からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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キリスト

言葉をみことばで止めて、みことばを実行する人

テーマは 『 言葉をみことばで止めて、みことばを実行する人 』 です


私たちが生活の中で一番よくしてしまう失敗は何でしょうか?


それは言葉の失敗です。

言葉の失敗によって仕事を失ったり、信用を失うこともあり、人を深く傷つけることができる一番の武器にもなります。


私たちがそのように言葉で一番失敗をしてしまいやすいのは、自分の言葉で深く考えずに思ったことを感情のままに言ってしまうからなのです。


今日はその言葉についてのみことばを見ていきます。


【ヤコブ1章19-27節】

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。

自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。


言葉の失敗は、何もない時にはほとんど起こらないのですが、何か納得がいかないことがあった時、ちょっとイライラした時、人に対して怒りが出てきたときに一番悪い言葉が出てきやすいですし、その言葉で平気に相手を傷つけてしまうのです。


自分では『別にそんな大した言葉じゃないし』と思っていても、聞いている相手からすると鋭い刃物で刺されたような痛みになることもたくさんあります。



私たちは自分の言葉をどうするのか、また怒りが出てきた時、腹が立った時にどうするのかを神様が教えてくださっています。




【19節】 聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいように




一番よくしがちなのは、聞くのは遅く、語るのは早く、怒るのは早い姿です。


つまり、人の話や神様のみことばには耳を傾けず、自分の想いや自分が話したいことは何よりも先にぺらぺらと話し、ちょっとイライラしただけでもすぐ怒ることです。

人に怒ったり、文句を言ったり、愚痴を言ったり。


でもその姿は神様が私たちに求めている姿とは正反対の姿です。




【20節】 人の怒りは、神の義を実現するものではありません




理屈に適っていそうな怒りも含めて、人の怒りは神の義は実現しません。


全く怒ったことがない、という人は一人もいないはずです。

怒りをぶちまける人もいれば、冷静に怒る人もいますが、どんな人であっても怒っている姿は美しい姿ではないですし、見たくない姿です。


私たちでもそのように感じるのであれば、初めからずっときよい神様からの目から見るとどのように感じるのでしょうか?


私たちが怒っている姿や言葉で人々を傷つけている姿、けんかをしている姿、口論している姿、悪口を言っている姿は全くきよい姿ではなく、汚い姿であり、みにくい姿なのです。


どんなことであったとしても、私たちが怒ったところで神様が喜んだり、神様が望むような きよい生活を送ることはできません。



唯一、正しい怒りを持ってきよくあり、神の義を実現する方は、神様ご自身だけなのです。


神様が怒る時は、人々が神様から離れて罪を犯している時であり、人々を憐れんで神様に立ち返ってほしいから、目を覚ましてほしいから怒るのです。

それは愛から出た怒りなのです。


逆に人が怒っている時の理由は何でしょうか?


ほとんどが自分の思い通りにならないから、自分のイライラやうっぷんをぶつけたいから、その人よりも自分の方が大切だから自分のために怒っているのです。


人の怒りの中で正当化できる怒りは残念ながら存在しません。






例えば、ヨナがニネベの町、ニネベの人に対して怒りを持っていました。

それはニネベが神様の前で正しい歩みをせずに罪ばかりを犯していたからです。


そんな罪だらけの町に、神様はヨナを遣わして、預言を与えようとしました。

でもヨナはそれに腹を立てて逃げました。


神様がいろいろな手段でヨナを打って、それでも腹を立てて『死んでしまいたい』とまで言うヨナに語ったのは、神様がニネベの人が罪をたくさん犯していたとしても、それでも助けるチャンスを与えたいと思い、憐れんでおられるということでした。



私たちの目では、罪だらけで汚れたニネベの人たちは滅ぼされて当たり前、罰を受けるべき、ヨナの怒りはもっともだ、と思うかもしれません。


でも、そこには神様がそれ以上の想いを持ち、憐れみと愛を持っており、神様の計画があったのです。


そこを自分の怒りにまかせて行動することは、神様の計画に反することであり、神様のみこころとは真逆のことをすることになるのです。



私たちもここから学ばないといけません。


私たちが『この人腹立つ』『こんなことするんだから、大きな罪だし、私が怒るのももっともだし、正しいことだ』と思ったとしても、それは実は神様のみこころに反することであり、神様の計画、神様の義を実現する姿ではないということです。




正しい怒りを感じた時は神様にまかせる




【ローマ12章16-21節】

互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。


私たちがすべきことは、正しい怒りであればそれは神様にまかせて自分では復讐をしないこと、怒りをぶちまけないこと、私たち自身が彼らのせいでかえって逆に罪を犯さないことです。


それとは反対に腹が立つ相手でも、敵であったとしても逆に彼らに善を施すことなのです。




【21節】 すべての汚れやあふれる悪を捨て去ること




怒り、憤り、人に対する悪い思い、のろい、悪口を含めてすべての汚れ、悪を捨て去りましょう。


キリストという新しい衣、義の衣を着る前に、汚い姿、罪の姿、汚れた着物を脱ぎすてることです。

私たちがすべきことは怒りを感じてそれを表したり、言葉にするのではなく、言葉にもなる前に、行動に起こす前にそれを捨て去ることです。




【21節】 心に植えつけられたみことば




すべての汚れや悪、すなわち周りの人への恨みや妬み、嫉妬、欲などすべてを捨て去った上でするのが、みことばの処方箋です。


自分の言葉で解決するのではなく、神様のみことばで解決するのです。

自分の言葉を神様のみことばによって止めるのです。


ここでのポイントは “心に植えつけられたみことば” ということです。


そもそもみことばが植えつけられていないと、発揮しない力なのです。

みことばを普段から自分の心の中に植えつけること。


そのみことばを植えつけていないと、怒り、汚れ、悪が来た時は心がそのまま怒り、汚れ、悪に持っていかれて終わりであり、神の義など実現せず、悪魔が与えた悪い思いでいっぱいになり、罪を犯して終わってしまうのです。


