からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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使命

キリスト者の生活

テーマは 『 キリスト者の生活 』 です

【ローマ12章1-2節】

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

キリスト者の生活に対して、皆さんはどのように考えているでしょうか。

日曜日には教会に行き、聖書を読んだり、祈ったりすることだと思いますか。


ある人たちは “イエス様を信じている” と言いながらも、これらのことすらしない人もいます。


果たしてイエス様が その人を“(イエス様を)信じる人”として認めて下さるでしょうか?

そのことをよく考えることです。


ある先生から聞いた話ですが、ある教会の執事に会って話を聞いたら、その人ははっきりと「私はキリストを信じてないです」と言われました。

その話を聞いてびっくりはしましたが、正直に言ってくれたので まだ望みがあると思ったことを話してくれました。


その人はまだ信じていないので、いつかは信じる望みがありますが、信じていると言いながらも 死んだクリスチャンは、自分自身に騙されているので これが問題です。


本当に信じている人は どのような生活をする時に、主が認めて下さるでしょうか。




神に自分自身をささげる




今日のことばにあるように、“自分の体を神に受け入れられる聖い供えものとしてささげなさい” と言われました。


パウロはこの状態を別のことばでも表現しました。


【第1コリント6章19-20節】

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

すなわち救われた人は 自分のからだに対する権利がなく、権利を持っているのはイエス様です。


ですから、自分の体を 自分の快楽や好きなように使うのではなく、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すために使うことです。


いつも “私のからだは私のものではない、神の栄光のために存在するんだ。“ と思うことです。


神の栄光を現す時に、私たちは神に 自分自身を聖い供えものとして自分をささげることが出来ます。




心の一新によって自分を変える




人は変わってからキリストを信じるのではないです。


伝道してみると、ある人は「自分は罪が多いから今は無理です。」と言います。

そして「まともな人間になってから信じます」と言われます。


それは順番が違いますね。

健康な者が医者は要らないように、正しい者には救い主も要らないです。


主は罪人を救うために来ましたので、罪人を招いておられます。


罪人はそれに応じれば良いです。
その人を主は救います。


しかし、それからは私たちが変わる番です。

キリストから恵みを受け、キリストに属する者になった人は、新しい生き方を始めないといけないです。


私たちは立場が変わると、それに合わせていきます。

学生から社会人になると服装、時間の使い方、人間関係、生活パターンなど すべてが変わり、それに適応していきますね。

結婚したらまた独身生活とは違う生き方をしないといけないです。

それに人は合わせていきます。


神を信じたらどうなりますか?


それからは 私たちが神に合わせていかなければなりません。

ですから日曜日でも教会に来て、神を礼拝しないといけないです。
これが信じる者の生活ですから。


主のことばを聞いて神の御心を分別して、それに従って行く時に 私たちはキリスト者の生き方が出来ます。




神の恵みによって異なった賜物を受けるのでそれを使う




【ローマ12章6-8節】

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

神は私たちが神の栄光を現す体にするために、私たちが持っているものを使うのではなく、(神が)必要な賜物を与えてそれをもって 私たちが神のために働くようにしておられます。


ですから “自分は何の才能もないから主のために働くことが出来ない” というのは間違えています。


神が その人を何かに使いたいと思う時には、その人にふさわしい賜物を与えます。

そして、それを道具として使うことを願っておられます。


自分がその賜物をもらったかどうかは目で確認できるものではなく、実際働きを始めると現れます。


モーセを神が選んだ時に何度も自分は口下手と言いながら使命を断ろうとしました。


しかし後の彼の姿を見ると、どこに口下手の姿が見えるでしょうか?

神が彼の口にことばを与えて下さったので、何の問題もなく民の指導者として働くことが出来ました。




上にある権威に服従する




【ローマ13章1節】

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです。

キリスト者の国家への服従を教えています。

地上で神から権威が与えられた政治家の中に、神に敵対する人もたくさんいます。


神の教会も信徒も迫害する者も多いですが、神は 悪い者にも目的があって使うために立ててあります。

歴史を見ると分かります。


神は、キリスト者が神が立てた権威と秩序に従うことを命じました。

イエス様さえも地上の権威に従いました。


もしその権威が神に敵対するように命じるならば、私たちは彼らよりもさらに高い権威を持っておられる神の権威に従わないといけないです。




人を愛する者になる




【ローマ13章8節】

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

神を信じる者は律法を守らなくても良いということではないです。

反対に律法を完成させないといけないです。

信じる者が神の言葉を大切にすることは当たり前です。


神の口から出る言葉で生きることが救われた人の生活です。


たくさんある みことばを、どうやって守ることが出来るでしょうか?

簡単な方法を主が教えて下さいました。


【マタイの福音書22章36-40節】

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

愛一つで律法を完成することが出来ます。


愛は相手の益になることを先に求めるからです。

愛は相手に害を与えません。むしろ相手が喜ぶことをします。

愛は相手に惜しまず与えます。




平和に役立つことをする




【ローマ14章19節】

そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

この二つのことは、人にも社会にも教会でも 徳を高めることです。


主が地上に来られたのは 自分のためではなく、人間のためでした。

世の光、世の塩の働きは、このように徳を高める時に真価が現れます。


自分のことしか考えないのはサタンの子であることを覚えましょう。

助け合うことが平和を作ることです。




互いに同じ思いを持つものになる




【ローマ15章5節】

どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

キリストにあって同じ思いを持つ必要があるのは、共に神に栄光をささげるためです。


主の働きをする中で分裂、分派、妬み、高慢などがあると神の栄光が現れません。


それはサタンが喜ぶ姿です。

ですからパウロは一致のためにこう考えました。


【第1コリント3章4-9節】

ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

キリスト者としての生活がどういうものであるのか、自覚が出来たでしょうか?


