からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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メシヤ

イエス・キリストの偉大さに対する様々な証言

テーマは 『 イエス・キリストの偉大さに対する様々な証言 』 です

【マタイの福音書1章18-23節】

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

本物と偽物を見分ける方法は色々ありますが、様々な証言や証拠によって見分けるのが1番確実です。


イエスがメシヤ(救世主)であり、偉大な神であることは、生まれる前からの証言やその他の証言、証拠などで間違いないことが はっきりとしています。

今回はその部分を調べてみたいと思います。


調べることもせずに勝手な思いや先入観で、“メシヤではない” と決めつけるのは、知恵のないことです。


私が8回くらい観た映画「ベン・ハー」は 1959年に初めて上映されましたが、来年リメイク版が上映されます。

アカデミー賞にて11部分を獲得した記録は、未だに破られていないようです。


その映画は小説「ベン・ハー」が原作です。

「ベン・ハー」を書いた「ルー・ウォーレス」は無神論者で、キリスト教が大嫌いでした。


それで彼は「キリスト教撲滅論」を書こうとイエス・キリストについて取材を始め、彼が実在の人物ではなく、救い主でもないことを証明しようと試みましたが、調べていくうちに だんだんイエス・キリストが実在の人物であることを信じざるを得ず、そのうち、彼自身がキリストを受け入れる決心をしました。


そして、キリストが救い主であることを書いたのが「ベン・ハー」です。


来年映画が上映されたら観て下さい。また、以前に作られた映画も観て下さい。




主の使いの証言




【マタイの福音書1章20節】

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

結婚が決まった婚約者に身に覚えのない妊娠が発覚された時に、正気でいられる人がいるでしょうか?

それは今の時代でもショックを受けます。


ましてや律法が厳しい時代のユダヤならば、女性はさらし者になり、律法によって殺されます。

ヨセフは正しい人だったので、内密に去らせようとしました。


マリヤを妻として迎えることは到底出来ませんでした。

とても辛い心でいる彼に、夢で主の使いが現れました。

主の使いという特別な存在が、自分が抱えている問題に触れたこと自体 彼には驚きでした。


人のことばなら受け入れられませんが、主の使いの証言ならば誰が信じずにおられるでしょうか。

ヨセフは主の使いのことばを素直に受け入れました。


もちろんどこまで理解したかは分かりませんが、偉大な人が生まれるということは信じました。




東方の博士たちの証言と証拠




【マタイの福音書2章1-2節】

イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

彼らは星に導かれて 遠い国からユダヤの地までわざわざ贈り物を携えて来ました。


国から招待されたわけでもない人たちが、わざわざ他国をいきなり訪問することがあるでしょうか?

伝承によれば彼らは王であったと言われています。


そういう身分の人たちならば、事前に様々な協議をして 日程を決めて訪問すると思いますが、彼らは不思議な星の導きによってユダヤまで来ました。

ヘロデ王は彼らの訪問を受けて戸惑いました。


それも自分たちは誰一人知らないユダヤの王としてお生まれになった方を拝みに来たと言われたので、人々は戸惑いました。

星はさらに彼らを導いて幼子がいる所まで案内しました。


もし そこに何もなかったならば、彼らは自分たちの勘違いと思って失望して帰ったと思います。

しかしその場所で幼子を見つけたので、贈り物をして大喜びで帰りました。




バプテスマのヨハネの証言




【マタイの福音書3章11節】

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

バプテスマのヨハネの存在と働きは、旧約聖書で預言されてありました。


【イザヤ書40章3節】

荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

彼がその働きをした時に人々がその働きを認め、彼から水のバプテスマを受けるためにユダヤの全地域の人々が集まりました。


そして、そのバプテスマのヨハネに 神は “メシヤを見分ける方法” を教えて下さいました。

それが次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書1章32-34節】

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。

私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

人々から尊敬され、敬虔であるバプテスマヨハネが嘘の証言はしないはずです。




神とモーセとエリヤの証言



【マタイの福音書17章1-5節】

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。

そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。

すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

モーセとエリヤは旧約時代の実在人物で、モーセは律法の代表者、エリヤは預言者の代表者のような人物で、民から最も尊敬されていました。


すでに天に召された2人が、突然姿が変えられたイエス様と話していることは、イエス様が普通の人間ではなく、神が遣わしたメシヤであることの証拠になります。


そして真の神ご自身が雲の中に現れて はっきりと証言して下さいました。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」 と。


歴史人物の中で誰がこのように証言されたでしょうか?