心のガードになるのは、普段からいかに植えつけられたみことばが自分の中で育っているのかが大切なのです。


聞いたみことば、心に植えつけられているみことばをもう一度受け止め、すなおに受け入れることです。




【22節】 『みことばを実行する人』 と 『聞くだけの者』




そもそも元々は旧約聖書、つまりヘブル語では『聞く』と『従う』は二つの言葉ではなく、一つの言葉”Shema”で表されていました。


神様の言葉を『聞く』=『聞いて従う、聞いて行動を起こす』までが当たり前にセットであり、『聞くだけ聞いて 何も行動を起こさない』ことは有り得なかったのです。


それは、聞いていても聞いていない姿、耳が死んでいる姿です。


みことばを聞くからにはそれに反応をすること。

それを実際に実行することがマストです。




【23節】 『鏡』で一瞬眺める人と
【25節】 『自由の律法を一心に見つめて離れない人』




その当時は今よりも鏡はよくあるものではなく、たまに見るものでした。

たまに見ては元々自分の姿がどうであったかを忘れていました。


みことばを聞いていても、実行をしないなら すぐそのことばを忘れてしまう。

たまにみことばを聞いてその瞬間はこうか、と思ってもすぐに忘れて結局は何にも活かさない姿。


私は本当は神様の子どもとしてこのように歩まないといけないんだなとその瞬間は思ってもまたすぐ忘れてしまう。


それらは、神様が私たちに求める姿ではありません。



逆に私たちがなるべき姿は、『自由の律法を一心に見つめて離れない人』です。


『自由の律法』は自由な律法という意味ではなく、『私たちを自由にする律法』であり、これは完全な律法でもあり、『キリストの律法』のことを指します。


みことばを聞くだけではなく蓄えて、キリストを見つめ、みことばを実行する者になることが大切です。


律法だけでは救いは得られないですが、キリストによって救いを得た人はそのキリストの律法を実現する者になっていくことが求められます。


この律法を実現することによって逆に私たちは自由になるのです。






例えば、ある人を許せないとします。

それは実はこの自由の律法に反すること。


『許せない』という想いが、逆に自分を苦しめて自分を縛ることになります。

自分自身が重たい気持ちになり、罪を犯すことになり、その中にいることになるのです。


でもキリストの中でその人を赦す時、私たちは逆に自由になります。

心が解放されます。



キリストの律法を実現することで、私たちは自由になるのです。


また、この自由の律法を行うことによって さらに私たちは神様によって祝福もされるのです。


このキリストの律法についての他の聖書箇所や、イエス様自身が律法について語られている箇所も見ていきましょう。


【ガラテヤ5章14節】

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。


【ガラテヤ6章2節】

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。


【ヤコブ2章8節】

もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。


【マタイの福音書5章17-22節】

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。



【27節】 きよく汚れのない宗教




私たちの信仰生活に大切なのは、神様との関係、人との関係であり、ここでは神様の前でみことばの通りに生きること、つまりはきよく生きることと、困っている人々を助けること、つまりは隣人を気にかけ、愛することです。


そもそも本当は『この人、腹立つ』とかそういう次元で生きるのではなく、神様が私たちに求めているのは そういう悪は捨て去り、心に植えられているみことばを受け止めてきよく生きることであり、それだけではなく周りに困っている人々を助け、愛することを望んでおられます。



言葉での失敗をせず、聞くのには早く、語るのには遅く、怒るのには遅い者となり、すべての悪い者は捨てさり、心に植えつけられているみことばを実行する者、自分をきよく保ち、周りの人を愛する者になっていきましょう!


アーメン (*・ω・)ノ


2021.9.5
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二種類の人間

テーマは 『 二種類の人間 』 です

【ガラテヤ3章10-14節】

というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。

しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行う者はこの律法によって生きる」のです。

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。


私たちの目にはあらゆる種類の人間が見えますが、神の目には二種類の人間しか見えません。

それは、神の呪いの下にいる人間と、呪いから解放された人間です。


すなわち律法の下にいる人間は 呪いの下にいることになります。

また良い行いによって救われると思っている人もこれに含まれています。



どの人間も律法全体を守ることは出来ないし、罪一つない人間も世には存在しないです。


どんなに聖く正しく生きようとしても、罪と縁がない人はいないです。

聖書は「義人はいない。ひとりもいない。」と宣言しています。


肉に属する者は、肉の悪い行いによって生きるようになっています。

そして肉に属する者は 神の国を相続することが出来ないです。



また呪いから解放された人がいます。


この人たちも呪いの下にいましたが、自分の身に呪いを受けて死んで下さったキリストを信じたことによって神の恵みを受け、呪いから解放されました。


呪いから解放されたことが「救い」です。


救いは神の恵みであり、受ける価値のない人が、努力なしに、信仰だけで得るものです。





信仰




なぜ信仰だけで得られるでしょうか?


