からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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伝道

主が喜ぶことをする

テーマは 『 主が喜ぶことをする 』 です

【箴言21章3節】

正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。

主が喜ぶことが何かに対して考えたことがありますか。


偉大な信仰の人たちを見て分かることは、彼らは主を喜ばせた人たちでした。

主が喜ぶことをするならば、主もその人を喜んで下さいますし、主が嫌うことばかりをするならば、主もその人を嫌います。

主が喜ぶなら祝福がありますが、主が喜ばないなら 祝福はどんどん遠のきます。


私たちが神を愛し、信じるならば、主が何を喜ぶかに対して特別な関心が必要です。


なぜならば、私たちは自分を喜ばせるために神を信じるのではなく、神を喜ばせるために存在しているからです。


そのために私たちは 主が何を喜ぶかを知ることは、基本中の基本です。

今日の本文にも主が喜ぶことを私たちに教えています。





・正義と公義を行うこと




正義と公義は、人間が追及すべき絶対的価値があるものです。


なぜかというと、聖書が示す “正義と公義” は神のみことばを実践することだからです。


罪は神の言葉に違反した時に生まれました。

罪ほど神を怒らせ、悲しませるものはありませんし、神が一番忌み嫌うものです。


私たちは自身が罪を犯しながらも、他人が犯す罪に対しては怒りを発し 腹を立てます。


先日、殺された中学生たちのことを思うと、罪を犯した犯人に対して怒りの思いが出て来ます。

その犯人を赦して下さいという思いが出て来ないです。


ですから私たちが神に対して 人に対してひどいことをする時に、神様はどのように思うでしょうか。

決して喜ぶことはなく、まずは神の怒りが出てくると思います。


その罪がいけにえで解決されるでしょうか。
旧約時代はいけにえで解決されると思って、いけにえばかり捧げました。


正義と公義を行わず、罪を犯して いけにえばかり捧げたとしても、それで神を喜ばせる事は出来ません。

いけにえよりも、正義と公義を行うことを主は喜びます。


正義と公義を行うためには、まず すべきことがあります。

それは罪を認め、主に悔い改めることです。





・いけにえよりも 悔い改めと神の言葉に聞き従うこと




神は、私たちが罪を悔い改めて神のことばに従うことを願うのに、それをせず 奉仕や捧げもの等でごまかすことを嫌います。


サウル王が神の言葉を無視した後、分捕り物の中から羊と牛を残した理由を、“神へのいけにえのためである” と言われた時に、サムエルが語ったことばを皆さんも聞いたことがあると思います。


【第1サムエル記15章22節】

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

神様は、主のことばを素直に聞き従うことを喜ぶ方です。

それが主を恐れる姿であり、主の権威を認める姿です。


そして罪を犯した者が言い訳したり ごまかしたりせず、素直に悔い改めることを喜んで下さいます。


ダビデ王も神の前に罪を犯し、しばらくは悔い改めることをせず、罪を隠したままでした。

しかしそのことで彼と神の関係は悪化していました。


悔い改めた後のダビデの告白を聞きたいと思います。


【詩篇51篇16-17節】

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

私たちは日々、罪を犯しています。それを素直に認めて神様に悔い改めていますか?

主は罪を赦して下さるお方です。


罪人を受け入れて共に食事をしているイエス様を非難した宗教家たちに主は次のように言いました。


ルカの福音書15章で失われた一匹の羊のたとえを語った後に次のように語りました。


【ルカの福音書15章7節】

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。




・主を正しく知ること




神ほど誤解される存在もいません。

目に見えないので人間が勝手にあれこれと言います。


もし自分のことをよく知らない人間が、自分のことを誤解して違うことを勝手に言うならば、どのような気持ちになりますか?

人間が勝手にいうことばを聞いて主はどのように思うでしょうか。


【エレミヤ書9章24節】

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。― 主の御告げ ―

神を知る努力もせず、自分勝手な神のイメージで神を誤解することは愚かなことです。

自分勝手な信仰生活をしながらも、それが神に受け入れられると勘違いすることも愚かなことです。


主を正しく知ることで、私たちは真理の中を歩むことが出来ますし、まっすぐに歩くことが出来ます。

そのことを主は喜びます。





・絶えずささげる感謝



【第1テサロニケ5章18節】

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

感謝されると、心が自然と嬉しくなります。

感謝は、恵みやありがたさを知っているので出ることばです。

“こんなもん” とか “当たり前” としか思わない人からは感謝は出ません。


いつも口から感謝がこぼれる人を主は喜んで下さり、恵みを注いで下さいます。

それは神の耳に美しい歌のようです。





・神に対する信仰




【ヘブル11章6節】

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

無神論者、偶像崇拝者、信仰の薄い者は神に喜ばれることはありません。

純粋に素直に神を信じる者を主は喜んで下さいます。


自分が持っている信仰が果たして神に喜ばれる信仰かどうかを知る必要があります。

喜ばない信仰をいつまで持ち続けても、それが自分に何をもたらすでしょうか。


主が喜ぶすばらしいいけにえがあります。


【ヘブル13章15-16節】

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。

神をほめたたえ、人を心から愛し、みことばを実行する時に、主が喜ぶことは当然なことだと思います。


その他にも主が喜ぶことがありますので、それはみことばだけを伝えたいと思います。

みなさんが心に留めて、実生活の中で実行出来たら主は喜んで下さいます。


【箴言11章20節】

心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。




・福音伝道




【ローマ10章15節】

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」




・神へのささげもの




【ピリピ4章18節】

私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。




・祈り




【黙示録5章8節】

彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。

これらのみことばによっても分かるのは、神を喜ばせることはハードルが高くて難しいことは何もないです。


私たちが神への愛と関心と信仰の心があれば、すべては今すぐにでも実行出来ます。

神は誰にでも出来ることを求め、それに従う人を喜んで下さいます。

神に栄光をささげることは、神が喜ぶことをすることです。


愛は相手が喜ぶことをすることです。

それが犠牲を払う事でも、愛があればその犠牲も喜んで払います。


神を愛していますか?
(・∀・)

2015.8.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖書に出てくる地域教会①

テーマは 『  聖書に出てくる地域教会① 』 です

【使徒の働き8章1節】

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

聖書に出てくる地域教会に対して、今回と次回の2回にわたってメッセージを伝えたいと思います。


ヨハネの黙示録に出てくるアジアの七つの教会に対してはよく聞きますが、それ以外の教会もありますので、今回は七つの教会以外の教会はどのような教会であったのかをみて、自分たちの教会も良い所は学びたいと思います。


