からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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ダビデ

1年間の感謝

テーマは 『 1年間の感謝 』 です

【詩篇23篇1-6節】
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

12月になると1年があっという間に過ぎた感じがします。

「1年ってこんなに長いの?」と言われた人に、今まで会ったことがありません。


今年も あと2週間ほど残っていますが、来週がクリスマス礼拝で、その次は新年になりますので、今日は一年間受けた主の恵みに感謝したいと思います。


今日の聖書のことばは詩篇23篇です。

詩篇の中でも一番よく知られてあります。


23篇には感謝という言葉はありませんが、感謝の気持ちがにじみ出てあります。

感謝の思いなしにこの詩篇は書けないですね。


今日は何に対する感謝があるのかを考えてみたいと思います。

すると自分たちも何に対して感謝すべきかがわかります。




神様が共におられたことに対する感謝




23篇全体には常に主が共におられるのがわかります。

これこそが最大の感謝です。


主は私から遠く離れた所におられる方ではなく、いつも共におられる方です。


私たちの手を握って私たちを導き、守って下さる主です。


ダビデにはそのような信仰があったので、前向きで健全な人生を生きることが出来ました。


彼の人生は決して平凡で順調な人生ではなく、波乱万丈な人生でした。

しかし、その中でも神が自分と共におられるという信仰を持っていたので、苦しみの中でも、神の慰めと勇気を受けて勝利することが出来ました。


神が共におられるという事実から目をそらすと私たちは絶望し、常に不安と思い煩いに支配されます。


主はいつも共にいて下さる方です。
それが神の約束でした。


【マタイの福音書28章20節】

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

主が共におられることがどれほど感謝かわかりません。

主がいない生活は考えられません。


今年も主が共にいて下さったことが何よりも感謝です。




主の助けと導きと守りが感謝




ダビデは 主が羊飼いとして自分を緑の牧場、いこいの水のほとり、義の道に導き、敵からも守って下さったことをすべて思い出して感謝しました。


ダビデは多くの戦いを経験した勇士でもありました。

ですから命が取られるような場面がたくさんあったにもかかわらず、生き延びたことは自分の力でなく神の助けと守りがあったからと彼は信じていました。


わたしたちも同じです。

主の守りと助けがなかったならば、どうなったでしょうか。


皆さんも自分の人生を振り返ってみて下さい。

思い出すと危険な場面が色々ありました。

助けられた、守られたという場面が色々と思い出されます。


一つ間違えたら死んだかも知れない場面があります。

車を運転する人は、事故を起こしたかも知れない場面があります。


地震などの自然災害も今年も多かったです。

色んな病気も流行っています。

テロも毎日のように世界の様々な場所で起きています。


これらは自分で自分を守ることが出来ないです。

神様の守りと助けなしには生きていけないです。


ですから無事に過ごせたことが大きな感謝です。




衣食があったことに感謝




【第1テモテ6章7-8節】

私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。

衣食があれば、それで満足すべきです。

衣食は人間生活の一番の基本です。

不足があると生活が不便になりとても困ります。

世界に目を向けると家もなく、食べるものもなく、着る物もない人がたくさんいます。


日本人口の何倍も困っている人がいます。

難民のことを考えると一瞬にしてすべてを失い、どこに向かったら良いのかも分からず困っている人がたくさんいます。


それを見た時も本当に衣食があることに感謝が出てきます。


日本も貧困層が年々増えています。

その人たちは衣食住を確保するだけで毎日必死です。


不自由なく一年過ごせたことは本当に感謝です。


“良いことが何もなかったから感謝したくない” ではなく、それでも守られて、助けてもらったので感謝することです。


感謝は、自分自身の活気ある生活のために、他人に喜びをプレゼントするために、神の祝福の手を握るために必要です。


感謝は、神様に明日の恵みを期待します。

6節のことばに恵みへの期待と信仰があります。


まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


ある牧師が書いた「ありがとう」です。


「ありがとう。窓よ。ありがとう。カーテンよ。ありがとう。床よ。ありがとう。壁よ。ありがとう。天井よ。ありがとう。木々よ。ありがとう。庭よ。ありがとう。空よ。ありがとう。友よ。ありがとう。兄弟よ。ありがとう。みんなよ。見回しても、見回してもありがたいことばかり。朝も夕もすべてを見てもありがたいことばかり。」
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2016.12.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の心にかなった者・ダビデ

テーマは 『 神の心にかなった者・ダビデ 』 です

【使徒の働き13章22節】

それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。 「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する。

神様ほど人を正確に知っておられる方はおられません。
人の行動、考え、心すべてを知っておられます。

ですから 神様が下した人の評価は1つも間違いがないです。


ダビデに対する神様の評価は、「彼はわたしの心にかなった者でわたしのこころを余すところなく実行する者」でした。これは最高の評価だと思います。

神様からこのような言葉をいただけるのは羨ましいです。


私たちが裁きを受ける時に、神様が良い評価をするのなら救われた者として天の御国に入りますが、神様がその人に対して悪く思うならば、追い出されていきます。


生きていた時にダビデは神を喜ばせた者であったことが、ここで はっきりとわかります。
ダビデはサムエル記、列王記、歴代誌にも出てくるので、彼がどういう人であったか知ることができます。
そして詩篇の中に、1人の人間として神様の前に立たされている姿があり、そこに信仰の姿が書かれています。


私たちは色々な苦しみがある時に、詩篇をたくさん読むと思います。
読むと1つ1つの言葉は、自分たちの中にある思いを言葉で表現することはなかなか難しいのですが、
ダビデの祈りを聞くと「私自身もそう思っている。これは私の心だ。」と思って、それを自分たちの祈りにする場合がとても多いです。


ダビデが神様に対してどのような信仰を持っていたかは、詩篇の中に現わされています。
神様が最も目を留めているのは、その信仰の姿勢であります。

神の心をしっかり祈って求めるので、神の御心を知っています。
私たちも神様の心を知っています。

聖書のことばを読むと そこに書かれていますが、私たちがそれを聞いた後にどうするのか とても大切であります。
同じことばを聞いていても、その後の信仰の姿勢がそれぞれ違います。


同じ神様を信じて、同じことばを聞いても ある人は恵まれて、ある人は恵まれていない、ある人は良い評価で、ある人は悪い評価。
これは何かというと、その人の信仰の姿勢であります。

ダビデは従順する人でありました。




①従順する人



ダビデは神様だけに従順する人だったでしょうか?

