からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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みことば

忠実なしもべと悪いしもべ

テーマは 『 忠実なしもべと悪いしもべ 』 です

【マタイの福音書24章44-51節】

だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、

その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、

そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。

そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

本文は、主の再臨と 世の終わりに起こることを語る中で 出てきた話です。

重要な内容です。


自分たちがどのように評価され、どのような報いを受けるかに耳を傾けないといけないです。


主の再臨まで しもべたちは評価されませんでした。

しかし再臨があると、各自の働きに対する 主の評価が下されます。



そこで忠実なしもべと 悪いしもべが分かれます。

そして それにふさわしい報いも与えられます。


主は 正確に敏速に評価を下します。

誰が忠実なしもべで、誰が悪いしもべであると語ったでしょうか?




忠実なしもべ とは




食事の時には、食事をきちんと与えるしもべです。


本文の しもべ は、聖徒たちを 神のみことばで養う 教会の指導者です。

次の箇所では、しもべを “管理人” とも言われました。


【ルカの福音書12章42節】

主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。

主はまず、指導者から調べます。


忠実なしもべとは、食事時には聖徒たちに食事をきちんと与えるしもべです。


すなわち聖徒たちに 霊の糧である “神のことば” を食事時にいつも与えるしもべです。



そのために指導者が備えないといけない 2つの大切なことは、“忠実と知恵” です。


【第1コリント4章2節】

この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。

【コロサイ3章16節】

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

テモテの手紙は “牧会書簡” と言われますが、パウロは教会の指導者であるテモテに色々とアドバイスしました。

そこでも霊の糧を与えることの重要さを教えました。


【第2テモテ2章2節】

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい

【第2テモテ2章15節】

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

神のことばで聖徒たちを正しく教え、指導するしもべが忠実なしもべで、神はそのしもべを喜びます。



主人の立場から見ると、任された働きを忠実に行うことほど 嬉しいことはないです。


神のことばは 魂を生き返らせ、信仰を育て、神を知るために なくてはならないものですから、忠実なしもべはそれをし続けます。


また忠実で知恵ある聖徒は その教えを喜び、日々その教えを守りながら成長します。




悪いしもべ とは




悪いしもべの心には、ある思いがありました。

それは「主人はまだまだ帰るまい」という思いです。


それは、間違えた思いですが、本人はそれに対して確信を持っています。

そして自分が管理人である使命も忘れていました。


ですから 自分に任されたことに不忠実だけでなく、任されたことに忠実なしもべたちを妬み、攻撃したり、妨害しました。


主人の財産を勝手に使ったり、自分の欲のために使いました。

食事時にきちんと食事を与えることがありません。


悪いしもべが聖徒に与えるものは 神のことばよりは世間話、人間の教え、曲がった教えが多いです。



(パウロは)テモテに対しても、そういう者にならないように注意を与えました。


【第2テモテ2章16-18節】

俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、

彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。

彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。

神のことばを正しく語らない悪いしもべが大勢います。

しかし彼らは、いつまでも働きをしていますし、大きな教会をやっている人もいます。


それを見て、“神のしもべ” だと評価する人も多いですが、神は彼らを “悪いなまけたしもべ” と呼びます。

そして彼らに対して、とても厳しい裁きを下します。


人が集まるので指導者は自分を “悪いしもべ” だと思わないかも知れません。


しかし、なぜ悪いしもべの所に人が集まって来るでしょうか?

その人たちの教えを喜んで聞く人たちが存在するからです。


霊的なことに無知な人たちが惑わされて その教えを聞きます。


【第2テモテ4章3-4節】

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

この人たちの将来はどうなるでしょうか?

霊のききんに遭います。


みことばがないので、その信仰生活に聖霊の働きはありません。


まるで摂取障害にかかった人のように、指導者も聖徒たちも みことばを食べないので栄養失調になります。

その信仰は生きた信仰ではないです。


みことばを正しく教えず、聖徒たちを飢え死にさせるような しもべは、主人から厳しい処分を受けます。



聖徒たちも真理から耳をそむけて、脇道にそれるならば、惑わしの霊の奴隷にされ 悲惨な目に遭います。


主は忠実なしもべを探しています。
決して悪いしもべではありません。


目を覚まして、自分たちは 忠実な管理人としての働きをしているかを調べてみて下さい。


間違った確信や錯覚で 恵みから落ちることがないようにしましょう。
アーメン ヽ(TдT)ノ


2017.12.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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礼拝を捧げていますか

テーマは 『 礼拝を捧げていますか 』 です

ハレルヤ。

主の恵みと平安を祈ります。


皆さんは毎日、主に礼拝を捧げているでしょうか。

賛美をささげているでしょうか。


祈りをしていますか?
みことばを読んでいますか?


それをしているならば、その人は主に礼拝をささげている人です。


賛美も祈りも、主が喜ぶことです。

私たちの心を主に向けることです。


賛美をたくさん捧げると、自然に口から賛美が流れます。

それによって、いつも主に礼拝を捧げることができます。


歩きながらも賛美するならば、主に礼拝を捧げている姿です。


最近は毎日、10曲の賛美を捧げています。


1ヵ月以上それを続けています。

始めて良かったと思います。


なぜなら自分の中に賛美がとどまるようになり、自然に心の中から賛美が出るようになりました。


祈りたいのに、祈りができない時は、サタンの攻撃を受けています。

サタンが祈りを妨害しています。


その時は祈るのをやめるのではなく、賛美を大きな声で歌ってみてください。


主の前に出て、賛美を歌い続けていく時に、サタンは追い出されていきます。

そうすると祈りができる霊の状態になります。


主は賛美の中におられる方ですから、賛美の中で働いてくださいます。

救われて間もない時に、イエス様に対する感謝と嬉しい気持ちがいっぱいでした。


その時よく歌った賛美がありました。

聖歌ならば、284番です。


主イエスを想う時、私はいつも韓国語でその賛美を歌っていました。


賛美を口ずさみ、みことばをいつも口ずさむならば、
自分の心を守ることもできますし、神様が喜ぶ礼拝も捧げることができます。


アーメン v( ̄∇ ̄)v


2015.3.9
3分テレフォンメッセージ

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国家別で一番愛された聖句

テーマは 『 国家別で一番愛された聖句 』 です

【ゼカリヤ書14章9節】

主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。

アメリカのキリスト教ニュースサイト・クリスチャニティ・トゥディが 昨年88か国でYOU VERSION聖書アプリを通して一番強調され、ブックマークされたことばを発表しました。


2億5千万人以上がダウンロードし、使用している無料の聖書アプリです。


今日はどの国で、どのことばが愛されたかを見たいと思います。

ことばでその国の事情がなんとなく想像出来るので面白いです。




イスラエル 他5ヵ国




【ゼカリヤ書14章9節】

主は地のすべての王となられる。その日には主はただひとり、御名もただ一つとなる。

このことばは、あまり馴染みのないことばですが、一番強調されたことばでした。

こちらは、イスラエルの人々に一番愛されていることばです。


私がイスラエルのニュースを聞く時に、ユダヤ人がよく口にしていました。


彼らはイスラム世界に囲まれ、いつも対立しているので、この言葉を信じて その日が来るのを待ち望んでいます。


主の再臨の時には、この言葉通りにすべての人々が、主はただひとり、御名もただ一つであることを認めざるを得ないと思います。


この聖句は イスラエルだけではなく、アフガニスタン、フランス、フィンランド、スウェーデン、ベルギーなどの国からも一番愛されました。




アメリカ・メキシコ 他6ヵ国




【ローマ8章28節】

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

この聖句は総合的に一番愛されたことばでした。

55万回共有されました。


みなさんも この聖句は好きですね。

様々な問題や試練がある時に、とても慰めを受け、また希望を抱くことができる聖句なので、みんなに愛されると思います。


特にこの聖句は、アメリカ、メキシコ、オーストラリア、シンガポール、ドイツ、台湾、ルーマニア、エジプトの人々に愛されています。




日本 他15ヵ国以上




【エレミヤ書29章11節】

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ― それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