イギリスに留学中の韓国留学生たちが、宣教師と教会を探していました。

イギリスには古くから大きな教会がたくさんありますが、
彼らが使わない時間に教会を借りようと思い、ロンドンにある多くの教会を訪ねました。


すると、すべての教会の責任者たちから まず最初に聞かれたことは、“賃貸料としていくら支払うのか?”でした。


なぜ皆が同じ事を聞くのか、だんだんと不思議な気がして来ました。

どうして教会がお金のことを先に聞くのかと思い、その理由を聞きました。


そうしたら、どこの教会も貧しいので冷暖房を使うことが難しく、もし冷暖房を使用するならお金が必要である為、お金のことを先に聞いたと言われました。


教会の建物は立派ですが、信徒は年寄りばかりで 前から2列目まで人が座り、その後ろは空席状態でした。

イギリスは18世紀から19世紀にかけて信徒が多く、世界的に有名な説教者たちも多かったです。

スポルジョンの教会には6千人の座席があり、世界中に宣教師たちも送りました。


しかし、今はどこの教会も人が少ないので、以前のような輝きは完全に消えてしまいました。



反対にイスラム教を信じる人がすごく増えて、教会の建物までイスラム教が買い占め、建物はそのままで、十字架だけを取り除き、そこにイスラム教のシンボルである三日月を飾っています。

