からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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クリスチャン

無効な悔い改めと 真の悔い改め

テーマは 『 無効な悔い改めと 真の悔い改め 』 です

【使徒の働き3章19節】

そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

2、3日でも髪を洗わないと、髪は脂っぽくなり 絡まりますし、臭いもします。

同じく 体も洗わないと、だんだん臭くなります。


本人も気持ち悪く感じますし、周りの人も臭いので近付きたくありません。

ですから私たちは嫌でも毎日のように体を洗います。

そして、それは毎日の習慣になってあります。


「なぜ洗わないといけないですか。」と言う人もいません。

それが当たり前になっているからです。



“悔い改め” は、神を知らない人にとっては「それ何?」と言われるでしょう。

「何を悔い改めるの?私、何か悪いことでもした?そんな覚えないけど。」と、そこで おしまいですね。



しかしクリスチャンになった人は、そうであってはいけないです。


神が忌み嫌うのが罪であることを知って、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかったことを知っているならば、罪の問題を軽く考えてはいけないです。


悔い改めは、“心を洗うこと” で、心に付いた汚れをきれいに洗って、主に立ち返ることです。


そして自分の考え、価値観、行動パターンを、神の民らしく変えることです。


悔い改めは、単純に感情の変化程度ではなく、生き方の体制が変わることです。


聖書を読むと、様々な人の悔い改めの姿がありますが、神が受け入れた悔い改めと、そうではない悔い改めがあります。

そしてその結果も全然違います。

無効な悔い改めが多いことにも気付きます。


悔い改めがなかった人、無効な悔い改めをした人、神が認めた真の悔い改めをした人を調べます。


神は罪を赦す神なので悔い改めを待っておられます。





アダム、エバ、カイン、イスカリオテ・ユダなど
(悔い改めがなかった人たち)




人類最初に罪を犯し、世界に罪をもたらしたアダムとエバは、罪を犯した後に 悔い改めた姿がありませんでした。


罪を犯した後に、自分たちが裸であることに恥を感じましたが、罪がない時には 神の前で裸であっても恥ずかしいとは思いませんでした。


しかし罪を犯した後に恥を感じました。

以前とは違う心の変化に彼らは気付きました。


神の言葉に違反したことで生まれた恥という思いに対して、神の前に出て 罪を悔い改めなければいけなかったのに、ふたりは悔い改めず、自らがその問題を解決しようとしました。


その方法とは 次の箇所です。


【創世記3章7節】

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

自分たちの方法で罪を隠せると思いました。

しかし、それで罪が隠れることも消えることもありません。


彼らの息子であったカインは、弟を殺した最初の殺人者ですが、彼も親と同じく悔い改めがありませんでした。


神は彼に現れて聞きました。(創世記4章9節)

「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」
それに対して、彼の答えは「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と嘘を言い、開き直りました。


神はすべてを知っていました。

神から罪を指摘されても彼は悔い改めませんでした。


ただ 自分にくだる罰がこわくて、自分のいのちが守られるように 必死に神に求めました。

悔い改めなかった彼らは、今どこにいると思いますか?

神の恵みによって 天国と地獄を何度も訪問した ある牧師先生から聞きました。


ある時にどうしても知りたくて、イエス様に聞いたことが「アダムとエバは今どこにいますか?」でした。


それから御使いたちに案内されて行った場所は地獄でした。

そこでアダム、エバ、カインを見ました。

とても悲惨な姿でした。


長い間、彼らがそこで苦しみを受けていることが良くわかりました。


罪を悔い改めない人は、誰でも彼らのように地獄に行きます。


聖書の神のことばです。

イスカリオテ・ユダはどうでしたか?


彼は主の十二弟子の一人でありながら、お金でイエス様を敵に売りました。

その後に彼は自分の行動を後悔しました。


主の前で悔い改めたのではなく、彼も自らの方法を取りました。

それは自殺でした。
彼は首をつって自殺しました。


それで罪が無くなったでしょうか?

神が求めるのは、そういう事ではないです。


神に立ち返って悔い改めることです。


神は、赦す用意をして待っておられます。


立ち返る場所は主であって、自分のいのちを絶つことではないです。





ペテロの悔い改め
(真の悔い改め)




イスカリオテ・ユダと同じく、ペテロも十二弟子の一人でした。


彼もイエス様のことを、3度も “知らない” と嘘を言いました。


それも最後は、呪いながら 「自分はイエスを知らない」 と言いました。

ユダも悪かったですが、ペテロもそれに負けず悪かったです。


しかし彼が自分に語った主のことばを思い出した時に、彼の中に激しい心の動揺がありました。

主のことばで、自分が犯した罪の重さに気付きました。


それで彼は何をしたでしょうか?


【マタイの福音書26章75節】

そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

この涙は、悔い改めの涙です。

心から出てくる涙こそ、悔い改めの涙です。


今、クリスチャンに必要なものは このような涙です。


涙が枯れているならば、その心も枯れています。

悔い改めの涙が必要です。


【第2コリント7章9-10節】

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったからです。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。




サウル王の悔い改め
(無効な悔い改め)




サウル王は、最初は謙遜な人でした。

神は彼をイスラエルの初代王にしました。


しかし彼が王になってから、彼は神に対して不従順するようになりました。

神の命令を聞いても、それを素直に行ったのではなく、勝手な解釈をして不従順の罪を犯しました。

そして、それを罪とも思わなかったです。


サムエル預言者から叱責を受けた時に、すぐに民を非難して民のせいにし責任転嫁をしました。


また 神との関係よりも 人との関係を重視して、神に犯した罪の重大さに気付かなかったです。

そして神からの厳しいことばを聞いた後も、神に不従順したことを悔いるよりは 自分が受ける損失に対して悲しみました。


彼は罪を指摘された時に次のようなことを言いました。


【第1サムエル記15章24-25節】

サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。

どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」

悔い改めているように見えますが、実際は口先だけの悔い改めで、彼は神に立ち返りませんでした。

自分の面目を保つためだけでした。


その後、彼はますます神に逆らいながら罪を犯す者になり、完全に破滅してしまいました。


真の悔い改めがないと、心はさらにかたくなになり、真理に逆らいますし、霊的には盲目になり、闇の道を歩み、最後は永遠の滅びの刑罰を受けます。





ダビデの悔い改め
(真の悔い改め)




ダビデも神の前に、姦淫の罪と 殺人の罪を犯しました。


神は、彼が自ら悔い改めることを願って しばらく時間を与えましたが、彼は自分の罪を隠していました。


その間、彼は精神的にも肉体的にも衰弱していきました。

喜びも無くなり、力も無くなりました。


それを見て、神は預言者ナタンを彼に遣わしました。

預言者は彼の所に来て 祝福のことばは一言も話さず、罪を悟らせるための言葉だけを語りました。


その時、ダビデは厳しいことを言うナタンを殺すことも出来ましたが、彼はナタンの忠告に感謝しました。


後に、ダビデは自分の子に ナタン という名前まで付けました。


ダビデは言い訳をせず、忠告を受け入れて、神の前に涙を流しながら 徹底的に自らの罪を悔い改めました。

その時の告白が詩篇51編です。


【詩篇51編1-4節】

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

ダビデはそれ以来、罪から離れ、神の御心に従って歩み出しました。


真の悔い改めは 行動が伴い、悔い改めにふさわしい実を結びます。


神は その人の罪を赦し、いのちを与え、新しい心と霊を与えます。

携挙されるためにも、徹底的な悔い改めが必要です。


天国に入るためにも、救いや祝福を受けるためにも、悔い改めが最も必要であることを自覚しましょう。


悔い改めをないがしろにしてはいけないです。
。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン


2017.4.2
聖日礼拝メッセージ

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キリスト、神の愛―その愛を伝えるのがクリスチャン

テーマは 『 キリスト、神の愛―その愛を伝えるのがクリスチャン 』 です


本当の意味でクリスチャンとは?

イエス・キリスト(神)を愛する人、人々(互い)を愛する人

だれでもイエスを愛する人は、イエスのことばを守ります。


【ヨハネの福音書14章23節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちは その人のところに来て、その人とともに住みます。


【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。



【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を 彼に現します。」


【ヨハネの福音書15章10節】

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、 わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。


【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。


イエス様のことば(戒め)とは?


【ヨハネの福音書15章17節】

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


【ヨハネの福音書13章34-35節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もし互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。




イエスへの愛、人々への愛を通してこの世にイエス、その愛、そして私たちがイエスを愛するクリスチャンということを知ってもらう


なぜこの世に知ってもらうのか?


【ヨハネの福音書3章16-17節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

イエス様がこの世に来た意味、そして神様がわざわざ自分の愛するひとり子をこの世に送ってくださったその意味は、つまりこの世が救われるため。


この世とは?

この世界のすべての人。全員。つまりあなたの周りの人々、家族、友達、同僚、知り合い、近所の人、道端を歩いてる人、すべてです。


人々が救われなければならない。
人々がこのイエス様が来てくださったこと、それほどまでに神様が私たちを愛してくださっていることを知らなければならない。


日本に生きていること、そのことのすごさ

キリストの愛を伝えたくても周りにいなくて伝えられない人もいる。日本に来て福音を伝えたくてたまらなくて、お祈りをささげて、日本語を一生懸命勉強し、お金も一生懸命ためている人がたくさんいる


あなたは本当に隣人を愛していますか?

本当に愛するのならばその人々が滅びていくのを見て平気でいられるわけがない。

イエス様が望んでおられることは、私たちだけがイエスを信じ愛し 救われるのではなく、この世のみんながイエス様を知り、その愛を知り、人々が救われること。

その愛を伝えるのがクリスチャンである。


どうしたら伝わるのか?


