テーマは『 キリストを見習う 』です。

【Ⅰヨハネ2章6節】

立派な親としての姿を見せると、子供の人格も立派に育ちます。
親が悪い姿ばかり見せていると、子供にとって身近な親の姿を真似します。
そして親が子供の姿を見て責めることになります。
しかし子供にとっては「お父さんやお母さんはどうなんだ?」と思います。

教会にいる時も、人を見てつまずく人がいます。
「あの人がいるから教会が嫌い」
しかし人間で完全な人はいません。イエス様だけが完全であり、模範になるお方です。

【ヘブル12章2節】

神様(イエス様)だけを見なさい。そうすると、つまずかないしサタンにも騙されません。
そして目標を見失うこともありません。

信仰成長をしたいのなら、イエス様を見て学びましょう。
もし、イエス様ではなくて他の人を見るならば、その人のようになります。
私たちは見るものに影響されてしまいます。

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≪イエス様のどこを見習ったら良いでしょうか。4つに分けます。≫

― ①自己否定する姿 ―

【ルカ9章23節】

自分を捨てること=自分を否定すること
神様のみこころに従います。神様の思いと違う部分は捨てます。
十字架を負いたくないと思うのは自分を捨てていないということです。
捨てないと、大きなことは出来ないです。十字架が重たく感じます。

イエス様が存在しない十字架・・・(それは簡単に作ることができます)
このような十字架は、「好きなように生きたい」、「刑罰の汚れた十字架」です。

【ルカ9章24節】

プライド、他人を許さない、愛さない・・・これらを死んでも出来ない(捨てられない)と思うこと。

日々 十字架を負い、必ず自分を否定する十字架を背負いなさい。
せっかくイエス様が私を召してくださったのに、ちょっと覗いて、「十字架はイヤ!だけど祝福は欲しい!」
と思うならイエス様から離れていきます。
ユダは権力が欲しくて、それを捨てられませんでした。そして自ら命を絶ちました。
他の弟子はイエス様について行き、サタンに勝利しました。

ー②「愛」の模範ー

自分の為に祈り、愛してくれる人を受け入れるのは出来ることでありますが、
しかし、自分のことを否定する人のために祈ることができるのは「愛」です。
イエス様は憎しみを出したことがないです。

【ローマ5章8節】

人間の愛は「自己愛」「自己中心が強い」「愛を押しつける」「見返りを求める」
これらは愛ではないです。
神様が言う愛は違います。

【ヨハネ13章34節】、【Ⅰコリント13章4-7節】

自分の言う愛と比べてみてください。どこに当てはまりますか?
「~をしてくれ。」 愛は強要するものではないです。「物」ではありません。
イエス様は「与える愛」であります。聖書に書かれている人々はイエス様から全て与えられて、
触れられてだんたんと変わっていきました。(初めからイエス様を愛してはいませんでした。)

― ③「許し」の模範 ―

許しは1人歩きができないです。これには共に「愛」が必要です。
「許し」と「愛」は連れ関係です。

イエス様は罪を憎んでも、人は愛しておられました。
私たちは罪を徹底的に憎んで良いです。罪に対して怒りを持つべきですが、
犯した人に対しては「許しなさい」とおっしゃっておられます。
その人は罪のことを知らないから罪を犯しています。憐れんでください。
「父よ、許してください。」

私たちは罪を憎まないですが、人に対して憎みます。そしてその人を攻撃します。
≪そうではないだろう。≫とイエス様は見ておられます。

「サタンよ、出て行け」という祈りは、サタンを見て 憎んで追い出しています。
その人の中で働くサタン。
「罪」と「人」を切り離し、人を攻撃し責めるのではないです。
いつまでもその事を追いかけず、「もう時効にしよう」と愛の心で許すと良いです。
「許します」という言葉を使いましょう。

相手が悪いと思っていると同時に、私自身を「義人」だと思っています。
私に言わないだけで、私も誰かを傷つけています。
私も知らずに罪を犯している同じような者です。→解放されます。

