からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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リバイバル

十字架を負って歩む人

テーマは 『 十字架を負って歩む人 』 です

【ルカの福音書9章23-25節】

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

救世軍の創設者であるウィリアム・ブース牧師は、1921年に21世紀教会に対して心配しました。

今から100年前に何を心配したでしょうか?

六つありました。


1. 聖霊のいない教会

2. キリストのいないキリスト教

3. 生まれ変わりがない救い

4. 悔い改めのない赦し

5. 神のいない政治

6. 地獄のない天国


いま世界を見ると、これらのことばが あり得ない話ではなく、実際そのようになってしまった教会も多いです。


あいまいな教え、十字架のないメッセージ、妥協してしまった真理、罪も悔い改めも天国も地獄も語らず、肯定的思考、哲学、道徳、倫理の教えが流行っています。


どんなに素晴らしい教えであっても、キリスト信仰の本質であるイエス・キリストが抜けているならば、それはキリスト教信仰ではありません。


そして十字架を負わない信徒も 主の弟子にはなれないです。

主の弟子は、日々自分の十字架を負って歩む人です。


イエス・キリストの 人としての人生も、自分を捨て、自分の十字架を負ってまっすぐに歩んだ人生でした。


十字架にかかるために生まれ、十字架を負い、十字架の上で死なれました。

なぜでしょうか。

そこにはキリストとしての使命がありました。


人類を罪から救うため 神が立てた計画は、罪のない神の子キリストが 罪人の代わりに十字架の上で死ぬこと でしたので、最初からその十字架を負うために 地上に遣わされました。


そして神はキリストを死からよみがえらせ、天の御座にあげて、すべてのものがその前にひざをかがめるようにしました。


勝利も いのちも 神の国も 主の弟子として使命を全うした人に与えられるものです。

十字架を負って勝利した主は、私たちにも “主の弟子になるために十字架を負う” ように言われました。


イエス様には イエス様の十字架があるように、救われた者は弟子になって、自分が負うべき十字架を負わなければなりません。


これは とても大切なことですが、十字架を語らない教会、十字架を負わせない教会、十字架を負わない信徒たちが多いです。

教会の責任もあり、信徒の責任もあります。


出来るだけ多くの人々を集めることが目標である教会は、信徒たちを まるで “お客様” のように扱います。


お客様を大事にして、お客様が欲しいものを備え、お客様を喜ばせるために色々なイベントを催します。


「楽しんで下さい。何もしなくて良いです。ゆっくりして下さい。」と言います。

負担になる話もしないですし、奉仕もさせないです。気楽に参加して気楽に帰れるように配慮します。


それで人が集まると、教会がリバイバルしたと喜びます。


それが、主の求める弟子の姿であり、リバイバルでしょうか?

弟子はなく、お客さんだらけの教会が、“主の教会” でしょうか?