毎日認識して生活に適用して下さい。
v( ̄∇ ̄)v

2016.9.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖徒の使命

ハレルヤ。

今日も皆さんの健康が守られますように祈ります。


先日、甲子園では春の高校野球が盛り上がっていました。

若い選手たちが一生懸命にプレイしている姿に 人々は感動し応援しています。


キリスト者が、野球チームの選手として例えた人がいました。


選手名簿に名前が載ったすべての選手たちは、自分の打席が回ってくるまで待ちながら、他の選手を応援し、自分の番になると最善を尽くします。


1つのチームでホームランや長打を打つ選手は限られていますが、投手も内野手も外野手もみんな安打を打ちたいと願っています。

そして全力でボールを打ちます。


同じくキリスト者というチームで、すべての聖徒たちは クリスチャンとしてあらゆる分野で活動しようと励んでいます。

そして実際に、特定分野で優れた活動をしている聖徒たちもいます。


“そのように活動する人がいるから、自分が打席に立って最善を尽くさなくて良い”ということはないですね。


例外なく、聖徒たちは神によって使命が与えられ、働きも与えられていますので、各自が与えられた役割をしていかなければなりません。

イエス様はたとえ話を通して、そのことを教えて下さいました。


【マタイの福音書25章14-30節】

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。

同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。

ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。

すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

最善を尽くした人には、神からの称賛が、自分の働きをしていない人には厳しい叱責がありました。


評価されずに終わることがありませんので、そのことを覚えて、自分の出番が来た時には最善を尽くしましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2016.4.3
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖霊による変化

テーマは 『 聖霊による変化 』 です

【使徒の働き2章14-18節】

そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。

これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

イエス様が天に帰られた後の最大の出来事は、何と言っても聖霊が下ったことですが、それに気付いていない人がとても多いですね。

キリストが誕生した時も、世の人々はそれに気付きませんでした。

何も起こっていないかのように普段の生活をしていました。


ですからキリストが活躍した時も、自分たちとは無関係だと思いましたし、今も無関係だと思っている人がどれほど多いか分かりません。

それは自分の魂が救われるチャンスを逃していることを意味しています。

地上ではキリストと無関係であっても特に問題はないですが、それが問題になるのは死後です。


死後には神のさばきがあり、それによって永遠のいのちか 永遠の滅びかを受けますが、その時にキリストが大いに関係してきます。


キリストを信じたか信じなかったかによって行き先が変わります。

ですから生きている時に信じる必要があります。






また、聖霊はどうでしょうか。

クリスチャンは聖霊を受けても受けなくても良いでしょうか。


答えは、受けなければなりません。
なぜなら、“受けなさい” とイエス様が命じたからです。


【使徒の働き1章4-5節】

彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

ヨハネは水でパプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」


【使徒の働き1章8節】

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

この言葉は、弟子たちだけに与えられた言葉でしょうか。

そうではなく、信じるすべての人は聖霊を受けなければなりません。

しかし それを知らない人が多いですし、また 受けなくても良いと言う人もいます。


当時もたくさんの人が主のことばを聞きましたが、実際にエルサレムに留まりながら父の約束を信じた人は120名ほどしかいませんでした。

彼らは全員で心を合わせ、祈りに専念していました。
そして10日後のペンテコステの日に初めて人々に聖霊が下りました。


120名ほどが受けた聖霊は、初めての不思議な経験でしたが、それによって彼らは大きく変わりました。


聖霊によってどのような変化が起きたでしょうか?




1.他国のことば(異言)で話しだした




私たちは外国語は習わないと理解することも話すことも出来ません。

何年間 習ってもうまく話せないのが外国語です。
英語を幼稚園から大学まで習っても まともに話せない人がほとんどです。


それなのに、どこの国の言葉かも分からず 聖霊が語らせるまま話し出したので、集まった人々はそれを見てびっくりしました。


私の知り合いの女性の牧師先生は若い頃、ナンパをしようと付きまとって来た男の人に困り、何かを言おうとして口を開くと中国語が勝手に出てきて、それを聞いた男の人が「何だ、外国人か」と言いながら去って行ったと聞いたことがあります。


聖霊を受けた人たちが祈りの時に使う異言は、聖霊が語らせることばです。

自分にとって未知の言葉なので意味は分かりませんが、異言で祈ることは素晴らしいことです。


なぜならば 次のように書いているからです。


【第1コリント14章2節】

異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。


【第1コリント14章4節】

異言を話す者は自分の徳を高めますが


【第1コリント14章14節】

もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。


【第1コリント14章22節】

それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。

このように異言は神に話す言葉であり、自分の徳を高めますし、また不信者へのしるしであるので、パウロは「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいます」と語 りました。


異言がまだ話せない人は、異言が話せるように聖霊に求めて下さい。
私も聖霊様に求めて受けました。





2.霊的に強くされ、大胆な者に変化した




“聖霊が望むと力を受ける”と語ったように 皆に力が与えられ、霊的に強くなり、大胆な者になりました。


以前は人を恐れて、イエス様を3度も知らないと言ったペテロの変えられた姿を見て下さい。
まるで別人のように変わりました。

環境や、人、権力を恐れていたペテロでしたが、大勢の前で大胆に即興で説教をする姿に人々は驚きました。


世の中で一番強い人は勇士ではなく、力士でもなく、聖霊充満な人です。

なぜならば、この人たちは 人や環境、サタンや権力、迫害や死も恐れないからです。


弟子たち全員は殉教しましたが、彼らはどこでも大胆な者でした。
聖霊が彼らの中に力を入れたからです。


【第2テモテ1章7-8節】

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

いつも何かを恐れ、自信がなく、消極的であるならば、いつも聖霊に満たされるように祈って下さい。


「強くあれ。雄々しくあれ」と主が命じておられます。





3.自己中心的な人から、神中心の人に変化された




自己中心であることは聖書に基づく考えではなく、自分の考え・知識・経験が 自分の価値観や行動の動機となります。


イエス様と共にいた時の弟子たちの姿を思い出して下さい。

霊的な人は1人もいませんでした。

イエス様の傍で3年間訓練されても、それぞれ自分が一番偉いと思っていましたし、出世することを夢見ていました。


相変わらず“自分”が世界の中心にいました。
それが、主が捕えられ十字架の事件が起きた時に明らかにされました。

皆がイエス様に背を向けました。
自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従うことが出来ませんでした。


