からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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サタン

今、悔い改めなさい

テーマは 『 今、悔い改めなさい 』 です

【ヨハネの黙示録3章19節】

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

今まで「悔い改めなさい」というメッセージを何度かしたことがあり、最近では3月に語りましたが、
その時の悔い改めのメッセージと、今回の悔い改めのメッセージは神様は違った形で語ってくださいました。

イエス様は教会や信徒に対して、本文に書かれてあるように「熱心になって悔い改めなさい。」と語りました。


ある人がイエス様の導きで天国に連れて行かれました。

天国の素晴らしさを見て感動しました。
そして天国をすべて見せた後に、イエス様は小さな箱のようなものを持ってきました。
その箱を開けてみると、そこにはムチが入っていました。

天国ではムチは相応しくないものですが、イエス様はムチを取り出して近くにあった椅子を思いっきり叩きました。
イエス様がムチを打ちながら語った言葉が「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」でした。


これは悔い改めない神の子どもたちに対し、神様は懲らしめるために愛する者をムチで打つのだということをイエス様が見せてくださいました。

「今、悔い改めなさい」という言葉を聞いている人は幸いです。既に地獄へ行っている人にはそのチャンスがないのです。

悔い改めるチャンスを逃した人が地獄に入り、そこで永遠に苦しまなければならないのです。


教会にこのような言葉を送るということは、信じた後は誰でも罪を犯したり倒れたり堕落したとしても関係なしに天国へ行けるのだという言葉を否定するものです。

もし、罪を犯しても天国へ行けることが事実ならば、イエス様は「熱心になって悔い改めなさい」と言う必要がないです。

しかし聖書には悔い改めなさいという言葉がたくさん書かれています。


まだ(イエス様を)信じていなく罪の中にどっぷりと浸かっている人に対しては当然のように「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから 信じて救われなさい。」と伝えます。私たちもその言葉によって救われました。

神様は、神様の子どもになった人に対しても、「熱心になって悔い改めなさい。」と伝えます。

ムチ打たれても悔い改めないならば、その後はないです。神様は命を取ります。
そして行くところは地獄であります。




地獄の証



以前に話をしたことがありますが、クリスチャンが地獄を見た時に、そこには多くのクリスチャンがいることにびっくりします。

イエス・キリストを信じなくて地獄へ来た人もいますが、中には以前クリスチャンだった人たちが地獄にいるので きっと驚くと思います。


イエス様は多くの人々に天国と地獄を見せていますが、その目的はただ1つです。

人々が信じないからです。
世の中の人たちは地獄など存在しないと思っていますし、クリスチャンたちは “私たちは何をしても天国に入れる”と考えており、地獄は関係がないと思っているので イエス様は天国と地獄を見せて、裁きがあることを伝えているのです。

そして地獄を見た人たちは“他の人たちに伝えなさい”ということで頻繁にそのようなことが起きています。


終わりの時代ですので、誰も地獄には行って欲しくないという強い思いが イエス様にはあります。


ある姉妹が、地獄を見た時にびっくりしました。

それは以前 同じ教会にいた献身的な信徒で、イエス様を愛し、よく仕え、たくさんの奉仕をし、聖書に書かれている善行もたくさん行っていた人でした。

捧げものもきちんと捧げ、貧しい者にも愛をもって施しをした人なので、誰が見ても天国でイエス様に歓迎されて冠を受けて一番良い所に座っていると思われるような人でした。

何と その人を地獄で見付けました。それを見た姉妹が心に激しい動揺を感じました。


火の中で燃えている姉妹を見て、イエス様に「クリスチャンも地獄に来るんですか?彼女は評判の良いクリスチャンでした。なぜ あの姉妹がここにいるんですか? 信じられません。私たち教会の人々は彼女が天国でたくさんの報いを受けていると思いました。」と言いました。


そこでイエス様は、このように語りました。

“彼女はサタンの嘘に騙されていたのだ。
サタンは彼女の耳元で「大きい罪は悔い改めても、小さい罪は悔い改めをしなくて良い」と囁き、 彼女は大きな罪と小さな罪を自分で区別していた。”


私たちは大きな罪は神様の御前で悔い改めますが、小さな罪には罪責感を感じますが それが命取りになるとは思っていないのです。

しかし彼女は悔い改めをせず、小さなことだと思い それを延々と続けました。
サタンが彼女を騙していたので、神様は何度も“悔い改めなさい”と語りましたが、彼女にはサタンの言葉の方が都合が良かったのです。

なぜなら 自分が犯している小さな罪を捨てたくなかったからです。
ずっと小さな罪を続けて、最期まで小さなことだと思って悔い改めなかったのです。


ですから神様は「彼女がわたしを愛したとしても 彼女は最期までわたしのことばに耳を傾けず、罪を持ったまま死んだ。だから地獄へ来たのだ。」と語りました。

私がその証を読んでいる時に、突然 心の深い所から震えるほどの恐怖心を抱きました。それは「自分が地獄に落ちるのではないか」という恐れでした。
今までの罪は悔い改めて生きていますが「私はサタンに騙されていることはないでしょうか?」と。主の前で「私の罪を赦してください。」と、すぐに悔い改めのお祈りをしました。


今まで神様に甘えて「天国へ行くのだ」と思っていましたが、地獄へ行った彼女が立派な信仰生活をしていたにも関わらず、そのような人も地獄へ行くならば 私も例外ではないと必死に震え上がりながら祈りました。恐ろしくてまるで自分が地獄にいるような感じがしました。





そこで主が語った言葉があります。次の箇所です。


【Ⅰコリント9章27節】

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私が他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

自分のからだを打つということは、罪と激しく戦う姿です。
神の言葉に自分の肉の思いを従わせるのです。

パウロは人々に福音を伝えていますが、パウロは日々 自分のたましいを見ながら罪と戦い、悔い改めていました。


しかし多くの牧師や伝道師が地獄にいる姿があります。
それは他人に伝えておきながら自分は落ちている姿です。


ですから自分を聖める為に、日々自分を打ち叩かなければならないです。
他人を叩くのではなく、今 自分が犯している罪は何かを調べて打ち叩くのです。そして立ち返ることです。
パウロがやっていたことは毎日毎日悔い改めて罪と戦い自分自身を罪から守ったことでした。

パウロの言葉に常に出てくるのは「勝利」であります。
それはただ地上の働きを勝利したという意味ではなく、神様のみこころを正しく行い、自分自身が救われて天の御国に入ったということです。


罪を行なう行為が聖霊を悲しませる行為だと語りました。
神の御霊を悲しませてはいけませんとエペソに書かれています。

何をしたら聖霊が悲しむのかと言うと、罪を犯して悔い改めず放置することが聖霊様を悲しませることです。

罪を行う行為が 不法を行う姿であります。


神様は罪の大きさは(大きくても小さくても)関係がないと語りました。
罪は罪であります。「小さいから汚れではない」ではないです。

イエス様は悔い改めない人の姿はこうであると語った箇所があります。次の箇所です。


【マタイの福音書5章13節】

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、 外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

“塩が塩けをなくす”ということは、外から何かが入ってきて塩けがなくなったのではないです。
そうではなく内側で何かが起きたことであります。

イエス様はこれは小さなことではなく1番の犯罪だと語りました。内面的深刻な危機です。

外から来る誘惑よりも、自分の中に悔い改めをしない心が 塩けをなくしているのです。
自分たちの中にある悔い改めない心こそが最も強い敵です。心が不法と汚れで満ちています。

私たちが悔い改めるなら聖められて回復します。


しかし、これは小さなことだと思って「これくらいイエス様ぐちゃぐちゃ言わないでください。」と、他人から言われても「皆がやっていることだ。これが私の命を取るとは思えないわ」と心を頑なにして相変わらず同じ生活をするのです。


これが命取りになるということはアモス書に書かれています。

【アモス5章19節】

人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。

外から誘惑がたくさん来ると、私たちは誘惑されてはいけないと吠えたける獅子の前から逃げます。熊のように襲うものもあります。
しかし家に入ったから安心・大丈夫だと思っても、家の中にはもっと大きな敵がいるのです。

家の中というのは、自分たちの心の中のことであり、外よりも内にはもっと恐ろしい蛇がいるのです。


蛇はサタンです。獅子や熊よりも蛇の方が恐ろしいです。
蛇は大きくはないですが、毒を持っているので咬まれたら死にます。

内側にある悔い改めない心、これこそがあなたの命を奪います。


私たちは誘惑されて 時には倒れることがあり、外側から来るものにはすぐに気が付き悔い改めますが、自分の中で ずっと共に住んでいるのに、存在すら気付いていない蛇が咬みついていることに気が付かないのです。

隠れた罪も神様はすべてご存知です。
私たちが隠している部分にはそこに蛇が住んでいると思わなければいけないです。

偽り、憎しみの心は蛇のようなものだと思っていますか?「あの人が憎い!」という思いがありますか?


しかし神様は愛の方でありますので、神様の中には憎しみがないです。
私たちは神様が持っていないものを自分で持ちながら天の御国に平気で入ろうとするならば、「あなたの心は地獄に相応しい」と言われて天国には入れないです。

皆さんは他人を憎む心がある時に平安がありますか? ――ないですね。


平安は聖霊様が与える心なので、憎しみがあるところには平安が絶対に来ないです。自分が死にたくない(地獄へ行きたくない)なら赦すことです。
これはとても大切なことであります。

「死んでも赦さない」というのは、クリスチャンには相応しい言葉ではないです。





適当に妥協することも神様は罪であると語りました。
なぜなら神様の言葉を自分に都合の良いように解釈をして変えてしまうからです。


教会の中には、聖霊を欺く罪がすごく多いです。
什一献金を正確にしてください。ごまかしていながらも「捧げました」と言うのは聖霊を欺くことであります。
大きな金額が入ったときには もったいないなと思って捧げないのです。

ボーナスが入った時には什一献金を捧げてください。それは収入でありますので正確にしてください。

神様に指摘をされた時に「バレたか」ではないです。それが命取りになるのです。


主の心が激しく痛み、涙を流しているのは世の中にある多くの教会がサルデスのような教会、ラオデキアの教会のような姿であるからです。 教会とは聖徒たちの姿です。


【ヨハネの黙示録3章1-3節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、 わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。 もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

自分では生きていると思っていても、実は死んでいて、目をさましていると思っていても眠っている姿。そして自分は全うしたと思っているのに、神様はそうではないと語ります。

ですから評価が全然違うのです。この時に私たちは(自分の評価ではなく)神様の言葉を聞くことであります。


【ヨハネの黙示録3章14-17節】

また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

私たちは自分のことをきちんとみことばに当てはめないので知らないのです。
ですから 悔い改めをしないで放置をして、結局それが命取りになってしまいます。

みことばを読む時に、“これはあの人のための言葉だ ”と思ってはいけないです。


“これは私に語る言葉であるのだ ”と常に自分のことだと思わないならば、神様と私たちは何の関係でしょうか?他人を見ている場合ではないです。


【ヨハネの黙示録3章5節】

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして私は彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない 。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

いのちの書に自分の名前が書かれていないと、もちろん天の御国には入れないですが、以前に いのちの書に書かれていたのに名前を消されてしまった人も入ることができないです。
いのちの書から名前を消されたら痕が残らないです。


「勝利を得る者は、いのちの書から消さない」と神様が語るということは、“名前が消されることもある”という意味だと私たちは解釈しなければならないです。

私たちが信じた時から、神様は冠と報いを準備してくださっていますが、ある者たちは堕落をしたのでそれらの報いが使い物にならなくなりました。

その使い物にならなくなった物を見て、イエス様は苦しんでおられます。


神様は私たちの姿を見て、悔い改めに導いてくださいますが、悔い改めに導く主の姿を見てみたいと思います。
どのような時に私たちが気付いて悔い改めるべきでしょうか?