聖書を読んでみても、そのように教えた箇所は一つもありません。






信じることも、主の所に来ることも 難しいことではありません。


しかし主について行きたいと願うならば、話は違います。


その道は 主が言われるようにしないと、ついて行けない道です。


ですから そのようにしていない人は、弟子ではなく “お客さん” です。

本人がそれに甘んじています。


天国は お客さんを招待する所ではなく、主に従ってきた人が勝利者として入る所です。


私たちは騙されてはいけないです。

広い道を お客さんとして楽に歩いた人に、天国は保証されていないです。


キリストは「楽な道を 楽に歩くのではなく、険しい道を 十字架を負って歩きなさい。」と言われました。


その道を主も歩きました。

ついて行く人に他の道はありません。

キリストは、弟子になる者に 主について来たいならば こうしなさいと言われました。



「自分を捨て」と言われました。

十字架を負って 主に従うための一歩が、自分を捨てることでした。


自分を捨てることは、自我を捨てることです。

人間が最後まで捨てずに固執しているのは “自我” です。


思考、意志、やり方、性格、行動、計画など自分が優先、自分が主人であるという自意識です。


これを否定することが「自分を捨てる」ことですが、自我はなかなか素直に従いません。

神のことばに一番反抗するのも、この自我です。


自我を捨てず、死ぬまで主の働きをすることは出来ます。

しかし、その人の内面は信じる前と何も変わっていないです。
見た目は 信じる人に見えても、その人自身は変わっていないです。


弟子のように見えて、弟子ではないです。


自我を捨てなかったなら、人間は変わることも、十字架の道も歩けないです。


イエス様が神でありながら、人間になって十字架の道を歩けたのは自我を完全に捨てたので可能でした。


【ピリピ2章6-8節】

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

自分を捨てない人が、イエス様を 自分の主人にすることが出来るでしょうか。


私たちが自分を捨てることは、自分の主人を変えることであり、主のことばに従って日々聖なる者に変わっていくことです。


最近 中国で大規模な軍事パレードがありました。

内モンゴル自治区でも 北京でも1万2千人の軍人が参加しました。


内モンゴルでの習近平国家主席の演説だと思いますが、軍人たちに向けて「共産党のために永遠に仕え、命をささげるように」というようなことを語りました。

中国には230万人の軍人がいます。


彼らは共産党にために、国のためにいのちを捨てると思います。

その思いがないと、最初から軍人にはならないと思います。


その演説のことばや軍人たちの姿を見て、あることを ずっと考えていました。

「私はどうなのか ――」と。


共産党のために若い軍人たちがいのちを懸けているのに、私は主のためにいのちを懸けているのかと。


皆さんはどうでしょうか?主のために何が出来ますか?

なかなか答えられないと思います。


なぜなら主のために何が出来るかよりは、“主が 私のために何をしてくれるのか” に もっと関心があるからです。


これは弟子の姿ではなく、お客さんの姿です。


お客さんは自分を満足させてくれることだけを期待します。

しかし弟子は、主を満足させることだけを考えます。


軍人であるならば、命をかけて国のために戦います。

誰かが自分のために戦ってくれることを期待しません。

自分が誰かのために戦います。


それが、彼らが負っている使命の十字架です。


築地市場の火災現場では、消防士たちが一生懸命に消火活動をしていました。

建物の中が激しく燃えているのに、ある消防士が「中に入りましょう。」と声を出しました。


その後、消防士は火の中に入って行きました。

それが、彼らが負っている使命の十字架です。


軍人にふさわしく、消防士にふさわしくなり、その働きをするのが彼らの使命であり、彼らはそのために全力を尽くします。


主について行きたい人も、それにふさわしい者にならないといけないです。


弟子にふさわしい者になるためには 自分を捨て、弟子としての使命の十字架を負わなければなりません。


パウロは主について行く者になりました。

それをこのように表現しました。


【第1コリント9章23-27節】

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

彼はキリストにあって全く新しい者になり、きよくなり、数々の苦難と迫害の中で、自分の十字架を負って弟子の姿になり、勝利者になりました。


【第1テモテ6章14節】

私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。

このように言われてありますが、自分を捨てず、十字架を負わず、死ぬまで お客さんとして満足していますか?

それとも主のことば通りについて歩きますか?


いのちも勝利も救いも最後まで主について行くものが手にすることが出来ます。


十字架を負った者が勝利の主と喜ぶことが出来ます。
v( ̄∇ ̄)v


2017.8.6
聖日礼拝メッセージ

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聖書に出てくる地域教会①

テーマは 『  聖書に出てくる地域教会① 』 です

【使徒の働き8章1節】

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

聖書に出てくる地域教会に対して、今回と次回の2回にわたってメッセージを伝えたいと思います。


ヨハネの黙示録に出てくるアジアの七つの教会に対してはよく聞きますが、それ以外の教会もありますので、今回は七つの教会以外の教会はどのような教会であったのかをみて、自分たちの教会も良い所は学びたいと思います。


イギリスに留学中の韓国留学生たちが、宣教師と教会を探していました。

イギリスには古くから大きな教会がたくさんありますが、
彼らが使わない時間に教会を借りようと思い、ロンドンにある多くの教会を訪ねました。


すると、すべての教会の責任者たちから まず最初に聞かれたことは、“賃貸料としていくら支払うのか?”でした。


なぜ皆が同じ事を聞くのか、だんだんと不思議な気がして来ました。

どうして教会がお金のことを先に聞くのかと思い、その理由を聞きました。


そうしたら、どこの教会も貧しいので冷暖房を使うことが難しく、もし冷暖房を使用するならお金が必要である為、お金のことを先に聞いたと言われました。


教会の建物は立派ですが、信徒は年寄りばかりで 前から2列目まで人が座り、その後ろは空席状態でした。

イギリスは18世紀から19世紀にかけて信徒が多く、世界的に有名な説教者たちも多かったです。

スポルジョンの教会には6千人の座席があり、世界中に宣教師たちも送りました。


しかし、今はどこの教会も人が少ないので、以前のような輝きは完全に消えてしまいました。



反対にイスラム教を信じる人がすごく増えて、教会の建物までイスラム教が買い占め、建物はそのままで、十字架だけを取り除き、そこにイスラム教のシンボルである三日月を飾っています。

