からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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みことば

クリスチャンが語る言葉

テーマは『 クリスチャンの言葉の生活 』です

【マタイの福音書12章35-37節】

心を「良い倉」と「悪い倉」に例えました。
心の中に悪いものがあるならば、それが自然と口から(言葉になって)出てきます。

恵みを受けた人は、言葉が変わっていきます。
以前の言葉は使わなくなります。以前は世の中の言葉を好んで使い、誰かを非難する言葉や
興味のある世のことばかりを語っていました。

しかし恵みを受けた人は、神様のことを語りたくて、うずうずします。誰に対しても神様のことを語ります。
恵みの言葉が、その人の中から出てきます。

言葉は、信仰生活と ものすごく密接な関係があります。

信仰生活をする人が、信仰や神様や恵みの話をしないならば、正しい信仰生活をしていないことであります。

《マタイの福音書12章34節》 に 出てくる「まむしのすえたち」という言葉は、
形では信仰生活を送っているように見えますが、その人たちの口から出る言葉があまりにも悪いのです。
他人を非難したり、罪に定める悪い言葉ばかりが出てきます。

イエス様の言葉はどうだったでしょうか――?
イエス様が来られる以前は、パリサイ人、律法学者、祭司たちが人々に教えていました。
人々はずっとその言葉を聞きながら信仰生活を送っていました。

しかし、イエス様が来られて言葉を語った時に、人々はその言葉を聞き 驚きました。
なぜ驚いたのかというと、(律法学者たちが語る言葉にも似ているのに)イエス様の口から出るのは
恵みの言葉だったからです。

今まで律法学者たちが語っていた(厳しくて 愛のない)言葉で、人々はとても重荷になっていたのですが、
イエス様は、重荷はご自身で負い、人々には恵みを流していきました。
絶望に陥っている人には「心配するな。わたしがあなたと共にいる」と癒し、命を注ぎました。

主から出てくる言葉はすべて私たちにとって益になるものです。

クリスチャンは当然のように、イエス様の言葉を習わなければならないです。
主は「あなたが口を開くならば、どんな言葉を語るのか」と見ておられますので
私たちが口から言葉を出す時には、悪いものを取り出すのか、それとも良いものを取り出して人々に与えるのか、
それを考えなければならないです。

聖書には私たちが避けなければならない言葉や、語らなければならない言葉が書かれています。
私たちは、時が良くても悪くても、口を開いて語らなければならない言葉がたくさんあります。

交わりの時でも、みんな信仰の話をしている時に、黙って何も言わないのは問題であります。
「語る言葉がないです」というのは心が空き缶の状態です。心に何も入っていないので語る言葉がないのです。
神様の言葉が1つも留まっていないので、その人は語る言葉がないです。

また、私たちは語らなければいけなく、語る時には気を付けなければならないのですが、
その前に、私たちは入れ物に気を付けなければいけないです。

悪いものを入れたならば、当然のように悪いものが出てきます。


【エペソ4章29節】

他人を傷付ける言葉を口から出してはいけません。それは相手を汚してしまいます。
自分は他人から悪い言葉を聞きたくないでしょう。
私たちは自分がされたくないことを(他人に)してはいけないです。

悪い言葉を使った本人は忘れるかも知れませんが、後になって神様から裁かれることになります。

クリスチャンは、口(=語る言葉)もクリスチャンでなければ ならないのです。
他の部分はクリスチャンで、口だけはサタン。これはいけないことです。

私たちは言葉を変えなければならないです。これは一夜で出来る事ではないです。

心の入れ物を変えていくならば、自然と使う言葉が変わっていきます。
相手を生かす言葉、慰める言葉、愛の言葉は、恵みを与える言葉であります。


【コロサイ3章16節】

まず自分たちの心の中にキリストの言葉を豊かに入れないと、世のものが入ってくるのです。
毎月みことばの暗唱をしていますが、私たちは心にみことばを蓄えて、必要な時にみことばを出せるように
しておかなければならないです。

聖書のことをたくさん知っていても、知識を誇るのではないです。
自分の知識を誇る人たちがいますが、これは高慢であります。
なぜならば主の言葉は、人に役立つように恵みを流しなさいと語っていますので、高慢を流してはいけないです。