みことばを聞く時に罪を自覚する




【使徒の働き2章37-38節】

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。


皆さんがこのような厳しい話を聞いていると、心が刺されると思います。
心が刺されていない人は、聞く耳と心を閉ざしているということで問題であります。

しかし 聞く耳を開いている人は、この言葉が自分の心に刺さると思います。
心が刺されるということは、罪の自覚があるということです。


罪の自覚があるならば、今が悔い改めるチャンスであり、気付いた時に悔い改めないならば、罪をそのままにしている状態です。

気付いたならば、その場で悔い改めて立ち返ることです。
自覚をしたということは悔い改めのチャンスが与えられた恵みであります。

罪を悔い改めなかったために命ではなく、滅ぼされてしまう人たちがどんなに多いか分かりません。




神の慈愛




【ローマ2章4節】

それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

神様の慈愛は、私たちにすぐムチを打たないということです。
罪を犯して まだ悔い改めをしていないのに、神様は裁かずに見てくださっています。

神様は裁き主ですが、裁かずにジーッと見ながら祝福も与えてくださいます。


私たちが「善い者」だから祝福が与えられているわけではないです。これは全て神様の慈愛であります。


神様から何も言われないからと安心して悔い改めをするチャンスを逃して死んでしまうならば、その人は終わりです。

何かがあった時に、私たちはすぐに悔い改めないと、神様の慈愛と忍耐と寛容を無視することになりますので、その過ちを犯さないようにしましょう。




神の忍耐




【Ⅱペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して 忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

主が再臨することは昔から言われていますが、今 主は準備をし、御使いたちは既にラッパを持っている状態です。そして吹く準備も出来ています。

しかし、なぜラッパを吹かないのでしょうか ――?
それは地上にいる神を信じる者たちの準備が まだ出来ていないからです。
ですから神様が忍耐をして延ばしてくださっています。


しかし今は、もうこれ以上は延ばせないのだと何度も語っておられます。

神様の忍耐がある時に悔い改めをしないといけないです。神様の忍耐が切れた時は世の終わりであります。

私たちは悔い改めの時間が与えられている時に、本気で悔い改めなければならないです。
悔い改めをせずに、その時を逃した者が滅びている姿が黙示録に書かれています。


【ヨハネの黙示録2章21-22節】

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

大きな患難は世の終わりです。
最後の患難の時は誰も主を信じることが出来ないですし、生き延びることすら出来ません。


悔い改める機会を与えていたのに、悔い改めようとしなかったということですので、私たちは絶対にそういうことにならないように気をつけなければいけないです。




悔い改めの姿勢




しかし私たちが主の前で悔い改める時に、どのような姿勢で悔い改めるべきでしょうか?

口先だけで「悪かったです。神様、これからはそんなことはしません。」と言うのが悔い改めではなく、
悔い改める時の状態は、このような状態であるとⅡコリント7章9-10節に書かれています。

みなさんが悔い改める時はどうでしょうか?比べてみてください。


【Ⅱコリント7章9-10節】

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがた悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

「私は本当に罪深い姿であるのだ」と主の前に震えあがりながら罪を告白して、自分の罪ある姿を悲しむ姿で主の前に出て悔い改めることが、神様が受け入れてくださる悔い改めの姿です。


罪のない者は1人もいないです。昨日(罪を)洗っても、今日また罪を犯す――。

ですが、罪を放置しないことです。今日またイエス様に悔い改めることであります。
毎日 毎日、今日が世の終わりかも知れないという思いで悔い改めなければいけないです。






皆さんは罪をどのようなものと思っているかは分かりませんが、私は罪のことを蛇だと思うことにしました。

自分自身が罪を嫌わないならば、罪から足を洗って手放すことが出来ないので「蛇が私を咬もうとしている。追い出してやろう。」と捨てることにします。


ニュースを見ていると、高齢者の万引きがとても増えたそうです。
その記事に書かれている言葉は、“万引き”という言葉が悪いと書かれていました。

万引きと言うと 軽いイメージなので、「窃盗罪」という言葉だと重たく感じて“刑務所へ行くかも知れない”と思えるので言葉を変えないといけないということでした。

「脱法ハーブ」も若者が事故を起こしていても「ハーブ」と言うから簡単に手を出すので、「麻薬」に変えなければならないのと同じです。

ですから 軽い言葉を使うと、人々はそれが重大なことであるにも関わらず、軽く考えてしまいます。


私たちは罪に対しても、軽く聞き流すならば罪の認識がありません。
「罪は蛇なので咬まれたら死ぬ」と警戒をしないと、後でそれによって命が取られてしまいます。


皆さんにとって天国へ行くことはどのようなことでしょうか?

すべてのものを手に入れても、命を失って地獄へ行くなら何になるでしょう。


自分の肉を打ち殺すことは、とても大変なことです。それを神様の言葉に服従させることは1番大変なことです。
しかし 永遠の世界がありますので、それは価値あることです。

イエス様は世界に向けて、教会に向けて、個人に向けて熱心になって悔い改めなさいと語っておられます。

世の中では罪という言葉は使わないです。
教会でも罪のことが語られなければ、その教会は“死んだ教会”であります。


私の教会は死んだ教会にはしたくないので、神様が熱心に語れとおっしゃるので、まず自分に語り 皆さんにも語って目を覚ますように言いたいです。

今回聞いたならば、その後 どうするかは皆さん1人1人の決断です。
命を得るのか、滅びを選ぶか、それは自由であります。

ですが、命を選んで欲しいです。
大したことのない罪の中に留まって 命をないがしろにするのは愚かであります。
ヽ(TдT)ノ

2014.7.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

リニューアルし、読みやすくなりました❤

地獄はこのような場所です。
幻と啓示~天国と地獄~

心の状態によって選んで、みことばを読んでくださいね!
目的別みことば

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金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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イエスから目を離さないでいなさい

テーマは 『 イエスから目を離さないでいなさい 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷と まつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめを ものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

先月 韓国で ある牧師先生が書いた『イエスから目を離さないでいなさい』というタイトルの本を買いました。

その牧師先生は“24時間 イエス様だけを見て生活すること”を日々 目指しているという内容が書かれており、
読みながら恵みを受けますし、チャレンジも受けています。

目的は「主の臨在の中で生きるキリスト者」です。


これはとても大切なことであります。
「イエスから目を離さないでいなさい」と言われるのは、すなわち「あちこちに目を移さないようにしなさい」ということです。 私たちがいつも見ていないといけないのは「イエス様」だけだという意味です。

いつもイエス様だけを見て生きるというのが、イエス様が私たちに願うことであります。


信徒たちは「24時間 イエス様だけを見るのは難しいです。しんどいです。」と言います。
これはただ単に仕事もせずに、何も考えずに そうしなさいという意味ではないです。

実際 イエス様が自分の心の中におられることと信じているならば、私たちは24時間イエス様を見て生きようと決断するのが当然であり正しいことです。
心の姿勢を徹底的にしなければならないです。


人は何も考えずに生きることはないです。
私たちは必ず何かを考えながら生きています。次から次へと思いが止まることがないです。
そう考えると私たちが24時間イエス様のことを考えることは難しくはないのです。

現実を見ると24時間“恋人”のことばかり考える人や、“株”のことを考える人、“お金”や“仕事”“心配”ばかりを考えています。
自分で自分の思いをどうすることもできないほど 人間は深く考えるとそれに没頭する姿が見られます。

信仰を持っている人はこれをイエス様に対してもそうするように決心をしなければいけないのです。


他のことは出来るのに、イエス様を24時間見るのは出来ないというのは、私たちの心が他のものが関心があるからです。


先ほど紹介した本に書かれている内容で、その牧師先生から影響を受けて 別の牧師も毎日24時間イエス様だけを見て生きる生活を始めました。

本を書いた牧師先生は、霊性日記を書いていますが、それを真似して その牧師も書き始めました。
霊性日記とは、日々の出来事を通してイエス様を見る訓練であります。


ある時に、この牧師は失望した表情で(本を書いた牧師先生を)訪ねて来て 苦しい胸の内を語りました。
「私は24時間イエス様だけを見て、霊性日記をつけていたのですが、私は罪に倒れました。どうしたら良いですか?」と質問をしました。

それを聞いた牧師先生はびっくりして苦しい心で「霊性日記を書いても無理でしょうか。」とお祈りをしました。
するとその時、主はすぐに鮮明に応えてくださいました。

神様は「わたしを24時間見ているなら罪に倒れることはない。その牧師は自らを欺いているのだ。」と語りました。


それでもう一度その牧師を呼び、「日々、どのような生活をしているのですか?」と聞いたので、
その牧師は「私は毎日、霊性日記を書いています。でもいつの間にかニュースのことが気になりインターネットで調べました。
インターネットで調べていると色々なサイトが出て来て、そこにアダルト動画があり、その誘惑が来ました。
その誘惑に勝つことが出来なかったので、アダルト動画を見て罪を犯しました。
霊性日記を書いても、こういう罪に私が倒れてしまったのだ。どうしたら良いのかと思いました。」


しかし神様が教えたのは、彼が語っていることとは違うことなのです。
「あなたは24時間わたしを見たのではなく、わたしから目を離してあなたがそういうものに心を開いてしまったからだ。ネットで調べている時に わたしのことを見ていたのか?」ということでした。

もしイエス様のことを見ていたならば、そういう誘惑が来ても開かないです。「これはサタンの誘惑だ。絶対に見ません。」という心の決断であります。
それをしていたならば絶対に罪を犯すことがありませんでした。

「見たい」という思いが来て、自分の手でそれをクリックして扉を開いてしまいました。
それを見た後に「あぁ、私は24時間 イエス様を見ていたのに罪を犯した。」と言うのは自分を欺いているのです。


神様は誰も誘惑をしません。
あなたが誘惑されたのは自分の中にそういう欲があるから、欲と誘惑の波長が合い繋がったために そこから罪が出て来るものであります。


私たちは一瞬でも、5分でも10分でも誘惑に心が奪われて目をイエス様から離して違うところを見ているから誘惑が来るのです。サタンは常に私たちを狙っているのです。



【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

最も私たちが心を守るために重要なところであります。
なぜ神様はこのように私たちに語ったのでしょうか?