しかし皆が聖霊によって180度変わりました。

自分のために生きる者はいなくなり、主のために生きる者に変わりました。


【ピリピ1章21節】

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。




4.みことばの悟りが与えられ、確信ある信仰に変わる




以前ペテロは、みことばに対してあまり分かりませんでしたし、イエス様から話を聞いても間違った解釈をしていましたが、聖霊を受けた後 その場で立って旧約聖書の言葉を正確に理解し、立派な説教が出来ました。

それには人々もびっくりしました。

そして人々がどのような間違いをしているのか、はっきりと指摘が出来るほどキリスト教の教理に対して正確に理解することが出来ました。


これによって信仰もみことばの上にしっかりと立つようになり、それからは真っ直ぐに進むことが出来ました。


聖霊の助けなしに神の言葉に対する悟りを得ることは難しいです。

自分勝手に解釈をして、悟りを得たという人もいますが、本当に悟りを得るためには聖霊の力と助けが必要です。


無学なペテロがこのように立派な説教がいきなり出来たのは 彼の力ではなく、すべて聖霊のよるものです。





5.使命を果たすことが出来る




弟子たちの例を挙げるならば、彼らが選ばれた時に言われたのは「あなた方を人間を取る漁師にしてあげよう。」でした。

すなわち魂を勝ち取るのが彼らの使命でした。

しかし聖霊が下るまでの姿は人間を取る漁師ではなく、再び魚を取る漁師に戻って行きました。


聖霊によって使命から離れていた彼らが使命を取り戻しました。
ですから福音が世界に広がるようになりました。それは聖霊が彼らを使命に目覚めさせて下さったからです。


そして彼らには証人としての使命もありました。
証人とは見たもの、聞いたものを隠さず ありのままを伝えることです。


自分のことを話すのではなく、イエス・キリストはこのような方でしたと証言をすることです。

彼らは聖霊に満たされた後、すぐに人々の前に証人の働きを始めました。



このように聖霊は人々を新しく変えて下さいます。

生ぬるい者ではなく、形式的な信仰生活ではなく、今回話したような変化を人々にもたらします。

それらのすべての変化は聖霊なしで得られることは不可能です。


弱いクリスチャン、名ばかりのクリスチャン、証人として働いたこともないならば、聖霊に対して無関心であるか、自分から勝手に聖霊と縁を切ったかです。


もし弟子たちのように変わりたいならば、何よりも聖霊に満たされることを求めて下さい。


聖霊なしの信仰生活は、ガソリンの入っていない車に乗っている人と同じです。

変化もなく、いつも同じ所に留まっている車の様です。

求めるすべての人に聖霊を注いで下さいますので、聖霊を受けて力強い信仰生活、実を結ぶ信仰生活をしましょう。
(。・ω・)ノ゙

2015.5.24
ペンテコステ礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様を尊ぶならば、神様も私を尊ぶ

テーマは 『 神様を尊ぶならば、神様も私を尊ぶ 』 です

【Ⅰサムエル記2章30節】

それゆえ、―イスラエルの神、主の御告げだ―あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、 今や、―主の御告げだ―絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。

皆さんはこのことばに同意しますか?それとも同意しませんか?

同意するならば、その人は神様のことをよく知っていますし、自分が何者なのか自己認識も出来ている人でしょう。


神様とはどのようなお方でしょうか?

一言で説明出来るような神様ではありませんが、
「主は天と地と海とその中のいっさいを造った方」、「われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい」、「主はあわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、 恵みとまことに富んでおられる方」


この偉大な神様が造ったのが人間です。人間が造られた目的は次の箇所です。


【イザヤ書43章7節】

わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

私たちがこれらのことを明確に認識し、そのとおりの関係の中で正しく生きるならば問題ないと思います。

その人はどのような状況の中でも神をほめたたえ、神を尊び、喜んで神に仕えながら神に栄光を捧げるでしょう。
ある意味、それが自分の使命だと思うでしょう。“それが人間として生まれた目的だ ”と。


皆さんはどのように思っていますか?

ある人は「私は一度きりの人生を神のために生きることは嫌だ。」
また ある人は「別に造ってと頼んだ覚えがないし。勝手なことを言わないで。」と、皆さんはどうですか?

(従って生きるか生きないかは別にして)神を知り、人間の存在の意味が分かっているので、このようなことばは口にしないと思います。


神様は誰に今回のテーマ箇所のことばを語ったのでしょうか?

エリ祭司でした。エリはアロンの子孫として生まれました。
アロンは神によって大祭司と任命され、そして大祭司になるのはアロンの子孫だけだと神様が決めていました。

大祭司は民の中でも一番神に近づき、一番神に仕え、神に栄光をささげる務めを任された人です。

素晴らしい特権であります。そして誰よりも重い責任も与えられていました。
その家系で生まれることは、また素晴らしいことです。


そのエリはきちんと務めを果たしてきたでしょうか?
2人の息子も一緒に祭司として働きをしていましたが、神のみこころにふさわしい働きをせず、

残念ながらこの人たちは自分たちの立場を悪用し、醜い罪や到底 赦されない罪を平気に神の前で行いました。

主を侮り、全く恐れる心も尊ぶ姿もありませんでした。
神様は彼らを赦すことも受け入れることも出来ませんでしたので、彼らに与えられていた約束も祝福もすべて取り消し、彼らに死を宣告しました。

皆さんはこのことを不当だと思いますか?それとも神のなさったことに同意しますか?


