からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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不信仰

クリスチャンの経済生活

テーマは 『 クリスチャンの経済生活 』 です

【マタイの福音書6章30-32節】

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、まして、あなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを心配しているのは種類が多いから選ぶことに悩んでいる姿を語っているのではなく、経済的問題を抱えている人がいるということを言われています。

クリスチャンの中でもお金の心配をしている人がとても多いです。

実際にお金を持っている人も心配をし、持っていない人も心配をしています。


主は一言で心配している人に“信仰の薄い人たち”と言っておられます。

その理由は神様に対する信仰、信頼が足りないからです。

神が養っておられることに対して信頼しきっていない信徒たちが多いです。


神様が与えて下さると言っても、それに対して疑っている人も多いのです。

「来年はどうしよう。再来年はどうしよう。お金はどんどん消えていくし、入ってくるところもないし、助けてくれる人もいないし、貯金もないし、これから先どう生きたら良いの?」と先のことが心配でたまらない人たちもいると思います。


しかし、神様はその人達に対して「心配するのはやめなさい。」と語りました。
その理由は、不信仰から心配が出るからです。

神様が教えるクリスチャンの経済生活を正しく学べば、私たちは不要な心配から解放されます。

もし学ばないならば、いつまでも計算をしながら心配から逃れることはできません。


聖書の中で、神は多くの場面で神を信じる人たちに関わりながら、その経済生活を支えているのは、神ご自身であることを見せています。

それをこれから学びたいと思います。




モーセとイスラエルの民から学ぶ





【民数記11章13-15節】

どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。

私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。

私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

モーセの心配と重圧がどれほど大きかったのか、彼は神に向かって「どうか私を殺してください。」と祈りました。

そのモーセの言葉を聞いて、神様は肉を与えると語りました。


【民数記11章18-20節】

あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。

あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、

一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」

そのことばを聞いて、モーセは安心して喜んだでしょうか。

そうではなく、心配する様子が見えました。次の箇所です。


【民数記11章21-22節】

しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。

彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」

モーセは現実を見て、そんなことで実現されるはずがないという不信仰がありました。

それに対して神が語ったことばが次の箇所です。


【民数記11章23節】

主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

そして、その後はどうなりましたか?
主のことば通りになったでしょうか?答えは次の箇所です。


【民数記11章31-32節】

さて、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。

民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、――最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた――彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。

ここで私たちが学ぶことは、人間の思いと、神の思い、人間の計算と神のやり方はまったく違うことに気付くことです。

モーセは羊の群れ、牛の群れ、海の魚と言いましたが、神様はまったく違うやり方で 海の向こうからうずらを運んできました。

それはモーセの考えを超えて働く神の御業でした。


私たちは神様がしようとすることが分かりません。

私たちの計算は、神様の計算とは違うので(私たちの思いは)何の役にも立たず、反対に心配、疑い、不信仰を生じさせるだけなので、それらを捨てなければなりません。


『信じます。主のおことば通りになりますように。』と信仰によって神に期待しながら祈り続けることです。




エリヤの経済生活から学ぶ





【Ⅰ列王記17章1-16節】

ギルアデのティシュべの出のティシュべ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

それから、彼に次のような主のことばがあった。

「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。

そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏(からす)に、そこであなたを養うように命じた。」

それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。

幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。

すると、彼に次のような主のことばがあった。

「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私はパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少し油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

エリヤのこの時の経済状態は無一文でホームレス状態でした。

さらに彼を助ける人は誰もいなく、反対に命が狙われる立場にいました。


そのエリヤにあるものは、神の約束だけでした。
神が養うという約束だけが彼に保証されていました。


そして人間では考えられない方法を、神様はここでも使いました。

この時、神によって用いられたのは、幾羽かのカラスと 一握りの粉と少しの油しか持っていない ひとりのやもめでした。

本来 カラスは人間が食べ残して捨てたゴミを拾って食べます。
最近は餌がなかったので100羽以上のカラスが死んだニュースもありました。


それなのに神が働くと、カラスがパンと肉とを運んで来て、人間を養う鳥に変化しました。

そして社会の中でも一番弱くて貧しいやもめを使って養うことは人間としては考えられない方法ですが、これが神様のやり方です。

人間は、持っている者には養う力があるので、当然そこに期待を寄せます。
しかし神様は、そのことを知っておられるので、その方法は使いません。


私自身もこれは経験済みです。
人間的に期待した所からは得たことが一度もありません。いつも有り得ない所からの助けがありました。


エリヤは神に完全に頼って何も心配せず、経済的なことは神様に任せました。

頼ることは神から言われたことに対して何も言わず、その通りにすることです。


モーセは神のことばに反論しましたが、エリヤは一言も反論せず 神から言われた通りにして神によって養われました。

3年6カ月の間、それも自分だけではなく、やもめとその家族までも養われました。


その日、その日 食べるものが与えられました。(そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならなかった。)