それは、私たちの心はとても重要な部分だからです。

私たちの心には、イエス様が共に住んでおられます。


聖書では、これを「結婚」にたとえました。

これを知るならば、私たちの心に サタンが与える思いを入れることがなぜ大きな罪になるのかが理解できます。
結婚した男が、妻以外の女性を家の中に入れて住むならば、また 結婚した女が、夫以外の男性を家の中に入れるならば、おかしなことです。
結婚生活が成り立たなくなり それは不品行・姦淫の罪なのです。

イエス様は「大丈夫だよ。あなたが罪を犯してもわたしは心が広いから赦してあげる。」とは言わないです。この罪のことだけはイエス様は赦さないのです。

妬む神様であり、他のものとイエス様が共存することはありえないことであります。

体よりも、私たちの心を一番に狙っています。心の中で犯す罪を人間はあまり罪だと思わないからです。


サタンの思いは心に来ます。そして神様も私たちの思いを通して働く方であります。
神様の声は、肉声のように聞こえる声ではないです。

私たちが祈ったりしている時に、急に良い思いが来る時がありますが、それは聖霊の思いです。
これはサタンも同じやり方をします。サタンも急に思いを入れます。それも悪い思い・否定的な思い・不安な思い・恐れの思い・憎しみの思いを入れます。

そこで私たちがその思いにやられて、思いを黙想するので そこから身ごもって大きくなり罪を犯すことになるのです。


神様の思いが来た時に私たちは「これは聖霊様から来た思いなのだ。」と自分の中になかった思いを素直に信仰で受け取って行動をしたら良いです。

神様は からし種のような小さな思いを入れて、それを私たちがキャッチするのです。


私たちはそこで従わないと、その思いは消えていきます。せっかく神様が私たちを助けようとしたのに、私たちは信仰で反応しないとチャンスが消えていきます。

これからは思いがパッと来た時に、サタンによる悪い思いだったら「違う!」と言って、それに心を開かないことであります。しかし良い思いが来る時は、「これは聖霊様から来たものである」と 従って信仰で受け取ることなのです。

心には神様以外を入れないと決めて、それをするならば、神様はそこで働いてくださいます。

ですから、その心を守るために24時間イエス様から目を離さないことが大切です。




狭い門から入りなさい



【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

滅びに至る道はなぜ広いのでしょうか?なぜそこへ行く人が多いのでしょう。
そこには誘惑するものが多いからです。私たちを潰そうとする敵ががたくさんいます。
でも人々は霊的存在を知らないので、目があちこちへ移ってしまいます。

そこには目の欲を満たすものがたくさんありますので、目の欲、暮らし向きの自慢、肉の欲、そのようなもので倒されていきます。


しかし、狭い道にはイエス様だけが存在しています。イエス様は「わたしが道である。」と語りました。
道そのものがイエス様ですから、誘惑するものがないのです。

私たちの心を守る時に、私たちの霊的命が守られます。心を守れないと命を失うことになり、イエス様も失うことになります。


道であるイエス様がおられないなら、どうやって父なる神様のところへ行けるでしょうか?
イエス様から目を離すということは、滅びが始まるのです。

私たちが本当にイエス様を愛しているならば、イエス様と二人きりになるのが一番楽しいと思います。

愛し合う人同士は、2人だけの時間をたくさん作って、その時間を大切にします。
私たちがイエス様を愛するならば、いつもイエス様のことを思うのは難しくはないと思います。


イエス様と2人で この小道を歩きたい、イエス様とだけ話をしたい、イエス様だけを見ていたい。イエス様とだけ仲良くしたい。という思いが出てきます。

その思いがないならば、イエス様を愛していないことになります。

自分を愛し、自分のために命を捨ててくださった命の恩人であるイエス様。そして自分もそのようにイエス様を愛するならば、他のものがいらないのです。 イエス様だけで十分です。と、このような思いが出てきます。


ですから狭い道でも、険しい道でも 決してその道が いばらの道ではないということであります。
愛する人と共に歩く道は 周りを全然気にしなくなり、イエス様を見るだけで心が幸せになります。

しかし「まだそこまで親密ではないです。」と言うならば(イエス様を)愛していないということです。

イエス様が私たちに一番求める心は「愛」なのです。


本来ならばイエス様を見ていなければならないのに、イエス様を見ずに どうでも良いことに目を奪われているから私たちの心の中には平安がなく、祝福・喜びがなく、いのちがないのです。

ヘブル12章1節に出てくる多くの証人たちは、ヘブル11章に出てくる信仰の人々です。その人たちは、地上で主と共に歩んだ人たちです。
その人たちは私たちより先に 主だけを見て生きた人たちです。彼らはどれほど祝福されたでしょうか。

それを見て、私たちもあちこち目を向けず、主だけを見る生活を目指すべきです。






このような話がありました。

イギリスの とある教会で、ある日の早天祈祷会で時間になっても、なぜか牧師先生が現れませんでした。 5分が過ぎると長老が代わりに祈祷会を導きますが、その日は長老も参加しませんでした。

誰かが祈祷会を導かなければいけないので、仕方なく靴の修理工をやっている執事1人が立ちあがって前に出ました。
その執事は 初めて前に立ちました。そして(今回のメッセージテーマである)ヘブル12章2節を読みました。

「今日のタイトルは『イエス様を見ましょう』です。」 このように言いましたが、次に何を語ったらいいのかわかりませんでした。それで彼はこのように言いました。


「イエス様を見ましょう。イエス様だけを見ましょう。ほかのものは見ないで イエス様だけを見ましょう。
私たちは必ずイエス様だけを見ましょう。
何があってもイエス様だけを見るべきで、他のものは見てはいけません。

とにかくこの世にイエス様がおられるように イエス様を見ましょう。
喜びの時も、悲しみの時もイエス様を見ましょう。

毎日鏡を見るように イエス様を見ましょう。

朝にもイエス様を見て、昼にもイエス様を見て、夜にもイエス様を見ましょう。
立ってもイエス様を見て、座ってもイエス様を見て、寝てる時もイエス様を見ましょう。

生きても死んでもイエス様を見ましょう。私たちは必ずイエス様だけを見るようにしましょう。」


このように たどたどしく、「イエス様だけを見ましょう」という彼の説教を聞いた信徒たちは笑いをこらえたり、失望したり、
ある人は目を閉じてメッセージを聞かずに祈ったりしていました。

しかし当時、その場所には幼い頃の“スポルジョン”がいました。

人類歴史上 一番優れた説教者で、説教の皇帝と呼ばれたスポルジョンだけがそのメッセージを真剣に聞いていました。

そして後に世界的に有名な説教者になりましたが、彼が語ったのは、「わたしはその日聞いたメッセージを一生忘れない。」と、彼が説教者として生きようと決心したのは、そのメッセージを聞いた時であったと告白をしました。





24時間イエス様を見て生きる生活は本当に大切なことであります。

これは主の臨在の中で常に生きる生活であります。これが私たちの目標でなければならないです。

私たちには人生の目標が色々あると思います。しかしその目標は、イエス様の臨在の中で生きている目標よりも高いですか?
それらのものは地上のわずかな時だけの目標であるのです。それはある意味では得なくても良い目標なのです。


他の目標を立てても良いです。しかし一番の目標は“いつもイエス様だけを見て生きる”生活を目指さなければならないです。
自分たちの心・自分たちの思いをイエス様に向けることであります。神様の中にすべてがあるからです。

空を見ても神様を想うのです。生き物を見て神様を見るのです。花を見て神様の作品を感じるのです。自分の身体も自分が造ったわけではないです。
命は目に見えないですが 動いていることは命なのです。空気もすべて神様の恵みであるのです。


ですからどこを見ても私たちは24時間 神様を見ることができるのです。

それを全て神様と繋げて考えるならば、そこに神様が存在するのです。


苦しみがあっても、神様からの教育や方法がその中から見えてきます。全て神様と関連して考えることです。

悪い思いが出てきた時は、「これは私がサタンに心を開いてしまったので サタンが私の心を苦しめているのだ。」と気付いて「出て行け!」と追い出していかなければならないです。


「イエス様。私の中にいつも共にいてください。私の心をいつもイエス様の思いで満たしてください。」と、このように祈るべきであります。
すぐに気付いて、入れるべき物を入れて いらない物は追い出していくのです。


心は常に掃除が必要であります。 心こそ整理整頓が必要です。いらない物が多すぎると語っています。

信仰の創始者であり、完成者であるイエス様だけを見て生きる時に、決して揺れ動くことも 恐れることもなく、信仰の競争で勝利することが出来ます。
v( ̄∇ ̄)v

2014.5.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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御霊に導かれて

テーマは 『 御霊に導かれて 』 です

【ガラテヤ5章16節、18節、25節】

・御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことは、ありません。

・御霊によって導かれるなら、 あなたがたは律法の下にはいません。

・もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

聖霊様は、どのようなお方でしょうか。

どんな時も助け、慰めを与え、力を与え、励ましてくださり、信頼することのできるお方で、私たちの為にいつもとりなし、愛を注いでくださり、罪を教え悔い改めに導いてくださり、世が与えるものとは違う平安・喜び・希望を与えてくださるお方であります。

御霊は、私たちの内に住んでくださり、教え導いてくださいます。


【ピリピ2章13節】

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

【Ⅰヨハネ2章27節】

あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。 彼の油がすべてのもとについてあなたがたを教えるように、―― その教えは真理であって偽りではありません ――また、その油が あなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

油がすべてのことについて教えてくださいます。
愛するがゆえに、進むべき道を示すために聖霊様を送ってくださり、誰よりも私たちのことを理解してくださっています。


御霊は賜物を与えてくださる

【Ⅰコリント12章8節】

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

知恵の言葉、知識の言葉、信仰、奇跡の力、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力です。

聖霊様の働きを決して留めることのないように気を付けましょう。



神の御霊に導かれるとは、どのようなことでしょうか ――?

御霊によって歩きなさい、御霊によって満たされなさい、御霊によって祈りなさい、御霊を消してはいけない。
御霊に拠り頼みなさい ・・・「主よ、導いてください。歩むべき道を示してください。」と祈ったなら、主を信頼し、委ねて待つということです。


困った時、助けが必要な時だけではなく、日常のあらゆる面に、聖霊様をお迎えして信頼し、拠り頼み委ねることを願っておられます。



御霊に導かれて 主のみこころを求め、歩みたいと願う時に邪魔するものがあります。

1つ目は、私たちの内に まだ残っている「肉」です。これは栄光の身体に変えられるまで戦いがあります。
2つ目は、サタンの誘惑・妨害です。


肉から出たもの

【ガラテヤ3章2-3節】

ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

主のために熱心に働きをするのですが、聖霊様に導かれながら進めていくうちに、いつの間にか自分の思いが入ってきて、神の栄光の代わりに自分の栄光へと すり替わってしまっている姿、誘惑され騙され、欺かれた姿です。
聖霊様が気付かせてくださいます。


私たちは、何かをすることによって祝福されるという思い、認められようとする古い自分がいます。
これは思い違いであり、自己義です。またサタンの誘惑です。

律法ではなく、恵みの中に留まるべきです。
私たちが神様のために何かをするのは、恵みに感謝し、主を愛する心から出たものを 主は受け入れられます。

自分の願いや考えを押し通そうとする人は、「周りが悪い」と環境のせいにします。
これは自分の姿が見えていないのです。聖霊様に教えていただき、みことばの鏡に照らし合わせると良いです。


【マタイの福音書12章31-32節】

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、 赦されません。

霊に注意をしましょう。




サタンに騙されている姿

【Ⅱコリント2章11節】

これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

聖書を読んだり、祈っている時に、用事を思い出したりすることはないでしょうか ――?
これもサタンの巧妙な手だと思います。


【ヨハネの福音書10章10節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

みことばを盗み、祝福(平安・喜び)を奪い、信仰を失わせます。
真理から目をそらさせ、確信を揺るがせ、信仰を奪うのです。


【ヨハネの福音書8章44節】

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから 人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。 なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

サタンは嘘つきです。アダムとエバを霊的に殺しました。
私たちも自分の罪過と罪との中に死んでいた者でしたが、キリストの贖いのゆえに私たちの霊が回復されたのです。


サタンは様々な方法で攻撃をしてきて、神様からの祝福を奪おうとします。聖霊様の導きから外そうとします。

誘惑する者、騙す者、惑わす者、嘘・偽り者、欺く者、不安や恐れ、不信仰、これらは私たちのたましい(心)の部分に攻撃をしてきます。

サタンは、私たちの「弱さ」を責めてきます。不信仰な思いを入れてきます。


①自己評価が低い人
劣等感、自己憐憫。「あなたが変わるわけがない。」、「どうせ無駄」、「時間の無駄」

【Ⅱコリント12章9節】

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。 ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

②固定観念
自分はこういう者だから、と固まった思い込み、どうせ抜け出せない。変わることは難しい。
これは騙され 欺かれた姿です。

【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

③高慢な心
私の力が、私の手の力が、私が築いてきた。高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを注いでくださいます。


④理論的思考
「私は知っている。分かっている。」

【Ⅰヨハネ1章8節】

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。


⑤孤独
誰も分かってくれない。理解してくれない。しかし、捨てて孤児にはしないです。みことばの約束があります。

【イザヤ書43章4節】

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

私たちの立場は、神の子ども、罪赦された者、永遠のいのちが約束された者、神の共同相続人です。


聖霊様は、私たちのために何をしてくださるお方であるかを しっかり霊で受け止めて、自分の方法・思いではなく、 聖霊様はどのような計画を持ってくださっているのか、私はどのように進むべきなのだろうかと、導きを求めて祈り、みこころの中を歩んで いきたいと思います。

そしてもっと親しく 信頼し、頼れるお方であることを信じることが大切ではないでしょうか。


【Ⅱコリント3章18節】

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を 変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ますます 主を慕い求めて、キリストに似た者と変えられていきたいと思います。
ですから、私たちは内にいてくださる聖霊様の優しい語りかけ、思いを与えて導いてくださる方に、共に歩んでください。私の人生のすべてを支配し、導いてくださいと祈る者になりたいと思います。


そして、目を覚まして御霊によって祈り、御霊に満たされ、御霊に導かれて歩んでいく者になりましょう。 (^∀^)

2014.3.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス様を誰だと思いますか?