ある人は頭に知識を蓄えて知識を語ります。しかし、それを聞いても相手は命を受けないです。

自分の心で噛みしめて味わい 恵みを受けたものを語るならば、人々はそれを聞いて「私もそうしよう」と思います。

しかし頭の中にある知識を、相手より上に立って教えるならば、
聞いてもどう活かしていけば良いのかがわからないです。知識は知識で終わります。
人に役立つ言葉や恵みを流す言葉を知恵にしていかなければならないです。

「私はこのみことばで、これをやってみました。そしたら本当に神様からの素晴らしい恵みがあって、
そしてこういう結果が出てきました。このみことばで力を受けました。」
これは心に(みことばを)住まわせた言葉です。頭の知識ではないです。

知識は冷たいものであります。知識は「あなた、そんなことも知らないの?」と相手を裁くことになります。
それは恵みにならないし、人の益にもなりません。

真理は正しい言葉でありますが、真理そのものを語る時はその人自身が真理を体験してから語るのが
一番良いです。

まず自分で行い、味わってみて、そして美味しかったものを人に伝えると、相手に慰めを与えることができます。


【コロサイ4章6節】

言葉は内容よりも言い方があります。言い方が悪いと、良いことでもトゲが付いたものになります。
綺麗なお花を渡すならば、トゲは取ってから渡すのが良いです。
「綺麗だなぁ」と思ってもトゲに刺されたなら手放してしまいます。

ですから、私たちが使う言葉もいつも剣であるならば、たとえ真理の言葉であっても親切ではない人が語るなら
剣に変わります。
聖書の言葉はすべて素晴らしいですが、愛のない人や親切ではない人が語るなら、裁くための言葉にしか
聞こえないです。

クリスチャン同士がみことばで裁きあって傷つけていることがたくさんあります。

しかし親切な愛の心で使う言葉なら、叱責の言葉であっても聞き入れるべきであります。

悪い言葉はやめようと努力をしなければならないです。
悪い言葉が出そうな時は口を閉ざし、良い言葉の時は口を開いて語るべきであります。


【詩篇37編30-31節】

【詩篇51編15節】

神様が語って欲しい言葉を語られるようにと祈ることであります。
祈る人は唇に気を付けます。口を開くべきか閉じるべきか、それを判断できます。

私たちは悩みを話したり、問題を話したりすることは良いのですが、ある人たちは常に不平不満や
感謝がなく、いつも自分のことしか語らないのは良くないことであります。
その人は相手の言葉を聞かないです。私たちは聖い会話をするべきであります。
私たちが話している言葉を、常に主が聞いておられるんだということを忘れないでください。

私たちも他人に悪い影響を与える者ではなくて、神様が恵みを流していきなさい、益になる言葉を語りなさいと
語ってありますので、私たちの中に留めて相手に益になるのかを考えてからみことばを使っていきましょう。
 (^∀^)

2013.4.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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謙遜な者になるには?

テーマは『謙遜の実践』です。

【Ⅰペテロ5章5-6節】

みことばを聞いて終わるのではなく、みことばが命じることを聞いて実行して
初めて従順の実を結ぶことができ、そのみことばが自分の中で活かされていきます。

みことばは命であります。聞くだけで命になることはないです。
自分のものにして初めてそれが自分の中で命としての活動をします。

神様がここで語るのは高慢になるのではなくて、へりくだるものになりなさい。ということです。
神様は恵みを与えたいのです。

でもその恵みを受け取るには神様のみこころに叶わないと、受け取ることができないです。

主は「高ぶる者には与えない。」神様に敵対することは恐いことです。
≪あなたは私の敵である≫
自分が神様に向かって「自分は神様の子どもだ」といくら主張しても
≪あなたのその高慢な姿は私に敵対する。私の子どもには見えない。≫

神に対して最初に出てくる敵はサタンです。サタンがどれほど高慢な者であったのか。
もともとは御使いで神様が造ったものですが、神に対して心の中で思ったことがありました。