キリストが私たちために呪いを受けたので、律法の呪いから私たちを贖うことが出来ました。


【ガラテヤ3章13節】

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。


ですから信じる人は キリストによって呪いから解放されます。

解放された人は聖霊を受け、聖霊から永遠のいのちを受けます。


【ガラテヤ6章8節】

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。


信仰だけで救われることがないと言いながら、他のことも強調する人たちはキリストの恵みを受けることもなく、呪いの下にとどまることになります。



他のものによって人間をのろいから解放することは不可能なので 神は御子を世に遣わし、十字架にかかるようにしました。


そして、それを信じる者だけが救われるようにしました。

ですから神の目には、キリストによって呪いが取り除かれた人と 呪いがそのまま残っている人しか見えないです。


自分はどこにいますか?


アーメン Σ(・ω・ノ)ノ


2021.7.4
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私たちは神様の建物、畑

テーマは 『 私たちは神様の建物、畑 』 です


今回は “教会とは何か、教会に仕える主のしもべや、教会生活が どうあるべきか” を見ていきましょう。

第1コリント3章を見ていきますが、その前にまず、コリントの教会がその当時どのような教会であったかを見ていきます。



コリント教会の始まりは 使徒18章に書かれており、AD50の初め、パウロが2回目の宣教旅行の際に、コリントを訪れて宣教し、プリスキラとアクラと一緒に18ヶ月間も住みながらコリントの教会を建てました。


パウロはそこでユダヤ人から迫害を受け、のちにシリヤに向けて出発するためにコリントを出ました。

その後、アポロがコリントに到着して、その教会に仕えていました。

実際にアポロの姿を見てみましょう。


【使徒の働き18章24-28節】

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。

そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。

彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。


コリントの教会は 教会を初めに建てたパウロや、その後のアポロのメッセージによって霊的に成長していました。


コリントという町は ギリシャにあり、都会で、成功している人々が多かったのですが、コリントの教会には社会的に低い地位の人も多く、もちろん高い地位の人もいました。

約1世紀の間ローマの植民地であったため、ローマの影響も受けていました。



また、ギリシャの文化では英雄をまるで神のように扱い、神のように仕えていた文化もありました。

コリントの教会の姿について見ていきましょう。


【第1コリント 1章4-9節】

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。

それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。

主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。


パウロの言葉によると、コリント教会はことばや、知識、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者になったこと、また、賜物も欠けることなくあること、熱心に主イエスの現れを待っている信仰深い姿がありました。


これだけを見ると、成長していて霊的にもしっかりしていると思うかも知れません。

しかし、一つそのコリント教会に大きな問題があったのです。


【第1コリント 1章10-12節】

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、

あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。


コリント教会の中で、人々は信仰を持って育ちながらも、徐々に人々の中で「私はパウロの方がいいな、パウロが元々この教会を建てたし」

「私はアポロの方がいい。メッセージが力強いし、うまいし。」

「いや、わたしはケパ、ペテロが良い。」

「いや、それなら私はキリストだけについていく。」という声を上がり始めました。



教会に集い、みことばを聞き、霊的にも成長していきながらも、気づけば少しずつ「私はあの人がいい、この人がいい」と「どの人が良いか」と論争を始め、分裂が起き始めたのです。


それに対して、パウロは第1コリント3章で詳しく述べています。


【第1コリント 3章1-17節】

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、

各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。


ここでは人々がアポロの方についていく、パウロの方についていくと分裂している様子が書かれています。


本来は ただの人であるこのアポロやパウロを、気づけば神様よりも大切にし、重要視している姿が人々の中で見られました。



それについて、パウロは二つの例を使って私たちに教えています。




畑と建物のたとえ




まずは、畑の例えです。

初めに教会という種を植えたのはパウロであり、その種が育つために水を注いだのはアポロですが、実際にそれを育てて成長させたのは神様です。


いくら私たちが畑に種をたくさん蒔いて、水をたくさんやったとしても、太陽の光がなければ育ちません。

太陽の光は私たちが作り出すことは出来ず、神様の恵みによって与えられるものです。


神様の恵みなしに、教会が成長することはないのです。



神様と共に生き、神様の恵みがない教会に、いくら人がたくさんいても、素晴らしい指導者がいたとしても、それは成長しない死んだ教会です。


私たちが大切にすべきなのは、植える者でもなく、水を注ぐ者でもなく、それを成長させてくださる神様ご自身です。


私たちが大切にし、またいつも教会の中で中心に置くべきは神様なのです。






次にもう一つの例えとして、建物が挙げられています。


建築家は、オーナーに依頼されてそのオーナーの希望通りに建物を建てますが、その建物自体は建築家のものではなく、オーナーのものです。


建築家パウロは、オーナーである神様にコリントの教会を建てるように言われて、しっかりイエス・キリストという土台の上に教会を建てましたが、その教会自体は神様のものであり、パウロのものではありません。


すべては神様のものであるのにも関わらず、それをまるで建築家のパウロや、その建物を維持している管理人のアポロの方を重要視していました。



いつの間にか、神様を求めにくるはずの教会で、神様よりも人を見るようになりました。

それで どの人の方が良いのかと、意見が割れ、口論になったり、もめたりしていますが、それは本来間違った姿なのです。


教会はキリストが土台になっており、教会自体も神様のものであり、そのオーナーである神様に私たちは会いに行くのです。


また、どんな建物になっているのか、ちゃんとオーナーが言ったとおりに建物を建てているかどうかを判断するのは、オーナー自身であり、建物自身ではないのです。



もし建築家である神のしもべが、オーナーである神様の言う通りにしっかり教会を建てないのならば、イエス様が再び来られる日にすべて明らかになり、神様が判断をし、裁きを下されます。


それは私たち人間がその人がどうなのかを判断するのではなく、神様が判断することなのです。






それでは、私たちがすべきことは何でしょうか?