三日月は発展を意味します。


モスクに違和感を持っているヨーロッパ人が多いので、教会を買ってそのようにすると 周りの人がモスクだと気付かず、教会だと思っているようです。


イスラム教徒は世界で4人に1人です。
日本でも外国人を含めて11万人のイスラム教徒がいます。お金の力でどんどん浸透しています。


このような時代ですので、教会がしっかりしないと 後でとんでもないことが現実に起こります。


リバイバルした時代の教会の姿が聖書に出てくるので、それを学んで初心に戻らないと、すべての教会が衰退すると思います。


信徒の数が増えるのもリバイバルですが、霊的に強くならないと サタンやこの世に潰されてしまいます。


ですから、その時代の教会の姿をしっかりと学び、受け入れるべきものは受け入れたいです。
今、とても弱さを感じていますので、教会が変わって欲しいと思います。


これから初代教会の姿をみていきます。




エルサレム教会




エルサレム教会は聖霊降臨の後に最初に出来た教会で、霊的に一番強い教会でした。

教会の指導者たちが主の弟子たちでした。


【使徒の働き2章40-47節】

ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。

信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

特徴としては、聖霊の働きが活発で 多くの奇跡が起きたこと、そして主のことばに対する全き従順、信徒たちの深い交わり、霊的祝福を何よりも求めた教会でした。


そして評判の良い教会でしたので、毎日救われる人がたくさんいて、爆発的なリバイバルがありました。

しかしこのような状態は長く続きませんでした。

サタンによる激しい迫害が始まり、それによって使徒たち以外はエルサレムに留まることが出来ず、諸地方に散らされていきました。


散らされた人たちは、ただ逃げたのではなく、みことばを宣べながら巡り歩きました。

そして彼らが行く町に奇跡が起こり、大きな喜びが起こりました。


しかし迫害によって使徒ヤコブが殉教し、他の使徒たちも苦難を受け、多くの信徒たちも苦難や殉教をしましたが、その中でも彼らは喜んでいました。


最強の教会でした。


それが出来たのは、信徒たちが聖霊に満たされ、みことばに満たされ、伝道に熱い思いを持っており、神の国とその義とを第一に求めたからです。


これは心を神に向ける時に可能ですので、私たちが学ぶべき姿です。


形式的な信仰生活では、迫害にすぐ倒されてしまいます。

そのような信仰生活では聖霊に満たされることも、従順することも、使命に燃えることも出来ません。


私たちにはこれが足りないと思います。
形式的で生ぬるい信仰がとても多いので、悔い改めが必要です。




アンテオケ教会




次はアンテオケ教会の姿です。


【使徒の働き11章25-26節】

バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、

彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

アンテオケはローマ帝國で、ローマ、アレクサンドリアに続いて 3番目に大きな都市で人口は50万人いました。


アンテオケ教会に初めて異邦人伝道の基地が設置され、バルナバとサウロ(=パウロ)がそこで人々を教えました。

ここは異邦人教会の中心地であり、宣教基地でした。


この時、初めてキリスト者と呼ばれたということは、キリスト教がユダヤ教とは完全に区別された新しい宗教であると認められたことを意味します。

それまでユダヤ人は、キリストを信じる者を “ナザレ人”や“ガリラヤ人”と呼んでいました。


アンテオケ教会は、断食と祈りをしながら聖霊の導きを受けて、正式にバルナバとサウロを宣教師として派遣しました。

そしてこの教会は 愛がある教会で、ユダヤにいる信徒たちがききんのために困っている知らせを聞くと、それぞれの力に応じて救援物資を送りました。


アンテオケ教会は霊的に成長し、数においても大きく成長した教会でした。

教えられたみことばをよく守り、よく祈り、愛の労苦があったのでリバイバルしました。


数は多くても霊的に弱い教会も多いですが、アンテオケ教会はバランスの取れた教会でした。




カイザリヤ教会




カイザリヤ教会に対しては知らない人も多いと思います。

カイザリヤは地中海に面した所にありますが、ここはエルサレム教会の執事であったピリポの故郷でした。


ピリポはエルサレム教会で最初に選ばれた7人執事の1人でした。

その時に選ばれた執事の条件は、「御霊と信仰と知恵に満ち、評判が良いこと」でしたが、7人の中で一番活躍したのはピリポでした。


彼の活躍は使徒の働き8章に書かれていますが、たくさんの奇跡を行い、誰よりも伝道に熱心で、至る所で福音を伝えました。


【使徒の働き8章40節】

それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

自分の故郷へ行って教会を設立しました。

私たちもこの姿勢を学ぶべきです。
直接私たちが行けないならば、自分の故郷に教会が出来るように祈ることです。


日本人はキリスト教に対して興味がなく、無関心な人がとても多いです。


