からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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イエスキリスト

何を感謝するのか、なぜ感謝するのか

テーマは 『 何を感謝するのか、なぜ感謝するのか 』 です

【第1テサロニケ5章18節】

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

神様は、すべての事について感謝しなさい と言われました。

感謝することは、主が喜ばれることであり、またクリスチャンとして当然すべきことでもあります。


聖書に感謝の言葉が入っている聖句を検索したら 186箇所出てきました。

もっとあるかも知れないですね。

内容を少し調べると、本当に様々なことで感謝がささげられていましたし、感謝しなさいという命令もありました。


キリスト教は感謝の宗教です。


感謝をいつも主に捧げていますか?

今日は特に “収穫感謝礼拝” ですので、タイトルを 「何を感謝するのか、なぜ感謝するのか」 にしました。


聖書を調べるとそれが分かります。


旧約聖書を読むと、ユダヤ人には三大祭りがありました。

その祭りは人間が決めたのではなく、すべて神の命令によって決められました。

そして その三大祭りは、すべて感謝祭でした。


それを理解すれば 私たちは “何を、なぜ感謝するのか” が分かります。

祭りの記録があるのは、出エジプト記23章、レビ記23章にあります。




過越の祭り




まず「過越の祭り」は、“種無しのパンの祭り” とも言います。

なぜなら続けてやる祭りであるからです。


【レビ記23章5-8節】

第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。

この月の十五日には、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。

最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。

七日間、火によるささげ物を主にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」

神様は なぜ過越の祭りを行うようにしたのでしょうか?

それはイスラエル民族が解放されたことを感謝する祭りです。


エジプトで430年間 奴隷生活をしながら苦しんでいたイスラエル人を、神はモーセという指導者を遣わして解放する計画を立てて それを実行に移しました。


エジプト王パロがイスラエル人を解放しないので、神は10の災いをエジプトに下しました。

最後にあった わざわいが、エジプトにいるすべての初子が死ぬことでした。


神は事前にパロに伝えましたが、パロはその言葉を聞いても心をかたくなにして聞き入れませんでした。

“まさかそんなことは起こらないだろう” と、彼は神のことばを無視しました。


神はわざわいの時に イスラエル人を区別するために、助かる方法を教えました。


それは羊をほふり、その血を取り、家々の二つの門柱と、かもいにつけると、裁きが下る時に 神がその血を見て、その所を通り越して、そこには滅びのわざわいが起こらないようにすると言われました。