この聖句はもっとも多くの国の人々から愛された聖句です。

この聖句は日本人から一番愛されました。


将来に不安がある時に、きっとこのことばによって希望を得ていると思います。


また苦しみや災難が続き、まるで神様に捨てられたように思われる時に思い出すことばです。


この聖句は 日本だけでなく カナダ、イタリア、フィリピン、ケニア、サウジアラビア、ブラジル、ジャマイカ、アイルランド、アルゼンチン、ノルウェー、マレーシア、コロンビアや南米の国や中東の国々、アフリカの国などからも愛されました。




韓国・オーストリア




【ピリピ4章13節】

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

この聖句は、韓国とオーストリアの人々から愛されました。


競争が激しいので、力を得る為かなと思いました。




中国 他2ヵ国




【ピリピ章4章6-7節】

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

この聖句は中国、香港、ドミニカ共和国の多くの人々から愛されました。




エクアドル 他4ヵ国




【ヨシュア記1章9節】

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

この聖句はエクアドル、コスタリカ、ベネズエラ、チリの人々が愛したことばでした。


私たちもよく知っていることばです。

力を受けることばです。




ペルー 他2ヵ国




【イザヤ書41章10節】

恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

この聖句はペルー、スペイン、パナマの人々に愛されました。




チェコスロバキア




そして意外なことばが、ある国の人々には重要なことばでした。

それも紹介します。


【第1コリント1章10節】

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

この聖句はチェコスロバキアでした。




ウクライナ




【詩篇69章31-32節】

それで雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって、主に喜ばれるでしょう。

心の貧しい人たちは見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。

この聖句はウクライナでした。




スイス




【ゼカリヤ書10章1節】

後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。

この聖句はスイスでした。

アルプスの山と羊を思い出しました。




カメルーン




【ゼカリヤ書8章13節】

ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」

この聖句はカメルーンでした。




ロシア




【詩篇94章18―19節】

もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。

私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。

この聖句はロシアでした。




タイ




【マタイの福音書6章33節】

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

この聖句はタイでした。


仏教が強い国の中でまことの神を求めている姿が想像されます。






国によって愛されている聖句が違うことをみなさんに伝えましたが、みなさんはどう思いましたか?

みなさん自身が愛する聖句も その中にあるかも知れないですね。


クリスチャンたちが一番力を受け、慰めと励ましと希望を受けるのは神のことばです。


「神の口から出る一つ一つのことばによって生きる。」
これこそが クリスチャンの日々の生活にならないといけないです。


聖書には、私たちに必要なことばが必ずあります。


それによって生かされた経験は 色々とあると思います。


神のことばほど 真実でいのちがあり、教えに適することばは世にはありません。


みことばを愛する生活をしましょう。


【ヘブル4章12節】

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

アーメン (・∀・)つ

2017.2.19
聖日礼拝メッセージ

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聞く耳

ハレルヤ。

主の愛を今日も感じる1日になりますように。


主の言葉を聞く時に 私たちに必要なのは、聞く耳であり、そしてその言葉に対して ただ黙っているのではなく、その言葉に対して応答していかなければなりません。


質問するのも応答であり、答えるのも応答であります。

みことばを聞いても無反応は、その言葉を聞いていないか、あるいは無視する行為であります。


バプテスマのヨハネは、群衆たちに向かって 「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。斧もすでに木の根元に置かれています。 だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」 と言いました。

そうしたら群衆は、腹を立てたのではなく、「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」 と救われるために質問をしました。(ルカの福音書3章7-10節)


それは みことばに対する良い反応です。


それに対してヨハネからは答えがありました。
「悔い改めなさい」でした。


その言葉通りに悔い改めるならば、 「まむしのすえたち」 から 「神の子どもたち」 に変わることができる恵みを、神様から受けることができます。


ある律法の専門家は、イエスを試そうとして質問しました。


【ルカの福音書10章25節】

先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。

心の動機は良いものではなかったですが、イエス様はそれに対しても、きちんと答えてくださいました。

総合的に見ると、“みことばに従順しなさい” が答えでした。


私たちが聖書を読む時やメッセージを聞く時に、いつも聞く耳を開いて聞きながら「私はどうすれば良いでしょうか。」と主に質問するなら、主はそれに対して私たちに必要なことばを与えてくださいます。


みことばを、聞く耳を開いて聞く時に、みことばは私たちの中に働きだします。


それまで自分とは無縁と思っていた言葉が 【へブル4章12節】 にあるように、

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と 骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

このように みことばを聞く人たちの中に、みことばは力をもって働きます。


みことばを受け入れる人の中に、みことばを実践する人々の中にそのみことばは働いて、時には癒しを、時には慰めを、時にはその人を変えていく偉大な働きをします。


ですから いつもイエス様は、“聞く耳のある者は聞きなさい。”と語ってくださいました。

聞く耳は恵みを受ける一番の道でもあります。
v( ̄∇ ̄)v

2013.9.13
3分テレフォンメッセージ

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365日主と共に歩む

テーマは 『 365日主と共に歩む 』 です

【創世記5章21-24節】

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。

エノクの一生は三百六十五年であった。

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

このタイトルを今年の教会の目標に決めました。

そして、みなさん個人の目標にもしてほしいと願います。

1年365日を主と共に歩む人生を今描いてみてください。
想像できますか?


未知の人生の旅路を誰と共に歩みたいですか?

誰と共に歩んだら安心できますか?誰と共に歩んだら幸せですか?
それは どう考えても人間ではないですね。

聖書に出てくる人物で、死を見ずにいなくなった人が2人います。
おそらく生まれてきたすべての人類の中では この2人しかいないでしょう。


1人は本文に書かれていたエノク、もう1人は預言者エリヤであります。

エノクは「神が彼を取られたのでいなくなった」と記録されています。


そして、もう1人のエリヤは次の箇所に書かれています。


【Ⅱ列王記2章11節】

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。

このようにしてエリヤはいなくなりました。


2人に共通するものは、死を体験することなく天に上げられたことと、神と共にいつも歩んだことでした。

エノクの時代、人々はとても長生きで、九百年以上生きている人が多かったです。

彼が生きた地上での365年はとても短い人生でしたが、900年以上生きた人々の人生には“生まれた”、“死んだ”という記録だけが書かれていて、幸せな人生を送ったというイメージが浮かばないです。


しかし、エノクからは幸せな人生だったというイメージが浮かんできます。
皆さんはそう思いませんか?


365年間、神とともに歩んだエノクはすばらしい人生だったと思います。

今、私たちは365年間 神とともに歩むことは不可能です。
その年齢まで生きられる人はいないからです。


それでも、せめて何十年間でも神と共に歩む人生を生きるのはどうでしょうか?


まずは365日、主と共に歩む人生が どのような人生であるのかを自分で体験してみるのはどうですか?