神様は他人に従順する人を最初に選ぶのです。


【Ⅰサムエル17章17-20節】

エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。

この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。

サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。

ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。

ダビデはお父さんの命令に対して従順している姿が出ています。
この従順する姿は「嫌だ、嫌だ、仕方がないなぁ」という姿ではないです。

翌朝早くということは、自分で考える時間を与えません。
余計なことを考える必要がないのだという態度であります。


私たちが神様の言葉を聞いて、すぐに従順しないと人間の思いが出てきます。そして結局は自分の思いを優先にして従うことが出来ないです。

神様はまず目の前にいる人間に従順するかを見るのです。

それからが神様の出番になり、準備している祝福を与えて働きをさせます。

この後に、イスラエルの人々を苦しめるゴリヤテとの闘いがありました。
ダビデから見るとまさか戦うとは思いませんでした。ゴリヤテと闘うことは ものすごい大きな働きであります。


ある人たちは「私は神様には従っても、人には従わない。」と言う人がいます。
そう言いながら「私は神様に用いられたい。大きな働きがしたい。」と言いますが、神様は絶対にそういう人たちは遣わないです。

他人に従順しない人を遣いませんし、大きい働きをしたいと言いながら小さな働きに無関心であり、ないがしろにする人は神様は遣うことをしないです。


ある意味で人間に仕えている姿は、神様の1つのテストであります。
私たちは小さなことに忠実に働かなければならないです。聖書はそのことを教えています。


【Ⅰヨハネの手紙4章20節】

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

私は神様を愛しています。と言いながらも、他人に対して憎しみをむき出しにすると、神様は「偽り者」と語ります。

また「神様に従順します。」と言いながらも、(周りの人が)自分のために語る言葉や神様の言葉が伝えられた時に「いや、それはしない。」と言うならば、その人は脱落であります。


ダビデは従順に危険が伴うことでも すぐにその言葉を受け止めて何も言わずに、言われた通りに出掛けました。

これを見ても分かるように、従順する人を神様は喜びます。これがダビデの中にある姿でした。
神様は逆らう人は退けますが、喜んで従う人は神に用いられます。




②謙遜な人



イエス様はすごく謙遜な方であります。

神様は謙遜な人が好きですが、高慢な者は退けるという言葉を使いました。
謙遜な人はどこにいても人から愛されます。神からも愛され、人にも愛されます。


サウルとダビデの姿で違いが出てきます。
王として選ばれた時はサウルも従順で謙遜な者でした。

しかし、サウルは王になってから変わりました。
謙遜な者から高慢な者へと変わり、従順の者から不従順の者に変わりました。

ダビデは羊飼いの時の姿と、王になった後の姿は変わらず、従順で謙遜な者でした。


【Ⅱサムエル記7章18-19節】

ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にもはるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。

ダビデは「取るに足りない者」と言いました。
またパウロも「月足らずで生まれた者」と言い、彼らは人間の目で見ると偉大な者たちでしたが、 神の前ではどれほど謙遜な姿でしょう。


私たちはどうでしょうか?

私たちは偉そうにしている姿があります。神様に命令を出し、文句を言い、自分を高くして言います。
恵みを受けていても感謝をしなかったり、他人と比較して神様に不平不満を言うのは自分を高く評価することです。

高慢というのは、自分は本来そうではないのに 自分を高く評価することであります。
他人からではなく、自分自身を高く評価することを言います。


本当に評価されるに相応しい人であるならば 神様は高慢とは言いませんが、相応しくもないのに自分を高く評価してアピールするので神様は受け取ることができません。


ダビデは神様の前だけで謙遜な姿を見せたわけではないです。人々の前でも謙遜な姿でした。


【Ⅰサムエル24章14節】

イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、 一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

人々の前では、神の前よりも もっと自分を低くしている姿があります。

日本では「私はそんな者ではありません。」とよく言います。
謙遜な姿があり、自分をあまりアピールせず低く評価します。

しかし相手の人が「本当ですね。あなたは小さい者で、死んだ犬のようですね。」と言ったとしたら、一生恨むと思います。

でもダビデは自ら身を低くして、自分を殺そうとする相手に対しても自分を低くするのは、彼の人格そのものが謙遜な者であるのです。

私たちはやたらと自己卑下をする必要はないのですが、謙遜から出て来るものには評価してくださいます。


クリスチャンは自分を低くしなければなりません。他の人を高く上げます。それが恵みになります。他人が「この人は人格が出来上がった人だと評価します。」




③試練の中でも信仰を堅く守った人



多くのクリスチャンがいつ倒れるのか、いつ信仰を捨てるのか、それは試練の時が多いです。

もちろん良い時にも堕落することがありますが、試練の中で信仰が揺らいで 信仰が弱くなり、神の前で罪を犯す人が多いです。

ダビデは試練の中でも ずっと信仰を守り通していきました。サウロが彼の命を狙っていました。
サウロの命さえ取れば 自分は試練の中にいる必要がない と人間的にはそのような思いが来るはずです。

しかし、人間から来る思いと、神様のみこころとは一致しないことが とても多いです。


信仰を守り通すということは、どのような試練の中でも人間の思いを優先することではなくて 神様のみこころをまず求めることであります。

ダビデは7年間毎日 命を狙われながら生活をしていましたが、(サウロを殺す)チャンスが来ても彼はみこころを行いました。


【Ⅰサムエル記24章6節】

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に 絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。

ダビデの部下が、目の前にサウルが現れたことを見て「チャンスです。殺してください」と言った時に、ダビデの口から出てくる言葉はすべてが信仰による言葉であります。人間的な思いが一切ありません。


