からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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主の臨在

イエスから目を離さないでいなさい

テーマは 『 イエスから目を離さないでいなさい 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷と まつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめを ものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

先月 韓国で ある牧師先生が書いた『イエスから目を離さないでいなさい』というタイトルの本を買いました。

その牧師先生は“24時間 イエス様だけを見て生活すること”を日々 目指しているという内容が書かれており、
読みながら恵みを受けますし、チャレンジも受けています。

目的は「主の臨在の中で生きるキリスト者」です。


これはとても大切なことであります。
「イエスから目を離さないでいなさい」と言われるのは、すなわち「あちこちに目を移さないようにしなさい」ということです。 私たちがいつも見ていないといけないのは「イエス様」だけだという意味です。

いつもイエス様だけを見て生きるというのが、イエス様が私たちに願うことであります。


信徒たちは「24時間 イエス様だけを見るのは難しいです。しんどいです。」と言います。
これはただ単に仕事もせずに、何も考えずに そうしなさいという意味ではないです。

実際 イエス様が自分の心の中におられることと信じているならば、私たちは24時間イエス様を見て生きようと決断するのが当然であり正しいことです。
心の姿勢を徹底的にしなければならないです。


人は何も考えずに生きることはないです。
私たちは必ず何かを考えながら生きています。次から次へと思いが止まることがないです。
そう考えると私たちが24時間イエス様のことを考えることは難しくはないのです。

現実を見ると24時間“恋人”のことばかり考える人や、“株”のことを考える人、“お金”や“仕事”“心配”ばかりを考えています。
自分で自分の思いをどうすることもできないほど 人間は深く考えるとそれに没頭する姿が見られます。

信仰を持っている人はこれをイエス様に対してもそうするように決心をしなければいけないのです。


他のことは出来るのに、イエス様を24時間見るのは出来ないというのは、私たちの心が他のものが関心があるからです。


先ほど紹介した本に書かれている内容で、その牧師先生から影響を受けて 別の牧師も毎日24時間イエス様だけを見て生きる生活を始めました。

本を書いた牧師先生は、霊性日記を書いていますが、それを真似して その牧師も書き始めました。
霊性日記とは、日々の出来事を通してイエス様を見る訓練であります。


ある時に、この牧師は失望した表情で(本を書いた牧師先生を)訪ねて来て 苦しい胸の内を語りました。
「私は24時間イエス様だけを見て、霊性日記をつけていたのですが、私は罪に倒れました。どうしたら良いですか?」と質問をしました。

それを聞いた牧師先生はびっくりして苦しい心で「霊性日記を書いても無理でしょうか。」とお祈りをしました。
するとその時、主はすぐに鮮明に応えてくださいました。

神様は「わたしを24時間見ているなら罪に倒れることはない。その牧師は自らを欺いているのだ。」と語りました。


それでもう一度その牧師を呼び、「日々、どのような生活をしているのですか?」と聞いたので、
その牧師は「私は毎日、霊性日記を書いています。でもいつの間にかニュースのことが気になりインターネットで調べました。
インターネットで調べていると色々なサイトが出て来て、そこにアダルト動画があり、その誘惑が来ました。
その誘惑に勝つことが出来なかったので、アダルト動画を見て罪を犯しました。
霊性日記を書いても、こういう罪に私が倒れてしまったのだ。どうしたら良いのかと思いました。」


しかし神様が教えたのは、彼が語っていることとは違うことなのです。
「あなたは24時間わたしを見たのではなく、わたしから目を離してあなたがそういうものに心を開いてしまったからだ。ネットで調べている時に わたしのことを見ていたのか?」ということでした。

もしイエス様のことを見ていたならば、そういう誘惑が来ても開かないです。「これはサタンの誘惑だ。絶対に見ません。」という心の決断であります。
それをしていたならば絶対に罪を犯すことがありませんでした。

「見たい」という思いが来て、自分の手でそれをクリックして扉を開いてしまいました。
それを見た後に「あぁ、私は24時間 イエス様を見ていたのに罪を犯した。」と言うのは自分を欺いているのです。


神様は誰も誘惑をしません。
あなたが誘惑されたのは自分の中にそういう欲があるから、欲と誘惑の波長が合い繋がったために そこから罪が出て来るものであります。


私たちは一瞬でも、5分でも10分でも誘惑に心が奪われて目をイエス様から離して違うところを見ているから誘惑が来るのです。サタンは常に私たちを狙っているのです。



【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

最も私たちが心を守るために重要なところであります。
なぜ神様はこのように私たちに語ったのでしょうか?