それは私たちが何者であるのか、また神様と私たちの関係をしっかり理解して生きることです。


【第1コリント3章9節】

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。


【第1コリント3章16節】

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。


私たちは神様の畑、建物であり、神様の神殿そのものです。

また、神の御霊、つまり聖霊様が私たちの中に宿っておられます。


私たちが自覚すべきは、私たち自身が神様の教会になっていることであり、私たち自身が神様のものであるということです。



聖霊様が私たちの中に生きているのであれば、人を中心とした肉的な者として生きるのではなく、神様を中心とした聖霊と歩む霊的な者として歩まないといけません。


教会は、人中心ではなく、人を求めに来るのでもなく、私たちの父でありオーナーである神様を求めに来るべきです。



もし人を求めて 人のために来るのならば、肉の者として集まることになり、教会とは言えず、ただの人の集まりに過ぎません。


しかし、神様のものとして、聖霊様が宿っているものとして集まるのが神の教会です。


神様ご自身を求める時、頼り祈り求める時に神様は、私たちの想像をはるかに超えて私たちを成長させてくださり、祝福してくださり、守ってくださいます。



神様は教会をご自身のものとして建てました。


また、そこに集う信徒たちは神様の教会そのものであり、神様のものであります。

教会を成長させたのも神様です。



神様はこれからも私たちに、神様のものとして、神様を求め、いつも神様を中心に礼拝を捧げ、教会で交わりを持ち、成長することを願っております。


それは私たちにとっても恵みのあることなのです。

これからも成長させてくださる神様と共に、神様のものとして教会生活を続けていきましょう!


アーメン (*・ω・)ノ


2021.4.18
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すべての事について…感謝❤

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勝利した主

テーマは 『 勝利した主 』 です

【ローマ8章37節】

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。


今日は 死からよみがえった主を礼拝する 『イースター』 です。


復活は圧倒的な勝利を宣言するものです。

復活によって神を冒涜する者ではなく、神の子であることを公に証明しました。



主の勝利は、主を信じる者の勝利です。

主は、信じる者にも圧倒的な勝利を与えます。


主がどのようなことに勝利したのかを今回は伝えます。




サタン、悪魔との戦いで勝利しました




活動の初めからサタンとの戦いがありました。

40日間 断食した後に、悪魔の甘い誘惑がありました。


それは十字架の道を妨害する誘惑でした。



十字架の苦難は、辛いものなのでサタンから来たものと思う人が多いですが、それは神の計画であって、サタンの計画ではないです。

サタンは十字架にかからないように多くの誘惑をしました。


しかし主は すべての誘惑を退け、サタンの計画には従わず、神の計画である十字架にかかって「完了した。」と宣言しました。

それは勝利の宣言でした。


サタンは、主が救い主ではなく、偉大な人間として生きることを願いました。



しかし主は、人間を罪から贖う救い主になることを選び、十字架の道を選びました。


神の計画を正しく知って、その計画に従う時に私たちもサタンに勝利することが出来ます。




死の力に勝利しました




死の力はサタンが持っている一番強い武器です。

罪からの報酬は死です。


どの人間も、サタンの最強の武器である死の力を打ち破ることが出来ないです。


ですからすべての人間は、死の武器の前にひざまずき 死にます。

死は、罪を犯した人間に下るのろいであり刑罰です。



しかし主は、死の力を打ち破り、よみがえりました。


サタンの最強の武器である死よりも 強い武器である “いのち” が主にはあります。

死人を生き返らせるものがあるならば、死を恐れる必要はないです。


復活のいのちは、信じる者に永遠のいのちを与えるという約束が 嘘ではないことを証明しました。



死で終わったならば、永遠のいのちの約束は無効ですが、復活が起きたので有効になります。


信じる者は死を恐れる必要がないです。

いつか永遠のいのちがある体に私たちもよみがえるからです。




主の勝利は自分自身に対する勝利です




十字架を前に主は激しく祈りました。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と三度も祈りながら自分自身と戦いました。



世にある最大の敵は、外にあるのではなく 自分自身です。

絶えず自分の中から出てくる肉の思い、人間的な思いがあります。


自分を優先したい思い、楽な道を歩みたい思い、何もしたくない怠ける心、快楽を求める思いなどが絶えず出て来ます。

その戦いで失敗することが一番多いです。



自身が自分の一番の敵です。

主はそれにも勝利しました。


断食後の誘惑が来た時も勝利し、最後の十字架受難の誘惑にも勝利しました。

このように勝利した主に、父なる神が与えたものは何でしょうか?