それを信じてイスラエル人は 言われた通りにして、初子が死ぬという悲劇に見舞われた家はありませんでした。


しかしエジプト人の間では、すべての家の初子が死んだので 大変な悲しみがありました。

このわざわいがあってパロはイスラエル人を解放しました。


イスラエル人は430年間の奴隷生活から完全に解放され、カナンの地に向かうことが出来ました。

解放されたことを忘れず、いつも感謝することを覚えさせるために、神はこの過越の祭りを行うように命じました。


教会では聖餐式がこれに当たります。


イエス様は、私たちをサタンの奴隷から神の子どもに、死から命に移すため 私たちのためにほふられた  “過越の小羊“ です。


(イエス様が)流されたその血によって、私たちは守られ 救い出されました。


サタンの奴隷から解放されたこと、救われたことを私たちは感謝しなければなりません。


霊的に “過越の祭り“ は、過越の小羊となったキリストを暗示します。

次のみことばにも書かれています。


【第1コリント5章7-8節】

新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。



五旬節




次の祭りは「五旬節」です。


【出エジプト記23章16節】

また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行わなければならない。

神様は収穫の刈り入れの初穂、すなわち春の収穫の時も 年の終わりの収穫の時も 祭りをするように言われました。


なぜかと言うと、大麦と小麦の収穫の時期が違っていたからです。


この祭りは、日々のすべての糧の生産者も供給者も、“主” であることを認め告白する意味があります。


種を蒔くこと、水を注ぐことは人間に出来ますが、成長させるのは神がなさることです。


私たちは日々の糧を得るために仕事をしていますが、仕事する資本である体は、神様が守って下さらないと自分の力では守れないです。


恵みによって糧を得たことに対して神に感謝することです。

また、この祭りにも霊的意味があります。


収穫の初穂は、“復活したイエス・キリスト” を象徴します。


【第1コリント15章20節】

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

この “復活” は信じる者に大きな希望を与えてあります。


それは私たちも復活の恵みに預かれるからです。


五旬節は、初穂をささげてから50日になる日に行われた祭りです。

この時は1日だけの祭りでした。


この日は労働せずに収穫の感謝を神にささげ、隣人との楽しい交わりをしました。


五旬節の霊的象徴は “聖霊降臨” です。


五旬節に聖霊が下りました。

私たちが神に感謝しないといけないのは、聖霊を私たちのために遣わして下さったからです。


聖霊なしには 生まれ変わることも信じることも、また神の子にふさわしく生きることも出来ないです。


私たちは日々この聖霊によって守られ導かれていますので、このことを大いに感謝しないといけないです。




仮庵の祭り




次の祭りは「仮庵の祭り」です。


【レビ記23章33-34節】

ついで主はモーセに告げて仰せられた。

「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。

この祭りは1年間労苦して得た収穫の後に行う民族最大の祭りでした。


そしてこの祭りは、エジプトの奴隷から解放され40年間 荒野で生活した時も神が自分たちを導き守って下さったことを記念する祭りでした。


七日間家を離れ、野原に仮庵を建てて生活しながら過去の荒野生活を振り返り、信仰を新しくしていました。


聖徒たちは今、この祭りをどのように解釈して行うと良いでしょうか?


天の御国に向かって歩んでいる聖徒たちも、主に導かれ守られていますので、そのことを悟らないといけないですし、私たちが肉体という衣を脱ぎ捨てた後は、永遠に安息と平安がある天の住まいで主と共に生きることを悟り、救いを与えて下さった神に常に感謝をすることです。


ただ 衣食住が与えられたこと、そして健康であったこと、守られたことだけが感謝ではなく、もっと大きな霊的恵みが自分たちに与えられていることを覚えて、それを与えて下さった神に感謝することです。


神の一方的な愛と恵みによって救いを受け、日々守られ、助けられ、また天国への道、復活の祝福があることが感謝の内容であり、感謝すべき理由です。



なぜ今の時期に、教会では “収穫感謝礼拝” をするのかを少しだけ話します。


アメリカでの感謝祭の始まりは、1620年に信仰の自由を求めて、イギリスの聖教徒たちがメイフラワー号に乗って新大陸アメリカに渡って行きました。

厳しい冬と直面し、生活もままならず、渡った半分の人は いのちを落としました。

そして先住民に助けられた残りの人たちは、翌年1621年の時に 無事に収穫出来たもので先住民たちも招待し、自分たちを助けて下さった神に感謝をささげたのが感謝祭の始まりでした。


アメリカでは、11月の第四の木曜日が感謝際です。


日本では勤労感謝の日に近い11月の第四主日に礼拝をする教会が多いですが、その日に必ずしなければならないわけでもありません。

イギリスやドイツ、カナダなど感謝祭の日はそれぞれ違います。


“いつする” のが重要ではなく、感謝の心が重要であり、恵みを忘れず、覚えて生きることが大切です。


そして神が命じた感謝祭の内容を悟って、感謝をささげることが大切です。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2016.11.20
収穫感謝礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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父なる神、主イエス・キリスト、聖霊と聖徒

テーマは 『 父なる神、主イエス・キリスト、聖霊と聖徒 』 です

【ヨハネの福音書16章13-15節】

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、 聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのもの受けて、あなたがたに知らせるからです。

父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

このメッセージの中に父なる神、聖霊様、イエス・キリストが出てきます。
それが聖徒たちと、どのような関係があるのか 今回語りたいと思います。

クリスチャンでも 何が何だかよくわからないと思っている人がいるかも知れません。
神は唯一と言いながら、聖霊様とかイエス・キリストとか 父なる神とか、神が3体いるのではないのか?1体ではないのでは?と思うクリスチャンも多いでしょう。


曖昧な状態の中で信仰生活をする人もとても多いですし、他の人に説明をすることも難しく、私たちがどうしたら これを理解しやすくなるか一言では難しいですが、本文に出てきた箇所を通して説明します。



キリストと聖徒の関係




【ヨハネ15節1-8節】

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、 実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

わたしにとどまりまさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。 同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。 そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしにの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

【マタイの福音書15節16節】

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。 それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも 、父があなたがたにお与えになるためです。

一言で言うならば、キリストと聖徒はぶどうの木と枝のように互いに一つでなければなりません。

枝が木に留まるのは当然のことであります。枝である私たちが1人で実を結ぶことは有り得ないです。

私たちがキリストに出会って まず最初にすることは、信じてキリストを受け入れることであります。

受け入れるということは キリストが自分たちの中に、自分たちはキリストの中に、すなわち今まで罪によって死んでいた者が、キリストに出会い 霊によって1つになることを意味するのです。


罪人たちがキリストを通さず 直接父なる神の前に出て行くことは出来ません。
汚れた姿のままでは、聖なる父の前に出られないのです。

例えば、旧約聖書には幕屋がありました。
人間が誰でも至聖所に入ることは出来ませんでした。もしそうするならば、討たれて死にました。
大祭司であっても1年に1回の贖いの日だけです。


神の御子であり、人として地上に来られたイエス・キリストに属さない人は神の前に行くことはできません。

(私たちは)イエス様と外の結びつきで「一緒に行きましょう」というのではないです。
キリストが自分たちの中に、自分たちがキリストの中に入って1つになった時に、父なる神様はそれを見て祝福してくださるお方であります。


ユダヤ教の人たちは キリストを認めておらず信じていません。

彼らは、神は唯一であるから旧約の神以外はすべて偶像であると言って キリストも否定しています。
彼らは今もメシヤを待っています。「キリストはいらない。私たちは神と直結している」と彼らは考えていますが、神様は 人と直結することをしませんでした。


キリストを通らなければ(神様は)人と会うことがないと聖書で教えています。
神様に出会う人は誰でもイエス・キリストに属する人であります。

切られてしまった枝は、キリストから流れてくるものが何もないので必ず枯れてしまいます。

私たちがキリストに属することは、そこから命と赦しと救いが出てきますので、それが1番大切なことであります。

私たちはキリストを見て、はじめて父なる神を見るのです。
キリストを抜きにして神様を見ることは出来ません。その意味でキリストと聖徒は切っても切れない関係です。


【ヨハネの福音書3章16-18節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

父なる神はいつもキリストを通して私たちを見ています。

「私がキリストから離れても、キリストはついて来るのだ」ということではなく、
枝の方が 必死に木を頼って生きなければならないです。

私たちはキリストに繋がって1つになることを日々求める必要があります。
キリストの中に自分は留まっているのか、それともそこから離れて勝手に歩いているのかどうかを確認しなければいけません。



父なる神と聖徒の関係




【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、 わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

父なる神様は聖徒たちがキリストのことばをよく聞いて守り、キリストを愛する者に対して愛して下さいます。

私たちは父なる神様の子供ですが、キリストによって私たちも神様の子供になりました。
イエス様と私たちは親子関係ではないのです。
しかし神様は 私たちにとって「父なる神」親子関係であります。「アバ=父」です。

そこで一番大切なことは、愛の関係です。
神様は愛であります。私たちを愛してイエス様を送ってくださいました。私たちの魂を救いの道へと開いてくださいました。
神様の愛は直接聖徒たちに注がれます。

罪人さえも神様は愛してくださいますが、キリストを愛する者に対しては さらに特別な愛で、
しかし、キリストを苦しめる者には 神様は愛することができないです。なぜならそれは神を直接痛めることになるからです。


神の愛を受けるならば、私たちの心は本当に平安になります。その愛がそのまま慰めになります。
その愛がそのまま私たちの生きる力、希望になります。愛ほど強い力はないです。


(父なる神様は)愛だけは直接私たちに与えたいと願っていますので、私たちがその愛を受けるためにはキリストとの関係がすごく大切であります。
「神様は怖い、だから頼まない。」というのではなく、神様ほど愛の方はおられません。
ですから私たちは父なる神様とは愛の関係でなければなりません。



聖霊と聖徒の関係





【ヨハネの福音書14章16節】

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。 その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。