どのようにしたら365日 主と共に歩む事ができるのかを聖書から学びたいと思います。




(1)毎日 聖霊と交わりをすること




まずは、聖霊と毎日交わりをすることです。

聖霊はイエス様が天に上って行き、私たちのために遣わしてくださった主の霊です。


【ヨハネの福音書15章26節】

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。


【ヨハネの福音書16章13節】

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起 ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

そしてイエス様のことば通り、聖霊が遣わされて地上に来たことは使徒の働き2章に はっきりと示されています。

今、私たち信じる者の中におられる方は聖霊様です。


聖霊様は私たちを助け、真理に導き入れ、罪と義について、さばきについても教えて下さる方です。


聖書には、この聖霊を悲しませてはいけないと書いています。

聖霊様を悲しませる行為は、聖霊を無視する、認めない、物扱いをする、そして私たちが罪を犯したり、聖霊をけなすことなどです。


聖霊と毎日交わりをすることは、聖霊を認め、歓迎し、日々親しく会話をすることです。

24時間 自分と共にいることを認識して声をかけてください。


「聖霊様、おはようございます。感謝します。嬉しいです。○○を一緒にしてください。助けて下さい。」など絶えず会話をしてみてください。私はいつもそのようにしています。

いつでもどこでも常に聖霊様と一緒です。とても安心感がありますし、心が平安になります。




(2)365日 主に仕えること




365日 主に仕えることです。

主が私たちに語ったことばあります。


【ヨハネの黙示録2章10節】

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

私たちは主に仕えるために召されたものです。
自分の人生をもって主に栄光を捧げるように私たちは選ばれました。

主の働きにおいて私たちはアルバイトをしているのではなく、受けた恵みに対して感謝しながら一生 主に仕えるのが当然なことです。


だれよりも多くの働きをして主に仕えたパウロの中にある思いは次のような思いでした。


【Ⅱコリント12章15節】

私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。

喜んで福音のために働きました。その働きは主に仕える働きです。

365日、毎日主に仕えることを心がけましょう。
私自身が一番ではなく、主のため、福音のため、他人のためのことを まず考えましょう。




(3)365日 主のことばを食べる




365日、主のことばを食べましょう。

主はみことばによって私たちを導きます。聖霊は私たちを真理に導き入れます。

ですから聖霊の導きを受けるためには、みことばを食べなければなりません。


目で読んで終わるのではなく、心の中に入れるのが“食べる”ことです。


【詩篇19篇7-8節】

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。

主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

このようにみことばは素晴らしく、私たちに多くの良いものを与えて下さいます。


みことばは神からの最大の祝福でもあります。

みことばをいつも食べて生きる人は、主に導かれて生きるので つまずくことがありませんし、闇の中でさまようこともありません。


【詩篇119篇105節】

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

また、みことばを食べることは、みことばに従順することも意味します。
みことばを吐き出すことは不従順の姿です。


甘いことばでも苦いことばでも偏食せずに神様が用意してくださった霊の食べ物としてしっかりと食べましょう。

それによって霊的に富む者となって、いつも聖霊充満の状態で生きることができます。




(4)365日 主が喜ぶ善行を行う




365日 主が喜ぶ善行を行いましょう。

主と共に歩むと言いながら 闇の中を歩み、闇のわざを行い、罪の実を結ぶならば聖霊様を共犯者にしてしまいます。


聖霊様が私たちに罪を犯させるはずがありません。
聖霊様が共におられるならば善を行わなければなりません。


【ガラテヤ6章7-10節】

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

毎日、善を行う機会があるかどうかアンテナを張って、機会を見つけては行動に移しましょう。

特に行った善は、後で自分自身で良い実を刈り取ることができます。

今年はこのように、とにかく主と共に歩むことを一番の目標にしてエノクを見習いたいと思います。


共に歩む相手が誰であるかによって人生が大きく変わります。

主と共に365日歩むなら、主はその人を正しく導き豊かに祝福してくださいます。
v( ̄∇ ̄)v

2015.1.2
新年礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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3通りの立場の人々

テーマは 『 3通りの立場の人々に自分を照らし合わせて吟味する 』 です

【ルカの福音書5章17-25節】

ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレ ムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。

するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そし て、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上 って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。

彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすこ とを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。

『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。

人の子が地上で罪を赦す権威を 持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。

すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。



①四人の男性




この四人が中風の家族なのか友人かは不明です。


【ルカの福音書5章18節】

するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

“何とかして”という四人の男性の強い愛とイエス様の前に置いたら必ず癒されるという信仰が伺えます。

しかし、次のようなことばも書かれています。


【ルカの福音書5章19節】

しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので

中風の人をイエス様の前に運び込むことが難しい状況です。

もし私たちが4人のうちの1人だったならどうするでしょうか?
立ちすくんだり、諦めて帰るでしょうか?


しかし四人はこの状況でも諦めずに、聖書に “屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした”と書かれています。

屋上に上って屋根の瓦をはがすことは、普通で考えるとあり得ないことですし、尋常ではない発想です。
周りにいる人々はそれを見て軽蔑したり呆れたと思います。


しかし、中風の人をイエス様の前に連れて行き “何とかして、どうしても癒して欲しい”という切実な思い、強い愛がありました。

これは神様が知恵を与えてくださったと思います。普通ならば思いもよらないことです。

イエス様は屋根を壊したことに対して決して咎めることもなく、愛と熱意を見て中風の人を癒されました。


私たちには様々な妨げがあります。

自分が神様のもとに行こうとしているのに、妨げがあってなかなか前に進めない時があります。

しかし、この箇所で教えられることは、“上を見なさい”ということです。上には天があるだけで、神様がいてくださるのです。


また、この四人の男性を自分に当てはめると、この中風の人は、まだ救われていない家族や知人、友人です。

病気や罪などにどっぷりと浸かって縛られ自分1人では身動きが取れない状態です。

そして、この四人の姿はクリスチャンの祈りです。 それは切実な思いと熱意で、愛ある祈りで神様の前に人々を運ぶことが出来る力です。


みことばを握りしめるというのは どういうことなのか、ある時に教えられたことがあります。


私たちが困っている時にみことばの棒が差し出されます。

私たちは そのみことばの棒を必死で握りしめます。そして神様に“上に上げてください!”と必死で祈ります。

そうすると一生懸命 みことばの棒を掴んでいたのですが、それを引きずり下ろそうと サタンが妨げや攻撃を持ってやってきます。私たちを棒(神様)から引き離そうとします。

でも私たちが必死になって両手で握りしめていると、神様は棒ごと引き上げてくださいます。


私たちがみことばにすがり付いている時に、その姿を見て神様は引き上げてくださり、約束を成就してくださいます。




②中風の人




次に、中風の人と自分たちを照らし合わせてみたいと思います。


床の間まで寝ながら運ばれていくのは、ジロジロ見られるので結構恥ずかしくて辛いだろうなと思いました。
また、自分を運んでくれた四人の男性に申し訳ないという気兼ねもあるかもしれません。

中風の人も、たとえ運ばれたとしても “もしかしたら癒されないのではないか” と疑いを持つかも知れません。


しかしここに書かれている中風の人には、そのような雑念は一切ありませんでした。

自分自身が何とかして癒されたいという切なる願い、そしてイエス様の前に連れて行ってもらえたら必ず自分は癒されるのだという信仰。
そして人々が自分のことをどのように見ようが、そんなことは関係ないというプライドを捨てた謙遜さがありました。