私たちは、時と場合によって 信仰と自分の思いを使い分ける時が多いです。それによって聖霊様を悲しませているかもしれません。
しかしダビデは激しい試練の中でも 常に主に目を留めていました。

みこころを行う時には自分で犠牲を払わなければならないことが とても多いです。

しかし犠牲を払った後に、神様の報いが来ます。自分が蒔いたものが信仰なので、後から来るものはとても素晴らしいものであります。


ダビデは信仰第一にしましたので神様のみこころではないと 絶対に私は動かないと頑なな姿がありました。
私たちは信仰に対しては、譲らない姿勢が必要です。「絶対に神の言葉が優先である」と心を決めておかないと、あらゆる誘惑に引っ張られてサタンの餌食になってしまいます。


誰かに「そこまでしなくても良いでしょう?」と言われても良いのです。「これは神様のみこころなので、私は妥協しません。譲れません。」という思いが必要です。
そうすると勝利します。その姿勢を見て、神様が良い報いを与えてくださいます。

信仰によって生きるということは、神様の言葉が1番優先で みこころを行うことが優先であります。




④罪を犯した後に悔い改めた



私たちも罪を犯した後は悔い改めをしていると思ってしまいますが、ダビデの悔い改めは私たちとは違います。

どのような部分が違うのかと言うと、私たちは悔い改めても 時には神様に喜ばれない口先だけのことがあります。
ダビデは深い悲しみをもって本当に悔い改めました。

本当の悔い改めとは、次の箇所です。


【Ⅱサムエル記12章11節】

主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で 取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。』

【Ⅱサムエル記12章14節】

しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

この2箇所とも耐えられないような厳しい言葉であります。
ダビデはウリヤの妻を取り、自分の妻にしましたが、それは神様のみこころに損なったことであり聖霊様をすごく悲しませました。

それに対して神様はダビデが悔い改めるように勧めましたが、それに併せて神様はこちらの言葉を宣告しました。

これらの言葉を受け取った後のダビデの素晴らしい姿勢が次の箇所に書かれています。


【詩篇51編1-4節】

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎を、私から 全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、 あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

ダビデが犯した罪に対して悔い改める心をもって、まず神様に赦しを求めました。これは私たちが罪を悔い改める時も同じで誰もが出来ることです。
ここまでは同じであります。しかし、その後が違うのです。


4節に書かれている“あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。”
神様が宣告されているのは厳しい言葉でした。しかし(その言葉を聞いても)神様は正しいです。あなたはきよくあられます。と言える部分が 私たちにあるかどうかであります。

罪を犯したために償いをしなければならないと、神様が私たちを裁くときがあり試練の嵐が来ます。
すると人間はびっくりして「神様、これは何ですか?サタンの攻撃でしょうか?どうしてこんなことが起こるのか、私は神様に悔い改めたから全部赦してもらったと思ったのに、何ですかこの試練は?」と神様を問い詰める時があるのです。


自分たちは勝手に恵みだけを受けて、神様に「私に良いことだけをしてください。」という思いが強いので、その続きで言った言葉には気付いていないかもしれません。

ダビデは預言者を通して神様の言葉を聞き、罪を償うことを受け取りました。
その後、実際に神様の言葉通りに子供は死にました。

それでもダビデは一切つぶやかないで神様の前に出て礼拝をしました。


私たちもそのようにしたら良いと思います。
「どうしてあの人が用いられて、私は用いてくださらないのか。あの人は祝福して、どうして私は祝福してくださらないのですか。差別していますか?」と言う前に、何が違うのかを聞くことであります。


「あなたと私は何が違うの?あなたはどうやって恵みを受けているの?どうやって信仰が成長したの?どうして神様に用いられているの?」と聞くことであります。

私たちはダビデに聞けたら「わたしはこういう者であった。だから神様がわたしを遣ってくださり恵みを受けたのだ。」と、きっと言うでしょう。

(恵みを受けている人と自分には)必ず何かの違いがあるのです。私たちが信仰成長するには、自分との違いを見付けてやってみることであります。


神様はそのようにしてお互いの姿や、聖書の人物を通して成長して欲しいと願っておられます。

私たちが人物を学ぶことは ものすごく自分の信仰に役に立ちます。 (・∀・)つ

2014.6.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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力と恵みと憐みの神様

テーマは『 力と恵みと憐れみの神様について 』です

【Ⅱサムエル記22章17-30節】

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。

主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

主は、私の義に したがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

私は主の道を守り、私の神に 対して悪を行わなかった。

主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって、私に償いをされた。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者には目を向けて、これを低くされます。

主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

この箇所は、ダビデの賛歌です。聖書には色々な賛歌があり、その人たちの信仰告白が書かれています。

ダビデほど波乱万丈な人生を送った人はいません。
神様がダビデをイスラエルの王にしなかったならば、とても平凡な人生だったと思います。
父が飼っている羊の世話をする羊飼いでありました。羊飼いの生活はとても単調です。
人との関わりが少ないので、他人から来るストレスがあまりなく、毎日同じことをします。
他人から命を狙われることもなく、妬まれることもないです。

しかし、神様がダビデに目を留めて イスラエルの王にするために油注ぎをした時から、彼の人生は本当に変わってしまいました。

羊飼いから王様になることは、ものすごく祝福があって、権力を手に入れて好きなように生きていけるだろうと思うのは世の中の人の考えです。

ダビデはそうではなかったです。
油注ぎがあった時から神様の計画の中で激しい人生を生きるようになりました。
その時から神様の恵みも多く注がれましたが、同時に別の力も襲いかかってきて急に敵が増えてしまいました。

毎日、戦いに出て行かなければなりませんでした。
妬む者たちが増えて、とにかく彼を殺したい人間が増えました。
一番激しかったのは義理の父であるサウル王でしたが、権力による妬みでした。

様々な苦しみをダビデは味わってしまいました。家庭の中でも色々なことがありました。
その中で誰1人 彼を助ける人はいなく、自分の身を隠すところも受け入れるところもありませんでした。
ダビデを誰が助けたでしょうか?――それは、神様であります。