【Ⅰコリント3章16節】

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

聖霊様が来られた目的は イエス様のことばの中にあります。

イエス様は天に帰りながら私たちのために聖霊を遣わして下さいました。いつまでも私たちとともにおられる為に。


私たちが聖霊を受けても、聖霊が何をするのだろう?と よく分からないと思っている人もいるのですが、
一番の目的は私たちの中に住むために来られました。

霊ですので、世界中どこへでも行くことができます。そしてキリストを受け入れた人々の心の中に聖霊様が住むのだということを語りました。

そのような意味で 私たちが常に心を見守れと言うことは、自分たちの心が神殿ですので 私たちのために来られた聖霊様が住む場所なので、心を汚いもので満たすのは良くないことであります。


ゴミだらけの心の中に「聖霊様、どうぞ入ってきてください。」と言っても、聖霊様が入るわけがないです。

もし誰かが私たちに「どうぞ家に入って来てください。」と招待されて玄関を開けると、そこはゴミ屋敷のようだったら家の中に入ろうと思いますか?絶対に入らないと思います。


「聖霊様、私の心に入ってきてください。」と言いながら、心の中を何一つ掃除もしないならば 招いても聖霊様は入ることができないです。

「私は 私の身体、私の心を勝手にしても良いでしょう?」ではなくて、主が語っているように「私の身体と心は神の神殿であるのだ。だから毎日掃除をしなければならない。神は聖なる方であるから。」と聖霊様は聖い御霊でありますので、常にその認識が必要です。


ですから私たちは心を開いて聖霊様を大事に迎え入れなければなりません。聖霊様は求める者の心だけに入ってこられます。

その聖霊様が私たちと共にいて何をしてくださるのか、今回の本文の箇所に出てきます。


【ヨハネの福音書16章14-15節】

御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

すべてのものは父なる神が所有していました。それを御子キリストに全てを任せています。以前はイエス様がこの地上で活躍しました。

その後は同じ働きをイエス様が遣わした聖霊様がなさるので、同じものを全て(聖霊様に)与えています。そして今度は御霊が全ての権限を持ち、父なる神の栄光、キリストの栄光のために 聖霊がその働きをするのです。

本当に聖霊様は私たちを助けてくださるお方なのです。共におられるので、私たちは何でも聖霊様に相談することが出来ますし、助けを受けることも出来ます。


ですから、イエス様に対する同じ思いを持って 聖霊様を信じ委ねて導きを受けなければならないです。

私たちは毎日「今日も聖霊様を歓迎致します。」と頼って生きるならば 聖霊様が私たちの内側で働いてイエス様に栄光が現れるようにするのです。

その助けによって私たちは実を結ぶことができます。
ぶどうの木に繋がれている枝は常にそこから力をもらって実を結びます。
聖霊様がその働きをしてくださいます。


イエス様の中で留まっている私たちを 聖霊様が力を与え、助け、栄養を送り、私たちが実を結ぶようにしてくださり、実が結ばれたらイエス様が喜び、父なる神様が喜ぶ。このような関係で動いています。


三位一体は父なる神と イエス・キリストと 聖霊であり、それを切り離すことが出来ないです。
別々のものではなく、働きが少し違うだけであります。

その中に私たちも入るなら、私たちも切り離すことが出来ない存在になります。
そこで私たちが父なる神から愛を受け、イエス様や聖霊様から助けをもらって生きることが出来ます。


あるところでは、聖霊を認めない教会もあります。
イエス様が送った聖霊をなぜ拒むのでしょうか。それは間違えています。

聖霊様を歓迎しなければならないです。

今は聖霊様が私たちの内で働く時でありますので、日々 私たちが聖霊様に頼っていかなければならないです。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2014.6.8
ペンテコステ礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストを信じる信仰

テーマは『 イエス・キリストを信じる信仰 』です

【エペソ1章19-23節】

私たちはイエス様を信じる者ですが、キリストに対する信仰が自分自身にどのような影響を与えているでしょうか?
キリストにあって、どのような祝福を受けていますか ――。

多くの人は「罪が赦されて天国に行けるんだ」と言いますが、天国に行くだけが私たちに与えた祝福ではないです。
もちろん それも後に受けますが、神様は今回のみことば箇所で はっきりと語っています。

今の世の中でも祝福されないならば、それはみこころではないのです。

なぜ私たちが祝福されなければならないのでしょうか?
それは もともと神様が人間を造った時は祝福されていました。
しかし人間が神様から離れたことによって全てを失いました。
それでイエス様が来られて働いてくださったことによって(祝福が)回復されました。