― ④「従順」の模範 ―

言われた通りにすると命の冠を受けます。
最後まで従順した=忠実

【ヨハネの黙示録2章10節】

イエス様は①~④を初めから終わりまで完璧でした。
最後まで従順して走りぬいた時に命の冠が与えられます。
初めだけ従順でも、最後 みこころに従わないのなら、神様は以前の仕えていたことを思い出されません。

【Ⅰペテロ3章22節】、【ヨハネ15章10節】

何を目標にするべきなのか。―― それはイエス様であります。
人は1日で成長はしません。ちょっとずつ成長します。根をおろしながら、神様の言葉と姿を見て、
そのようになりたいと祈り実行するならそのようになります。

これを行うと、イエス様に似た姿になりますので、私たちはイエス様から学びましょう。

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午後の祈り会 (・∀・)

詩篇23篇

牧者であるイエス様がどんな方であり、私のために何をしてくださった方なのか?
それを知ること。それを思い出しながらそのことば1つ1つをもってお祈りをしてください。
このみことばを自分に置き換えて祈ってください。

Ⅰヨハネ3章8ー10節

今、神様が私に語る言葉だと思うと、主の声として聞こえてきます。
罪に対して神様が厳しく語ることばです。「私は毎日罪を犯しているから無理ですね」と思うのではなく人間は弱い者で罪を犯さない者はいないので、これは平気で罪を好んで犯す者の姿です。
罪を好むのはサタンの姿なので、私たちは罪を言い表し、悔い改めましょう。

Ⅰヨハネ1章9-10節

自分の中にある罪を悔い改めましょう。信仰から出ていないものは罪であります。
神は真実で正しい方ですから、その罪を許しすべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし私には罪を犯していないというのなら、神を偽りものとするのです。

出エジプト記20章1-17節

十戒のことばを思い出しましょう。基本の中の基本です。
適当に悔い改めるのではなくみことばに沿って悔い改めましょう。

マタイ15章

私の心から悪い物が出てきたものを みことばを読んで知り、神様に赦してもらうために祈ってください。

ガラテヤ書5章

肉から出てくるものをみことばで照らし、悔い改めましょう。


ローマ12章3ー21節

1人1人がじっくりと読んで、神様が「しなさい」ということは、私たちに対する命令であります。
自分がすべきことは線を引いて、その部分を従います。捨てるべき言葉はありません。
与えられた奉仕や賜物に対してどのように語っていますか。
もし自分に与えられていないのなら神様に求めていくべきであります。
みことばで祈りをしてください。


Ⅰコリント12章4ー10節

賜物は大切なものです。
神様は祈りを聞いて必要なものを与えてくださるので自分の思いで「この賜物が欲しいです。」
というのではなく、「全部必要です」と。道具(賜物)はあればあるほど良いものです。
全ての賜物は自分のために働くことではなくて、誰かのために働くことになりますので、
「賜物が欲しいです。ください。」というのは欲ではないです。求めましょう。

エペソ4章25ー32節、5章15-21節

読んで自分に言い聞かせてください。主のみこころであります。
私たちがどのような生き方をし、日常生活でどのようにしたらいいのか、警戒しなければならないことが
11点教えてあります。

エペソ6章6-7節

今日捧げた祈りや悔い改めは、主に仕えることでもあります。
主によく仕える人は、人にもよく仕えます。神様は見える人を通して主によく仕えるかを神様は見ておられます。「しなさい」ということと「してはいけない」ということを両方語ってくださいました。
それに従うなら神のみこころを行うことができますし仕えることができます。

エペソ6章10ー18節

サタンに勝つ秘訣が書かれています。1つ1つ神の言葉を読んで身につけていきます。
「ついたかな?」というのではなくて、信仰でつけていきます。着るだけで終わるのではなくてみことばの剣を持って、それから目を覚まして祈ります。そうすると勝利することができます。

ピリピ4章4-9節

みことばをたくさん開いて祈りました。与えてくださいました。あとは実行することです。
そうすると、神様は私たちに答えてくださいます。何もしないで一方的な私たちの要求には聞いてくださらないです。神様の語る言葉に対して信仰で反応していくと、神様は「その信仰の通りになれ」と語ります。
告白したので、実行して日々生活の中で努力していきましょう。

2012.1.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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