しかしキリストを信じている人は、その人たちに関心を持って自分たちの故郷にも教会が出来るように祈ることです。


教会がないと、たとえ救われたとしても礼拝する場所がないので困ります。

私たちはピリポのように、執事でも このような立派な働きが出来ることを知って挑戦することです。


牧師だけが教会を建てるのではなく、信徒たちも出来ます。
熱心に伝道したら教会が建ちます。


神戸教会は魂が救われてから出来た教会でしたし、私も信徒の時に教会を開拓しました。


熱心に伝道する信徒がいると、教会はリバイバルしますし、伝道しないとリバイバルはないです。


伝道して下さい。たましいにみことばを伝えて下さい。
そうすると聖霊が働きます。




ローマ教会




伝承によれば、最初 ローマに福音を伝えたのは、バルナバと言われています。


この教会は、ローマ帝國の最大都市であるローマに出来た教会でした。

人口が80万人もいる大きな都市でした。

皇帝が存在し、多くの神殿がありましたし、帝國らしいあらゆる設備が整った大都会でした。


ローマ教会の構成は、ユダヤ人と異邦人が混ざっていましたが、異邦人の方が多かったです。


ユダヤ人と異邦人が一緒にいることで、教会の中には様々な摩擦がありました。

間違えた律法主義信仰を持ったユダヤ人と、それとは反対のキリストにある自由を強調する異邦人の間で意見の衝突がありました。


ローマ書は キリスト教の教理が一番書かれていますが、それは教会の問題点を解決するためにパウロが、救いや信仰、律法、キリスト者の生活全般に対して詳しく教えました。


ローマ教会だけではなく、異邦人がいる教会では同じ問題がありましたので、代表的存在であるローマ教会に教理を伝えました。

ローマ教会は地理的な面もありますが、異邦人教会の代表的な存在になっていきました。


ネロ皇帝は自分でローマ市に火をつけておきながら、その犯人がキリスト教徒であるとして大迫害を加え、焼き殺しました。

また何人かの皇帝によって激しい迫害があり、信徒たちは地下に潜るようになりましたし、その迫害の中で多くのキリスト教徒が殉教し、ペテロもパウロも殉教しました。


それでも信徒たちは信仰を捨てることをせず、命を懸けました。

やがてキリスト教はローマ帝國で認められるようになりました。


ローマ教会をカトリック教会の始まりと思っている人がいますが、それは大きな間違いです。
なぜならば、カトリック教会に初代ローマ教会のような姿はありません。

(初代教会は)ペテロを法王にしたこともないですし、巨大な権力も富も持ちませんでした。


ローマ教会の信徒たちは、信仰のために貧しくなり、権力にも妥協せず、迫害され殺されていきました。

それはカトリック教会とはまったく違う姿でした。似ても似つかない姿です。






これからの時代は、世の権力と富と他の宗教との戦いが激しくなる時代になります。


すでに韓国でもイスラム教が学校の中でも、色々なところでぶつかっています。

とても怖い時代になってきました。


私たちは、聖書にある教会が それらの戦いの中で生き残ったことを見ながら、信仰を強め、聖霊に満たされ、みことばに堅く立って、ますます愛し合い、助け合わないと教会はだんだん衰退して消えていきます。


「この教会が潰れたら、他の教会に行けば良い」と思うのは、神も教会をも愛していない姿です。


ますます主のために良い働きが出来る教会になるように、力を合わせないといけないです。


信徒が教会に無関心であるならば、未信者よりも悪い姿です。


初代教会はとても霊的に強い教会で、神の言葉に対しても よく聞き従順していました。
そして迫害にもよく耐えました。


主の再臨が近づいているので、私たちは目を覚まして、神の働きにも力を入れて、教会を強め、魂に対しても関心を持ってみことばを伝え、それぞれが出来ることをしていきましょう。


この世の流れがとても不気味です。
イスラム勢力は拡大してきています。


クリスチャンとして生きにくい時代になっています。

生ぬるい教会では飲み込まれてしまいます。


生ぬるい信仰では妥協して名ばかりの信仰になり、迫害があると“主を知らない”と言います。


必ずその時代が来ますので、危機感をもって信仰生活をしましょう。
(・◇・)ゞ


2015.7.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私の使命は宣教

テーマは 『 私の使命は宣教 』 です

【マルコの福音書16章15節】

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

宣教は、宣教師・伝道師・牧師だけがするものではなく、救われたすべての人にイエス様が与えた命令であります。

宣教は誰かがするのではなく、「私がしなければならない使命」だと認識をしなければなりません。

初代教会の人たちと、イエス様の弟子たちは この言葉をしっかりと受け取りました。

もし 初代教会の人たちが宣教活動をしなかったならば、福音はそこで終わったと思います。しかし、イエス様が天にのぼられた後に すぐさま立ち上がって福音を伝え、3千名が救われました。
ある程度 増えてくるとグループになって固まろうとするところがありますが、それは神様が喜ぶ姿ではないです。
「まだまだ救われていない魂がいるだろう。」と語ります。


