からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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イースター

復活は事実です

テーマは 『 復活は事実 』 です

【マタイの福音書28章1-8節】

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そ こで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

主が十字架にかかった時は街中の人々が集まり、主が死んでいく姿を見ていました。

それは、その日の一番大きなニュースだったと思います。
新聞ならば一面に載った記事だったと思います。


大祭司やパリサイ人、総督や軍人、一般の人たちまでも関わった事件でした。


復活は人々の目につかない時に起こりました。

安息日が終わり、週の初めの明け方でした。明け方は まだ人が活動する時間ではありませんし、朝早い時間に墓参りへ訪れる人もいません。


そのような時に復活は起こりました。
主が十字架にかかっていた時には、御使いは一度も見えませんでした。

大声で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言っても、神様や御使いは何の反応もありませんでした。


人々は自分を救えないイエスを見て嘲笑いました。
「やはりメシヤではなかった。普通の人じゃないか。」と思いました。

しかし、これで終わりではないことが、キリストが神である証明となります。

何よりも復活こそが神である証明です。


死んで終わりであるならば、ただの人です。ナザレ人イエスが死んだだけのことです。

しかし復活があるので 人間ではなく神であることが証明されました。

そしてその復活は事実です。
また、それは何によって証明されたでしょうか。今回、それを検証します。




1.主イエスの預言の的中




事前に何度も「死んで葬られ、三日目によみがえる」と主は話しましたが、その通りになりました。

墓に入ったことは完全に死んだことを意味しますが、そこから自ら出て来ました。

御使いが石を転がす前には すでによみがえっていて墓の中にはいなく、墓の外にいました。
そして生きている姿を人々に見せました。


イエス様は公の場で活動していた時に、すでに死んでいた人を三人も生き返らせたことがありました。

ナインという町に主が行かれた時に、やもめの一人息子が死んでかつぎ出されるところを見ました。

その母親を見てかわいそうに思い、棺に手をかけて「青年よ。あなたに言う。起きなさい」と言うと その死人は起き上がりました。
それを見て人々は恐れを抱き、神を崇めました。


今度は会堂管理者ヤイロの12歳になる一人娘が死にました。

主はその娘のところへ行き、娘の手を取って「子どもよ。起きなさい」と叫びました。
すると娘の霊が戻って来て娘は起き上がりました。


ラザロも死んで墓に入って四日目になりましたが、主は墓の前に行って「ラザロよ。出て来なさい。」と大声で叫ばれました。

すると 死んでいたラザロが生き返って墓から出て来ました。


この三人を生き返らせたことでも、すでに主は自分が話したことばに対して証明して見せました。

ラザロのお姉さんであるマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と主は言いました。


そして「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言った後に、墓の所へ行ってラザロを生き返らせました。

これらは主がいのちの主権者であることを表した出来事です。
そしてご自身も死からよみがえることを前もって はっきりと見せた出来事でした。




2. 数人の番兵たちが復活の目撃者




彼ら(番兵)は主の味方ではありません。

彼らは祭司長やパリサイ人たちがピラトの所へ行って、弟子たちがイエスの遺体を盗むことがないようにと頼まれたことで ピラトが出した兵士たちでした。

そして兵士たちはイエスを鞭打ち、十字架につけ、復活を信じない者でした。


しかし 突然大きな地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、墓の石を動かす姿などを見て震え上がり死人のようになってしまいました。

