からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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イエス様

弟子になれる人と弟子になれない人

テーマは 『 弟子になれる人と弟子になれない人 』 です

【ルカの福音書9章22-27節】

そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目にはよみがえらねばならないのです。」

イエスはみなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」

イエス様が弟子たちを選んだ理由は、もちろん弟子として育てるためでした。


イエス様が死んで三日目によみがえって、そのまま地上に残るのではなく 天に帰るので、弟子たちにはイエス様がなさった同じことをするように伝えました。


彼らにはすでに生活がありましたが、イエス様は彼らが主の弟子になることを要求しました。

そして弟子になることが どういうことかも教えました。


弟子になる人の条件は「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして主に従うこと」です。


自分を捨てることは自己否定です。

自己否定の意味は、罪の性質の中で生きる自己中心性を捨てることです。


“罪” とは悪いことだけではなく、正しいことを知っていながらもそれをしないことです。


自分がしたいことをするために すべきことを知りながらも、しないことが多いです。


自分のものをしっかり握りしめて、それを手放さないで主に従うことは不可能です。


自分を捨てることは、悔い改めとも関連があります。

罪から立ち返り、自分の考え、価値観を変えることです。


今までのような思いのままに生きないことです。

それをむしろ捨てることです。


そして主が与えて下さった新しい使命、主が望むこと、喜ぶことを自分のすべきこととして受け入れ、日々それを目標にして目指すことです。


そのためには犠牲も払います。

それでも その道を選ぶこと、それが自分の十字架を負うことです。


日々の生活の中で、自分が喜ぶことなのか、主が喜ぶことなのか、自分の思いか 主のみこころかを選ぶ中で、主のものを選ぶ人は自分の十字架を負っている人です。


その後に、主について行きます。

自分勝手に動くのでななく、主の導きを受けて歩みます。


このような姿が弟子の姿です。






弟子になれない人もいます。


主が選んでいないからではなく、その人の態度が弟子として生きることが出来ないからです。


主は救われた人がみんな弟子になることを願っています。


弟子になれない人は、


・イエスさまに従うことが物質的な祝福を得て、栄光を受けて天国に入る道だと思っている人です。

すなわち “祝福” が目的で信じる人です。


こういう人はイエス様より、他の人より “自分” が一番重要です。


・この世の事や働きが優先で、時間が余った時にイエス様に従うと決心した人です。


決して神の国やその義を第一にしない人です。

そういう人は多くいますね。


・世に対して未練たっぷりの人は弟子にはなれません。


世を愛し、世に関心があるので、それを捨てて主に従うことは不可能に近いです。


【ルカの福音書9章61-62節】

別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤(すき)につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

こういう人は弟子になれないと言われました。



弟子として生きることは「忠実な良いしもべ」として生きることです。

弟子にならない人は「悪いしもべ」として生きることです。


弟子になるか ならないかは、あなた次第です。
Σ(=゚ω゚=;)


2017.3.12
聖日礼拝メッセージ

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聖徒だけが持つ特権

テーマは 『 聖徒だけが持つ特権 』 です

【ヘブル4章16節】

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

“特権” とは特定の人、身分、階級に与えられている、他に優越した権利です。


特権を持つ人は良い待遇を受けることも多いです。

月に何度も飛行機に乗りますが、飛行機一つにしてもダイヤモンドカードを持っている人は優先的に乗れますし、荷物の制限もなく、ラウンジも自由に使えます。

もし自分が持っている特権を知らないならば、その権利を使うことも知らないので、もったいないです。


聖徒である皆さんは “聖徒だけが持つ特権” が何かを知っていますか?


聖徒が持つ 特権も義務も責任も知らないで信仰生活する人が実に多いです。

そして特権を使ってはいますが、それが特権と思わずに使っています。


今回は聖徒だけが持つ特権に対して学びます。




神の御座に近づける特権




これを特権と思わない人が多いですが、これは聖徒だけが持つ特権です。


たとえば安倍総理は日本の総理ですが、いつでも皆さんが会いたいと思う時に会えますか?

たぶん会うのは無理です。


認められる何かがある場合は別だと思いますが、それは簡単ではありません。

しかし安倍さんの子どもならば、家で自由に会うことが出来ますし、別のところでも許可をもらうのは難しくないですね。


神は世界で一人の神ですが、人間が会いたいと言って いつでも会えるでしょうか。
―― 会えないです。


しかし神に贖われて、神の子になると立場が変わります。


聖徒には、神がいつでも神の御座に近づくことが出来る特権を与えておられます。


“キリスト” によって神と和解させられ、神の子になったので、その特権を得ています。


【ヨハネの福音書14章6節】

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

聖徒は、“道” であるイエス様を信じる者なので、キリストも その人のことを知っていて、その道を通って父なる神の前に行ける許可を与えておられます。


「イエスの血で神の前に、イエスの血で父の前に一歩ずつ進む。」

このような賛美があるように、父なる神の前に行ける特権は イエス様によって与えられた素晴らしい特権です。


旧約時代は神の臨在がある聖所には、任命された祭司以外は誰も入ることが出来ませんでした。

しかし新約時代の聖徒たちは、神の臨在の中に入ることが出来ます。


死んだら もっと神は近くにおられます。



【ヨハネの黙示録4章4節】

また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

聖徒にとって、神は 決して遠く離れて近づくことも出来ない神ではなく、いつでも近づくことが出来ます。




永遠のいのちがもらえる特権





【ヨハネの福音書3章36節】

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

“永遠のいのち” ほど価値あるものは 世には存在しません。


金持ちの青年が主の所に来て、永遠の命を得るためには何をしたら良いのかと イエス様に聞きました。

イエス様は、「財産を売って貧しい者に与えてから、私について来なさい」 と言われましたが、金持ちは財産を手放すことが出来ないので、そのまま帰り、2度と帰ってくることはありませんでした。