これは私たちにも神様が言ってくださっていることだと思います。

例えば私たちが病気で倒れて身動きが取れなくなって祈れない時があります。自分の力ではどうすることもできないことがあります。

そういうときは周りの四人の人が助けてくれます。
これが教会の姿です。ですから私たちには教会が必要なのです。


私たちが1人で祈れなくても教会の人々が祈ってくれます。

自宅や職場など この世では本音と建前の世界があります。しかし教会では本音と建前は必要ありません。

教会ではプライドを捨てて自分自身の本当の姿をさらけ出して良いところです。
自分を強い者であるとか、信仰が強い者であるなど、見栄をはったりプライドを持つ必要はありません。


周りの助けをもらってでも、神様の前に切実に祈り求めました。そして四人の人は、その姿を見てイエス様の前に運びました。

これが、神様から喜ばれる教会ではないか と私は感じました。




③パリサイ人と律法の教師




【ルカの福音書5章17節】

ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。

【ルカの福音書5章21節】

ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。 「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

神様が癒しをなさる場所にパリサイ人や律法学者がいました。


パリサイ人や律法学者たちは、“自分たちこそが神様の正しいしもべである”と高ぶり、集まっている人々を見下して真実である神様を批判していました。

このような人々は教会にもいます。


この人たちの罪の一番恐ろしいことは、自分たちは神様に反することをしていながら、自分たちは神様の前に正しい者であると勘違いをしているところです。


この教会では、牧師を通して地獄へ行った人々の証を聞きますが、
地獄へおちた人は「なぜ自分がここにいるのですか?!私をここから出して下さい!」とイエス様に叫んでいる姿があり、そのような人が多いです。

この人たちは自分の罪が分からなかったり、知ろうとしなかった人だと思います。


私たちは天国へ行きたいと願っているので、自分たちの罪が分かっていたなら心から悔い改めると思います。そして赦していただいて天国へ行きたいと切に願っています。

しかし地獄へ行った人は自分の罪が分からなかったので悔い改めをすることが出来なかった人も多くいるのではないかと思います。

これこそがパリサイ人や律法学者の姿であると感じました。






私自身もこの罪を犯しているのではないだろうか?と思います。皆さんはどうでしょうか?

自分の罪を悔い改めてはいるけれど、もしかしたら自分が気付いていないところで神様の前に相当大きな罪を犯しているのではないかと恐ろしくなります。

自分が正しいと思って取っている言動や言葉が、本当に正しいかは私たち人間には分かりません。


私たちは相手の側面しか分からず、そこで判断して言葉をかけますが、神様はその人の心の葛藤や苦しみなどすべてをご存知で、私たちの正しいと思っている言動や言葉が本当に正しいかは私たちには判断ができません。

これは神様にしか分からないことです。


しかし自分が正しいと思い込んで勘違いをしていることも多くあるのかも知れないということを今回教えられました。

私たちは信仰・愛・憐み・赦し・知恵・祈り・悔い改め、これらの何1つを取っても、自分の力で出来るものは何1つありません。


すべては神様から与えられる聖霊の油注ぎによらないと自分たちでは出来ません。
しかし、これらを自分の力や行い・正しさ・自分の聖い心でやると勘違いをしていることが大きな罪かもしれないと考えさせられました。


いつも悔い改めをしている罪は神様は既に赦してくださっています。
でも自分たちが気付かないところで悔い改めていない大きな罪が残っているのかもしれません。

罪とは的外れという意味です。私たちが悔い改めをしている時に、もしかしたら的外れな悔い改めをしてしまっているということも思いました。


そうしたら私たちはどのような悔い改めをしたら良いでしょうか?

神様の御前に私たちは謙遜になって、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。
私たちの罪は何なのか、神様が示して教えてくださいと祈ることだと思います。


そして日々の悔い改めと共に私たちが何を悔い改めたら良いのか はっきりと示してくださいと祈るならば、必ず神様ははっきりと教えてくださいます。


悔い改めるなら神様は赦してくださいます。

神様は私たちを決して地獄へ落としたいわけではありません。
私たちが家族や周囲の人と共に天国へ行くことを神様ご自身が願ってくださっています。


そのためには私たち自身の罪の悔い改めが必要です。
そして何が罪であるのか教えてくださいと祈る謙遜な心が必要です。


家族や周囲の人々の救いや癒しのためには、私たちクリスチャンが諦めない祈りと熱意、切実な涙をもった願いと愛が必要であると思います。


私たちが疲れ果てている時に、周りの人たちに祈れない時もあります。ですからそれすらも神様に求めていかなければいけないと思います。

そうするならば神様が必ず私たちの願いを聞いてくださると信じます。
。゜(´Д`)゜。

2014.12.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

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神のことばの力

テーマは 『 神のことばの力 』 です

【ヘブル4章12節】

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

もし クリスチャンではない人が、皆さんに「神のみことばって何ですか」と聞くならば何と答えますか?

「聖書は神のことばです。」「神のことばは真理です。」
これは間違いではないですが、その言葉だけで相手は理解できるでしょうか?

また次に「聖書って何ですか?」という質問に対しては、「神のことばです」と言っただけでは 相手の人は「一体何が書かれているんだろう?」と思います。

「真理です」と答えても「真理って何ですか?」と聞かれたとしたら、私たちは正しく説明できるでしょうか?


私たちクリスチャンはいつも神のことばを聞いているので、神のことばに対して よく知らなければならないです。
そして人々に正しく伝えなければなりません。


「神のことば」が何であるかは聖書の中にちゃんと書かれていますので今回はそれを学びます。
今日の本文のことばに注目しましょう。




①神のことばは生きている



神のことばは生きていると説明することができます。
生きているということは、そこに“いのち”があることを意味します。

“いのち”があるということは、人を生かす力があるのです。これはイエス様もはっきりと語ってくださいました。


【ヨハネの福音書6章63節】

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

死んだ人に対しては「いのち」という言葉は使いません。
「いのち」は“今、生きている”ということです。


神のことばは、死んだ言葉ではないです。私たちに益をもたらす、生きたことばであります。

神のことばは死んだたましいに生命力と活気、満足を与えます。


生きているということは、働きますし、変化と発展をもたらします。
死んだものは動きませんし、死んだものが他のものを生かすことは出来ません。そして変質されていきます。

しかし、神のことばは世が始まる前からありました。そのことばによって、全てのものが生かされています。


クリスチャンが成長したいならば、そして神の子どもらしく生きるためには、神のことばが必要です。


【Ⅱテモテ3章16-17節】

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

“矯正・義の訓練・整える” これはすべて私たちを成長させるものです。


私たちはもともと神の人ではなく、サタンの奴隷でした。
そこで、サタンの奴隷から神の人に変えていくのに用いられているのが“神のことば”であります。

皆さんが霊的訓練を受けていた時に、世の教えで訓練をしたのではないです。
神様のことばを用いて訓練をしました。


それを聞いて、私たちは自分の中にあった死んでいる部分を見付けました。
そして神のことばを聞いて私たちは成長してきました。

ですから変わっていくためには神のことばを聞いて、それによって訓練されなければならないです。


肉の思いは何の益も もたらしません。
例えば、皆さんにお配りしたパープルブックですが、みことばを書く訓練はとても大切であります。

(聖書を)読んで通り過ぎるよりも、書くことによって みことば1つ1つが心に入ってくるのです。
みことばを読まないのは成長を止めていることになります。それは自分が死んでいく姿であります。


