨てることをせず、命を懸けました。

やがてキリスト教はローマ帝國で認められるようになりました。


ローマ教会をカトリック教会の始まりと思っている人がいますが、それは大きな間違いです。
なぜならば、カトリック教会に初代ローマ教会のような姿はありません。

(初代教会は)ペテロを法王にしたこともないですし、巨大な権力も富も持ちませんでした。


ローマ教会の信徒たちは、信仰のために貧しくなり、権力にも妥協せず、迫害され殺されていきました。

それはカトリック教会とはまったく違う姿でした。似ても似つかない姿です。






これからの時代は、世の権力と富と他の宗教との戦いが激しくなる時代になります。


すでに韓国でもイスラム教が学校の中でも、色々なところでぶつかっています。

とても怖い時代になってきました。


私たちは、聖書にある教会が それらの戦いの中で生き残ったことを見ながら、信仰を強め、聖霊に満たされ、みことばに堅く立って、ますます愛し合い、助け合わないと教会はだんだん衰退して消えていきます。


「この教会が潰れたら、他の教会に行けば良い」と思うのは、神も教会をも愛していない姿です。


ますます主のために良い働きが出来る教会になるように、力を合わせないといけないです。


信徒が教会に無関心であるならば、未信者よりも悪い姿です。


初代教会はとても霊的に強い教会で、神の言葉に対しても よく聞き従順していました。
そして迫害にもよく耐えました。


主の再臨が近づいているので、私たちは目を覚まして、神の働きにも力を入れて、教会を強め、魂に対しても関心を持ってみことばを伝え、それぞれが出来ることをしていきましょう。


この世の流れがとても不気味です。
イスラム勢力は拡大してきています。


クリスチャンとして生きにくい時代になっています。

生ぬるい教会では飲み込まれてしまいます。


生ぬるい信仰では妥協して名ばかりの信仰になり、迫害があると“主を知らない”と言います。


必ずその時代が来ますので、危機感をもって信仰生活をしましょう。
(・◇・)ゞ


2015.7.12
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主の怒りの日にかくまわれるために

テーマは 『 主の怒りの日にかくまわれるために 』 です

【ゼパニヤ書2章1-3節】

恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。

昼間、吹き散らされるもみがらのように、 あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。

主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。

聖書の中には、主の怒りの日に対して多くのことを語っておられます。
その日は“主のさばきの日”です。

その日には、神のみこころに逆らって悪を行うすべての者にとって滅びの日であり、神は厳しい さばき主となって悪に対して正しいさばきを行います。


神様を信じる人は、「私とは関係ありません。私はすでに救われているし、神は愛の神なので私がさばかれることはありません。」と言います。

しかし自分たちの生活が神様の目がどのように映っているかを聖徒たちは考えなければなりません。


「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と書かれているように、父のみこころを行ないながら生きているのかを真剣に考えないといけないです。

今、私たちはこの時代が目まぐるしく変わって行くことを日々 実感しています。
しかも、それが良い方向ではなく、不安定な方向に向かっている事を見ています。


とんでもないことをする集団が世界のあちらこちらから出て、世界中に不安をもたらしています。

しかし、これらはすべて聖書の預言通りです。


終わりの時代は困難な時代になるので、たくさんの災いがあり、滅ぼされていくことを、罪を罪とも思わずに生きているすべての人類に対して、主の怒りが注がれる日にどのようにしたら怒りを受けずにかくまわれることが出来るかを主が教えて下さいます。




1.世の罪を離れて、主の前に出る信仰生活をしなければなりません




1節の「恥知らずの国民よ。」とは、悔い改めることを知らない国民のことを指しており、高ぶっていて 横柄でかたくなな国民という意味です。


彼らの心はこの世にあり、この世の流れに従って生きながら、神を恐れることもなく、罪を犯しても恥を知らないかたくなな心になっています。

ゼパニヤ預言者は、その人たちに向け、神のさばきの日が近づいたから早く罪から離れて、主に立ち返りなさいと叫びました。


「こぞって集まれ。集まれ。」ということばは、悔い改めない国民に向かって叫ぶ「悔い改めへの招待」の意味がありますし、自分の思いと世のすべての欲を神のことばに従わせ、神に立ち返りなさいという意味もあります。

