からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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主の御名

主の御名をほめたたえよ

テーマは 『 主の御名をほめたたえよ 』 です

【詩篇103編1-5節】

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。

私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。


2021年最後の礼拝です。


どんなメッセージが一番ふさわしいかを考えた時に、主の御名をほめたたえることが一番だと思いました。

賛美のいけにえと感謝のいけにえは主が喜びます。


今日の詩篇のことばは ダビデが書いたもので、ダビデは神に愛された人物でした。

彼が神を愛し、神が喜ぶことをいつもしたからです。


神に嫌われる人を見ると、いつも神が嫌がることだけをするので神に嫌われます。



詩篇は150編までありますが、最後にあることばが『息のある者はみな主をほめたたえよ。ハレルヤ。』です。


主をほめたたえることは、主の御名を崇めることです。

主に栄光をささげることです。


ですから今年最後の礼拝は、主をほめたたえたいと思いました。






心と思いを込めて主をほめたたえるならば、主が喜ぶに違いありません。


自分のたましいに言い聞かせましょう。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。』と。


私たちが偉大な主の御名をほめたたえることは当然なことです。

人間として当然すべきことです。


そして主は私たちに多くの恵みを下さったので、さらに私たちは感謝の心を込めて 主をほめたたえることです。



パノラマ写真のように一年間の自分の人生を振り返ってみて下さい。

何が見えますか?


私には最初からここまで主の恵みが見えます。

主がどれほど良くして下さったのか、その恵みを思い出します。


心に不安と恐れではなく、平安と喜びを主は一年中下さいました。



ある人たちは毎日が心配で、自分に何も降りかかっていないのに、コロナや病気、事故に遭うのではないかと常に不安を抱えながら生きています。

辛いと思います。


ですから主にある平安を持ちながら生きたことは、何よりも恵みでした。



そして今年も罪を犯しながら生きてきましたが、いつも主の前で悔い改めました。


主はその祈りを聞いて罪を赦して下さいました。

ここにも主の大きな恵みがありました。


どんな人が幸いな人ですか?

罪赦された人です。


【詩篇32編1節】

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。


罪赦されたので心も体も守られ、平安がありました。

いつも主は私の罪を赦し、癒して下さいました。


ですから主の前に出て いつも賛美することも、祈ることも出来ました。

いつも愛の告白も出来ました。


今年も一番仲良く出来たのも、誰よりも多く会話出来たのもイエス様でした。

それがとても幸せでした。






また主によって受けた救いの恵みはとても大きいです。


救われた時に感じた恵みよりも、今 感じている救いの恵みがもっと大きいです。


信仰が幼い時には恵みの大きさがあまり分からなかったです。

しかし年々救いの恵みの大きさをもっと感じるようになりました。


恵みの大きさに感謝して涙が流れるのは、最初の時よりも後からでした。


上を見ても、下を見ても主の恵みがあり、右にも左にも主の恵みがあります。



私の目にはそれが見えます。

一番良いもので満たして下さる主を体験しています。


いつも新しい力を与えて下さる主によって生かされました。


弱い者なのに、主によって強くされて主の働きが出来ました。

これ以上の感謝があるでしょうか。


ダビデの気持ちがよく分かる詩篇のことばがあります。


【詩篇40編5節】

わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。


今年も数えきれない主の恵みの中で生活出来たことが一番感謝です。

主の御名を心からほめたたえます。


アーメン v( ̄∇ ̄)v


2021.12.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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感謝、感謝、感謝

テーマは 『 感謝、感謝、感謝 』 です

【詩篇105編1-4節】

主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。

主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。

主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。

主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。

今日は収穫感謝祭です。

ですからテーマを「感謝」に決めました。


聖書で感謝のことばが出た時には いつも命令のことばとして出て来ます。

「感謝しなさい、感謝せよ。」


すなわち感謝は選択ではなく、“命令” です。


“命令” であっても感謝しない人が多いので、もし “選択” ならば感謝しない人がもっと増えると思います。



感謝とは何か、何を感謝すべきかを伝えます。




感謝は神を崇める行為




主の御名に感謝することです。

力ある主の御名、救いの御名、聖なる御名に感謝します。


主の御名によって神に近づき、祈りをささげ、御名によって救いを受けるからです。




感謝することは神の御心




【第1テサロニケ5章18節】

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。



感謝は信仰告白の表現




【ルカの福音書17章15-19節】

そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、

イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。

神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」



感謝は恵みを忘れていないことの現われ




【詩篇107編13-15節】

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。

主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

感謝は自分の霊が生きていることの印です。


霊が死んでいると主に感謝することが出来ないです。




感謝は祈りに対する反応




【詩篇107編1節】

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

感謝のない者は主を知らない者です。


しかし絶えず感謝をささげる者は神に栄光をささげる者です。


アーメン (*´∇`*)