三日月は発展を意味します。


モスクに違和感を持っているヨーロッパ人が多いので、教会を買ってそのようにすると 周りの人がモスクだと気付かず、教会だと思っているようです。


イスラム教徒は世界で4人に1人です。
日本でも外国人を含めて11万人のイスラム教徒がいます。お金の力でどんどん浸透しています。


このような時代ですので、教会がしっかりしないと 後でとんでもないことが現実に起こります。


リバイバルした時代の教会の姿が聖書に出てくるので、それを学んで初心に戻らないと、すべての教会が衰退すると思います。


信徒の数が増えるのもリバイバルですが、霊的に強くならないと サタンやこの世に潰されてしまいます。


ですから、その時代の教会の姿をしっかりと学び、受け入れるべきものは受け入れたいです。
今、とても弱さを感じていますので、教会が変わって欲しいと思います。


これから初代教会の姿をみていきます。




エルサレム教会




エルサレム教会は聖霊降臨の後に最初に出来た教会で、霊的に一番強い教会でした。

教会の指導者たちが主の弟子たちでした。


【使徒の働き2章40-47節】

ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。

信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

特徴としては、聖霊の働きが活発で 多くの奇跡が起きたこと、そして主のことばに対する全き従順、信徒たちの深い交わり、霊的祝福を何よりも求めた教会でした。


そして評判の良い教会でしたので、毎日救われる人がたくさんいて、爆発的なリバイバルがありました。

しかしこのような状態は長く続きませんでした。

サタンによる激しい迫害が始まり、それによって使徒たち以外はエルサレムに留まることが出来ず、諸地方に散らされていきました。


散らされた人たちは、ただ逃げたのではなく、みことばを宣べながら巡り歩きました。

そして彼らが行く町に奇跡が起こり、大きな喜びが起こりました。


しかし迫害によって使徒ヤコブが殉教し、他の使徒たちも苦難を受け、多くの信徒たちも苦難や殉教をしましたが、その中でも彼らは喜んでいました。


最強の教会でした。


それが出来たのは、信徒たちが聖霊に満たされ、みことばに満たされ、伝道に熱い思いを持っており、神の国とその義とを第一に求めたからです。


これは心を神に向ける時に可能ですので、私たちが学ぶべき姿です。


形式的な信仰生活では、迫害にすぐ倒されてしまいます。

そのような信仰生活では聖霊に満たされることも、従順することも、使命に燃えることも出来ません。


私たちにはこれが足りないと思います。
形式的で生ぬるい信仰がとても多いので、悔い改めが必要です。




アンテオケ教会




次はアンテオケ教会の姿です。


【使徒の働き11章25-26節】

バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、

彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

アンテオケはローマ帝國で、ローマ、アレクサンドリアに続いて 3番目に大きな都市で人口は50万人いました。


アンテオケ教会に初めて異邦人伝道の基地が設置され、バルナバとサウロ(=パウロ)がそこで人々を教えました。

ここは異邦人教会の中心地であり、宣教基地でした。


この時、初めてキリスト者と呼ばれたということは、キリスト教がユダヤ教とは完全に区別された新しい宗教であると認められたことを意味します。

それまでユダヤ人は、キリストを信じる者を “ナザレ人”や“ガリラヤ人”と呼んでいました。


アンテオケ教会は、断食と祈りをしながら聖霊の導きを受けて、正式にバルナバとサウロを宣教師として派遣しました。

そしてこの教会は 愛がある教会で、ユダヤにいる信徒たちがききんのために困っている知らせを聞くと、それぞれの力に応じて救援物資を送りました。


アンテオケ教会は霊的に成長し、数においても大きく成長した教会でした。

教えられたみことばをよく守り、よく祈り、愛の労苦があったのでリバイバルしました。


数は多くても霊的に弱い教会も多いですが、アンテオケ教会はバランスの取れた教会でした。




カイザリヤ教会




カイザリヤ教会に対しては知らない人も多いと思います。

カイザリヤは地中海に面した所にありますが、ここはエルサレム教会の執事であったピリポの故郷でした。


ピリポはエルサレム教会で最初に選ばれた7人執事の1人でした。

その時に選ばれた執事の条件は、「御霊と信仰と知恵に満ち、評判が良いこと」でしたが、7人の中で一番活躍したのはピリポでした。


彼の活躍は使徒の働き8章に書かれていますが、たくさんの奇跡を行い、誰よりも伝道に熱心で、至る所で福音を伝えました。


【使徒の働き8章40節】

それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

自分の故郷へ行って教会を設立しました。

私たちもこの姿勢を学ぶべきです。
直接私たちが行けないならば、自分の故郷に教会が出来るように祈ることです。


日本人はキリスト教に対して興味がなく、無関心な人がとても多いです。


しかしキリストを信じている人は、その人たちに関心を持って自分たちの故郷にも教会が出来るように祈ることです。


教会がないと、たとえ救われたとしても礼拝する場所がないので困ります。

私たちはピリポのように、執事でも このような立派な働きが出来ることを知って挑戦することです。


牧師だけが教会を建てるのではなく、信徒たちも出来ます。
熱心に伝道したら教会が建ちます。


神戸教会は魂が救われてから出来た教会でしたし、私も信徒の時に教会を開拓しました。


熱心に伝道する信徒がいると、教会はリバイバルしますし、伝道しないとリバイバルはないです。


伝道して下さい。たましいにみことばを伝えて下さい。
そうすると聖霊が働きます。




ローマ教会




伝承によれば、最初 ローマに福音を伝えたのは、バルナバと言われています。


この教会は、ローマ帝國の最大都市であるローマに出来た教会でした。

人口が80万人もいる大きな都市でした。

皇帝が存在し、多くの神殿がありましたし、帝國らしいあらゆる設備が整った大都会でした。


ローマ教会の構成は、ユダヤ人と異邦人が混ざっていましたが、異邦人の方が多かったです。


ユダヤ人と異邦人が一緒にいることで、教会の中には様々な摩擦がありました。

間違えた律法主義信仰を持ったユダヤ人と、それとは反対のキリストにある自由を強調する異邦人の間で意見の衝突がありました。


ローマ書は キリスト教の教理が一番書かれていますが、それは教会の問題点を解決するためにパウロが、救いや信仰、律法、キリスト者の生活全般に対して詳しく教えました。


ローマ教会だけではなく、異邦人がいる教会では同じ問題がありましたので、代表的存在であるローマ教会に教理を伝えました。

ローマ教会は地理的な面もありますが、異邦人教会の代表的な存在になっていきました。


ネロ皇帝は自分でローマ市に火をつけておきながら、その犯人がキリスト教徒であるとして大迫害を加え、焼き殺しました。

また何人かの皇帝によって激しい迫害があり、信徒たちは地下に潜るようになりましたし、その迫害の中で多くのキリスト教徒が殉教し、ペテロもパウロも殉教しました。


それでも信徒たちは信仰を捨てることをせず、命を懸けました。

やがてキリスト教はローマ帝國で認められるようになりました。


ローマ教会をカトリック教会の始まりと思っている人がいますが、それは大きな間違いです。
なぜならば、カトリック教会に初代ローマ教会のような姿はありません。

(初代教会は)ペテロを法王にしたこともないですし、巨大な権力も富も持ちませんでした。


ローマ教会の信徒たちは、信仰のために貧しくなり、権力にも妥協せず、迫害され殺されていきました。

それはカトリック教会とはまったく違う姿でした。似ても似つかない姿です。






これからの時代は、世の権力と富と他の宗教との戦いが激しくなる時代になります。


すでに韓国でもイスラム教が学校の中でも、色々なところでぶつかっています。

とても怖い時代になってきました。


私たちは、聖書にある教会が それらの戦いの中で生き残ったことを見ながら、信仰を強め、聖霊に満たされ、みことばに堅く立って、ますます愛し合い、助け合わないと教会はだんだん衰退して消えていきます。


「この教会が潰れたら、他の教会に行けば良い」と思うのは、神も教会をも愛していない姿です。


ますます主のために良い働きが出来る教会になるように、力を合わせないといけないです。


信徒が教会に無関心であるならば、未信者よりも悪い姿です。


初代教会はとても霊的に強い教会で、神の言葉に対しても よく聞き従順していました。
そして迫害にもよく耐えました。


主の再臨が近づいているので、私たちは目を覚まして、神の働きにも力を入れて、教会を強め、魂に対しても関心を持ってみことばを伝え、それぞれが出来ることをしていきましょう。


この世の流れがとても不気味です。
イスラム勢力は拡大してきています。


クリスチャンとして生きにくい時代になっています。

生ぬるい教会では飲み込まれてしまいます。


生ぬるい信仰では妥協して名ばかりの信仰になり、迫害があると“主を知らない”と言います。


必ずその時代が来ますので、危機感をもって信仰生活をしましょう。
(・◇・)ゞ


2015.7.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖書に現われた宣教

テーマは 『 聖書に現われた宣教 』 です

【詩篇67編5節】

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

宣教の働きなしに人々が神のことばを聞くチャンスはあまりありません。
つまり、伝える人がいないと、誰も神のことばを聞くことが出来ないです。

宣教は神の言葉を伝えることであります。

私たちは宣教のことを考えると、宣教は新約時代になってからのものだと思いますが、
決してそうではなく、宣教は旧約時代から神様の計画であり、そして実際に宣教活動もありました。

今回は宣教がどこから始まったのかを学んでいこうと思います。




(1)宣教はどこに根拠を置いているのか?




神様は天と地を造り、全世界のすべての主権者であります。

そして神様は1人の人を選びました。
それは信仰の先祖・アブラハムです。

一番初めにアブラハムに語った言葉に世界宣教の計画があります。


【創世記12章1-3節】

主はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

3節の「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」は何を意味しているでしょうか?

罪によって死ぬしかない人類が、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによって救いを受けるという霊的祝福を暗示しています。


イエス様はアブラハム、ダビデの子孫であります。
(このことはマタイの福音書1章1節に“アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。”と書かれています。)