私たちは、ダビデの人生を通してどのようにしたら神様だけに頼って生きることができるでしょうか。
そして、救われた者たちは、どのように生きるべきなのかを彼を通して学びたいと思います。




【Ⅱサムエル記22章2-3節】

彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。

私の神という言葉が連続して出てきます。これはすごく私たちが学ばなければならないことですし、
彼にとって神様がどのような神様であったのかを強調する言葉であります。

多くの者は神様は創造主であることを知っています。世界は神様が支配していることも知っています。
しかし、それだけでは何も始まりません。

ある人は「彼らの神様」と言います。それは自分たちと(彼らの神様)は何の関係もないです。
ある人は「われわれの神様」と言います。それも十分ではないです。
何が大切かと言うと、その神様が「私の神様」でなければならないです。

ダビデは「私の神」という言葉を使いました。
これは神様との関係が親密であることを示しています。

遠くに神様がいる感じがするのは、まだ親密度が薄いということです。
「わが巌、わがとりで」となった時は、その人自身が神様を日々の生活の中で体験していることを意味します。

私たちは自分で神様を体験しないと、わが神とは言えないです。

十二弟子のトマスは、イエス様が蘇った時に信じませんでした。ずっと疑いを持っていました。
そこでトマスの手が イエス様の傷跡に触れた時に初めて「わが主よ」と告白しました。

「わが巌、わがとりで、わが救い主」ということばを自分で認識し、信じて頼ることがないならば、
その神様と自分は何の関係があるでしょうか?


教会でも「私の神様」ではない人たちがいます。
「神様、神様」と呼んではいますが、親密な交わりがない中で信仰生活をしても何が得られるでしょうか?

それでは神様を知ることができず、神様を体験することもないです。
神様は私たちに「近づきなさい」という言葉を使いますが、これは親密度なのです。
自分1人の神様ではなく、もちろんみんなの神様でありますが、ダビデは「私の神」と言える強い思いがありました。

ダビデがどのような状況の中にいたのでしょうか。次の箇所です。


【Ⅱサムエル記22章5-7節】

死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

よみの綱は私を取り囲み、 死のわなは私に立ち向かった。

私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。

どれほど彼が厳しい環境の中にいたでしょうか。

サウルと3千人の勇士が、自分1人の命を狙うために追いかけてくるのです。
その中でダビデは生と死の隣り合わせでした。
もしこれが 私たちの姿だったとしたら、ものすごい恐怖心が出ると思います。

ダビデはどれほど不安・恐れがあったでしょうか。ですから彼は神様に頼るしかなかったのです。
身を避けることも出来ない荒野で神様を呼びました。その祈りが神様に聞かれました。
そして、一度たりとも神様は ダビデをサウルの手に渡しませんでした。反対にサウルをダビデの手に渡しました。
ダビデにとっては何度もサウルを殺すチャンスがありました。しかし手を下しませんでした。

自分を守ってくださった神様に対する恵みに溢れて、主が油注がれた者を殺さないという立派な信仰でした。
ただ自分自身が 神様に助け出され、神様が自分の避け所であったことだけでも喜びと感謝に溢れて、神様を褒め称えました。

これが私たちが 最初にダビデから学ぶ姿であります。

神様が 「 私の神様 」 になっているのか、その確信を持って神様に日々頼っているでしょうか?




そして、救いを受けている人たちは、神様の前にどのように生きるべきでしょうか。次の箇所です。


【Ⅱサムエル記22章21-25節】

主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

私は主の道を守り、私の神に 対して悪を行わなかった。

主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって、私に償いをされた。

ダビデが神様の前で自分の行いを誇っていると思ったらいけないです。
救われた人たちは、このように生きていかなければならないです。
「神様は救い主であるし、恵み豊かな神様だから、その恵みがいつまでもあるから自分が好きなように生きて良い」ということは、絶対にないです。

神様が自分を救ってくださったならば 恵みの中に留まり、その救いに相応しく生きていかなければならないです。


【マタイの福音書5章48節】

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

なぜこのような言葉がこの箇所に出てきたのかは、その前の部分を読むと分かります。
それを理解しないと「完全」だという言葉の意味が分からなくなります。次の箇所です。


【マタイの福音書5章46-47節】

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

この言葉を比べるとダビデが言った意味が分かります。

神様が「完全」と言ったことは、取税人や異邦人よりもあなたたちは勝る者でなければならないということです。
取税人や異邦人と同じことをするならば、それは救われた人の姿でしょうか?――そうではないです。

ですから、ダビデが神様の前で「手をきよくしました。自分が罪を犯さないように生きました。」と言ったのは、
そのようになるために彼が努力をしている姿であります。

神様は私たちを見て言います。人間には、誰1人完全な者はいないというのは神様が一番よく知っておられます。

それなのに、神様が私たちに完全でありなさいとおっしゃったのは、「あなたたちは救われた者として、実を結びながらわたしの前できよく正しい者として生きていきなさい。」というみこころなのです。

私たちは完全にはなれないのですが、だからといって何もしないのではなく、私たちは完全になろうと努力をして
取税人や異邦人に勝る者にならなければいけないです。

もし人間が完全な者だったとしたら、神様はいらないと思います。


パウロは、他の十二弟子よりも勝っている部分がたくさんあります。
しかし、パウロが語った言葉を見ると、自分は100%弟子になったと誇ったことがあるでしょうか?――それはありませんでした。
常に自分の中にある肉と戦い、肉を打ち叩きながらたくさん働いても「まだまだ私は足りない者」と語りました。

私たちは頑張っても罪を犯すことがあります。時には努力が足りなくてそうなる時もあります。私たちが完全ではないからです。時には弱くて倒れる時もあります。

ソドムとゴモラの町では「義人は1人もいなかった」と滅ぼされましたが、今の時代は義人がいるから違うだろうと思う人もいるかも知れません。
しかし、「私が義人です。」と誰が言えるでしょうか。世の終わりの時にもそう言える人はいないと思います。