テーマは『 あなたはイエスをだれだと思いますか 』です

【マタイの福音書16章13-15節】

さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」

彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも 言っています。」

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

皆さんは、イエス様をだれだと思っているでしょうか。
多くの人々が1人のイエス様を見て、色々な言葉を使って表現しました。

「わたしはイエスをこのように思います。」

これは人間として来られたイエス様なので、実際に目に見えていたので、人々の心にはそれぞれの心がありました。
当時の人々は、イエス様のことをヨハネやエレミヤだと言う人たちがいました。

今の世の中の人たちに聞くと、「キリスト教の神様でしょう?」「外国の神様でしょう?」と、私とは関係がないと言います。

イスラム教の人に聞くと、彼らは知っているので「預言者の1人だと思います。」と答えます。
イエス・キリストを否定するわけではないですが、彼らはアッラーの神を信じていますので、それを紹介したマホメットよりも下にいるのがイエス・キリストという預言者の1人だと思っています。


大切なことは、イエス様は「あなたはどう思っているのか?」であります。
それによって私たちに救いがあるか、ないかが変わってきます。

毎年 クリスマスを祝う人はいますが、ある人は何も考えずに祝っているのです。
「喜びの日だから遊ぼう。お酒を飲んで、チキンとケーキを食べて楽しくしよう。」と思っている人が多いです。
イエス様の誕生日であることも知らず、イエス様を招かないのです。

私たちは肉体をもって地上に来られた時のイエス様をどのように思っているのでしょうか。
今は復活されて天におられますが、どのように思うかによって、私たちと神様との関係が全く違います。




①一番大きい方であるのに、一番小さい方として、この地上で生きていた


一番大きいということは、イエス様は創造主であるということです。全知全能なる神様であり、そこにあるものは支配と権威であります。
王の王、主の主ということは、それよりも上に立つものはないのです。

それなのに、地上におられた時にイエス様は一番小さい者として歩んでいました。
30年間 大工をしていましたが、時が来たときに福音を宣べ伝えながら奇跡を行いました。その時から人々に知られるようになりました。
一番初めに目をつけた人たちは 宗教指導者たちでした。
人々が驚くほどイエス様が語る言葉には権威がありましたので、宗教指導者たちがイエス様を迫害するようになりました。

それでもイエス様はその人たちと戦ったでしょうか? ―― 戦ってはいないです。
何も言わずに黙って、対決することを避けていました。

そして、十字架に架かる前に捕らえられた時は政治が絡んできました。植民地でありましたので、ローマの相続であるピラトのところへ連れられてきました。
そこで宗教指導者たちは偽りの証言をしながら訴えていました。しかしイエス様はピラトに何も語りませんでした。


イエス様は権威あるお方でありましたが、その権威に力を持って戦ったことが無かったですし、その権威を前にひざまずいたこともなかったです。
「わたしが死ぬことが父のみこころである。」と世の権威に対しても黙っていました。一番小さい者のように黙って自分の命を差し出しました。

本当は 王の王で、誰も逆らえないのですが、自らそれらを全て捨てて罪人や奴隷のように自分自身を低くしました。

実際に罪を犯した人でも、自分の無実を訴えます。イエス様はこのままでは死ぬということが分かっていても権威にはひざまずかなかったです。

ピラトは、イエス様には罪がないのに黙っている姿を見て びっくりしました。




②一番偉大な方なのに、一番卑しい人のようにこの地上で過ごしていた


【ピリピ2章6-8節】

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、 人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

天にいる時と全く違う姿で、地上で30年間 大工の仕事をしながら、本当の意味では繋がりのない家族を養っていました。

その後 3年間、人々はあまりにも素晴らしい奇跡を行うイエス様でしたので、王様として立てようとしましたが「わたしは仕えるために来ました。」と毎日彼らに仕えていました。

イエス様が捕えられた時に、どれほど人々から悲惨な目に遭っているのか 皆さんも分かると思います。
もし私たちも同じようなことをされたとしたら、カァ~ッと頭に血が上って その者に向かって敵意を持って戦うと思います。
今は学生が先生に平手打ちをされたら社会的に大きな問題になっています。


全ての誉れと賛美を受けていたイエス様がムチで39回打たれて身体が裂けました。私たちがその場にいたとしたら人々と同じことをしたと思います。

良い時は「主よ、感謝します。」と言いながら、気に入らない時はイエス様に不平不満を言います。これはイエス様をムチで打つことと同じであります。


【イザヤ書53章3節】

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

人々から蹴られたり はずかしめを受けたりしましたが、イエス様は黙っていました。私たちだったらその場から逃げると思います。
イエス様が一番卑しい人として生きていたことを知ることが出来ます。




③一番豊かなイエス様でしたが、地上では一番貧しい者になっていた


本来、創造主ですので天や地上の全てのものの所有者であります。私たち人間も所有されているものです。
しかし、イエス様は何も持っていない者として地上に来られました。

イエス様は金持ちや政治家と仲が良かったでしょうか――? 彼らからは憎まれていました。
イエス様はいつも困っている者たちと一緒にいて 彼らを助けていました。

宗教指導者たちは近づいたら汚れるからと、その者たちに近づかなかったです。しかしイエス様は自らが近づいていきました。


【Ⅱコリント8章9節】

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。 それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

私たちのために貧しい者になりました。ですからイエス様は金持ちの人たちに対して厳しい言葉を言いました。
なぜなら彼らは 富をもって贅沢に暮らしますが、本当に困っている人たちに対しては無関心であったので、それが大きい罪でありました。

私たちは大きいことをしたいと願うのではなく、私たちはイエス様からたくさんの恵みを受け取りました。
それはイエス様の方から私たちに関心をもって 友となり、悩みを聞き、憐れんで愛を示してくださいました。




イエス様はすべての権威と力を持っていても、それを私たちのために無い者のように生きたのですが、イエス様が1つだけ権威を使い強かった部分がありました。


④サタンに対して強かった


サタンが持っている死の力も、ご自分の命を捧げて、それから復活したことによって勝利しました。
それは自分の力を見せるわけではなく、捕らえられた人々を助けるためにイエス様は見せてくださいました。

私たちがイエス様から学ぶ姿は、最も小さな者として生きることであります。

権力に頭を下げず、一番最高のイエス様に頭を下げて、この世の権力にペコペコするのではないです。

そして、私たちは一番卑しい者のように生きるのです。
それは謙遜にならないと出来ないことであります。

困っている人たちがたくさんいるので、その人たちの力になること、慰めや助けになるために生きるのです。人々を差別をしたり蔑むのでは、何一つ良いことがありません。

イエス様は今も聖霊を送って日々私たちを助け、恵みを与え、愛し守ってくださる方であります。 (*´∇`*)


2013.12.22
クリスマス礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストを信じる信仰

テーマは『 イエス・キリストを信じる信仰 』です

【エペソ1章19-23節】

私たちはイエス様を信じる者ですが、キリストに対する信仰が自分自身にどのような影響を与えているでしょうか?
キリストにあって、どのような祝福を受けていますか ――。

多くの人は「罪が赦されて天国に行けるんだ」と言いますが、天国に行くだけが私たちに与えた祝福ではないです。
もちろん それも後に受けますが、神様は今回のみことば箇所で はっきりと語っています。

今の世の中でも祝福されないならば、それはみこころではないのです。

なぜ私たちが祝福されなければならないのでしょうか?
それは もともと神様が人間を造った時は祝福されていました。
しかし人間が神様から離れたことによって全てを失いました。
それでイエス様が来られて働いてくださったことによって(祝福が)回復されました。

「死」は十字架によって「命」に取り換えました。その他にもイエス様はたくさん回復してくださいました。

つまりキリストを信じるということは、回復されたものを(受け取ると)初めから約束されているのです。
キリストの中に全てのものが満ちていますので、その祝福を私たちが信じる瞬間から受け取るのであります。

神様はそれを与えたいので私たちを呼んでくださいました。
クリスチャンの生活になるということは、キリストが準備をしているものを相続者として受け、
楽しみながら生活をすることであります。


【イザヤ53章4-6節】

これは救われる者たちのためにしてくださったことです。
病の討ち傷をイエス様が負って、それを回復してくださいましたので私たちが受けるものは癒しであります。
病気になった人が「あぁ、これは主のみこころであるんだ」という人がいますが、とんでもないことです。
主のみこころには、私たちを病気にさせて滅ぼすということはなく、神様が祝福として用意したものではないです。


【Ⅱコリント8章9節】

弟子たちは家族のもとに帰りましたが、イエス様には帰る家がないです。
ですから山に行って、夜通し父なる神様にお祈りし話をしながら寝る事もありました。
しかし、それは何の為でしょうか?

イエス様ご自身が、人間が地上で何を食べるか何を飲むのか、そのような貧しくて苦しんでいる問題を
回復させる為でした。

今、地球上にいる80%が貧しい者です。食べ物がなくて亡くなる人もいます。家がない人も大勢います。
明日のことを心配する人もたくさんいます。何も心配せずに生きている人は、どれだけいるでしょう。

イエス様は人間の悲惨な状態を見たのです。それをイエス様ご自身も通ってきました。
十字架の上でイエス様が「完了した」と言ったのは、人間が失ったすべてのものをイエス様が回復する働きを
終えたということであります。

ですから私たちが様々な問題の中で苦しむ必要がないということです。


物質についても、(私たちが)貧しいのが神様のみこころであると、どこに書いているでしょうか?
それだとイエス様がずっと貧しく生きていた意味がないです。

昔から教会で間違えた聖書の解釈をするので、真理ではない言葉を流していくのです。
クリスチャンは貧しくなるのが敬虔な姿であるというのは、とんでもないことです。
貧しくなって施しが出来るのですか?人の益になること、物を分け与えることができるのでしょうか?