永遠のいのちは、主に従ってくる聖徒たちに与えられます。

永遠の命はあまりにも高価なので金で買えるようなものではなく、キリストを信じて神の子になった者が、特権として受けられものです。


永遠のいのちは “死とは無縁” です。

それを持っている人は聖徒だけです。


聖徒をやめたら、もはや永遠のいのちは自分のものにはなりません。




祈りが答えられる特権




聖徒の祈りに聞いて下さる方がおられます。

私たちの霊の父である “神様” です。


この世には自分を神と呼ぶ人間がいて、それを信じる者も多いです。


「統一教会」や「神の教会」という異端も、教祖が “人間” なのに、自分自身を神と呼び、それに従う者も(その人物のことを)神と信じています。

(その教祖は)2人とも死にましたが、未だに死人を神と思ってそこから離れません。


中身を見ると教祖が彼らの祈りを聞いて祝福したのではなく、人々が教祖の願いや要求を聞いて、自分たちのもので教祖を満たしていました。


サタンが目をくらませると、悟りがなく盲目的になるので、騙されて利用されるだけです。


人間を神と信じるのも、偶像の神を造って願いを叶えて下さい と祈るのも同じです。



【イザヤ書44章9-11節】

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。

だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。

見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

ですから、彼らが自分の神に祈っても それはむなしく恥を見るだけですが、聖徒たちの祈りは むなしくなることも、恥をかくこともありません。


聞いて答えて下さる神がおられるからです。

聖書には祈りの答えがいっぱいです。


神は喜んで聖徒たちの祈りを聞き、答えて下さいます。

祈らないと特権を使わないことですので損をします。




復活の特権





【第1コリント15章43-44節】

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

復活は永遠のいのちの始まりです。

イエス・キリストがよみがえられたことで、この特権が聖徒にも与えられました。


私たちも、いつかキリストと同じ体になります。

時間や空間の制約、そして朽ちることもない体に復活するのは聖徒だけの特権です。


信じないものは永遠の死ですが、聖徒は永遠に死の支配を受けることがなく、キリストのように死の力を打ち破って復活します。


自分が死んで復活することは、今はどのようなものか想像も出来ませんが、その日には喜び踊る者になると思います。




天国に入る特権




天国は聖徒たちのために主が備えて下さった場所です。

聖徒以外の人は、入ることが許されない場所です。


そこは神がおられる場所で、神が聖徒と共に永遠に住む場所です。

死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない場所です。


信じない人は、どんなに入りたくても入ることが出来ません。


入りたいならば生きている時に、罪を悔い改めて、イエス様を 自分の救い主として心に迎え入れ、聖徒になれば入れます。

天国はお金があるから、良いことたくさんしたから、立派な人だから入れるのではなく、信仰で入る国です。


神を信じて、天国を信じて入る準備をした人が入る所です。

自分を聖徒と思っても、準備出来てない人は入れないです。


天国のたとえで使われた “10人の花嫁の姿” を思い出して下さい。

10人の花嫁は、花婿である主を待ち続けていました。


賢い5人の花嫁はいつ花婿である主が来られても迎えられるように、ともしびと油の備えをしました。


しかし愚かな5人の花嫁は、花婿がいつ来るかもわからないのに、ともしびだけを準備し、油の用意はしていなかったです。

花婿が来るのが遅くなり、今にも ともしびが消えそうになりました。


それで油を買いに行っている間に 花婿が来られて、そこにいた賢い5人の花嫁だけが結婚式場に入りました。

油を買いに行った愚かな5人の花嫁の姿は哀れでした。

彼女たちの様子を次の箇所で見ます。


【マタイの福音書25章11-12節】

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

天国に入ることが出来ず、外の暗やみに置かれてしまいました。


せっかく天国に入る “特権” があったのに、その場にいなかったために、特権が無効になってしまいました。


その特権が認められず、残念な姿でした。

このようになって、聖徒の特権を失う者も実に多いです。


“目をさまして、身を慎み、用意していなさい” と言われた通りにしている聖徒が、天国に入り、言われてもそのようにしていない聖徒は、特権を使うことが出来ません。

世を愛して放蕩生活をしている人に、“天国の扉” は開かれません。


聖徒として準備した人は、問題なく天国に入ります。


このように聖徒としてどのような特権があるかを知り、いつ それを使うかを知って使う人が賢い聖徒です。

神が与えて下さった特権としての祝福をすべて自分のものにしていきましょう。

(・◇・)ゞ

2016.9.25
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初めの愛を回復するために

テーマは 『 初めの愛を回復するために 』 です

【ヨハネの黙示録2章4-5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその所から取りはずしてしまおう。

信仰生活にも定期的に点検が必要です。


なぜなら、問題があるならば早くそれを直していかないと知らぬ間に重い病気にかかって大変なことになるからです。

放置していいものと放置してはいけないものがあります。


信仰生活が無気力、無感覚になり、喜びも平安もなく、新しく実が結ばれることもなく、信仰生活そのものがしんどく、神との関係も遠くなったような気がするならば、何よりも自分とイエス様との間に問題が生じたことに気付くことです。