人間としての使命や働き人としての責任を果たさないならば、何事もなかったかのように終わることはなく、責任を取らなければなりません。






2001.9.11のアメリカ同時多発テロ事件は未だに はっきりと覚えています。
テロによって3,025名が死亡、6,291名の負傷者が出ました。

ワールドトレードセンターの2つのビルが爆破され、火災も発生し炎上する中、救助に向かった消防士や警察官たちは建物が崩れ落ちる中、人々を避難させながら、自分たちは建物の中に 入って行きました。「早く逃げなさい!」と人々に言いながら、自分たちは火が燃える中に入って行きました。


彼らがなぜ自分たちの命を顧みずそのような行動を取ったのでしょうか?
それは彼らの使命であるからです。

彼らが消防士や警察官になった時には、危険があっても飛び込んで人を助けると心に決めているからです。

そして彼らはどのようになったでしょうか?343名の消防士、23名の警察官が亡くなりました。

さらに、その時は生きていましたが、建物が崩れる時に降ってきたコンクリートパウダーから出た有害物質によって多くの消防士や警察官が癌になり亡くなっている報告があります。

彼らが使命に生きている姿がここにあります。


私たちは神からの使命に対してどのように生きているでしょうか?

彼らのように使命に燃えていた若者たちの姿がダニエル書に出てきます。


ダニエルの3人の友人は神を尊び、神に従って歩むことを自分たちの生きる目的・使命と考えて生きていました。

彼らに大変な試練が来て、彼らは捕虜の身でした。
ネブカデネザル王は金の像を造って、それを拝まない者は火の燃える炉の中に投げ込むように法令を作りました。


しかし、3人は命を捨てなければならない時でも最後まで神を尊び、王の法令も大切ですが、その法令よりもさらに尊い神の命令をもっと尊重しました。


十戒の第2の戒めである「偶像を拝んではならない」という命令を守るために、彼らは次のような名言を残しました。


【ダニエル書3章16-18節】

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。

もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

王はこのことばに怒りが収まらず、炉を普通より七倍熱くせよと命じました。
そして3人はその火の中に投げ込まれました。彼らはその後、どのようになったでしょうか?

神様が彼らを助けてくださいました。これはまさに奇跡でした。


【ダニエル書3章27節】

火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。

このように彼らの様子が書かれています。


金の像を造った王もビックリして神をほめたたえました。


【ダニエル書3章28節】

「ほむべきかな。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、 神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。

これがまさに「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」と語った主のことばが実現されたことです。

私たちは神様が自分に対しての扱いが不当のように思われて、神に文句を言ったり、呟いたりしますが、その前に自分が今まで神様に対してどうだったのかを考えましょう。


「たくさん祈ったのに…」が良い報いを受ける条件ではありません。
神ご自身に対してどうだったのか?これが最も大切です。


【申命記8章6節】

あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。

【詩篇91編14節】

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。

【詩篇145編18-20節】

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

また主を恐れる者の願いをかなえ、 彼らの叫びを聞いて、救われる。

すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。

【詩篇147編11節】

主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。


私たちが主を愛し、主を恐れ、主を尊び、主の命令を守って 主を呼び求めるならば、主は約束のことば通りにしてくださいます。

しかし、その反対のことをするならば、エリに与えたように みことばに書いている約束も、個人的に語ったことばも神様は取り消します。

その点を注意しなければなりません。


自分自身の様神への態度が、そのまま自分自身に返ってきます。
(゚∇゚ ;)エッ!?

2014.8.31
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私の使命は宣教

テーマは 『 私の使命は宣教 』 です

【マルコの福音書16章15節】

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

宣教は、宣教師・伝道師・牧師だけがするものではなく、救われたすべての人にイエス様が与えた命令であります。

宣教は誰かがするのではなく、「私がしなければならない使命」だと認識をしなければなりません。

初代教会の人たちと、イエス様の弟子たちは この言葉をしっかりと受け取りました。

もし 初代教会の人たちが宣教活動をしなかったならば、福音はそこで終わったと思います。しかし、イエス様が天にのぼられた後に すぐさま立ち上がって福音を伝え、3千名が救われました。
ある程度 増えてくるとグループになって固まろうとするところがありますが、それは神様が喜ぶ姿ではないです。
「まだまだ救われていない魂がいるだろう。」と語ります。


エルサレムの教会に対する迫害があり、信徒たちはそこにいることが出来ず散らされていきましたが「散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた。 」と主から受けた言葉通りに一般の信徒たちにも福音を伝えました。これは神様が喜ぶ姿であります。

迫害の中でも福音を伝えるということは命懸けなのです。

どの時代でもこの命令が変わることなく与えられていますので、私たちは福音を宣べ伝えていかなければなりません。


日本や韓国は、イスラエルから遠く離れていて福音が届きにくい場所にあります。
今から150年前に 日本にキリスト教が伝えられましたが、当時は交通便も悪いですし、情報を手に入れるのも難しい時代でした。

しかし、十字架の信仰と殉教精神、宣教への情熱を持って多くのクリスチャンが全世界へ出ていきました。

日本も韓国も まずカトリックの神父たちが福音を伝えに入ってきました。そしてその後に宣教師たちが来て、みことばを伝えました。

多くの宣教師たちが迫害に遭い、命を落とし、二度と国に帰ることはありませんでした。
それでも宣教師 たちは途絶えることなくやってきました。とても感謝なことであります。

もしこの人たちが来なかったならば誰1人福音を聞くことが出来なかったと思います。


今回の教役者大会でも、フィリピンの講師先生が「日本へ宣教に来て20年以上経っている宣教師たちは立ちあがって下さい。」と言われた時に、 多くの宣教師たちが立ちあがりました。

言葉が通じないところへ来て 人知れぬ大変な苦労をしながら生活をしていたのだろうと感じました。
講師先生が「この方たちは本当に立派であります。自分の国を離れて、ただ1つ福音を伝えるためだけに来られて20年以上経っていますので拍手を送りましょう。」と言って 皆で拍手を送りました。

この人たちは戦いの戦士に見えました。日本人がなかなか福音を伝えない中で、外国人が戦いの中へ飛び込んでいく姿が想像できました。

私たちはそのような姿を見て、自分たちは何をしているのか ――?自分の家族や周りの人々に福音を宣べ伝えているのか?そのことを心に留め、悔い改めながら新しい思いを持たなければいけないと思います。


終わりの時は今までにない迫害が来て、信じる人たちも自分の信仰を守ることがとても難しくなります。
ですから福音を伝えることはもっと難しくなります。今、家族に福音を伝えなければならないです。