【イザヤ14章12-15節】

主に仕える者が自らが堕落していき、つまずきました。神に仕えることは素晴らしいことです。
それでも、そこで満足しないで神の上に立ちたいという、とんでもない思いを持ちました。
そこで神様に落とされました。 そしてアダムとエバにも同じく、高慢な思いを入れました。

【創世記3章4-5節】

人間は騙されて神様に敵対し、神様の言葉を退けました。人間を誘惑して
自分(サタン)と同じ目に遭わせました。人間は神のようになると思いました。

しかし、彼らは全てを失いました。エデンの園の祝福を失いました。
人間は神様から切り離されたものになりました。

こういう姿から私たちは学ばなければなりませんが、
人間は一番知恵があると言いながら、世の中で一番愚かなものであります。

私たちは同じことを繰り返して行います。歴史の中で戦争が絶えない。事件が絶えない。
これは何一つ学んでいない愚かな姿であります。
繰り返すならば私たちは受けた祝福を全て失いますので、神様はみことばを通して警告してあります。

神様は、高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えてくださるので、
へりくだりなさい、従いなさい。とおっしゃっています。

本日のテーマである聖句箇所の「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。」は
『私は年をとっているから別に関係ないか。』ではないです。
信仰にとってまだ未熟な者であります。まだ謙遜さを身に着けていない者に対して語る言葉であります。
素直に言葉に聞き従いなさい。これはへりくだらないと神様の言葉を受け取ることができないです。 
高ぶっている者は神様の言葉を聞いてもアダムのように聞かないで違う事をします。

謙遜を身につけなさいということは、態度で示しなさいということであります。
人々が見て、わかるようにしなさい。頭で理解するだけで何になりますか?
聞いて実践する者になるならば、周りの人が見て「あの人は謙遜である。
あの言葉、態度は謙遜である。」と、このように神様は見せなさいと語っています。

「謙遜、へりくだる」は、ただ小さくなることではないです。
謙遜な人は、ある意味で態度は大きくないですが、心は誰よりも広い心を持っています。

【ローマ12章3節】

それぞれレベルは違いますが、思うべき限度を超える時から高慢が始まります。
人間も神のようになりたいという思いを受けた時から、行動しました。
高慢な行動が実を結び、堕落が始まり、滅び・死を刈り取ることになりました。

私たちは常に何かを考えて行動するものです。その時に、自分の思いを知らなければならないです。
自分の中で思うべき限度を超えて思い上がっているならば、その思いを潰さなければならないです。
「あ、高慢の始まりだ。とんでもないことを私は企んでいるんだ。」
それを討たなければならないです。

これはイエス様の弟子達の姿でもたくさん出てきました。
人間は生まれながら思い上がっている者であります。
小さな子供でさえ、素直な部分もありますが、高慢な思いがあります。

【ルカ22章21ー27節】

イエス様が十字架にかかる前の晩、弟子たちは自分たちがどんな立場にいるのかを誰も気付いていないです。
イエス様が語っているにも関わらず、耳に入っていないです。
深刻な話でも弟子たちは「(裏切るのは)誰なのか?」と話しましたが、
その話を打ち切って「この中で誰が一番偉いだろうか?」と議論を始めました。

イエス様は1人の弟子から裏切られてもうすぐ死ぬんだと告げているのに
話題を変えました。思いが違うところにあります。
なぜこのような場面の時に、こんな話題が出るのでしょうか?

これは高慢な人間だからです。
イエス様と一緒にいながらも、深刻な話をされているイエス様のことを見ていないです。
互いを見て、このような話題が出たのは、誰もが「自分が一番偉い」と思うからです。
もし皆が「わたしはそんな者ではない」と思うならば、議論する必要がないです。
3年間イエス様を見ながらも、目が見えない者であります。高慢な思いはなかなか断ち切れないです。
自分が一番大切なのです。自分が一番偉いという思いです。

思うべき限度を超えて自分を偉いと思っています。
異邦人の王、知恵ある者、金持ちは偉そうにしているので、そういう人達が
みんな偉い人なのだという先入観があり、偉い人になるとそうしなければいけないのだ。
謙遜にしていてはいけないのだと、支配をしないと権威を認めてくれないのだ。と思いますが、
本当はそうではないですね。