やもめとエリシャから学ぶ





【Ⅱ列王記4章1-7節】

預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

家で入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。

器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。

彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

たくさんの負債を抱え、2人の子どもが奴隷にされる運命になり、持っているものは何もなく、油のつぼ一つしかないやもめで、本当にどうにもならない状況です。

食べ物も持ち物もなく、あるのは借金だけです。


皆さんなら、このような状況でどうしますか?無理心中ですか?

経済的理由で無理心中した人たちは、今までたくさんいます。
どうにもならないという絶望感でそこに至ります。


でも彼女は自分の苦しい状況を神の人エリシャに話しました。

エリシャから出たことばは「何をしてあげようか。あなたには家にどんな物があるか言いなさい。」でした。


そして彼女が持っている一つのつぼ、また彼女が隣の人みなから借りて来た からの器に神の奇跡が起こりました。

ここで私たちは「これで何になるのか」という小さなものが“祝福の始まり”であることに気付くことです。

まずエリヤの時のやもめは一握りの粉と油を ささげました。


神に種を蒔くと、パン一個が3年6カ月の食べ物の祝福になりました。
捧げなさいと言われたものを捧げて祝福を受けました。

エリシャ時代のやもめは信仰によって、からの器を用意しました。

すると抱えた問題をすべて解決できる油がすべての器にいっぱいになりました。


捧げるものがなかった このやもめは言われた通りに信仰の器を用意したので祝福されました。

私たちは2人の最も貧しかったやもめたちが受けた祝福を見て、無いから捧げないのではなく、無いからこそ蒔かなければならないし、そして蒔いた後は信仰で期待する大切さを学ぶことです。


神様はやもめ、みなしごに対してあわれみ深い方です。


【詩篇68篇5-6節】

みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。



中国奥地へ宣教に行った宣教師から学ぶ




ハリソン・テイラーは宣教師として信仰によって献身しました。

しかし働きはどんどん増え、協力者と宣教費が必要でしたが、彼を助ける人は誰もいませんでした。


彼の精神的負担は大きくなり、夜も眠れなくなり、ついには神経衰弱にかかるほどになりました。

そんなある日、彼はヨハネの福音書15章5節を読みました。


【ヨハネの福音書15章5節】

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

このことばが心にぶつかりました。
その瞬間、急に太陽の光が当たったように、彼の心が明るくなり始めました。

彼は“主はぶどうの木で、私はその枝であるのに 私が心配する必要があるのか?主が水分と栄養を与える木である。私はそれを受け入れれば良いことで、自分がそれに水分と栄養を与えようと心配したことは何と愚かなことであったのか。主よ。この時間からは心配や思い煩いを主に委ねます。私を養ってください。”


このように彼は主の前にひざまずき、自分の愚かさを悔い改めながら問題を主に委ねました。

彼はその後から祈る度に答えられ、成功的に中国宣教ができました。


イエス・キリストを信じる私たちは、私たちの生活現場で起こるすべての問題だけではなく、私たちの経済もすべて神に委ねる訓練をしなければなりません。
(。・ω・)ノ゙



【ピリピ4章19節】

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。


【マタイの福音書7章9-11節】

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

また、子が魚を下さいと言うのに、 だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。 とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

2015.1.11
聖日礼拝メッセージ

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イエス様の驚きと悲しみ

テーマは 『 イエス様の驚きと悲しみ 』 です

【マタイの福音書11章18-24節】

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、 彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、 もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

聖書にはイエス様が驚く場面が出てきます。

百人隊長が素晴らしい信仰を見せた時にイエス様は驚かれました。彼はユダヤ人ではなく、ローマ人です。
しかしユダヤ人よりも素晴らしい信仰を見て、イエス様は『わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』と言いました。


またイエス様は奇蹟をたくさん行なったにもかかわらず信じなかった人々の不信仰な姿を見て驚かれました。

多くの人は「奇跡を見たら信じる」と言いますが、当時は数えきれないほどの奇跡がありました。
それなのに人々は信じませんでした。


【ヘブル書11章6節】

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。

イエス様はその人の財産、権力、名誉などに驚いたことは一度もありません。

イエス様が関心を持っているのは ただ1つです。
「信仰」…その人が信仰を持っているのかどうか、それだけに関心がありました。


良い信仰を見た時にイエス様はとても喜びますが、奇蹟を見ても信じない人や不信仰の姿を見た時にも驚き、また悲しみます。


今の人々の姿を見て、イエス様はどのように思っているでしょうか?