【ピリピ2章9-11節】

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。


このように勝利した主には素晴らしい権威と祝福が与えられました。

そして勝利者につく者も その祝福と喜びを共有することが出来ます。


ハレルヤ。 v( ̄∇ ̄)v


2021.4.4
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神の深い愛を経験しよう

テーマは 『 神の深い愛を経験しよう 』 です

【第1ヨハネ4章9-11節】

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

クリスチャンが神の愛が何かを知らないならば、信仰に対して何も知らないのと同じです。


なぜなら神は愛だからです。

神を信じる信仰とは、神を愛することです。


他人から恋人関係になるのは、2人が恋に落ちた時からです。

1人だけ愛しているならば、それは片思いの愛であり、恋人にはなっていないです。



神は愛で、私たちを愛しています。

それだけでは私たちが神の愛を知ることは出来ないです。


私たちが主のように自分をささげるまでは 神の愛を知ることが出来ないです。


神から愛されている実感がないと思っているならば、自分が神を愛していないことです。




愛は火のように熱く、死のようにまた真剣です。


1人の女性を愛した2人の男性が、その女性を得るために命を懸けて決闘したことは昔から聞いています。

それほど愛に最高の価値を置いた若い世代がいました。


もちろん今も愛に命を懸けている者もいると思います。



人々がこの世で不満、苦しみ、悲しみの中で生きている理由は、自分たちに対する神の愛がどれほど大きくて素晴らしいかを知らないからです。


雅歌8章6-7節にある愛です。

愛がどんなに強いものであるかを見せてあります。



【雅歌8章6-7節】

私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。

大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。


人間が先に神を愛したことは一度もありません。

神が先に私たちを愛しました。


私たちが罪の中で神に敵対しているのに、それでも愛し続けておられるのが神です。



使徒パウロは、神の愛がどれほど熱い愛かを経験した人でした。


神の教会をつぶし、聖徒たちを激しく迫害したのに、神は怒りではなく、愛の手を彼に差し伸べました。

パウロはその愛を受け入れました。


そして自分も命を懸けて主を愛しました。

ですから神の愛を経験し、このように語りました。



【ローマ8章38-39節】

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


父なる神の愛は、ひとり子イエス・キリストを世に遣わし 十字架につけて、その血で私たちを救い出した “血の愛” です。


すなわちその愛は、キリストの死に現れました。

キリストはなだめの供え物として来られました。


私たちの罪のために いけにえとしてキリストがささげられたことを軽く考えてはいけないです。


そこには命を懸けた愛があるからです。






レビ記の中にいけにえとして ほふられる家畜が どんなにひどい目に会うのかを考えるならば、神の愛、キリストの十字架、罪の赦しが どれほどすごいものであるかを実感することが出来ます。


神にとって一番の苦しみは、人々が神の熱い愛に対して反応しないことです。



神の愛が熱い分、その愛をいつまでも無視する人に対しては、神の怒りが同じくらい燃えることも知らないといけないです。


律法の中で一番大切な戒めが次の箇所です。


【マタイの福音書22章37節】

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』


私たちの中に 少しでも愛があるのは、私たちの心に神の愛が先に感動を与えて下さったからです。


十字架を見上げて主の愛を深く考えるならば、私たちに対する神の愛の大きさに圧倒されて、神を愛せずにはおられなくなります。



神様よりも大きな愛を体験したことがありますか?

神よりも大きな愛を持っている者は存在しません。


本当のクリスチャンは 神の愛に感動して、愛のとりこになって神だけを愛して生きることを決心した人です。



暗闇の中で滅びに向かって歩んでいる者たちを目覚めさせたのも神の愛です。

神の愛を深く知ることが何よりも大切です。


主の御座に近づく者は、もっと主の愛を知ることが出来ます。

主は私たちだけを見て愛して下さいました。


ですから、私たちも神しかいないかのように生きると、毎日 主の深い愛を経験しながら生きることが出来ます。



神への熱い愛も、隣人に対する愛の行為もない人生は、むなしく喜びもないです。


神の愛を経験してみて下さい。

経験すると信仰、生き方、人生、死に対する考え方がすべて変わります。


そしてその愛で本当に心が満たされていきます。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2021.3.14
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アドナイ・イルエ ~もう一人のアブラハム~

テーマは 『 アドナイ・イルエ ~もう一人のアブラハム~ 』 です

【創世記22章1-14節】

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。


今日は皆さんがよくご存知の創世記22章に出てくるアブラハムとイサクの話をしたいと思います。

「あ、またその話か」と思うかもしれないのですが、ぜひ聞いてほしいです。



創世記22章に書いてあるように、アブラハムは神様に「一人息子のイサクをささげなさい」と言われて、朝一に起きて、イサクとともに神様に指定された山に登り、イサクをささげようとしました。


実際にイサクを薪木の上に置き、縄で縛り、殺そうとした時に 神様がアブラハムの手を止めました。


神様はアブラハムが誰よりも神様を第一にして、愛するその愛の姿、また、神様の御言葉、約束を信じたそのアブラハムを見て、その信仰をほめました。



この話は、新約聖書でも伝えられ、アブラハムはその信仰のゆえに、信仰の父と呼ばれています。


何一つ神様に文句も言わず、疑問も問いかけず、神様の言葉の通りに実行するほどの大きな信仰を持っていたアブラハムの姿は、私たちが見習うべき姿でもあります。






しかし、ここで もう一つ知っておきたいことがあります。


実は聖書ではアブラハム以外にもう一人、自分の愛する一人子をささげた人がいます。

しかも、その人の息子は、イサクのように殺される寸前で助かったのではなく、本当に殺されてしまったのです。



それは、父なる神と、そのひとり子イエス・キリストです。


アブラハムは神様のために、愛するひとり子イサクをささげました。

神様は私たち罪人のために、愛するひとり子イエスをささげました。


イサクは自分がこれから死ぬことも知らず、モリヤの山に自分が上に乗るための薪を担いで登っていきました。



イエスは自分がこれから死ぬことをすべて知りながら、その為にこの世に来て、人々にムチ打たれ、縛られ、自分がつけられる十字架を背負えないほど傷つけられ、代わりにシモンというクレネ人が イエスの十字架を背負い、ゴルゴダの丘に登っていきました。