イエス様は≪あなたたちは一体、誰を目指しているのか?あんな傲慢な態度を目指すのか? 違うだろう?≫
自分たちを育ててくださったイエス様を見なければならないです。
イエス様は最期の時に弟子たちの足を洗いました。

【ルカ14章7-11節】

高慢になると恥がついてきます。高慢は神様の敵なので、たとえ神の子どもであっても、
神の子どもの扱いをしないです。私たちの高ぶりは、まず神様の前で始まります。

神様の前で偉そうにしています。自分では気づいていないと思います。
私たちの態度・言葉が神様に対して高慢な態度であります。

私たちは貧しくなると、まず神様のことを切ってしまいます。これは神様に対して悪い思いであります。
病気であっても会社へ行きます。
しかし今日は疲れているから教会を休もうというならば、ただ教会を休んだということではなく、
主に会う約束をキャンセルすることであります。
いつも私たちは神様のものを最初に切り落として、世の物を最後まで残しています。

何が一番大切なのでしょうか?
全ての物を失っても自分を祝福し、守ってくださる神様を最後まで守らなければならないです。
 だから、まず肉のものから切り落としていかなければならないです。
でも実際は反対のことをしているのではないでしょうか?これは神様のことを軽く見ていることであります。
 「こんな時に神様のことなんか出来ません!!」これは神様の恵みを忘れた姿であります。

恵みを忘れると私たちは高慢になってしまいます。
滅びていく肉のものを最後まで「これは手放せない!」と。
そうなると、≪それは錆びて泥棒が来て全部失って、命まで失っていくんだ≫と神様が語ります。
私たちは知らぬ間にこういう事をしているのです。

一番大切なものを最初に手放し、価値のない物をずっと握りしめています。
ですが、手を広げてみてください。その握っているものはそれほど価値があるものなのか?
そういう私たちの態度が神様の前では高慢であります。

聖書にはヤコブとエサウが出てきますが、エサウがそのような姿でした。
ヤコブは一番大切なものを知っていましたので長子の権利を売ってくれとエサウに伝えました。
ヤコブの手段は悪かったのですが、霊的に何が一番大切であるかを知っていました。
一方、エサウは一番最初にそれを手放しました。
お腹がすいていたからということだけで一番大切な長子の権利を食べ物であっさりと交換してしまいました。
エサウは長子の権利を「こんなもの」と言いましたので、神様は呪いました。
神様よりも食べ物が「上」になっていました。これが高慢な姿であります。

エサウの子孫までも呪われ、すべて地獄へ落とされました。

【箴言11章2節】

答えがはっきりと書かれています。高ぶるなら恥が来ます。恥はかきたくないでしょう?
知恵が欲しいでしょうか?へりくだれば「知恵をください」と言わなくても恵みで知恵が来ます。

【箴言16章5節】

高ぶって得することは1つもありません。神様に嫌われ、神様の敵になり、恥が来て、罰を免れません。
しかし、人間はそうだと知っていながらも高ぶります。人よりも上に上がろうとします。
これは目標があって何かを達成するのは問題がないですが、心が高ぶってることを神様が教えてあるのです。

謙遜を実践するとどうなるでしょうか?
祝福があります。 

【箴言29章23節】

謙遜な人は心が広いのでどこにいても尊敬されます。寛容な人、柔和な人、敵をつくらない人たちです。
傲慢は自ら敵をつくることであります。
人を踏みつけて上に立とうとするので、トゲトゲしいから 周りの人達が近寄らなくなります。
偉そうな態度をする人の前では自分の姿が惨めな感じがするのですが、
謙遜な人は、その人が身を低くしているから、その人の傍に行くと自分が何者でもないのに
何だか自分が偉い人のように思わせます。だからそのような人の傍に行きます。

神様は≪自分で自分を褒めるのではなくて、他人の口から褒めさせなさい。≫
「あんな謙遜な人になりたいなぁ」「あんな柔和な人、心の優しい人になりたいなぁ」
神様はその祝福をお与えになります。  