特に信じている人たち、「私は信じて救われました。聖徒です。」という人たちの信仰を見て、イエス様は喜んでおられるでしょうか?

ある人たちは心の中で言うでしょう。「私には信仰がある。毎週きちんと教会に通っているし、聖書も読むし、祈りもするし、奉仕もするし、献金もささげているし。これ以上何ができるのか?」

自分自身で良い信仰だと思っています。
しかし、イエス様がどのように見ているかは分かりません。


また、ある人たちは心の中で言うでしょう。「ああ、面倒くさい。信仰、信仰と うるさいな。忙しくて それどころではない。したいこともいっぱいあるし、どうでもいいわ。別に地獄に行っても良いわ。」

この言葉は、実際に神様のことを知っている人が言っていました。
これがクリスチャンの口から出たことにびっくりしました。その人たちは信仰の失格者であります。

そのような信仰がその人を天国まで導くことはありません。


天国に入れる信仰は、神様が認め 喜ぶ信仰の者だけです。

自分の信仰が、果たして自分自身を天国に導くものなのか?と、いつも私たちは考えなければならないです。


日々の私たちの態度がどれほど不信仰であり、イエス様を悲しませ、涙を流させているのか。
天国に入った人たちは、そこは素晴らしい世界ですので涙を流す人はいませんが、イエス様だけが泣いています。

救われず、地獄に行くたましいを見て泣いています。教会、信徒が堕落していく姿を見て悲しんでいます。

主から離れた人々、さまよっている人々、イエス様よりこの世をもっと愛する聖徒たちを見て泣いておられます。
イエス様は私たちの姿を見て驚き、嘆き、そして叫んでいます。


イエス様は人々に裏切られ、除け者にされ、未だに苦しみを受けています。
イエス様がその人たちに向けて語ることばは、「どうしてわからないのか。悟らないのか。信じないのか。」です。


主の声を今回、みなさんに届けたいと思います。

「私は救われました」というクリスチャンは、自分の姿をもう一度考えてみる必要があります。




① 聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿




聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿に主は驚き、彼らの最後を知っているので主は心を痛めています。


イエス様を信じていない人たちは もちろん滅ぼされます。
しかしイエス様は「あなたたちの方がもっと悪い」と語りました。

なぜなら、「今、あなたたちは多くの奇跡を目の前で見ているのではないか。神が人間となって直接あなたたちの目の前に来ているのに、それでも信じないのか」


ソドムとゴモラの町は不信仰や同性愛などで滅ぼされました。
しかし彼らよりもあなたたちの罰が重いと言いました。

そしてイエス様は「どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」と はっきりと語りました。

ハデスとは地獄のことです。
消えることがない炎が燃え、入ったら出ることができず、永遠に刑罰を受けるところへ行くのだと語りました。


「私は救われました」と言う人を イエス様が見た時に罪を悔い改めず、昔救われて“いのちの書”に書かれているから何をしても大丈夫だと言う人はハデスに落とされると言いました。

イエス様が語ることは、その通りになります。

イエス様は天国のことよりも地獄のことをたくさん話しました。新約聖書で113回語っています。




② 十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのになぜそれがわからないのか




十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのに、なぜそれがわからないのかと主は驚いています。

イエス様からたくさんの恵みを受けた者たちが、その恩を忘れ、イエス様に対して敵対し、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。

十字架にかかったイエス様を見て、頭を振りながらののしりました。
「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。今十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じるから」と、ののしる者、あざける者がいました。


誰のためにイエス様は十字架にかかってくださったのでしょうか?
罪を犯している私たちのためなのに、私たちはののしり あざけました。


彼らを見て「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈りながら主は人々を見ていました。

イエス様の命を取っている者たちを赦してくださいと、これ以上の愛がどこにあるでしょうか?