エルサレムの教会に対する迫害があり、信徒たちはそこにいることが出来ず散らされていきましたが「散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた。 」と主から受けた言葉通りに一般の信徒たちにも福音を伝えました。これは神様が喜ぶ姿であります。

迫害の中でも福音を伝えるということは命懸けなのです。

どの時代でもこの命令が変わることなく与えられていますので、私たちは福音を宣べ伝えていかなければなりません。


日本や韓国は、イスラエルから遠く離れていて福音が届きにくい場所にあります。
今から150年前に 日本にキリスト教が伝えられましたが、当時は交通便も悪いですし、情報を手に入れるのも難しい時代でした。

しかし、十字架の信仰と殉教精神、宣教への情熱を持って多くのクリスチャンが全世界へ出ていきました。

日本も韓国も まずカトリックの神父たちが福音を伝えに入ってきました。そしてその後に宣教師たちが来て、みことばを伝えました。

多くの宣教師たちが迫害に遭い、命を落とし、二度と国に帰ることはありませんでした。
それでも宣教師 たちは途絶えることなくやってきました。とても感謝なことであります。

もしこの人たちが来なかったならば誰1人福音を聞くことが出来なかったと思います。


今回の教役者大会でも、フィリピンの講師先生が「日本へ宣教に来て20年以上経っている宣教師たちは立ちあがって下さい。」と言われた時に、 多くの宣教師たちが立ちあがりました。

言葉が通じないところへ来て 人知れぬ大変な苦労をしながら生活をしていたのだろうと感じました。
講師先生が「この方たちは本当に立派であります。自分の国を離れて、ただ1つ福音を伝えるためだけに来られて20年以上経っていますので拍手を送りましょう。」と言って 皆で拍手を送りました。

この人たちは戦いの戦士に見えました。日本人がなかなか福音を伝えない中で、外国人が戦いの中へ飛び込んでいく姿が想像できました。

私たちはそのような姿を見て、自分たちは何をしているのか ――?自分の家族や周りの人々に福音を宣べ伝えているのか?そのことを心に留め、悔い改めながら新しい思いを持たなければいけないと思います。


終わりの時は今までにない迫害が来て、信じる人たちも自分の信仰を守ることがとても難しくなります。
ですから福音を伝えることはもっと難しくなります。今、家族に福音を伝えなければならないです。

私たち自身がいつも問題ばかり抱えて、神様に出会って何一つ良いことがないならば 証にならないです。
自分自身が変わっていないならば 家族への宣教は難しいです。


宣教は外国へ行くことだけが宣教ではなくて、家族に対しても私たちが変わっていく姿を実際に見せていないと「イエス様を信じて。」と言っても
「あなたは信じて何が変わったの?何も変わっていないじゃない。」と言われ 福音が伝わりません。

私たちには責任があるのです。「私は家族・親戚に良くなっている姿を見せているのか ――?」それを反省しなければならないです。




昨年11月8日~10日まで、イスラエルのベツレヘムで聖会がありました。

そこにあるベツレヘム第一バプテスマ教会が、韓国のヨンセ中央教会と3年間 合同で聖会を年1回 開いています。
その理由は、その地域に住む人たちは福音を聞くチャンスがないまま死んでいく魂が多いからです。

その地で福音を伝えることは命懸けであります。なぜならそこに住むアラブ人はイスラム教を信じる人が多いからです。ベツレヘムはイエス・キリストが生まれた土地であります。
現在はユダヤ人がまったくいない地域でパレスチナ人が住んでおり、いつでもイスラムのテロが起こり得る場所です。


今まで福音を聞いたことがない1,300名のイスラム教徒のアラブ人が参加し、正統派イスラム教徒も30名が参加したと言われています。
彼らは何が語られるのかと福音を聞きに来ました。神様は彼らにも福音を聞いて救われて欲しいのです。

3日間で5,000名が集まり、その中で175名が救われ、イエス様を救い主として受け入れました。そして悪霊が追い出され、病人が癒される奇跡が起こりました。


伝える人がいなければ、救われる人もいないです。

今までイスラム教徒として生きていた人たちが福音を聞いた時に、力と奇跡を神様は現わし、生きて働く神様を見せてくださいました。

神様は福音が全世界に届いて人々が救われることを願っておられます。




ここで韓国と中国の教会の姿を見てみたいと思います。


韓国の教会は以前にリバイバルをしました。聖霊の働きがとても強く、世界の中でも韓国の教会が一番燃えていました。しかし今は 下り坂になりリバイバルをしなくなりました。そして主のために献身をする十字架の信仰が消えていきました。
その原因は、経済的に豊かになってしまったからです。