パリサイ人は 神の前に来て「これを守りました。あれも守りました。」と言って、自分を義としました。
それをイエス様は退けました。いくら守ったとしても、その心の中には罪があるのです。


神様が言いたいのは、「努力しなさい。神様の命令に従順しなさい、主が喜ぶことをしなさい。」なのです。

神様が語ることは難しくて守れないことではないです。
私たちが本気で守ろうと思うならば、守ることが出来ると申命記30章に書いてあります。

昨日よりは今日、今日よりは明日が良くなるように努力する姿を 神様はすごく喜びます。
ダビデはそのように生きました。罪から自分の身を守ろうと必死でした。それでも人間ですから罪を犯しました。
間違えた判断もしましたが、それでも神様は彼を見て「わたしの心に適う者」と言ってくださったのです。

神様が私たちに多くの恵みを与えてくださるのも、私たちが努力している姿を神様が見るからであります。

まったく努力をしないで 恵みをないがしろにし、苦しい時だけ求めて自分勝手に歩むならば、神様は喜ばないです。


ダビデがそのように生きたことに対して、神様が「わたしのきよさによって、わたしに償いをされた」という言葉が2箇所も出てきます。

これは、神様は私たちの心や行いを見ておられますし、私たちが蒔いた通りに刈り取らせる神様であることが現れています。

神様に頼り、神様を敬う者、従う者に対しては豊かな救いと恵みを与えます。
しかし、主の言葉を退けて悪の道を歩む者に対しては懲らしめます。これは必ず来ることであります。


【レビ記26章23-24節】

もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、

わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。

これは神様の口から出た言葉であります。
「あなたをわたしの愛する子として見るのではなく、わたしに反抗する者として見る」のです。
そうすると報いを受けます。1人は良い報いを受け、もう1人は悪い報いを受けます。
これはどの時代であっても変わることがないです。神様の言葉は永遠に続く言葉であります。
私たちはそれを忘れてはいけないです。

救いの実を結ばないで、いばらとあざみを出して 自分だけではなく 他人にまでトゲを刺す者、他人の畑までもいばらで覆ってしまう者には、災いが必ず来ます。
悪い実を結ぶので、神様はその人に七倍にして報いを与えます。

私たちはそのことを本当に気を付けなければいけないと思います。




【Ⅱサムエル記22章29節】

主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

この言葉はとても大切であります。

ダビデ自身が神様をどのように思っていたのかが分かります。

この世は光ではなく暗闇です。
暗闇に ともしびがあるということは、私たちにとって神様の救いと希望、喜びであり祝福であります。
神様に頼って生きることは、神様が自分のそばに共にいることは、自分の歩む道がたとえ暗闇の道を歩いていても その人は、その中で絶望することはないです。

主ご自身がその人の光となり導きとなり、助け・救い平安となり、祝福になりますが、ダビデはいつも自分のともしびにしていました。


私たちも歩む時には、神様が私たちのともしびでなければならないです。
主のともしびがある時に、闇が照らされていきます。

私たちがその道をつまづかずに、わなに掛からないようには、このともしびが必要であります。

私たちが光の中を歩む時に、神様は「あなたたちは世の光である。」と語りました。
ともしびを持たない人が光り輝くことはできないです。これを私たちが手放してはいけないです。

死ぬ時まで神様のともしびに導かれて、ダビデが経験したように私たちもこの地上で経験していかなければならないです。

救われた人はこのように神様と親密な関係を結びながら、「わが神、わたしのとりで、わが巌」このようにしながら
毎日神様をともしびに照らされて、その中を歩むのが信仰生活であります。

その中で受けた恵みを常に思いながら、神様に感謝の賛美を捧げることが 私たちに必要なことであります。
(・∀・)

2013.11.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様から喜ばれる人、嫌われる人

テーマは 『 神様が喜ぶ人、神様が嫌う人 』 です

【詩篇5編1-12節】

私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。

私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。

主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行うすべての者を憎まれます。

あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。

しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。

彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。

神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。

こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。

愛の神様が人間を造りましたが、神様はすべての人間を愛するわけではないです。
人間も、神様を知っていてもすべての人が神様を愛するわけではないです。

聖書には神様の祝福がたくさんありますが、その祝福も誰もが受けられるわけではないです。
神様は、その人を喜ぶ時に祝福を注ぎます。神様が忌み嫌う人にはそのような祝福が注がれることはなく、
その人たちが望んでいなくても滅びが来ます。

詩篇5編はダビデが書きましたが、ダビデは神様の目に喜ぶ者でした。彼の中に神様が喜ぶものがたくさんありました。

信仰は、神を神として認めることで、心に受け入れる人です。神を神と思って仕える人です。神を恐れる人であります。
そして主の前に出て礼拝を捧げる人で、神様を愛する人です。

自分が神様を信じると言いながら、神に対する愛も恐れも従う心もなく、神様を喜ばせようという思いもないならば、
それは死んだ信仰であります。

信仰がある人は自分には頼らず神様に頼ります。
神様は、その人が頼る姿を見て「この人にはわたしに対する信仰がある」と映ります。
ダビデもそうでした。巨人・ゴリヤテと戦う時にダビデが誰に頼っているのかを知ることができます。

ゴリヤテは神を知らない不信仰な者でした。


【Ⅰサムエル17章45-50節】

ダビデはぺリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私はおまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ぺリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。

この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」

そのぺリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ぺリシテ人に立ち向かった。

ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ぺリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このぺリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このぺリシテ人を打ち殺してしまった。

ダビデに力があったのではないです。
相手のゴリヤテはすごい武器を持っていました。しかし、ダビデは初めから勝利を宣言していました。
ダビデは1つの石に頼ったのではなく、神様に頼る姿があります。