自分で勝手に話を作る人は多いですが、このような証拠はありません。

中でこういうことをされた人物がいたでしょうか。


目の前で不思議な光景を見た弟子たちが証言しました。




悪霊の証言



【ルカの福音書4章41節】

また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。

悪霊は霊の存在であるから、私たち人間よりも霊的なことに対しては優れています。


イエス様が現れると、悪霊どもは自分たちの存在がばれて、人々から追い出されることを知っていました。

なぜなら闇は光の前では消えるしかないからです。


ですから、いつも悪魔は 先に色々とイエス様に話しました。


時には「追い出さないで下さい」と言ったり、抵抗したりもしましたが、いつもイエス様は悪霊を追い出して人々を助けました。

嘘つきである悪霊さえイエス様の前では嘘が言えませんでした。


人々の前でイエス様が「神の子です。」と はっきり言いました。




主の言葉を聞いた群衆たちの証言



【マタイの福音書7章28-29節】

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。

というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

主は毎日 人々に教えました。

その教えは素晴らしく、どこでも人々が集まり、その教えを喜んで聞いていました。


その言葉で人々のたましいを導き、慰め、励まし、いやし、奇跡などを行いました。

今まで誰もやったことのない奇跡や、権威あることばを語るので、人々はイエス様を救い主として受け入れました。


同じことばを聞いても、妬みや宗教の霊に縛られた祭司や律法学者たちは 心がかたくなであるのでイエス様を拒否しました。

しかし一般の人々はイエスをメシヤであると証言しました。


これらのことを見ても、イエス様が救い主であり、偉大な方であることの証明になったと思います。


これ以外だれの証言や証拠が必要になるでしょうか?

もしイエス・キリストをメシヤとして認めないならば、その人はそのことを証明しなければなりません。


ユダヤ人の多くはメシヤとして認めず、未だにメシヤを待つ人が多いですが、最近はイエス様が多くの個人の前に直接現れて、多くのユダヤ人がその瞬間変えられてメシヤとして認めています。

今ありえないことがイスラエルや中東で起きています。


どんな神でも良いと言う人は多いです。


道徳的には正しく生きられるとは思いますが、魂が死ぬか生きるかが懸かってあります。


罪は善行では消えないですね。


私たちの罪を贖って天国に導きたいと願って 地上に来られたイエス・キリストを、その時代の人々が救い主であると証明しました。


目を開けて、耳を開いて、その証言をしっかりと聞いて下さい。

信じますか?それとも信じられないですか?


今度は信じる者が新たな証言をする番です。

主は偉大な神です。
メシヤです。


そして再び再臨なさる方です。
( ̄‥ ̄)=3

2016.12.25
クリスマス礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストの十字架がどう見えますか

テーマは 『 キリストの十字架がどう見えますか 』 です

【第1コリント1章18-19節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

4つの福音書には 十字架につけられたイエス様の姿がありますが、皆さんはその姿が想像出来ますか?

ムチ打たれ、いばらの冠をかぶっている姿を想像しますか?


私たちがどんなに想像しても、当時のイエス様の姿とは かけ離れています。


ある人が幻の中で十字架につけられたイエス様を見ました。
そして大きなショックを受けました。

それは自分の想像をはるかに超えた悲惨な姿だったからです。


ローマの刑罰で十字架につける犯罪人は、まず鞭打つことが慣例でした。

堅い皮のムチは先端だけが分かれていて そこに尖った鉛をつけて打つので、それが体をひどく傷つけるため、十字架につけられる前に死んでしまうこともあると言われています。


力強い兵士たちが 犯罪人を裸にして何十回も打つので、肉は全部裂かれ血が飛びます。


幻を見た人は、ムチ打たれて裂かれた体の部分がまるで線を引いたような模様になり、その傷は深く、骨まで見え、全身 血だらけで人間とは思えない姿であったと言いました。

あまりにも悲惨な姿で そのような姿は映画でも見たことがないと言っていました。


その姿を見た人たちに「この方は救い主で、あなたの罪のために十字架につけられて死にました。ですから信じて救われなさい。」と言うと、人々は首を横に振って信じませんでした。