祈りで「恵みを与えてください、恵みを与えてください」と。
神様は≪へりくだっているのか?あなたが心を低くし、へりくだるならそこに恵みが流れていく。 
みことばで約束してあるから、わたしが間違いなくあなたに恵みを与える。≫と語ってあります。

【ヤコブ4章10節】

神の前でへりくだる者は、人の前でもへりくだります。
そうすると神様ご自身が≪あなたは行くところまで下りていったんだから、上がってきなさい。≫
謙遜な者は神様が高いところへ、天国は謙遜な者が入り、神の御座の傍には一番謙遜な者が座ると
語ってあります。

パウロは本当に謙遜な人でありますが、だから神様が彼を高く評価して、イエス様とモーセの姿に似ています。
主に仕えた多くの立派な信仰の人たちに似ています。
神様はそのような人たちを高く御座のところまで引き上げてくださいます。

このように謙遜がもたらす物は良いものだらけで、傲慢は悪いものだらけです。
どちらを自分は選ぶのか自由であります。
だから傲慢なものを打ち砕いて内側から取らなければならないです。
それを持っていて自分が良いことが1つもないです。
自分の身を滅ぼさせます。そこにサタンがいることと同じであります。

【ピリピ2章3-4節】

神様が高慢にならないで謙遜になるために語った箇所であります。

自己中心的になると高慢になって「私が、私が・・・」になります。
思うべき限度を超える人たちの姿には必ず虚栄があります。ふくらませて良く見せます。
それで得るものは高慢な姿だけであります。

私たちがへりくだっていくと、他の人を優れた者だと思うようになります。神様はこのことを教えながら
イエス様があなたたちの模範である「謙遜な方」の模範でありますと5節から教えてあります。 

【ピリピ2章5-9節】

いつも謙遜な思いを持っていなさい。神様の前でイエス様はいつもへりくだっていたから高く上げられました。
みことばが実現されました。イエス様がしたならば、あなたは当然のようにすべきだろう?
イエス様のような方がしたのに、あなたにできない理由は何でしょうか?
「できません。」と言うならば、私たちが自分の高慢を捨てないことであります。
高慢な思いがあるとできないことであります。

しかし、「謙遜になろう」と決心するならばできないことはないです。
祝福を受ける一番の道は謙遜になることであります。恵みが与えられると語ってあります。
約束は全て良いものであります。

欲しいなぁと思うならば道は1つ。互いに謙遜を身に着けることであります。
謙遜な者になっていきましょう。(⌒-⌒)

2012.3.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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成長するために

テーマは『成長するために』です

【Ⅰペテロ2章1-5】

成長は私たちにとって必要なものであります。
成長をしないことは「死」を意味しますね。

人間は「外なる人」と「内なる人」で構成されています。

外なる人・・・肉をもって生きている姿(自分の頭で考え行動することです)

内なる人・・・罪と咎がある人は「内なる人」を持っていないです。神様に出会う前は死んだ状態であります。
         神様に出会い、罪の許しを受けて新しく生まれ変わった人達です。

神様が語る成長とは、内なる人が成長することを示しています。
成長をしないと、たとえ霊の子供であっても死にます。

今、自分が成長しているのか、成長していないのかは、どうやったらわかるでしょうか?
また成長をするにはどうしたら良いかを、聖書の本文を通して教えてあります。

① 【Ⅰペテロ2章1節】

生まれ変わった人は、言葉や行動が変化しなければならないです。
「私は嘘をついたことが一度もない、妬みを持ったことがない。」
これは誰でも持ってありますので、このように思うことこそ、嘘であります。
言葉には出さなくても、私たちは心の中にあらゆる悪を持っています。
その悪をそのまま持ち続けていることは成長をしていないことであります。
また、それを持ったままだと、自分の成長を邪魔をすることになり、
家族や周りの人たちが救われないように妨害をすることにもなります。

神様が見て一番喜ぶ姿は、砕かれた魂です。
霊的訓練を通して自分の中にある「悪意、妬み、汚いもの、神様が喜ばないもの」
これらを叩いて捨てれば捨てるほど、心が聖くなります。

② 【Ⅰペテロ2章2節】

ただ聖書を読めば良いということではないです。
みことばに対する私たちの態度が大切であります。
みことばをどのように扱っているのか、それによって成長が全然違うものになります。

