からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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パン

朝食を準備したイエス様

テーマは 『 朝食を準備したイエス様 』 です

【ヨハネの福音書21章8-19節】

しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。

イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたは私を愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

昨日の朝は別府からフェリーで大阪に着きました。

船の中でも朝食が食べられますが、船ではなく降りてから待合室近くにある綺麗なカフェで安くておいしい朝食を食べました。
トーストにサラダ、スクランブルエッグ、コーヒーでした。若い女の子の店員が作ってくれました。そして楽しく話をしながら食事が出来ました。


みなさんも想像してみて下さい。イエス様が朝食を準備しておられる姿を――。

広い湖のそばで 炭火で魚を焼き、パンを1人で準備しました。

この時のイエス様はもう人間ではありません。神様の姿です。


イエス様が人間として弟子たちと三年間一緒にいた時も、一度も弟子たちの食事を作ったことはありませんでした。

救われて従うようになった多くの女性たちがいたので、彼女たちが準備をしたり、また弟子たちが準備をしたりしました。

しかし、なぜ神様であるイエス様がわざわざ朝食を準備して弟子たちを待っていたのでしょうか。

食事をしながらのペテロとの会話で私たちはイエス様のある思いを知ることが出来ます。


イエス様が十字架にかかって死んだ後に弟子たちはどうなったでしょうか。

彼らは復活したイエス様にも会いました。その後の弟子たちの姿は次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書21章3節】

シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。 しかし、その夜は何もとれなかった。

11人残された弟子たちの中で7人が再び魚を捕る漁師の姿に戻り、漁に出ていました。

この場所は以前彼らが働いていた場所であり、主に出会った場所であり、弟子として呼ばれた場所でした。

その時イエス様は彼らに言われました。
「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従いました。


しかし3年後、彼らは人間を捕る漁師ではなく、再び3年前の漁師の姿に戻りました。
3年前の夢も希望も消えて、イエス様の言葉がむなしくなってしまいました。

弟子たちのリーダー的存在であるペテロが “漁に行く” と言うので、他の弟子たちもそれに加わりました。

なぜペテロは再び漁師に戻ったのでしょうか。
彼の心の中には癒されていない傷がありました。それは彼自身の行動によって出来た傷でした。


そして思い出す度に心の傷はさらに深くなりました。

自分が裏切り者である事実が心から消えません。


主が十字架にかかる前にペテロに「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われた時に、ペテロは「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と誓いました。

しかし、ペテロはイエス様が捕えられ、周りの人にイエスの仲間だと言われた時に「そんな人は知らない」と言って、呪いをかけて正反対の誓いをしていました。

するとすぐに鶏が鳴き、ペテロは主のことばを思い出して激しく泣きました。


それからペテロは鶏が鳴く度に思い出されたでしょう。
その鳴き声が主の声に聞こえ、苦しくて心の中で泣いていたと思います。一生思い出したくない記憶だと思います。


そしてイエス様を裏切ったことで彼の中から消えたものがありました。
それは「人間を捕る漁師」という素晴らしいビジョンでした。

自分のような者に人間を捕る資格はないと思ったので、それで彼はもとの仕事場に戻るしかなかったです。


みなさんならばどうしますか。それでも人間を捕る漁師になりたいと思いますか。

私ならば無理だと思って彼らと同じ行動をとると思います。


ペテロだけではなく他の弟子たちも傷と痛みをもって3年前の日常に戻ってきました。

しかし夜通し働いても網には魚一匹もとれなかったです。


主が与えた夢は消え、現実もうまくいきません。

みんなが疲れ果てていた時に、主がそこに現れて先に声をかけました。
「食べるものがありませんね。」「はい。ありません。」「舟の右側に網をおろしてみなさい。」そうすると魚で網がやぶれそうになりました。


この不思議な出来事で一人の弟子が主であることを確認し、ペテロに話し、ペテロは上着をまとって、湖に飛び込み泳いで主の所まで来ました。

この一瞬の行動でペテロがイエス様に会いたがっていたことがすごく分かります。

しかし心の中には言えない思いがあります。
陸地にあがってみると そこには朝食が準備されていました。7人分のパンと焼き魚です。主はそれを彼らに渡しました。


食事の後にイエス様が突然聞きました。
「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上にわたしを愛しますか。」


このことばを聞いた時にペテロの気持ちはどうだったと思いますか。

イエス様と最初に出会った場所で、イエス様はまたペテロに会ってこの質問をしました。

そこには炭火がありました。
きっとペテロは自分がイエス様を裏切った晩のことを思い出していたでしょう。


あの晩、ペテロはイエス様が尋問を受けている時に大祭司の家の庭で他の人たちと一緒に火に暖まっていました。
そして、そこでペテロは三度も主を知らないと誓いました。

その時ペテロの前にはイエス様が準備した炭火が燃えていました。

そこでイエス様はペテロだけに質問しました。
三度も「あなたは私を愛しますか。」と聞かれたペテロは心を痛めて「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは私があなたを愛することを知っておいでになります。」