【ヨハネの福音書13章34-35節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。


愛を通してこの世はイエスの愛を知る


【ヨハネの福音書15章5-9節】

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。


イエスの愛にとどまり、またわたしたちが求めることでこの世はイエスの愛を知り、実が結ばれ、神様を栄光をお受けになる。


どれだけうまく伝えるか、どれだけ知識がいるかではない。
もちろんうまく伝えること、たくさんの知識を持って伝えることも大切である。

だけど一番大切なのは愛である。その人、人々を愛すること。

つまりその愛する人々すべてが救われること。
自分の楽しみ、自分の喜びのために生きるのではない。


この世のすべての人々が救われてほしいと思っている神様

ひとり子イエス・キリストをこの世に送り出し、十字架で死なせるほどの自分の中の最大限、ベストをしてくださった神様、また自分のいのちをわざわざこのような罪深く、自分のことばかりを愛している私たちのためにすててくださったイエス様。

今もすべての人が救われてほしいと思い、祈ってくださっているイエス様。

その大きな愛のために私たちも もっと神様を愛し、人々を愛し、その救いを伝えていかなければならない。

愛を持ってすること。
それがすべて。(・◇・)ゞ

2015.1.4
聖日礼拝メッセージ

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今、悔い改めなさい

テーマは 『 今、悔い改めなさい 』 です

【ヨハネの黙示録3章19節】

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

今まで「悔い改めなさい」というメッセージを何度かしたことがあり、最近では3月に語りましたが、
その時の悔い改めのメッセージと、今回の悔い改めのメッセージは神様は違った形で語ってくださいました。

イエス様は教会や信徒に対して、本文に書かれてあるように「熱心になって悔い改めなさい。」と語りました。


ある人がイエス様の導きで天国に連れて行かれました。

天国の素晴らしさを見て感動しました。
そして天国をすべて見せた後に、イエス様は小さな箱のようなものを持ってきました。
その箱を開けてみると、そこにはムチが入っていました。

天国ではムチは相応しくないものですが、イエス様はムチを取り出して近くにあった椅子を思いっきり叩きました。
イエス様がムチを打ちながら語った言葉が「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」でした。


これは悔い改めない神の子どもたちに対し、神様は懲らしめるために愛する者をムチで打つのだということをイエス様が見せてくださいました。

「今、悔い改めなさい」という言葉を聞いている人は幸いです。既に地獄へ行っている人にはそのチャンスがないのです。

悔い改めるチャンスを逃した人が地獄に入り、そこで永遠に苦しまなければならないのです。


教会にこのような言葉を送るということは、信じた後は誰でも罪を犯したり倒れたり堕落したとしても関係なしに天国へ行けるのだという言葉を否定するものです。

もし、罪を犯しても天国へ行けることが事実ならば、イエス様は「熱心になって悔い改めなさい」と言う必要がないです。

しかし聖書には悔い改めなさいという言葉がたくさん書かれています。


まだ(イエス様を)信じていなく罪の中にどっぷりと浸かっている人に対しては当然のように「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから 信じて救われなさい。」と伝えます。私たちもその言葉によって救われました。

神様は、神様の子どもになった人に対しても、「熱心になって悔い改めなさい。」と伝えます。

ムチ打たれても悔い改めないならば、その後はないです。神様は命を取ります。
そして行くところは地獄であります。




地獄の証



以前に話をしたことがありますが、クリスチャンが地獄を見た時に、そこには多くのクリスチャンがいることにびっくりします。

イエス・キリストを信じなくて地獄へ来た人もいますが、中には以前クリスチャンだった人たちが地獄にいるので きっと驚くと思います。


イエス様は多くの人々に天国と地獄を見せていますが、その目的はただ1つです。

人々が信じないからです。
世の中の人たちは地獄など存在しないと思っていますし、クリスチャンたちは “私たちは何をしても天国に入れる”と考えており、地獄は関係がないと思っているので イエス様は天国と地獄を見せて、裁きがあることを伝えているのです。

そして地獄を見た人たちは“他の人たちに伝えなさい”ということで頻繁にそのようなことが起きています。


終わりの時代ですので、誰も地獄には行って欲しくないという強い思いが イエス様にはあります。


ある姉妹が、地獄を見た時にびっくりしました。

それは以前 同じ教会にいた献身的な信徒で、イエス様を愛し、よく仕え、たくさんの奉仕をし、聖書に書かれている善行もたくさん行っていた人でした。

捧げものもきちんと捧げ、貧しい者にも愛をもって施しをした人なので、誰が見ても天国でイエス様に歓迎されて冠を受けて一番良い所に座っていると思われるような人でした。

何と その人を地獄で見付けました。それを見た姉妹が心に激しい動揺を感じました。


火の中で燃えている姉妹を見て、イエス様に「クリスチャンも地獄に来るんですか?彼女は評判の良いクリスチャンでした。なぜ あの姉妹がここにいるんですか? 信じられません。私たち教会の人々は彼女が天国でたくさんの報いを受けていると思いました。」と言いました。


そこでイエス様は、このように語りました。

“彼女はサタンの嘘に騙されていたのだ。
サタンは彼女の耳元で「大きい罪は悔い改めても、小さい罪は悔い改めをしなくて良い」と囁き、 彼女は大きな罪と小さな罪を自分で区別していた。”


私たちは大きな罪は神様の御前で悔い改めますが、小さな罪には罪責感を感じますが それが命取りになるとは思っていないのです。

しかし彼女は悔い改めをせず、小さなことだと思い それを延々と続けました。
サタンが彼女を騙していたので、神様は何度も“悔い改めなさい”と語りましたが、彼女にはサタンの言葉の方が都合が良かったのです。

なぜなら 自分が犯している小さな罪を捨てたくなかったからです。
ずっと小さな罪を続けて、最期まで小さなことだと思って悔い改めなかったのです。


ですから神様は「彼女がわたしを愛したとしても 彼女は最期までわたしのことばに耳を傾けず、罪を持ったまま死んだ。だから地獄へ来たのだ。」と語りました。

私がその証を読んでいる時に、突然 心の深い所から震えるほどの恐怖心を抱きました。それは「自分が地獄に落ちるのではないか」という恐れでした。
今までの罪は悔い改めて生きていますが「私はサタンに騙されていることはないでしょうか?」と。主の前で「私の罪を赦してください。」と、すぐに悔い改めのお祈りをしました。


今まで神様に甘えて「天国へ行くのだ」と思っていましたが、地獄へ行った彼女が立派な信仰生活をしていたにも関わらず、そのような人も地獄へ行くならば 私も例外ではないと必死に震え上がりながら祈りました。恐ろしくてまるで自分が地獄にいるような感じがしました。





そこで主が語った言葉があります。次の箇所です。


【Ⅰコリント9章27節】

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私が他の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

自分のからだを打つということは、罪と激しく戦う姿です。
神の言葉に自分の肉の思いを従わせるのです。

パウロは人々に福音を伝えていますが、パウロは日々 自分のたましいを見ながら罪と戦い、悔い改めていました。


しかし多くの牧師や伝道師が地獄にいる姿があります。
それは他人に伝えておきながら自分は落ちている姿です。


ですから自分を聖める為に、日々自分を打ち叩かなければならないです。
他人を叩くのではなく、今 自分が犯している罪は何かを調べて打ち叩くのです。そして立ち返ることです。
パウロがやっていたことは毎日毎日悔い改めて罪と戦い自分自身を罪から守ったことでした。

パウロの言葉に常に出てくるのは「勝利」であります。
それはただ地上の働きを勝利したという意味ではなく、神様のみこころを正しく行い、自分自身が救われて天の御国に入ったということです。


罪を行なう行為が聖霊を悲しませる行為だと語りました。
神の御霊を悲しませてはいけませんとエペソに書かれています。

何をしたら聖霊が悲しむのかと言うと、罪を犯して悔い改めず放置することが聖霊様を悲しませることです。

罪を行う行為が 不法を行う姿であります。


神様は罪の大きさは(大きくても小さくても)関係がないと語りました。
罪は罪であります。「小さいから汚れではない」ではないです。

イエス様は悔い改めない人の姿はこうであると語った箇所があります。次の箇所です。


【マタイの福音書5章13節】

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、 外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

“塩が塩けをなくす”ということは、外から何かが入ってきて塩けがなくなったのではないです。
そうではなく内側で何かが起きたことであります。

イエス様はこれは小さなことではなく1番の犯罪だと語りました。内面的深刻な危機です。

外から来る誘惑よりも、自分の中に悔い改めをしない心が 塩けをなくしているのです。
自分たちの中にある悔い改めない心こそが最も強い敵です。心が不法と汚れで満ちています。

私たちが悔い改めるなら聖められて回復します。


しかし、これは小さなことだと思って「これくらいイエス様ぐちゃぐちゃ言わないでください。」と、他人から言われても「皆がやっていることだ。これが私の命を取るとは思えないわ」と心を頑なにして相変わらず同じ生活をするのです。


これが命取りになるということはアモス書に書かれています。

【アモス5章19節】

人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家に入って手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。

外から誘惑がたくさん来ると、私たちは誘惑されてはいけないと吠えたける獅子の前から逃げます。熊のように襲うものもあります。
しかし家に入ったから安心・大丈夫だと思っても、家の中にはもっと大きな敵がいるのです。

家の中というのは、自分たちの心の中のことであり、外よりも内にはもっと恐ろしい蛇がいるのです。


蛇はサタンです。獅子や熊よりも蛇の方が恐ろしいです。
蛇は大きくはないですが、毒を持っているので咬まれたら死にます。

内側にある悔い改めない心、これこそがあなたの命を奪います。


私たちは誘惑されて 時には倒れることがあり、外側から来るものにはすぐに気が付き悔い改めますが、自分の中で ずっと共に住んでいるのに、存在すら気付いていない蛇が咬みついていることに気が付かないのです。

隠れた罪も神様はすべてご存知です。
私たちが隠している部分にはそこに蛇が住んでいると思わなければいけないです。

偽り、憎しみの心は蛇のようなものだと思っていますか?「あの人が憎い!」という思いがありますか?