信仰生活のほとんどの問題は、自分と主との関係に異変が起きたからです。


それを解決して信仰を立て直していかなければなりません。



今日のことばも 本人が気付いたのではなく、主からの診断でした。


初めの愛から離れただけで 主との関係に大きな問題が生じました。

主が非難したことはそれが罪だからです。


罪じゃないと(神様が)非難することも、悔い改めなさいと言うこともありません。


信仰が回復してほしいので “悔い改めなさい” と言われました。


どのように初めの愛を回復出来るかを今日は学びます。




◎失われた初めの愛を悔い改める




初めの愛がある状態は、すべてにおいて心も思いも尽くして主と共に歩みます。

それが一番の関心で重要なことだからです。


その時は主と共にいることがとても楽しいです。

教会に行くのもとても楽しいですし、聞く耳も開かれています。


しかし、ある時から主を忘れて生活する時間が増え始め、他のことで忙しくなります。


サタンは私たちを誘惑する者ですが、あらゆる方法を使って私たちをイエス様のいない忙しい生活に導きます。


そのことに気付かせず、主との時間を減らしていきます。


心ではイエス様との時間を持つことの大切さを知っていますが、だんだんと他のことで忙しくなり、主のために時間を使わなくなります。
ここから問題が生じます。


【ヨハネの福音書15章6節】

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

イエス様にずっと とどまることが大切なのに、とどまる時間が少なくなっていきます。

他のことに心が取られたり、他のことで忙しくするようにサタンは働きます。


イエス様と分離されていると 不幸になることもよく知っているのに、仕事に縛られたり、時には自分の快楽を求めて主との交わりをおろそかにします。


生活も守っていかないといけないからと人を喜ばせたり、自分を守るためにだんだん主に対して関心が無くなっていきます。

すると主と共に過ごす時間が減るために主を失ってしまいます。


主との間に様々なものが入り込んできます。

すると信仰生活がだんだん義務的になり、つまらなくなり、喜びも無くなってきます。


それを立て直すためには悔い改めが必要です。


どこから落ちたのかを思い出して、要らないものを捨てて時間を作って神の前に出て、その方と会話をしなければなりません。


主と再び愛し合うには ずっと主から目を離さず、会話を増やさないといけないです。


すると私たちの心に主の平安、愛、いのち、力が臨むようになります。

主に対して、教会に対して、とりなしに対して、奉仕に対して無関心になったことは愛で反応していないことです。


初めの愛を回復するためには、必ず “無関心” が罪であることを悟って、無関心を捨て、主を見上げなければなりません。

面と向かってイエス様に敵対するより、主の心を痛めつけるのは主に対する無関心です。


必ず私たちはこの罪を悔い改めないといけないです。

悔い改めないと、たとえ生きているとされても死んだ状態です。

すなわち霊的死です。




◎避けたくなる十字架を負う




イエス様に従いたいならば、弟子になりたいならば、成長したいならば、自分の十字架を負わなければなりません。


イエス様は私たちを愛する心で十字架を負ってカルバリの丘に上って行きました。

その主が私たちに自分の十字架を負ってついて来なさいと言われました。


私たちが十字架を負うならば 主が共に負って下さいます。

イエス様自身が先に十字架を負いましたので、十字架の痛みを知っておられます。


主が共に負って下さらないと、私たちが倒れるので 主が共に負って下さいます。


しかし私たちは十字架を負いたくないので十字架を避けようとします。
これが主への愛が冷めるきっかけになります。


十字架を避けて楽な道を歩みたい欲望が 私たちの中にあります。

この欲望は、主から来たものではなく、サタンから来たものに気付かないといけないです。


イエス様が十字架の死を話した時に、ペテロはすぐさまイエス様を止めました。

「そんなことがあってはいけない」と。

そして十字架を負わないように勧めました。


すると主は「下がれ。サタン。」と厳しく言いました。


今も私たちに十字架を負ってはいけないと誘惑をするのはサタンです。


「楽な道を歩んだら良い。苦難はイヤだろう。重い十字架は負わなくていい。避けたらいい。」と、まるで 私たちの味方のように親切に言います。


これは甘い誘惑です。

主はそれとは違って「自分の十字架を負って私に従いなさい。」と言われました。


十字架を負うことは私たちにとって良いことです。

私たちが地上で主のために十字架を負うと、その十字架は天国への喜びに変わります。


十字架を負うことは永遠の命にかかわる重要なことです。


サタンはそれを知っています。

サタンは、十字架を負いたくないすべての人を、自分の所(地獄)に連れて行きます。


そこには十字架の苦しみと比べられない苦しみが待っています。


サタンは私たちが十字架の道を歩まないように、あらゆる手段を使います。

私たちが永遠の命も永遠の喜びも受けてほしくないからです。


主が私たちの十字架を共に負ってくださるので、私たちはその中で以前は味わったことのない霊の喜びを感じることが出来ます。


主が与えてくださる十字架には、必ず慰めと助けがあります。


その方の愛と助けを信じないと 十字架を負う気がなくなり、十字架が耐えられない苦しみに感じられます。

そうなると本当にみじめな状態になります。


十字架が来た時は「主よ。感謝します。受け入れられるように恵みを下さい。十字架を負って喜んで耐えられるように恵みを与えて下さい。」と祈り求めることです。


苦難は、主と深い交わりが出来るチャンスでもあります。

苦難の時に、私たちは主しか頼れる所がないからです。


十字架の中には豊かな実があり、栄光があります。

十字架の中に勝利と復活があります。


産みの苦しみなしに新しい命の誕生がないのと同じです。


十字架は、私のたましいを この地上から解放して天国に導く有益をもたらします。




◎勝利を与える主の力に頼ること




私たちは自分の怠けさと罪との霊的戦いをしなければなりません。

勝利に戦いはつきものです。


「面倒くさいから今のままでいいんじゃないか?」と思う人に勝利はないです。


このままではいけないと思いながらも 悩むだけで何もせず、後回しにする人は どんどん信仰が弱くなり、無気力になっていきます。
そしてサタンに支配されます。


イエス様もサタンとの激しい戦いをして勝利しました。


ですから、私たちにも勝利出来る力を与えて下さいます。

力を与えたいと願っておられます。


私たちが毎日主の名を呼び、主に頼るならば、その力を得ることが出来ます。


主は私たちを贖う方、助ける方、力を与える方です。

それに対する信頼が必要です。


私たちが主の中にとどまり、主の弟子になるならば、私たちの人生の中に命と豊かな実を結ぶように働いて下さいます。


勝利は主の中にとどまる時だけです。

イエス様は何よりも私たちが主と共にいることを願っています。

そして私たちの愛を願っています。


弟子たちは自分だけの力では勝利することは出来ませんでした。


しかし一日中イエス様のことを考え、主を愛し、主の愛から離れなかったので、自分たちの心を守ることが出来ましたし、信仰を守ることも出来、主を裏切ることもありませんでした。


自分が毎日、主の中にとどまっているのか、主を愛しているのか、主のために犠牲を払う準備が出来ているのか、負うべき十字架を負っているのか、主に対して関心があるのかなど点検してみて下さい。


そして一つ一つ悔い改めながら立て直して下さい。

私たちが自分の中にある問題点に気付いて、主との静かな時間の中で主の前に出て行くならば解決されていきます。

主の前に出ない限り、ますます状態は悪くなっていきます。


主のことばのようにやってみて下さい。
(・◇・)ゞ

2016.8.28
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愛を見せなさい

テーマは 『 愛を見せなさい 』 です

【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

男性は愛を見せることがあまり上手ではないところがあります。


“言葉で言わなくても見たら分かるだろう” と勝手に思います。

女性は度々「愛している」という言葉を聞きながら、相手の愛を確認して幸せを感じ安心感を得ると言われています。

それは別に男性を疑っているわけではないです。


夫は、妻が愛のことばを言ってほしいと言われると、うっとうしいと思いますが、女性の心理を知って 理解するのが良いですね。


女性は愛されたい気持ちが強いので 愛を確認したいですし、男性は尊敬されたい思いが強いので 愛のことばよりは 尊敬のことばに感動するそうです。


イエス様は男性でしたが、やさしく愛をよく現していました。
心がとても温かい方でした。


愛は、無言で また何もしなくても感じるものでしょうか?


神様さえも私たちを無言で何もせずに愛したのでなく、行動で愛を現しました。


愛が本当にあるならば、それは必ず見える形で現れます。

ですから神は “愛を見せなさい” と語りました。


イエス様の告別メッセージには、特に “愛” に関することばが多かったですし、それが重要なテーマでした。


本文でも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」と語りました。



また、次の箇所にはこのように語っておられます。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

【ヨハネの福音書14章23-24節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

イエス様はこのように “愛すること” が新しい戒めであると明確に教えて下さいました。


私たちは 愛し合うという新しい戒めを、どれほど守っていますか?


さらに、“神を愛すること”、“互いに愛すること” は切っても切れない関係であることが次の箇所に書かれています。


【第1ヨハネ4章7-16節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

愛を軽く考えてはならないことが、これらのことばでも分かりますね。


愛はことばだけで伝わるのではなく、イエス様を愛する人は主の戒めを守ることで、主への愛が証明され、互いに愛することで神への愛がその人の中にあることが証明されます。


愛は、いのちある種です。

蒔かないと実が結ばない種です。


主の名によってどんなに素晴らしい働きをしても 愛が抜けてあるならば、いのちの実がない葉っぱばかりの働きになってしまいます。


それは実を結ぶことを期待する主を裏切ることになります。


【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

働きと賜物も重視しますが、それを価値あるものにするのは “愛” です。

愛のないものは主が受け取らないです。

この世の評価は すべて結果ですが、主の評価は “愛があるかどうか” です。


なぜ主は、愛で評価をするのでしょうか?

愛は結果ではなく “方向” だからです。


結果ばかり考える人は、目指す方向が “結果” ですから、働きや賜物を重視し、そこにいつも目を向けます。

ですから確かに結果はついてくると思います。


しかし主を愛する人は、愛の対象である “主” に目を向けます。

つまり 愛の方が働きよりも優先です。


ですから、いつも目も心もイエス様に向けます。
その人たちは、イエス様から目を離しません。



【ヘブル12章2節】

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

このように私たちがどこに目を向けるべきかを教えて下さいました。


愛は、愛の対象に関心があり、そこにすべてを向けます。

主がそのようにしました。


働きよりは 人に関心を示し、人を愛することがいつも優先でした。

私たちもそうあるべきであると主は教えました。


マリヤとマルタ姉妹のことは皆さんも知っています。

マルタは働き者です。
しかしマリヤは怠けているように見えました。


なぜならマルタは忙しく回っているのに、マリヤはイエス様の足元に座ってイエス様を見ながら話を聞いていたからです。


手伝わないマリヤを見て、マルタは腹が立ってイエス様にその不満をもらしました。

しかしイエス様からは意外なことばが返って来ました。


【ルカの福音書10章41-42節】

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

多くのクリスチャンが“マルタ状態”かも知れません。


熱心な人は主のために何かをしようとあれこれとやりますが、それが段々しんどくなり、主に会うと文句を言います。


ある人は、自分の仕事や遊びが優先で主と会う約束をいつも破ります。

礼拝や祈りの時間は主と先約した時間です。


しかし、よく破るのでイエス様はその人に会えないです。


イエス様は愛する人を待っているのに、その人が来ないと寂しい思いをします。


主が一番願うのは、私たちが主を愛することです。


そして主との時間を大切にし、主のことばに耳を傾けることです。

そして聞いたことば通りに行動することです。


これが主を一番喜ばせることです。


主を愛する時間もない人は、主を忘れ、いつか主も「あなたが誰なのか知らない」と言います。


いつも主を愛して共にいますか?
それとも忘れていますか?遠く離れていますか?


聖書でマリヤとマルタの姿を見ても、マリヤの方が主への愛が強いように見えます。


主を愛するのでイエス様から目を離さないでいましたし、主のことばは彼女には一番のごちそうでしたので、みことばを消化していました。


主を愛する人は 主の戒めをないがしろにせず守ります。

それは当然ですね。






ベロニカという女性が主の恵みによって地獄と天国を見学しました。

地獄に多くのクリスチャンがいる姿を見てとても疑問でした。

クリスチャンがいるとは思ってもみなかったからです。


それで 主にその理由を聞きました。


主の答えは「彼らはわたしを信じてはいたが、わたしのことばに従って生きることはしなかった。
多くのクリスチャンが教会の中、家族の前、知り合いの前だけおとなしく行動しているが、彼らは自分自身をいつも騙しながら生きているのだ。
私の父の目はすべてを見ているし、どこでもすべてのことばを聞いているのだ。」でした。


形式的で愛の冷めた結婚生活のような信仰生活を 主が喜ぶでしょうか?