夢ではなく現実に自分たちの目で はっきりと見たので恐れおののきました。


そして祭司長たちの所に行って、起こったことを全部報告しました。

その報告を受けた祭司長たちの対応を見ても復活が事実であることが証明されました。


【マタイの福音書28章11-14節】

女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こったことを全部、祭司長たちに報告した。

そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、

こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。

もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」

と言いました。


目撃者にうそを言わせるために多額の金を払うことは、復活が事実であったことを証明するものになります。

十字架につけた者たちも驚かせたのが主の復活でした。




3.主の弟子たちが主の復活の証人




墓を見に来たマグダラのマリヤや他のマリヤが 誰もいない墓や御使いのことばで驚き、それからすぐにイエス様に会い、主は彼女たちに「おはよう」と声をかけまし た。

彼女たちは大喜びでした。それから主の弟子たちが次々と主に会いました。

何度も主に会ったので誰も復活を疑う者はいませんでした。


疑っていたトマスも後に自分の不信仰を恥ずかしく思いました。




4.500人以上の兄弟たちが同時に復活の主に会う




目撃者が多くなればなるほど、それは事実として認められます。


【第1コリント15章6節】

その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

これらのことで人々は復活を当然のことのように受け入れました。

聖書の後半部分を読んでも復活に対して異議を申し立てる者はいませんでした。


祭司長たちも後で弟子たちを迫害しても、キリストの復活はうそだとは言えませんでした。




5.主を迫害したパウロが復活の主に会って回心した




パウロの回心は、本人はもちろん誰も予想ができなかったことでした。

彼は誰よりも熱心にキリストを伝える者を迫害し、教会を荒らした者でした。


パウロがダマスコに行って キリストを信じる者たちを縛り上げる目的で進んで行く時に、突然 天からの光で彼は地面に倒れました。

そして声が聞こえてきました。
「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか」 「主よ。あなたはどなたですか。」 「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」


これによって彼は完全に別人になってしまいました。

いくら主のことばを聞いたり、復活の話を聞いても堅く心が閉ざされていた過激派の彼が一瞬にして心が変わり、主の弟子になりました。

そして誰よりも多くの働きをした使徒になりました。

自分が直接目撃したり、体験することが一番影響力が強いです。






もし 今もキリストの復活が信じられないとか、作り話だという人がいるならば、聖書をよく読み、また歴史もよく調べたら良いと思います。読まずに知らないままで否定する人は愚か者です。

確認もせず否定するのはよくないことです。よく調べてから判断することを勧めます。


私たちの罪を贖うために、人間と同じ姿になるしかなかったイエス様でしたが、十字架の死によって贖いの働きを完成しましたので、本来の神の姿に戻るためによみがえりました。

そして、いのちの主として 私たちにも復活のいのちを与えて下さると約束して下さいました。

私たちに起こる復活の姿はこれです。


【第1コリント15章42-44節】

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ 、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

聖徒の復活もすべて主によって与えられる最高の祝福です。


よみがえられたイエス様に心から感謝します。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2015.4.5
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストの復活

テーマは『 キリストの復活は歴史的事実 』です

【 マルコの福音書8章31節 】

このことは、イエス様が十字架に架かる前、苦しみを受ける前から弟子たちに教えていました。
しかし 弟子たちは意味もわからず聞いていました。

私たちも みことばを“聞いていることは聞いているけど、どういう意味だろう?”と思うことがあります。
特に預言の言葉は難しく、これから(未来に)起こることを語ると、わけがわからないです。
そして私たちが勝手な解釈をしてしまいます。私たちがどれほど霊的無知であるかがわかります。

復活ということは歴史の中でも1つもありません。
ですから、頭で理解をしようとしても理解ができませんでした。「そんなことは有り得ない」という人が多いです。

イエス様の復活はすべての面において証拠が揃っています。復活は事実であります。

当時のユダヤ教には2つの派に分かれていました。
サドカイ派とパリサイ派です。

この2つの派は神様に対しての解釈が違います。

サドカイ派は、大祭司、祭司、そしてその仲間たち、上流階級の人々でした。
彼らは「肉体の復活はない」、「未来の審判もない」、「報いもない」、「御使いの存在もない」と信じていました。
人々の前に出て神様に礼拝を捧げる者・大祭司がそのように信じるのです。

パリサイ派は、保守派でもあり、とにかく律法に熱心でした。しかし形式的で儀式ばかりを行っていました。
律法を守ることが生きがいでした。そして神様の言葉を守っていない者には罪人だと裁き、プライドが高いです。
彼らは復活を信じていました。

イエス様の弟子たちは、直接イエス様から教えられていましたが、復活や生きたまま十字架にかけられることを
聞いても悟れないので信じていませんでした。

しかし 弟子たちは復活したイエス様に出会って初めてわかりました。
復活がどういうものであるのかをハッキリと見たので信じました。それからキリストの復活を伝えるようになりました。