それを見ても分かるように、神様がアブラハムに与えた計画を完成させたのが、イエス・キリストであります。


イエス・キリストは天から地上に来られて 罪の中にいる人々を救うため十字架にかかるために来てくださいました。

そして死んでいる者はみな救われるという言葉が聖書に書かれています。


【ガラテヤ3章7-9節】

ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。

そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

8節に“福音”ということばが出てきます。
アブラハムの子孫だけではなく、信仰による者たちは たとえ異邦人であっても救いを受けるのです。


ですから神様の宣教の計画は、旧約時代から既に始まっていました。




(2)詩篇にある世界の救いの約束




詩篇は祈り・賛美だけが書かれている箇所ではありません。

神様の預言のことばがたくさん書かれています。そしてその中に救い・宣教の計画が175回も出てきます。


詩篇67編は“宣教師の歌”と言うほど全世界に福音が伝えられることを願っています。

私たちが人々の魂を導きたいなぁと思うならば、この祈りが必要であります。


【詩篇67編1-7節】

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。

私たちは全世界の民が救われることを願って、このように祈りをしていかなければならないです。


宣教は たましいが救われるための最初の一歩が “祈り” であります。

なぜなら人間の力では、たましいを救うことができないからです。
私たちは伝えることは出来ますが、その中でたましいに触れるのは聖霊様であります。

ですから私たちは まず神様にたましいが救われることを祈る必要があります。
祈るならば神様は働きます。神様の力ある御業を現してくださいます。


詩篇に書かれている世界の人々への救いの約束のことば175個をすべて紹介することは今は出来ませんが、少しだけ伝えようと思います。


【詩篇47編9節】

国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。

範囲が全世界であります。アブラハムの神の民ということは信仰を持って救われる人々の姿です。


【詩篇68編32節】

この世の王国よ。神に向かって歌え。主に、ほめ歌を歌え。セラ

【詩篇96編7節】

国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

神様は 世界と人間を造りましたので1人も滅びることなく、イエス様を信じてたましいが救われ 天の御国に入ることを願っておられます。

しかし、実際に世界は今どのようになっているでしょうか。
神のみこころとは違います。


神様が救いの計画を持っておられても多くの人々は偶像の神々に仕えながら滅びに向かっています。


先日、民族博物館へ行きました。地域の人々の暮らしも展示されていましたが、そこには必ず宗教というものがありました。人間が作り出した神々がどれほどたくさんいたかわかりません。大きいものもあり、小さなものもあり、形も様々でした。

カナンの部族が偶像崇拝をします。エジプトの民たちも偶像崇拝をします。
人々はそこで神々を造り、祭壇を築いて 日々拝むのです。


偶像に仕える者たちの姿を、神様はどのように見ているでしょうか。次の箇所です。


【詩篇97編7節】

偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。

人間は神を知らないと、こんなに無知であり愚かな者であるのか。
偶像を拝むことによって滅びを受けるのに、そのことに気付かず いつまでこういうことをしているのだと神様は見ておられます。




世界には70億人くらいが住んでいます。

人々はどのような宗教を信じているのか見てみましょう。


キリスト教が一番多いですが、それはカトリックとプロテスタントが合わさった数であります。
カトリックの中には異端的なものがありますので、果たしてその中でどれだけ救われるかは分からないです。

プロテスタントの中にも 死んだような教会がたくさんありますので、その中でも真理を正しく知って聖霊を受けて生まれ変わった人がどれくらいいるかは本当に分かりません。


  • キリスト教―― 20億人
  • イスラム教―― 11億9000万人
  • ヒンズー教―― 8億1000万人
  • 仏教―― 3億6000万人
  • ユダヤ教―― 1400万人
  • その他の宗教―― 9億1000万人

イスラム教がすごい勢いで広まっています。なぜなら海外に出て行き命を懸けて伝える人が多いからです。
ヒンズー教はインドの人口が多いので信じている人が多いです。インドには神々と呼ばれているものがたくさんあります。仏教は東南アジアなどに信じる人が多いです。


このように神を信じない人の方が多いです。救われている人はその中に何人いるでしょうか。

イエス様が全世界を見て嘆きました。救われている人は少ないと語りました。神様から見たらそれは心が痛くなることであります。


ですから、私たちは時が良くても悪くても福音を宣べ伝えなさいという言葉を神様が語っています。




(3)旧約時代の宣教によって救われた たましい




≪ ラハブ ≫

ヨシュアが遣わした2人の斥候はエリコにいる遊女ラハブの所に行きました。ラハブは神のうわさを聞いてその2人を隠しました。
なぜ2人がラハブのところに行ったのかは、これもきっと神様の導きであります。神様がラハブの中に からし種ほどの信仰があることを知っていたと思います。

このことによってエリコが滅ぼされる時に彼女は助かりましたし、後にはダビデ王の先祖となり、イエス・キリストの系図の中に入りました。

これも宣教でありました。もし2人がラハブのところへ行かなければ、ラハブもラハブの家族も殺されるところでした。


≪ ルツ ≫

モアブ人でありましたが、ユダヤ人と結婚しました。
旦那は死にましたが、義母であるナオミの信仰を見て、彼女も信仰を持ちはじめ、後にはイエス・キリストの系図の中にも入りました。

自分に影響を与える信仰を持っている人の姿がないならば、ナオミに「ついていきます」とは絶対に言わなかったと思います。

モアブ人にも神々がいましたが、ルツは自分たちの宗教を捨てました。ナオミの信仰を見て「この神を信じたい」という思いがあったのでしょう。


D.L.ムーディー氏は「1人の人が聖書のことばどおりに生きるならば、100人がその行ないを見習う」と言いました。


神様は、クリスチャンたちに「あなたたちは世の塩、世の光です。」
そして「良い行いを通して神に栄光を捧げなさい。」と語りました。
これは私たちが良い行いをすればするほど、人々が私たちの姿を見て 私たちが信じる神を褒め称えるようになります。

私たちが信じると言いながらも、暗闇の業を続けて行うならば 人々は私たちを見てあざけます。


私たちがクリスチャンとして、救われていないたましいのためには私たちの姿そのものが宣教でなければならないのです。キリストを紹介する者でなければならないです。


≪ ナアマン将軍 ≫

彼は権力と名誉がありましたし 豊かな生活をしていました。王様からも すごく信用を得ていました。
しかし彼は治すことが出来ない らい病を患っていました。これは日々苦しいことであります。

その時に福音を伝えたのは誰でしょうか?
イスラエルの地から連れて来られた1人の若い女奴隷は、らい病で苦しんでいる将軍を見て その女主人に話しました。

「もしご主人様がサマリヤにいる預言者のところに行かれたらきっとあの方がご主人様のらい病を直してくださるでしょうに。」と告げました。 これを聞いたナアマン将軍は神の人エリシャの所へ行き、その病気も癒されました。 彼女は良いことを言いました。それが福音です。


福音とは 良い知らせのことです。その人にとって最も必要な良い知らせです。


私たちは福音であるからとイエス様のことを長い言葉で語らなくても、例えば病気にかかっている人に対しては「イエス様は癒してくださいます。イエス様は癒し主です。教会に一緒に行きませんか?」と伝えることが福音であります。

もし彼女が黙って見ているだけで伝えなければ ナアマン将軍は癒されることもなく、救われることもなかったです。





私たちは伝道するのが難しいと言いますが、難しいと考えるならば難しいかも知れないです。
ですが、問題を抱えていない人は1人もいないと思います。

その人たちが 答えを求めている姿を見たならば、その部分で語れば良いのです。

希望がなく「死にたい、死にたい」と言っている人にはイエス様のことを語るのです。
「イエス様はそういう人たちのために来て希望を与えました。「わたしがいのちである。」と語りました。」