私たちがイエス様を十字架につけたのです。その時、あなたはどこにいましたか? その群衆の中にいたのです。


今も主は十字架の上で血を流しながら苦しんでいます。
誰のためですか?イスラムの人々や まだ信じない人々のためです。

十字架は昔のことだと思うでしょうか?
しかし、今はイラクでイスラム過激派の人々の手によってクリスチャンたちが街の中で十字架にかけられ1000人以上が殺されています。


イエス様は信仰のために死んだ人々と共に十字架にかかり、血を流し、涙を流しています。

彼らはののしりあざけっていました。
「あなたたちを愛しているのにどうしてわからないのか。」イエス様は彼らが立ち返るように願っているのです。

実際に、イエス様はクリスチャンたちに「十字架であなたのために死んだ私を忘れることが、私には苦しみである。」と語りました。


みなさんはクリスチャンです。みなさんはイエス様の十字架を日々覚えていますか?

自分のような罪人を、世界の多くの人々の中から自分を選んでくださったということが どれほど大きな恵みであるか分からないです。


イエス様の十字架は私のために血を流してくださったのです。
“なぜわたしの十字架を忘れているのか――?”


忘れているという事実に、イエス様はすごく苦しんでいます。
そのことをクリスチャンは覚えていないといけないです。




③ あなたのことば一つ一つが わたしの心を引き裂いている




「あなたのことば一つ一つがわたしの心を引き裂いていることをどうしてあなたはわからないのか」と主は驚いています。

私たちはイエス様を十字架につけて殺した後、今でもクリスチャンたちがイエス様を痛めつけています。
「私はそんな思いはないです。いつ私がイエス様を十字架につけたのですか?いつ私がイエス様を悲しませたのですか?」

皆さん、気付いていますか?


【ヨハネの福音書6章60節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

イエス様は真理を語っていますが 自分たちの目がふさがれて、心に知恵がなく悟っていないのに、「主よ、私たちはそのことばの意味が分かりません。教えてください。」と聞くのではなく、自分たちの思いで勝手に解釈し、非難をしました。

その後、彼らはどのようにしたでしょうか。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様がこの姿を見た時に、どれほど悲しかったでしょうか?

彼らは霊的なことは分からないのです。それまでは「どこまでもついて行きます」と言った者たちが一瞬にして消えていきました。

イエス様は引き裂かれる思いでした。「真理を語っているのに なぜあなたたちは真理から離れていくのか?」
その辛さは皆さんも経験があると思います。

皆さんが人々に(福音を)語る時に「意味が分からない。聞きたくない。二度と言うな。」
そのような言葉を聞いた時に、私たちはすごく心が痛くなると思います。


そしてイエス様に「あれは悪霊に憑りつかれて気が狂っている。」という言葉を言いながら聖霊を汚しました。

私たちはイエス様に悪霊とは言いませんが、どれほど不信仰なことば、不平不満、つぶやきを言ったでしょうか?

神様のことを自分のしもべのように使う時もあります。


私たちが語る1つ1つのことばによってさばかれると聖書に書かれています。たとえ私たちが言った覚えがないと嘘をついても全て記録されています。

ですから私たちが間違えたことを語るたびにイエス様の心に釘を刺しているのと同じであります。




④ あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか




あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか、どうして分からないのかと主は驚いています。

イエス様の目からは いつも涙が流れています。


皆さんはイエス様を信じてから、自分の良いものを取られたことはありますか?

イエス様は悪いものは捨てなさいと言いますが、良いものを盗む方ではないです。


人々がイエス様から離れるのは、それぞれの理由があります。
「祈っても聞いてくれないから信じるのをやめました」、「忙しいのでそれどころではない」、「今は自分の好きなことをしたい」「金儲けが先」など理由・言い訳がたくさんあります。


しかし、よく考えてみてください。その1つ1つの理由が、離れる理由になるでしょうか。

そのことが自分の命よりも大切なことなのかを考える必要があります。
快楽のためにイエス様から離れ、この世を愛する心や物欲でイエス様から離れるなら、後になってどのようにしますか?

地獄は後悔の場所であり、自分自身の愚かさを憎む場所でもあるのです。
“あの時にイエス様から離れていなければ…地獄に来ることはなかったのに!”


イエス様が語るのは「全世界を手に入れても たましいを失うならば、それが何になるのか?」と語っておられます。
イエス様は「もしあなたの右手が罪を犯すならば切ってしまいなさい。」と語ります。全身を持って地獄へ行くよりは片手がないまま天国に入った方が良いと語ります。


たましいを失うと全てを失います。

地上のわずかなもので自分のたましいをないがしろにして、それによって永遠に出ることのできない地獄で苦しむのは、どちらが皆さんにとって得ですか?


