テーマは『 あらゆる恵みに満ちた神 』です

【Ⅰペテロ5章10節】

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

神様に出会うまでは、私たちは神様の存在を頭の中で自由に想像していました。
それも人間の数ほどの神様がいます。
自分がこういう神がいたら良いなぁと思う神を作ったり、誰かが作った神を自分の神だと信じる人がいます。
私たちも(救われるまでは)その中にいた者でした。

私たちが本物の神様に出会うまでは知らなかったことがあります。
それは神様が私たちに与えてくださった「恵み」であります。


私が生かされているのも神様の恵みであり、あれもこれも自分の命も、神様から受けたものであるのだという
認識がとても乏しかったのです。

親のおかげであったり自分の力であるという思いがたくさんありました。

しかし 本物の神様に出会って恵みの世界が分かりました。

すべてのことが神様からの恵みだったということが 聖書を読んで初めて正しく知ることができます。

皆さんはどのような恵みを実際に神様から受けたでしょうか?
ある人は恵みに気付いていますし、ある人はまだ気付いていないかもしれません。

神様は今回のみことばで「あらゆる恵み」という言葉を使っています。
その中で1つの恵みが表れています。
それは「苦しみの中の恵み」であります。

この時代の人々は特に迫害が多かったので、苦しみの中にいたと思います。
キリストを信じること自体が苦難の道に足を踏み入れることでありました。
苦難を受けたくないと思うならば、神様を信じることが出来ないです。


ローマ時代はどれほど迫害を受けたのか、歴史を通して知ることができます。
ローマには皇帝がいましたが、クリスチャンを見せ物にしていました。
競技場の中でクリスチャンたちに油をかけて たいまつのように使い燃えさせて、自分たちは飲み食いをして
楽しんでいました。このような悲惨な歴史がたくさんあります。

ですから、その中で「私は クリスチャンになります。」と言うことは、死ぬ覚悟がないと絶対にできないです。

今の時代はそんなに迫害はないです。しかし、いつか このような迫害が必ずあると聖書に預言されています。
ですが、それは災いではなくて神様の恵みであるということを、この聖書箇所で教えています。


苦しみの中の恵みとは どのようなものでしょうか?
苦しみの後で完全になるということは 忍耐であり、忍耐を最後まで出来る人は
完全なる者であります。

人間は完璧ではないのですが、忍耐を働かせると信仰の部分で完全になります。
それらのことを苦しみの中で実を結ぶことができます。

苦しみは誰もが嫌だと思います。
しかし、私たちは平安の中だけでは あまり変わらなく忍耐を学ぶこともないです。
強くなることもないです。苦難の中で耐える時に、あらゆるものが変わっていきます。
ただ ジーッとしているのではなくて、その中で神様に頼ることを学びますし、信仰の激しい戦いがあります。
「こんなに苦しくても(神様を)信じるのか?」と色々な自分との戦いがあります。

だけどその中でも神様は恵みを与えて私をさらに強くしてくださるのだという思いで生きていますので、
その苦しみが ただの苦しみに終わるのではなく、それが自分たちにとって恵みになるのです。

強い者にしてくれる恵み。苦しみがないと、そういう者にはなれないのだという認識が出てきます。

ヨブが激しい苦しみを受けている中で、愚痴をこぼさずに耐えました。
迫害の中にいる人々は、苦しみを神様の恵みだと思いました。恵みと思わないと、絶対に耐えることが出来ないです。
「神様を信じて、何でこんな苦しみが来るの?こんなはずではなかった。」と思う人は、簡単に心を変えて 世に出て行きます。

パウロは一番の苦しみを受けましたが、一度も不平不満を言ったことがないです。
「わたしはますますここで変えられていく。ますますここで耐え忍ぶ。なぜなら神様の恵みは充分にあるから。」と、生きていました。

ですので、もし 苦しみがあるならば災いだと思う必要はないです。
ただ、自分の罪によって来る苦しみは災いです。
しかし、そうではなくて主のために働いて受ける苦しみは 災いではなく、神様の恵みであります。


【Ⅱテモテ2章9-13節】

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

苦しみ自体も恵みを受ける1つの道であります。

恵み豊かな神様は、主のために受ける苦難を見て何もしない方ではないです。
その中でも守り、その人に良いものを流し 支え、助けてくださる神様であります。




そして、私たちが神様から受けた恵みで、どのような恵みがあるでしょうか。

- 救いの恵み -

【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、もちろん 私たちの信仰も働きましたが、それは主の恵みであります。
救われた人たちは、神様に「私はこういう者だから救いを受けた。だけど、あの人は救いを受ける資格がない。」と、
誰も言える立場ではないです。

行いによって「救い」を獲得したのではなく、100% 神様の恵みによって救いを受けたことを悟るべきです。


【Ⅰコリント15章9-10節】

私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

-奉仕をする恵み-

私たちは奉仕について勘違いをすることが多いです。

「私が神様に対してしているのだ」と思うのですが、神様は「あなたが奉仕できるのも、わたしの恵みなのだ。」と語りました。

奉仕を「恵み」だと考えないと、長続きできないです。
神様から何か報いを受けるために奉仕をするとか、他人に見せるためにするのは良くないことです。
それは本来の意味から離れています。

私たちが主のために 何か小さな働きでも出来るなら、それは神様の恵みが働いているから出来るのです。
奉仕を恵みと考えていないならば、少し奉仕をしていただけで疲れてしまい 続けることが出来ないと思います。
「誰も分かってくれないな。これをしたのに何も良いことがないな。」と言ったら、すごく嫌になります。
ですから奉仕から離れていきます。

でも何年も変わらない心で奉仕をする人たちの中にあるのは、言われたから仕方がなくするのではなく、
何が原動力になっているのかと言うと、「私のような者を参加させてくださっている」という恵みなのです。
これはとても素晴らしい恵みであります。