「死」は十字架によって「命」に取り換えました。その他にもイエス様はたくさん回復してくださいました。

つまりキリストを信じるということは、回復されたものを(受け取ると)初めから約束されているのです。
キリストの中に全てのものが満ちていますので、その祝福を私たちが信じる瞬間から受け取るのであります。

神様はそれを与えたいので私たちを呼んでくださいました。
クリスチャンの生活になるということは、キリストが準備をしているものを相続者として受け、
楽しみながら生活をすることであります。


【イザヤ53章4-6節】

これは救われる者たちのためにしてくださったことです。
病の討ち傷をイエス様が負って、それを回復してくださいましたので私たちが受けるものは癒しであります。
病気になった人が「あぁ、これは主のみこころであるんだ」という人がいますが、とんでもないことです。
主のみこころには、私たちを病気にさせて滅ぼすということはなく、神様が祝福として用意したものではないです。


【Ⅱコリント8章9節】

弟子たちは家族のもとに帰りましたが、イエス様には帰る家がないです。
ですから山に行って、夜通し父なる神様にお祈りし話をしながら寝る事もありました。
しかし、それは何の為でしょうか?

イエス様ご自身が、人間が地上で何を食べるか何を飲むのか、そのような貧しくて苦しんでいる問題を
回復させる為でした。

今、地球上にいる80%が貧しい者です。食べ物がなくて亡くなる人もいます。家がない人も大勢います。
明日のことを心配する人もたくさんいます。何も心配せずに生きている人は、どれだけいるでしょう。

イエス様は人間の悲惨な状態を見たのです。それをイエス様ご自身も通ってきました。
十字架の上でイエス様が「完了した」と言ったのは、人間が失ったすべてのものをイエス様が回復する働きを
終えたということであります。

ですから私たちが様々な問題の中で苦しむ必要がないということです。


物質についても、(私たちが)貧しいのが神様のみこころであると、どこに書いているでしょうか?
それだとイエス様がずっと貧しく生きていた意味がないです。

昔から教会で間違えた聖書の解釈をするので、真理ではない言葉を流していくのです。
クリスチャンは貧しくなるのが敬虔な姿であるというのは、とんでもないことです。
貧しくなって施しが出来るのですか?人の益になること、物を分け与えることができるのでしょうか?

―― できないです。イエス様は常に人々に与えました。弟子たちにも与えていきました。
そこでキリストを信じる信仰とはこういうものなんだと、イエス様が(信じる者に)準備をした恵みの中に入りなさいと、
これがクリスチャン生活のスタートラインであります。


だからと言って、キリストを信じた瞬間に宝くじに当たってお金が与えられるということではないです。
それは祝福ではないです。キリストの祝福はそんなものではないです。
「何を食べて何を着るかを心配するな」と神様がすべて知っておられるからです。
世の中でも、悪い親でも子供には良いものを与えるように、神様は 神様を求める者たちに悪いものを与えるはずがないのです。

皆さん、クリスチャンの人たちはキリストに出会ってからも なぜ苦しむのですか?
なぜいつも日常の生活の中で、今も罪の問題、病の問題、貧困の問題、家庭の問題などを自分でそれを背負って
苦しむのでしょうか?

それは信仰が間違えているからであります。
なぜ自分がキリストを信じる信仰がそこに1つも影響力がないのでしょうか?
なぜキリストが与えた影響力が自分のものにならないのか、それは神様のせいでしょうか? とんでもないです。

神様は私たちが祈る以前に備えてくださっています。ですから、問題は常に私たちにあります。
その問題点を挙げます。


①キリストと1つになっていない


これはまだ生まれ変わっていないということであります。
信仰が形式的で、信仰の味をまだわかっていないです。私たちが生まれ変わるということは、何だと思いますか?
信仰をもって信じて、キリストと1つになることです。キリストの中に入ることです。
そして その人自身が古い人を脱ぎ捨てて、新しい人になることが生まれ変わったことであります。