しかし神様は愛の方でありますので、神様の中には憎しみがないです。
私たちは神様が持っていないものを自分で持ちながら天の御国に平気で入ろうとするならば、「あなたの心は地獄に相応しい」と言われて天国には入れないです。

皆さんは他人を憎む心がある時に平安がありますか? ――ないですね。


平安は聖霊様が与える心なので、憎しみがあるところには平安が絶対に来ないです。自分が死にたくない(地獄へ行きたくない)なら赦すことです。
これはとても大切なことであります。

「死んでも赦さない」というのは、クリスチャンには相応しい言葉ではないです。





適当に妥協することも神様は罪であると語りました。
なぜなら神様の言葉を自分に都合の良いように解釈をして変えてしまうからです。


教会の中には、聖霊を欺く罪がすごく多いです。
什一献金を正確にしてください。ごまかしていながらも「捧げました」と言うのは聖霊を欺くことであります。
大きな金額が入ったときには もったいないなと思って捧げないのです。

ボーナスが入った時には什一献金を捧げてください。それは収入でありますので正確にしてください。

神様に指摘をされた時に「バレたか」ではないです。それが命取りになるのです。


主の心が激しく痛み、涙を流しているのは世の中にある多くの教会がサルデスのような教会、ラオデキアの教会のような姿であるからです。 教会とは聖徒たちの姿です。


【ヨハネの黙示録3章1-3節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、 わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。 もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

自分では生きていると思っていても、実は死んでいて、目をさましていると思っていても眠っている姿。そして自分は全うしたと思っているのに、神様はそうではないと語ります。

ですから評価が全然違うのです。この時に私たちは(自分の評価ではなく)神様の言葉を聞くことであります。


【ヨハネの黙示録3章14-17節】

また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

私たちは自分のことをきちんとみことばに当てはめないので知らないのです。
ですから 悔い改めをしないで放置をして、結局それが命取りになってしまいます。

みことばを読む時に、“これはあの人のための言葉だ ”と思ってはいけないです。


“これは私に語る言葉であるのだ ”と常に自分のことだと思わないならば、神様と私たちは何の関係でしょうか?他人を見ている場合ではないです。


【ヨハネの黙示録3章5節】

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして私は彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない 。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。

いのちの書に自分の名前が書かれていないと、もちろん天の御国には入れないですが、以前に いのちの書に書かれていたのに名前を消されてしまった人も入ることができないです。
いのちの書から名前を消されたら痕が残らないです。


「勝利を得る者は、いのちの書から消さない」と神様が語るということは、“名前が消されることもある”という意味だと私たちは解釈しなければならないです。

私たちが信じた時から、神様は冠と報いを準備してくださっていますが、ある者たちは堕落をしたのでそれらの報いが使い物にならなくなりました。

その使い物にならなくなった物を見て、イエス様は苦しんでおられます。


神様は私たちの姿を見て、悔い改めに導いてくださいますが、悔い改めに導く主の姿を見てみたいと思います。
どのような時に私たちが気付いて悔い改めるべきでしょうか?




みことばを聞く時に罪を自覚する




【使徒の働き2章37-38節】

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。


皆さんがこのような厳しい話を聞いていると、心が刺されると思います。
心が刺されていない人は、聞く耳と心を閉ざしているということで問題であります。

しかし 聞く耳を開いている人は、この言葉が自分の心に刺さると思います。
心が刺されるということは、罪の自覚があるということです。


罪の自覚があるならば、今が悔い改めるチャンスであり、気付いた時に悔い改めないならば、罪をそのままにしている状態です。

気付いたならば、その場で悔い改めて立ち返ることです。
自覚をしたということは悔い改めのチャンスが与えられた恵みであります。

罪を悔い改めなかったために命ではなく、滅ぼされてしまう人たちがどんなに多いか分かりません。




神の慈愛




【ローマ2章4節】

それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

神様の慈愛は、私たちにすぐムチを打たないということです。
罪を犯して まだ悔い改めをしていないのに、神様は裁かずに見てくださっています。

神様は裁き主ですが、裁かずにジーッと見ながら祝福も与えてくださいます。


私たちが「善い者」だから祝福が与えられているわけではないです。これは全て神様の慈愛であります。


神様から何も言われないからと安心して悔い改めをするチャンスを逃して死んでしまうならば、その人は終わりです。

何かがあった時に、私たちはすぐに悔い改めないと、神様の慈愛と忍耐と寛容を無視することになりますので、その過ちを犯さないようにしましょう。




神の忍耐




【Ⅱペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して 忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

主が再臨することは昔から言われていますが、今 主は準備をし、御使いたちは既にラッパを持っている状態です。そして吹く準備も出来ています。

しかし、なぜラッパを吹かないのでしょうか ――?
それは地上にいる神を信じる者たちの準備が まだ出来ていないからです。
ですから神様が忍耐をして延ばしてくださっています。


しかし今は、もうこれ以上は延ばせないのだと何度も語っておられます。

神様の忍耐がある時に悔い改めをしないといけないです。神様の忍耐が切れた時は世の終わりであります。

私たちは悔い改めの時間が与えられている時に、本気で悔い改めなければならないです。
悔い改めをせずに、その時を逃した者が滅びている姿が黙示録に書かれています。


【ヨハネの黙示録2章21-22節】

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

大きな患難は世の終わりです。
最後の患難の時は誰も主を信じることが出来ないですし、生き延びることすら出来ません。


悔い改める機会を与えていたのに、悔い改めようとしなかったということですので、私たちは絶対にそういうことにならないように気をつけなければいけないです。




悔い改めの姿勢




しかし私たちが主の前で悔い改める時に、どのような姿勢で悔い改めるべきでしょうか?

口先だけで「悪かったです。神様、これからはそんなことはしません。」と言うのが悔い改めではなく、
悔い改める時の状態は、このような状態であるとⅡコリント7章9-10節に書かれています。

みなさんが悔い改める時はどうでしょうか?比べてみてください。


【Ⅱコリント7章9-10節】

今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがた悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

「私は本当に罪深い姿であるのだ」と主の前に震えあがりながら罪を告白して、自分の罪ある姿を悲しむ姿で主の前に出て悔い改めることが、神様が受け入れてくださる悔い改めの姿です。


罪のない者は1人もいないです。昨日(罪を)洗っても、今日また罪を犯す――。

ですが、罪を放置しないことです。今日またイエス様に悔い改めることであります。
毎日 毎日、今日が世の終わりかも知れないという思いで悔い改めなければいけないです。






皆さんは罪をどのようなものと思っているかは分かりませんが、私は罪のことを蛇だと思うことにしました。

自分自身が罪を嫌わないならば、罪から足を洗って手放すことが出来ないので「蛇が私を咬もうとしている。追い出してやろう。」と捨てることにします。


ニュースを見ていると、高齢者の万引きがとても増えたそうです。
その記事に書かれている言葉は、“万引き”という言葉が悪いと書かれていました。

万引きと言うと 軽いイメージなので、「窃盗罪」という言葉だと重たく感じて“刑務所へ行くかも知れない”と思えるので言葉を変えないといけないということでした。

「脱法ハーブ」も若者が事故を起こしていても「ハーブ」と言うから簡単に手を出すので、「麻薬」に変えなければならないのと同じです。

ですから 軽い言葉を使うと、人々はそれが重大なことであるにも関わらず、軽く考えてしまいます。


私たちは罪に対しても、軽く聞き流すならば罪の認識がありません。
「罪は蛇なので咬まれたら死ぬ」と警戒をしないと、後でそれによって命が取られてしまいます。


皆さんにとって天国へ行くことはどのようなことでしょうか?

すべてのものを手に入れても、命を失って地獄へ行くなら何になるでしょう。


自分の肉を打ち殺すことは、とても大変なことです。それを神様の言葉に服従させることは1番大変なことです。
しかし 永遠の世界がありますので、それは価値あることです。

イエス様は世界に向けて、教会に向けて、個人に向けて熱心になって悔い改めなさいと語っておられます。

世の中では罪という言葉は使わないです。
教会でも罪のことが語られなければ、その教会は“死んだ教会”であります。


私の教会は死んだ教会にはしたくないので、神様が熱心に語れとおっしゃるので、まず自分に語り 皆さんにも語って目を覚ますように言いたいです。

今回聞いたならば、その後 どうするかは皆さん1人1人の決断です。
命を得るのか、滅びを選ぶか、それは自由であります。

ですが、命を選んで欲しいです。
大したことのない罪の中に留まって 命をないがしろにするのは愚かであります。
ヽ(TдT)ノ

2014.7.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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リニューアルし、読みやすくなりました❤

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聖徒の愛の姿とは?

テーマは 『 聖徒の愛の姿 』 です

【ルカの福音書6章27-38節】

しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。

あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。 上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。

自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。 罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。

自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところが あるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。

返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところが あるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。

ただ、自分の敵を愛しなさい。 彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもに なれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。 赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、 あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

“品格”ということばがあります。
その意味を調べると「その人やその物に感じられる気高さや上品さ」であります。

「男の品格」「女の品格」という言葉がありますが、皆さんは「聖徒の品格」を考えたことがありますか?
また、品格がないことを下品と言います。


「品格のある聖徒と品格のない聖徒」ということになりますが、よく考えてみると品格のない聖徒という言葉はそもそも相応しくないです。
聖徒という言葉自体が、下品な姿ではないからです。


自分の姿を見たときに「品格ある聖徒」なのか「下品な聖徒」なのかを考えてみたら良いと思います。

聖徒の品格の中で一番優れているものは、“愛”であります。


この「愛」というのも、誰もが持つような愛ではなく、人が持っていない“愛”です。
男女の愛ではなく、神様が語るアガペの愛(無限の愛)であります。

アガペの愛を持っているなら、その人はどこから見ても品格ある姿です。


イエス様の姿を考えてみてください。

イエス様の姿は誰が見ても品格ある姿であります。イエス様は着飾ったわけではないですし、高学歴でもないですし、ずっと大工の仕事をしていました。

人々はイエス様のことを「この人が語る言葉には権威がある。」と認めました。
イエス様は愛が溢れ品格がありました。

それはクリスチャンに対しても イエス様は同じことを求めています。
無限の愛をあなたたちも持ちなさい ということです。


【Ⅰヨハネ4章7-8節】

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

もし「私は愛がない」と言い、自分の中に本当に愛がないならば、まだその人は神様を知らない者であります。

神の愛に触れ、神の恵みに触れている人は愛が何なのかを知っています。
それを実際に実行するかしないか以前に、愛が何であるのかを分かっています。

『このような者を神様が愛してくださった。恵みを与えてくださった。』
それを感じない者は心が死んでいる者です。

心が生きている人は神様の素晴らしい愛を感じることができます。


神様は「あなたたちが神の愛に触れてクリスチャンになったのなら、あなたもその愛をもって他人に接しなさい。」と命令されています。


今回の本文、ルカの福音書6章27-38節の言葉は、クリスチャンに語る言葉です。


神を知り、神の愛を受けている者は実行しなさいとおっしゃいます。神様は私たちが出来ないことを無理強いしてはいないです。やろうと思えば出来ることだと思います。

これこそが品格ある聖徒の姿であります。

私たちが下品ではなく、品格ある聖徒になりたいならば実行していかなければならないです。


「自分の力や愛ではなく、神様の愛によって私は出来るのだ」と、クリスチャンは 神によって出来るのです。

愛する姿とはこのような姿です。




1.敵を愛し、のろう者を祝福し、侮辱する者のために祈る(27-28節)