主を愛したのに恐れがありました。主に従いたかったのに勇気がありませんでした。主を認めたかったのに、卑怯な自分がいました。


ペテロは何も隠すことなく「主はいっさいのことをご存じです。」と告白しました。

ペテロの中では三度もイエス様を裏切った傷が消えずにありました。

鶏の鳴く声を聞く時も、炭火を見た時も自分の中から記憶を消したかったでしょう。


人間は、傷とは対面せず それを一生懸命消そうとします。または隠そうとします。

しかしイエス様はその傷とペテロを対面させました。

ペテロがこれからもその傷で涙を流しながら苦しい時を過ごすことを主は誰よりも知っていました。それで傷を克服できるようにチャンスを与えて下さいました。


主がなぜ朝食を準備したのでしょうか。


共に食事することは相手を受け入れ、温かく歓迎する意味があります。

このイエス様のもてなしと深い配慮、そして寛容さと愛に ペテロの中にあった深い傷が癒されていきました。

そしてペテロは主と共に食事をする席で、主を愛していますと告白して立ち直ることが出来ました。


主の食事の交わりはただの食事ではないです。神様が働く大切な時間です。

ペテロと弟子たちはその席で癒され、失くした夢と希望をそこで取り戻しました。

イエス様はそのためにわざわざ食事を作って彼らを朝から待っていました。


初代教会では二つの大切な集まりがありました。
一つは主の言葉を学ぶための時間であり、もう一つは共に食事をしながら交わる時間でした。

両方とも大切な集まりでした。もてなしながら相手を歓迎するのが食事です。
それをしながら私たちが主にあって家族であることを認識します。

家族というのはそこに差別がないことを意味します。


イエス様もペテロや弟子たちを裏切り者ではなく、主の家族として受け入れて下さいました。

イエス様はマタイの福音書で次のように話しました。


【マタイの福音書25章35節】

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが乾いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

この人たちが祝福され、御国を継ぐと語りました。

自分の腹だけを満たし、他人を顧みない人は主に喜ばれません。


イエス様はいのちのパンとしてご自身を私たちに与えました。
私たちが貧しい者に与えることはイエス様に与えることだと語って下さいました。

霊的なことは みことばや神秘的なことだけだと考えてはなりません。主と共に食事をすることも教会でみんなが食事をすることも霊的なことです。

イエス様が食べ物を与え、共に食事をすることに意味を与えました。相手を家族として受け入れ、愛していることを食事の場で見せました。


そして食事を会話の場にしました。食事の席は食べ物だけではなく、心も分かち合う場です。
主はペテロと話したかったのです。ペテロの心の傷をいやし、回復させるために話をしました。

もしイエス様とこの話をしなかったならば、その後のペテロはいなかったと思います。
一生自分を責めながら、心の痛みで苦しみ悩んでいたでしょう。


しかしペテロを愛したイエス様は彼を憐れみました。

ペテロを理解し、温かく迎え、心を癒し、関係も回復させ、使命も復活させて、彼を立派な使徒として立たせて下さいました。


みなさんの中に癒されてない心の傷や主に対してペテロの心境になっている人がいますか?

こんな私を主が赦すはずがないとか、受け入れてもらう資格もないと思っていますか。


ペテロのために朝食を準備して待っていたイエス様はあなたのためにも“わたしが食事を準備しているので「来て食べなさい」”と招いています。

毎朝、主は私たちのために食事を準備して私たちに会おうとしておられます。話したいと語っておられます。

主と共に、兄弟、姉妹たちと共に主の食卓を囲みましょう。
(。・ω・)ノ゙

2015.3.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖餐式とは?

テーマは『 聖餐式について 』です

【ルカの福音書22章7-30節】

私たちは毎月 聖餐式がありますが、感動があるでしょうか? それは儀式的ではないですか?

神様の身体であるパンと、ぶどう酒を飲んで食べたら「聖餐式は終わった。来月にまたある」と
そのような思いで感動も臨在も感じることもなく、(聖餐式の)深い意味も知らないで1つの儀式として
行ってきた部分がすごくあると思います。

聖書箇所の場面は、イエス様と弟子たちの最後の晩餐であります。
今、私たちが聖餐式で受けているような小さな杯にブドウ酒、小さなパンではなく、
初代教会の時代は食事でした。それが聖餐式でありました。

最後の晩餐の時の背景を見てみると、過越しの祭りの時でした。

過越しの祭りとは?
イスラエルの民たちが奴隷としてエジプトで430年間もいました。
彼らがエジプトから出てくる時に、最後に神様がその場で災いを下して神様の力を見せつけました。
そして神様がイスラエルの民たちをそこから解放していく時に、最後の晩に「帯をしっかり締めて、服を着て
エジプトから出る準備をしなさい。」と語り、その時に神様が教えてくださったのが、
「羊をほふりなさい。そしてそこから出てくる血を全部(門)構えのところに塗りなさい。
その血を見て、血が塗られていない門の初子(家畜も含む)を全て殺し、あなたたちをこの国から解放するんだ。」と、先に語ってくださいました。
それを聞いた民たちは羊をほふり、門に血を塗りました。
その時に死の霊がその血を見て、そのまま通り過ぎたので、過越しの祭りになりました。