【エレミヤ書17章5-8節】

主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

主に信頼する者と、主に信頼しない者には、このような報いがあります。
神様に信頼しない者は、神様は忌み嫌います。


【詩篇5章7節】

しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

【詩篇5章12節】

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。

戦場でダビデが戦った時も、彼の身には盾1つなかったですが、神様は大盾で彼の命を守りました。


【詩篇4章5節】

義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。

人に信頼するのではなく、聖徒たちはその信仰によって主に拠り頼みなさいということです。


【詩篇2章12節】

御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

「幸いなことよ。」ということは、神様に祝福されているということです。

世の終わりが近付いていることは、どの時代でも言われますが、今は本当に世の終わりなのです。
災いがありますが、私たちは自分の力で避けることはできないです。
しかし、神様が1つ安全な場所があると語りました。主に身を避ける人は幸いです。


【詩篇5章11節】

こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

ダビデには敵がたくさんいました。その敵は異邦人ではなく同じ国の者であります。
妬みや高慢な者たちはいつもダビデを殺そうとしました。しかし神様はその手には渡さなかったです。
なぜなら、ダビデを殺そうとする者たちは悪者だからです。

私たちはただ「祝福してください。」と祈り、実際の生活は神様に嫌われることばかりをするなら、
どんなに祈ってもそれは無駄な祈りになります。

言っている言葉と行動が全然違うものならば、神様はそれに騙されるでしょうか?――それはないです。


【詩篇5章4節】

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行うすべての者を憎まれます。

神様が忌み嫌う人です。神様が嫌うことは、十戒の言葉を思い出してください。
イスラエルの歴史の中で、列王記・歴代誌を読むと興味深いことが書かれています。

初代王はサウル王でした。彼は最初は良い者でした。しかし段々不信仰になって、悪い者として終わりました。
神様が彼から離れました。悪を行った瞬間に聖霊様が出ていき、悪霊が入ってきました。

次に立てたのはダビデでした。ダビデは良い王様でした。その息子がソロモンでありますが、
ソロモン王も良い王様でした。ほとんどの部分は良い王様でしたが、女に溺れて偶像崇拝をした者でありましたが、
最後には悔い改めた者であります。悔い改める姿は伝道者の書を読むと分かります。

ソロモン王の息子、レハブアムからイスラエルの国が分裂王国になりました。
北イスラエルと南ユダの町が出ていきました。
南ユダには20人の王様がいました。そこで神様が語る言葉があります。


世の中では、その人の業績を見て評価するのです。しかし神様は一切それでは評価をしないです。
神様の評価は、彼が主の前で悪を行ったのか、主のみこころに適うことをしたのか、これが基準です。
ですから1人1人の王様に対して神様は語りました。
「彼はダビデのようではなかった。主の前で正しいことを行わなかった」神様の前で悪を行ったのか、善を行ったのか、
神様が言う善とはダビデのように行ったのかを見て、ダビデは一生神様と心が1つでした。
罪がない訳ではなく、罪を犯した時も灰をかぶって神様に悔い改めて神様だけを見ていました。

20人の王様は誰一人 神様の目に適う者はいませんでした。全員が悪でした。

南ユダでは悪い王様が20人中14人でした。その他の王様が全て良かったかというと、そうでもないです。
まぁまぁ良かったのは7人ですが、初めは良くても後で悪くなった王様もいます。
それでも南ユダのほうが良かったです。

悪が満ちると必ず神様は潰していきます。悪を喜ぶ神様ではないです。
それを見た時に私たちも同じことなのです。
主の目の前で私は悪い者なのか、それとも主のみこころに適う者なのか。
奉仕をたくさんしたから良いのではないです。

高慢な者たちはゴリヤテのような者です。自分の力に頼って偉そうに自分が死ぬことも知らないで、
高ぶる者は神様は必ず倒れると語りました。
私たちは神様の前では謙遜な者でなければならないです。

神様に拠り頼む人は謙遜な者なのです。小さなことでも拠り頼みます。問題があれば神様に祈ります。
自分の知恵に頼らず、力に頼らず、周りの人にも頼らず、権力にも頼らず、主に頼ります。

しかし誇り高ぶる者は、誰にも頼りません。


【箴言6章12-19節】

よこしまな者や不法の者は、曲がったことを言って歩き回り、

目くばせをし、足で合図し、指でさし、

そのねじれた心は、いつも悪を計り、争いをまき散らす。

それゆえ、災害は突然やって来て、彼はたちまち滅ぼされ、いやされることはない。

主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。

高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、

邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに速い足、

まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。

こういう者は主に忌み嫌われます。私たちはみことばを照らしてみて自分の姿を見なければならないです。


【詩篇7章11-13節】

神は正しい審判者、日々、怒る神。

悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

神様がすぐに私たちにしないのは、悔い改めて欲しいからです。悔い改めるチャンスを与えているのです。


【詩篇32章10-11節】

悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。

正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

【詩篇33章18-21節】

見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

多くの人は、愛の神様なのに「どうしてこんなに厳しい事を」と思いますが、
神様はこのようにすると、こうなると初めから教えているのです。
ですから、(それを聞いていたのに)違反をして悪を行った者が悪いのです。

私たちが神様から喜ばれる者として生きているのか、自分勝手に嫌われることばかりをして呪われているのか、
2つの道から1つを選択しなければならないです。その中間の道はないです。

自分が蒔いた通りに神様が正しく裁くので、自分がやっている事は神様が喜ぶことなのか、それとも自分自身は喜ぶけれど神様に忌み嫌われることをしているのか、それは判断できると思います。

その判断をしながら神様に喜ばれる者、みこころに適う者になって神様が用意している祝福・恵みを受けて欲しいです。 (´ω`)ノ

2013.9.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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ダビデの感謝の心から学ぶ

テーマは『 ダビデの感謝の心 』です

【Ⅰ歴代誌29章9-19節】

こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。

ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。

今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。

すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。

私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。

わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。」

私たちは日々 祈りを捧げていますが、このようなダビデが捧げたような内容の祈りをしたことがあるでしょうか?