これが出来たのなら、それは愛の姿であります。ある意味、世の中とは反対の教えです。
現在、世界で戦争が起こるのもそういうことであります。赦さず憎しみ続ける思いがあります。

しかし、それは愛の姿ではないです。

ここに出てくる敵、のろう者、侮辱する者とは誰のことだと思いますか?
それをまず知らないと、私たちは誰に愛を示したら良いのか分からないです。

自分が罪を犯した相手ではなく、福音を伝えた時に迫害されたり、のろわれたり、侮辱された相手のことです。


私たちが悪い事をしておいて、その人たちが怒って向かってきた時に、「これが私の敵だ」と言うのは、
それは自分が罪を犯したので自分で刈り取らなければいけないことです。

ここで語るのは、福音に対して激しく反対して侮辱する人に対してのことでなので、きちんと区別をしなければならないです。

そのことが次の箇所に書かれています。


【ルカの福音書6章22-23節】

人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。

その日には喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

イエス様も激しい迫害やのろいや侮辱を受けましたが、彼らと敵対したことがありませんでした。

もちろん弟子たちも人々から迫害された時に無抵抗でした。
しかし、ただ無気力に何もしなかったのではなく、愛をもって彼らを赦し、彼らのたましいのために祝福の祈りをしました。


もしイエス様が十字架の上で自分を殺した人たちに対して「お前たちは地獄へ堕ちろ。一生呪ってやる。」と言ったならば、誰も信じてついて行く者はいないと思います。

歴史にもイエス様の名が残らなかったでしょう。


私たちが行動をする時には「イエス様ならばどうするのか?」と考えるのが行動の基準であります。

イエス様は私たちの模範となってくださいました。

イエス様は十字架の上でも品格があり愛が溢れ、迫害する者のために祈りました。
主の愛は無条件な愛で、その対象も制限がありませんし、その愛も無限です。


自分を犠牲にしてまでも愛した愛です。
神様は私たちにもそれを要求しておられます。

この姿を見て、私たちも自分を迫害する者を愛し、のろう者を祝福し、侮辱する者を祈るならば、それは皆さんの中に愛があるのです。
人々はその姿を見て「この人は本当に愛がある人だ」と認めます。




2.自分にしてもらいたいことを、自分が先に他人にしてあげること



これはマタイの福音書に書かれている黄金律です。

自分にしてもらいたくないことを、他人にするなという言葉がありますが、これは聖書ではなく律法学者からの言葉です。「してもらいたくないことは するな」と否定的な言葉が入っています。


しかし、イエス様は私たちが肯定的に積極的に他人にしてあげなさいと勧めました。


あなたは相手から貰うことを考えるのではなくて、あなたの方から先にその人にやりなさいと語っておられます。

人々は先に「(自分が)受けたい」という気持ちがあります。『あなたが私に先にしてくれるならば、私もあなたにしてあげる。』と、人間の思いはいつもそうです。貰ってから与えます。


しかし、他人を愛する人は違うことをします。

自分の方から相手に先にプレゼントをしたいのです。愛するからその人を喜ばせるために何かプレゼントをしようと考えます。

しかし愛が消えると自分のことしか考えないです。


どの人もそうですが、思いがけないことを相手のためにしてあげると、相手はびっくりするのです。
それを受けながら“その人のことを下品だ”とは思わないです。
また自分への愛を感じるでしょう。人々からの評価は「この人は良い人だ。愛がある人だ。」となります。


その人に愛がないならば、絶対に誰かに手を差し伸べることはしないです。


自分はどうなのかを考えることであります。

自分にしてもらいたいことを考えてばかりいるならば、神様は喜ばないです。それは みことばに反することをしているのです。

愛を蒔くならば、愛を刈り取るようになります。

どんなに冷たい人間であっても、自分が愛を注ぐならば相手の心が変わります。冷たい心がほぐれて愛が返って来るのは聖書の法則であります。




3.人を愛し、良くしてやり、報いを求めない姿(32-35節)



自分を愛する者を愛しても、特別なことではありません。

それは神の律法を知らない人でも誰でも出来ることです。
自分に良いことをしてくれる者に良いことをしても それは特別なことではなく、一般的なレベルに過ぎません。


返してもらうつもりで人に貸したからといって、それが特別な愛でしょうか?そんなことはありません。

金貸しは、しっかりと利子をつけて貸します。それを見て人々は「愛がある」とは誰も思わないです。


イエス様がここで語っている言葉は、それは罪人たちもやっていることである。 わたしの愛を受けている者たちは、彼らのレベルで留まるなら、それは愛ではなく誰でも出来ることだ。ということです。

主が求めておられることは、それ以上のことであります。
アガペの愛は全く違うものです。


35節に聖徒の愛はこうあるべきだと語りました。
「自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。」

これは無条件であり、相手がどんな人であるかは関係がないのです。敵か味方かを考えないで、敵さえも愛すべきです。そして自分の利益を求めないというのは、返してもらうことを考えずにそれをすることです。


私たちがみことば通りにするならば、私たちに良い報いを与えてくださる神様です。

「そうすれば、あなたがたの受ける報いは素晴らしく、あなたがたはいと高き方の子どもになれます。」

皆さんは、目先の利益の方が大事でしょうか?それとも、神様から報いを受けることが大切であるでしょうか?


神様が与えてくださる報いは本当に素晴らしいものであります。

私たちがみことば通りにするならば、損するどころか想像もつかない祝福があります。神様が語る祝福は地上のものではなく、天にある祝福です。

地上での旅路は短いので私たちは地上で受けてもそれらを持っていくことが出来ませんので、天の御国で神様は私たちのために備えてくださっているのです。


私たちが本当の意味で神の素晴らしい報いを受けるためにも 敵を愛し、彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸すことが本当の愛の姿であります。




4.あわれみ深い神のようにあわれみ深く、与えることに励む人



神のあわれみの範囲は、恩知らずの悪人にまで及びます。それは35節に書かれています。

恩知らずとは私たちのことであります。
私たちが神様の事を知らない時から命をいただいていますし、神様から毎日すべてのものを受けています。


太陽、空気、水、これらすべては神様から来たものであります。これらを私たちはタダで使っています。

しかし空気があることに感謝しますという人はほとんどいないです。ほとんどの人はそれを当然だと思っています。

このようにどんな人に対しても神様はあわれみ深い方です。
神様はすぐにでも裁くことが出来るのに、裁かず生かしてくださるのが神様のあわれみ深い姿です。


私たちが悔い改めて立ち返るように、常にチャンスを与えてくださっています。
主は私たちに「天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい。」と要求しておられます。

自分が受けた恵みをすっかり忘れて、「私はそんなことは出来ない」と言うのではなく、
恵みを受けているからこそ「私もそのようにします」としたら神様が喜ぶことであります。


クリスチャンは常に与える人にならなければいけないです。

これは世の法則とは違います。世の法則では、握りしめて自分のものにして他人に奪われないようにしなさいと教えます。

しかし神様は、たとえあなたから奪う者がいても与えなさいとおっしゃいます。常に与えることを考えるのです。
イエス様は与え続ける人生を生きてきました。そして命さえも与えてくださいました。


なぜ、神様が「与えなさい」という言葉を使うと思いますか?
それは私たちの為であるのです。私たちに素晴らしい報いを与えるために神様は与えなさいと語ります。

地上で私たちがどれだけ与えたかによって、天で受ける報いが決まります。


「最も小さい者にしたことは、私にしたことです。水一杯あげても、その報いを受けます。」と約束されています。


ですから、神にも人にも与えたことがない人は、天国で何も受ける報いがないと思わなければなりません。
与えることを知らず、自分だけが握りしめている人は自分だけを愛する人です。

他人にもてなすということは素晴らしいことです。それは絶対に無駄なことではありません。
愛の人の周りには、人がたくさん出来るようになります。


その人を利用して来る人は悪い人ですが、私たちは困っている人に与え、蒔くべき所に蒔き、相手が求めなくても「困っているだろうな」と自分の方から手を差し伸べることであります。




5.さばかず罪に定めず、赦す人(37節)



私たちは他人を裁く人を見て、愛の人だとは思わないです。

神様はなぜ私たちにこのように語るでしょうか?

自分の目には梁があるのに、兄弟の目にあるちりに関心がある人たちに対して叱責のことばであると同時に 聖徒たちがさばくのは神の権威に属していることなので、神に任せて赦す人になりなさいと命令しました。


なぜ私たちが他人を裁いたり罪に定めたり 赦さないことがいけないのでしょうか。

それは神様が権威を持っているからです。裁く権威は神様以外には誰も持っていないです。

私たちは罪人ですので、イエス様は私たちの目の中には梁があることを教えます。
しかし自分の梁には関心を持たないで、他人の目の中にある ちりに目を向けて「悔い改めなさい。あなたは罪人です。」と非難をするのでしょうか?


他人を激しく非難したり責める人は、自分の中の梁に気付いていない人であります。
それで他人にある小さなちりを見て罪に定めます。

これは一言でいうなら、愛がない姿です。愛がない人は自分の中に神がいない人であります。

他人を赦すのは相手のためではなく、自分自身のためです。他人を赦すと自分が神様から赦されるので、まず赦します。


天国に行きたいと思うならば、自分が天国に入るためにも他人を赦すのです。

相手が自分に謝らなくても態度が変わらなくても関係がなく、「主よ。あの人の罪を赦します。私の罪も赦してください。」と祈ることです。


イエス様は自分を殺した人たちを赦しました。
私たちもイエス様の姿を見て、見習って行動をすることです。

迫害する者たちが投げた石に打たれながら死にかかったステパノはイエス様と同じく
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。そこに愛の姿を見ることができました。
これは聖徒が見せるべき愛の姿勢です。


クリスチャンの倫理、道徳の行動基準は低いレベルではなく、むしろ高いレベルです。
それは神ご自身が、この世の神々と呼ばれるものとまったく違う存在であり、愛とあわれみと赦しと偉大な神であるからです。

神様は私たちのことを子どもと呼んでくださっていますので、神の子どもであるならば 聖徒も相応しい姿でなければなりません。


世の中のレベルに合わせるのではなく、神の国の市民として そのレベルに合わせるのです。
私たちは身体は地上にあっても、私たちの国籍は天国であります。

聖徒の品格すら何一つなかった者たちが、日々成長して聖徒の品格を整えていく時に、それが神に栄光をささげる姿です。


愛ある行動ほど聖徒の品格を高めるものはありません。


愛があれば全て出来ることです。愛があるなら問題なく1つ1つのみことばを実行することができるのです。
今日のみことばを目指して日々実行していくならば、誰でも愛の人に変わることができます。
(´∀`*)

2014.7.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの行動原則とは?