聖徒の生活は世に向かって歩む生活ではなく、必ず神に向かって歩む生活でなければなりません。


神に背を向けるのではなく、世に背を向け、罪から離れ、真理である主に立ち返り、いのちの主と歩む生活へと変えなければなりません。


そうしないと、世に神の怒りがくだされる時に、世と共にその怒りを自分自身が受けなければなりません。


イエス様も人々に最初に語ったことばが「悔い改めなさい」でした。
神の前に出て、自分たちが犯した罪を悔い改めて日々自分を聖くしていくのが信仰生活です。


【詩篇32篇3-5節】

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、 私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。 「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

このように、悔い改めは人の前ではなく、主の前に出て隠さず自分の罪を言い表すことです。

心をきよくして主に従って歩むのが信仰生活です。




2.神の義を慕い求めながら、みことばに従う生活をしなければなりません




人間は生まれながらに罪の性質がありますし、弱い存在です。
堅く決心しても長続きしないですし、また一生懸命努力をしても神様の義に達することができません。


そして人間が考えることも根本的に純粋ではありません。


【エレミヤ書17章9節】

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

このみことばは まったくその通りだといつも実感しています。

ですから人間は、私たちを義なる者にしてくださる神様を求めるしかないですし、神の義によって はじめて神様が願う聖徒の生活を生きることができます。


人間が造り出す義、それ自体は人間をある程度 良い人間に、そして敬虔な生活へと 少しは益をもたらしますが、そのことが人間を罪から救い出し、いのちを与えることは有り得ないです。

神の義は、私たちをいのちの道に導く救いです。


【イザヤ書61章10節】

わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、 花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。


【ローマ4章6-8節】

ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

「不法を赦され、 罪をおおわれた人たちは、幸いである。

主が罪を認めない人は幸いである。」

聖徒の生活は、神の義を求めながら、その義を守るために従順する姿が伴わなければなりません。




3.神を見上げ、神にたよる謙遜な生活をしなければなりません




聖徒の生活の基準は、神のことばです。
それを守り行うのが聖徒の生活です。それが謙遜な態度です。


人間の中には常に高ぶりの心があります。
偉くもない自分を偉い者と思い、知恵もないのに、自分の知恵を誇ります。

他人の話も神のことばも耳に入れず、自分の思いのままにしたいという高慢さがあります。

このような心のままでは、私たちは神に頼ることをしませんし、みことばに従うこともできません。


ですから、日々 自分を頼らず、神の恵みを求めながら、神に頼らなければなりません。

私たちが救われたのも、すべて主の恵みであり、いま生かされているのも主の恵みであるので、私たちは何も誇るものがありません。


【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

聖徒たちは救ってくださった神の恵みを忘れず、いつも感謝しながら神のことばを守りながら、神の心を喜ばせることが優先です。

聖徒たちの生活は、ますます聖くなっていかなければなりません。


罪人であった私たちにあわれみをかけ、罪を赦してくださいました。

それだけではなく、神の子どもになる特権も与えて下さいました。

その大きな恵みを受けた者たちが、平気に罪を犯しながら、神に逆らい続けるならば、神の怒りが下る時に誰がその人を守ることができますか。


その怒りから逃れることは出来ません。
次のことばも読みましょう。


【Ⅰペテロ4章17-19節】

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。

ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

神の前にへりくだり、神の義を追い求める者に対しては、神ご自身が主の怒りの日に彼らをかくまってくださいます。

その日は、彼らには滅びの日ではなく、救いの日になります。


罪と悪がますます世にあふれるようになってきました。


目をさまして神のことばに聞き従いながら、みこころを守る聖徒になりましょう。
(´∀`*)

2015.1.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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霊的不感症について

テーマは 『 霊的不感症 』 です

【ヨハネの黙示録3章14ー17節】

また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、 乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』

今回は霊的不感症について語りたいと思います。


多くのクリスチャンたちを見て感じることがあります。
もちろん自身も含めてですが、いかに霊的不感症が多いでしょうか。

神様は今日 私たちがあまり気付いていない、この霊的不感症について悟ることを願っています。


皆さんもよく知っているように、今年 韓国では船の事故や、他にも様々な事故が起きました。

そこでよく言われたのが、危機管理が出来ていない“安全不感症”でした。


クリスチャンはどうでしょうか?

霊的なことにおいて しっかりと危機管理が出来ているでしょうか?
それとも霊的安全不感症になっていないでしょうか?