それは、私たちの心はとても重要な部分だからです。

私たちの心には、イエス様が共に住んでおられます。


聖書では、これを「結婚」にたとえました。

これを知るならば、私たちの心に サタンが与える思いを入れることがなぜ大きな罪になるのかが理解できます。
結婚した男が、妻以外の女性を家の中に入れて住むならば、また 結婚した女が、夫以外の男性を家の中に入れるならば、おかしなことです。
結婚生活が成り立たなくなり それは不品行・姦淫の罪なのです。

イエス様は「大丈夫だよ。あなたが罪を犯してもわたしは心が広いから赦してあげる。」とは言わないです。この罪のことだけはイエス様は赦さないのです。

妬む神様であり、他のものとイエス様が共存することはありえないことであります。

体よりも、私たちの心を一番に狙っています。心の中で犯す罪を人間はあまり罪だと思わないからです。


サタンの思いは心に来ます。そして神様も私たちの思いを通して働く方であります。
神様の声は、肉声のように聞こえる声ではないです。

私たちが祈ったりしている時に、急に良い思いが来る時がありますが、それは聖霊の思いです。
これはサタンも同じやり方をします。サタンも急に思いを入れます。それも悪い思い・否定的な思い・不安な思い・恐れの思い・憎しみの思いを入れます。

そこで私たちがその思いにやられて、思いを黙想するので そこから身ごもって大きくなり罪を犯すことになるのです。


神様の思いが来た時に私たちは「これは聖霊様から来た思いなのだ。」と自分の中になかった思いを素直に信仰で受け取って行動をしたら良いです。

神様は からし種のような小さな思いを入れて、それを私たちがキャッチするのです。


私たちはそこで従わないと、その思いは消えていきます。せっかく神様が私たちを助けようとしたのに、私たちは信仰で反応しないとチャンスが消えていきます。

これからは思いがパッと来た時に、サタンによる悪い思いだったら「違う!」と言って、それに心を開かないことであります。しかし良い思いが来る時は、「これは聖霊様から来たものである」と 従って信仰で受け取ることなのです。

心には神様以外を入れないと決めて、それをするならば、神様はそこで働いてくださいます。

ですから、その心を守るために24時間イエス様から目を離さないことが大切です。




狭い門から入りなさい



【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

滅びに至る道はなぜ広いのでしょうか?なぜそこへ行く人が多いのでしょう。
そこには誘惑するものが多いからです。私たちを潰そうとする敵ががたくさんいます。
でも人々は霊的存在を知らないので、目があちこちへ移ってしまいます。

そこには目の欲を満たすものがたくさんありますので、目の欲、暮らし向きの自慢、肉の欲、そのようなもので倒されていきます。


しかし、狭い道にはイエス様だけが存在しています。イエス様は「わたしが道である。」と語りました。
道そのものがイエス様ですから、誘惑するものがないのです。

私たちの心を守る時に、私たちの霊的命が守られます。心を守れないと命を失うことになり、イエス様も失うことになります。


道であるイエス様がおられないなら、どうやって父なる神様のところへ行けるでしょうか?
イエス様から目を離すということは、滅びが始まるのです。

私たちが本当にイエス様を愛しているならば、イエス様と二人きりになるのが一番楽しいと思います。

愛し合う人同士は、2人だけの時間をたくさん作って、その時間を大切にします。
私たちがイエス様を愛するならば、いつもイエス様のことを思うのは難しくはないと思います。


イエス様と2人で この小道を歩きたい、イエス様とだけ話をしたい、イエス様だけを見ていたい。イエス様とだけ仲良くしたい。という思いが出てきます。

その思いがないならば、イエス様を愛していないことになります。

自分を愛し、自分のために命を捨ててくださった命の恩人であるイエス様。そして自分もそのようにイエス様を愛するならば、他のものがいらないのです。 イエス様だけで十分です。と、このような思いが出てきます。