常に聖書のことばを読んでください。聖書のことばは気休めのために書いているのではなく、生きるか死ぬかのために私たちに道を示しているのです。


この真理は変わりません。書かれた通りのことが必ず起こります。

もし今晩あなたが死ぬならば、天国に行けますか。天国に入る人は少ないです。地獄に入る人は大勢います。
イエス様はその姿を見て泣いています。


地獄に多くのクリスチャンたちが行きました。
イエス様が、クリスチャンが地獄へ行った理由を語りました。

その理由は、多くの人々がわたしが願っているようにはせず、わたしを敬わず、愛さず、断食を好まず、忍耐をせず、教会の中に留まることを嫌がり、礼拝が好きではなく、祈らず、みことばを読まず、口先だけで賛美するなど、イエス様がして欲しいことと真逆のことをしているからです。


カインの礼拝を捧げておいて、アベルの祝福を受けようとしているのです。
カインにはカインの裁き、アベルにはアベルの祝福があるのです。

自分が蒔いたとおりに刈り取らせるのが正しい裁きであります。


どれだけ私たちは神様のことばが与えられているでしょうか。

「今日、あなたが主の声を聞いたならば 心を頑なにしてはいけない。悔い改めて立ち返りなさい」とイエスさまが語っておられます。

これ以上、私たちがイエス様を悲しませてはいけないです。死んだ信仰、疑い深い信仰、不信仰を全部捨てなければならないです。


そしてイエス様が認める“あなたの信仰は立派です”と言われる信仰、長血を患った女の人、百人隊長の信仰、娘が悪霊にとりつかれた母親の信仰、イエス様に香油を注いだマリアの信仰、あなたはこのような信仰を持ちなさいと語ります。


へブル書11章は信仰の章です。ほぼ全員が厳しい状況の中で、自分たちの信仰の光を放ちました。

神様だけに頼る信仰はいつ試されるでしょうか?厳しい状況の中で初めて試されるのです。

私たちの信仰は天国に入れるような信仰でしょうか。それとも「信仰、信仰」と言いながらも地獄へ行く信仰でしょうか。これを考えなければなりません。


イスラム教の人々がクリスチャンを狙って殺してきています。終わりの時代が来ています。
その時に私たちが のほほんと「大丈夫。」と言えるでしょうか?

イエス様が目を覚ましなさいと語っています。
あなたに信仰が無ければ、彼らに捕らえられてひざまずくようになります。


大変な状況の中でも神様に信仰を見せる人だけが勝利者であります。
死に至るまで忠実でありなさい。その信仰を持ちましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2014.8.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
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アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
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クリスチャンの生活とは?

テーマは 『 クリスチャンの生活 』 です

【ピリピ2章12-18節】

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

神は、みここころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだではなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

根本的にクリスチャン生活とはどのようなものなのか、今回のみことばの中で知ることができます。

キリストに繋がれている者は、当然 頭であるキリストについていくために、似ていく者にならなければいけないです。
世の人から「あなたは本当にクリスチャンだ」と認められないならば、何によって私たちはキリストを現すことができるでしょうか。

模範であったイエス様を見て、謙遜を実践していく姿がクリスチャン生活の1つであります。




①自分の救いを達成していく生活


神様の言葉にクリスチャンが従う1つの目的は、自分の救いの達成であります。
この言葉で誤解をするかも知れません。

「そうしたら、私たちはまだ救われていないのでしょうか?これから自分の努力で救いを得なければならないでしょうか。」と思いそうですが、決してそういうことではないです。

救いの御業は人間ではなく、神によって始まっています。また、私たちが先に神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛しました。そして、私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださったのです。

例えば、人を通して その人を導いたとしても、それは神様から出たものです。
人間は本来、神様を求めない者であります。すべては神様の方から招待が来ました。
私たちがそれを受け入れて救われた時から、聖書を通して多くの言葉が語られました。


救いの計画も、人生の計画も神様が全て持っていますが、私たちは恐れおののいて それに従わなければならないということです。

何に対して恐れおののくのでしょうか?―― 救いを与えてくださった神様に対する敬う心であります。

神様は 私たちをロボットや軍隊のように従わせるのではなく、優しくみことばを語りながら教えてくださるので、私たちが従順しながら歩むのは救いの達成に向かっているのです。