主がもっとも望んでおられるのは愛の関係です。

主の愛は熱い愛なので、なまぬるい愛では満足しません。

“あなたの愛を見せなさい” と言われます。


信じる者として生きることは、愛の関係をずっと保っていくことです。


愛すれば愛するほど 心も霊的にも豊かになります。

そこから多くの実が結ばれていきます。


愛は話したり、考えたり、感じたりする以上のものです。

愛の関係が必要です。


イエス様は、私たちを愛して十字架に架かると話しただけではなく、実際に架かりました。

いのちを実際に捨てました。


喜んで自分を与えるのが愛です。

私たちのために十字架を負った主が語ったことばがあります。


【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主を愛する者ならば 自分の十字架を負って主についていきます。


ある教会で 主の教えとは違って人間的な思いで「こんなに苦労の多い時代に 教会の中でも重たい話を聞くならば ストレスガ溜まって死にます。教会では慰めと平安と安息を得なければなりません。」といつも祝福のメッセージだけを伝えるところがあります。


主の十字架は愛です。

私たちを愛したので死にました。


私たちが負う十字架も愛の十字架です。主への愛です。


自分のストレスの方がもっと大切で、自分が負う十字架を嫌がって拒否することは 主を愛していない証拠です。


愛する人には十字架は決して重荷ではないです。

育児は大変ですが、それを重荷と思って育児を拒否するでしょうか?


大変でも子どもを愛するので犠牲を喜んで払います。

他の理由はありません。


主を愛する人は自分が負う十字架を見るのではなく、愛する主を見て、自分も十字架を負います。


イエス様に対する自分の愛に偽りがあるならば、それは愛ではないです。

愛のない者に主は分からないとまで言われました。


主を愛する者は 父なる神に愛され、イエス様にも愛されます。


愛の本質は まぎれもない愛です。

愛がないならば、それは値打ちも本質も中身もない形だけのむなしいものになります。

互いに愛することで私たちが主を愛していること、そして神を知っていることが分かります。


主を愛していますか?互いに愛していますか?
愛の実が結ばれていますか?


それとも自分だけを愛しながら満足していますか?
Σ(`□´/)/

2016.5.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様からの最高のプレゼント

テーマは 『 神様からの最高のプレゼント 』 です


【マタイの福音書1章23節】

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

以前、あるテレビ番組で見た場面が 今も記憶の中に残っていますが、アメリカのある家庭のことでした。


お父さんはアメリカ軍の海兵隊人で、イラクで戦っていました。

家にはお母さんと小さい娘が一人いました。


クリスマスになり、お母さんは娘のために 娘が欲しがっていた物をプレゼントしました。

娘はそのプレゼントをもらって大喜びでした。

その時にチャイムがなりました。


娘はプレゼントが嬉しくて、誰が来たかについてはあまり関心がありませんでした。

しかし 玄関の扉が開かれた瞬間に、小さい女の子はもらったプレゼントを投げて、玄関に走って行きました。

そこには大好きなお父さんが立っていました。

大喜びの女の子は、お父さんの胸に飛び込んで喜びの涙を流していました。


家族みんな泣き、見ていた私も泣きました。

最高のサプライズのクリスマスプレゼントでした。


それは、物とは比べものにならない、心に感動を与えるプレゼントでした。


日本でも「エイズと戦った少年の記録」という単行本で紹介されていますが、“ライアン・ホワイト” という少年の人生が多くのアメリカ人に信仰の挑戦を与えました。


ライアンは13歳の時に血友病を患って手術を受けましたが、輸血によってエイズにかかってしまいました。

自分の過ちでもなく、大人たちの不注意によって 少年の人生は死の道に追い込まれました。


しかし自分の人生が残り少ないことを知っても 彼は誰も恨まず、明るく変わらない態度で学校生活を終えました。

かえって皆にとても親切でしたし、彼を心配する両親を慰めながら楽しく暮らしました。

彼の生活は人々に知られるようになり、新聞にも載るようになりました。

彼はエイズ発症から5年が経った18歳の時に亡くなりました。


少年が亡くなる前に、お父さんと会話をした内容がキリスト教の雑誌に載りました。

「息子よ。ごめん。今はあなたに何もしてあげることがないよ。お父さんがこれ以上どんなプレゼントもあげられないことを許してね。」


「お父さん。今まで僕はたくさんのプレゼントをもらいましたが、誰もお父さんがくれたような素晴らしいプレゼントをくれた人はいなかったです。

お父さんは私が天国へ行けるチケットをプレゼントしてくれたでしょう。お父さんはイエス様を紹介してくれました。
お父さんのおかげで教会に行き、イエス様を信じ、永遠のいのちをプレゼントとしてもらいました。これ以上、偉大なプレゼントはないと思います。」


イエス様ほど偉大なプレゼントは本当にないです。

イエス様よりも素晴らしいプレゼントはないです。


もしあるというなら それは何でしょうか。

富ですか。宝石ですか。子どもですか。家族ですか。ブランドものですか。


神様は私たち人間を本当に愛しています。


ですから人間を造る前に、すべての自然や生き物を造って人間にプレゼントとして与えて下さいました。

そして人間が罪によって堕落した後も、人間に対する愛が消えたのではないです。

愛は喜んで与えます。愛する人に惜しまずプレゼントをします。


神様の人間に対する愛はこのような愛でした。


【ヨハネの福音書3章16節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

人間を愛した神が用意した最高のプレゼントは神のひとり子イエス様でした。


ことばだけで「愛する」と言ったのではなく、私たちのために何が一番良いプレゼントになるのかを考えた末に、用意したプレゼントがイエス様でした。


小さな女の子が 愛するパパに会った瞬間に、パパの存在が彼女には最高のプレゼントでした。


そしてエイズで死んだ少年にとっても短い人生で受けた最高のプレゼントはイエス様でした。

愛する主の所に行くので、彼は悲しむことなく、誰も恨むことなく、喜びながら主が待っておられる天国に帰られました。


天国でイエス様にあった時に どんなに彼は喜んだでしょうか。
想像するだけで嬉しくなります。


私たちが周りを見渡すと、すべてが神からのプレゼントです。

太陽の光、月の光、空気、水、花、家族など すべてが神からのプレゼントです。


でも神様はそれだけで満足せず、私たちに赦しと永遠の命と天国を与えるためにイエス様を最大のプレゼントとして私たちに与えて下さいました。

神様が遠くにいるだけなら、私たちはその愛がよくわからないと思います。


愛すると出て来る感情で一番強い感情は、“一緒にいたい” という感情です。

人間が罪を犯す前に、エデンの園でアダムとエバは神と共に歩みました。

しかし彼らが罪を犯した後に 彼らはエデンの園から追い出され、もはや神と共にいることが出来なくなり、罪によって関係が断絶されました。


それが神にとっても辛いことでした。

それで、神は(人間と)共にいたい思いで計画をしたのが、神の子キリストを人間の体にして人間と共に住むことでした。


インマヌエルの意味は、“神が私たちと共におられる” という意味ですね。

人間世界の中で人間と共にいるためにイエス様は来て下さいました。

誰の目にも主の姿が見えました。


イエス様が私たちに対する神の最高の愛のプレゼントであることを目で確認しました。


【第1ヨハネ4章9-11節】

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

子どもが祝福されることを妬んだりする親はいません。さらに祝福され幸せになることを願います。

それは自分の子どもだからです。


神が送った素晴らしいプレゼントであるイエス様を私たちが受け入れると、神はさらなる祝福をたくさん与えて下さいます。


恵みと平安を与えて下さいます。

永遠の命はもちろんのことです。






結婚して67年になる老夫婦がいます。

韓国人ですが、旦那さんは103歳、奥さんは87歳で、二人の告白がとても素晴らしかったです。


長く一緒にいて飽きたはずなのに、妻の口から出たことばは「そばに一緒にいるだけで幸せでありがたい」と言われました。

「いなくなったらどうしましょう」と笑顔で話されました。


旦那さんは「妻は私の最高の宝物です。素晴らしい妻です。」と言われました。

どこでも夫婦一緒に出掛けます。
その夫婦にとって、お互いが最高のプレゼントです。


私たちに対する神の愛は、それ以上の愛です。
変わらない愛であり、特別な愛です。


イエス様も私たちをあまりにも愛して、肉体のままでは人々の傍にはおられないので、その次に与えたのが聖霊でした。

イエス様は天に上り、聖霊を送ると約束しましたが、その通りに聖霊が下りました。


聖霊は私たちの中におられるために来て下さいました。


【第1ヨハネ4章13節】

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

聖霊も神からの最高のプレゼントです。


【使徒の働き2章38節】

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってパプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