ですから狭い道でも、険しい道でも 決してその道が いばらの道ではないということであります。
愛する人と共に歩く道は 周りを全然気にしなくなり、イエス様を見るだけで心が幸せになります。

しかし「まだそこまで親密ではないです。」と言うならば(イエス様を)愛していないということです。

イエス様が私たちに一番求める心は「愛」なのです。


本来ならばイエス様を見ていなければならないのに、イエス様を見ずに どうでも良いことに目を奪われているから私たちの心の中には平安がなく、祝福・喜びがなく、いのちがないのです。

ヘブル12章1節に出てくる多くの証人たちは、ヘブル11章に出てくる信仰の人々です。その人たちは、地上で主と共に歩んだ人たちです。
その人たちは私たちより先に 主だけを見て生きた人たちです。彼らはどれほど祝福されたでしょうか。

それを見て、私たちもあちこち目を向けず、主だけを見る生活を目指すべきです。






このような話がありました。

イギリスの とある教会で、ある日の早天祈祷会で時間になっても、なぜか牧師先生が現れませんでした。 5分が過ぎると長老が代わりに祈祷会を導きますが、その日は長老も参加しませんでした。

誰かが祈祷会を導かなければいけないので、仕方なく靴の修理工をやっている執事1人が立ちあがって前に出ました。
その執事は 初めて前に立ちました。そして(今回のメッセージテーマである)ヘブル12章2節を読みました。

「今日のタイトルは『イエス様を見ましょう』です。」 このように言いましたが、次に何を語ったらいいのかわかりませんでした。それで彼はこのように言いました。


「イエス様を見ましょう。イエス様だけを見ましょう。ほかのものは見ないで イエス様だけを見ましょう。
私たちは必ずイエス様だけを見ましょう。
何があってもイエス様だけを見るべきで、他のものは見てはいけません。

とにかくこの世にイエス様がおられるように イエス様を見ましょう。
喜びの時も、悲しみの時もイエス様を見ましょう。

毎日鏡を見るように イエス様を見ましょう。

朝にもイエス様を見て、昼にもイエス様を見て、夜にもイエス様を見ましょう。
立ってもイエス様を見て、座ってもイエス様を見て、寝てる時もイエス様を見ましょう。

生きても死んでもイエス様を見ましょう。私たちは必ずイエス様だけを見るようにしましょう。」


このように たどたどしく、「イエス様だけを見ましょう」という彼の説教を聞いた信徒たちは笑いをこらえたり、失望したり、
ある人は目を閉じてメッセージを聞かずに祈ったりしていました。

しかし当時、その場所には幼い頃の“スポルジョン”がいました。

人類歴史上 一番優れた説教者で、説教の皇帝と呼ばれたスポルジョンだけがそのメッセージを真剣に聞いていました。

そして後に世界的に有名な説教者になりましたが、彼が語ったのは、「わたしはその日聞いたメッセージを一生忘れない。」と、彼が説教者として生きようと決心したのは、そのメッセージを聞いた時であったと告白をしました。





24時間イエス様を見て生きる生活は本当に大切なことであります。

これは主の臨在の中で常に生きる生活であります。これが私たちの目標でなければならないです。

私たちには人生の目標が色々あると思います。しかしその目標は、イエス様の臨在の中で生きている目標よりも高いですか?
それらのものは地上のわずかな時だけの目標であるのです。それはある意味では得なくても良い目標なのです。


他の目標を立てても良いです。しかし一番の目標は“いつもイエス様だけを見て生きる”生活を目指さなければならないです。
自分たちの心・自分たちの思いをイエス様に向けることであります。神様の中にすべてがあるからです。

空を見ても神様を想うのです。生き物を見て神様を見るのです。花を見て神様の作品を感じるのです。自分の身体も自分が造ったわけではないです。
命は目に見えないですが 動いていることは命なのです。空気もすべて神様の恵みであるのです。