私たちが成長し、もっと変化したいと思うならば 毎日みことばに触れないといけないです。


パープルブックは簡潔に書かれています。書くことで皆さんが訓練をされていることになります。
教科書の宿題のように書くのではないです。

書かないということは、みことばをないがしろにしていることであります。

みことばは食べ物だと言っています。
皆さんは毎日3食をきちんと食べると思います。お腹がすいて夜中に起きて食べることもあります。


それなのに、みことばは一切食べなくても何とも思わず、みことばに触れないままでいると たましいは死んでいきます。

みことばは 私たちが必ず食べなければならないもので、それによって私は生きているのだという認識をし、自分の霊をどんどん生き生きとしたものにしていかないと霊が弱くなります。霊が弱くなると私たちのすべてのものが色褪せていきます。


霊が死んでいる者は、喜びが出てくるでしょうか?平安があるでしょうか?―― それはないです。


一番強くしていかなければならないのは、『霊の部分』であります。
霊の部分が強くなると、その人はとても大胆な人になります。生き生きする者になります。


「最近、元気がないなぁ~」と感じるならば、それは肉体の力以前に 霊の力が消えたことを意味します。
その時は他のことをする前に、みことばを食べることであります。

また、どうやったら毎日みことばに接することができるのかを考えると、不思議と神様が導いてくださって出来るようにしてくださいます。

聖書をいつも手元に置くことであります。スマホで聖書アプリをダウンロードしたら移動中でも読めるのです。


私たちはやろうと思えば出来るのです。みことばに親しんでください。そうすると成長していきます。




②神のことばは力がある



皆さんは神のことばには力があると実感しているでしょうか。


この力が一番最初に現れた場面は、天地創造であります。

神様が「光があれ。」と、全てことば通りになりました。人間以外の世にある全ての万物は神様がことばで造りました。
太陽、月、動物もすべてことば造られました。その威力がすごいです。


また、今も神様が万物を保っておられますが、何によって保っているでしょうか――?次の箇所です。


【ヘブル1章3節】

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

神様は今もことばによって全てに命令をしているのです。
「太陽よ、正しく回れ。」「月よ、夜に輝け。」と、神様の力あることばに全てが支配されています。

いつか神様が「地球よ、滅びなさい。」と言うならば一瞬にして滅びると思います。
神様はことば1つで それをすることができます。

これほど神様のことばには威力があります。


また、神様のことばの威力は クリスチャンの日々の生活の中で必要です。

悪霊を追い出す時に、私たちは何の力で追い出しますか?
それは神のことばです。

私たちは「イエス様の名」を使います。イエス様ご自身が みことばなのです。


【ヨハネの福音書1章14節】

ことばは人となって私たちの間に住まわれた。

すなわちイエス様のことばは霊でもあります。そこにあるのは力です。


イエス様が40日間 断食をした後で、サタンが試みるために来た時に、イエス様がサタンを何で退けたでしょうか?

喧嘩をして退けたのではないです。神の1つ1つのことばを語る時に、サタンが退きました。

私たちが人間の言葉でサタンと戦っても勝ち目がないです。
しかし私たちが神のことばを信じて 武器(みことばの剣)にして戦うならば、神様の力がそこから出てきます。


ですから、私たちがみことばを蓄えるということは、戦いの時にそのことばを使うためであります。




③両刃の剣よりも鋭い



神様は両刃の鋭い剣のことばで何をするのでしょうか?

私たちの心を刺し通します。
私たちの心がことばによってグサッと刺される時に、一番初めに気付くことは“自分の罪”であります。

そして「私たちは(罪を)どうしたら良いですか?」という反応を見せます。


神のことばに出会った時に、私たちは自分の行動や生き方が 神のことばとは全然違うということに気付きます。
神のことばに違反している自分の罪を示されるのです。

神のことばは本質的なことを示していますので、そのことばを聞いて何も感じないならば それは死んだ者です。


神様のことばは 罪人が聞いた時に心を刺されることばであります。ある意味で聞きたくないです。

私たちは罪にずっと覆いをかけて見て見ぬふりをして生きてきましたので、それを明るみに出して見せられるならば自分の罪であっても見たくないのです。

見たくないですし、逃げたくなりますし、隠したくなります。


しかし、神のことばは全てを刺し通します。『あなたは罪人であるのだ。』

そして神様は別のみことばを出して『だから悔い改めなさい。立ち返りなさい。』と、神様はあらゆることばを通して私たちの中で働くのです。


そこで私たちはどれほど不従順であったのかを気付き、そこから立ち返らなければならないと思うようになります。


また、神様はそのことばを用いて裁きます。
不従順したイスラエルの民たちを全員 神のことばの剣によって打ちました。
これからの時代も同じであります。神のことばによって正確にさばきを受けるようになります。


【ヨハネの福音書12章48節】

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。 わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

すべてのものが裁かれるその時に ことばがその人を裁きます。

私たちはことばを知らないと自分がどこへ向かっているのか気付かないです。
ことばは聞かなければならないです。


ずっと聞くことで私たちは気付くことがたくさんありますので、礼拝の時にもたくさんのことばを語りますので聞くことであります。

家で聖書を読む時も、神様のことばとしてきちんと聞かなければならないです。




④たましいと霊、肉体すべてを刺し通し、判別することができる



神のことばは ある限られた場所だけで働くのではないです。


人間のすべての面において働きます。すなわち たましい・霊・肉体を新しく生まれ変わらせます。

神様はことばを使って一番したいことは、私たちの霊とたましいを新しくしたいのです。これは神様の願いです。


人はうわべを見ますが、神様は心を見ます。
神様は私たちの心に手を付けて新しくしたいのです。


【Ⅰペテロ1章23節】

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

私たちは死んだ者から新しい者になれたのは、何によってでしょうか?
ここに書かれているように、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって私たちは聖められました。

このようにして神様は私たちのたましい・霊をいやしてくださいました。


また、神のことばは肉体・病気をいやします。

百人隊長のしもべが病気になった時に、隊長がイエス様の所に来て『おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。』と言いました。

それを聞いたイエス様が『さあ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』と言いました。
すると遠く離れた所にいたしもべは ちょうどイエス様が語った時にいやされました。


つまり場所・空間は関係がないです。
全地・全世界は神のことばによって動いていますので主が働くのです。


また苦しみの中にいる者に主のことばは慰めであります。

皆さんは苦しい時に、神のことばによって どれほど慰めを受けたでしょうか?


【詩篇119編50節】

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。

悩みの時に、私たちは他人のことばを求める必要はないです。
一番 私たち自身のことを知っているのは神様です。

なぜなら神様には、私たちを生かしたい、新しくしたいという思いがいつもあるからです。


これらのことを通しても分かるように、私たちは単純に神のことばを読むだけで終わるのではないです。
神様のことばを聞いたら、私たちの日々の生活に適応しなければならないです。素直に使うことであります。


なにか大切なことを決めなければいけない時も 自分で色々と考えるのではなく、神様は何とおっしゃるのか?聖書にはどのように書いているだろう?と、みことばを探して神様の導きを受けて決定するのです。

どの道を歩んだら良いのか、その時も私たちはあっちへ行ったり こっちへ行ったりするのではなく、 「道であり真理であり いのちである主よ。今日も私の道を教えてください。」と、神様からことばを貰うことであります。


どう生きるべきなのか 生き方がよく分かっていなくても、聖書を開けば全て書かれています。
聖書には私たちが生きている時に出会う様々な問題に対しての答えが必ずあります。


それを私たちが探すことです。「教えてください。」と探すならば神様はその人に必ず示してくださいます。

私たちが従うならば成長していきます。

神のことばに対して私たちの取るべき態度は、まずは信じること・従うこと・勝手に判断しないこと・適応すること・導かれること・ことばによって生きることであります。


この人たちは明日のことを心配する必要はありません。神様はことばによって その人たちを守ります。
ことばがその人の代わりになってくれるのです。ことばが慰め・平安・祝福をもたらします。

ことばが自分にとってどれほど大切であるかを知らなければならないです。


相手が自分のことをどう思っているのかは考える必要がないです。その相手が神ではないです。
それは自分に対する悪口・批判など私たちを潰す言葉であります。

私を生かすことば、私に益をもたらすことば、私を助けてくれることばに耳を開いて聞かなければならないです。


偽りがたくさんある世の中で、私たちは何を聞くべきでしょうか?