父なる神様は 最高のプレゼントであるイエス様を私たちに送り、イエス様も最高のプレゼントである聖霊を私たちに送って下さいました。


賜物とはプレゼントのことです。


まだイエス様を信じていない人がいるならば、悔い改めて神から最高のプレゼントを受け取って下さい。

そして 信じていても、まだ水のパプテスマ、洗礼を受けていない人は受けて下さい。


聖霊をプレゼントすると約束しました。


人生最高のプレゼントです。

受けた人だけがその素晴らしさに気付きます。


クリスマスは救い主イエス様の誕生日として祝っていますが、本当の誕生日はいつなのか誰も分かりません。

しかしそれは問題ではないです。
何日かが問題ではなく、イエス様というプレゼントが大切です。


私はこのプレゼントを既にもらいました。
もらってない人はもらって欲しいです。
(*´ -`)(´- `*)


2015.12.20
クリスマス礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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天国の扉

今週は、礼拝メッセージの更新をお休みさせていただきます。
毎週楽しみにしてくださっている皆様に以前の3分テレフォンメッセージを載せました。
まだ3分テレフォンメッセージを聞いたことがない方は、毎日24時に更新していますので 恵みを受けてください。 〔 06-6618-9105 、06-6618-9106 〕

天国の扉に1人の天使が立っていました。

その天使は、イエス様と同じ特徴をその顔に持っている人たちだけを天国に入れ、その他の人々は入らせない責任を持っていました。


頭に素晴らしい冠を被った人々が来ました。王たちでありました。

しかし その天使は、その王たちに何の尊敬も現さず、 「世の王冠は天国では何の価値もないんだよ」ということを、その人々に教えました。


今度は、素晴らしい制服を着た人々が来ました。

今度もその天使は何の尊敬も現さなかったです。


なぜなら その人たちの顔に、十字架にかかったイエス様の顔のような顔はありませんでした。

全然違う顔をしていましたので、彼らを入らせなかったです。


今度は洗練された美貌を持った女性が来ました。

しかし、その天使は彼女を見ていました。彼女の目、彼女の美貌から 神様が求めている美しさは発見できませんでした。


今度は有名な人が来ました。人々はその人に歓声を上げていました。

でも天使はその人に語りました。
「人々から受けるその歓声・拍手は、人間には相応しいかも知れないが、ここに入って来る権利はありません。」


天国に入る入場券。
それはイエス様のように清くされた人だけに与えられるものであります。


例え その人が貧しい者であっても、無学な者であっても、そういうことは関係がなく、 天使がその人を見た時に その人の顔にイエス様と似ている特徴を見つけた時に  その人を天国に入れます。


「あなたはイエス様とそっくりな人ですね。入って来なさい。入って来なさい。 永遠の栄光があなたのものです。あなたはキリストのようになりましたので 天国でキリストと共に永遠に生きることができます。」





この内容は20世紀の有名なイギリスのスポルジョン牧師がメッセージの中で 語った言葉であります。

天国は誰でも入るような場所ではないです。


地上で福音を聞くのは誰でも聞くことが出来ますけれど、天国に入るのは イエス様を受け入れ、信じて、イエス様のように聖なる者に変わっていく人たち。
その人たちはイエス様が喜んで天国の中に入れてくださいます。


有名であったから、財産がたくさんあるから、その人が地上で色々なことをしたから、 天国がその人を受け入れるのではないです。


天の御国は、イエス様に似た者たちが入るところでありますので、 自分たちの姿が今どのようになっているのか、イエス様に似る者になっているかどうかをよく見てください。

~ 2012/2/14 ~


2015.8.2
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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曜日別の祈りです(リニューアルしました)
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キリスト、神の愛―その愛を伝えるのがクリスチャン

テーマは 『 キリスト、神の愛―その愛を伝えるのがクリスチャン 』 です


本当の意味でクリスチャンとは?

イエス・キリスト(神)を愛する人、人々(互い)を愛する人

だれでもイエスを愛する人は、イエスのことばを守ります。


【ヨハネの福音書14章23節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちは その人のところに来て、その人とともに住みます。


【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。



【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を 彼に現します。」


【ヨハネの福音書15章10節】

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、 わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。


【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。


イエス様のことば(戒め)とは?


【ヨハネの福音書15章17節】

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


【ヨハネの福音書13章34-35節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もし互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。




イエスへの愛、人々への愛を通してこの世にイエス、その愛、そして私たちがイエスを愛するクリスチャンということを知ってもらう


なぜこの世に知ってもらうのか?


【ヨハネの福音書3章16-17節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

イエス様がこの世に来た意味、そして神様がわざわざ自分の愛するひとり子をこの世に送ってくださったその意味は、つまりこの世が救われるため。


この世とは?

この世界のすべての人。全員。つまりあなたの周りの人々、家族、友達、同僚、知り合い、近所の人、道端を歩いてる人、すべてです。


人々が救われなければならない。
人々がこのイエス様が来てくださったこと、それほどまでに神様が私たちを愛してくださっていることを知らなければならない。


日本に生きていること、そのことのすごさ

キリストの愛を伝えたくても周りにいなくて伝えられない人もいる。日本に来て福音を伝えたくてたまらなくて、お祈りをささげて、日本語を一生懸命勉強し、お金も一生懸命ためている人がたくさんいる


あなたは本当に隣人を愛していますか?

本当に愛するのならばその人々が滅びていくのを見て平気でいられるわけがない。

イエス様が望んでおられることは、私たちだけがイエスを信じ愛し 救われるのではなく、この世のみんながイエス様を知り、その愛を知り、人々が救われること。

その愛を伝えるのがクリスチャンである。


どうしたら伝わるのか?


【ヨハネの福音書13章34-35節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。


愛を通してこの世はイエスの愛を知る


【ヨハネの福音書15章5-9節】

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。


イエスの愛にとどまり、またわたしたちが求めることでこの世はイエスの愛を知り、実が結ばれ、神様を栄光をお受けになる。


どれだけうまく伝えるか、どれだけ知識がいるかではない。
もちろんうまく伝えること、たくさんの知識を持って伝えることも大切である。

だけど一番大切なのは愛である。その人、人々を愛すること。

つまりその愛する人々すべてが救われること。
自分の楽しみ、自分の喜びのために生きるのではない。


この世のすべての人々が救われてほしいと思っている神様

ひとり子イエス・キリストをこの世に送り出し、十字架で死なせるほどの自分の中の最大限、ベストをしてくださった神様、また自分のいのちをわざわざこのような罪深く、自分のことばかりを愛している私たちのためにすててくださったイエス様。

今もすべての人が救われてほしいと思い、祈ってくださっているイエス様。

その大きな愛のために私たちも もっと神様を愛し、人々を愛し、その救いを伝えていかなければならない。

愛を持ってすること。
それがすべて。(・◇・)ゞ

2015.1.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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3通りの立場の人々

テーマは 『 3通りの立場の人々に自分を照らし合わせて吟味する 』 です

【ルカの福音書5章17-25節】

ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレ ムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。

するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そし て、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上 って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。

彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすこ とを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。

『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。

人の子が地上で罪を赦す権威を 持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。



①四人の男性




この四人が中風の家族なのか友人かは不明です。


【ルカの福音書5章18節】

するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

“何とかして”という四人の男性の強い愛とイエス様の前に置いたら必ず癒されるという信仰が伺えます。

しかし、次のようなことばも書かれています。


【ルカの福音書5章19節】

しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので

中風の人をイエス様の前に運び込むことが難しい状況です。

もし私たちが4人のうちの1人だったならどうするでしょうか?
立ちすくんだり、諦めて帰るでしょうか?