ですからどこを見ても私たちは24時間 神様を見ることができるのです。

それを全て神様と繋げて考えるならば、そこに神様が存在するのです。


苦しみがあっても、神様からの教育や方法がその中から見えてきます。全て神様と関連して考えることです。

悪い思いが出てきた時は、「これは私がサタンに心を開いてしまったので サタンが私の心を苦しめているのだ。」と気付いて「出て行け!」と追い出していかなければならないです。


「イエス様。私の中にいつも共にいてください。私の心をいつもイエス様の思いで満たしてください。」と、このように祈るべきであります。
すぐに気付いて、入れるべき物を入れて いらない物は追い出していくのです。


心は常に掃除が必要であります。 心こそ整理整頓が必要です。いらない物が多すぎると語っています。

信仰の創始者であり、完成者であるイエス様だけを見て生きる時に、決して揺れ動くことも 恐れることもなく、信仰の競争で勝利することが出来ます。
v( ̄∇ ̄)v

2014.5.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あなたの中に復活信仰がありますか?

テーマは 『 あなたの中に復活の信仰がありますか 』 です

【Ⅱコリント4章7-15節】

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立てさせてくださることを知っているからです。

すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。

私たちは信仰生活をしていますが、自分の中に復活の信仰はあるでしょうか?

イースター礼拝の時になると、復活の信仰がある人は1つのことを考えます。
それは“キリストが私のために十字架にかかって死に、私に命を与えるために蘇ってくださった”ということです。
イースターの時はそれを考えなければいけないです。

受難週の時は、十字架の死について考えますが、イースターの時はキリストが死んで3日後に蘇ったのは 私たちに永遠の命を与えるためであります。

私たちは十字架の死を見た時には、「私の罪のために…」と自分の罪に気付きます。
これは十字架を正しく見ている人であります。


私たちに復活が与えられても今はまだ目に見えていないですが、イエス様が地上に再臨した時に イエス様と同じような身体に復活します。
今はまだ私たちは蘇りの身体を持つ事はできないです。

これには時があり、神様が定めた時にキリストが地上に再臨した時は、死んだ者がまず復活の身体を着ます。次にイエス様を信じている生きている者たちが
復活の栄光の身体を着るようになります。


復活信仰はキリスト教の最も基礎的な信仰であります。
他の宗教には絶対にないものであります。他の宗教では自分たちの教祖の墓を誇り お参りをします。

しかしキリスト教には墓参りがないです。なぜなら、そこにはおられないからです。生きておられる方であります。これが根本的に違います。
ですからキリスト教を信じる人は、この復活の部分まで信じなければいけないです。


自分が死んだ後、キリストが再臨する時に復活するという事実に感謝しながら 復活の信仰をもって臨む信徒たちはそんなに多くはありません。

クリスチャンとして復活信仰を持って生きるということは とても大切であります。
ただそれを信じるだけではなく、この復活信仰を持って生きるようにしないと、私たちの信仰生活は生き生きとはしないです。

同じ神様を信じているのですが、生き生きと信じている人と、力が抜けて生きているのか死んでいるのか分からないような信仰生活は何が違うのかを、私たちは今日 考えてみたいと思います。


復活信仰は、信徒生活の活力源でもあります。そこから活力をもらうので生き生きとした信仰生活をすることができます。

パウロが本文の中で語っているのは、私たちが理解できないような部分もあります。これは当時 パウロや信徒たちに激しい迫害がありましたのでその人たちに向けて手紙を送りました。

今の時代、迫害されていない私たちから見たら意味がよく分からない部分もあります。
しかし私たちはパウロから実践的な信仰生活を学ぶことができます。


イエス様は模範として見せてくださいましたが、神様ですので 私たちが信仰生活を学ぶことは難しいかも知れません。

しかしイエス様からその教えをしっかりともらって、その通りに生きた偉大な使徒であるパウロを見ると、私たちが地上でどういう信仰生活をしたら良いのかヒントを得ることができます。

激しい迫害の中で復活信仰がどのような形として現れたでしょうか?