ですから私たちは一言でも相手にとって慰めとなり、その人の力となり、希望になることを提供していくのです。

たくさん語るのではなく、1人1人求めるものが違います。
「イエス様ならばこうしてあげます。」と良い知らせを伝えることが伝道であります。


イエス様は「全世界で出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と語りました。

自分だけ救われたら良い、他の人は関係ない、宣教は 牧師や賜物がある人がやれば良いというのではなく、
救われた者は それは伝えることであります。

倒れている人を見て無関心であるなら、自分が神の御前に来た時に褒められるでしょうか?絶対にありません。


天国で一番大きい報いを受ける人は、伝道をし たましいを導いた人です。


なぜ伝道が一番大きい報いであるかと言えば、滅びて行くたましいに対して あわれみの心を持って その人に語るからです。これは愛がないと語ることができないです。

たましいの世話をする者、たましいを憐れんで語る者、愛を示す者は 一番大きい報いを神様から受けます。


宣教することは、人間が堕落した時から神様が願っていることであります。


ですから皆さんの家族や親族、周りの人々に対して、私たちは一言でも良いので語ることです。
その人たちが受け入れるか、受け入れないかは その人の責任であります。

ことばだけではなく、私たちが人々の間で感謝と愛にあふれる姿を見せるだけでも福音は伝わっていきます。


天国と地獄があることを語っても、その人たちには愚かに聞こえるかもしれないですが、それが福音であります。

宣教の使命は私たちみんなが受けていますので、福音を伝えることをいつも心がけてください。
(*´ -`)(´- `*)

2014.6.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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十二弟子の選びと伝道活動

テーマは『 十二弟子の選びと伝道活動 』です

【マタイの福音書10章1-15節】

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、

熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も 持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。

その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。

その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。

まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

イエス様が十二弟子を選びましたが、どのような目的で彼らを選んだのでしょうか。

イエス様は力ある神様でもありますので、ある意味では人の手がいらないかもしれないです。
1人で全部できるお方でもありますが、なぜ十二人の使徒たちを選んだのでしょうか。
そして私たちをイエス様はなぜ選んだでしょうか?
目的なしに人を選ぶことはないです。

一番の目的が、次のみことば箇所に書かれています。


【マタイの福音書9章36-38節】

また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫の主に、 収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

魂の収穫のための働き手として まず彼らが選ばれました。
羊飼いのない羊のように弱り果てている魂があまりにも多いので、働き手が必要なのです。
イエス様が1人で世話をすることができないのです。

魂の状態をイエス様が見ておられて可哀想に思ったので、十二使徒を先に選んでくださいました。

使徒とは「遣わされた者」という意味があります。主人のメッセージを受けて、それを持っていく人です。
収穫のための働き手は、今もっとも必要であります。


【マタイの福音書10章1節】

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

ですから「私には力が無いので出来ないです。」という言葉は違うのです。
神様に私たちが選ばれた時には、その力が自分たちに与えられているということを認識しないといけないです。

(力が)あると思って働きをする人と、私にはそんなものは無いから出来ないという人では全然違います。
自分たちが持ってあると思うならば大胆に働きができます。大胆に悪霊を追い出そうとすると悪霊は出て行きます。
「私は何も(賜物を)もらっていない、そんなに長い訓練を受けていない、まだ知らないことがたくさんあるので」
と言うのは、関係のないことなのです。

私たちは種として貰っているので、私たちがそれを使えば花が咲きます。使えば収穫することが出来ます。


私たちは、選ばれた十二弟子の姿を見ていますが、1人として立派な経歴や知識があったり知恵がある人は
誰もいませんでした。ほとんどが、漁師出身、学校に行ったことがない田舎者、しかし神様はこういう人たちを
福音を伝える人として選んでくださいました。

これが世の働きであるならば、このような人たちではなく 違う人を選ぶと思います。

しかし、福音は魂を刈り取る 倒れている人たちを可哀想に思って助ける人たちです。
ですから見る観点が違います。

神様は 福音を語る人は献身する人たちを選ぶのです。従順し、主の言葉通りに動く人を選びます。

完璧に出来上がった人たちを選ぶのではないです。弟子たちの姿を見ても失敗はたくさんありました。
しかし他の者を選んでいたら、だんだん高慢になって主の働きではなく魂を自分たちに仕えさせてとんでもない者に
なったと思います。

イスカリオテ・ユダ以外、彼らは本当に良い羊飼いになりました。


【マタイの福音書10章5-6節】

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

イエス様はユダヤ人のためだけの救い主ではなく、全世界の人々のための救い主であります。

まずは先民たちが救い主を分かっていないので、まず彼らから救われて欲しいとイエス様は願っていました。
福音はユダヤ人から始まり、ギリシヤ人、そして全世界に広がっていきました。
サマリヤ人の町に入らないように言ったのは、彼らが純粋なユダヤ人ではなかったです。ですから、イスラエルの
家を失われた羊のところへ行き福音を伝え、そこから全世界に出て行きなさいと語りました。

しかし、実際にはユダヤ人たちは福音を素直に受け止めたでしょうか?― そうではなかったです。

イエス様は3年間伝えましたが、素直な気持ちで受け取らず迫害しました。
使徒たちによって異邦人に福音が伝えられた時に 異邦人の方が素直に福音を受け入れたので リバイバルが起こりました。

神様がおっしゃるのは、まず あなたの家族、あなたの親族、あなたの友達に福音を宣べ伝えなさいということです。
そして、それを越えて宣教へ出て行き多くの人々に福音を伝えていきます。
これがイエス様が語っておられる伝道する時の順番であります。

祈りながら時が良くても悪くても、みことばの種を落していくことです。
ただ、「イエス様を信じなさい」と言うよりも福音が語る良い知らせをたくさん伝えることであります。


【マタイの福音書10章7節】

行って、『天の御国に近づいた』と宣べ伝えなさい。

素晴らしい祝福であります。それを相続するために準備をしておきなさいということです。
福音はそういうものであります。

私たちが福音を語る時に、地獄があることを先に語ってはいけないです。
そうではなく、天国があるということから語ります。このような祝福があるのだと先に伝えます。
メシヤが来ることは祝福であります。
天の御国に入るには、汚れたままではなく今まで犯した罪を悔い改めないといけないです。
悔い改めてイエス様を受け入れたら天の御国に入れると伝えることなのです。
複雑な言葉は救われた後に伝えます。何も知らない人たちには、天国があることを伝えるのです。