自分が生まれ変わったならば、人生の主人がいるのです。神様であります。
その神様を無視して今まで通りに自分で一生懸命考えて決定をしていくことは
神様のことを全く考えていない姿です。主が何をおっしゃるのか関心がないです。

【詩篇119篇105節】

私たち1人1人の歩む道はみんな違います。
次の一歩を踏み出す時に、光が1つもなければどこへ行ったら良いかわからないです。
いくら経験を積んでいたとしても、それで未来へ向かって歩くことはできないです。
人生の道はそうであります。明日何が起こるのか誰もわからないです。
「みことばが私を導きますように」というのが、みことばを慕い求める人の姿です。

【詩篇119篇33-40節】

この箇所を日々の祈りの中に加えてください。

【Ⅰペテロ2章5節】

成長していくには、自分が聖なる祭司としての働きをしなければならないです。
いつまでも恵みばかりを求めるのは、赤ちゃんの姿であり成長をしていない姿であります。

聖なる祭司の働きというのは、
神様に仕える人…神様の近くで仕える人です。
              神様に礼拝を捧げ、神様からの言葉を受け、神様に対して奉仕をする。

祭司は神様の為に選ばれた者であります。
まったく成長をしていない人は、神様に仕えることができないです。

民たちを祝福する働き…神様から霊的祝福を受け、それを人々に与えることであります。
                   自分だけ祝福を受けるのではなく、他の人達も祝福を受ける者になるように
                  恵みを運ぶ者です。そして神様の言葉を教え、導く者です。

これが祭司の働きであります。
このような働きを私たちがしていく時に、私たちはますます成長した姿になります。
どんなに小さな働きでも良いのです。最初から大きな働きができるのではないです。
初めは自分の信仰に相応しい働きを神様がさせてくださいます。
しかし、どんどん働きを全うしていき、器が大きくなっていくと神様が多くの働きを任せるようになります。

少しの働きから、たくさんの働きができるようになります。

人にも仕え、神様にも仕えるようになります。

【エペソ4章13-15節】

成長していくとは、このような姿です。

【Ⅰテモテ4章12-16節】

私たちが成長する為に、必要なものです。
地上でどんなに成長をしても天の御国のことで全ての知識を得ることはできませんし、
霊的なことも全てを知ることはできません。ですから私たちは怠けてはいけないです。
「そんなこと知らない」ではないです。
本当に求める姿を持たなければならないです。

自分で自分の霊の状態を常に診断する必要があります。

「立ち返らなければいけないんだ」、「求めなければならないんだ」と思うならば、
神様が働きます。神様はそれを願いますので、喜んで恵みを与えてくださいます。  .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2012.12.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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約束を信じる信仰告白

テーマは『 約束を信じる信仰告白 』です。

【創世記12章1-6節】

アブハラムがどのようにして信仰の先祖として誕生したのかを、彼の生涯を通して見せてあります。
この聖句には神様が与えた7つの約束が書かれています。

1.「 わたしはあなたを大いなる国民とする 」
2.「 あなたを祝福する 」 
3.「 あなたの名を大いなるものとしよう 」 
4.「 あなたの名は祝福となる 」
5.「 あなたを祝福する者をわたしは祝福する 」 
6.「 あなたをのろう者はわたしはのろう 」
7.「 地上のすべての民族は、あなたによって祝福される 」

これは小さな祝福ではないです。アブラムや私たちには考えられない、とても大きな祝福です。
人は、こんな大きな恵みは出来るはずがないと思うでしょう。
これは神様が一方的に彼に与えた約束であります。

しかし、これらの恵みは神様がアブラムへ無条件に与えたものではないので、
何もせずに約束通りになることはないです。
聖書の神様からの約束の言葉は、全てに対してそうであります。

その前に、「 あなたがこうするならば、叶えられる 」という条件があります。
この聖句での条件は【創世記12章1節】
< あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。> です。
その後に約束の言葉である12章2節の『 そうすれば―― 』と続きます。