2019.11.17
収穫感謝礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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私の癒し主イエス様

テーマは 『 私の癒し主イエス様 』 です

【マルコの福音書5章24-34節】

そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。

すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、 からだに感じた。

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物に さわったのですか」と言われた。

そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、 それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

長血の女の癒しは、この箇所だけではなく マタイの福音書、ルカの福音書にも出てきます。

3つの福音書に出て来るということは、私たちに重要なメッセージを伝えていると思います。


まずは、12年間 長血をわずらっていた女の人を見たいと思います。

12年間はとても長い時間です。
肉体の苦しみは言うまでもないですが、精神的な苦しみはそれ以上だと思います。

皆さんが彼女の立場になって考えてみてください。


1日の痛みだけでも苦しみが大きいのに、それが12年間です。

彼女には、やるべきことは全てやりましたが、何一つ報われませんでした。

頼りにしていた多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまいましたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。

残ったものは挫折感と痛みと心の深い傷でした。そして社会生活も出来なくなりました。

それ以上、何もすることもなく希望は消えていきました。

これは多くの人間の姿を現してありますが、自分たちの姿かも知れません。


見た目は何も問題がないように見える人がたくさんいます。
人間関係もよく健康で、家族にも恵まれ、仕事もうまくいくならば、その人は本当に何も問題がないように見えます。

しかし、内面に問題を抱えている人は意外と多いです。

劣等感で苦しむ人、鬱で苦しむ人、自分の性格や習慣で悩んでいる人、妬みや殺意、怒り、さまざまな欲、心の傷、依存症などで苦しんでいる人がとても多いです。

周りの人に言うことも出来ず、1人で悩んでいます。


自分の内面の問題を人に話すことに対して、ためらう人は自分で抱えて日々苦しんでいます。

どのように直したら良いのか分からず、そのままにしておくと心の中は苦しみ、痛みが増していき、悪いものならば、それによって心が腐っていきます。

肉体の病気によって苦しむ人よりも、これらの内面の問題によって苦しむ人の方が 現代は多いかも知れません。

特に若い人は、体は健康なのに 心に抱えているさまざまな問題によって苦しむ人がとても多いです。

それによって自分の人生を失っていく人たちがいます。


長血の女の人も病気で、何もかも全て失ってしまいました。

その女の耳に入ってきた情報がありましたが、それは彼女にとって必要な情報でした。

“イエスという人がすべての病を癒し、死んだ人も生き返らせる”ということを聞いて会いに出かけました。


人々で溢れている所に入って行くのは、彼女にとって とても大変なことでした。
しかし、彼女は自分の傷の痛みをもって勇気を出してイエス様の方に近づきました。

彼女はただ近付いたのではありません。


「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」という信仰を持ちました。
これは大きな信仰です。


なぜなら、それまで彼女は自分の病気を直すため、ワラにでもすがりたいという思いで多くの医者の所へ行きましたが、直るどころか さらに悪くなった状況の中でも お着物にさわることができればと思うことはすごい信仰です。

医者でもないイエス様に対する強い信頼でした。


彼女は最後の希望をイエス様に懸けました。これがとても重要なことです。

病院で何もできず、状態がさらに悪くなると人々は諦めて死ぬしか方法がないと思って諦めます。

また、周りの人も「あの人はそのまま死ぬだろう」と思って黙って見るだけです。

または「そのうち直るかも知れない」と無関心になっていきます。
これは正しいことでしょうか?―― そうではないです。


病気の人も周りの人も1つすべきことがあります。次の箇所です。


【ヤコブ5章14-16節】

あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

なぜ医者を呼ぶようにと言わずに、教会の長老 すなわち教会の代表者を招くようにと言ったのでしょうか?