救いの達成に向かって進むということは、荒野でのイスラエルの民たちの姿を思い出したらよく分かります。
神様は奴隷生活した彼らを、一方的な神様の御業を通して救い出しました。彼らの努力は1つもありませんでした。
神様は救い出したいと思い、モーセを用いて全員をそこから出しました。これは救いであります。

神様が先頭に立って、イスラエルの民たちは喜びながらついていくと、荒野が見えて来ました。
それは私たちが救いを達成していくために、進まなければならない道なのです。

彼らにマナを食べさせたり 神様からの恵みをたくさん与えました。
そして神様はカナンの地につれていく計画を立てて その中で神様がずっと律法を語っていました。
「(カナンの地へ行くために)わたしの言葉に聞き従いなさい。」と 恐れおののきなさいと語りました。


しかし、恐れおののいた者はわずかでした。モーセ・カレブ・ヨシュアでありました。それ以外は誰もいませんでした。
彼らは神様の約束の言葉や命令を聞きましたが、人間として責任ある行動が出来なかったのです。
救われてエジプトから出ましたが、神様がずっと見ていて(彼らは)天国に入る者として相応しくなかったのです。

彼らは天国を自分のものにしたいという思いがありましたが、神様を恐れおののかず、ずっと不信仰でした。

神様は(彼らに)たくさんの良い恵みを与えて、奴隷から救い出しましたので(神様の)言葉に従ってくれると思っていました。
しかし、神様の言葉に従わなかったので、人格を持っておられる神様は刑罰を与えました。すると彼らは神様に助けを求めましたが、困った時だけ助けを求めました。そして、それが解決されると また不従順の連続でした。

結局2人しか辿りつけず、他の人たちは荒野で倒れました。これは救いの達成が出来なかったということです。


これは今のクリスチャンも同じであり、私たちは不信仰・不従順になると倒れてしまいます。
神様を恐れおののかないと、そこで倒れるしかないのです。

選ばれた人間は、神様に対する責任ある行動と応答をしていかなければならないです。
従順していくと、神様との距離が近くなり一緒に歩めるようになります。神様はその者を一番喜んでくださるのです。

イエス様が謙遜な姿ということは、自分を捨てたことであります。父の御心にいつも自分を合わせていきました。
それによってイエス様も勝利をしていったのです。

クリスチャンは神様を恐れおののいて従順して、自分の救いを達成していかなければならないです。




②つぶやかず・疑わない生活


救いを達成させるための中身は、つぶやかず、疑わない生活であります。
これは謙遜にならなければ無理です。

高慢な人はつぶやきが多いです。高慢な人は欲望が多過ぎるので満たされることがないです。
自己中心なので自分の思い通りにならないと神様に対してもつぶやきが多いです。

イスラエルの民たちの一番の大きな罪は「つぶやき」でした。不平不満が心に満たされていました。感謝をせず、恵みを覚えていないのです。

謙遜は自分を「無」にすることです。
「無」になると、与えられるどんな小さなものでも恵みなのです。「私は無価値な者なのです。」と本気で思う中で、神様が水を一杯でもくださるなら感謝の気持ちでいっぱいになります。

しかし、自分を高く評価する者は「こんなもの食えるか!私を誰だと思っているのか?」と感謝をしないのです。
イスラエルの民たちはマナに対しても「こんな惨めなものは食べたくない。」と文句を言いました。


私たちも、クリスチャンと言いながらも神様に対してつぶやき、周りの人に対してもつぶやくのは感謝をしないことであります。また、家族に対してもつぶやきます。

これは よく考えたら良いと思います。家族が自分にとって、どのような存在でしょうか?

家族がいなくなったら――?旦那さんが一生懸命働いて家族を養うことは、とても責任あることなのです。
これは立派な働きです。また、休みたくても休まず何十年間も働いています。自分の人生が拘束されて1年間にわずかな休みしかないのです。
会社では辛い事もありますが、我慢をして家族のために働いているのです。

主婦はその点では時間に自由がありますし、楽なのです。
旦那さんから給料を全部取り、わずかな小遣いしか与えないのならとても辛いことだと思います。
もしも、自分が逆の立場だったらどのようにするでしょうか?
常に私たちは逆の立場になって考えたら良いと思います。


神様は、すべてのことに つぶやかず、疑わずに行いなさいと私たちに語りました。
私たちは本気でそのようにすると自分を「無」にして謙遜な姿をもって生きるならば、これは難しいことではないです。