―― できないです。イエス様は常に人々に与えました。弟子たちにも与えていきました。
そこでキリストを信じる信仰とはこういうものなんだと、イエス様が(信じる者に)準備をした恵みの中に入りなさいと、
これがクリスチャン生活のスタートラインであります。


だからと言って、キリストを信じた瞬間に宝くじに当たってお金が与えられるということではないです。
それは祝福ではないです。キリストの祝福はそんなものではないです。
「何を食べて何を着るかを心配するな」と神様がすべて知っておられるからです。
世の中でも、悪い親でも子供には良いものを与えるように、神様は 神様を求める者たちに悪いものを与えるはずがないのです。

皆さん、クリスチャンの人たちはキリストに出会ってからも なぜ苦しむのですか?
なぜいつも日常の生活の中で、今も罪の問題、病の問題、貧困の問題、家庭の問題などを自分でそれを背負って
苦しむのでしょうか?

それは信仰が間違えているからであります。
なぜ自分がキリストを信じる信仰がそこに1つも影響力がないのでしょうか?
なぜキリストが与えた影響力が自分のものにならないのか、それは神様のせいでしょうか? とんでもないです。

神様は私たちが祈る以前に備えてくださっています。ですから、問題は常に私たちにあります。
その問題点を挙げます。


①キリストと1つになっていない


これはまだ生まれ変わっていないということであります。
信仰が形式的で、信仰の味をまだわかっていないです。私たちが生まれ変わるということは、何だと思いますか?
信仰をもって信じて、キリストと1つになることです。キリストの中に入ることです。
そして その人自身が古い人を脱ぎ捨てて、新しい人になることが生まれ変わったことであります。

古い人のままで生まれ変わることはないです。もはやあなたが生きるのではなくて、キリストがあなたの中で
生きているということを主が語りました。

キリストと1つになって生まれ変わっていないので、キリストが自分のために備えているものが
自分のものになっていないのです。
そして相変わらず 自分で全てのものを背負って「主よ、主よ、どうしてですか?!」になってしまうのです。

これはキリストにある権利を知らないからであります。
私たちがクリスチャンになって出発する時は、キリストが回復しておいた根本的なところに
気が付かなければならないです。
クリスチャンになることは何か?という時に、「あぁ、これから厳しい信仰生活が始まるなぁ」ではなく、
「キリストが回復したものを私が相続するんだ」と全ての良いものを自分が受けるという認識がないといけないです。


聖書に2人の放蕩息子の例えがありますが、これは2人とも間違えていました。
1人の放蕩息子は父の財産を「ください、ください」と言って(父から)もらいましたが、神様の目的とは違う
自分の快楽のために財産を湯水のように使って、結局は父の家にいた時より悲惨な罪の奴隷になりました。

もう1人、家の中に留まっていた長男ですが、この長男の姿のようなクリスチャンが多いです。
自分の弟が帰ってきた時に 父が赦して指輪をはめ、新しい服を着させ、ご馳走を食べさせたことに
ものすごく腹を立てました。
「私は朝から晩まで汗を流しながら働いているのに、私には1つも良いものをくれたことがありません。」と
言いました。長男の問題は何でしょうか?

父のものが自分のものだという認識がないのです。
つまり求めなかったことです。彼の中には「あれはお父さんのものであって、私のものではない」と思っていました。
ですから一度も父に「ください。」と言ったことがないです。
ただ黙々と死にそうな思いで働いたうえに、父に対して不満な心がありました。


父のものは自分のものだという根本的な権利を知らない長男でした。
知らないので1つも自分のものになっていないのです。こんなに金持ちの父親がいても、奴隷なのです。

「私が心の中でこんなに想っていても1つも叶えられない」というのは、世の中の宗教の信仰と同じであります。
信仰で必死に求めているのですが、それを叶えてくれるものがいないのです。
つまり神がいないということです。聞いてくれないものに いくら自分たちが拝んでも得るものはないです。


私たちの信仰も、(神様は)父のものはあなたのものなのに、なぜ自分のものだという認識がないのか―?と
語ります。自分のものだという認識があるならば、自由に使って良かったのです。
いちいち父親に許可をもらわなくても、正しくそれを使うならば、父親は喜んだと思います。
彼がその中で喜んで生活をする姿を見たら父親も嬉しいのに、いくら経っても何一つ求めないのです。
そして、いつ見ても不満な顔をしているのです。

クリスチャン生活はそのようなものではないです。信じる者の為にイエス様が犠牲を払って回復してくださいました。
天国に無いものはないです。

歪んだ信仰で何が生まれてくるでしょうか? 私たちは正しい者でなければいけないのです。


②期待しないものに神様は絶対に働かない


奇跡を行う神様だと期待をしないので奇跡が起こらないです。期待をしないので御使いも現れないです。

聖書はすべて言葉で書かれていますが、
言葉が働くのは、私たちが信じて期待をして宣言をする時に言葉が動き出します。
言葉は私たちが宣言をしない限り、絶対に動かないです。

私たちが色々な問題を抱えた時に みことばを宣言するのです。
「キリストの懲らしめによって私は平安になった。サタンよ、出て行け!」と潰すことです。
病気の時は「キリストの討ち傷によって私は癒された!」と宣言をします。
「もっとひどくなるのかな?」と、このような言葉を言うならば 癒しは絶対に起こらないです。

困った時だけ神様に求めるのではなく、初めから自分のものなのです。その中で生きることです。
キリストと自分が別々に生活をして、困った時にその問題を持ってわざわざキリストの所へ行き、
「私 困りました。」では得られないです。


キリストの中に住むということは、自分の人生すべてをいつも委ねて生きることなのです。
心の王座に自分が座っていてはいけないです。そこにはキリストが座るのです。
多くの人達が「主よ、主よ。」と言いながら、全部自分の力で色々なことをしようとします。

ちっぽけな人生を自ら歩もうとするのは、キリストが見て「それが信仰か」と泣いています。
私たちは「王の王、主の主」の子どもなのです。

祈って委ねると大胆になれます。毎日幸せだと宣言をします。
口から出る(不信仰な)言葉が恵みを閉ざしてしまいます。
不満を言うのはキリストが何をしてくださったのかをまだわかっていないです。
「私はまだ生まれ変わっていないんだ」と知り、反省をしなければならないです。

体験のない信仰は、信仰が1つも動いていないことであります。みことばが自分の生活の中で動いていないです。
それはその言葉を使っていないからです。


「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのすべてのものは与えられます。」
ということは、キリストの中で自分が今生きている目的は「キリストなんだ」ということです。
私のために良い事をしてくださったキリストを喜ばせる生活、キリストを愛する生活、キリストを敬う生活、
これが私たちの日々することであり、それをやっておけば自然と蛇口をひねって恵みが流れるように
主が備えてある祝福は全部自分のものになるのです。

ですから、自分の努力で得る必要は一切ありません。主のみことば通りにすれば、自然とついてくるものです。

信仰生活は最初から祝福を受け取る生活です。努力をして何もないところから一から始めるのではなく、
初めからあるものを信仰によって受け取るのです。

自分がいかに信仰によって、それを自分のものとして使うのか、これが試されているのです。
喜びながら、心配をしないことが信仰なのです。「豊かな祝福を一生受けます」と宣言をしてください。

一体、私は誰なんだ? ―― 私は王様の息子、娘であるということをもっと自覚して欲しいです。
以前は奴隷であったけど、今は違うという大胆さです。

嵐が起きていても立ち止まる必要がないです。蹴ったら良いです。
誘惑するものに向かって、いちいち立ち止まって潰れて、元の道に戻ることはサタンに負けることであります。
「下がれ。サタン。お前と私に何の関係があるのか。今の私は以前とは違うぞ」と戦うことであります。

イエス様がしてくださったものを、しっかりと受け止めてください。 (・◇・)ゞ

2013.7.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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大いなるものとしよう

テーマは『 大いなるものとしよう 』です

【創世記12章1-3節】

神様が個人的にこのように素晴らしい祝福の約束をしたのは、アブラハムだけであります。

その後、アブラハムは信仰の先祖になりますが、
神様を信じて従ってくる者に対しての、神様のみこころでもあるのです。

神様から選ばれた民たちや、神の子どもになった者たちに対しては、このような祝福を与えたいという
ものが初めからあります。

この世の中で一番愛し合っているのは親子関係だと思います。
親は子供のために祝福してあげたいと思いますが、親には力がないので「あなたが大いなるものになる」とかは
言えないです。ですので、せいぜい「財産を残してあげる」くらいの祝福の言葉しかないです。

しかし、神様は個人に対して素晴らしい祝福を与えました。
そしてアブラハムは霊的祝福を受け、実際に全ての祝福を受けました。

私たちも「霊的に繁栄する」、「この地上での生活も繁栄する」、「肉体も祝福される」と
このような三拍子の祝福は、誰もが願うものであります。

私たちはどのようにしてアブラハムが祝福を受けたのかを学ぶのは、とても大切です。

信仰の子どもに対して、神様は差別をするのではないです。
私たちがそれ(祝福)を受けるような器になるならば、アブラハムが受けた祝福を私たちにも与えてくださいます。

アブラハムが神様の約束の言葉を聞き、どのように彼が祝福を受けたのか、
その方法はすごく簡単ですが、私たちが難しく考えるので いつまで経っても実行をしないです。

難しい約束の言葉があるでしょうか? ――ないです。
とても短く簡潔で、分かりやすいです。

人は「何か難しいことをしないと受けられないのではないか?」と思うことが多いですが、
私たちの努力によって神様が祝福を与えるのではないです。
神様の方法は、言葉になって初めにきます。それを自分たちがどのように理解をして従うかによって
祝福を受ける者と受けない者がわかれていきます。

神様がアブラハムに祝福を語る前に【 創世記12章1節 】の指示を出しました。
私たちは神様が指示をする時に、反応をしなければならないです。
色々な反応があると思います。気に入らない反応があると思います。初めから聞く気がない人もいます。

神様が指示をする時に一番良いものは、心を開いて、ありのままの神様の指示を受け入れることです。
祝福を受けるスタートはそこからであります。
なぜならば、祝福を与えるという神様が語るのです。ですから私たちが祝福を受ける者になるためには、
まず神様が語る時に、耳を傾けることであります。適当に聞くのではなく、よく聞くことです。
自分が聞きたい言葉だけを聞くのではなく、1つも漏らさずに神様の指示を聞くことが第一歩であります。

ある人は、神様の言葉を聞きながら「そんなこと出来るはずがありません。」と、自分の経験や知恵で解釈をします。
最後まで神様の言葉を聞かずに、一言聞いただけで自分で計算をし始めます。
このような聞き方だと、神様は何を語っていたのか わからなくなります。残るのは自分の想いだけであります。

ですから、神様の指示をきちんと聞くべきです。


【エペソ5章17節】

「愚かにならないで」という言葉が始めにある理由は、自分は神様よりも知恵があると勘違いをするからです。
いくら自分で「私は知恵があります。」と言っても、人間同士で比べたら、それがあったとしても
神様と比べたら誰一人 知恵ある人はいないです。

ヨブは神様に ああだこうだと色々言いました。神様は人間同士のやり取りをずっと聞いて
ヨブと他の者の知恵比べでした。「私の思いでは~」「私の考えでは~」と責め合っていました。
神様は初めから終わりまで聞いて、ヨブに「わたしの質問に答えなさい。」と語った時に、
ヨブは1つも答えられませんでした。そしてヨブはすごく恥を受けました。
「私は何と愚かな者で、悟りのない者でしょうか。」と自分の恥を表しました。