これは医者が要らないという意味ではなく、優先順位のことを語っています。
医者を呼ぶ前に、 まず神様を求めることを私たちに教えています。


多くの人が問題にぶつかったり、病気になったりすると、神様の中で解決策を探すのではなく、まず世の中で解決策を必死に探してから、すべての希望がなくなった後にやっと神様を求めることが多いです。

それが問題であります。


まずは神様に助けを求めることです。
本人はもちろんですが、周りの信仰を持っている人も癒しのために神様に力を合わせてとりなしをすることです。


オリーブ油というものが出てきますが、古代社会ではそれらのものを治療のために使ったことはありました。

聖書の中で良きサマリヤ人のたとえがありますが、強盗に襲われて半殺しにされ倒れた人を見つけたサマリヤ人は その人に近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、介抱してあげました。

ここではオリーブ油は神の恵みを象徴しています。


神のことばに従って祈る時に、神の恵みが注がれます。 癒されるために必要なのは、神に信頼する信仰です。


医者に頼っても医者も人間ですから限界があります。

苦しみの中で夜通し泣いても何の解決にもなりませんし、人に訴えても何もしてもらえることがありません。

悩んでも何も良いことがありません。


重要なのは、必死に神を求めて祈っているかです。クリスチャンにとって これはとても大切なことです。

癒す力がある神様、力ある神様を無視して 力もない人間に助けを求めることが神の御心に適っているでしょうか。


神様は助けと癒しを求めて主のところに来る人を喜びます。


その人たちに神様はどのようにしたでしょうか。長血をわずらった女の人に何が起こったでしょうか。

着物に触った途端に、すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことも彼女自身の身体に感じ、
そしてイエス様も自分のうちから力が出て行ったことを感じました。

イエス様は彼女の信仰を見て、彼女の信仰による行動を喜びました。

そして彼女に対して「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と優しく語って下さいました。


イエス様は彼女の肉体の病気だけではなく、心の病も癒し、そして主の家族としても受け入れ、救いを与えて下さいました。

この癒しは イエス様1人だけで出来たのではありません。
彼女の勇気と、イエス様に対する信頼がなかったならば、彼女は決して癒されなかったでしょう。

聖書のほかの箇所でも同じようなことがありました。


【マルコの福音書6章55-56節】

そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。

イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。

癒しを求めている人々の必死な姿と彼らの信仰をここで見ることができます。

少しだけ祈ってから「こんなに祈っているのに、なぜ癒してくださらないのですか?」と文句を言うクリスチャンが多いです。

悩む時間は長いですが、祈る時間はほとんどありません。


「イエス様の着物をさわることでも出来ればきっと直る」という信仰を持ったこともなく、祈っても何も変わらないという不信仰だけは強いです。

「神様は何もしてくれないから祈らない」と言う人もいます。

残念ながら、そのような人は神様がどんなに力が強く、癒し主であっても自分の不信仰のために癒されることはありません。

イエス様が癒された長血の女の人にはっきりと「あなたの信仰があなたを直したのです」と言ったからです。


次の箇所にも癒しの内容があります。


【マタイの福音書9章27-30節】

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。

そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。

すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく 戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。

私たちの信仰と祈りがイエス様の癒しの力と1つになる時に奇跡が起こります。

「何でも癒してくれますか?どれくらい祈ったら良いですか?」と聞く必要はありません。

癒された人たちは、そういうことをイエス様に聞くことはしないです。


結果がどうなるのか、いつになるのかということに心が取られるのではなく、「きっと直る」という信仰が必要です。

自分が癒されたいならば「イエス様の着物にでもさわりたい」と必死に思いながら、「主よ。私をあわれんで下さい」と叫び続けることです。

「どうでもいい」と思う人に、主は力を現わすことはできません。
その人の不信仰がイエス様の力を拒否するからです。


主が癒し主であることは誰も否定できません。


【マタイの福音書9章35節】

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

イエス様の御前に身体の病気、心の病気、傷の診断書を持っていき癒してもらい、心も体も健やかな者になることを主の御名によって願います。
(*´∇`*)

2015.2.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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