日本や韓国でも霊的安全不感症にかかっている人はとても多いです。


今回、私は神様の臨在を強く感じた1つの出来事がありました。

それによって さらに霊的不感症の問題の重要さを感じました。


私は韓国に行く前に教会で3日間断食をしました。
その目的は悔い改めでした。自分のこと、韓国や日本のこと、また世界のことを想いながら悔い改めをしました。

3日間祈りましたが、腹の底からの深い祈りにはなりませんでした。


しかし私が韓国行きの飛行機に乗り、窓から韓国の地を見た時に、突然涙が出てきて、激しい悔い改めが始まり深いうめきと共に涙と鼻水が出てきました。


それは自分の思いからではなく、神様の悲しみでもありました。

その思いが伝わってきて、神様に泣きながら悔い改めました。


「この国を赦してください。教会や信徒たちの罪を赦してください」と。
仁川空港に着くまで ずっと泣きながら悔い改めました。


隣の席の人が分からないように顔を隠しながら泣きました。
そのような経験は初めてでした。今まで泣きながら行ったことはありませんでした。

災いが迫って来ているのに、そんなことも知らないで、のほほんと生きている人たちを見て、神様は嘆き悲しんでいました。


韓国には教会がたくさんあり、クリスチャンもとても多いです。昔は貧しい国でした。

アメリカから宣教師たちが来て福音を伝えました。迫害され殺された者も多かったです。

日本からの独立運動に参加した人たちの中にもクリスチャンが多く、激しい拷問を受けて獄中で死んだ者もいました。


神様は韓国を祝福して豊かになり、教会も大きくなり、クリスチャンもたくさん増えました。


しかし、今はどのような状態でしょうか?

国の中は不正と腐敗、国だけではなく、多くの教会と信徒たちが堕落してしまいました。
背教が起こっており、形だけの信仰が増えました。

この姿はイザヤ書に出てくるような姿です。


【イザヤ書1章2節】

子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。

祝福してくださった神様から離れ、自分勝手な道を進んでいます。

クリスチャンたちは礼拝に参加することや什一献金を捧げるなど、教会に通うだけで満足をし、それだけで間違いなく天国へ行けると自信を持っています。
そして「豊かになった。乏しいことはない。」と言っています。

しかし、その信仰生活はなまぬるい信仰生活であります。


昔は霊的であった教会や信徒たちが、今は肉的に変わっています。

これはラオデキヤ教会の姿と同じです。自分たちの状態を錯覚しています。

ラオデキヤ教会は豊かな教会でしたので、彼らは「私たちは平和だ。何も不足するものはない。乏しいものはない。」と言っていました。

霊的にもそうだと思っていました。しかし実際にはそうではなく、霊的感覚が錯覚していました。


もし彼らが本当に霊的に豊かな者であるならば、神様は何も言うことがないです。


しかし、彼らが正しくないので問題であります。

「私は救われているから大丈夫。神様が私に厳しいことを言わないから大丈夫。別に問題もないから大丈夫。」
「毎週教会もちゃんと行っているから大丈夫。聖書の知識もたくさん持っているから何も問題はない。私は必ず天国に入る。」

神様がそうだと言ってもいないのに、このように感じ方が違います。


神様は「あなたの感じ方は間違えている。あなたは霊的不感症にかかっているから何も感じないのだ。あなたの霊的状態をあなたは知らない。あなたの霊の状態は惨めだ。」と おっしゃいます。


惨めとは、何もなく欠乏しています。“富んでいる”どころではなく、惨めで哀れだと主はおっしゃいます。

霊的にも人格においても真理においても彼らは惨めでした。
真理に従うどころか偽りに従っていました。

彼らは偽りの道を歩んでいるのに、自分たちは真理の道をまっすぐに歩んでいると確信をもって信じていました。

しかし神様が見た時に、彼らの信仰状態はなまぬるい状態でした。


なまぬるいということは、信仰が曖昧な状態です。

神様に従わないわけではなく、神様を否定するわけでもないですが、実際の生活では神様を否定しています。


「神様に従います。」と言いながら、よく見ると世に従っています。(神様と世を)行ったり来たりしています。


このような信仰生活を神様は喜ぶでしょうか。

生活が常に迷っていて、どっちつかずの生活はなまぬるい状態です。


救いと天国を求めながらも、世を愛する心も捨てきれずにいます。
このようなラオデキヤ教会の姿は、今も教会で見られています。

このようななまぬるい信仰で、終わりの時代に勝利することが出来るでしょうか?