神様の指示に対して「何でそんな指示を出すのですか?」と、ずっと言いながら
神様の指示を除けていくと、次に神様からの言葉は絶対にこないです。

そういう人たちにはサタンが喜びます。さらにサタンがその人を惑わしていき、繁栄を与えます。
サタンは嘘つきなので騙すのが上手いです。ですからずっと与え続けます。そして最期に潰します。
サタンが人に繁栄を与えるのは、その人を太らせて永遠の死(滅びの道)へ売り飛ばすためです。
そして大喜びをします。サタンに騙されて堕ちて行くのは繁栄とは言えないものです。


神様が語る祝福は、最期に素晴らしい良い実を結ぶことなのです。成就していきます。
神様の言葉を聞く時は、何をおっしゃるのか、よく聞いてください。

間違えて聞くなら、結局間違えたことをするので、口を出さず、考えずに文句も言わずに聞き、
すべてを聞き終わったら「わかりました。」と受け入れます。
「 アーメン 」とはそのような意味です。
しっかり聞いて、悟るということは心に刻むことであります。

指示をした後に、神様の約束の言葉があります。
(※「そうすれば~」のように、聖書は繋ぎの言葉がとても大切です。)

神様の指示を受けた後には、次の言葉を聞かなければならないです。
ただ指示だけを受けて行動するのではなく、神様の(祝福の)保障がないと私たちは不安定になります。
祝福の神様ですので、必ず続きがあります。

保障というのは、木の根と同じです。根は目には見えないです。ですが、木を支えるのは根であります。
それが深く地下のほうに根を下ろす時に木は成長をして伸び、実を結ぶようになるのです。
祝福は木に実が結ばれることと同じです。

根がないと倒れてしまいますし、花を咲かせることも実を結ぶこともないです。


【出エジプト記3章10節】

これは指示です。

【出エジプト記3章12節】

そして保障であります。神様より強い保障はどこにあるでしょうか。
神様には不可能がないです。


【創世記28章15節】

【創世記7章1-5節】

私たちはなかなか聞く耳がないです。
勝手に解釈をして、神様がすべてを語る前に立ち上がってどこかへ行ってしまいます。
ですから私たちは多くの祝福を逃してしまいますし、神様の思いとは違うところへ行き様々な問題にぶつかります。

自分の姿を振り返ってみてください。神様が自分にどのような指示をしたのか、自分がその指示通りに
やれているのか、それとも違うことをやっているのか、一番心配をしなければならないのはそのことです。


【創世記12章4節】

神様がすべてを語り終わった後は、私たちがしていかなければならないことであります。
神様が語った通りのことを受けるためには、主がお告げになった通りに行動を移すことです。
神様は、座っている人には絶対に祝福を与えないです。
ただ種だけを握り座っていては、自分の手の中で種が育つことはないです。
神様がその種を蒔きなさいというところに蒔かなければならないです。すべて自分の行動です。

神様はみことばを聞いて行う者を必ず祝福します。
動かない者は、その人が動くまで神様は祝福の扉を開かないです。動いて種を蒔かないので恵みを与えないです。

私たちが祝福されないのは、行動をしないで怠けて色々な言い訳をして、種を蒔く時なのに
種を蒔きに出ていかないからです。ですから秋になっても収穫がないです。

聞いてすぐに行動をすると、早く祝福を受けます。

家庭の中でも、教会の中でも、自分の人生の中でも、とにかく神様に言われた通りに種を蒔く人が
祝福を刈り取ります。
神様は、そういう人たちに対しては すべての手の業を祝福すると語られました。

天が開かれます。それまでは閉ざされてあります。
その鍵を開けるのは、私たちが信仰の行動をしていく時に、神様はそれを見て天から開けるのです。
その人に祝福が注がれるように、神様が開けるなら、それを誰も閉ざすことはできないです。
また神様が閉ざすなら、誰にも開けることはできないです。

共におられるので、神様は私たちの行動をすべてお見通しであります。

アブラハムは行動して出て行き、指示通りにしました。


【へブル6章13-15節】

アブラハムの人生の結果です。行動を起こしているので忍耐がありました。
実が結ばれるまで、アブラハムは待ち続けました。信仰の歩みをしました。

これは私たちが繁栄する祝福を得るために、この信仰においてはアブラハムから学ぶと良いです。 (。・ω・)ノ゙

2013.6.2
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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善悪の実を食べた理由

テーマは『善悪の知識の木から取って食べた理由』です

【創世記2章16-17節】、【創世記3章1-6節】

なぜ食べたのか、その理由をみことばを通して知りたいと思います。
エデンの園にある実の中で、この木だけは食べてはいけないことを人間に命令を与えました。
人間が自分の意思で神様に従順するか、しないかを試すためでした。理由はこれでした。

神様が主権者なので、それに従うのが秩序であります。
ですが、それに従うかは(神様は)人間に意思を与えています。
蛇の中にサタンが入って誘惑をしに人間に近づいてきました。

それまでは中央にある木を気にしていませんでしたが、サタンが違う思いを入れました。
それは神様と全く違う言葉でした。

しかしサタンの攻撃が来る以前に、神様は人間に注意しなさいと言葉を伝えていました。
なので人間はそれを守れば良いだけであります。しかし人間の言葉も曖昧になっていました。

「死ぬといけないから」と言いましたが、神様は「必ず死ぬ。」と語ってありました。
この言葉の意味には天と地の差があります。

神様は中途半端な言葉は語らないです。

蛇の言葉を聞いてから、その実がすごく美味しそうに見えるようになりました。食べたい欲が出てきました。
私たちは何かをする時には欲が出てきます。

罪というものは、見た目(包装紙)が美しい物であります。私達を誘惑するものですので、
誘惑されやすい「良いもの」に見えてきます。 

【箴言5章3-4章】

すごく見た時は甘いものなので誘惑されていきますが、一緒になってしまった後で大変なことになります。
見てはいけないものをずっと見ていると、だんだん自分の欲が出て来て、肉の欲、目の欲が出て、
自分では抑えられなくなります。

【ヤコブ1章14-15節】

誘惑されると必ず私たちは行動に移します。全てのものがそうです。
しかし誘惑された瞬間、なぜ人間はそれを止めることができなかったのでしょうか。
神様の言葉があるにも関わらず、なぜ手を伸ばしてそれを食べたのか――。

私たちは神様の言葉があるにも関わらず我々は罪を犯します。
それは私たちと言葉の関係に問題があります。
人が誘惑されるまでは、その言葉が生きてあります。
ですが、サタンにそそのかされてサタンが流した嘘が支配し、思いが支配されるとサタンが働きます。
サタンが働いた時から、みことばがおかしくなります。
みことばに対する自分の態度が(反応が)変わってきます。

アダムとエバの中には、神様の言葉を軽く考える思いが出てきました。
心が汚れたことによって神様の言葉が力を失っていきました。
神の言葉を軽く考えた時から罪が生まれます。罪は神様の言葉から離れたことが罪であります。

【Ⅰサムエル2章30節】

エリ祭司も神の言葉を軽く考えました。
神様が勝手に変わるのではなく、私たちが神様を変えなければならないようにしています。
私たちが罪を犯すなら、神様は約束を果たす義務がありません。

【マラキ書3章14-18節】

主の言葉は「必ず死ぬ」という厳しい言葉です。
サタンは「死ぬどころか、神のようになる」という言葉でした。
アダムとエバは神様の事を軽く考えていたので神様の言葉を疑いました。

罪を犯す者は、判断力、分別力、良心までもがマヒされます。
嘘を信じると、真実を嘘のように思います。

聖徒とは、聖書で神様が語っている約束を信じる者であります。
聖徒とは、聞いて信じて受け入れる人で神様の言葉によって生きる人です。

神様は嘘をつかないです。サタンは初めから嘘です。偽りの父です。

もともとサタンは自分が神になろうとしていましたが、失敗しました。
天使として造られた時は霊的な存在でしたので、人間の力は及びません。
そして神様を直接見た者であります。神の世界のことを全部知っています。
サタンが神になれなかったのに、人間が(神に)なれるわけがないです。
ここに人間の愚かさがあります。
誘惑されると善悪がわからなくなるので、悪いものが良いものに見え、良いものが悪く見える。
真理が嘘のように思え、そして 嘘が真理のように思えます。

欲を持っている人が一番騙されやすいです。無欲であるならば、
どんなに誘惑がきても私には関係がないと思えます。

詐欺師は欲を持っている人達を探します。

もし誘惑されたなら、自分は欲張りだということです。そこには既にサタンが住んでいます。
人々が福音を聞いても信じない理由は、サタンが心に住んでいるからです。
サタンが福音を受け入れることはないです。

エデンの園の「これは食べてはいけない」と言った場所は神様の領域でした。
しかし、そこに人間が足を踏み入れました。人間は許された領域の中でいなければならないです。
神様の領域に入ってタダで出てくることはないです。そこは禁じた場所だからです。
神様は人間をエデンの園から追い出しました。

今も私たちが神様の言葉を無視し、約束を疑って従わないでアダムとエバと同じように領域を侵害するならば
天国から追い出されることになります。

教会に来る人でも2種類の人がいます。
神様の言葉を恐れる人。人間は、人間として自分の領域を守りながら生きる人。
神様の領域を勝手に汚い足で踏みつけて「何が悪い」と、生きる人。

神様は正しい者と悪者をはっきりと区別するんだと語りました。
その部分で私たちは今も善悪の知識の木、私たちを誘惑して倒そうとしている その木、
それがたくさんあるということです。

パウロと共に働いたテマスは、善悪の知識の木の実を食べた者であります。
一緒に働いた者ですが、その道はとても苦しい道でありました。
他の人達は一緒に闘って最後の勝利を得ましたが、テマスは違っていました。
パウロを通して神の言葉を聞いていましたが、世を愛していました。

私たちが神様の言葉を聞いていても、それを軽く考えて疑って、神様の領域に勝手に入ってくる。
その理由は何でしょうか――?
自分の中にすごく欲があるからです。神様は「持ってはいけないものなんだ。それを何故捨てないのか。」と。
悪魔がもたらしたものなのに、それが自分にとって悪いものかもしれない。
それは自分にとって手放したくないものかもしれません。
すごく甘く見えて、すごく素晴らしく見えます。

神様は、サタンが出したものは見える部分だけではダメなんだと語ります。
その後ろには何を隠してあるのか。後ろに隠しているものが必ずあります。
それは私たちを殺す剣であったり、美味しそうに見えても口に入れた瞬間、毒が出てきて――。
それで良いのでしょうか?