私たち自身がいつも問題ばかり抱えて、神様に出会って何一つ良いことがないならば 証にならないです。
自分自身が変わっていないならば 家族への宣教は難しいです。


宣教は外国へ行くことだけが宣教ではなくて、家族に対しても私たちが変わっていく姿を実際に見せていないと「イエス様を信じて。」と言っても
「あなたは信じて何が変わったの?何も変わっていないじゃない。」と言われ 福音が伝わりません。

私たちには責任があるのです。「私は家族・親戚に良くなっている姿を見せているのか ――?」それを反省しなければならないです。




昨年11月8日~10日まで、イスラエルのベツレヘムで聖会がありました。

そこにあるベツレヘム第一バプテスマ教会が、韓国のヨンセ中央教会と3年間 合同で聖会を年1回 開いています。
その理由は、その地域に住む人たちは福音を聞くチャンスがないまま死んでいく魂が多いからです。

その地で福音を伝えることは命懸けであります。なぜならそこに住むアラブ人はイスラム教を信じる人が多いからです。ベツレヘムはイエス・キリストが生まれた土地であります。
現在はユダヤ人がまったくいない地域でパレスチナ人が住んでおり、いつでもイスラムのテロが起こり得る場所です。


今まで福音を聞いたことがない1,300名のイスラム教徒のアラブ人が参加し、正統派イスラム教徒も30名が参加したと言われています。
彼らは何が語られるのかと福音を聞きに来ました。神様は彼らにも福音を聞いて救われて欲しいのです。

3日間で5,000名が集まり、その中で175名が救われ、イエス様を救い主として受け入れました。そして悪霊が追い出され、病人が癒される奇跡が起こりました。


伝える人がいなければ、救われる人もいないです。

今までイスラム教徒として生きていた人たちが福音を聞いた時に、力と奇跡を神様は現わし、生きて働く神様を見せてくださいました。

神様は福音が全世界に届いて人々が救われることを願っておられます。




ここで韓国と中国の教会の姿を見てみたいと思います。


韓国の教会は以前にリバイバルをしました。聖霊の働きがとても強く、世界の中でも韓国の教会が一番燃えていました。しかし今は 下り坂になりリバイバルをしなくなりました。そして主のために献身をする十字架の信仰が消えていきました。
その原因は、経済的に豊かになってしまったからです。


その反面、今 中国では聖霊の働きがとても強く現われ、驚くべき成長を見せています。
公認教会や地下教会の人たちは命をかけて福音を伝えています。

彼らは投獄されても福音を伝えており、その多くの者たちに十字架の信仰があります。


韓国でも危機感を持っているクリスチャンたちは目を覚ましています。
「この時代において、私たちが何をすべきか」を考えるようになりました。

韓国教会の時代的使命は、中国宣教であります。
なぜ中国を宣教するのかと言うと 聖霊様の働きで救われる人たちは多いですが、教理的な部分がまだ弱いです。
神学校が足りなく 指導者も足りないです。


韓国は神学校が多く 海外で学んでいる人もたくさんいますし、教理的・神学的に優れています。
しかし熱が冷めて弱くなってきました。
ですから「私たちが持っている教理的・神学的なものや指導者を中国へ送り、中国の人たちが更に力を持って宣教できるようにと たくさんの人たちが中国へ行っています。


中国教会は殉教信仰が強い人もいれば、中国は経済が良くなってきましたので 教会に来る人の中でも経済的祝福だけを求める人が増え、神様よりも 神様が持っているものに関心が多いです。
そうすると神様に対する想いも冷めていきます。それが中国でも実際に起こってきています。

中国は人口が多く、国内では少数民族が55もありますし、中国は、終わりの時代に世界宣教の使命がある国だと思います。


なぜかと言うと日本や韓国がイスラム圏やアフリカに宣教しようとするならば拒まれるのです。それは、アメリカと仲が良いという理由です。イスラム教の国ではアメリカに対する敵対心がとても大きいのです。


しかし中国は社会主義ですので イスラム圏の国やアフリカにたくさん入っていけるのです。

韓国では「中国教会がアラブ、イスラエルなどイスラム圏の国々のために時代的使命を果たすことができるように協力することである」と考えています。




日本はどちらでもないです。
日本ではリバイバルが起こったこともないですし、熱くなったり冷めたりすることもないです。

「韓国や中国には出来ても日本には無理だ」ということを言いますが、これは言い訳にすぎません。
よく考えてみると自分たちが燃えたことがないのです。


自分たちが命を懸けるほど国に福音を伝えようと熱く燃えたことがありますか?


ですから原因は私たちにあるのです。自分たちが勝手に諦めているのです。
人々が滅びていっても関心がなく、家族がイエス様を信じなくても重荷を負わず「私には関係がない」という思いが強いです。
そのことを悔い改めなければなりません。

「ただ他人に迷惑をかけなければ良い」ということではないです。
福音は迷惑をかけても良いものです。「あなたの魂が救われて欲しいんだ。」という熱い想いなのです。


私たちの周りはほとんどの人たちが未信者だと思います。
時々その人たちに みことばカードを使って「お元気ですか?」と手紙を書いたら良いと思います。
その人たちに関心を持って、関係を結んでいくと良いです。みことばカードの言葉が種になって蒔かれていきます。

神様は私たちにそれをして欲しいと願っているのです。他人に関心を持って欲しいのです。
自分たちだけが救われて天国へ来るのではなく 「働きをしなさい。」と主が教えておられます。


私たちが宣教をする時には どのような心を持っていなければならないでしょうか?