しかし四人はこの状況でも諦めずに、聖書に “屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした”と書かれています。

屋上に上って屋根の瓦をはがすことは、普通で考えるとあり得ないことですし、尋常ではない発想です。
周りにいる人々はそれを見て軽蔑したり呆れたと思います。


しかし、中風の人をイエス様の前に連れて行き “何とかして、どうしても癒して欲しい”という切実な思い、強い愛がありました。

これは神様が知恵を与えてくださったと思います。普通ならば思いもよらないことです。

イエス様は屋根を壊したことに対して決して咎めることもなく、愛と熱意を見て中風の人を癒されました。


私たちには様々な妨げがあります。

自分が神様のもとに行こうとしているのに、妨げがあってなかなか前に進めない時があります。

しかし、この箇所で教えられることは、“上を見なさい”ということです。上には天があるだけで、神様がいてくださるのです。


また、この四人の男性を自分に当てはめると、この中風の人は、まだ救われていない家族や知人、友人です。

病気や罪などにどっぷりと浸かって縛られ自分1人では身動きが取れない状態です。

そして、この四人の姿はクリスチャンの祈りです。 それは切実な思いと熱意で、愛ある祈りで神様の前に人々を運ぶことが出来る力です。


みことばを握りしめるというのは どういうことなのか、ある時に教えられたことがあります。


私たちが困っている時にみことばの棒が差し出されます。

私たちは そのみことばの棒を必死で握りしめます。そして神様に“上に上げてください!”と必死で祈ります。

そうすると一生懸命 みことばの棒を掴んでいたのですが、それを引きずり下ろそうと サタンが妨げや攻撃を持ってやってきます。私たちを棒(神様)から引き離そうとします。

でも私たちが必死になって両手で握りしめていると、神様は棒ごと引き上げてくださいます。


私たちがみことばにすがり付いている時に、その姿を見て神様は引き上げてくださり、約束を成就してくださいます。




②中風の人




次に、中風の人と自分たちを照らし合わせてみたいと思います。


床の間まで寝ながら運ばれていくのは、ジロジロ見られるので結構恥ずかしくて辛いだろうなと思いました。
また、自分を運んでくれた四人の男性に申し訳ないという気兼ねもあるかもしれません。

中風の人も、たとえ運ばれたとしても “もしかしたら癒されないのではないか” と疑いを持つかも知れません。


しかしここに書かれている中風の人には、そのような雑念は一切ありませんでした。

自分自身が何とかして癒されたいという切なる願い、そしてイエス様の前に連れて行ってもらえたら必ず自分は癒されるのだという信仰。
そして人々が自分のことをどのように見ようが、そんなことは関係ないというプライドを捨てた謙遜さがありました。


これは私たちにも神様が言ってくださっていることだと思います。

例えば私たちが病気で倒れて身動きが取れなくなって祈れない時があります。自分の力ではどうすることもできないことがあります。

そういうときは周りの四人の人が助けてくれます。
これが教会の姿です。ですから私たちには教会が必要なのです。


私たちが1人で祈れなくても教会の人々が祈ってくれます。

自宅や職場など この世では本音と建前の世界があります。しかし教会では本音と建前は必要ありません。

教会ではプライドを捨てて自分自身の本当の姿をさらけ出して良いところです。
自分を強い者であるとか、信仰が強い者であるなど、見栄をはったりプライドを持つ必要はありません。


周りの助けをもらってでも、神様の前に切実に祈り求めました。そして四人の人は、その姿を見てイエス様の前に運びました。

これが、神様から喜ばれる教会ではないか と私は感じました。




③パリサイ人と律法の教師




【ルカの福音書5章17節】

ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。

【ルカの福音書5章21節】

ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。 「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

神様が癒しをなさる場所にパリサイ人や律法学者がいました。


パリサイ人や律法学者たちは、“自分たちこそが神様の正しいしもべである”と高ぶり、集まっている人々を見下して真実である神様を批判していました。

このような人々は教会にもいます。


この人たちの罪の一番恐ろしいことは、自分たちは神様に反することをしていながら、自分たちは神様の前に正しい者であると勘違いをしているところです。


この教会では、牧師を通して地獄へ行った人々の証を聞きますが、
地獄へおちた人は「なぜ自分がここにいるのですか?!私をここから出して下さい!」とイエス様に叫んでいる姿があり、そのような人が多いです。

この人たちは自分の罪が分からなかったり、知ろうとしなかった人だと思います。


私たちは天国へ行きたいと願っているので、自分たちの罪が分かっていたなら心から悔い改めると思います。そして赦していただいて天国へ行きたいと切に願っています。

しかし地獄へ行った人は自分の罪が分からなかったので悔い改めをすることが出来なかった人も多くいるのではないかと思います。

これこそがパリサイ人や律法学者の姿であると感じました。






私自身もこの罪を犯しているのではないだろうか?と思います。皆さんはどうでしょうか?

自分の罪を悔い改めてはいるけれど、もしかしたら自分が気付いていないところで神様の前に相当大きな罪を犯しているのではないかと恐ろしくなります。

自分が正しいと思って取っている言動や言葉が、本当に正しいかは私たち人間には分かりません。


私たちは相手の側面しか分からず、そこで判断して言葉をかけますが、神様はその人の心の葛藤や苦しみなどすべてをご存知で、私たちの正しいと思っている言動や言葉が本当に正しいかは私たちには判断ができません。

これは神様にしか分からないことです。


しかし自分が正しいと思い込んで勘違いをしていることも多くあるのかも知れないということを今回教えられました。

私たちは信仰・愛・憐み・赦し・知恵・祈り・悔い改め、これらの何1つを取っても、自分の力で出来るものは何1つありません。


すべては神様から与えられる聖霊の油注ぎによらないと自分たちでは出来ません。
しかし、これらを自分の力や行い・正しさ・自分の聖い心でやると勘違いをしていることが大きな罪かもしれないと考えさせられました。


いつも悔い改めをしている罪は神様は既に赦してくださっています。
でも自分たちが気付かないところで悔い改めていない大きな罪が残っているのかもしれません。

罪とは的外れという意味です。私たちが悔い改めをしている時に、もしかしたら的外れな悔い改めをしてしまっているということも思いました。


そうしたら私たちはどのような悔い改めをしたら良いでしょうか?