「あれは犯罪人だ。神ではない。あんな悲惨な死に方をする者が救い主なわけがない。」と受け入れません。


現代人よりも、その時代の人々の方がもっと信じませんでした。

その姿を目の前で見ましたので、ほとんどの人が十字架につまずいてしまいました。

弟子たちは一生懸命に キリストの十字架を伝えました。


福音は キリストの十字架が核心です。


ですから伝えるメッセージも簡単で、“キリストの十字架の死と復活” でした。

『 十字架につけられて死んだ この方が人類を救うメシヤであり、王の王、主の主です。』 と福音のメッセージを伝えましたが、そのメッセージはユダヤ人だけではなく ギリシャ人にもローマ人にも受け入れ難いメッセージでした。


ローマ人の立場から見ると、十字架は 犯罪を犯した奴隷が 悲惨な死を遂げたことなので、救い主と認めることはナンセンスでした。


ギリシャ人は 常に理性的、哲学的知恵を追及しているので、野蛮な方法である十字架刑で死んだ者が 人類を救うことなどあり得ない と思っていました。


ユダヤ人は メシヤがそんな方法で人類を救うことが出来ないから、メシヤである証拠を求めました。

十字架から降りたら信じるとも言いましたが、(イエス様が)降りずに死んだので、メシヤとして認めることは出来ないと思っていました。


“十字架の上で死んで人を救う” ということが、彼らには愚かに見えました。


福音を伝えると必ず人々がこのような反応を見せるのでパウロは今回のテーマ箇所のように語りました。


【第1コリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

現代の人々はどうでしょうか?
昔とあまり変わらないです。

なぜ十字架に対する人々の反応がこんなに固いものでしょうか。


人々は何に憧れ、何を求めますか?

それは 強いもの、美しいもの、良いもの、魅力的なもの、知的なものです。

つまり苦難と苦痛、犠牲を避け、快楽を求めます。


しかし キリストの十字架は、何一つそれに当てはまるものがありません。


十字架を見ると、弱さ、惨めさ、辛さしか見えませんので、何ひとつ魅力的な姿がありません。


イザヤ書にキリストの姿が預言されています。


【イザヤ書53章1-3節】

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

人間の目には、魅力的な姿ではないと預言されています。

これがイエス様の時代や現代でも 十字架が拒まれる原因になってあります。


十字架が現代人の知的欲求、政治的欲求を満たすことも、個人の欲求を満たすことは出来ないです。


ですから「十字架にかかったキリストを信じなさい。」と言われても、それを認め 受け入れることが難しいです。


もし、キリスト教がキリストの十字架を伝えないで 道徳や倫理、愛、施し、正しいことだけを伝えるならば、もっと多くの人が気軽に受け入れると思います。


しかし“キリストの十字架が抜けた キリスト教”は、もはやキリスト教ではないです。






最近、韓国でも教会や伝道する時に キリストの十字架や罪、悔い改め等をほとんど言わず、祝福、恵み、癒し、繁栄のメッセージだけを伝える傾向が強いと聞きました。

それは人々が望むメッセージです。


伝道する時も、教会にはどのような娯楽施設があるか、サークルやイベントなどを宣伝して人を集めていると聞きました。


しかし初代教会の時代は “キリストの十字架”がメインでした。

パウロはキリストの十字架以外は語らないと宣言しました。


“キリストの十字架” に戻らないと、教会は堕落します。


どんなに人が集まっても、主は その教会を “死んだ教会゛ と言われます。


キリストの血なしに罪の赦しはないですし、救いもありません。


神を喜ばせないで 人を喜ばせるために、人々の負担になり、魅力的でないキリストの十字架をいつの間にか後ろに隠して、人々の耳に良い話だけをして 人の数を増やそうとします。


人の目には たくさん人が集まって成功しているように見えても、神の目には堕落した教会の姿でしか見えないです。


人間的な方法や やり方で人間の罪の問題が解決されますか?