私たちはクリスチャンの目で見なければならないです。今、ものすごく悪い勢力が働いています。
それは、日本・韓国・中国を仲悪くさせようとする力が 以前よりも強くなっていることを私たちは見ています。

ネット上でも過激な言葉や非難的な言葉がとても多いです。
過激な言葉を使って本を出版すると人々が買います。これは金儲けで自分たちの利益のために働いています。国のことは関係がないのです。

私たちはそのようなものに翻弄されてはいけないです。

「政治が悪い、国が悪い、国民性が悪い」と言いますが、どこの国でも皆、自分たちの国の方が大事なのです。
ですから色々なことがありますが、クリスチャンがそのような目で見ていたら本当の姿が見えてこないです。


クリスチャンは神の目でこの時代を見ることであります。

「サタンが働いて分裂を起こしているのだ。国々に敵対心を生んでいるのだ。」と、私たちは絶対に悪いものに乗ってはいけないです。

「今は収穫の時である。これが終わりの時のしるしであるのだ」ということを 私たちは知らなければならないです。


【マタイの福音書9章35-38節】

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

私たちが人々を見るときに、どのような思いで見るのかマタイの福音書9章36節に書かれています。

私たちの周りにいる群衆を見た時に、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れているので「可哀想だ」という思いで見ることです。
そしてその人たちに、水1杯を与えるのです。その水1杯とは神様の言葉であるのです。


弱り果てている人に力を与えるのは みことば しかないです。

まずは自分が働き手として働き、それでもまだまだ福音を聞いていない人が多いので働き手を送ってくださいと祈らなければなりません。


【ヨハネの福音書4章35-38節】

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。 目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに 入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、 ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。

わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを 刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

もう色づいているので「まだまだ」だという思いを捨てなさいと教えておられます。
私たちが福音を伝える時の言い訳の1つが「あの人はこうだから、多分 福音を聞かないでしょう。あの人は他の宗教を信じています。 あの人は心が頑なです。」とか先に言い訳をして「だから無理です。今ではないです。」と言います。

イエス様は「あなたが出て行って刈り取る時なのだ」と言っておられます。


私たちが種を蒔いてもビクともしない人がいるかも知れません。
しかし、長い時間が経って別の者がその人のところへ行き 福音を伝えた時に受け入れることがあります。

私たちは自分が蒔いて、自分で必ず刈り取らなければならないということではないです。

今すぐ刈り取ることはできなくても失望せずに、神様は種を蒔きなさいとおっしゃいます。
いつかあなたが流した労苦が必ず実を結ぶことを教えています。


【Ⅱテモテ4章2節】

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

みことばを伝える時は 色々な戦いがあります。拒否する人たちも出て来るのです。
ですから教える時も、責める時も、戒める時も、勧める時も「みことば」を使うのです。そこでは自分たちの言葉はいらないです。
神様の言葉を教えてあげることであります。

神様の言葉には力がありますので、きっとその人たちの心を刺し、悔い改めや立ち返りに導かれるでしょう。


私たちはしっかりと神様の使命を悟り、みことばを宣べ伝えていきましょう。

箴言には知恵の言葉が書かれています。私たちが人間的な言葉ばかり伝えると、人と会話をしても相手の心に残ることがないです。
しかし、私たちの言葉の中に 神様の言葉がたくさん散りばめられていると、その人の魂にぶつかっていきます。


日々、私はこの国に遣わされている宣教師だと思いながらやってください。
これからは伝道を常に心掛け、宣教に力を入れましょう。 ( ̄‥ ̄)=3

2014.2.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あなたは誰ですか?伝道について

テーマは 『 伝道するために 』 です

【ルカの福音書15章3-10節】

魂を救う為に、伝道しなければならないということは知っていますが、
「どうやったら伝道できるのか?」と悩んでいる人が結構多いです。

神様が一番喜ぶことは、罪人が悔い改めて、主に立ち返ることです。

天国に喜びを与えるために私たちが人を導くのではないです。
救われた人たちは、まず救いがどういうものであるのかを理解しなければならないです。

【Ⅰペテロ2章9ー10節】

救いを受ける前と、救いを受けた後は、状態が変わったことをこの箇所で主が教えてくださいました。
救いを受けた人たちは、今度はそれを伝えなければならないです。
その使命を神様が私たちに与えてあります。
私たちは(世の人たちと)区別されていますが、私たちも以前はそこにいた者で、神様から救い出されました。
ですから今度は私たちが行って、その人たちをそこから救い出しなさいというのが神様が私たちにさせることです。

伝道をする時に、いくつかの方法があります。“語るべき言葉”です。


① 「あなたは誰ですか?」

この質問をするなら、びっくりすると思います。それで相手の人は名前を言うかも知れませんし、
自分が所属している名称を言うかも知れません。

ですが、本当の意味で あなたという存在は、何ですか?と聞くことであります。
質問を受けた人々は答えられないと思います。
自分という本質は何であるのか――?わからないと思います。
ですから、神様を求めないのです。救いが何であるのかがわからないのです。

聖書には、全ての人間はこういう者であると教えてあります。

【ローマ3章23節】

神様から見る私たちの姿は「罪人」であります。これは全ての人間に共通した部分です。
これを伝えなければいけないです。

「私が何の罪を犯したんですか?」と腹を立てるかも知れません。
その時に「神様があなたを罪人だと言っている姿はこの姿です。」と教える部分は、
人間だけは神様の姿に似せて造られたものですが、それは神様の栄光を現す為に造られた目的があります。

しかし、人間が神様の初めの言葉を無視して逆らいました。それが罪の始まりでした。
神様が人間を造った(本来の)目的通りではないです。

ですから神様の栄光を受けるに相応しくなく、栄光を現す事もできないのであります。
その姿が、神様の目から見たら罪人なのです。

すべての人間は汚れているので、罪とは言わないで「似た者同士でしょう~」と、
お互いの汚い部分は見ようともしません。

しかし、聖い神様の目から人間を見ると、誰もが罪人です。それを神様が教えてあります。

それでも「私は罪人ではない」と語るならば、その人たちの罪を見せることです。それが次の箇所です。

【ローマ1章19-32節】

この箇所に1つも当てはまらないという人はいないです。これらは罪の姿であります。
私たちはこういう罪を人々に見せなければならないです。


② 「あなたはどこに向かっていくんですか?」

私たちの人生はどこかに向かって歩いています。立ち止まった人はいないです。
永遠にこの世で生きる人はいないです。
どこかに行くのです。

それを相手に聞きます。
人によって「知りません。」、「天国に行きます。」、「死んだら【無】でしょう?」等と答えるでしょう。
しかし、それが真理でしょうか?
神様から出た真理の言葉はそうではないです。