神様の御前に私たちは謙遜になって、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。
私たちの罪は何なのか、神様が示して教えてくださいと祈ることだと思います。


そして日々の悔い改めと共に私たちが何を悔い改めたら良いのか はっきりと示してくださいと祈るならば、必ず神様ははっきりと教えてくださいます。


悔い改めるなら神様は赦してくださいます。

神様は私たちを決して地獄へ落としたいわけではありません。
私たちが家族や周囲の人と共に天国へ行くことを神様ご自身が願ってくださっています。


そのためには私たち自身の罪の悔い改めが必要です。
そして何が罪であるのか教えてくださいと祈る謙遜な心が必要です。


家族や周囲の人々の救いや癒しのためには、私たちクリスチャンが諦めない祈りと熱意、切実な涙をもった願いと愛が必要であると思います。


私たちが疲れ果てている時に、周りの人たちに祈れない時もあります。ですからそれすらも神様に求めていかなければいけないと思います。

そうするならば神様が必ず私たちの願いを聞いてくださると信じます。
。゜(´Д`)゜。

2014.12.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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何度まで赦すべきでしょうか

テーマは 『 何度まで赦すべきでしょうか 』 です

【マタイの福音書18章21-22節】

そのとき、ぺテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

人間関係には色々と困ったことがあります。
愛したいのに愛せない悩みや 赦したいのに赦せない悩みがあります。

ある人たちは「死んでも赦さない」と言いますが、この場合は最初から赦す気がまったくありません。

こういう人はとても気の毒な人で、きっと誰から何を言われても絶対に赦すことをしないと思います。


赦さないことは、誰かに対して憎しみや恨みがあるということですが、それを死ぬまで持ち続けているなら安らかに眠れるでしょうか。その姿が気の毒に思います。

自分に対して罪を犯した人を赦したことがありますか。
もし赦したならば、それは立派なことです。

しかし、赦していない人がいるならば、その理由は何でしょうか?


今回は赦すことに対して考えたいと思います。


私たちが主のことばに従うために、また自分の心をきよめるためには赦すことをないがしろにしてはいけないです。

まず私たちが自分に対して罪を犯した相手を赦すためにすべきことがあります。




①自分を捨てる道理を学ぶ




本文で、なぜぺテロが「七度まででしょうか」と言ったのでしょうか。

時代背景を考えてみましょう。
ユダヤ人は少なくとも兄弟を3度赦すならば、その人は心の広い寛容な人で立派な人格者だと言われました。

ですからぺテロが「七度まで」と言ったのは、それよりもさらに自分は人格者であることを示したかったと思います。

その心を知っているイエス様は彼の自己中心的な思いを壊すために「七度」を「七十倍」と言いました。


赦しと愛は、人間の義の根拠ではなく誇りにもなりません。
なぜなら、まず神様が私たちを赦し、そして愛してくださったからです。


【Ⅰヨハネ4章10節】

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

“自分には愛があり、心が寛容だから人を赦せる” という思いを捨てて、自分はすでに神様の愛と赦しを受けた者だからこそ神様に借りができているので、私たちもイエス様のように人を愛し、赦していかなければなりません。


また、間違えた教えを捨てなければなりません。


「七度までですか。」とぺテロが言った背景には ユダヤ人の教えがあり、その教えは神から出たものではなく、律法学者などによって教えられたものでした。


赦しの限界を決めて、その限界の中だけで赦しますと言うならば、そこには赦さないと言う意味が含まれています。

人を愛する時に、時間や限界を決めるのではなく、無限に愛するのです。




②終わりのない赦しを学ぶ




イエス様は「七度まででしょうか」と聞いたぺテロに対して「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」

これを計算してみると490という数になりますが、ぺテロが提案した“七度” という数がこれで拒否されました。

主の答えは、赦すのは490度までしなさいということではなく、赦しには限界がないことを意味しています。


人々は他人の過ちを“赦す” と言いながらも、相変わらず過去の嫌な記憶をそのまま心に入れて生活をしています。

そして、また同じ相手から嫌なことをされたり、自分に対して罪を犯したりすると過去の記憶まで思い出し、そのことを再び責めて相手を非難します。


神様が私たちに見せた赦しをみるならば、真の赦しがどういうものかがよく分かります。

私たちが罪を犯した時に、神様は1度赦してくださった(今までの)罪を思い出して私たちを責めたことがありません。それはなぜでしょうか。

聖書には神様の赦しは完全な赦しであることを示すことばがあります。


【イザヤ書1章18節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。


【イザヤ書44章22節】

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを購ったからだ。」

神様の赦しは私たちの罪を完全に忘れることでしたので、私たちの赦しもそのような赦しでなければなりません。


赦したと言いながらもいつまでも過去のことを思い出して責めるならば、それは赦していないことです。

490回だとイエス様が言ったのは、神様が私たちに見せた限りない赦しのように私たちもそのようにしなさいと命令しているのです。


赦しとは、単純に「赦します」 と言葉にすることではなく、自分たちの思いや記憶から消していくことです。


「人間生きている時は誰にでも過ちはある。人を傷付ける時もある。」と思いながら心から赦すことが必要です。


地獄には、“人を赦さない人たちが入る場所” があります。


心の中で妻を赦していない牧師に、イエス様はその場所を見せながら「ここはあなたが来る場所だ」と言いました。
あまりにも驚いた牧師は「妻を赦します!赦します!」と叫びました。

この経験は牧師にとってあまりにも恐ろしいものでした。


人を赦すように命じたことばは聖書に多いです。


【マタイの福音書6章14-15節】

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父も あなたがたの罪をお赦しになりません。


【マタイの福音書18章35節】

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。


【マルコの福音書11章25節】

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、 あなたがたの罪を赦してくださいます。


【コロサイ3章13節】

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい。




③十字架の愛を学ぶ




赦すように語った主のことばの中に必ず天の父ということばが共に出てくる理由は何でしょうか?


それは私たちが天の父から赦しを受けなければならない存在であるからです。


私たちは罪人ですから、神の赦しが必要になります。


自分自身が神様の赦しが必要なのに、人を赦さないで神様の御前に出て「私の罪を赦して下さい。」というのは話にならないことです。

瞬間、瞬間 罪を犯しながら生きている人間に、神様の限りない愛と赦しがないならば、人間は絶望的になります。

そしてその罪のために皆 滅ぼされてしまいます。


イエス様は私たちの弱さを知って私たちをただ責めるのではなく、罪のない方が私たちの罪を負って十字架にかかりましたし、自分を十字架につけた者たちに対しても 十字架の上で赦しのことばを語りました。

イエス様はペテロに対しても限りない愛と赦しをはっきりと示しました。

自分の命を守る為に3度もイエス様のことを知らない人だと言い、また呪いまで口にしたペテロに対して、復活した主は彼に会い、回復されました。


【ヨハネの福音書21章17節】

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と 言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

ペテロを赦し、ペテロを愛し、そして回復されました。これが真の赦しであります。

私たちも早くこのようにしましょう。

相手が生きている時にして、そして自分たちも主に赦していただきましょう。
(´∀`*)

2014.12.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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殉教する人々

テーマは 『 殉教する人々 』 です

【ローマ8章35節】

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

キリスト教の歴史は “血の歴史”とも言えます。

まずはイエス・キリストが十字架につけられて亡くなられました。

十二弟子のイスカリオテ・ユダはイエス様を売ってから自殺しましたが、ほかの弟子たちはヤコブが一番最初に殉教し、そのあと全員が殉教しました。

パウロも殉教し、初代教会やローマ時代は実に多くの信徒たちが殉教しました。


ローマ帝政時代は300年のキリスト教迫害がありました。
その期間、数えきれないほどの多くのクリスチャンたちが殺されました。日本ではどうだったでしょうか?

日本のキリシタン迫害が世界の中で最も厳しかったと言われています。

1597年に長崎二十六聖人の殉教事件が起こりました。若い人たちが信仰のために殉教しました。
彼らが殺された場所には、記念館が建てられています。

徳川幕府のキリシタン迫害は最も厳しい迫害と言われ、250年間も迫害があり、多くの信徒たちが殉教しました。豊臣秀吉も迫害者でした。


これらの時代を調べてみると、迫害者は信者に「殉教者の道」を選ばせず、棄教するまで監禁して拷問し続けるという策を取りました。

その理由は、迫害者たちがキリシタンを皆殺しにすることは たやすいことでしたが、迫害者たちは(彼らを)棄教させないと、たとえ皆殺しにしても 彼らを自分たちの意に従わせられなかったという侮辱を受けたことになり、自分たちの負けになってしまうので激しく拷問を加えました。


拷問の方法はさまざまでした。

①火炙り…生身の人間を焼き殺す方法です。柱に縛り、苦しみが長く続くようにしました。

②穴吊り…特に残忍だったと言われています。深さ2m、直径1mほどの穴のそばに吊り台を立て、信者を吊り台から穴の中に逆さ吊りをする方法で、穴の底には汚物を入れていました。


信者たちはそれ以外にも激しい拷問を受けましたが、彼らはそれに負けず キリストを裏切ることもなく、自分たちの信仰を守り通しました。


現代は迫害を受け、殉教する人はいないでしょうか?