もし神様が「あなたは役に立たない者だから、何もしなくて良い」と言って何もさせないならば、それは良いことでしょうか?
それは違うと思います。きっと自分自身のことを価値がない者だと思ってしまいます。

神様に奉仕をすることは素晴らしい恵みなのに、それを自分のほうから拒むということは自分の手で恵みを投げ捨てることであります。
神様が見た時に、(その人に)出来る力があるので それをさせるのです。
ですから、私たちの認識を変えなければいけないです。

何か奉仕をして、すぐに30倍 60倍 100倍の祝福を貰おうという思いだと、そのようにならない時には失望するでしょう。
そして投げ出してしまいます。

天国へ行って報いを受けるというのは、私たちが地上で働いた行いによって 天国で受けるものです。
神様は地上で与えないこともあるのです。地上で全部の祝福を受けてしまうと、天国へは持ってはいけないからです。

天国には魂だけが行きます。地上のものは置いていかなければなりません。

天国へ行った時に自分の住まいに、私たちが地上でした行いに応じて備えてくださっています。
奉仕はその為の恵みの働きだと思うならば、私たちの心は喜びで溢れると思います。




【ローマ5章17節】

もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

「ひとりの違反」とは、アダムとエバのことであります。サタンの惑わしを受けて 善悪の知識の木の実を食べてしまいました。
それで神様の言葉通りに、死がこの世界に入るようになりました。
罪が入ったことで汚れました。
罪というシミが付くことによって人間が汚れ、その子孫である私たちが罪の中で生まれ、汚れた者になりました。

それをイエス様が聖めてくださいました。
イエス様の十字架は、罪人のために流した血であります。
本人はシミがついていることに気付かないですが、神様や他人が見た時に、それがよく見えます。

罪を犯しながら外見を綺麗にしていても、神様はいつも私たちの心を見ているのです。
罪の臭いと汚れが丸見えであります。

パリサイ人にもイエス様は「白く塗った墓よ」と語りました。敬虔な者に見えても、いざフタを開けると汚れでいっぱいでした。

たとえ あなたの罪が火のように赤くても、悔い改めて主の血潮を求めるならば、雪のように白くなります。
これは真理であり、イエス様が与えてくださった恵みなのです。


【ローマ6章17-18節】

神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、

罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

義の奴隷ということは、聖められ罪が洗われたということです。神様の前では、その者が汚れた者ではなくて血潮を浴びて聖くなった姿に見えるのです。


【ローマ6章22節】

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

聖くないと天の御国に入ることは出来ないと語りました。


【Ⅱコリント8章1-9節】

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、

聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

私たちが何かを主に捧げるということは、犠牲が伴います。

神様に献金を捧げる時に、自分の方から出さなければならないです。
お金を大切に思わない人はいないと思います。
なぜなら生活に必要であるので、「たくさんあれば良いなぁ」と誰もが思っているでしょう。

生活をするにはお金は必要ですが、私たちがあれこれ心配し 計算高く将来の為に貯めて、「神様に捧げるものはないわ」とケチる心で神様に捧げるならば、それは恵みではないです。

マケドニヤ教会の人は極度の貧しさの中にいました。当時はクリスチャンであるだけで仕事場から追い出されたり
権利が奪い取られたりしたので、どんどん貧しくなっていきました。

しかし、何もない中でも、その人たちに「捧げたい」という心が出てきました。
神様はそれ自体が恵みであると語りました。惜しまずに捧げたいという心を持っている人は、恵みの中にいるのです。


ですが、計算機を出して「私の老後や子供のほうが大切だ」と捧げ物を減らして、ますます握りしめていくのです。
そのような人たちは神様の恵みを知らない人であります。
「あなたが持っているものは、全てわたしが与えた物である。」とイエス様は聖書で例えを語りました。

自分の命も神様の恵みであり、命を支えてくださっていることも、ものすごい神様の恵みであります。
もしも癌になって手術を受けるなら、何百万円もかかるのです。今、神様が健康を与えてくださっていることは、
ある意味では何百万円以上の祝福を受けていることなのです。

足が動かなくなれば何も出来ないです。
私たちはどれほどタダで神様から恵みを受けているでしょうか。

惜しみなく捧げる人は 恵みを悟った人であります。

マケドニヤ教会の人たちは、何のために献金を捧げたのかと言うと、自分たちも苦しいのですが、自分たちよりも
さらに苦しみを受けている人々に施しをしたのです。
私たちもそのようにしましょう。自分に出来ることを分けてあげる思いでしてあげることです。

地上で生きている時に神様が充分にしてくださるので、神様に信頼したら良いと思います。


【ヤコブ4章6節】

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

高ぶる人とは、恵みを知らない人であります。へりくだっている人は、恵みを知っている人です。

恵みを知っている者には、神様がさらに豊かな恵みを与えてくださると約束してあります。

どうやったら恵みを受けるのかと言うと、恵みを知れば受けます。
自分が生きていること、今まで導いてくださったのは神様であります という思いで感謝を捧げたら恵みを与えてくださいます。
恵みを知らない人は恵みをないがしろにしてしまいます。

私たちは今年もたくさん神様の恵みをいただきました。毎日、毎日 守られて生きてきました。

健康も平安も与えられて、あらゆる災いの中でも守られてきました。
どのような時でも 神様の見えない御手が私たちを支え、恵みが天から流れてきて、それによって生かされたことに感謝しましょう。

来週は、収穫感謝祭であります。
今年受けた恵みを1週間じっくりと考えて、歩みを振り返り1つ1つ神様の御前で感謝を捧げてください。 (*´∇`*)

2013.11.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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