日本は地震や津波・噴火で終わりの時代に災いが来ますが、韓国は戦争によって災いが来ます。

今回、私はそのことを韓国に行った時に家族や友達などに伝えましたが、皆まったく危機感がありませんでした。


なぜならば、教会でそのようなメッセージがほとんどされていないからです。とても悲しかったです。“どうして?”と思いました。

本来ならば危機感をもって悔い改めながら生活していかなければならないのに、牧師がそのことを語りません。

余計なことを言うと、信徒たちが不安になるし、混乱するからと。


信徒も「そんなことを言わないでください。戦争が起こると言うなら土地代が下がるので困ります。」と言います。

そして「教会がこんなにたくさんあるし、祈っているから神様が私たちを見捨てることはしないでしょう。きっと大丈夫です。」と心配もせず、本当に霊的不感症になってしまいました。

そして「何を食べるか、何を飲もうか、どこに遊びに行こうか」と、なまぬるい信仰生活を送りながら、不安も感じていない様子でした。


戦いが迫って来るのに何も感じていないのでびっくりしました。

語るべき牧者たちが語らないのが一番の問題です。







【エレミヤ書50章6節】

わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。

本来なら聖徒たちを みことばの道、神様へと導かなければならないですが、このような牧者は、牧者の服を着てイエス様のことを語り、正直で聖なる者に見えますが、聖徒たちを迷いの道(世の幸せ、世の成功、出世の道)につれて行きます。


その道は滅びの道です。信徒たちも惑わされてその道に入って牧者について行きます。


終わりの時にはこのような牧者がたくさん出てきます。

なまぬるい信仰の人は霊的鈍感なので、惑わされて このような牧者について行きます。

そしてその牧者も霊的に盲目な者であり、それについて行く信徒たちも盲目であります。

両者とも行ってはならない道に入り滅びていきます。


私たちが霊的不感症であるならば、分別も出来ないのでこういう牧者について行きます。
そして問題がないと思いながら信仰生活をしていきます。


今は終わりの時代です。
足元がだんだん危なくなってきました。


終わりの時に、終わりの時代について語った主のことばを教会では、はっきりと語らなければならないですし、聖徒たちもそのメッセージを聞きたくないと 思うのではなく、聞かなければなりません。

霊的不感症は命取りになります。


イエス様が終わりの時代には次のようなことが起こると語りました。


【マタイの福音書24章21節】

そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。

これはイエス様が語ったことばですから、必ず起こることです。

これからの時代が平和になることはありません。
今まで経験したこともない苦難が来ます。これは偽りではなく真実です。


神様は前もって語った後に事を行いました。それは今も同じです。







ソドムとゴモラの町に対して さばきを下す時にも、アブラハムに話しました。

アブラハムは次のように神様に言いました。


【創世記18章23-24節】

あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

もしや、その町の中に五十人の正しい者をがいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。

アブラハムの考えでは、ソドムの町に正しい者が50人はいると思いました。

全員が悪いとは思っていませんでした。
しかし、よくよく考えると(正しい者が50人も)いないのではないかと思ったので、次には45人、さらに40人、終いには10人と言いましたが、ソドムの町には10人も正しい者がいませんでした。


ロトとその家族6人がいましたが、2人の婿はソドムが滅ぼされるという話を冗談だと思って受け入れず信じませんでした。

そしてロトの妻も町を出ましたが、後ろを振り返ったので、その場で塩の柱になりました。
彼女も神のことばを信じませんでした。

ソドムから救い出された者は たったの3人だけでした。


ノアの洪水の時は、いくらノアが民たちに警告をしても誰もその話を信じず、ノアの家族だけが洪水の時に救い出されました。

滅ぼされたすべての人たちに共通するものは、霊的不感症の姿です。

いくら警告のことばを聞いても「大丈夫、安全だよ。平和だからそんなことが起こるはずがない。」と言って、普段通りの目先のことしか関心がありませんでした。


今、自分たちはどうでしょうか?

警告のことばに反応していますか?霊的に危機感を感じていますか?


神様は霊的不感症を見て、次のように語っておられます。


【エレミヤ書5章30-31節】

恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。

預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。 その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。」

霊的不感症にかかってなまぬるい信仰生活をしていくなら、終わりが来た時にどうするつもりですか?

主の再臨の時に、悲しみの涙を流さないために、また不幸な者とならないために 私たちは目を覚まして真理の道を歩まなければなりません。


危機管理もせず、何もしていないならば、苦難がきた時にどうするつもりでしょうか?

その時に慌てても もう遅いです。その苦難に耐えることが出来ません。


私たちは自分にとって都合の良いことば、耳に良いことばを聞くのではなく、この時代に必要なことばに耳を傾けなければなりません。

そしてしっかりと危機管理をして霊的に目を覚まさなければいけません。
(((( ;゚д゚)))


【エレミヤ書2章31節】

あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。

2014.11.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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