古い人のままで生まれ変わることはないです。もはやあなたが生きるのではなくて、キリストがあなたの中で
生きているということを主が語りました。

キリストと1つになって生まれ変わっていないので、キリストが自分のために備えているものが
自分のものになっていないのです。
そして相変わらず 自分で全てのものを背負って「主よ、主よ、どうしてですか?!」になってしまうのです。

これはキリストにある権利を知らないからであります。
私たちがクリスチャンになって出発する時は、キリストが回復しておいた根本的なところに
気が付かなければならないです。
クリスチャンになることは何か?という時に、「あぁ、これから厳しい信仰生活が始まるなぁ」ではなく、
「キリストが回復したものを私が相続するんだ」と全ての良いものを自分が受けるという認識がないといけないです。


聖書に2人の放蕩息子の例えがありますが、これは2人とも間違えていました。
1人の放蕩息子は父の財産を「ください、ください」と言って(父から)もらいましたが、神様の目的とは違う
自分の快楽のために財産を湯水のように使って、結局は父の家にいた時より悲惨な罪の奴隷になりました。

もう1人、家の中に留まっていた長男ですが、この長男の姿のようなクリスチャンが多いです。
自分の弟が帰ってきた時に 父が赦して指輪をはめ、新しい服を着させ、ご馳走を食べさせたことに
ものすごく腹を立てました。
「私は朝から晩まで汗を流しながら働いているのに、私には1つも良いものをくれたことがありません。」と
言いました。長男の問題は何でしょうか?

父のものが自分のものだという認識がないのです。
つまり求めなかったことです。彼の中には「あれはお父さんのものであって、私のものではない」と思っていました。
ですから一度も父に「ください。」と言ったことがないです。
ただ黙々と死にそうな思いで働いたうえに、父に対して不満な心がありました。


父のものは自分のものだという根本的な権利を知らない長男でした。
知らないので1つも自分のものになっていないのです。こんなに金持ちの父親がいても、奴隷なのです。

「私が心の中でこんなに想っていても1つも叶えられない」というのは、世の中の宗教の信仰と同じであります。
信仰で必死に求めているのですが、それを叶えてくれるものがいないのです。
つまり神がいないということです。聞いてくれないものに いくら自分たちが拝んでも得るものはないです。


私たちの信仰も、(神様は)父のものはあなたのものなのに、なぜ自分のものだという認識がないのか―?と
語ります。自分のものだという認識があるならば、自由に使って良かったのです。
いちいち父親に許可をもらわなくても、正しくそれを使うならば、父親は喜んだと思います。
彼がその中で喜んで生活をする姿を見たら父親も嬉しいのに、いくら経っても何一つ求めないのです。
そして、いつ見ても不満な顔をしているのです。

クリスチャン生活はそのようなものではないです。信じる者の為にイエス様が犠牲を払って回復してくださいました。
天国に無いものはないです。

歪んだ信仰で何が生まれてくるでしょうか? 私たちは正しい者でなければいけないのです。


②期待しないものに神様は絶対に働かない


奇跡を行う神様だと期待をしないので奇跡が起こらないです。期待をしないので御使いも現れないです。

聖書はすべて言葉で書かれていますが、
言葉が働くのは、私たちが信じて期待をして宣言をする時に言葉が動き出します。
言葉は私たちが宣言をしない限り、絶対に動かないです。

私たちが色々な問題を抱えた時に みことばを宣言するのです。
「キリストの懲らしめによって私は平安になった。サタンよ、出て行け!」と潰すことです。
病気の時は「キリストの討ち傷によって私は癒された!」と宣言をします。
「もっとひどくなるのかな?」と、このような言葉を言うならば 癒しは絶対に起こらないです。

困った時だけ神様に求めるのではなく、初めから自分のものなのです。その中で生きることです。
キリストと自分が別々に生活をして、困った時にその問題を持ってわざわざキリストの所へ行き、
「私 困りました。」では得られないです。


キリストの中に住むということは、自分の人生すべてをいつも委ねて生きることなのです。
心の王座に自分が座っていてはいけないです。そこにはキリストが座るのです。
多くの人達が「主よ、主よ。」と言いながら、全部自分の力で色々なことをしようとします。