その反面、今 中国では聖霊の働きがとても強く現われ、驚くべき成長を見せています。
公認教会や地下教会の人たちは命をかけて福音を伝えています。

彼らは投獄されても福音を伝えており、その多くの者たちに十字架の信仰があります。


韓国でも危機感を持っているクリスチャンたちは目を覚ましています。
「この時代において、私たちが何をすべきか」を考えるようになりました。

韓国教会の時代的使命は、中国宣教であります。
なぜ中国を宣教するのかと言うと 聖霊様の働きで救われる人たちは多いですが、教理的な部分がまだ弱いです。
神学校が足りなく 指導者も足りないです。


韓国は神学校が多く 海外で学んでいる人もたくさんいますし、教理的・神学的に優れています。
しかし熱が冷めて弱くなってきました。
ですから「私たちが持っている教理的・神学的なものや指導者を中国へ送り、中国の人たちが更に力を持って宣教できるようにと たくさんの人たちが中国へ行っています。


中国教会は殉教信仰が強い人もいれば、中国は経済が良くなってきましたので 教会に来る人の中でも経済的祝福だけを求める人が増え、神様よりも 神様が持っているものに関心が多いです。
そうすると神様に対する想いも冷めていきます。それが中国でも実際に起こってきています。

中国は人口が多く、国内では少数民族が55もありますし、中国は、終わりの時代に世界宣教の使命がある国だと思います。


なぜかと言うと日本や韓国がイスラム圏やアフリカに宣教しようとするならば拒まれるのです。それは、アメリカと仲が良いという理由です。イスラム教の国ではアメリカに対する敵対心がとても大きいのです。


しかし中国は社会主義ですので イスラム圏の国やアフリカにたくさん入っていけるのです。

韓国では「中国教会がアラブ、イスラエルなどイスラム圏の国々のために時代的使命を果たすことができるように協力することである」と考えています。




日本はどちらでもないです。
日本ではリバイバルが起こったこともないですし、熱くなったり冷めたりすることもないです。

「韓国や中国には出来ても日本には無理だ」ということを言いますが、これは言い訳にすぎません。
よく考えてみると自分たちが燃えたことがないのです。


自分たちが命を懸けるほど国に福音を伝えようと熱く燃えたことがありますか?


ですから原因は私たちにあるのです。自分たちが勝手に諦めているのです。
人々が滅びていっても関心がなく、家族がイエス様を信じなくても重荷を負わず「私には関係がない」という思いが強いです。
そのことを悔い改めなければなりません。

「ただ他人に迷惑をかけなければ良い」ということではないです。
福音は迷惑をかけても良いものです。「あなたの魂が救われて欲しいんだ。」という熱い想いなのです。


私たちの周りはほとんどの人たちが未信者だと思います。
時々その人たちに みことばカードを使って「お元気ですか?」と手紙を書いたら良いと思います。
その人たちに関心を持って、関係を結んでいくと良いです。みことばカードの言葉が種になって蒔かれていきます。

神様は私たちにそれをして欲しいと願っているのです。他人に関心を持って欲しいのです。
自分たちだけが救われて天国へ来るのではなく 「働きをしなさい。」と主が教えておられます。


私たちが宣教をする時には どのような心を持っていなければならないでしょうか?

私たちはクリスチャンの目で見なければならないです。今、ものすごく悪い勢力が働いています。
それは、日本・韓国・中国を仲悪くさせようとする力が 以前よりも強くなっていることを私たちは見ています。

ネット上でも過激な言葉や非難的な言葉がとても多いです。
過激な言葉を使って本を出版すると人々が買います。これは金儲けで自分たちの利益のために働いています。国のことは関係がないのです。

私たちはそのようなものに翻弄されてはいけないです。

「政治が悪い、国が悪い、国民性が悪い」と言いますが、どこの国でも皆、自分たちの国の方が大事なのです。
ですから色々なことがありますが、クリスチャンがそのような目で見ていたら本当の姿が見えてこないです。


クリスチャンは神の目でこの時代を見ることであります。

「サタンが働いて分裂を起こしているのだ。国々に敵対心を生んでいるのだ。」と、私たちは絶対に悪いものに乗ってはいけないです。

「今は収穫の時である。これが終わりの時のしるしであるのだ」ということを 私たちは知らなければならないです。


【マタイの福音書9章35-38節】

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

私たちが人々を見るときに、どのような思いで見るのかマタイの福音書9章36節に書かれています。

私たちの周りにいる群衆を見た時に、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れているので「可哀想だ」という思いで見ることです。
そしてその人たちに、水1杯を与えるのです。その水1杯とは神様の言葉であるのです。