テーマは 『 クリスチャンの行動原則 』 です

【Ⅰコリント10章23-33節】

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。 しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。

地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、 自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、 食べてはいけません。

私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。

もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

クリスチャンがどう生きるべきかは、聖書に書かれています。

その中で1つの重要な役割は、救われた聖徒が神の子どもとして成長していくように人生の方向を示します。
そして人生の目的が何かを教えています。

今までとは全然違う行動基準になります。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と主が語りましたが、それは私たちが毎日みことばを読みながら、 そこに書かれている教えを受け入れて信仰を成長させ、自分の人生を 常に神様が示した教えと基準に合わせていかなければなりません。


今日の本文ではクリスチャンとしての行動原則を教えています。

その行動基準を持って私たちが行動をするなら、私たちは成長していきます。それは他の人にも益をもたらすものになります。



1.自分の利益を求めないで、他人の利益を心がける



【Ⅰコリント10章23-24節】

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

「すべてのことはしてもよい」とは(クリスチャンにあって)自由が与えられているということを意味します。
私たちは多くの人間的な基準や世の中の基準に縛られています。

私たちは真理に出会って、そこから解放されて自由になった部分がたくさんあります。

しかし多くのクリスチャンは、「“神様が何をしても良い”と言われたから、私は好き勝手に生きよう。」と言いますが、そのような意味ではないです。


自由は神様のみことばにある「自由」であります。それを超えてはいけないのです。
神の言葉の中にあって生きるのですが、勘違いをしたクリスチャンが「何をしても良いんだ。」と開き直って、そこで非難を受けたことが実際にありました。

「自由」の使い方を間違えている部分がすごくありましたので、神様が1つの基準を教えたのが「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」でした。


自分の利益を求める姿は自己中心的な姿であります。

「自分さえ良ければ、他人が倒れたり つまずいたり 罪を犯しても関係がない。神様は私を救ってくださったのだから、 私は好きなように生きる。」というのは、果たして神様が私たちに望んでおられる姿でしょうか?

クリスチャンになって1番初めに取り除かなければならないものは、「自己中心的な思い」であります。


これが私たちの古い姿であるのに、更にそれに自由がプラスされて ますます悪くなるならば、何のためにその人が救われたのか分かりません。

神様は、自己中心的な考えから離れて、共同体の利益を求めなさいと教えています。
なぜそうすべきであるのかを23節で語りました。「すべてのことが徳を高める」と書かれています。

自分の利益だけを求めると、他人の徳にならないのです。それは自分だけのものになります。


しかし私たちが自分の利益を求める前に、他人の利益を求めるならば それはその人の徳を高めることになるのです。

このような言葉を聞くと、「じゃあ、自分の利益を求めたらダメですか?いつも他人の利益だけを求めるようにしないといけないのですか?」と思いますが、そのような意味ではありません。

自分のことを無視して他人のことばかりを考えなさいという意味ではなく、神様は自分の利益のために他人を倒したり、つまずかせたり、そのような行動に対する警告であります。


自己満足のための行動が他人に苦しみを与え、つまずきを与えることは私たちの生活の中でたくさんあります。
それはクリスチャンとしてはふさわしくない行動です。

クリスチャンは他人に仕えて、隣人を愛しなさいという言葉が与えられていますので、自分の利益だけを求めるなら自己愛であり、他人を愛することではないです。

模範になる姿とは、他人に対して素晴らしい働きをするので模範になるのです。


自分のために働いていても、人々がそれを見て素晴らしいとは思わないです。
周りから「あの人はいつも自分のことしか考えていない。あの人には絶対についていかない。」となってしまいます。


【ローマ15章1-3節】

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

これが自分の利益を求めないで、他人の利益を求める人の姿であります。

“私たち力のある者”というのは成長した人のことです。
教会に長く通っている人や 人間的な力がある人、ということではなく、信仰の強い人は 成長して自分に与えられた自由を正しく使っている人の姿です。

そういう人たちは、自分が正しく使っている自由をもって 信仰の弱い者たちを助けなさいということであります。
「何でそんなことも出来ないの?」と裁くのではなく、あなたの力をもって助けることです。それは相手の利益を求めることになります。


しかし、信仰があるという人たちが自分たちの言葉や行動によって 信仰が弱い人たちに罪を犯させて倒すことがあるのです。
それは私たちの日常にもそういうことがあると思います。

例えば、長い間 教会に通って自分の信仰を誇る人たちの行動を見て、弱い人がつまずくことがあります。
そこにはすごく自己中心的な姿があるのです。

偉そうに高慢な姿を見せる時があります。すぐに批判をする口があります。
それを見て、弱い人たちがキリストに会いに教会へ来ているのに、人を見てつまずいてしまいます。

ですからクリスチャンは 自分の利益を求める以前に、他人の利益を求めることであります。

“この人にとって何が良いのか”を考えるのです。


他人の利益を求めることにはちゃんと理由があります。
それは相手の徳を高めるだけではなく、33節に「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、 多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」とあるように、このような姿ではないと魂を導くことができないです。

自分の利益よりも 他人の利益を求める人の心の中にあるものは、“愛と命”であります。
他人に対する愛がないならば 他人の利益を全く求めないで自分のためにすることなのです。


イエス様はご自分の利益を1つも求めていないです。ご自分の命まで捧げて、私たちの益のためにイエス様は働きました。その姿の中に愛があります。

私たちが自分を犠牲にしてまでも相手の利益のために働く理由は、その人の魂を救うためです。
魂を救うためには愛がないといけないのです。

私たちの行動を見て、その人たちが「クリスチャンは違う。クリスチャンは最も大切なものを私に与えてくれた」と犠牲や愛を見せ、常に相手の人のことを心掛けて配慮を示すことです。

私たちを通してその人たちがイエス様を見るようにすることが、私たちの行動基準になります。


クリスチャンが人々をつまずかせると、魂の救いが起こらないです。教会が人々をつまずかせるなら、「絶対に教会には行かない!」と非難をします。

そうすると神様がその魂のために命を捨てたのに、私たち自身が教会を迫害する者になってしまいます。


このような姿があってはいけないのです。
ですから、自分の利益を求める前に このことが他人の利益にもなるのか?を考え、相手の利益になるならば私たちはそれをしても良いです。

しかし、自分がやっていることが相手の利益にならないならばやめることです。

クリスチャンは他人への配慮のために、自分を自制するのです。
自由に生きるのではなく、他人のためならば と自制をすることが神様から見たら最も自由な姿であります。


いつも相手の徳を高めるために、人を喜ばせるために、魂のために、私たちは敢えて自分の利益ではなく他人の利益を求めるのです。

私の隣人は誰かという問題ではなく、私は誰の隣人になるのか?ということが他人の利益を求める道であります。
それをいつも心掛けることをイエス様は願っておられます。



2.すべて神の栄光を現すため



【Ⅰコリント10章31節】

こういうわけで、あながたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

これこそが聖徒たちの究極的な人生の目的です。積極的な姿であります。

ただ “恵みを受ける”という消極的な姿ではなく、あなた自身の方から願って求めて積極的に行動をすることです。


私たちの目に見えるもの全てが神様のものであります。

私たちがご飯を食べる時に感謝の祈りをします。
なぜ感謝の祈りをするのでしょうか?それらの食べ物を作った方がいます。料理をした人以前に、誰が与えてくださったのでしょうか?“天と地” この地上の全てのものは主のものです。

私たちが受けて使っているものは自分のものではなく、主から与えられたものです。神様から与えられたものを自分の欲のために使うのではなく、まずは神様が与えてくださったことを認めるのです。


私たちは神様から全てのものが与えられているので、私たちはそれを使いながら誰のために生きるのか?が大切であります。

主のものを持って自分のために生きるのではなく、主のものを持って 主に栄光を返すために。
持っている物も自分の命も 全てのものが主のものなのです。


【ローマ11章36節】

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

人間も神様が造ったものであります。神様のものなので取ることも与えることもできます。
常に私たちは神様から与えられたものをもって、神様に栄光を返すのは当然であります。

私たちが受けたものは(周りに恵みを)流していき、そこで神様の栄光を現れるようにするのです。

私たちは食べ物が豊かな時は、食べ物の有り難さが分からないです。でも食べ物が何も無い所へ行くならば、私たちは米粒一粒でも どれほど感謝であるか分かりません。

砂漠では水1杯ではなく、水1滴でも欲しいのです。


私たちに不平不満が多いのは神様を知らないことであります。
そして、「あの人は多いのに私は少ない…」など他人と比較する必要もないです。これは愚かなことです。


パウロはどのような状況でも満ち足りることを学びました。
すべてのものが神様から来て、すべてのものが神様のところへ帰ることを知ったのがヨブでした。
私たちには、自分の物は1つもないのです。

クリスチャンは自分に与えられた自由を 自分自身のために使うのではなく、自分を救ってくださった主、自分を愛して下さる主、 そして自分が造られた目的は神の栄光を現すためであることを知り、それが第一目的でなければなりません。


地獄へ堕ちた人の姿も 物を持っている人は1人もいなく、すべての人が裸です。
そして人々が苦しむ姿を見て、サタンは喜んでいます。



まとめ



私たちの姿を神様は見ています。
神様が決めている この2つの基準で、自分の利益を求めず 他人の利益をまず求めます。

「これは自分だけの利益なのかも?」と思うならば、それは間違えています。
他人の徳や利益になるように それを先にすることであります。そうするとその祝福が自分にも返ってきます。

神様は私たちが蒔いたものを刈り取らせますので、与えることで喜びが来て、愛を与えるならば愛が返ってきます。善を蒔くなら善を刈り取ります。
これが神様の方法であります。


そして今、自分がしていることは神様への栄光のためなのか?ということです。

自分がすることはサタンが喜ぶことなのか、神様が喜ぶことなのか、それによって栄光が変わります。
サタンも自分に従ってくる人を通して栄光を受けています。
そして神様も 神様の言葉を聞いて、その通りに行動する人たちから栄光を受けています。


今回学んだ2つの基準は、私たちの日々の生活の行動基準であります。
それだけでも行動が整理されていくと思います。

それを毎日の生活で私たちがしていくならば、その中で成長していくでしょう。その中で魂が導かれていくでしょう。その中で御霊の実を結ぶこともできます。

自分の行動を神様の言葉に照らして、もし自分の行動が間違えているならば 神様の言葉に従うことです。
頑なな心を神様は嫌いますが、従うなら祝福されます。

主がその者を喜んでくださいます。 (⌒-⌒)

2014.6.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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良い実を結ぶ信仰生活とは?