世の終わりが近付いていますので、周りを見ると不安材料(災害や戦争など)があります。ですから語りやすいです。
たとえ命を失っても天国に入れるので大丈夫だということを伝えるべきであると思います。


【マタイの福音書10章8-9節】

あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

これは手ぶらで行きなさいという意味ではないです。

主が与えた色々な賜物があります。
病人を癒す力、死人を生き返らせる力、悪霊を追い出す力などがあり、これを主の福音のために私たちが使っても良いのですが、金儲けのために使ってはいけないのだと語っています。
ですから「ただで与えなさい」と書いてあるのです。

実際にそれらを用いて金儲けをする人たちもいるのです。
世の中の宗教は1回祈るのにお金を支払わなければならないです。
商売ですから、神社やお寺には金額が書かれています。とても高い金額です。


しかし、私たちクリスチャンはそういうもので商売をしてはいけないと神様が語りました。
働く者が食べ物を与えられるのは当然だからですという言葉があります。
ですから人ではなく、神様に頼りなさいということです。
神様が導いてくださり、そこで人々の心を動かして相手から「どうぞ入ってきてください。」「どうぞ食べてください。」
「どうぞこれを使ってください。」というのは素晴らしいことですが、自分のほうから要求してはいけないということであります。

神様は、きちんと働く人たちに対しては祝福を備えてありますし、もてなす人々に対しても祝福を備えてある方であります。


【マタイの福音書10章40-42節】

あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、 わたしを遣わした方を受け入れるのです。

預言者を預言者だというので受け入れる者は、 預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに 告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

福音のために働く人たちを私たちは尊敬し受け入れ、その人たちの世話をすることは祝福に繋がることであります。

また、自分たちもそういう者にならないといけないです。
「誰かが働くだろう」ではなく、何のために神様が私を選んでくださったのか
収穫の中で働く者として私は選ばれていると、今 私が伝えなければ誰が伝えるのだ、という認識です。

私たちは主の言葉に従って、弱り果てている人たちのところへ行き、福音を大胆に伝えるべきだと思います。
(・◇・)ゞ

2013.10.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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伝道者パウロの姿勢

テーマは『 伝道に対するパウロの姿勢  』です

【Ⅰテサロニケ2章1-12節】

兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。

ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、 私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

ご存じのとおり、私たちは今まで、 へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。

それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。

このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、

ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

パウロは偉大な伝道者であります。
他の使徒も もちろんそうですが、福音のために自分の命を投げ出した人たちであります。

イエス様から尊い使命を受けたその時から、彼らは命を福音のために捧げるのだという強い決心で
働きだした者です。
パウロが他の弟子たちと違うのは、イエス様が生きている時には 弟子ではありませんでした。

イエス様を迫害した者が、今度は福音のために仕える者になりました。

パウロは特にヨーロッパに対して最初に出て行き福音を伝えた者であります。
アジア、ヨーロッパの門を開いたのはパウロです。

伝道する時に、どこへ行っても激しい迫害が 彼を待ち構えていました。
パウロほど激しい迫害、試練、苦難に遭った人はいません


なぜ、私たちが伝道をする時に迫害が起こるのでしょうか?
今の日本ではそれほど迫害というものはないですが、昔は日本にもヨーロッパから宣教師たちが来て
福音を伝えた時にはすごく迫害を受けました。

初めはそこまで(迫害が)ありませんでしたが、救われる人が増えてきてからは「危険だ」ということで迫害が起こり
多くのクリスチャンや宣教師が殺されました。教会も迫害されました。福音が入った地域はどこも同じです。

「迫害」 これは霊的戦いであります。光を持って入っていくところは暗闇だからです。
霊的に暗闇であります。豊かな国であっても真っ暗闇の世界です。

そこにいる人々は神を知らない者であります。神ではない偶像に仕える者であり、罪の奴隷です。
サタンが支配をしています。

ですから、そこに光を持って入ると、サタンが喜ばないです。福音の真理の言葉が気に入らないのです。
自分たちの肉と敵対するものであるので、そこに迫害が起こるのです。

しかし、神を全く知らない者よりも 一番パウロに迫害を加えた者は、ユダヤ人でありました。
神を知っている者たちで、彼らはイエス様を迫害し、殺した者であります。
パウロも以前は彼らの仲間でした。イエス様を殺した後に、福音を宣べ伝える人たちを迫害していました。
ですから当然のように(パウロが福音を伝える時には)彼らの妨害がありました。

敵対心、憎しみ、妬みの心で殺意を持って迫害しました。


【Ⅰテサロニケ2章2節】

ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、 私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

パウロの素晴らしいところは、どんなに命を狙われる迫害を受けたとしても退かなかったことです。
もし 人や迫害が怖くてそこから逃げたならば、今 私たちに福音が届いていないと思います。

パウロの強さは、どんなに迫害されても逃げなかったことであります。
それは初めから命を捧げているので命を狙われても良いということです。
これが一番強いことであります。

私たちは福音を伝えていますが、多くの人たちが(誰かに)反対されると引っ込んでしまいます。
「この人は無理だ。」という思いが出て、自分自身も迫害に耐えられないので、「もういいわ」となります。


なぜ、このような思いになるのでしょうか――?

自分で自分を守ろうとするからであります。
恥をかきたくない、迫害をされたくない、苦しみも受けたくない、自分のプライドがそれを許さない。

そうなってしまうと、福音を伝えることが出来なくなります。
これはイエス様が来られた時も同じでした。誰も(イエス様を)歓迎をしませんでした。
イエス様が悔い改めを語っても、耳に厳しい言葉は聞きたくないのです。
しかし、これが普通なのです。

福音を伝えるならば、当然その人たちが反対をして抵抗し受け入れず、そして悪口を言います。
こういうものであると 私たちが初めから思う必要があります。

私たちが激しい迫害を受けても、パウロを見習って逃げてはいけないです。
相手の陣地に入るということは、激しい霊的戦いをしていく という思いをもって行かなければならないです。

インドに行った宣教師も1人の魂を勝ち取るのに7年かかりました。
行ってすぐにリバイバルが起きた事はほとんどないです。

環境を恐れる必要はないです。環境を恐れると何も出来ないです。
小さなアリのように思うと良いです。すると恐れの心が消えます。
「私の中におられる神様がどれほど力があるのか」と思う必要があるのです。