これは感動的であり、美しい祈りであります。

ダビデは人生の旅路の終わりの時になって、彼は自分の人生を振り返ってみながら神様が自分に対して
どのようにしてくださったのか、神様がどういうお方であったのか、神様に栄光・賛美・感謝を捧げる祈りです。

この箇所には真実のことが書かれています。
ここに書かれているのは神様が私たちに常に求めるものです。

  • 神様に栄光を捧げること
  • 所有物に対して、どのような価値観を持つのか
  • 喜びとはどのようなものなのか
  • 本当の感謝とはどのようなものなのか

ダビデは神様を熱心に愛する者でした。


【Ⅰ歴代誌29章3節】

そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。

それまで集めた財産はたくさんありましたが、神様に惜しまずに全部捧げました。


【Ⅰ歴代誌29章5節(後半部分)】

そこで、きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。

すると、地位の高い者たちから身分の低い者たち皆がみずから喜んで神様に捧げました。
それをダビデが見てとても喜びました。そしてその後にダビデは神様の前に出て感謝の祈りをしているのです。
「神様、見てください。すごいでしょう。」ではないです。

彼が語っている言葉1つ1つを見ると、彼がどんな想いで神様に対する成長した信仰の姿がどのような姿なのか、
献身している姿がどのようなものであるのかが分かります。

私たちがこのような言葉を聞いた時に、普段 自分が神様に信仰告白する姿と何が違うでしょうか?
私たちが考えている神様と、ダビデが語っている神様の姿は何が違うのか―――。

自分はこのように喜んで神様に捧げたことがあるのだろうか?
みことばを読む時には、いつもそれを見ることです。

正しく神様を知っている人たち、正しく信仰を持って神様の前で生きた人たちの姿を見て、「私とは関係がない」と
言うならば、その人の信仰は虚しいものです。成長することが まず考えられないです。

成長をするということは、自分よりも先に進んで行く人たちの姿を見て学ぶことなのです。
そして、自分でも真似していく時に少しずつ分かってくるのです。
すると自分自身で体験をするようになっていきます。


【Ⅰ歴代誌29章11節】

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

神様が絶対主権を持っておられます。
全世界は神様が創造したものであり、偶然に造られたものではないです。誰かの物でもないです。
すべては主のものであります。


【Ⅰ歴代誌29章12-13節】

富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

このダビデの告白を聞いて分かるのは、自分自身に頼って生きるのではなくて、
私たちはこの神様に頼らなければならないのです。
自分の思い、計画、人生すべてのものを神様に焦点を合わせていかなければならないです。


【Ⅰ歴代誌29章14節】

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。
すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

神様の恵みを知っている者が語る告白であります。
神様の恵みを知らない者は、「すべて私の力」と言って捧げません。

信仰がある人と、信仰がない人は ここが違います。

世の中を見ても、貧しい者は豊かな者たちよりも圧倒的に多いです。80%が食べ物に困っています。
しかし、神様が与えていないから貧しいわけではないです。
20%の人たちが、80%の人たちの分まで握って贅沢三昧をしているのです。
ですから貧しい人たちに関心がないのです。

服をたくさん持っている者が1枚ずつ 持っていない人たちに渡すと、世界に裸のままでいる人はいなくなります。

神様の世界は乏しいことがないです。でも欲張りの人たちが手を差し伸べないので、神様はクリスチャンに
「良い業を行いなさい。」と語ります。
もともと神様が与えた物なので、神様に捧げなさいということは、
小さい者にしたことは わたし(神様)にしたことであります。


【Ⅰ歴代誌29章15節】

私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。

人間はこの地上で永遠に生きる存在ではないです。人間は1度生まれたものは、1度は死ぬのです。
その後に裁きがあります。これが神様が決めたものです。

「異国人」というのは、私たちの国籍がここにあるのではなく、私たちの国籍は天にあります。
自分の為に地上に蓄えるのはやめなさい ということです。地上で蓄える人はたくさんいます。
そして使うこともせずに残して死にます。死んだ後は無一文です。
自分で買った土地が付いて墓の中に入るわけでもないです。

これは真理を語ってあります。
それを知っていながらも不安だからと蓄えていくのは自分に頼って生きる姿です。


【Ⅰ歴代誌29章16節】

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。

神様のものは神様に返して当然なのです。神様に自慢できるものは何もないです。


【Ⅰ歴代誌29章17節】

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。

ダビデが自分自身も神様に捧げる時には、見せる為でもなく、仕方がなく捧げたのでもないです。
どこにも人間的な思いが入っていないです。
真っ直ぐな心で、神様が見ても恥ずかしくない心で捧げました。
自ら進んで捧げることは神様が喜ぶことです。


【Ⅰ歴代誌29章18節】

私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。

ダビデがなぜ この祈りをしたと思いますか?
今の民たちの状況は皆が喜んで捧げました。しかし、人間の思いほど変わりやすいものがないです。
いつその心が腐敗するのか。世の中で一番信じられないのは人間の心なのです。
自分でも自分の心が信じられなく、昨日思っていたことも今日は違う心になっています。

民たちの心が変わらないで欲しいという思いがダビデの中で出たので、神様にそのことを祈りました。
心が守られないと私たちの人生は崩れていくのです。
心を守るならば、どのような状態の中でも しっかり守ることが出来るのです。


【Ⅰ歴代誌29章28節】

彼は長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。

ダビデの人生の結末です。波乱万丈でしたが、どれほど素晴らしい人生の結末でしょうか。

私たち人間の価値はいつ出ると思いますか――?