神の真理のことば、それを常に聞かなければならないです。
(・∀・)つ

2014.8.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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地獄を見てきた聖徒の証です
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ルデヤの信仰

テーマは 『 ルデヤの信仰 』 です

【使徒の働き16章12-15節】

それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊りください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

神の計画に従うならば、そこには必ず祝福があります。

パウロは神様から1つのことを示され、伝道のために召されました。
パウロと一行はアジアで福音を伝える計画でしたが、聖霊様がそれを禁じ、神によって1つの幻を見せました。

1人のマケドニヤ人が彼の前に立って「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願する姿でした。

その幻を見たパウロとその一行はただちにマケドニヤに向かって行きました。
マケドニヤはギリシャ北部に位置し、アレクサンドリアが有名でアレクサンドロス大王ゆかりの地でもあります。


川岸へ行った時に、そこに女の人たちがいるのを見ました。パウロはそこで祈り、福音を伝えました。

当時ピリピはマケドニヤの第一の町で、ピリピで幾日か滞在している時に1人の女性・ルデヤに出会いました。


彼女の信仰のことは、ここにはほとんど書かれていませんが、素晴らしい信仰でした。
彼女はどういう経緯で神を信じたかはわかりませんが、それまではユダヤ教を信じていました。

彼女の信仰の姿を調べてみましょう。



1.自分の仕事に忠実でありながら神を敬う人(14節)




ルデヤはテアテラ市の紫布の商人で、ビジネス拡大のためにピリピに移住してきたと思われます。
そして相当の財産も持っていると推測されます。

私たちは自分の仕事に熱心になると、神様のことをないがしろにする傾向があり、礼拝に行けなくなることもあります。

ルデヤは 自分の仕事にも忠実で熱心ですが、神に対する信仰をないがしろにせず神を敬う信仰の人でした。

これがとても大切であります。



2.聞く耳を開いてみことばを聞く準備が出来ていた(14節)




主がルデヤの心を開いて、パウロが語る言葉に留めるようにされましたが、聞く耳がない人に対しては 神様がわざわざ耳を開くことはないです。

“聞く耳”が彼女にありましたので、神様が更に彼女が悟るように助けてくださったのです。
ルデヤはこのことによって、ユダヤ教からキリスト教に改宗しました。

ルデヤが改宗者の第1号でした。
そしてパウロがピリピで福音を語って救われた魂も ルデヤが第1号でした。


信仰はみことばを聞くことから始まります。

私たちが神様の言葉を聞く時に、耳を傾けて 心を開いて神様の言葉を聞かないと、信仰が絶対に成長しないです。


どうやったら信仰が成長しますか?と質問をする人がいますが、みことばを聞く姿勢を変えないならば信仰が成長しないです。

みことばを聞く時は、しっかりとみことばを聞き「今日、主は私に何を語るのか?」と、そして聞いたことをただ頭の知識として入れるのではなく、心に留めることが とても大切であります。

もし、その時にみことばを悟ることが出来ていなければ、更に言葉を聞くことであります。また「これはどのような意味ですか?」と聞くことです。


更に深く探っていく時に、言葉がその人の内に留まり その人のいのちになり 血となり、成長させていきます。

聞く耳を持っている人たちの姿は、使徒の働き17章11節に書かれています。


【使徒の働き17章11節】

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

私たちの中に、このような姿勢があるでしょうか?

神様が用意してくださったみことばを「食べたくない」と言って目を向けず、耳を開かず、心にも入れないで、ただ席に座っているだけで他のことを考えて空っぽのまま帰ると、その霊はどんどん衰えて死んでいきます。


私たちの内なるものが日々新しくなるように 神様は毎日「いのちのパン」と「いのちの水」を飲ませてくださっています。私たちはそれをしっかりと受け取って食べないと、信仰が成長することはないです。

イエス様がことばを語る時も、大勢の人々が集まってきましたが (聞く)姿勢は それぞれ違います。
それで「耳のある者は聞きなさい。」という言葉を使いました。

自分の耳が聞く準備が出来ているのか それが大切であります。


現在開催されているサッカーのワールドカップ 日本戦の試合で、宿泊施設のレストランでテレビ画面から目を離さず、トイレも我慢している人たちがたくさんいました。 1つの場面も見逃したくないという思いがそうさせます。


みことばを聞く私たちの姿勢はどうでしょうか?

いのちのパンは、私たちの内なるものが生きるためには必要なものであり、私たちの信仰が成長するためには みことばを食べなければいけないです。


私たちはもう1度自分たちの姿を考えなければならないです。

ルデヤは熱心に聞いていました。
彼女はビジネスをしているので忙しいですが、頭の中でずっとその事を考えるのではなく、“この時間はみことばを聞く時間である。”という思いで一生懸命その時間を無駄にしませんでした。

ですから神様がルデヤの姿を見て、恵みを注いでくださいました。その素晴らしい恵みとは「救い」でした。


そこでパウロから福音を聞き、福音の主体はキリストでありますので 彼女は悟り、耳を傾けたので恵みを受けることができました。




3.家族までも変える信仰(15節)




彼女はみことばを聞いて信仰を持ちました。そしてその家族も信じ、家族全員が水のバプテスマを受けました。
ルデヤは自分だけが信じたのではなく、家族にもそのことをすぐに伝えました。

回心からの行動がすごく早いです。彼女の中には、決断力と積極性があります。


決断力がないと信仰を持てないです。それまで自分が持っていた様々なものがある中、まったく違うものが来た時には 決断をしなければ信仰告白が出来ないです。

そして積極的な行動によって、次にどのように行動をしたら良いのかを考え すぐに彼女と家族がバプテスマを受けました。

これは、信じた通りに実行に移す信仰であり、自分の信仰を他人の前でも大胆に告白する信仰です。


信仰告白をしても、いざ「洗礼を受けましょう」となると「ちょっと待ってください。」と言ってなかなか洗礼を受けない人がいます。決断をしないのです。家族にも言わないのは迫害を受けたくないからです。


しかし、キリストに従っていくということは(周りからの)反対や迫害を覚悟しなければならないです。
それでも従っていくのが、本物の信仰であります。

聖書は、信じるのか信じないのか「白か黒」のどちらかであります。「灰色」は無いのです。

神様の福音はとても単純です。神様が人間を造った目的は(神様だけに)仕えることでしたが、人間が堕落してからは別のもの(サタン)に仕えるようになったのです。

ですから、神様が語った言葉は「今 どちらに仕えているのか」ということです。

≪ 神様に仕えるのか? それともサタンに仕えるのか? ≫


人間が誰にも仕えないということは無いです。必ずどちらかに仕えています。

神様に仕える人は、神様のことばを心に受け入れて、その言葉通りに生きる人のことであります。
しかし それをしない人は、自分の欲望のままに生きるので、そこでサタンが働きます。