残念ながら現代も殉教する人は多いです。


シリアとイラクではイスラム国によって多くのクリスチャンが既に殺されてしまいましたし、今も殺されています。首をはねられたり、十字架にかけられたり、石を投げられて死んだりと、とても多くの信者たちが殉教しました。


何年か前にインドでもクリスチャンの家が600棟壊されました。

その時は西側からイスラム教が入ってくることに危機感を感じたヒンドゥー教徒たちがキリスト教に対しても激しく反発し100名がその時に殉教しました。

私はその時の映像を見ましたが、とても残酷な映像でした。

3人のキリスト教信者が多くのヒンドゥー教徒たちに襲われている場面で、棒で激しく殴る者や、足で蹴ったり顔を踏みつけたりとやりたい放題でした。

そして3人のクリスチャンは血を流しながら死んでいきました。心がとても痛む映像でした。


これは2007年4月に、トルコで起こったことです。

聖書配布とC.C.Cの文書の働きをするキリスト教出版社に5名のムスリムが礼拝のために入ってきました。

彼らはイスラム過激派の一員で、20歳前後の若者たちでした。
3ヵ月前から宣教師たちと共に聖書の勉強をしたり、人々に聖書を配ったりもしました。

キリスト教に関心を見せながら接近してきましたが、実は数ヵ月前から殺害計画を立てていました。


彼らは突然入ってきて銃で脅し、宣教師や兄弟たちを椅子に縛り、「イエス・キリストを否定し、そしてアラーの神を唯一の最高の神として受け入れるよう強要しながらナイフで拷問し始めました。

銃とナイフ、ロープやタオルをすでに準備して来た彼らは兄弟たちを残虐に拷問しながら、それをスマホカメラで撮影しました。


1人の兄弟は99回、ドイツ人宣教師ティルマンは156回もナイフで刺されました。ウル兄弟が刺された回数は数えきれません。

彼らは兄弟たちの指を1本1本切り落とし、鼻や口、そして全身を切り裂き、お腹の中から腸を出して、ほかの兄弟たちが見ている前でバラバラにしました。

現地人のウルは32歳の独身、もう1人の現地人には奥さんと子ども2人がいました。

2人は「私は、私の民族に神のまことの愛を伝えながら死ぬ準備が出来ています。」と話していました。

トルコは1000年前はクリスチャンが多い国でした。
アジアの七つの教会もありました。しかし現在はキリスト教は0.3%、イスラム教が98%です。


ドイツ人宣教師ティルマンは46歳で子どもが3人いました。

幸せだった宣教師家族、そして殉教した兄弟たちが一番耐え難かったのは、自分の傍で愛する兄弟たちが苦しみながら死んでいく姿を見ることでした。

殉教した3人の兄弟は、3時間も激しい拷問を受けましたが、誰もイエス様を否んだ者はいませんでした。

最後には3人とも首が切られて亡くなりました。


しかし この事件後、アンカラTVに出演したティルマンの奥さんであるスザンナ宣教師は、『彼らを赦します。なぜなら彼らは自分たちが何をしたのか知らないからです。』と 公開的に彼らを赦しました。

現地人として殉教した兄弟(ネザティ)はいつも「私はムスリムとして生まれましたが、クリスチャンとして死にます。」と言っていました。

最初に韓国人宣教師から福音を聞いて信じたネザティ夫人は、次のように言いました。

“彼はキリストのために生きて、キリストのために死んだので彼の死は 意味ある死です。
私は彼と共に人生を歩んだだけでも栄光だと思っています。そして私はこの地上で栄光にふさわしい人生を生きたいと願っています。”


その後、イスタンブール広場には数百人の隠れていたトルコ人クリスチャンたちが「私たちもクリスチャンだ。私たちも殺しなさい。」と叫びながら集まってきました。

聖徒たちは公に露出されたことで標的にされる危険があるにも関わらず、大胆にネザティの葬儀の場で見守っていました。

予想通りにテロ防止課警察が来て、参加者ひとりひとりの顔を写真に収めました。


日曜日、教会の門には“次はあなたの番”という紙が貼られていましたが、誰も恐れませんでした。

現地の教会の指導者たちは記者会見で “今後、このような悲劇が起こらないことを願います。しかし殺すなら私たちは死ぬしかありません。私たちは信仰で殉教時代を越え、続けて前進していきます。”と霊的宣戦布告をしました。


韓国人の宣教師たちも共に集まって殉教の血が虚しくなることがないように、すでに遺書を書き 最初の殉教者を出したトルコ人クリスチャンたちが迫害に対抗するためではなく、聖徒たちの忍耐のために、そしてトルコの地の救いのために断食祈りをしました。






ルーマニアで14年間も独房の中で迫害を受けた「生きた殉教者」と呼ばれるRichard Wurmbrand牧師の話を聞くと、気が遠くなるような苦しい思いになります。

はたして自分はそのような状況で耐えられるだろうかと自信がなくなります。

14年間、太陽や月、星、花、雪も見たことがありません。本や紙、ペンがなく書くこともできませんでした。女性や子どもも見たことがありません。

ただ看守と拷問専門家だけを見ました。


拷問の方法も色々とありました。
午前5時~午後10時まで正座させられ壁に寄り掛かることも許されませんでした。

時には1日中、スピーカーから流れることばを聞かされました。
「共産主義は良いものだ……キリスト教は愚かだ……もうキリストは信じない……。」
(洗脳するために)繰り返しこの言葉だけが流れました。

時にはまったく音がなく、何も見えず沈黙だけがありました。

それでも彼はキリストを否むこともなく、ほかの信徒たちの名前を口に出したことはありませんでした。
14年間、地下教会の信徒の名前を言えと拷問され続けましたが、ひとりの名前も出しませんでした。


また、インドではクリスチャン一家が住む家が放火されました。

わざと彼らの命を狙っていました。
14才の女の子は身体がすでに半分は焼けて、助けに入ってきた人に 女の子はこのように言いました。

「私はいま やっと十字架の苦しみが少し分かりました。イエス様がどれほど私を愛したかを少しは分かるような気がします。」と。







私たちはここで考えたいことがあります。

彼らが信じるイエス様と、私たちが信じるイエス様は 違うイエス様でしょうか?


彼らの中には何があって あのように生き、私たちの中には何があって 小さなことにも妥協しながら生きるのか。


私たちはたくさんの物を持っていながらも辛いと言うし、あまりにも不平不満が多いです。
さらに私たちはもっともっと欲しいと言います。


しかし、神様は言いました。
たくさん持っているものには多くのものを要求すると、私たちはメッセージをたくさん聞いていますし、本を読み情報を得ているので たくさん持っている者です。

しかし殉教している多くの人を見ると、彼らには多くの知識や賜物があるのではありません。


彼らは「イエスだけが唯一の救い主だ。」という、この事実だけに彼らは命をかけます。

「イエス・キリストの中に救いがある。主はキリストだ。」 この1つのことを 繰りかえし噛みしめながら信仰を守り通しています。


このように生きている人たちがはっきりと告白することばが、今回読んだローマ8章35節のことばです。


【ローマ8章35節】

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

さらに自分の命や家族よりも、キリストを愛して生きている人たちは次のような姿です。


【使徒の働き20章24節】

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私の いのちは少しも惜しいとは思いません。


【Ⅱテモテ4章7-8節】

私は勇敢にたたかい、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。 かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

アーメン ( ̄‥ ̄)=3

2014.11.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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