神様は、愛するひとり子よりも、何よりも神様を愛するアブラハムの信仰を見て、アブラハムがイサクをほふろうとしたのを止めて、イサクを救いました。



神様は、誰よりも私たちを愛するために、ひとり子イエスが十字架にかかり、ムチ打たれ、釘を刺され、血を流し死んでいく姿を見ながらも止めずに、イエスを代わりに死なせ、私たちを救いました。


それが神様の愛です。

ひとり子イエスを死なせてまで、私たちを救われたのは、神様の愛なのです。


神様は、罪人が神様に立ち返り、その罪を洗い清めるために、すべての罪の代価を自分のひとり子イエスに着せたのです。


罪にまみれた私たちが、神様の前に出る価値、資格すらない私たちが、神様と和解するために、何の罪もない、裁かれる必要もなく、苦しむ必要も 死ぬ必要もまったくなかったイエス様が私たちの代わりに、罪の代価をすべて払ってくれたのです。






神様はアブラハムの時のように、イエスを十字架にかけることを止めることもできたのです。


そもそもこの世にイエス様が来ないようにすることもできました。

だけれども、それをやめませんでした。



もしイエス様がこの世に来ず、十字架にかけられず、三日目に蘇らなければ私たちがそのまま滅びていくからです。


神様は私たちのために、自分のひとり子イエスが十字架にかけられ、死ぬことをストップせず、また、イエス・キリストもすべての痛み、苦しみを全部受け止めて、最後までそのミッションを果たしたのです。


そのミッションは急に決まったのではありません。

人が初めて造られ、その人が神様に初めて歯向かい、罪を犯し、自分の姿を見るのも 見せるのも恥ずかしくなって神様から逃げた時に、神様はイエス様を送ることを決意しました。



私たちが一番恥ずかしい時、神様から遠ざかった時、神様よりも偉くなりたいと思った時、自分たちのことで頭がいっぱいになっているその時に、逆に神様は私たちを愛するがゆえに、イエス様をこの世に送り、十字架にかけさせることを決めたのです。


このアダムとエバが罪を犯した時に、アダムとエバ、蛇、それぞれに裁きがありましたが、それと同時に神様が約束されたことがありました。

それは、蛇に対して言った言葉の中にありました。


【創世記3章14-15節】

そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。


アダムとエバの子孫が、蛇の頭を砕いて、蛇はその彼のかかとにかみつくと。

つまりは、のちに来るイエス・キリストが、蛇の頭を砕いて勝利する、と。


そこに勝利があります。

ただ、そこには「彼のかかとにかみつく」、つまり “キリストも攻撃を受けるんだ” という言葉がありました。






人間が神様に一番歯向かった時、そのまま滅ぼされてもおかしくなかったその時に、神様が決断されたこと、それはひとり子のイエス・キリストを送り、苦しみを負わせるが、人間を罪の道へと走らせた悪魔の頭を砕き、完全勝利するということ。


神様はそれを約束されたのです。

人間が何か良いことをしたから、神様の御心にかなったから、イエス様がこの世に来たのではありません。


それはただ、神様の愛であり、許しであり、神様が初めからそうすると決めたからなのです。


【創世記3章21節】

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。


神様は私たちが罪を犯して一番恥ずかしく、一番だめな時に、私たちの罪を、私たちの恥ずかしい姿を覆い、隠すために、皮の衣を作ってくれました。


私たちのために作ってくれたその皮の衣は、動物の犠牲がありました。

私たちのために、ほかの者の命が犠牲になったのです。


これは のちに罪の贖いをするために来られるイエス様を象徴しています。



初めから、私たちの罪を覆い、恥ずかしさを覆うために、ほかの大切な命を犠牲にすること、そうすることを神様が決められたのです。

神様はそうせずに、人間を滅ぼすこともできました。


しかし、神様はイエス様を十字架にかけて私たちを救うことを決意し、イエス様も最後まで逃げることもせず、やめることもせず、初めに神様がした愛の決断をそのまま守り抜き、やり通すことを決めて、十字架の上で私たちに愛を示されました。

なぜそこまでしたのでしょうか。


【第1ヨハネ4章9-10節】

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


理由はただ一つです。


神様が私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを生かすため、その大きな愛ゆえにこの世界に来てくれたのです。


それが、私たちの信じる、私たちがお祝いをするイエス・キリストの姿なのです。

クリスマスは、ただのお祝いや、イベントごとではありません。


神様の決意、イエス様の決意があり、その大きな愛を私たちが受け取る日なのです。

アドナイイルエ、神様が備えてくださった 十字架の救い、神様の愛を受け取りましょう。


このクリスマスまでの期間、神様の愛、イエス様の決意についてもう一度深く考え、その愛を受け止めていましょう。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2020.12.13
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絶対に諦めないように