私たちは積極的な行動を取らないと、口では信仰と言っても、生き方はサタンに相変わらず仕えているならば 救われていないのと同じ状態であります。


救われて新しい人になったのなら、その瞬間から新しい人としての歩みをしなければなりません。
ルデヤはすぐ行動に移して家族までも導きました。




神様の証




カナダで5年生の男の子がイエス様の恵みで天国まで連れて行かれて多くのことを教えてもらいました。
その中で一つの場面を紹介します。

地上の ある病室が見えました。そこにいる意識がない患者はノンクリスチャンでした。

周りにいる家族はクリスチャンでした。家族は死んでいくその患者のための祈りを熱心にしていました。
助かる見込みはないので、そのたましいの救いのため諦めずにイエス様にお願いをしていました。

クリスチャンたちは癒しを祈ったのではなく、このまま亡くなれば地獄へ行くことが分かるので イエス様に必死に祈っていました。


その患者の周りには既に悪霊が囲っていました。するとクリスチャンの家族が祈っている時に、
その祈りを主が聞いて、主が意識のない患者のそばに来ました。主ご自身がその人に福音を語りました。

家族の祈りが続く中、イエス様は何度もその人に向かって福音を語りましたが家族の目にはその様子は何も見えません。

そしてその患者のたましいは、イエス様のことばを最後に受け入れ、信じました。その瞬間集まっていた悪霊たちがあっという間に逃げました。
イエス様はそのたましいを受け取り、一緒に天にのぼりました。

人間には何も見えないので、何が起こり、その人が天国へ行ったのか、地獄に行ったのかがわかりません。


しかしイエス様はそれを見せた理由は、たましいがまだ地上で生きている時に希望を捨てるなということです。

死ぬ瞬間まで私たちがたましいの救いをあきらめてはいけないことを教えました。

イエス様は1人1人のたましいを非常に惜しんでおられます。1人も滅びて欲しくないという思いがあります。

家族の中にイエス様を信じる人がいなければ、その家族はそのまま滅びていきますが、
信じている家族がもしそこにいるならば、そのたましいのために祈ることであります。


最後の最後まで諦めないで、自分たちに出来ないならばイエス様にお願いをしてでも伝えることです。

私たちの信仰による積極的な行動がないと たましいは救われないです。
知恵が必要であります。どのような知恵をもって、このたましいのために働くことが出来るのか――?

私たちの姿が悪くなると、家族が救われるどころか私たちの行動で神様の御名が汚されることになります。


もちろん私たちが正しく動いても迫害されることもあります。
その時は、私たちが忍耐して神様に頼ることであります。




4.キリストのために献身する信仰(15節)




彼女は恵みだけ受けて去ったのではなく、自分の家を提供してパウロ一行を泊らせ、彼らをもてなしました。
ルデヤの家が、後のピリピ教会であります。

パウロを助けてピリピ教会を設立した献身的な信仰の所有者でした。

彼女は自分が持っている財産を主のために使いパウロを助け、そしてそこに来た人たちに もてなしをしました。
これはとても大切なことであり恵みを知っている人の姿であります。

「恵みだけ欲しい」と言って、いざ恵みだけをもらってサッと持ち逃げして2度と現れない、主のために何も働きをしないのは、次の祝福がないです。


私たちは恵みを受けたならば、それに対して感謝をして神様に対して私たちは返さなければならないです。

受けた物を持って蒔きます。ルデヤはこれをしました。


ヨーロッパで一番最初の教会がピリピ教会であります。
1人の女性が自分の信仰を使って自分の家を提供したところがマケドニヤ最初の教会であり、彼女が一番最初の改宗者であり、生きた信仰でありました。

そしてルデヤは故郷であるテアテラに行って教会を設立した人とも推測されています。 黙示録2章18節のテアテラ教会がその教会です。そこでも彼女は立派な働きをしました。


ピリピ書はパウロがピリピ教会に送った手紙ですが、この教会がどういう教会であるかが手紙の内容でわかります。 献身的なルデヤがいるピリピ教会は他の教会とは違っていました。

【ピリピ4章14-18節】

それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、 私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。

テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。

私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。

私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。 それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。


ピリピ教会はパウロのことを忘れませんでした。パウロのことを常に助けたいという思いで、そこで先頭に立っているのがルデヤであります。

他の教会では恵みだけを受けて、パウロの働きをないがしろにしていました。
パウロが乏しいことを知っていても誰も無関心でしたがピリピ教会だけは違っていました。

ですからピリピ書には喜びが溢れています。


私たちは弱い者ですが、ルデヤも強い者ではないです。
弱い者でしたがイエス様の福音を受け入れたその時から、ルデヤの人生が新しいものに変わっていきました。

その瞬間からイエス様に対して献身する人に変わりました。

自分たちの姿は 献身している姿なのか、それともいつまでも恵みだけをくださいと、恵みを受けた後は主のために何もしない姿でしょうか?それともルデヤのような姿が自分たちの中にあるでしょうか?

ルデヤのような人を見て、このような人だと語ります。次の箇所です。


【ローマ14章18節】

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

これが私たちが目指す姿であります。本当の意味での献身であります。

ルデヤがそのような人でした。彼女から学ぶべきものがたくさんあります。
「私は何も出来ない」ではないです。その働きが出来るのです。


今は終わりの時代ですので、主の前に私たちは立たなければならないです。

今までのことは私たちはどうすることも出来ないですが、これからは恥ずかしくないように主に喜ばれる生き方をしていくべきであります。

それを明日からではなく、今からこのような心で生きようとする決心が必要であります。


決心したならば行動です。行動が伴わない決心は何の意味もないです。

決心したならば行動をするために祈ることです。聖書を読まなければいけないなと思ったら1節でも読むことであります。

これによって私たちは目を覚まして立ち上がることができます。 (・◇・)ゞ

2014.6.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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信仰の遺産について

テーマは 『 信仰の遺産について 』 です

【Ⅱテモテ1章5節】

「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」

今日は母の日ですね。
昨日は花屋さんで花を買う人がとても多かったです。

母の日によくプレゼントするカーネーションもたくさん売っていました。この前は子供の日もありました。
4月末から5月にかけてはゴールデンウィークもありましたので 家族と共に過した時間が普段よりは多かったと思います。

今日は その意味で、家族・家庭のことを考えてみようと思います。


多くの親たちは自分の子供を愛するから 良い環境を与えようとしますし、自分は苦労しても子供には苦労させたくないと思いますし、 自分が貧しい者であるならば子供は豊かな者になってほしいと思います。

また子供には財産を残してあげたいと とにかく子供には良くしてあげたい思いがあります。
それらの遺産を残すと子供の生活は楽になると思いますが、子供のたましいには何の役にも立ちません。