弱り果てている人に力を与えるのは みことば しかないです。

まずは自分が働き手として働き、それでもまだまだ福音を聞いていない人が多いので働き手を送ってくださいと祈らなければなりません。


【ヨハネの福音書4章35-38節】

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。 目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに 入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、 ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。

わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを 刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

もう色づいているので「まだまだ」だという思いを捨てなさいと教えておられます。
私たちが福音を伝える時の言い訳の1つが「あの人はこうだから、多分 福音を聞かないでしょう。あの人は他の宗教を信じています。 あの人は心が頑なです。」とか先に言い訳をして「だから無理です。今ではないです。」と言います。

イエス様は「あなたが出て行って刈り取る時なのだ」と言っておられます。


私たちが種を蒔いてもビクともしない人がいるかも知れません。
しかし、長い時間が経って別の者がその人のところへ行き 福音を伝えた時に受け入れることがあります。

私たちは自分が蒔いて、自分で必ず刈り取らなければならないということではないです。

今すぐ刈り取ることはできなくても失望せずに、神様は種を蒔きなさいとおっしゃいます。
いつかあなたが流した労苦が必ず実を結ぶことを教えています。


【Ⅱテモテ4章2節】

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

みことばを伝える時は 色々な戦いがあります。拒否する人たちも出て来るのです。
ですから教える時も、責める時も、戒める時も、勧める時も「みことば」を使うのです。そこでは自分たちの言葉はいらないです。
神様の言葉を教えてあげることであります。

神様の言葉には力がありますので、きっとその人たちの心を刺し、悔い改めや立ち返りに導かれるでしょう。


私たちはしっかりと神様の使命を悟り、みことばを宣べ伝えていきましょう。

箴言には知恵の言葉が書かれています。私たちが人間的な言葉ばかり伝えると、人と会話をしても相手の心に残ることがないです。
しかし、私たちの言葉の中に 神様の言葉がたくさん散りばめられていると、その人の魂にぶつかっていきます。


日々、私はこの国に遣わされている宣教師だと思いながらやってください。
これからは伝道を常に心掛け、宣教に力を入れましょう。 ( ̄‥ ̄)=3

2014.2.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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十二弟子の選びと伝道活動

テーマは『 十二弟子の選びと伝道活動 』です

【マタイの福音書10章1-15節】

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、

熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も 持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。

その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。

その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。

まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

イエス様が十二弟子を選びましたが、どのような目的で彼らを選んだのでしょうか。

イエス様は力ある神様でもありますので、ある意味では人の手がいらないかもしれないです。
1人で全部できるお方でもありますが、なぜ十二人の使徒たちを選んだのでしょうか。
そして私たちをイエス様はなぜ選んだでしょうか?
目的なしに人を選ぶことはないです。

一番の目的が、次のみことば箇所に書かれています。


【マタイの福音書9章36-38節】

また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫の主に、 収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

魂の収穫のための働き手として まず彼らが選ばれました。
羊飼いのない羊のように弱り果てている魂があまりにも多いので、働き手が必要なのです。
イエス様が1人で世話をすることができないのです。

魂の状態をイエス様が見ておられて可哀想に思ったので、十二使徒を先に選んでくださいました。

使徒とは「遣わされた者」という意味があります。主人のメッセージを受けて、それを持っていく人です。
収穫のための働き手は、今もっとも必要であります。


【マタイの福音書10章1節】

イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

ですから「私には力が無いので出来ないです。」という言葉は違うのです。
神様に私たちが選ばれた時には、その力が自分たちに与えられているということを認識しないといけないです。

(力が)あると思って働きをする人と、私にはそんなものは無いから出来ないという人では全然違います。
自分たちが持ってあると思うならば大胆に働きができます。大胆に悪霊を追い出そうとすると悪霊は出て行きます。
「私は何も(賜物を)もらっていない、そんなに長い訓練を受けていない、まだ知らないことがたくさんあるので」
と言うのは、関係のないことなのです。

私たちは種として貰っているので、私たちがそれを使えば花が咲きます。使えば収穫することが出来ます。


私たちは、選ばれた十二弟子の姿を見ていますが、1人として立派な経歴や知識があったり知恵がある人は
誰もいませんでした。ほとんどが、漁師出身、学校に行ったことがない田舎者、しかし神様はこういう人たちを
福音を伝える人として選んでくださいました。