自分の存在価値が高いものだと 勝手に思うので全てが不満になるのです。

霊的に成長すればするほど純真な者になっていきます。私たちの中から肉の不純物がどんどん消えていきます。
肉のものを神様の言葉に服従させて(肉を)消していくならば純粋な者になります。
花嫁の姿の基本は「純真な者」です。日々、自分を綺麗に保っていかなければならないです。

私たちが汚い者になるならば、神様がまとめて火の中に投げ込むのです。

神様の子どもは「光の子ども」であります。悪魔の子どもは「闇の子ども」です。これは水と油のような関係です。
暗闇の中にいても、光るものが1つあれば とても目立ちます。

神様が願うのは、(私たちが)暗闇の中で世の光として目立つ者になってほしいのです。周りの人たちにそれを見せていかなければならないです。

聖書の言葉を握るということは 自分の欲のままではなくて、みことば通りに生きるということなのです。




③喜びの生活


【ピリピ2章17節】

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

パウロは殉教することを知っていましたが、この時は既に捕えられていました。
「わたしは主の働きをして最後に死ぬのだ」ということを知っていましたが、これはキリストの栄光が現れることなので彼はすごく喜んでいました。

死ぬことを喜んでいたのです。キリストと苦難を共にし、わたしが一粒の麦となって死ぬならば、多くの魂の実を結ぶ事ができると見て喜びました。

もしも 私たちが罪を犯して死ぬならば、喜ぶことは出来ないです。
それは何の報いもなく、人々に良い影響を与えるどころか悪い影響を与えるのです。

しかし、キリストのために献身的に働きをし、人のために自分の命を捧げる人は永遠に褒め称えられます。
神様がその人に栄光を注ぎます。その死は新しい命の道に入る1つの扉を開ける栄光の死なのです。
地上での扉は閉まりますが、新しい扉を開けると永遠の命の世界であります。

これは誰でも行ける世界ではないです。黙示録にあるように「勝利する者」という前提があります。
つまり、勝利をしていない者はその恵みを受けることが出来ないのです。


私たちも自分を犠牲にしないと、最期には神様が「あなたは生きる値打ちがない者である。」と犠牲をさせるのです。

私たちの命は自分のために生きるのではないです。キリストにあるものは、キリストのために生きる者であります。

私たちがキリストを取ってしまうならば、それはクリスチャンではないです。
キリストのために生きる者を「クリスチャン」と呼ぶのです。

私たちは生き方によって、神様から救い出された者であることを ずっと見せていかなければならないです。

クリスチャンとして生きることは、教会に行く事、奉仕をすることではないです。

心と生き方すべてのものを神様が喜ぶほうに変えない限り、神様と一致できないですし、救いの達成には至りません。

クリスチャンとしてきちんと生きていく人生を私たちは目指していきましょう。 (・∀・)つ

2014.1.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちの罪と神様の恵み

テーマは『 私たちの罪と神様の恵み 』です

【ミカ書7章18-20節】

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、 怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、 すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。

ミカは預言者です。神様は彼の口を通して、罪深いイスラエルに対して裁きの言葉を語りました。

憐み深く、恵み豊かな神様ではありますが、選ばれた民たちが神様の恵みに感謝もせず、仕えることもしないで神様を悲しませました。

聖書には、「憐れむのに飽いた」という言葉があります。神様が何度も憐れんでも、民たちが罪の中に留まり立ち返らないのです。

聖書に出てくる「罪」とは何でしょうか?
全ての人間は罪を犯していますが、人間は神によって造られた被造物であります。
ですから、造られたものは 当然のように神様のみこころに従って歩まなければならないです。
これが救われた人間の義務でもあります。

しかし人間が みこころに従わず、自分勝手に行動をすることが罪なのです。


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

人間はなぜ死ぬのでしょうか。

ただ身体が弱ったから死ぬのではなく、主が語った言葉通りに罪から来る報酬を自ら受け取るので死ななければならないです。

罪は人間から出たものです。自らが罪の種を蒔き、さらに罪を犯して大きくしていきます。
神様は罪がない方であり、神様から出てくるのは恵みであります。
罪を犯している人間に対し 神様は律法通りに裁くならば、その都度 殺さなければならないです。
そうすると地上に人間は存在しなくなります。