【ヘブル9章27節】

どこに向かっていくのですか? ――神様の裁きの座に私たちは死んでから、まず向かっていきます。
そこに誰もが立たなければならないです。

「私は【無】になった方が良いです。」と言っても誰も逃げることができないです。
なぜなら、世界を造ったのは神様であり、法則を造ったのも神様であるからです。

自分は願っていても、これだけは避けることができないです。

【ヨハネの黙示録20章11-15節】 、 【ヨハネの黙示録21章7-8節】

いのちの書に書かれている人は、勝利者として神様の御国に入ります。
もう1つは、その人達の不信仰によって、数々の罪によって火と硫黄の燃える池の中に永遠に閉じ込められます。

ですから、「どちらに行きますか?」ということであります。あなたは、どちらに行きたいですか?
これは2つに1つで、その中間はないです。

もし「救いの道に行きたいです」と言うならば、そのまま(救いの道に)行くのではないです。
“みことばを通して神様は「そこに行きたいならば、こうしなさい。」と、あなたに対する解決策を
神様が持っていらっしゃいます。”と、次の箇所を伝えます。

【エペソ2章8-9節】

信仰というものは、神様の言葉を聞く事であります。
福音は悔い改めなしには無理なのです。私たちの信仰には悔い改めが必要であります。

救いは悔い改めなしには、救いはないです。悔い改める時にイエス様の血潮が注がれるのです。

現代の福音は間違ったものが多いです。教会でも悔い改める事を語らず恵みだけを伝えることは、
それによって魂は救われません。

信仰を見せるということは、罪を認めて立ち返ることであります。
罪人であると自分を認めることです。「私には救いが必要です。私を救ってくださるのは神様しかいません。」と
それが信仰であります。

【ヨハネの福音書3章14-16節】

【民数記21章4-9節】

自分の罪によって死んでいく者であっても、イエス様の言葉を信じて十字架を見上げるならば、
その人は生きます。
しかし、不信仰なまま神様の言葉を耳に入れないならば、その人はそのまま死にます。
ですから同じように蛇にかまれた者であっても、1人は生き、1人は死にます。
その違いは神様の言葉を信じたか、信じなかったか、です。

行いを良くするからと言って、罪が消されることはないです。
自分の汚れは、それを洗い落とさない限り汚れが付いたままです。
イエス様の血潮でないと、その汚れは絶対に無くならないです。

それが神様が用いた方法・解決策であります。

私たちは十字架がこういうものであるのだということを“民数記とヨハネの福音書”の聖書箇所で
知ることができます。
私たちは愛だけを伝えるのですが、それだけを伝えると十字架が見えてこないです。
罪人のためにイエス様が十字架に架かって死んでくださいました。


③ 「あなたはどうしますか?」

決断は私たちがするのではなくて、
みことばを聞いた人たち、解決策を聞いた人たちが選ばなければならないです。

あなたがそれを信じて、決断をするならば、こうなりますと次の箇所があります。

【ヨハネの福音書1章12節】 、 【ヨハネの福音書5章24-25】

神様はどんな時でも私たちがみことばを聞いて、信じて救われる事を望んでおられます。

救いは軽いものではなくて、本当に永遠の命を得るか、永遠の死を受けるか、一番大きい問題であります。

ある人たちは、平気に「地獄が良い」という人がいます。
それは地獄を見ていないから言えるのです。

この地上でも地震が起きたり、テロが起きている悲惨な場面を見ているだけでも、ゾッとします。
恐怖や不安でいっぱいになります。

だけど、それは地獄に比べたらある意味では大したことではないです。なぜならそこから逃れる道があるからです。

しかし、地獄というところは、どんなに逃げたくても逃げられなく、終わって欲しいと願っても終わらない世界です。
どうやって人間を常に苦しめようかと楽しんでいるサタンが取り囲んでいます。
燃える火に投げ込まれても、一度入れられたらどうにもならないです。

「天国はつまらなさそう」という人もいます。その人がそういう世界があることを信じないから言うのですが、
「本当に 本当に、そのような世界があったらあなたはどうするのか?」と
「死んでしまったらもう遅いよ!」と私たちはその人たちを責めなければならないです。
「それでも良いのか!?」と私たちは語るべきであります。

私たちは神様の素晴らしさを伝える使命があります。しかし、(私たちに)みことばが何もないのなら、
人々にただ「信じなさい」と言っても、その人達は何を信じたら良いのかわからないです。

なぜ信じなければならないのか、その意味もわからないのです。
ですから私たちは、みことばには力があるので順序正しく、「あなたはこういう者です。」
「あなたはどこに向かっていくんですか?」とそれを教えることであり、
そして「救いはこういうものであります」と自分の努力や行いでは救われなく、
どんなに拝んでも、良い働きをしても、それでは救われません、と

それを教えることであり、救われたらこういう素晴らしい状態になりますと私たちは伝えることであります。

始まりがあり、終わりがあります。中途半端に教えるのではわからないです。
罪人であることを教えない限り、悔い改めることはしないでしょう。
悔い改めなしに主に立ち返ることもないです。救われることもないです。

罪がないと十字架がいらないです。十字架が意味のないものになってしまいます。
ですから、十字架は何のためにあるのか・・・。
    → 「罪人である あなたのためにあります」。

神様はあなたが滅びに行くことを願わないです。1人も滅びに行くことを願わないです。
それで神様がそうしました、と。そして福音を伝えることであります。

これが伝道するということです。
私たちが正しいものを伝えない限り、正しい道に導くことはできないです。
今回のみことばは紙に書いてカバンの中に入れておいてください。

こういう伝道方法を用いて、魂を導いてください。 (・◇・)ゞ

2013.2.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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働く態度と実