人間がどんなに優れた知恵を持っていても、科学がどんなに発達しても解決出来ず、ますます増えていくのが “罪” です。


哲学者や政治家、心理学者も、罪の問題に対して解決策を出した人は1人もいませんし、宗教家たちも解決方法を提示した人は1人もいませんでした。


私たち人間の罪を解決できるのはイエス・キリストの十字架であることを認めなければなりません。


神の知恵である この“十字架” を無視して、人間の知恵だけに頼っているならば、罪の問題は決して解決されず、ますます罪によって 人類はさらなる悲惨な霊的状態になります。


イエス様は自分の十字架が人々を2つに分かれさせることを語りました。


本文にあったように、十字架を愚かだと思っている人は滅びますが、それを神の知恵、神の力と信じる人には救いがあると語りました。


【第1コリント1章23節】

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

十字架を見て救われる人もいれば、つまずく人もいます。


【ローマ9章33節】

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

イエス様はご自身のことを「つまずきの石、妨げの岩」と表現しました。

それはイエス様を受け入れるのが簡単ではなく、拒否感が出てきて負担になるという意味です。


しかし 神様の知恵と思って受け入れる人には決してつまずくことなく、救いの岩になります。


人間の知恵によって十字架を見た人は、みんなつまずきました。

しかし十字架を神の知恵による救いの方法だと信じて受け入れた人は救いを受けました。


どちらが愚かな人でしょうか?

人間の知恵に頼っている人でしょうか、それとも神の知恵に頼っている人でしょうか。


人間の知恵には限界があることを 謙遜になって認めなければなりません。

そして十字架の秘密を悟るのは、人間の知恵で出来るものでもありません。



キリストの十字架の秘密は、“神の啓示と聖霊による悟り”です。

キリスト教は、啓示の宗教です。
人間の知恵によるものではないです。


自分が努力して救いに至ることはないので、神によって提示された救いを信じて受け入れることです。


キリストの十字架を正確に理解するためには 神の恵みが必要です。

すなわち 悟りの霊が必要です。


聖霊に頼り、神の知恵を求めることです。


【第1コリント1章25節】

なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

( ̄ー ̄)

2016.3.20
聖日礼拝メッセージ

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私たちのために来られたキリスト

テーマは『 私たちのために来られたキリストに対して 』です

【イザヤ書61章1-3節】

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

イザヤ書44章から後半は、「旧約聖書の中の新約」と言われています。

もし人々がこの箇所を正しく悟ることが出来たならば、その人たちはキリストをメシヤとして受け入れ、
信じたと思います。

特にユダヤ人たちが、この言葉を本当に理解できたならば彼らはキリストを十字架につけることは
しなかったと思います。

しかし、未だに この言葉を悟ることが出来ないために彼らの目は、覆いがかけられ、心が閉ざされて、
キリストを信じずにメシヤを待っています。
私たちクリスチャンもキリストを正しく知らないと、後でとんでもないことが起こります。

なぜ今回この箇所をテーマにしたのかと言うと、私たちが心の底から100% キリストを正しく知っておかないと、いつ つまずき惑わされるか分からないからです。

私たちはいつも口々に「終わりの時代だ」と よく使いますが、世の中の災いを見て世の終わりだと悟る以前に、教会の中で起こってくる様々なことを通して世の終わりだということを強く実感できます。


先週、韓国ソウルの教会で驚くようなニュースを聞きました。

少なくとも数万人が集まる教会で、クリスチャンであるなら牧師の名前をほとんどの人が知っています。
以前からとても良いメッセージを語り、すごくリバイバルした教会でもあります。
しかし、その牧師が真理とは違う ずれた話を突然 公の場で語りました。

「救いはキリスト教だけではない」という言葉を使いました。以前にローマ法王が語ったのと同じ言葉でした。
その時、他の教会や教団の人たちもいました。
そして先週、何が起こったかと言うと、釜山(プサン)の教会の牧師たちが ソウルの教会の礼拝堂に 汚物を撒きました。

なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?

その牧師は明らかに真理ではない「非真理」で正面からキリストを否定する話をしているのに、そこで聞いていた副牧師、伝道師、長老、信徒たちが何万人もいるのですが、その人達が沈黙をして誰も否定をしなかったので他の教会の牧師や信徒たちが立ち上がったのです。
ですから、牧師だけではなく、それを聞きながら黙って教会に通っている人たちもおかしいということであります。

自分の立場のために黙っていたのでしょうか?