神様の言葉は今の私たちにとって命の木の実であります。これをたくさん食べる人は命が豊かであります。

これは神様が私たちに教えたいことであります。
人間はとても愚かな者です。愚かな者であるからサタンが来て騙されてしまいます。

ですから私たちが誘惑されるものをよく見てください。
「あれを食べたら私はどうなるんだろう?」「食べて腹の中でも甘いだろうか?」
「あれを私が食べてしまうと、それが私にすごく益になるだろうか?」
見た目だけで判断するのではなく、中身、結果まで考えることです。
そして自分が取って食べるなら、それは食べた人の責任であります。

神様は「これは食べてはいけないよ」と聖書の中で親切に教えてくださっています。

私たちは彼ら(アダムとエバ)の姿を見て、同じことを真似してやっているのか?と彼らを鏡にして
絶対に誘惑されないぞという思いがあれば、神様は「エデンの園にそのまま住みなさい。」と
天国まで導いてくださいます。

2012.9.2
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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思いの中にある時は私たちは止めることが出来ますが、
心にその思いが入ってきて願うと自然と身体が動いていきます。

神様から離れた理由

テーマは『私が神様から離れた理由』です 

(坂田姉妹が実際の体験で得た証付きメッセージ)

【Ⅰペテロ5章6-11節】

皆さんに質問です。神様が自分を見ている姿を想像してみてください。どういう表情、雰囲気で見ているのか。
その神様はどんな神様でしょうか? 大きな神様でしょうか、小さな神様でしょうか、
怒っている神様でしょうか、裁いている神様でしょうか、優しい神様でしょうか。

救われたばかりの頃は、ある姉妹と「神様のカバン持ちになりたい。」
「神様の愛をもっと知って人々に伝えたい。」 という思いで神学校へ行きました。
ですが、今はそういう気持ちが無くなっていました。

祈り会の時に、ふと1人の子供がキャッキャ♪ と はしゃぎながら喜びながら飛び跳ねて遊んでいるのが
思い浮かびました。そしてその後ろには大きなお父さんがいて、温かい目でニコニコ笑いながら見ている。
このイメージは神様が私に求めている(神様に対してのイメージ)姿はこれなんだとわかりました。

でもいつも私が罪を犯した時には、神様に対して虐待されている子供が「ごめんなさい!ごめんなさい!」と
うずくまって謝るような、そういう罪の悔い改め方をしていました。
虐待児が親を見るような、そのような目で私は神様を見ていました。

8月のある4日間を、神様から自分自身を捧げなさいという言葉がきました。
7月に知人から、ある集会で神様に祈りを捧げ、交わりをすることを誘われOKしましたが、
そこから1カ月間自分との闘いでした。

本音は行きたくありませんでした。神様から逃げたく、神様から離れて好きなことをしたいと言う自分が
神様のために4日間捧げるということは、今の自分にとってキツイものでした。
集会へ行けないようにいくつかの条件を付けていましたが、全てのことが神様に聞かれ、行くことになりました。

4日間の初日は観光をしようという計画もありましたが、移動の疲れもあり、
この4日間はずっとその集会場で祈ったり、聖書を読んだり、交わりをする時間を過ごしました。
それはとても恵みの時間でした。そこでイエス様が私に教えてくださったことがありました。
証と共に恵みを分かち合いたいと思います。

~ 今回のテーマである「私が神様から離れた理由」より ~

①かたくなさ(反逆心、反抗心)

神様はどれほど私に良くしてくださり、どれほど祈りを聞いてくださって、恵みを与えてくださっていたか、それをわかっているのに、たった4日間神様に捧げることが嫌で嫌でたまらなかったです。
このことで自分の心の中に頑なさがあることがよく分かりました。

神様が祈りを聞いてくださっている時は、私にとって良い神様であるのですが、
神様が「私の命令に従いなさい」という時は、
それによって自分が何かを明け渡さなければならない命令だと「出来ない~!」と握りしめている頑なさ。
しかしそれを持っているとサタンは攻撃をしてくるので自分を滅ぼすものになりかねないので
砕いていかなければならないものだと痛感しました。


②サタンの攻撃

サタンの攻撃はどんどん激しくなっています。この教会はサタンのことをよく教えますので攻撃も強いです。
また、恵みや奇跡も多い。それが多ければ多いほどサタンは攻撃をしてきます。
聖霊のことやサタンのことを教えないのでは、サタンも眠っている教会です。

この終末で、サタンは私たちを神様から引き離そうと必死です。
自分の心の中に心配事や握りしめているものがあると、それが隙になりサタンの餌になります。
そこに食いついてきます。サタンに対して、そして自分自身に対しても戦いであり、
自分の中にサタンの餌をどれだけ少なくするかが戦いに勝利できることだと学ばされました。

長年自分が握りしめているものなので、自分の力ではなかなか捨てることができないので
神様に祈っていくことで、その餌が無くなっていき、だんだん強くなっていきます。


③律法主義(祈り)

本来、祈りは自分の本音を言えば良い場所なのですが、
私は「こんな祈りをしたら裁かれるのではないか」という思いが来て、
なるべく綺麗な祈りをしなければならないと思っていました。
今回の集会へ行きたくないと思って神様に本音をさらけ出していましたが、神様はそれで裁くことをせず、
それどころか祈り通りに恵みをたくさん与えてくださいました。

祈りはストレートであって良いのだと、自分の本音をさらけ出して良いものだと分かりました。
本音をさらけ出して祈るほど、神様は答えを早くくださいます。

家では1時間祈ることを決めていました。それも時計を見ながらで、1時間経ったら祈りをやめていました。

例えば、これが愛する異性だとしましょう。
デートをしました。バ――ッと自分が言いたい事だけを言って、1時間経ったら「バイバイ」。
これは愛とは言えないですよね?

本当に愛し合っている人とならば、いつまで話をしていても飽き足らないし、「こんなことがあったよ。
あんなことがあったよ。こんな苦しいことがあったよ。あんな悲しいことがあったよ。」というのが会話であって、
自分が言いたいことだけを言って、相手が言いたいことを聞かずに一方的に話をして「さようなら」では
神様は悲しみます。


③律法主義(行い)

断食に対してとても弱さがありました。神学校にいる頃や、
自分の祈りを聞いて欲しい時に断食をしたことがあるのですが、
断食をしなければ祈りを聞いてもらえないような気になってしまい、
神様が示していないのに断食をしなければいけないと思い、断食をしたことが度々ありました。

みさえ姉から「神様は、取引きの断食は受け取らない」と。
断食は、神様が与えたい時に示すので、断食しなさいと神様に言われた時にしたら良いということを
教えられて、自分の思いで断食するのは辞めようと思いました。これもある意味、不信仰になります。
「断食をしないと祈りを聞いてもらえない」。そんな神様ではないです。

律法主義というものは、自分の心の中にある欲をサタンは利用してきますし、
結局それは自己満足でしかないです。

私が律法主義のことで悩んでいる時に神様から与えられた聖書箇所が次にあります。

【ローマ8章15節】

神様は私たちに恐怖を与えることはありません。それは私たちは神様の子どもだからです。
「お父さん」と言って祈ることができる権利を与えてくださっています。


④神様に対しての間違ったイメージによる恐れ

神様は偉大な方で天地万物を創造されたお方なので、恐れるべきお方ではありますが神様は愛のお方です。

しかし私は「神様=恐ろしい方」というイメージの方が愛よりもはるかに大きくなっていました。

この4日間は祈り、聖書を読み、交わりをしていました。
そして近所にいる開拓伝道を始めて5年経つ韓国人の牧師先生が来られていました。
それぞれが自分達の祈りをしていましたが、最終日に牧師先生が「神様からの思いがきて、
あなたたちに手を置いて祈ってもらいたいです。」と言われ、異言で祈りました。
その時にその牧師先生の悲しみや苦しみが伝わってきて涙が出てきました。
牧師先生は開拓伝道をして5年ですが、初心者ばかり来るのでどのようにしていったら良いかがわからない
ということと、旦那さんは神様を信じていなく、会社員でしたが1年前から失業してしまいそういう意味でも苦しく、
そういう話をしながら分かち合いました。

そして最後に牧師先生が私たち1人1人のために祈ってくださいました。
その牧師先生の預言の言葉が「あなたの足の周りに子供たちが見えます。あなたにはその働きがありますね。
だからその子達のために祈っていきなさい」というものでした。

ここの教会でも同じ言葉をいただいているので、神様から来たものだと安心して
そして神様が導くから大丈夫だよという慰めと励ましの言葉が大きくて、
神様はこのために私たちがその牧師先生を祈らせてくださったんだと感じました。

【ローマ8章34節】

【ルカ22章31-32節】


イエス様ご自身が私たちのために祈ってくださっています。
私たちが間違った道に行かないように、とりなしをしてくださっています。
イエス様は私たちの目線に立って、分かるように教えてくださる方です。

この教会でも、他の教会でも他のクリスチャンを見た時に、
自分にはない賜物を持っている人を見ると、やっぱり自分と比べてしまって自己卑下をしてしまいます。
自分よりたくさん働きをしている人を見ると、自己卑下をしてしまったりしますが、
神様から与えられている使命や命令・賜物は1人1人違うんですね。

神様の命令に従った時に、神様はたくさん恵みを与えてくださるお方です。
従順することによって神様はそれ以上の大きな恵みを与えてくださいます。

罪を悔い改めたら神様は赦してくださいますが、
じゃあ愛の神様だから罪を犯しても赦して下さるだろう。という考えは間違えています。

また、裁かれたくないから罪を犯さない。
これも神様からの目から見たら悲しんでおられることだろうなぁと思います。
わたし(神様)はこんなにあなたを愛しているのに「裁かれたくない。
だから罪を犯しません。」ということだけでは、神様から見ると、神様から本物の愛を受け取って、
そしてその中で罪を犯さないで真理の道を歩んで欲しいという思いからは
自分の思いがズレているのではないでしょうか。 ( ´_ゝ`)

2012.8.26
聖日礼拝メッセージ

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サタンとの戦いに勝利する!

テーマは『霊的戦いに勝利するために』です。

【ヨシュア記5章2-5節】

6章に大きい霊的戦いが出てきます。神様から出たものが霊的戦いです。
土地を奪うためにする人間の戦いではなく、滅ぼさなければならないサタンの勢力に対する戦いです。
聖なる霊的戦いであります。

イスラム教はアッラーの神の為と言いますが、自分達のために人を殺したりテロを起こしたりします。
そういうことをして自分達は天国へ行きたいと思っています。

聖書に出てくる霊的戦いは神様からの指示があります。
旧約聖書を読むと、戦いがとても多いですが、実際の戦いであります。
霊的戦いに対して一番偉大な教材は旧約聖書であります。
新約聖書はさらに範囲が拡大されて霊的戦いのことを主が語っておられます。

しかし新約聖書の霊的戦いをするには、旧約聖書に出てくる戦いを学ばなければならないです。
旧約聖書を通して主の戦いの姿を見せて、私たちはそれを学びなさいと言っておられます。

戦いに負けたことが一度ありますが、それを探ると何故負けたのか原因が出てきます。
そして勝利した戦いは、勝利した秘訣が書かれてあります。

旧約聖書は霊的戦いで勝つために学ぶ点が多いです。
エリコは、とても恐ろしい町です。
そこには強い軍隊やすごい城壁があり、彼らの力では勝利することは不可能であります。
イスラエルの民たちは武器を持っておらず、戦いの経験もなく、40歳以下の者でありました。
その中には女の人や子供もいました。

この状況の中、神様はどうやって勝利に導いたのでしょうか。
神様の命令がありました。戦いの前にまず させたことは、割礼をしなさいということでした。
これは人間的な思いで見たら、とても愚かなことであります。

割礼というものは、神様がアブラハムと契約を結んだ時に語った1つの印であり、神の民になる契約です。
神様との関係をもう1度整理し、新しくしなさいということであります。

【コロサイ書2章11節】

神様の前で無力な者、自分を否定する者、神様だけに頼る者、こういう者に神様は霊的戦いで
勝利を与えてくださいます。

割礼を受けた者らしく生きていかないといけません。
心が大切であります。心は聖霊様が住む「神の神殿」であります。
その神殿の中に神様がおられますので、私たちは割礼を受けないと聖霊様が住むことができないのです。 
私たちの肉のものを十字架につけなければならないです。
肉の手段を捨てなければ、本当の意味で割礼を受けた者ではないということになります。

【コロサイ書3章5-10節】

今あるべき姿は3章10節のことばであります。

サタンを恐れたりしますが、恐れはサタンが持ってきたものであります。
しかし、神様はサタンを恐れる必要がないとおっしゃっています。
なぜなら、当然守らなければならない神様の言葉を、自分達が守らないために受ける神様の御怒りの方が
大きいからです。
サタンがもたらすものよりも、神から来るものを恐れなければなりません。
私たちの身体も魂も殺すことができるのは神様であります。
サタンよりも力ある神様を恐れないといけないです。