その時に犠牲になっているのが、子羊であります。最後の晩餐、それが過越しの食事の時であります。

イエス様ご自身が過越しの祭りの子羊のように ほふられるんだということをイエス様が語っておられます。
「わたしのからだ、わたしの血」ということは、「わたしがその時の子羊のように、わたし自身も
十字架にかかってこういうふうになるんだ」とイエス様が示されました。

弟子たちが過越しの祭りの為に、何かをしたというものはありませんでした。
イエス様ご自身が全部準備をしました。それも不思議な方法でした。

場所など自分でシナリオを書いたのではなく、全知全能の神様でありますので
全てわかっておられます。(イエス様が言われた通りに全てが進み)弟子たちと一緒に行って座りました。
これが最後の晩餐であります。


私たちが聖餐の意味を知る為に、
最後の晩餐の時に何があったのかを知らなければならないです。

【ルカの福音書22章21-22節】

裏切る者、これはイスカリオテのユダだけではないです。全ての者がイエス様に対して裏切りの罪を
行っているのです。それまで一緒だった人が、簡単に裏切る。簡単に約束を破る。簡単に離れて行く。

私たちは聖餐の時に、そのメッセージを思い出さなければならないです。
『 私はイエス様を裏切っていないのか? 』
私はそこに参加していたからOKということではないです。心が離れているということは裏切ることであります。

【ルカの福音書22章34節】

聖餐を受ける時に、「私は日々の生活の中でイエス様を知らないとは言っていないかな」
「否定する行為を私はしているか、していないか?」を確認しなければならないです。


神様が語る新しい契約とは、人間と人間の契約ではないです。
人間同士の契約は変更されることもたくさんあり、守られないこともとても多いですが、
イエス様が人間に与えた契約は勝手に変えることはなさらないです。
それは必ず守られる契約であるとイエス様は語っておられます。

新しい契約ということは、イエス様が十字架に架かって血を流すことによって立てられる計画でありますので、
この計画を私たちは覚えておかなければならないです。
聖餐式の時に「イエス様が私の為に、自分が犯した罪の代価を払ってくださった」ということを
思い出さなければならないです。自分達が良い事をしたから救われたということではないです。

私たちは何もしていないのに、イエス様が十字架に架かって一方的に私たちを罪から贖ってくださいました。
イエス様は私たちの命の恩人であります。それがなければ永遠の死でした。

【Ⅰコリント11章26節】(聖餐式の際に読まれる聖書箇所です)

私たちには主の死を告げ知らせる義務があります。
聖餐を受ける時には、「私はイエス様の言葉通りに、イエス様を人々に伝えているのか?」と
考えなければならないです。自分だけ受けて終わりではないです。


なぜこのことを最後の晩餐の時に告げたのでしょうか?

イエス様は離れていきますので何か弟子たちに残したかったです。
弟子たちは誰も気付かず、これが最後の食事になるとは思っていなかったです。
弟子たちは全然違うことを考えていました。「この中で誰が一番偉いのか?」ということを議論していました。

イエス様がいくら十字架のことを語っても、関心が違うので全く耳に入っていないです。

イエス様は「こんな者たちが、わたしが去った後(人々に)福音を宣べ伝えることができるだろうか」
そういう意味でイエス様はいつまでも覚えられるように最後の晩餐の時にそれを語りました。

【Ⅰコリント11章20-21節】

今は教会で食事をしないところも多いですが、食事をするのが初代教会の姿でありました。
ただ空腹であるから食事をするのではなく、主を信じる者が一緒に食事をすることは、
最後の晩餐のことをいつも思い出しなさいということです。

そこでイエス様が語ったメッセージを思い出しなさいということであります。

ただ食べることに必死になるなら、それは動物的欲求だけで終わってしまうことです。
それは意味のない食事になります。

これから私たちが教会で聖餐を行う時には、いつも自分に質問をすることであります。

  • 私は日々の生活の中で、イエス様を裏切っていないのか
  • イエス様を知らないと認めないで今生きているのではないのか
  • ずっとイエス様の十字架の死を人々に伝えているのか、いないのか


それを確認する時間でもあります。
思い出しなさいと神様が語っていますので、 私たちは主が語った通りに覚えて実際の生活の中ですることです。
それが聖餐の意味を知っている姿です。 (。・ω・)ノ゙

もしその通りに出来ていなかったならば悔い改めて、主のメッセージ通りに私たちが生きる必要があります。

今年はその意味をはっきり知って、聖餐式を行う時には自分の中でそのメッセージを思い出して質問してください。

2013.1.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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