①いつも主の臨在の中で生きること



もしイエス様が墓の中にいるならば臨在はないですし、何も出てくるものが無く 助けるものもないです。

しかし“臨在”ということは、今 生きておられるイエス様ですので、その中で私たちが生きることが復活信仰生活であります。

死人に頼って生きることと、生きている方に頼る信仰では 天と地ほどの差があります。

パウロ自身はキリストに出会ってから激しい苦難に次々と遭いました。


しかし彼はキリストに出会った瞬間から彼は自分に与えられた素晴らしい恵みに気付きました。
この恵みに気付いていない人は、イエス様を信じて何十年経っていても神様は見えないです。自分が何のために信仰生活をするのかも分からないです。


しかし恵みを知っている人は、神様の恵みによって自分が救い出された確信を得ているので苦難があっても忍耐ができます。
私たちが苦しみの中で忍耐が出来て、苦しみの中で勝利をするのは自分の力ではないです。
神様の力や恵みによって、その人たちが勝利し感謝することができます。


激しい迫害の中でもパウロは感謝を捧げていました。常にその中で感謝と賛美をしていたのです。これは臨在の中で生きることであります。

「主よ。私に力を注いでください。私を強めてください。」と祈るよりも 自分自身が主の中に入っていくことが大切です。私たちのように小さなものの中に入ってくるよりは、大きなイエス様の中に私たちが入るのが良いのです。


主はすべてのことを成し遂げられました。それを私たちは信じて主の中・臨在の中で生きると、常にそこから力が与えられるのです。

パウロは常にキリストの中で生きることを意識して生活をしていました。ですから力が強く 彼の信仰は常に前進でした。




②復活信仰はいつも未来を見ながら生きる信仰



世の中では現実を見なさいと言いますが、クリスチャンはそうではないです。

もちろん現実も見るのですが、現実がすべてではないのです。
私たちは現実を見てから 必ず未来を見なければなりません。

現実的に見るならば福音のために毎日激しい苦難を受けていたパウロの姿はあわれな姿でありました。それは8節~10節の言葉に書かれています。

その他にもパウロの手紙にはたくさん語っています。


【ローマ8章36節】

一日中死に定められている

【Ⅰコリント15章31節】

私にとって毎日が死の連続です

【ガラテヤ6章17節】

私はこの身にイエスの焼き印を帯びているのです

このように自分が受けている苦難を表現しました。

しかし この中で絶望している姿は1つもなく、不平不満を言っている姿も1つもありませんでした。
彼は現実だけを見ておらず、常に霊の目が開かれて未来を見ていました。

復活の信仰を持っている人たちは必ず先を見るのです。今は苦しみがあっても、このままでは終わらないのだと次の2箇所で語りました。


【ローマ8章17-18節】

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

栄光を共に受けるために苦難が必要であります。クリスチャンになるということは苦しみが全く無いということではないです。


なぜ患難があるでしょうか?
パウロは命をかけて主のために働きをしているので、激しい苦難の中でも常に神様がパウロを助けることによって福音は前進していきました。
それを通して神様が見せたいものは、苦しみがあるからこれが終わりではないのだと、その中で神様が力を与えて恵みを与え助けることによってこの世に福音が異邦人にも伝わっていることを直接見せてくださいました。

パウロは苦しみから救い出されるために神様の力を体験しました。


私たちに苦しみがある時に神様に助けを求めます。私たちが実際に受けている苦しみはパウロが受けている苦しみとは違います。
福音のために迫害を受けていることはほとんどないです。ある意味で自分たちの肉から出てくるものによって苦しみを受けることが多いので、その時 私たちは神様に立ち返らなければならないです。悔い改めて立ち返って主の中に留まることによって私たちは救い出されます。


パウロは自分の人生を全て主に捧げて仕えていました。パウロが受けた苦難は私たちの想像を遥かに超えたものであります。
しかしそれも全て神様の計画であるのです。

私たちは苦しい時「神様はなぜ助けてくださらないのですか?」と それだけを祈るのではなく、自分の苦しみがどこから来ているのかを考えるべきであります。

自分が蒔いて刈り取っているのか、それとも自分が実際に迫害を受けて苦しみがあるのかによって結果が違います。

迫害されて苦しみがあるならば、神様は常にその人を見捨てることがなく助けてくださいます。そして神の御力をその人に見せて希望を与えてくださるのです。


【Ⅱテモテ2章8-11節】

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのてめに、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