義人の道には苦難があるのです。クリスチャン生活も、敬虔に生きようとすると苦難があります。


【Ⅰテサロニケ2章3-6節】

私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、 私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
ご存じのとおり、私たちは今まで、 へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、 人からの名誉を受けようとはしませんでした。

4節に「神を喜ばせようとして」と書いてあります。

伝道する一番の目的は、神様を喜ばせるためです。
イエス様もそうでした。父なる神様のみこころを行うためでした。

神様を喜ばせたいという思いが初めに来た時に、神様はその人の働きを喜びます。


【Ⅰテモテ1章11-15節】

祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、 私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
私は以前は、神をけがす者、 迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを 受けたのです。
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、 ますます満ちあふれるようになりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」 ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

自分が以前どのような者であったのかを語っています。命の恩人(キリスト)のことも言っています。

命の恩人には、感謝の心で命を懸けることなのです。
イエス様は、私たちの命の恩人であります。

私たちは神様を喜ばせなければならないです。神様は素晴らしい恵みとともに使命を与えてくださいました。
私たちが福音を伝えることは、神様がすごく喜ぶことでありますので伝えたら良いです。


そしてパウロが伝道をする時に1つの思いがありました。
パウロは人々の魂を愛しました。熱い愛がありました。これがないと伝道を続けることが出来ないです。

【Ⅰテサロニケ2章7-9節】

それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い 育てるように、優しくふるまいました。

このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、 私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者と なったからです。

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちは あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

パウロは天幕を作る仕事をずっとしながら、自分のための稼ぎもありました。
その目的は人々に負担をかけたくなかったからです。

愛には必ず犠牲が伴います。犠牲が伴わないものに「愛」という言葉は相応しくないです。

口先だけで「愛します。愛します。」と言っても何の値打ちもありません。
愛は必ず自分の方から犠牲を払うことであります。相手のために何かをすることなのです。
負担をかけることが愛ではないです。

ですから神様は、相手に必要なものを与えなさいとおっしゃいます。

人々がパウロの姿を見て、たくさんの魂が救われました。


世の中には様々な宗教がありますが、それらを素晴らしい愛の宗教だとは誰も思わないです。
自分たちがそれを信じていながらも言う言葉があります。「宗教 = 金儲け」 と日本ではたくさん言われています。

しかし、キリスト教の姿はそうではないです。イエス様ご自身が犠牲を払いました。
人々から名誉もお金ももらったことはないですが、イエス様は命までも捧げました。
弟子たちもそのような姿でした。
しかし、その時代でも他の宗教はそうではなかったです。金儲けであり、自分達の腹を肥やしていきました。

パウロはその中でも昼も夜も働きながら、神様の福音を彼らに伝えました。それが彼の愛の姿であります。


また、パウロは福音を伝える際に気を付けていることがありました。

【Ⅰテサロニケ2章10節】

また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、 あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

福音を聞く者たちにつまずきを与えないことであります。

私たちが伝える福音は素晴らしいものですが、伝えるその人自身がダメな者であるならば
人々はそれを受け取ることができないです。

神様は私たちに「世の光、世の塩です。」という言葉を使いました。もし、塩が塩けを無くしてしまうならば、
人々に踏まれると語っております。料理でも同じように、塩は少しで良いのです。
どんなに小さな光でも、暗闇の中では明るくなります。

私たちが完璧過ぎても周りは遠慮してしまいますが、まだまだ色々な部分で未熟な者であっても、
私たちは自分と近いところへ行き、福音を伝えたら良いのです。そうしたら受け入られやすいです。

わずかな塩でも、わずかな光でも良いです。そして自分自身もその中で変わっていくのです。
1日でも1回でも 行動を起こす時に、主の力がその中で働きます。

パウロはいつも人々に福音を伝えましたが、自分自身も福音の中で生きることを心掛けていました。
これは福音を伝える者は、誰もがそうすべきであると思います。
汚い手で良いものを渡すのではなく、手を洗って神様に悔い改めながら綺麗なものを与えるならば、
受け取るのです。

パウロの伝道者としての姿を見て、私たちも学んでいきましょう。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2013.7.21
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あなたは誰ですか?伝道について

テーマは 『 伝道するために 』 です

【ルカの福音書15章3-10節】

魂を救う為に、伝道しなければならないということは知っていますが、
「どうやったら伝道できるのか?」と悩んでいる人が結構多いです。

神様が一番喜ぶことは、罪人が悔い改めて、主に立ち返ることです。

天国に喜びを与えるために私たちが人を導くのではないです。
救われた人たちは、まず救いがどういうものであるのかを理解しなければならないです。

【Ⅰペテロ2章9ー10節】

救いを受ける前と、救いを受けた後は、状態が変わったことをこの箇所で主が教えてくださいました。
救いを受けた人たちは、今度はそれを伝えなければならないです。
その使命を神様が私たちに与えてあります。
私たちは(世の人たちと)区別されていますが、私たちも以前はそこにいた者で、神様から救い出されました。
ですから今度は私たちが行って、その人たちをそこから救い出しなさいというのが神様が私たちにさせることです。

伝道をする時に、いくつかの方法があります。“語るべき言葉”です。


① 「あなたは誰ですか?」

この質問をするなら、びっくりすると思います。それで相手の人は名前を言うかも知れませんし、
自分が所属している名称を言うかも知れません。

ですが、本当の意味で あなたという存在は、何ですか?と聞くことであります。
質問を受けた人々は答えられないと思います。
自分という本質は何であるのか――?わからないと思います。
ですから、神様を求めないのです。救いが何であるのかがわからないのです。

聖書には、全ての人間はこういう者であると教えてあります。

【ローマ3章23節】

神様から見る私たちの姿は「罪人」であります。これは全ての人間に共通した部分です。
これを伝えなければいけないです。

「私が何の罪を犯したんですか?」と腹を立てるかも知れません。
その時に「神様があなたを罪人だと言っている姿はこの姿です。」と教える部分は、
人間だけは神様の姿に似せて造られたものですが、それは神様の栄光を現す為に造られた目的があります。