神様に助けを祈り求めたら、助けてくださいますが、
しかし私たち自身が神様の敵になって神様の怒りを起こしてしまうならば、誰も助ける者がいないです。
サタンが助けてくれますか? ――サタンは助けるものではないです。私たちが滅びることをサタンは喜びます。

戦う時に、神様が味方である時に、私たちは勝利することができます。
霊的戦いは神に逆らう勢力に対する戦いであります。

なぜ私はいつも霊的戦いに勝利できないのか?なぜ神様は私を助けてくださらないのか?
あなたは本当に割礼を受けているのか?神様との関係であなたはどうなのか?あなたは私に従っているのか?
もし逆らっているのなら、いくら求めても神様は助けることができないです。

神様が一番悲しがるのは、既に自分がサタンのところに行っていることに気付いていないことです。
目が見えない、自分がどこにいるのかもわかっていないことです。

【申命記20章4節】

神様との関係を正しくするならば全ての戦いで勝利を与えてくださる神様です。

旧約聖書の霊的戦いで勝利したものは、神様の指示に全ての民たちがその通りに従いました。
そして神様に献身しました。すると100%その戦いは勝利で終わりました。

指導者も民も、祈りながら神様に作戦を聞くと必ず方法を教えてくださいました。
エリコの戦いでも神様の方法に従ったことで勝利することができました。
戦いに負けた時は、神様に従わなかったことが原因なのに、神様につぶやきました。
敗北の理由は神様ではなく、民たちにありました。従わなかった罪があるからです。

【Ⅱコリント10章3-4節】、【エペソ6章10-12節】

聖徒たちの霊的戦いは常にあります。
この時に私たちは「サタンを追い出さなければ」と考えたり、
自分を苦しめる周りの人達をターゲットにして「あれがサタンだ」と他人と戦い始めます。
しかし、それだけが霊的戦いではないです。

一番強いものは「常にあなたの内側にある」と神様が語っておられます。
私たちが戦うべき相手は、外部の勢力ではなく信仰生活で起きる
自分の内側にあるものとの戦いが一番しなければならない戦いであります。

①肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢
これは御父から出たものではないです。神様から出たものなら戦う必要はないです。
しかし、神様から出ていないものが私たちの中に存在するなら、それはどこから来たものでしょうか?
――それは、この世(悪霊)から来たものです。

私たちには肉の欲、目の欲がありますが、それらは神様に対して戦いを挑むものです。
肉の身体を脱ぎ捨てなさい、そしてイエス様から心の割礼を受けているのに、それを持つならば
再び古い者に戻ったということになります。
サタンと共に仲良く歩んだ時の姿に戻っていることを意味します。

こういう思いが出てきた時に、サタンに立ち向かっていかなければならないです。
そうしないと肉の奴隷になってしまいます。
霊的戦いを軽く考えるならば、自分の命が取られることを意味します。
サタンの目的は、「盗む」、「滅ぼす」、「(魂を)殺す」です。
わずかな肉の欲のために、あなたの大切な永遠の命を手放すのか?
肉の欲を殺しても殺しても常に出てくるので、これは激しい戦いになります。

②悪からの誘惑
サタンが私たちの心に植え付ける色んな想いです。
不信感、疑い、憎しみ、怒り、不安
これは私たちの想いにサタンが常に入れるものです。悪を行うように誘惑するものです。

良い想いは神様が与えてくださいます。私たちが良い行いをするためにみことばを入れます。
そうすると心が満たされていきますが、悪い想いは全てサタンが入れる悪いものです。
私たちは自分の心を守らなければならないです。サタンの誘惑に乗り、心に入れてしまうと罪を生みます。

③罪との戦い
罪と知っていながら、留まっているなら全てを失うので立ち返らなければならないです。
罪の奴隷になると、さらに罪を犯します。ついには心が死んでしまい、
良心が麻痺されて、罪を犯しても何にも思わなくなります。そうなると完全に神様から切り離されてしまいます。
私たちは罪を犯さずに生きる人はいないですが、しかし罪を犯したならば悔い改めて立ち返り、
罪の奴隷になってはいけないと神様が語っておられます。

罪は楽しいだろう?やり続けなさい。神様を信じてみことばに従って生きるのは、しんどいだろう?
短い人生、喜び楽しみながら快楽を求めながら生きなさい。
そして肉を喜ばせる言葉に誘惑され「神に従うのはしんどいな~、もう ほっといてくれ」となってしまうと、
その先は自分で刈り取らなければならないです。
他の者が刈り取るのではなくて、自分が蒔いたものは自分で刈り取ることになります。

しかし戦って私たちが神様の言葉に従っていくならば、神様が共に闘ってくださいます。
神様が戦うので負けることは有り得ないです。霊的戦いは自分の永遠の命にかかっています。

戦いそのものは楽ではないです。
しかし主は、楽ではない中でも神様に頼るならば、神様は力を与えて勝利することができます。

私たちは1週間に1回は礼拝に参加をしてみことばを聞きながら賛美をしますが、
これは軽く考えてはいけないです。これは戦いの1つの武器であります。

しんどくて参加したくない時こそ、それは肉の想いでサタンに抑えられていることなので
神様がいるところに行かないと、さらにサタンによって抑えられていきます。
礼拝の場所ではみことばを宣言し、賛美があるのでサタンは追い出されていきます。
来る時は肉体はしんどいです。しかし神様は、しんどい時に1人でどうやって戦うんだ?
サタンは私たちが神のところへ行かないように策略を持って働きます。

【詩篇149編5-9節】

礼拝の中でサタンを縛ります。知恵を受け、神様の助けを受けて勝利するために礼拝に来なければならないです。
その想いで来るならば、神様は帰る時に必ず勝利させてくださいます。
だからサタンに騙されてはいけないです。
サタンの誘惑であり聖徒たちが聖日礼拝に来ることは神様との契約であり、神の民である印であります。

本当に心に割礼を受けている者は、神様の安息日を守り、神様に祈らないといけないです。
もちろんこの複雑な世の中に生きているので、どうにもならない時もありますが、
それ以外の理由で、行けるのに自分の肉に負けてサタンに騙されて行かないならば
霊的戦いに負けたことを意味します。

ある牧師が「サタンを縛ることをしているんですか?そんなことをしてはいけない」と言っていました。
そういう牧師の教会は悲惨であります。サタンはやりたい放題です。
聖書にはこのように書いてあります。「悪魔に立ち向かいなさい。」、そして「戦いなさい」という言葉もあります。
私たちはサタンが多く働くところで生きているのに、戦わないならば奴隷になってしまいます。

霊的戦いに勝利するために旧約聖書で学び、負けた戦いにも何故負けたのかを知ると、
そこに自分の姿が出て来ます。
従わなかったから、欲を出したから、罪をそのままにしたから・・・いつまで経っても勝利できないです。

肉を叩いて潰して、聖霊に服従させなければならないです。
もし自分の想いのままに生きるならどうなるか、士師記を読めばわかります。

神様を恐れてください。そして神様が語った通りに指示に従ってください。そうするならば100%勝利します。
日々戦うと、どんどん新しい者に変わっていきます。 ( ̄‥ ̄)=3 フン

2012.3.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様に褒められた教会の働きとは?

テーマは『神に褒められた教会』です。

【ヨハネの黙示録3章7-13節】

1人1人集まったものが「教会」であり、建物を指すことではありません。

7つの教会が出てきますが、それぞれ教会の働きによって褒め言葉や叱責の言葉、
または褒め言葉と叱責の両方の言葉が与えられたところがあります。

その中でフィラデルフィア教会から学ぶことがいくつかあります。

神様は日々、全ての教会に関心があります。
信徒たちがどこを見ているのか?(心の中や状態です)

神様は、教会の働きや規模を見ておられるのではなく、そして人数が多いからといって喜ぶことはありません。

外から見ると豊かな教会ほど、褒められることはありません。

「世の基準」ではなく、「神様の基準」によって褒められたり、叱責されます。

【ヨハネの黙示録3章8節】

小さい力でしたがフィラデルフィア教会は、神様に褒められました。
私たちは「力がないから出来ません」と勝手に思い、言葉を捨ててしまいます。

私たちが最善を尽くしているのかを神様は見ておられます。
「力がある、ない」の問題ではなく、1つの力を使い切ることです。
忠実なしもべ→最善(100%の力)→神様は喜ばれます。

からし種ほどの(ほとんど目に見えないくらいの)信仰が自分自身には無いでしょうか?
― ありますね。
大きな働きはできませんが、みことばを守ることに大きな力は必要ありません。

神様を敬えば出来ることです。
みことばを、そして神様を恐れないから、聞く耳で聞いていないのです。
「この働きは自分ではなく、誰かがやれば良い」。

愛しなさい。 しかし、愛したくないから愛することをしません。(妨害する思いが出て来ます)

神様が語った言葉なので、出来るように努力していこうと思うようにしましょう。

ドラッグストアの前で通行人に大きな声で呼び込みをしている店員の姿を見ますが、
これも初めは恥ずかしいという思いがありますが、店長から言われたら自分の思いを殺して、
上の人の言葉に服従します。
このように、私たちは神様の言葉を恐れなければいけません。

【箴言13章13-14節】

神様の言葉を守ること 守らないことは、私たちの命に係わります。

言葉に従わないままで良いでしょうか?この世では大丈夫かもしれませんが、その後の永遠の命に係わります。

神様の言葉に重みを感じなければいけません。
神様の言葉を聞いたら「やってみます。」という言葉が口から出なければなりません。 
そういう人は従順している人です。

フィラデルフィア教会は、最善を尽くし、言葉を守りました。
このことを主が喜ばれました。たとえ失敗をしても、神様はそのことに関しては何も語りません。

神様が語ることばに、私たちが初めから無関心、また不満を言うのなら一番悪い状態だと言えます。

フィラデルフィア教会では、主の御名(イエス様)を裏切らないで献身をしました。
献身とは、神様にいつも変わらぬ心で仕えることです。

【使徒の働き4章12節】、【マルコ16章17節】

主の名を汚してはいけないです。それは罪になります。主の名以外を呼ぶならば、「偶像崇拝」になります。
命をかけて主の名を呼び、それを最期まで否まないことです。

【ヨハネの黙示録3章10節】

迫害の中で耐えるのは、人から慰めや励ましの言葉を受けても小さいですが、神様の言葉は力が強いです。

【ヘブル4章12節】

忍耐の言葉を握って耐え忍びます。
不平不満をつぶやいて、ただジッとするのではなく、常に神様に告白してから耐えることです。
そうすると天が開かれるので恵みがきます。

【ヨハネの黙示録3章9節】

髪の毛1本も触れさせず、相手が恥をみることになります。

【ヨハネの黙示録3章10節】

小さい試練を通して神様が私たちの信仰を見ることがありますが、イエス様が再臨される前の大患難の時、
私たちをそういう目には遭わせません。

【ヨハネの黙示録3章11節】

主のために献身し、みことばを守る人に冠が与えられます。
この世、サタンに服従するならば全て奪われていきます。

【ヨハネの黙示録3章12節】

「新しいエルサレムの名~」を消すことがなく、大きな祝福を彼らに与えられます。
基本を守ることが一番大切です。
1人1人持っている小さな力を最善を尽くして使い、神様を否まず忍耐で望むならば、
フィラデルフィア教会のように恵みある教会になります。タラントを活かして働くと神様は喜びます。

このような教会になることを目指して1年間行動をし、決心して自分の働きをするようにしましょう。

2012.1.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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