現実は、徐々に死に向かっていきます。あらゆる苦しみがあります。肉体も死にます。
しかし未来にあるものは“とこしえの栄光”です。これが復活の信仰であります。

復活の信仰は苦難だけを見るのではなく、苦難がどのような実を結ぶのか、苦難によって自分は何が得られるのか それを常に見るのです。

いつもイエス様を見て、イエス様がどのような道を辿って、どのような姿になっているのか それは将来の自分の姿であります。

苦しみは永遠に続くことはなく消えていきます。そして主の栄光を見る時に慰められます。


復活の信仰には良いものがいっぱいあります。栄光の姿を常に見ているので、喜びが出てきます。感謝が出てきます。力が湧いてきます。希望が出てきます。

絶望がないです。そこに弱々しい姿はないです。もしかしたら現実はそのような姿かもしれないです。弱さがあり、いつ壊れるかわからない土の器のようなものであります。
また 限界があります。

しかしキリストによって復活の力が自分たちの中で働くので どんな時でも希望があり、慰め・力があります。



③望みをこの世におかず、天においているので、この世を愛することをせず、
またこの世のどんな艱難に対して恐れません



いつも現実を見て恐れをたくさん持っている人がいます。
それは何故だと思いますか?

この世に対して、執着心が多いからです。この世ばかりを見るのです。
その人の関心事が全てこの世のものなので、この世に抑えられてしまうのです。この世に支配されるので、少し変化しただけで怯えて心配をするのです。


聖書には クリスチャンはこの世を見ながら、この世と仲良くして生きなさいとは語っていないです。
反対にこの世から聖められなさいと、クリスチャン生活は聖められる生活であります。この世の汚れから洗って内側を聖くし、この世の光として塩として聖い者として生きるように神様が選んでおられます。

そう生きるためには この世に対して執着を持つのではないです。この世を愛するのでもないです。
世に執着して愛する人は多いですが、この世は自分を愛してはくれないです。


しかし 神様のことを愛するならば、もっともっと大きな愛を神様から受けるようになります。
神様が与えてくださるものは、小さなものでも私たちの心を本当に満たしてくれるものであります。
神様に望みをかけるなら、神様は私たちに本当に必要な喜び・平安・力・命を絶えず与えてくださるのです。

神様が私たちに願うのは、私たちが地上で旅人として旅をしながら勝利し 天の御国に入ってくることを心待ちにしておられます。

でも旅人がこの世に執着して天国を見ないならば神様は残念に思います。

パウロは地上で色々なことがあっても そこに彼の心が捕らえられることはありませんでした。


信仰が弱い人たちは この世に倒されたり裏切られたりすることがありますが、
目をイエス様に向けて 自分の目的地を天に定めている人たちは、周りで色々言われても そこにあまり関心がないです。

「まぁ そういうこともあって、確かに生きている時に必要かも知れないけど、それが全てではないし大切なことではない。」とはっきりと自分の心に区切りをつけるのです。
「私が目指すのはここである。私はそれに向かって前進するのだ」と。このような人たちには恐れがないです。

自分が帰るところを知っていますので苦しみの中にいる人たちはそのようにして勝利していきました。


私たちが生きている時代も終末に向かって歩んでいます。
これからもっと様々なことが起こります。毎日、世界で事件があり 国の危機があり 個人の危機があります。
それを見て私たちがいつも恐れるならば心がもたないです。


「これは神様が聖書の中で教えてくださった黙示録の世界を生きているのだ。」と、その中で自分はどのように生きるべきなのかを、また 自分の望みをどこにかけるのかを考えるべきであります。

神様が備えてくださっている素晴らしいところがあるから迎えに来てくださるのだということです。


私たちはいつどのような姿でこの世を去るか分かりませんが、復活信仰を持っているならば どのような状況の中でも苦しみで終わるのではなくて
「私の地上での旅路が終わるのだ。しかし私はこれで終わりではない。私のためにイエス様が備えた永遠の住まいがある。もうすぐイエス様に会えるのだ。」と
このような希望があります。


ですから私たちが生きている時に復活信仰を持っていることの大切さが そこにあります。

復活信仰を持つなら 生き生きとした信仰生活ができます。持っていないならば小さな風で倒されて恐れて死んでしまうのです。
(・◇・)ゞ

2014.4.20
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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