テーマは『 良い実を結ぶ信仰生活 』です

【マタイ7章16-19節】

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらから取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

同様に、良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

良い木が悪い実をならせることはできないし、 また、悪い木が良い実をならせることもできません。

良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

今年の目標は3つの実を結ぶ年にしたいと思います。

このみことばは、周りの人を見分けるためだけに使う言葉ではないです。この言葉はそのまま自分にも当てはまります。
この言葉で、自分は本物なのか偽物なのか、良い木なのか悪い木なのかを見分けることができます。


エデンの園にある木の実のほとんどは食べても良いと神様がおっしゃいましたが、ただ1つ「善悪の知識の木の実」だけは食べてはいけないと語りました。
アダムとエバは「善悪の知識の木の実」を食べてしまい、それによって罪が入り、呪いが入り、それによって死が世界に入ってきました。
神様の言葉に違反をしたので、エデンの園を追い出されました。

「救われた人」というのは、何から救われたのでしょうか――?
この善悪の知識の木の実を食べた人として呪いを受けた者、死を宣告された者は、そこからイエス様によって解放されたのです。
そして(私たちに)喜びを与え、平安を与え、祝福、命を与えてくださいました。

その後に神様が私たちに「今度はあなた自身が良い実を結ぶ木になりなさい」と語りました。(私たちが)結ぶ実を見て、弟子であるかを見分けます。
たくさんの良い実を結ぶならば、「それはわたしに栄光を捧げることである。」と語りました。

悪い実を結ぶならば、神様は「あなたはここにいる必要はない」と言って、再び神様の祝福の地から追い出されることになるのです。
悪い木が火に投げ込まれるということは、必ず死ぬということなのです。

私たちは「救われているから、どうでもいい」ではないのです。
今、一生懸命良い実を結ぶために作業をしていかないと最後に裁かれるのです。




皆さんは昨年どのような実を結びましたか?皆さん1人1人の木はどのような木だったでしょうか?

聖書には良い実というのがたくさん書かれています。その中でも今年の目標として3つありますが、一番大切なのは次のとおりです。


①御霊の実・聖霊の実

【ガラテヤ5章22-25節】

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

柔和、自制です。 このようなものを禁ずる律法はありません。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、 さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

聖霊の実は、主にあるものとして当然結ぶべき実であります。これらのものは賜物ではないので
「賜物がないから、力がないから、このような実は結べません。」と言うのは通りません。

これは、主にあるものなので必ず実が結ばれるようになるのです。自分がイエス様の中にしっかりと留まっているならば、誰もが結ぶ実であります。

私たちはイエス様に出会うまでは自分が主人でした。自分の人生を思いのままに生きるのは、聖書の言葉で言うならば本能で生きることであります。
それによって結ぶのは、肉の実です。

世の中はみな肉の実を結んでいます。しかし世の中ではそれは問題にはなりません。

しかし、主人が変わった人は、主人が喜ぶ実を結ばないのは問題であります。イエス様を自分の主として受け入れたということは主人を変えたことなのです。
今までの主人は自分でしたが、受け入れた時からはイエス様なのです。
あらゆるものを十字架につけながら、主人の思いに従わなければならないです。


喜びの感情は良いものですが、怒りや妬みなど悪い感情はいらないものです。
人を憎むと、相手もその人を憎むのです。するとその悪い空気がどんどん流れて、皆が憎しみ合うのです。次から次へと悪い実が結びます。
私たちは肉を満足させるような生活をしてはいけないです。それは滅びる生活なのです。

聖霊様が喜ぶことをすると御霊の実が結ばれていきます。良い実には神様がさらに祝福します。

主人であるイエス様が 私たちの悪い実を見てどう思うでしょうか。
イエス様は斧を持って、いつ倒そうかと待っています。倒されたならば、終わりであります。ですからイエス様は忍耐をしてジッと見ておられます。

また クリスチャンではなく、世の中の人でとても立派な人格者の人たちがいますが、御霊の実を結んでいるのです。
そのような人たちは生まれつきではなく、その人自身が「人格者になりたい。」と良い人になるために自らを厳しく訓練しているのです。
私たちはその人たちを非難してはいけないです。「その人は神様を信じていないから、そんなことをしても滅びるでしょう?」と、それは勝手な判断であります。反対に神様は「あなたはそんなことを言う資格すらない」と言います。

「あなたは神を信じ、わたしの祝福を受けながら、わたしがしなさいと言う実を結ばず、葉ばかりで悪い木や実を結びながら何の資格があって他人を非難するのか。」と言われ 私たちは返す言葉がないです。


私たちは、外では とても愛があり穏やかな人のように見せるのですが、家に帰ったら別人であるならば、それは偽善者であります。
クリスチャンはどこにいても同じ姿勢を取らなければならないです。

神様は、私たちが家にいる時も見ているのです。神様が一番よく見ているところは家であると思います。
自分で見て、これはダメだという実があるならば、神様から討たれる前に悪い実は切ることです。そして十字架で殺すことであります。

御霊に導かれて歩むと人格が変わるのです。
自分の木はどんな木だろう?と見て、まだ小さいけれど愛の芽が生え、小さな愛の実が結ばれ、所々に小さな喜び・平安・寛容の実がなっているならば
これは神様はとても喜んでくださいます。神様はそこに栄養を与え、もっともっと育つようにしてくださるのです。

しかし、悪い実を結ぶと神様は絶対に恵みを注ぐことはしないです。ですから、恵みを求めても来ないです。

私たちは神様によって選ばれた者でありますので、悪い実を結んで神様を悲しませるのではなく、喜ばせる姿にならなければいけないです。




②伝道の実

特に今年は、見せる伝道をしたいと思います。
チラシを配るのはもちろんですが、それ以前に自分自身の姿を 人に見せる伝道が必要であります。

神様から恵みを受けた者には、愛の負債・罪の赦しの負債があります。
今度は私たちが他の人たちに良い知らせを伝える者にならなければなりません。

私たちは伝道を、「私は口下手だから。」「言葉で語るのは難しい。」「語ったけど全然聞いてくれない。」と、そのようなことを言います。
もちろんそういうことがあると思います。しかし、人々は私たちが語る言葉を聞きたいのではなく、イエス様を信じて何が良いのかを見せてほしいのです。
イエス様を信じてどこが変わったのかを見たいのです。
私たちは見せることが出来なければ伝道は失敗であります。

伝える言葉がどんなに立派なことであっても、伝える人が何も変わっていなければ「なぜあなたは押し付けるの?」となってしまいます。


また、ある人は自分がクリスチャンであることを隠しています。クリスチャンでも何も変わっていないから恥を受けたくないという思いです。
クリスチャンであることを公表しないのは、正しいことでしょうか?――そうではないです。

人々の前で「私はクリスチャンです。」と言うべきなのです。そして良いクリスチャンの姿になるために努力をすることであります。
言ってしまうと、その時から人々は自分のことをクリスチャンとして見ています。
クリスチャンであることを伏せていたら、誰一人救うことが出来ないですし自分も成長できないです。

クリスチャンであることを伝えてから、以前とは違う姿になるなら、人々が見たいものはそこであります。言葉ではないのです。
口先だけで私たちが変わらない姿で、言葉を語るならば それは虚しいものになります。

真実な行動とクリスチャンらしい言葉で見せる伝道をしてください。これは訓練なのです。
それをずっと続けていくと自分のものになるのです。難しいのではなく、それが慣れてきます。すると口の言葉が変わり、行動が変わってきます。




③善行の実

【使徒の働き20章34-35節】

あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを 思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示してきたのです。」

善行というと、私たちはすぐに貧しい者たちのためにと考えてしまいます。もちろんそれも善行であります。
しかし、ここでパウロが見せた1つの善行は、共に労苦する人たちを助けることでした。これも立派な善行です。

パウロには共に働く人たちがいました。パウロは自分で一生懸命に天幕を作る働きをしながら、その人たちの働きを助けました。

私たちは良い働きをしようと思って、道ばたにいる人たちだけを探す必要はないです。
教会の中にも、共に働く人々の中に私たちが手伝わなければならない人たちがいっぱいいるのです。
弱い人たちもその中にいます。そして1人でたくさんの仕事を抱えて労苦している人もいるのです。
その人たちに1つでも「それは私がしましょうか。」と手伝いをするならば、それは立派な善行であります。

自分の時間を捧げ、自分のものを捧げ、受けるよりも与えるほうが幸いであるという言葉は 本当にその通りです。


自分が受けたいと求めているばかりの人で 幸せな人はいないです。
自分が恵みを流していく時に、そして人を助けていく時、自分が持っているものを分け与えていく時に、私たちはますます豊かな者になっていくのです。

共に働く者のために祈ってあげることも、慰めることも、良い働きなのです。必要なものを与えることも神様から見たら立派な働きです。

私たちは愛の心がないと、自分の物は提供できないのです。愛があると人に差し出すことができるのです。
その人のために出来ることは何なのかを考えることなのです。その人が喜ぶことは何なのか、その人をどのように助けたら良いのかを信徒たちを見て常にその目で見たら良いと思います。

善行の実を結ぶのは、心がとても幸せになるのです。

自分は出来ないと思わないでください。出来ないと思うのはフタをしめて、やらないと宣言をしたことになります。
そうではなく、「出来るようになりたい」と祈ります。これは誰もが出来る働きであります。
しようと思うならば、神様はたくさんチャンスを与えてくださいます。ホームレスの人にお弁当を渡すのも、将来は30倍になって返ってくるかも知れません。