テーマは 『 絶対に諦めないように 』 です

【へブル12章1-3節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

レジェンドということばは よく使われています。


伝説あるいは伝説的な人物という意味で用いられています。

スポーツ選手の中でも偉大な功績を残した人に対してもよく使われてあります。



へブル12章は11章の延長で考えるのが良いと思います。


11章には 優れた信仰を持った人物たちが出てきますが、彼らこそ信仰においてのレジェンドたちです。

その人たちの信仰の姿が11章で紹介された後に、12章で彼らを多くの証人ということばでさらに紹介しています。


信仰の先駆者たち、熟練した信仰のレジェンドたちは いま主の所にいて、地上で信仰の競争をしている人々を応援しています。



1月2日、3日には箱根駅伝が行われます。

多くの人がテレビで応援していますが、わざわざ現場に行って応援する人たちも多いです。

特に箱根駅伝に参加したことのある先輩たちは熱心に応援しています。


そして走る選手たちも先輩たちが残した記録に負けないように最善を尽くします。

休みながらゆっくり走る人は誰もいないです。

倒れそうになっても必死に走るので さらに応援したくなります。






信仰の競争も同じです。


出発があり、ゴールがあります。

どこに向かって行くのか分からないような走りではないです。


ゴールに向かって最後まで走らないといけない過酷な走りなので、証人たちが応援しています。

その道を先に通った先駆者たちが道を開いたので、後から走る者たちもゴールに辿り着くまで必死に走ります。


今は走っていますか?

立ち止まったり、諦めたりするならば、それまで走って来たことはすべて無駄になります。


天国に辿り着かないと、残った道は地獄しかないです。


地獄に行って良いでしょうか。



天国に辿り着く走りをするために すべきことがあります。


私たちの霊に寄生虫のように くっついている2つのものを取り除くことです。

選手たちが少しでも早く走るために ぜい肉を必死に落としていくように、信仰の競争を邪魔する2つのものを取り除くことです。




様々な欲望




様々な “欲望” という ぜい肉を取り除くことです。


【第1ヨハネ2章15-17節】

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。

欲望は必要なものが与えられても満足を知らないものです。

欲望の中にあるのは世を愛する心がいっぱいです。


ですから世に心が奪われて、神の事や信仰、天国にもあまり関心がなく、あるのは世に対する関心だけです。

天国では世のものはゴミ扱いなので、ゴミを持ち込むことは出来ないです。




まとわりつく罪




そしてもう1つは “まとわりつく罪” です。

罪は汚れであり、霊肉をむしばむ寄生虫と同じです。


悔い改めて罪を洗い、罪の誘惑と戦って罪から離れないと 霊が汚されてしまいます。


走れないようにする “足かせ” のようになります。



いつもこの2つのものを取り除きながら、救い主であるイエス・キリストから目を離さず、前に向かって走ります。

私たちの信仰のスタートはキリストでしたので、完成者もキリストになります。


キリストも人間として地上にいた時に、この道を走りました。

ゴールに用意された栄光を見て喜びながら、十字架の苦しみに耐えて勝利しました。



信仰が衰えて来た時、弱くなった時、私たちはさらに主のこと、そして信仰のレジェンドたちのことを思い出しながら、弱った手と衰えたひざとをまっすぐにして走ることです。


すると たましいに新しい力が湧き出ます。

それによって最後まで走り抜くことが出来ます。



信仰は諦めたらおしまいです。

永遠のいのちも神の国も自分のものにはならないです。


その尊いものがあるからこそ走り抜くことです。


アーメン ( ̄‥ ̄)=3


2020.9.26
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反キリストの現れ

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【ヨハネの黙示録13章7-10節】

彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

耳のある者は聞きなさい。

とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。

キリストの再臨の前に 必ず起こることの一つが、反キリストの出現です。


今までも反キリストの働きをした多くの偽キリストが出ましたが、キリストの再臨の前に現れる反キリストは その力や影響力がそれまでとは全く違うので、人々は惑わされ、またはそれに支配されるので大患難が到来します。


信仰を守るためには殉教を覚悟しないと守れないほどの患難が来ます。


これはサタンの最後の作戦で、聖徒たちを攻撃するために準備をし、準備が出来た時に現れて、自分の手下である反キリストを世に送り、世界を支配させ、聖徒たちを迫害します。



サタンは自分にある権威をその者に注ぐので、キリストの復活を真似し、人々を驚かせ、自分を拝ませ、思いのまま権力を振るい、神の聖徒たちを激しく迫害します。


反キリストの力は小さな力ではなく 全世界の政治、軍事、経済、宗教、社会の覇権をすべて握って人々を自分たちの支配下に置きます。

それが着々と進んでいます。



「陰の政府」と言われる超エリートたちによって新世界秩序のシステムが造られていきますが、多くの人はこれにあまり気付いていないです。

彼らが目指すのは世界単一政府で、世界を支配する計画です。


目を開けて見るならば、世界のあらゆるところで、彼らの動きを見ることが出来ます。


彼らの姿は黙示録17章、18章にある 大淫婦の姿です。

その特徴を見ると、その者たちが誰であるのかが見えてきます。




大水の上にすわっている大淫婦



【ヨハネの黙示録17章1節】

また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。

世界のすべての国家と人々の上に君臨する




緋色の獣に乗っているひとりの女



【ヨハネの黙示録17章3節】

それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。

反キリストの守りの中で力を発揮する




華麗に体を飾っている女



【ヨハネの黙示録17章4節】

この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。

物質主義と快楽主義で世を惑わす




手に金の杯



【ヨハネの黙示録17章4節】

この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。

憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになる




額にバビロンという名



【ヨハネの黙示録17章5節】

その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。

人々を誘惑し、自分のしもべにする




聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている



【ヨハネの黙示録17章6節】

聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。

神の民を迫害するのを楽しみにする姿として現れています。

調べると、このようなことを実際にやっていることが見つかっています。



反キリストが現れるために、政治と経済、メディアとエンターテイメント界の中で活躍する者が多いです。

その内幕を知らないと惑わされていきます。


【マタイの福音書24章24節】

にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。


目を覚ましてキリストの再臨を待ちましょう。
アーメン ( ̄‥ ̄)=3


2020.5.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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1年間神との関係はどうだったのか