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

使徒の働き4章12節のみことばを見ても、救いはキリストしかいないと書かれています。
聖書を知っていながら違うことを語った牧師に対して、なぜ周りの人たちが黙っているのか 理解が出来ないです。

今回のニュースを聞いて、本当に世の終わりだと感じました。(その時が来たら)教会から裁きが始まります。

私は牧師として、私たちがキリストのことをもっともっと知らなければならないです。
この世で成功するために色々なことを教えるのではなく、自分たちが信じるキリストがどのような方であるのかを教えたいです。
土台がしっかりしていないといつ倒れるかわからないのです。

私たちクリスチャンは、誰よりもキリストのことをしっかりと学んで悟らないと、後でとんでもないことになります。
すべてのものもそうですが、基礎が正しく出来ていないと、砂の上に建てた家のように誘惑が来た時にペッタンコにされるのです。




そうならないように、地上に来られたキリストがどのような方であるのかを はっきりと知りたいと思います。

イエス様がなぜ来られたのか、その目的、その働き、自分のために来られたキリストのことが【イザヤ書61章1-3節】に書かれていましたが、
イエス様ご自身も語りました。次の箇所です。


【ルカの福音書4章16-22節】

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

主の恵みの年を告げ知らせるために。」

イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。

イエス様は、偽預言者を見分ける方法はその人が語る言葉ではなくて、その人が結ぶ実を見て見分けなさいと語りました。
その通りの働きをしないならば、その人がどんなに有名で立派なことを語る人であっても、信用してはならないです。
言葉ではいくらでも人を騙すことができます。

私たちが結ぶ実は、最初に芽が出た時には分かりませんが、実をしっかり結んだ時に見分けることができます。

イエス様は実際に来られて、この通りの働きをしました。バプテスマのヨハネが弟子たちをイエス様に遣わして
「(メシヤとして)来られる方はあなたでしょうか?」と質問をしました。
それはヨハネに先入観があり、イエス様の姿がイメージと違ったからです。

しかし みことばが目の前で実現されている実を見ましたので、ヨハネは悟り、預言されたメシヤがイエス様だということが分かり、それ以上疑いを持ちませんでした。


終わりの時には、反キリスト、偽キリストがたくさん出てくると言われています。

なぜ人々がそういう者たちに騙されるのでしょうか ――。
それは、行いの実を見ていないからです。ほとんどがその者たちの言葉や姿に騙されるのです。
立派なものを建てて、大勢の人が集まり、そこで立っている姿を見て「この人が偽物なら、人々がこんなに集まる
はずがない」と勝手な思いを持ちます。
それは みことばの上に立った判断ではなくて、「神様が今まで隠しておいた秘密をあなただけに特別教えるから」という言葉に誘惑され、牧師や伝道師、信徒たちまでもが惑わされてそこへ行くのです。

イエス様とまったく違う働きをする人たちは、自分で名誉を受けて権力を手に入れて、お金を握ります。それはメシヤの姿ではないです。

ですから、イエス様は明らかに世の宗教指導者たちと違う姿で来られて、違う働きをすることをイザヤ書61章でも語っていました。

イエス様はどのような人を救い出すと語ったでしょうか ――?
貧しい者に良い知らせを伝えるために イエス様は来ました。(イザヤ書61章1節)

貧しい者とは、霊的に貧しく心に色々な悩みがあり生きる力がない人たち、希望もなく 頼るものもない人たちです。


【マタイの福音書5章3節】

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

苦しみから救い出すために来たとイエス様が語りました。それで実際にイエス様は貧しい者たちと共にいました。

すると宗教指導者たちが「あの者はいつも罪人たちと一緒にいる」と言って非難しました。
彼らは魂を導くと言いながらも、人々を完全に差別しました。

多くの者は口なめらかに、その人が持っている わずかな物までも全部取り上げて自分の腹を肥やしていきます。

ですが、イエス様は一度もそうしたことがないです。

イエス様は心が傷ついた者たちを癒すために来られました。

心に傷がない人はいないと思います。
他人からの言葉によって傷を受けたり、環境から傷を受けたり、生まれながら傷ついた人たちなど たくさんいます。

それは薬を飲むから癒されるのでしょうか?―― 癒されないです。
身体は薬を飲んで癒すことは出来ますが、心の傷は薬では届かない部分です。ですが、人々は傷を受けていないかのように振る舞っています。
傷があるということは、心にいっぱいヒビが入って粉々に壊れたことを意味するのです。