ですから避けて通るのではなく、覗いてみることなのです。出来ることがあればすぐに実行してください。


今年は御霊の実を結んで人格が変わるようにしましょう。見せる伝道の実でクリスチャンです と堂々と言えるような私たちになりましょう。
そして善行の実で良い働きをしてクリスチャンであることを見せるためにも実を結ばないといけないと思います。
( ̄‥ ̄)=3

2014.1.2
新年礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あらゆる恵みに満ちた神

テーマは『 あらゆる恵みに満ちた神 』です

【Ⅰペテロ5章10節】

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

神様に出会うまでは、私たちは神様の存在を頭の中で自由に想像していました。
それも人間の数ほどの神様がいます。
自分がこういう神がいたら良いなぁと思う神を作ったり、誰かが作った神を自分の神だと信じる人がいます。
私たちも(救われるまでは)その中にいた者でした。

私たちが本物の神様に出会うまでは知らなかったことがあります。
それは神様が私たちに与えてくださった「恵み」であります。


私が生かされているのも神様の恵みであり、あれもこれも自分の命も、神様から受けたものであるのだという
認識がとても乏しかったのです。

親のおかげであったり自分の力であるという思いがたくさんありました。

しかし 本物の神様に出会って恵みの世界が分かりました。

すべてのことが神様からの恵みだったということが 聖書を読んで初めて正しく知ることができます。

皆さんはどのような恵みを実際に神様から受けたでしょうか?
ある人は恵みに気付いていますし、ある人はまだ気付いていないかもしれません。

神様は今回のみことばで「あらゆる恵み」という言葉を使っています。
その中で1つの恵みが表れています。
それは「苦しみの中の恵み」であります。

この時代の人々は特に迫害が多かったので、苦しみの中にいたと思います。
キリストを信じること自体が苦難の道に足を踏み入れることでありました。
苦難を受けたくないと思うならば、神様を信じることが出来ないです。


ローマ時代はどれほど迫害を受けたのか、歴史を通して知ることができます。
ローマには皇帝がいましたが、クリスチャンを見せ物にしていました。
競技場の中でクリスチャンたちに油をかけて たいまつのように使い燃えさせて、自分たちは飲み食いをして
楽しんでいました。このような悲惨な歴史がたくさんあります。

ですから、その中で「私は クリスチャンになります。」と言うことは、死ぬ覚悟がないと絶対にできないです。

今の時代はそんなに迫害はないです。しかし、いつか このような迫害が必ずあると聖書に預言されています。
ですが、それは災いではなくて神様の恵みであるということを、この聖書箇所で教えています。


苦しみの中の恵みとは どのようなものでしょうか?
苦しみの後で完全になるということは 忍耐であり、忍耐を最後まで出来る人は
完全なる者であります。

人間は完璧ではないのですが、忍耐を働かせると信仰の部分で完全になります。
それらのことを苦しみの中で実を結ぶことができます。

苦しみは誰もが嫌だと思います。
しかし、私たちは平安の中だけでは あまり変わらなく忍耐を学ぶこともないです。
強くなることもないです。苦難の中で耐える時に、あらゆるものが変わっていきます。
ただ ジーッとしているのではなくて、その中で神様に頼ることを学びますし、信仰の激しい戦いがあります。
「こんなに苦しくても(神様を)信じるのか?」と色々な自分との戦いがあります。

だけどその中でも神様は恵みを与えて私をさらに強くしてくださるのだという思いで生きていますので、
その苦しみが ただの苦しみに終わるのではなく、それが自分たちにとって恵みになるのです。

強い者にしてくれる恵み。苦しみがないと、そういう者にはなれないのだという認識が出てきます。

ヨブが激しい苦しみを受けている中で、愚痴をこぼさずに耐えました。
迫害の中にいる人々は、苦しみを神様の恵みだと思いました。恵みと思わないと、絶対に耐えることが出来ないです。
「神様を信じて、何でこんな苦しみが来るの?こんなはずではなかった。」と思う人は、簡単に心を変えて 世に出て行きます。

パウロは一番の苦しみを受けましたが、一度も不平不満を言ったことがないです。
「わたしはますますここで変えられていく。ますますここで耐え忍ぶ。なぜなら神様の恵みは充分にあるから。」と、生きていました。

ですので、もし 苦しみがあるならば災いだと思う必要はないです。
ただ、自分の罪によって来る苦しみは災いです。
しかし、そうではなくて主のために働いて受ける苦しみは 災いではなく、神様の恵みであります。


【Ⅱテモテ2章9-13節】

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。

もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

苦しみ自体も恵みを受ける1つの道であります。

恵み豊かな神様は、主のために受ける苦難を見て何もしない方ではないです。
その中でも守り、その人に良いものを流し 支え、助けてくださる神様であります。




そして、私たちが神様から受けた恵みで、どのような恵みがあるでしょうか。

- 救いの恵み -

【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、もちろん 私たちの信仰も働きましたが、それは主の恵みであります。
救われた人たちは、神様に「私はこういう者だから救いを受けた。だけど、あの人は救いを受ける資格がない。」と、
誰も言える立場ではないです。

行いによって「救い」を獲得したのではなく、100% 神様の恵みによって救いを受けたことを悟るべきです。


【Ⅰコリント15章9-10節】

私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

-奉仕をする恵み-

私たちは奉仕について勘違いをすることが多いです。

「私が神様に対してしているのだ」と思うのですが、神様は「あなたが奉仕できるのも、わたしの恵みなのだ。」と語りました。

奉仕を「恵み」だと考えないと、長続きできないです。
神様から何か報いを受けるために奉仕をするとか、他人に見せるためにするのは良くないことです。
それは本来の意味から離れています。

私たちが主のために 何か小さな働きでも出来るなら、それは神様の恵みが働いているから出来るのです。
奉仕を恵みと考えていないならば、少し奉仕をしていただけで疲れてしまい 続けることが出来ないと思います。
「誰も分かってくれないな。これをしたのに何も良いことがないな。」と言ったら、すごく嫌になります。
ですから奉仕から離れていきます。

でも何年も変わらない心で奉仕をする人たちの中にあるのは、言われたから仕方がなくするのではなく、
何が原動力になっているのかと言うと、「私のような者を参加させてくださっている」という恵みなのです。
これはとても素晴らしい恵みであります。


もし神様が「あなたは役に立たない者だから、何もしなくて良い」と言って何もさせないならば、それは良いことでしょうか?
それは違うと思います。きっと自分自身のことを価値がない者だと思ってしまいます。

神様に奉仕をすることは素晴らしい恵みなのに、それを自分のほうから拒むということは自分の手で恵みを投げ捨てることであります。
神様が見た時に、(その人に)出来る力があるので それをさせるのです。
ですから、私たちの認識を変えなければいけないです。

何か奉仕をして、すぐに30倍 60倍 100倍の祝福を貰おうという思いだと、そのようにならない時には失望するでしょう。
そして投げ出してしまいます。

天国へ行って報いを受けるというのは、私たちが地上で働いた行いによって 天国で受けるものです。
神様は地上で与えないこともあるのです。地上で全部の祝福を受けてしまうと、天国へは持ってはいけないからです。

天国には魂だけが行きます。地上のものは置いていかなければなりません。

天国へ行った時に自分の住まいに、私たちが地上でした行いに応じて備えてくださっています。
奉仕はその為の恵みの働きだと思うならば、私たちの心は喜びで溢れると思います。




【ローマ5章17節】

もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

「ひとりの違反」とは、アダムとエバのことであります。サタンの惑わしを受けて 善悪の知識の木の実を食べてしまいました。
それで神様の言葉通りに、死がこの世界に入るようになりました。
罪が入ったことで汚れました。
罪というシミが付くことによって人間が汚れ、その子孫である私たちが罪の中で生まれ、汚れた者になりました。

それをイエス様が聖めてくださいました。
イエス様の十字架は、罪人のために流した血であります。
本人はシミがついていることに気付かないですが、神様や他人が見た時に、それがよく見えます。

罪を犯しながら外見を綺麗にしていても、神様はいつも私たちの心を見ているのです。
罪の臭いと汚れが丸見えであります。

パリサイ人にもイエス様は「白く塗った墓よ」と語りました。敬虔な者に見えても、いざフタを開けると汚れでいっぱいでした。

たとえ あなたの罪が火のように赤くても、悔い改めて主の血潮を求めるならば、雪のように白くなります。
これは真理であり、イエス様が与えてくださった恵みなのです。


【ローマ6章17-18節】

神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、

罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

義の奴隷ということは、聖められ罪が洗われたということです。神様の前では、その者が汚れた者ではなくて血潮を浴びて聖くなった姿に見えるのです。


【ローマ6章22節】

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

聖くないと天の御国に入ることは出来ないと語りました。


【Ⅱコリント8章1-9節】

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。

苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、

聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。

それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。

あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。

こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

私たちが何かを主に捧げるということは、犠牲が伴います。

神様に献金を捧げる時に、自分の方から出さなければならないです。
お金を大切に思わない人はいないと思います。
なぜなら生活に必要であるので、「たくさんあれば良いなぁ」と誰もが思っているでしょう。

生活をするにはお金は必要ですが、私たちがあれこれ心配し 計算高く将来の為に貯めて、「神様に捧げるものはないわ」とケチる心で神様に捧げるならば、それは恵みではないです。

マケドニヤ教会の人は極度の貧しさの中にいました。当時はクリスチャンであるだけで仕事場から追い出されたり
権利が奪い取られたりしたので、どんどん貧しくなっていきました。

しかし、何もない中でも、その人たちに「捧げたい」という心が出てきました。
神様はそれ自体が恵みであると語りました。惜しまずに捧げたいという心を持っている人は、恵みの中にいるのです。


ですが、計算機を出して「私の老後や子供のほうが大切だ」と捧げ物を減らして、ますます握りしめていくのです。
そのような人たちは神様の恵みを知らない人であります。
「あなたが持っているものは、全てわたしが与えた物である。」とイエス様は聖書で例えを語りました。

自分の命も神様の恵みであり、命を支えてくださっていることも、ものすごい神様の恵みであります。
もしも癌になって手術を受けるなら、何百万円もかかるのです。今、神様が健康を与えてくださっていることは、
ある意味では何百万円以上の祝福を受けていることなのです。