ちっぽけな人生を自ら歩もうとするのは、キリストが見て「それが信仰か」と泣いています。
私たちは「王の王、主の主」の子どもなのです。

祈って委ねると大胆になれます。毎日幸せだと宣言をします。
口から出る(不信仰な)言葉が恵みを閉ざしてしまいます。
不満を言うのはキリストが何をしてくださったのかをまだわかっていないです。
「私はまだ生まれ変わっていないんだ」と知り、反省をしなければならないです。

体験のない信仰は、信仰が1つも動いていないことであります。みことばが自分の生活の中で動いていないです。
それはその言葉を使っていないからです。


「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのすべてのものは与えられます。」
ということは、キリストの中で自分が今生きている目的は「キリストなんだ」ということです。
私のために良い事をしてくださったキリストを喜ばせる生活、キリストを愛する生活、キリストを敬う生活、
これが私たちの日々することであり、それをやっておけば自然と蛇口をひねって恵みが流れるように
主が備えてある祝福は全部自分のものになるのです。

ですから、自分の努力で得る必要は一切ありません。主のみことば通りにすれば、自然とついてくるものです。

信仰生活は最初から祝福を受け取る生活です。努力をして何もないところから一から始めるのではなく、
初めからあるものを信仰によって受け取るのです。

自分がいかに信仰によって、それを自分のものとして使うのか、これが試されているのです。
喜びながら、心配をしないことが信仰なのです。「豊かな祝福を一生受けます」と宣言をしてください。

一体、私は誰なんだ? ―― 私は王様の息子、娘であるということをもっと自覚して欲しいです。
以前は奴隷であったけど、今は違うという大胆さです。

嵐が起きていても立ち止まる必要がないです。蹴ったら良いです。
誘惑するものに向かって、いちいち立ち止まって潰れて、元の道に戻ることはサタンに負けることであります。
「下がれ。サタン。お前と私に何の関係があるのか。今の私は以前とは違うぞ」と戦うことであります。

イエス様がしてくださったものを、しっかりと受け止めてください。 (・◇・)ゞ

2013.7.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストが来られた目的

テーマは『 神様と人間の関係の為に来られたイエス様 』です。

【使徒の働き20章35節】

私たちは与えるより、受ける方が良いと思いますが、イエス様は逆のことを言われています。
そしてイエス様はそれを実行されました。

私たちは主に対して何かを与えましたか?
献金でしょうか? ――それは違います。

人間は生まれた時は裸であり、何も持っていません。
与えられないと生きていけないのが人間であります。
すべて神様から与えられたものですが、正しい人間に必要なものを与える為に、
イエス様は人の姿になって来られました。

目に見えるものは価値がなく、錆びて古くなっていきます。

イエス様のものは、努力して与えられるものではありません。
受けているのに「受けていません」というクリスチャンが多くいます。
なぜかというと、それらのものは全て「 目に見えるものを言っている 」からです。

すでに与えられている神様からの恵みに気付いて感謝をしましょう。

神様と人間の関係を良くする為に、イエス様が来られましたが、人間は心が頑なであり
神様に対しても頑なな心があります。神様から造られた人間が神様を必要ないと言います。

【エペソ2章14節】

仲介者(イエス様)が必要です。争いなさいとは一言も言っていません。
暗闇の中にいる人類のところへイエス様は来られましたが、
救われる前は、暗闇の心が私たちの中にありました。しかし救われてからは光の子となりました。

【エペソ5章8節】

人間として生きているのに何の為に生きているのかわからない。
どこが道なのかわからないので道を示してくださいました。

贖いの恵みはなぜ必要でしょうか?

【創世記3章16-19節】

人間には労苦・のろいがあります。人間以外に被造物にもあります。嘆く人生に人間はなりました。

【マルコ10章45節】(人の子=キリスト)

イエス様の命 → 人間の罪を贖いました。
イエス様を信じると、恵みによって罪が赦されます。永遠の命が与えられます。

【エペソ2章1節】、【ヨハネ6章51節】

本当のパンのことではないです。
霊的に開かれていないと、霊的なことばを聞いても肉的なもので解釈をしてしまいます。
信じること、受け入れること = パンを食べること

人は 「 ないです。」 と言いながら、亡くなる時にたくさんの物を蓄えていることがわかります。
残された人が大変な作業をします。
イエス様は何一つありませんでした。与えるためだけに来られました。
いつでも恵みを与えるイエス様です。(´∀`*)

2011.12.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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