テーマは『 働く態度と実 』です。

【ローマ12章10-11節】

私たちは1年間、どのような気持ちで働いてきたでしょうか?どのような実を結んだでしょうか?
年末になると感謝はもちろんですが、反省もしなければならないです。

神様が喜ぶ態度で自分は働いてきたのか、考えなければならないです。

労働は人間としてすべきことです。
私たちはそれにプラスして、神様に仕える働きもあります。これはクリスチャンにとって大切なことです。

神様は「主のために○○をしなさい」と、私たちに与えておられます。
教会に来て何もしていないという人は1人もいないと思います。

働きの中でも、神様はその人の心を見ておられます。その人がどんな態度で仕事をしているのか ――です。
心の態度がとても大切で、それができていないと一生懸命働いたとしても、神様はある者は退け、
ある者はやっていても何も報いがない。ある者はやっていても何も実が結びません。

働く態度の姿は3つあります。

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①感動の心で使命感を持って働く姿

神様から受けた恵みに常に感動して、「どうやったら私が主を喜ばせることができるか。」
「神様は私の為にイエス様を送ってくださったので、私は何をもって神様に仕えることができるでしょうか。」
「主よ、私は何をしたら良いでしょうか。」
仕事をする前に神様の感動があります。

こういう者に対して、神様は喜んで働きを与えてくださいます。
それが、その人にとって使命なのです。「神様、与えてくださり感謝します。」

パウロは神様に出会った時から、死ぬ時まで感動の心で自分の使命を果たしました。
これは、神様が一番喜ぶ姿であります。

感動が消えると、それは「形式」になります。神様はこの形式的なのを嫌います。

パリサイ人は言葉や知識をよく知っていますので、その点では神様は彼らをけなすことはないです。

語る言葉は神様のことなので間違いはないのですが、彼らの心は恵みに対する感動がないです。
ですので、結局自分のための働きになります。

神様が喜ぶか 喜ばないか、それを考えながら聖書を読まなければならないです。
霊に燃えるということは、使命に燃えることであります。知識ではないです。
このような人たちがたくさんの実を結びます。そのような態度でしますので、実が落ちることがないです。

いつも同じ心で取り組むので、どんどん大きい木になって、そこにたくさんの実が結ばれ、
神様はそれをすごく喜びます。


②義務感で働く人の姿

私たちは義務感を持つ必要がありますが、それだけで働く人たちがいます。
その人たちはしたくないのに、「しなければならない」という思いでしています。
義務感で働くと、働きはきちんと出来ています。
しかし、働いている人の心には喜びがないです。

普段 喜んで働いていても、時々身体が疲れたり、心が落ち込んだりする時は「したくないな」という
気持ちになるのは当然出てきますが、
義務感で働く人たちは常に「したくないな」という思いを持ちながら、「自分に与えられたことだから、仕方がないな。」と働きをします。

義務感で働く人は、働きをしていますが神様に喜ばれない姿であります。
その働きが終わったら、サッと消えます。そして、それ以上のことはする気がないです。

神様の前で、義務感を持って働く人が意外と多いです。

例えば、したくないこともあると思います。「これは私の仕事でしょうか?」ということがあるかも知れませんが、
神様は私たちの中にある「別のもの」を見ておられます。別の可能性を見て、神様はそれを花咲かせる為に、
私にやらせるんだ、と。  人間にはたくさんの才能があります。
ですが、私たちは自分がしたいことをするので、自分に見えていない可能性は埋もれてしまいます。

光に当たることもなく、一度も芽を出すこともなく、消え去って行きます。

神様の素晴らしいところは、私たちの中にあるものを、引き出すのがとても上手いのです。

「出来ないです」と逃げることを考えるのではなく、
「神様、これが与えられました。どうか出来る力をください。出来るように守ってください。
出来るように神様が恵みをください。知恵をください。」
このように祈った時から、出来ないと思っていたことが光に当たっていきます。
自分でも知らなかった部分が、どんどん凄いものになっていきます。

神様によって1つのチャンスが与えられる事、それに出会うことは、私たちにとって恵みであります。
初めは義務感でしていたことも、それをずっと続けていることで義務感でなくなります。

神様から与えられたことは、義務でするのではなく、どうせやるならば主に喜ばれる実をしっかりと
結ぶものにして、神様に「私はこれを通して栄光を捧げました。」というものを持ったら良いです。

多くの場合は、「そんなことできません」という義務感から始まると思いますが、
「私のような者に与えてくだっさって感謝します。」という思いですると、たくさんの恵みを受けると思います。
主の働きは全て良いものであります。


③イヤイヤしながらする姿

逃げたいのに逃げられないという思いで、義務感もありません。

いつも逃げることを考えて、そして突然やめてしまいます。
その人たちからは1つも実を結ぶことがありません。「これ以上無理!」と投げ出し、
神様のことを全然考えないで自分がしたいようにするのは、ある意味役に立たない姿であります。

このような人たちはいつも不平不満が出てきます。牧師や周りの人たちにも不平不満を言います。
それは神様の恵みに気付いていない姿であります。

神様はいつも私たちの心をやわらかくしなさいとおっしゃいます。
そして、日々新しい恵みを備えてありますので、常に新しい革袋を用意しなさいと語ります。

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まず私たちが愛の心から出発していることで、
神様に喜ばれる態度で、良い実を結ぶためには「兄弟愛」が必要です。

兄弟愛があるので互いに仕えあうことができるのです。愛があると心に感動が出てきます。
愛と義務は全く違うものです。義務には愛がないです。
愛があると、「しなさい」と言われなくても、「仕えたい」、「ある人を喜ばせたい」と、その思いが出てきます。

愛がないと相手をけなして、相手を踏みつけます。

「愛してる」と言いながら相手を踏みつけたり、暴言を吐いたりするなら、それは愛ではなく執着心であります。
愛は、相手を大切にして、相手を自分よりも勝っていると思う心であります。そして、そういう人たちは
一生懸命、喜んで働きをします。神様はその人の上に祝福を与えてくださいます。

この1年の自分の姿がわかると思います。本音は自分の心の中にあります。
もし自分の心がどこかに当てはまるならば、それを改善すべきであります。
同じ心で来年も仕えていても、実が結ばれることはないので、確実に実が結ばれるように働くと、
神様には「栄光」、自分には「祝福」。
その人たちにはますます素晴らしい実を結ぶ人生になります。  v( ̄∇ ̄)v

2012.12.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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