ヒビが入った心は痛いのです。それは誰が治せるのでしょうか?
―― それは私たちを救ってくださった主です。

私たちの痛みを知っておられるイエス様が癒してくださいます。

霊的に色々な葛藤や悩みが多い人たちは心が病んでいます。カウンセリングを受けても 聞くだけであります。
聞いてうなずいて、小さな助言を与えます。また、病院で薬だけを与えて(副作用で)何も出来ない者にしてしまいます。
それは癒すことにはならないです。


【マタイの福音書11章28-29節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

心が癒されたということは、たましいの安らぎであります。

それから捕らわれ人には解放を与えます。これもイエス様がしたことであります。

私たちはある意味で罪の奴隷でした。奴隷ということはサタンに捕らわれた者であります。
人間に捕らわれたり、環境に縛られて奴隷にされていたり、自分自身で自分を縛っているのです。

それで苦しい思いをしている人たちがどれほど多いでしょうか。
この世で生きているほどんどの人が何かに捕らわれて生きています。「ストレス」ということは、何かに捕らわれているのです。

刑務所の中に入っていなくても、家庭の中で監視、管理されていたりすることもたくさんあるのです。
その姿を見て、イエス様が本当に憐れんでおられます。

イエス様は知恵を与え解放したいという理由で地上に来られました。
ですから、私たち自身が本当にイエス様に出会っているならば、今 私たちは自由にされていなければならないのです。


【Ⅱコリント3章17節】

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

自分の力ではどうすることも出来なかったものを、イエス様はそこから解放し自由にしてくださいました。
自由は私たちのものであります。

まだまだ自分は頑張らないと自由になれないと勘違いをしてはいけないです。
イエス様は最初から自由を与えておられますので、それを使うことであります。




私たちがクリスチャン生活をする上で勘違いをしていることが1つあります。

「囚人には釈放」という言葉がありますが、これは刑務所に入っている者に語った言葉ではないです。

以前の悪い習慣、古いものに縛られて身動きが取れていない人達がいます。
クリスチャンなのに そういうものに縛られています。罪責感に悩まされている人がたくさんいるのです。
罪を犯すたびに「あぁ、私は地獄に落とされるのではないか」という思いで自分を縛ります。
しかし、イエス様はそのような方ではないです。

イエス様は、私たちの過去・現在・未来の罪までも赦してくださるのです。
だからと言って、「じゃあ いつでも罪を犯して良いんだ」というのも間違いです。

「あなたが本当にわたしの前で悔い改めるならば、それ以上自分を責める必要はない」ということです。

なぜなら赦されたからです。罪責感はサタンが私たちを縛る 「 足かせ 」 なのです。


旧約聖書を読んでみてください。
罪を何度も犯し、それに対して神様は彼らが蒔いたものの刈り取りはさせましたが、
それでも神様は彼らを捨てませんでした。最後まで彼らの世話をし、魂を憐れんで救い出してくださいました。
これが父の心であるのです。

このようなキリストを絶対に裏切ってはいけないです。豊かになった途端、心が変わる魂が哀れであります。

「私は大丈夫です。」というのは誰にも言えないことです。


日々、私たちの信仰の土台であるキリストを求めて、その方と共に歩み、敬わないと(私たちは)倒れていきます。

ソウルの牧師の姿を見て、私たちはただ非難するのではないです。それは自分たちに対する警告だと受け止め、
世の終わりが身近なところで起きているのだということを私たちは知らなければいけないです。

もしも、牧師が真理ではない言葉を平気で語るならば、皆さんは逃げたら良いと思います。
「牧師が堕落し、キリストに敵対する者になってしまったのだ」と牧師を追い出すか、皆さん自身が離れるか、
どちらかにしないと大変なことになります。

今回のことは、私たちに対する教訓であり警告でもありますので、私たちはどのような時でも自分たちのために
来られたキリストにしっかりと礼拝して信じて、ついていきたいと思います。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.11.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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