足が動かなくなれば何も出来ないです。
私たちはどれほどタダで神様から恵みを受けているでしょうか。

惜しみなく捧げる人は 恵みを悟った人であります。

マケドニヤ教会の人たちは、何のために献金を捧げたのかと言うと、自分たちも苦しいのですが、自分たちよりも
さらに苦しみを受けている人々に施しをしたのです。
私たちもそのようにしましょう。自分に出来ることを分けてあげる思いでしてあげることです。

地上で生きている時に神様が充分にしてくださるので、神様に信頼したら良いと思います。


【ヤコブ4章6節】

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

高ぶる人とは、恵みを知らない人であります。へりくだっている人は、恵みを知っている人です。

恵みを知っている者には、神様がさらに豊かな恵みを与えてくださると約束してあります。

どうやったら恵みを受けるのかと言うと、恵みを知れば受けます。
自分が生きていること、今まで導いてくださったのは神様であります という思いで感謝を捧げたら恵みを与えてくださいます。
恵みを知らない人は恵みをないがしろにしてしまいます。

私たちは今年もたくさん神様の恵みをいただきました。毎日、毎日 守られて生きてきました。

健康も平安も与えられて、あらゆる災いの中でも守られてきました。
どのような時でも 神様の見えない御手が私たちを支え、恵みが天から流れてきて、それによって生かされたことに感謝しましょう。

来週は、収穫感謝祭であります。
今年受けた恵みを1週間じっくりと考えて、歩みを振り返り1つ1つ神様の御前で感謝を捧げてください。 (*´∇`*)

2013.11.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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救いの条件とは?

テーマは『 救いの条件 』です

【マルコの福音書1章15節】

イエス様が語った言葉です。
イエス様を信じていない人が聞いたら、どういう意味かわからないと思います。
しかし、クリスチャンは教会で「救い」という言葉をよく聞くと思います。

「あなたは本当に救われましたか?」と質問をすると、
「はい、救われました。」や、「よくわかりません。」と答えます。

また、「天国へ行けますか?」と質問をすると、
「必ず行きます。」と言う人もいれば、「死んでみないとわかりません。」と言う人もいます。
そして「私、天国へ行けないかもしれません。」という人もいます。

これは問題であります。救いの意味がまだわかっていないのです。
どうやって救いを受けるのか 意味をわかっていないので、
自分が本当に救われているのか、救われていないのかが曖昧なのです。




< 救いを受ける条件 ①>

悔い改め

まず「罪を悔い改めなさい」ということです。

【マルコの福音書1章4節】

この時点では、まだ「信じなさい」という言葉は出ていないです。

現在の教会では信仰のことばかり伝えますが、それだと「半分だけの福音」になります。
ですので、多くの人がそこで間違えています。
イエス様は信仰だけで救われるとは一度も語ったことはないです。
私たちは「悔い改め」と「信仰」によって救われるのです。


【使徒の働き2章37-38節】

【使徒の働き20章21節】

「私は生まれながらに罪人だ。」と自分の罪に気付くことです。
自分には救いが必要だという認識がないと、イエス様の十字架が見えてこないです。

自分に罪の認識が来ると、「あの十字架は、私のための十字架である」と
十字架の意味がわかってきます。

「(罪人の)私はどうしたら良いですか?」という思いが来て、
それに対して主が「わたしを信じなさい。」というのです。
これは、イエス・キリストに対する「信仰」であります。

この2つ(悔い改めと信仰)が救いを受ける条件であります。

悔い改めの意味は、口先ではないです。次の箇所です。


【マタイの福音書3章7-10節】

ユダヤ人たちは天国へ行ける自信がありました。なぜならアブラハムの子孫だからです。
ですが、バプテスマのヨハネがそのことを指摘し「それはあなたの錯覚である。」と語りました。

自分の罪を知り、本当に悔い改めない限り、アブラハムの子孫であっても天国には入れないと
いうことです。これは現在のクリスチャンに語る言葉であります。
悔い改めに相応しい実を結ばないならば、実が成らなく 葉ばかりです。

みことばを聞くだけで、恵みを受けるだけでは、どうにもならないことであります。
「○○教会に所属していました。」と、いくらイエス様に伝えても、
神様が「全然、悔い改めていないではないか。あなたは罪の中にいるのではないか。
だから切り落とすのだ。」と語ります。


【マタイの福音書11章20-24節】

毎日、奇跡を見ながらもイエス様が望んでおられる 悔い改めにふさわしい実が
見えないです。その姿で天国に入れると思っているのかと、イエス様がはっきりとおっしゃいました。

本気で悔い改めをしなく、教会を行ったり来たりしているから大丈夫だというのは、
イエス様は「目を覚ましなさい。それでは(天国には)行けないんだ。」とおっしゃいます。

ですから、自分自身が「私は罪人だ。」という認識がないならば、まだ救われていないのです。
自分の姿をみことばで照らしてみてください。

主の前で、自分が罪人であることを告白し、罪を赦してもらえるように祈らなければならないです。


人々に福音を伝える時も、必ず悔い改めのメッセージを伝えなければいけないです。

「イエス様を信じたら天国へ行きます。」というのは、悔い改めの部分を完全に無視しています。
相手の機嫌が悪くなったらどうしようと思っているので言わないのです。
日本の教会では悔い改めの言葉をあまり言わないです。罪人という言葉も言わないです。

なぜ言わないのかというと、人々が聞きたがらないからです。
神様が伝えたいメッセージではなく、人々が聞きたいメッセージを伝えるのです。
ですから「愛・祝福がありますように。」以外には言わないのです。
そのような教会にはたくさんの人が集まります。牧師がまるでコメディアンです。
初めから終わりまで冗談を言うので信徒たちは笑っています。
しかし福音は語らないです。


【ルカの福音書5章31-32節】

悔い改めをすることは、認識をすることです。
誰が死から救い出すことができるのか? それにはイエス様が必要です。




< 救いを受ける条件 ②>

信仰とは?

律法の行いだけでは救われないということを教えるために、信仰という言葉が出ました。


【ローマ3章27-28節】

律法の権威の下にいるので、私たちは呪いから逃げることができないです。
罪からくる報酬は死なので、誰も死から逃げることができないのです。
ですから、すべてのものが「死」に閉じ込められています。
自分でどんなに努力し 聖い生活を励んでいても、結局シミ(罪)が付いているので、
罪人になり、その判決は「死」です。

神様は、救い主・キリストを送り(キリストが)救いを完成されました。
救いとは それを信じ、キリストを自分の救い主として心に受け入れることです。


【ヨハネの福音書1章12節】

尊い代価(十字架で流した血)を払って 罪の奴隷から私たちを神様の御国に入れてくださいました。
私たちを買い取ってくださった方が私たちの主人であります。王の王、主の主です。

私たちがイエス様を王様として心に招き入れて、王様に対する態度を見せないならば、
それは救われない信仰であります。

例えば、結婚のことで言うならば、
結婚する前の姿を見てください。男の人は女の人をまるで お姫様のように大切に扱います。
一番良いものを与えて(女の人を)大事にします。女の人も、自分が愛する人に対して
自分のものを惜しまずに与えます。「この人の為なら、命を捧げることもできる」と、大切にします。
そして お互いに「死ぬまで一緒にいたい。」という思いで結婚をします。

結婚してからも、その思いのままで生活をする人は本当に幸せです。

しかし、結婚した途端に男の人は妻を家政婦のように扱います。
そして家政婦ではなく奴隷と思っている人もいます。
いつも怒り 命令をして、自分に少しでも逆らうとDVです。そういうことが今は多いです。

また、妻も結婚するまでは大事にしていたのに、旦那さんに対して、外で奴隷のように働いて
お金だけ運ぶもの。まるでお金を作り出す機械のように王様としての扱いをしないです。

私たちはイエス様を心の中に受け入れてからは、どうでしょうか?
イエス様を王様のように自分が仕えているのか、それともイエス様を自分の奴隷のように命令を
しているでしょうか。


【ヨハネの黙示録3章14-20節】

ラオデキヤ教会は正統派の教会です。異端ではないです。
しかし、イエス様はどこにいるでしょうか?  20節にあるように、イエス様は外にいます。
王様の扱いではなくて、いつの間にか追い出してしまいました。
生温いということは、信仰が死んでいるのです。
イエス様が全ての主権を持っておられます。私たちはその主権のもとでひざまずかなければいけないです。


【マタイの福音書22章1-14節】

王様として主を迎えて、主の言葉通りにする人は少ないです。
天国に入る人は、全人口の3%しかいないです。
このみことば箇所を見ればわかります。王様から招待をされていましたが、無視をして来ませんでした。
そして礼服というのは、王様に対しての礼儀を表すものです。ですが自分のやり方で入ってきました。

【マタイの福音書24章45-51節】

自分は救われたと思っている人です。しかし主人を軽く見ているのです。
主人の言うとおりにしないで、自分の欲望のままに生活をしています。

【マタイの福音書25章14-30節】

主人が言われた通りに従順して従っていく人に対しては、神様はその人を認めてくださいます。
1タラントをもらった しもべは、主人のことを悪い主人だと思っていました。
ですから主人の言うことを聞かないのです。主人から言われたにも関わらず従いませんでした。

これらのみことばの箇所で、主人の言う通りにした者は天に入りましたが、
言う通りにしなかった者、自分勝手に動いた者、それは主人の顔に泥を塗った者です。
この人達はすべて暗闇に出されました。

これは私たちの裁きの時には同じことを受けるのです。その時に2つの道に分かれます。


【ルカの福音書6章46-49節】

その人の人生が、裁きの時に 虚しく崩れ去って行く姿をここで見せています。
私たちは死ぬ時に悔い改めをしたら良いと思っても、ある人は一瞬にして亡くなります。
地獄へ行っても構わないと強気で言う人もたくさんいます。

クリスチャンは騙されてはいけないです。クリスチャンは自分が罪人であることを忘れてはいけないです。
常にイエス様に対する信じる心と、信じた後でも常に足を洗わなければならないです。

罪を悔い改めて立ち返り、主のみこころ通りに聖くなることを目標にしているならば
その人たちは、救いから もれることはないです。このことを心に留めてください。 ( -д-)ノ

2013.6.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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