私たちは小さな恵みには信じる心が出ますが、あまりにも大きな恵みだと聞く耳が開かれないです。

私たちの救いに対しても神様は条件を出しておられます。それは「 信じる者 」には救いを与える です。
自分の信仰がなければ、いくら素晴らしい神様の約束があっても自分の物にはなりません。
条件無しに神様の言葉が来ることはないです。

私たちが祝福を受けるには、まずは神様からの条件を聞かなければいけません。
聖書を読んだとき、素晴らしい恵みの言葉が書かれていると そのみことばを握ります。
しかし、ただ 『 聖書のここにこのような事が書かれてあります。叶えてください。』 と祈るならば,
神様から見ると、「 あなたはわたしが示した条件を知っているのか?そして行動したのか?」

アブラハムは神様の言葉を少しでも聞き逃していたら、このような祝福を受けることはできませんでした。
アブラハムが言葉通りに行動をしなければ、神様はこの条件に満たす人を探して、他の人に祝福を与えます。

神様は「 目的がない命令 」をするのではないです。
もし神様が「 行きなさい 」と言った場合は、その後に語った約束の言葉を聞かなければならないです
目的がないと不安だけがあり、私たちは行動ができないのです。
そして神様の言葉通りに行動をすると、そこに私たちが受ける祝福を備えてくださっています。

私たちには祝福が必要です。祝福なしに幸せになれないです。
祝福がほしい人ならば、神様の言葉を握らなければいけません。

「これが欲しいな、あれが欲しいな。」と思った時に、これを自分の物にするためには、
神様はどんな命令を与えているのか、私たちは考えなくてはいけないです。
条件を満たしていかないと、絶対に自分の物にはならないです。

信仰には行動が必要です。命令に従順する時に、神様が与えた約束ですのでその通りになります。
信仰は口で毎日告白することが大事です。神様の前であなたが本気でしているのかを表しなさい。
信仰がない人は、確信がないので言葉が弱いです。心から信じていないのです。

【申命記28章1節】、【申命記28章15節】

どちらも神様から約束の言葉です。自分はどちらに従うのか――?

なぜ祝福を与えてくださらないのですか? → 神様の約束を守っているのか?
タダで恵みをもらおうと考えています。

【ローマ4章19-22節】

アブラハムは約束の言葉を忘れたことがないです。告白をやめたことがないので信仰がますます強くなりました。
環境や自分を見るのではなく、信仰で受け取り神様の言葉を堅く握りました。

信仰告白をし、信じる人は行動が伴います。このような人は挫折することがないです。
「 もういいです。」と拒否をすると、神様の恵みはそこで終わってしまいます。
自分の口で祝福を潰してしまうのはいけません。

「 古い者 → 新しい者 」 「 呪われた者 → 祝福される者 」 「 弱い者 → 強い者 」 へ変えてくださいます。 

命じた通りに行動しなさい。すると神様を体験することができます。

以前に神様が自分に語った言葉があるならば、それをもう1度聞きなおすと良いです。
私たちが聞き従う時に、神様が責任を持って成就してくださいます。

2011.12.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖書 新改訳c1970,1978,2003新日本聖書刊行会

何が人を汚すのでしょう?

本日のテーマは、『何が人を汚すのか?』

それは、人間の心から汚いものが出てきます
だから 神様のみことばを読んで悟りましょう。

いくら肉体や外見を綺麗にしていても、神様は私たちの心の中を見ます ので、
しっかりと分別をして、自分の心の中に汚れたものを入れないように気をつけましょう。

そして、“みことばの鏡”で自分の姿を見て、たくさんの罪を知り、悔い改めましょう。

罪については、ホームページの「聖書が示す罪とは?」を参照してくださいね。オオーw(*゚o゚*)w


自分の舌で語る言葉が「毒」であれば、周りで聞いている人の心も汚れていきます。(`Д´) ムキー!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆

聖書箇所

【ヤコブ3:6】 【詩篇120:2-4】 【エペソ5:3-4】 【マタイ23:25-27】

光の子にふさわしい姿になりましょう。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

【黙示録19:8】
「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、
 聖徒たちの正しい行いである。」


八戸ノ里キリスト教会のメッセージより
~2011.10.9~


聖書 新改訳©1970,1978,2003新日本聖書刊行会

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