使徒パウロはパリサイ派で、復活を信じていました。しかし実際には信じていなかったです。
弟子たちがパウロに復活のことを語った時に「復活はない」と腹を立て、クリスチャンたちを迫害した者でした。

マリヤ・マルタ・ラザロの3兄弟も、ラザロが死にましたが、みんなが泣いている時にイエス様が来られました。
「よみがえりを信じるのか」とイエス様が語った時に、マルタは「信じます」と言いました。
しかし そう言いながらも、その事実を否定しました。
マリヤは復活する言葉を聞いた時に、それを事実として受け入れました。

多くの人たちは みことばを知識としては信じています。でも実際には信じないです。
牧師や信徒は「癒しを与えてください」と祈りますが、実際に 自分の身に癒しが起こることは信じないです。

これは「知識」と「実際に信じる信仰」は違うものであるからです。

私たちは聖書の言葉をそのまま信じなければならないです。
そして聖書に書かれていることは今も(起こることだと)しっかりと信じなければいけないです。

【 Ⅰコリント15章 】はパウロが書いた「復活の書」であります。

私たちは、復活と聞いてもピンとこないと思います。死んだら天国へ行くことはクリスチャンなら誰もが
信じています。しかしそれは「復活」ではないです。

天国に行くのが復活ではないです
イエス様は復活した時に、別の身体をもって地上に来られ 40日間活動をされました。

今、天国にいる人たちは地上に来て活動することはできないです。それは霊の存在だからです。
しかし復活は 私たちがもう一度、身体を着ることであります。しかしそれは同じ身体ではないです。
時間・空間・病気などに制限を受けないです。私たちは想像ができない身体で復活をするのです。
クリスチャンはそこまで信じなければいけないです。

私たちは復活にあずかるんだという思いがないです。
「死んで天国に行けば良い」と、それだけであります。ある意味ではそれでも良いのですが、
イエス様を復活させた神様は、私たちにもそれを味あわせるのです。

私たちはいつかはわかりませんが、神様が復活の身体を与えてくださり、永遠に主と共に住むのです。
私たちは復活の証人であります。

私たちもその素晴らしい姿に変わるんだという望みをずっと持ってください。

今、私たちは地上で受けている苦しみがありますが、その苦しみもイエス様の十字架の苦難に比べたら
大したことではないです。

私たちは死にますが、私たちより先にイエス様が体験をされました。
ですから、死を恐れる必要はありません。永遠に死に繋がれることがなく、
私たちに必ず 死→復活という素晴らしい奇跡を与えてくださいます。
クリスチャンはそこに希望があります。

人間は自分自身のことを可哀想に思うのですが、イエス様はいつも人を可哀想に思うのです。
不安と恐れの中にいる弟子たちを見て、可哀想に思って「平安があなたがたにあるように」と語りました。

イエス様は私たちを責めない方であります。
しかし私たちは自分を責めても良いのです。なぜなら自分で蒔いたものであるからです。
自分で自分を責めなければ、誰が責めるのでしょうか?
他人から責められたら恨みや憎しみを持つでしょう。
ですから、罪は自分で気付くべきであります。他人から言われて腹を立てるのではなくて、
自分で自身の心を見て、「何という汚い者であるのか」と気付かないと悔い改めができないです。

自分自身を責めている姿を、イエス様が傍でじっと見ながら
「立ち返れ。あなたが自分の罪のために苦しんでいることをわかっている。しかし目を上げてわたしを見なさい。
わたしはあなたを愛して十字架にかかったのだ。だから罪を洗い清めなさい。もう罪を犯すな。」と語ります。

聖書に出て来る罪人たちも、人々が殺そうとしていても、イエス様は「殺したらいけない」と語りました。
愛は強いものです。

【 Ⅰコリント13章 】に出てくるのが本物の愛の姿であります。

クリスチャンはいつもイエス様を見て 心を強くしていき、心をやわらかくし、心に愛を入れておき、
他人を許す心を持って生きる者であります。

イエス様はイースターで完結されました。私たちもイエス様についていくことであります。
中途半端では、よみがえりの祝福を受けることはできないです。

【Ⅰコリント15章】を読んでください。 (´・ω・`)

2013.3.31
イースター礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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