その人の業績で、その人の価値が決まるのではないです。
その人の人生そのものが、その人の価値を決めるのです。
最期になって決算した時に、はじめてその人がどのような価値があるのかが決まります。

満ち満ちた人生ということは勝利者であります。神様が認めた人生だということです。
たくさん捧げても捧げても、神様は満ちるようにしてくださるのです。


これを私たちはダビデから学びます。

ダビデは罪も犯しましたが、神様は彼がその中でも 神様がどのようなお方であるかを正しく知っており、
正しく神様との関係を結び、その人生を歩みましたので勝利で終わったということを見なければならないです。

ダビデの素晴らしい信仰を学びましょう。

私たちの信仰は問題がたくさんあると思います。本文を読んで1人1人が鏡のように照らしてみると良いです。
修正していくのが学びであります。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.7.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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自らを小さい者とする

テーマは『 自分を小さい者と思った人たち 』です

― エレミヤ ―

【エレミヤ書1章5-8節】

エレミヤが語った言葉は、コンプレックスから出た言葉ではないです。言い訳でもありません。

神様はコンプレックスに陥っている人を遣うことはないです。
このような人は否定的な思いが多く、すぐに他人と比較をし自分より優れた人に対して妬みを持ちます。
自分の良い部分より、悪い部分ばかりに目がいきます。
そして、神様には「私はこんな者だから出来ません。」と言います。

このみことばのエレミヤが語ったのは、預言者としての使命がどういうものであるのかを知っていましたので、
恐れの心がありました。とても重たいもので大変な仕事なので、ただ逃げたいというものよりも
 「わたしにはふさわしくないです」という思いでした。
今の預言とは違い、当時の預言は世界や王様や国民に対して悔い改めの言葉を語らせるので、
「(若い者が)取るに足りない者です」と言いました。

自分には出来ないと、自分の姿を正しく見ています。
これは自己卑下ではなく、その働きと自分という人間を比べると、もっともっと出来る人達がいます、と
誰かと比較をしたのではないです。これは謙遜な姿です。謙遜とは自分自身を正しく見ることを言います。

神様の言葉を受けて、それ以上彼は言い訳をせずに受け入れ、50年間預言者として働きました。
たくさんの迫害を受けましたが、その働きを続けていました。
人々は心が頑なで高慢でしたが、エレミヤは初めから謙遜な者で、50年間ずっと忠実な者でした。
人々の評価は気にしなく、神様が自分を立てたので誰も耳を傾けなくても、与えられた言葉を語りました。
忠実な者は仕方なく従う者ではないです。常に神様に感謝しながら、その働きを喜んで続けます。

【哀歌3章22-24節】

どんな時でも心が神様にあります。

― サウル ―

【Ⅰサムエル記9章20-21節】

民たちの願いによってサウルが王に選ばれましたが、サムエルを通してそのことを聞いた時に語った言葉です。
「私はそんな者になるでしょうか。」彼はとても謙遜な者であります。
神様は油注ぎを与えて、サウルをイスラエルの初代王にしました。
そして神様によってサウルに力が付いてきました。するとサウル本人だけが変わってきました。
神様という存在がうっとうしくなり、誰の命令も聞きたくなくなりました。

王になり人々を支配することを味わって、神様から言葉が来ても言い訳をして中途半端に守りました。
自分の欲が優先になっていました。この原因は高慢からきています。

人の話を聞かない人がいますが、その心の中には高慢があるからです。
話を聞かないということは、相手よりも自分の方が偉いという思いが働いてあります。
それは謙遜とは言えないです。
謙遜な者は、小さい子供が語っても話を聞きます。子供からも学ぶことがあります。

自分が年を取ったから偉いのではないです。

サウルは最期には自殺をしました。神様が共におられない戦いで敗れ、怪我を負いました。
自殺は罪になります。自分の命を粗末にすることであります。

― ダビデ ―

サウルの後に王様になったダビデを見ます。

【詩篇131編1-2節】

ダビデが王様になった時の言葉であります。
彼の口から出た言葉は高ぶりではありませんでした。
神様からの祝福を得ていてもダビデは一度も高ぶったことはないです。

謙遜な姿は、神様より前に自分で勝手に(行動を)しないことであります。
神様の時がまだ来ていないのに、自分で判断をして自分で動き出すのは、
神様から見たら高慢な姿であります。

高慢は勝手なことをします。こういう者には神様は祝福を与えません。
ダビデは死ぬ時まで同じ姿でした。いつも神様に感謝をして愛していました。

― パウロ ―

【Ⅰコリント15章9-10節】

パウロはイエス様のことをメシヤとは認めていませんでした。
先頭に立って教会を迫害しクリスチャン達を苦しめていました。
高慢で自分がしていることが正しいと思っていました。
彼がやっていることをイエス様が指摘した時に目からウロコが落ちて、初めて自分の姿が見えました。
その時から砕かれて高慢さがなくなっていきました。

【エペソ3章8節】

謙遜な姿で、私たちが見習わなければならない姿であります。

【Ⅱコリント11章5-15節】

信徒達の中では謙遜な者でしたが、福音を迫害する者の前ではそのような姿ではありませんでした。
働きを迫害する者にパウロは大胆に語りました。

【ルカ17章7-10節】

主の前ではそのようにしなさいと語りました。自分を誇る者には神様は「(あなたのことを)知らない」と言います。
サウル王のように高慢になって滅びることにならないように気を付けなさいという警告の言葉であります。

教会の中でも報いを求めるのではなくて、自分の役割があるならばそれを喜んで行い、
人が褒めてくれなくてもすべきことをしたと、神様はそれを知っておられます。

「私がそうしたんだから、ありがとうくらい言いなさい。」
「私があなたにしたんだから、あなたも私にしなさい。」
これはGive and Takeで愛でも何でもありません。

愛は与えることであります。相手から返ってこなくても愛があるから喜んで与えることができます。
謙遜になって「もっと、もっと働かせてください。主の為にもっと私は役に立つ者になりたいです。」と。
そして働きをした後は、「喜んでなすべきことをしました。」と言うならば、
神様の目から見ると、それは美しい姿に映ります。

自分が高慢になるならば、人に嫌われるということを知らなければならないです。
でも謙遜な人には人が寄ってきます。柔和・優しさ・笑顔・平安な心・その人の傍に行くと心が安らぎます。
恵みは謙遜なところへ流れていきます。

神様からの恵みの雨をもらいたいならば、低いところに下る人が一番神様からもらうと思います。

<今週の目標>

【自分の高慢を砕いて謙遜になる】
すぐに人を非難することは高慢であります。そしてまず悔い改めをします。
主に喜ばれる者になりましょう。

2012.7.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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