しかし、人間が神様の初めの言葉を無視して逆らいました。それが罪の始まりでした。
神様が人間を造った(本来の)目的通りではないです。

ですから神様の栄光を受けるに相応しくなく、栄光を現す事もできないのであります。
その姿が、神様の目から見たら罪人なのです。

すべての人間は汚れているので、罪とは言わないで「似た者同士でしょう~」と、
お互いの汚い部分は見ようともしません。

しかし、聖い神様の目から人間を見ると、誰もが罪人です。それを神様が教えてあります。

それでも「私は罪人ではない」と語るならば、その人たちの罪を見せることです。それが次の箇所です。

【ローマ1章19-32節】

この箇所に1つも当てはまらないという人はいないです。これらは罪の姿であります。
私たちはこういう罪を人々に見せなければならないです。


② 「あなたはどこに向かっていくんですか?」

私たちの人生はどこかに向かって歩いています。立ち止まった人はいないです。
永遠にこの世で生きる人はいないです。
どこかに行くのです。

それを相手に聞きます。
人によって「知りません。」、「天国に行きます。」、「死んだら【無】でしょう?」等と答えるでしょう。
しかし、それが真理でしょうか?
神様から出た真理の言葉はそうではないです。

【ヘブル9章27節】

どこに向かっていくのですか? ――神様の裁きの座に私たちは死んでから、まず向かっていきます。
そこに誰もが立たなければならないです。

「私は【無】になった方が良いです。」と言っても誰も逃げることができないです。
なぜなら、世界を造ったのは神様であり、法則を造ったのも神様であるからです。

自分は願っていても、これだけは避けることができないです。

【ヨハネの黙示録20章11-15節】 、 【ヨハネの黙示録21章7-8節】

いのちの書に書かれている人は、勝利者として神様の御国に入ります。
もう1つは、その人達の不信仰によって、数々の罪によって火と硫黄の燃える池の中に永遠に閉じ込められます。

ですから、「どちらに行きますか?」ということであります。あなたは、どちらに行きたいですか?
これは2つに1つで、その中間はないです。

もし「救いの道に行きたいです」と言うならば、そのまま(救いの道に)行くのではないです。
“みことばを通して神様は「そこに行きたいならば、こうしなさい。」と、あなたに対する解決策を
神様が持っていらっしゃいます。”と、次の箇所を伝えます。

【エペソ2章8-9節】

信仰というものは、神様の言葉を聞く事であります。
福音は悔い改めなしには無理なのです。私たちの信仰には悔い改めが必要であります。

救いは悔い改めなしには、救いはないです。悔い改める時にイエス様の血潮が注がれるのです。

現代の福音は間違ったものが多いです。教会でも悔い改める事を語らず恵みだけを伝えることは、
それによって魂は救われません。

信仰を見せるということは、罪を認めて立ち返ることであります。
罪人であると自分を認めることです。「私には救いが必要です。私を救ってくださるのは神様しかいません。」と
それが信仰であります。

【ヨハネの福音書3章14-16節】

【民数記21章4-9節】

自分の罪によって死んでいく者であっても、イエス様の言葉を信じて十字架を見上げるならば、
その人は生きます。
しかし、不信仰なまま神様の言葉を耳に入れないならば、その人はそのまま死にます。
ですから同じように蛇にかまれた者であっても、1人は生き、1人は死にます。
その違いは神様の言葉を信じたか、信じなかったか、です。

行いを良くするからと言って、罪が消されることはないです。
自分の汚れは、それを洗い落とさない限り汚れが付いたままです。
イエス様の血潮でないと、その汚れは絶対に無くならないです。

それが神様が用いた方法・解決策であります。

私たちは十字架がこういうものであるのだということを“民数記とヨハネの福音書”の聖書箇所で
知ることができます。
私たちは愛だけを伝えるのですが、それだけを伝えると十字架が見えてこないです。
罪人のためにイエス様が十字架に架かって死んでくださいました。


③ 「あなたはどうしますか?」

決断は私たちがするのではなくて、
みことばを聞いた人たち、解決策を聞いた人たちが選ばなければならないです。

あなたがそれを信じて、決断をするならば、こうなりますと次の箇所があります。

【ヨハネの福音書1章12節】 、 【ヨハネの福音書5章24-25】

神様はどんな時でも私たちがみことばを聞いて、信じて救われる事を望んでおられます。

救いは軽いものではなくて、本当に永遠の命を得るか、永遠の死を受けるか、一番大きい問題であります。

ある人たちは、平気に「地獄が良い」という人がいます。
それは地獄を見ていないから言えるのです。

この地上でも地震が起きたり、テロが起きている悲惨な場面を見ているだけでも、ゾッとします。
恐怖や不安でいっぱいになります。

だけど、それは地獄に比べたらある意味では大したことではないです。なぜならそこから逃れる道があるからです。

しかし、地獄というところは、どんなに逃げたくても逃げられなく、終わって欲しいと願っても終わらない世界です。
どうやって人間を常に苦しめようかと楽しんでいるサタンが取り囲んでいます。
燃える火に投げ込まれても、一度入れられたらどうにもならないです。

「天国はつまらなさそう」という人もいます。その人がそういう世界があることを信じないから言うのですが、
「本当に 本当に、そのような世界があったらあなたはどうするのか?」と
「死んでしまったらもう遅いよ!」と私たちはその人たちを責めなければならないです。
「それでも良いのか!?」と私たちは語るべきであります。

私たちは神様の素晴らしさを伝える使命があります。しかし、(私たちに)みことばが何もないのなら、
人々にただ「信じなさい」と言っても、その人達は何を信じたら良いのかわからないです。

なぜ信じなければならないのか、その意味もわからないのです。
ですから私たちは、みことばには力があるので順序正しく、「あなたはこういう者です。」
「あなたはどこに向かっていくんですか?」とそれを教えることであり、
そして「救いはこういうものであります」と自分の努力や行いでは救われなく、
どんなに拝んでも、良い働きをしても、それでは救われません、と

それを教えることであり、救われたらこういう素晴らしい状態になりますと私たちは伝えることであります。

始まりがあり、終わりがあります。中途半端に教えるのではわからないです。
罪人であることを教えない限り、悔い改めることはしないでしょう。
悔い改めなしに主に立ち返ることもないです。救われることもないです。

罪がないと十字架がいらないです。十字架が意味のないものになってしまいます。
ですから、十字架は何のためにあるのか・・・。
    → 「罪人である あなたのためにあります」。

神様はあなたが滅びに行くことを願わないです。1人も滅びに行くことを願わないです。
それで神様がそうしました、と。そして福音を伝えることであります。

これが伝道するということです。
私たちが正しいものを伝えない限り、正しい道に導くことはできないです。
今回のみことばは紙に書いてカバンの中に入れておいてください。

こういう伝道方法を用いて、魂を導いてください。 (・◇・)ゞ

2013.2.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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