これが世の働きであるならば、このような人たちではなく 違う人を選ぶと思います。

しかし、福音は魂を刈り取る 倒れている人たちを可哀想に思って助ける人たちです。
ですから見る観点が違います。

神様は 福音を語る人は献身する人たちを選ぶのです。従順し、主の言葉通りに動く人を選びます。

完璧に出来上がった人たちを選ぶのではないです。弟子たちの姿を見ても失敗はたくさんありました。
しかし他の者を選んでいたら、だんだん高慢になって主の働きではなく魂を自分たちに仕えさせてとんでもない者に
なったと思います。

イスカリオテ・ユダ以外、彼らは本当に良い羊飼いになりました。


【マタイの福音書10章5-6節】

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

イエス様はユダヤ人のためだけの救い主ではなく、全世界の人々のための救い主であります。

まずは先民たちが救い主を分かっていないので、まず彼らから救われて欲しいとイエス様は願っていました。
福音はユダヤ人から始まり、ギリシヤ人、そして全世界に広がっていきました。
サマリヤ人の町に入らないように言ったのは、彼らが純粋なユダヤ人ではなかったです。ですから、イスラエルの
家を失われた羊のところへ行き福音を伝え、そこから全世界に出て行きなさいと語りました。

しかし、実際にはユダヤ人たちは福音を素直に受け止めたでしょうか?― そうではなかったです。

イエス様は3年間伝えましたが、素直な気持ちで受け取らず迫害しました。
使徒たちによって異邦人に福音が伝えられた時に 異邦人の方が素直に福音を受け入れたので リバイバルが起こりました。

神様がおっしゃるのは、まず あなたの家族、あなたの親族、あなたの友達に福音を宣べ伝えなさいということです。
そして、それを越えて宣教へ出て行き多くの人々に福音を伝えていきます。
これがイエス様が語っておられる伝道する時の順番であります。

祈りながら時が良くても悪くても、みことばの種を落していくことです。
ただ、「イエス様を信じなさい」と言うよりも福音が語る良い知らせをたくさん伝えることであります。


【マタイの福音書10章7節】

行って、『天の御国に近づいた』と宣べ伝えなさい。

素晴らしい祝福であります。それを相続するために準備をしておきなさいということです。
福音はそういうものであります。

私たちが福音を語る時に、地獄があることを先に語ってはいけないです。
そうではなく、天国があるということから語ります。このような祝福があるのだと先に伝えます。
メシヤが来ることは祝福であります。
天の御国に入るには、汚れたままではなく今まで犯した罪を悔い改めないといけないです。
悔い改めてイエス様を受け入れたら天の御国に入れると伝えることなのです。
複雑な言葉は救われた後に伝えます。何も知らない人たちには、天国があることを伝えるのです。

世の終わりが近付いていますので、周りを見ると不安材料(災害や戦争など)があります。ですから語りやすいです。
たとえ命を失っても天国に入れるので大丈夫だということを伝えるべきであると思います。


【マタイの福音書10章8-9節】

あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。

胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。

これは手ぶらで行きなさいという意味ではないです。

主が与えた色々な賜物があります。
病人を癒す力、死人を生き返らせる力、悪霊を追い出す力などがあり、これを主の福音のために私たちが使っても良いのですが、金儲けのために使ってはいけないのだと語っています。
ですから「ただで与えなさい」と書いてあるのです。

実際にそれらを用いて金儲けをする人たちもいるのです。
世の中の宗教は1回祈るのにお金を支払わなければならないです。
商売ですから、神社やお寺には金額が書かれています。とても高い金額です。


しかし、私たちクリスチャンはそういうもので商売をしてはいけないと神様が語りました。
働く者が食べ物を与えられるのは当然だからですという言葉があります。
ですから人ではなく、神様に頼りなさいということです。
神様が導いてくださり、そこで人々の心を動かして相手から「どうぞ入ってきてください。」「どうぞ食べてください。」
「どうぞこれを使ってください。」というのは素晴らしいことですが、自分のほうから要求してはいけないということであります。

神様は、きちんと働く人たちに対しては祝福を備えてありますし、もてなす人々に対しても祝福を備えてある方であります。


【マタイの福音書10章40-42節】

あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、 わたしを遣わした方を受け入れるのです。

預言者を預言者だというので受け入れる者は、 預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに 告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

福音のために働く人たちを私たちは尊敬し受け入れ、その人たちの世話をすることは祝福に繋がることであります。

また、自分たちもそういう者にならないといけないです。
「誰かが働くだろう」ではなく、何のために神様が私を選んでくださったのか
収穫の中で働く者として私は選ばれていると、今 私が伝えなければ誰が伝えるのだ、という認識です。

私たちは主の言葉に従って、弱り果てている人たちのところへ行き、福音を大胆に伝えるべきだと思います。
(・◇・)ゞ

2013.10.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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