テーマは 『 1年間神との関係はどうだったのか 』 です

【第1ヨハネ2章6節】

神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

今年も もうすぐ終わりです。

数日後には2020年が始まります。


ですから一年間を振り返ってみて、その中で神との関係がどうだったのかに焦点を合わせてメッセージを伝えます。


信仰生活の勝敗は神との関係にあります。


神の国に向かって行くためには勝利しないといけないです。


神は勝利を得る者に様々な祝福を与えます。

負けた者に祝福はありません。


神との関係に問題がない人は勝利し、問題がある人は失敗します。



キリストはいつも父なる神との関係を語りました。

その関係は最高の関係で、完全な信頼関係でした。


私たちは次の項目で神との関係がどうだったのかを考えてみたいと思います。




神と共に歩んだのか




いつでもどこでもエノクのように神と共に歩んだ人は 神との関係に問題はありません。


しかし普段は主を忘れて生活し、日曜日もかろうじて礼拝だけ参加し、時には礼拝もさぼって生活したならば、その人たちにとって神との関係は冷めた関係で、良い関係ではないです。


神と離れられない関係なのか、それとも冷めた関係なのかを調べてみて下さい。




神のみこころを求めて みこころのままに生きたでしょうか




何かをする時にまず主のみこころを求めるでしょうか?

それとも自分で決めた後に主に祝福だけを求めるでしょうか?


神が喜ぶ人はいつも主のみこころを求める人です。

それが主の主権を認める行為であり、主の計画に従う人です。


神の導きの中で生きる人と 神をただ利用する人は、みこころを求めるか求めないかで分かります。


みこころを求めてその通りに生きた人は良い実を結んだ年になったと思います。




神のみことばを実践したのか




神のことばを聞くだけで終わったでしょうか?

それとも一生懸命に実践したでしょうか?


実践した人は自分でも自分の信仰が成長したことに気づいていると思います。

そして多くの神体験もしたと思います。


体験も証もなかったならば、みことばを実践していないことですね。


みことばには多くの約束が伴ってあるので、実践したならば必ず神が約束を果たして恵みを注ぎます。


神はみことばを実践する人を信仰ある人として認めます。




神の前にいつも罪を悔い改めたでしょうか




罪を犯さずに生きることは ほぼ不可能です。


罪を犯した時にいつも心を痛めながら悔い改めていますか。

それとも罪を軽く考えたり、勝手に赦されたと思って何もしなかったでしょうか。


罪は必ず悔い改めないといけないです。


キリストの花嫁の姿は聖い姿でなければなりません。

罪によって汚れたままの姿はキリストにふさわしくありません。


今からでも遅くはないです。

今年の罪をすべて悔い改めて主の赦しを求めましょう。


これらの項目で神との関係を点検してみて下さい。


そして神の前に静まってもう一度神との関係を新しくして新年を迎えて下さい。
アーメン (*´∇`*)


2019.12.29
聖日礼拝メッセージ

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キリストが捨てたものは何か

テーマは 『 キリストが捨てたものは何か 』 です

【ピリピ2章6-11節】

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。


キリストの人間としての部分を見ると、私たち人間と同じように見える部分もあれば、違う部分もたくさんあります。


同じ部分はキリストも肉体を持っていたので 疲れを感じたり、お腹が空いたり、痛みを感じたりしました。

そして感情があるので涙を流したり、喜んだり、悲しんだりしました。


しかし 生き方においては、キリストは 私たち人間とはまったく違っていました。


その中で、私たち人間が捨てられないものを キリストは大胆に捨てました。

その部分を学びたいと思います。




神の栄光を捨てて卑しい人間になった部分




人間は神になろうとして罪を犯し堕落しました。

今も人間には 神になろうとする傾向が強いです。


キリストは神のあり方、栄光、尊厳を捨てて人間になりました。

自分を無にしました。


しかし人間はキリストとは正反対の生き方をしています。(アダムの堕落、バベルの塔の事件など)




すべての所有者であるのに すべてを捨てて貧しくなった部分



人間は神からすべてのものを受けたにも係わらず、まるで自分のものであるかのように執着し、絶えず富を得ようとしますが、キリストは自分からすべての富を捨てました。


【第2コリント8章9節】

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


【マタイの福音書8章19-20節】

そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」

すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」



神の権威を捨てて、しもべの姿になった部分




私たち人間は 人に仕えるよりも、仕えられることを好みますが、キリストは神の権威を捨て、しもべになって人間に仕えました。


【ヨハネの福音書13章4-5節】

夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。



いのちの主が罪人のためにいのちを捨てた部分




死は罪ある者が受ける刑罰なので、罪のないキリストにとって 死は無縁です。

しかし罪人である人間を贖うために、自ら罪人の代わりに十字架の上でいのちを捨てました。


【第1ペテロ2章22節】

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。


【ヨハネの福音書10章18節】

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

このようにキリストがあらゆるものを捨てたことによって 私たちが恵みを受けました。


罪の赦し、救い、永遠のいのち、天の富すべてがキリストをよって与えられたことを知らなければなりません。


キリストに栄光と誉れと感謝をささげます。
アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2019.12.22
クリスマス礼拝メッセージ

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