しかし、罪を犯しても神様は何度も赦して、私たちを生かしてくださいました。


神様の恵みから離れると(その人から)何が起こるでしょうか――。
自らが罪を犯すと、消えていくものがあります。それは恵みです。

神様の恵みは、みことばや聖霊様から来るものが一滴一滴 自分の中に貯まり、それを飲んで癒されていくのです。

罪を犯すと、一滴一滴の中に毒が撒かれるのと同じであります。つまり飲めない水になるのです。
そうすると汚れてしまい喜びや平安が消えます。
外見では、笑ったり 信仰も形式的に守っていくのですが、その人の深い部分には喜びがないです。
霊が枯れて飲む水がなくなるので その人は死にます。

完全に器を変える為には悔い改めて、神様に洗ってもらわないと心の泉が綺麗にならないです。
神様に立ち返る方法しかないです。
足を洗い、心を洗って帰ってきたら 神様はその人に希望を与えてくださいます。

不従順・不信仰は、神様に敵対することであります。それによって得るものは無いです。

人間が罪を犯すと、罪の奴隷になります。


【箴言5章22節】

悪者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪のなわにつながれる。

これは奴隷の姿であります。
罪を断ち切らないと、繋がれているので離れられなく 罪から解放されることがないです。
初めは小さな誘惑から始まりますが、そこから立ち上がらないのでサタンは足かせをかけておくのです。

サタンの手から逃れるために 必死に もがいて神様を求めるならば、その罪を赦してくださいますが、
ある部分ではその人は その罪を楽しんでいるのです。
自分の肉の欲の方が強いので「私はしばらくここで楽しみたい」とサタンに繋がれているにも関わらず気にしないのです。

神様から「立ち返りなさい。」と言われた時には、“その時 ” が立ち返る時であります。


それが神様の愛と憐みであり、恵みであります。
神様はたくさんの厳しい叱責の言葉を語ります。これは「愛」なのです。愛がなければ言わないです。

なぜなら、そのままだと滅びに至るからです。
それなのに、「イヤだ。良い言葉が欲しい。厳しい言葉は聞きたくない。神様は私のことを憎んでいる。」
これは、目がくらんでいる姿です。罪によって目がくらむと悟りがないのです。自分の足の下には地獄が待っているのに気付いていないです。

周りの人たちは、それに気付いているので 離れるように言いますが、その人は罪によって、みことばに覆いが被されているので暗闇に陥っていきます。

しかし、神様は私たちが罪深い者であることを知っているのです。そして神様の恵みの手が働きます。

今、自分の目が開かれていると思っている人たちは考えなければならないです。本当に自分は目が見えているのでしょうか?

私たちは神様の恵みがないと、生きる道がなく希望がないです。


【Ⅱペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。 かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを 望んでおられるのです。

すべての人が罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることが出来なく、それによって神様は裁きを遅らせているのです。

それは神様の深い愛であり 憐れみであります。「帰ってきなさい。」と恵みのところに来ることを望んでおられます。
このように優しく語ってくださる神様がどこにいるでしょうか?―― この世に神と呼ばれるものはたくさんあっても、
憐み深く、赦してくださる神様はいないです。

他の宗教では、罪の話は全くしないです。彼らがしない理由は そこに救いがないので 初めから触れないのです。
そして良いことをしなさいと言いますが、一度汚れてしまった者に良い服を着せたとしても中身が汚れていますので 絶対に聖い者にはならないです。


しかし 主は汚れた罪を始末する恵みを持っておられます。
私たちは罪や咎ばかりですが、主の恵みで そこから救い出してくださいました。

この素晴らしい神様を悲しませてはいけないです。

自分が今どのような姿なのかを見て、まず自分が先に立ち返ることです。
祈りでも、自分が欲しいものを求めて祈るのではなく、祈りをしてから 神様に耳を傾けることであります。

私たちは神の声を聞くために祈るのです。

立ち返ることは祝福です。主の言葉を信じるのが祝福であり信仰であります。

他人が自分に対して罪を犯した時も、私たちは愛のある者、憐み深い者、許す者にならないといけないです。
他人を裁くと、神様から「あなたはどうなのか?あなたの心のほうが、よっぽど汚れている。しかし わたしがあなたを赦しているのだ。」という声を聞かなければならないです。

私たちを愛し、赦してくださった神様に対して 私たちは本当に感謝をして、私たちも神様を愛し、神様の傍から絶対に離れないようにしましょう。

忍耐をしながら ますます神様に頼っていくならば、神様から来るものは、恵みの上にさらに恵みであります。
命の水が枯れることはないです。 (^∀^)

2013.12.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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