なぜならばそれらのものはすべて消え去っていくものであり、
それらのものをあの世には持っていけませんし、魂を救い出すものでもないからです。


しかし 永遠に消えることもなく、子供の魂にも有益な遺産があります。
それは信仰の遺産です。信仰の遺産ほど価値ある遺産はありません。


今日の本文では信仰の遺産を立派に受け継いだ一つの家庭を見ることが出来ます。テモテの家庭です。

テモテは使徒パウロがとても愛した弟子でした。パウロはテモテをそれ以上に考えていました。
テモテのことを「信仰による真実のわが子テモテ」と呼びました。

テモテはパウロが最初から主に導いたのではありません。出会った時にテモテはすでに信仰を持っていました。


テモテの中には純粋な素晴らしい信仰がありましたが、この信仰は敬虔な家庭の中で彼が育てられたから、テモテは信仰を遺産として受け継ぐことができました。

祖母ロイスと母ユニケも純粋な信仰もっていました。素晴らしい信仰の家庭です。
信仰を遺産として子孫に残すために信仰の家庭が持つべき要素があります。


私たちも自分たちの家庭のことを考えてみらた良いと思います。テモテの家庭と自分の家庭を比べるのです。

信仰のない家庭で生まれた人もいますし、信仰がある家庭で生まれた人もいます。
その中で自分たちは何を受け継いでいるでしょうか。すごく親の責任があります。子供の責任ではないです。

信仰の家庭を築くのは親の責任です。
信仰を遺産として子供に残すために信仰の家庭はどうあるべきであるのかを考えていきたいと思います。




1.神を恐れることをすべての基本にする



神を恐れることは信仰の核心であり、基本であります。
神様は教会のかしらだけではなく、家庭の中でもかしらであります。

ですから夫がかしらになってもいけませんし、妻がかしらでもいけません。子供がかしらになってもいけないです。
自分の家庭の中で一番偉いのは神様であります。

信仰の先祖アブラハムが家庭の中で見せた姿も 神を恐れている姿でした。
親は子の前で神を恐れている姿を見せないと 子供は神を恐れる信仰を持たないです。


子供は親を見て育ちます。親がいつも神様を恐れる姿を見せるならば、自然と子供もそれを見て学びます。

しかし親が信仰を持っても神様を恐れる姿がないなら 子供は学ぶことができないです。

次の箇所にはコルネリオの家庭が出て来ます。


【使徒の働き10章2節】

彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが

家庭の中で神を恐れている姿をいつも見せていますか。子供は親を見て育ちます。

神様の権威に従うことが恐れることであり、神様を第一にして神を恐れる信仰を親が見せるならば、その家庭は神様が支配する家庭になります。
神を恐れる姿を見せるならば、自然と神様をまだ信じていない者までも「神様をけなしてはいけない。神様に逆らってはいけない。」と学ぶようになります。


次の箇所は、私たちが神様を恐れるならば素晴らしい祝福が与えられるという主の約束です。


【詩篇128編1-4節】

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

信仰の行動を通して祝福が流れてくるのです。




2.神のみことばに頼りながらみことばを実行し、 子供に小さい時から信仰教育をしなければならない



親が自分の価値観で子供にああだこうだと教育をするのが一番良くないです。
自分の価値観がすべて正しいわけではないです。


神を信じる家庭は自分の思いのまま家庭生活をするのではなく、みことばに従って生活しないといけないです。

子供は別の人格を持っている者として与えられています。子供は神様のものなのです。

親は(神様から)任されて育てるだけであります。決して自分の分身ではないです。


【箴言22章6節】

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。

みことばによる信仰の教育です。みことばは真理ですので変わることがないです。

信仰の遺産を残すためには、みことばの教育が必要です。


【申命記6章6-9節】

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。 あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、 記章として額の上に置きなさい。

これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

親がまず神様の言葉に従わなければならないです。「心に刻みなさい。」ということは、みことばがその人の価値観になることです。

家庭の中がみことば中心になる時に信仰を遺産として受け継がせることができます。


【エペソ6章4節】

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

親が子供に自分の価値観を押し付けながらそれを教育と勘違いしてはいけません。
親が押し付けるので子供が怒ります。「自分がすべて正しくて、子供が間違えている」ではないです。完璧な人間は1人もいないです。

しかし、神様のみことばはすべて正しいです。主の教育と訓戒によって育てなさいと主は語ってくださいました。
それによって子供が学んで信仰の人として育つことができます。
自分の思いのまま、自分の価値観をおしつけたら子供は反発するだけです。


主の言葉であるなら、子供は反発できないのです。反発するということは、神様に反発することになるからです。
しかしなぜ子供たちが親に反発するのかというと、親が一方的に自分たちの思いのままにするからであります。
子供は何も言わなくても、心の中には反発心がどんどん大きくなっていきます。これは本当に気を付けなければいけないです。




3.親の献身的な犠牲が必要



一人の子供がどんな人格を所有するかは、その親の人格と信仰教育にかかっています。
怠けた親が子供に向かって「勤勉な者になりなさい」と言うのは正しいことではないです。子供は聞いた瞬間「自分はしないくせに…」と思います。

嘘つきの親が 子供に「嘘を言うな」と言うのも 子供から見ると受け入れがたいものです。


まずは親が 肉のものを打ち叩いて殺しながら、親が嘘をつかないことが(子供への)教育になります。

神様は私たちに、子供に本気で信仰の遺産を残したいならば、親は模範的な信仰生活をしなければならないと語りました。


模範的な信仰生活をするためには、私たちは自分を打ち叩いて犠牲を払わなければならないです。
子供のために祈りの犠牲も必要です。

口うるさく言うのではなく、子供のために祈ることが大切であります。

もっとも親の献身的な犠牲は家族への無条件の愛です。


信仰の基本の中で一番最初に要求されるのは愛です。
家族を愛することです。惜しまずに愛することです。

愛を子供に注がないと、子供の人格は歪んだものになります。
家庭環境がすごく悪いと、子供の人格は真っ直ぐに育たないです。
押さえつけられて悪い物をたくさん見せられていると、人格を花咲かせることは出来ないです。


そうすると子供に恐怖心が出て来て「私は愛されていないんだ。」という思いが出てきたら一番 致命的であります。






テレビである芸能人の女の子の告白を聞きました。

一度も母親から愛された記憶がありませんとはっきり言われました。
常に怒られ、けなされ、また叩かれました。

可愛いと言われたこともなく醜い醜いといつも言われました。実際はとても可愛い子でした。

心に深い傷を負い、自殺未遂までして病院に運ばれました。母親はお見舞いに来るかと思いましたが一度も来ませんでした。

世の中で一番の虐待は「愛さないこと」です。 愛さなければならない者に 愛を与えないのは、これほどひどい虐待はないです。それで子供は深い傷を負うことになります。

その子供の人格は傷物になります。それは子供のせいではないです。


愛がなければ どんなしつけでも子供にとっては虐待以外なにものでもないです。
心に深い傷を与え、人格を踏みにじっているので虐待です。

たとえ しつけのために子供にムチを当ててても、それが愛のムチであるならば 子供にはちゃんと愛が伝わり 育ちます。


隣人を自分自身のように愛さず、自分だけを愛するのはサタンの心であります。
サタンは自分だけのために周りをすべて殺します。すべて自分のものにして与えることをしません。

愛は自分が犠牲を払い、愛は自分で我慢し、愛は自分から手を差し伸べることであります。
愛は自分の体を捧げて、相手の益のために働きます。


子供を育てる時も、子供を利用して自己満足のためにするなら、それは子供を愛する姿ではなく 親が自分を愛する姿であります。それでは信仰の遺産を残すことが出来ないです。




4.子供を主の手に任せることが大切



親だからと言って、全部責任を持って育てることはあり得ないことです。
神様は私たちを助けてくださる方であり、両親は「肉」の親ですが、神様は「霊」の親であります。

ハンナがサムエルを神の聖所につれて行き、祭司であるエリに任せました。
神に立てた誓願があるからそうしましたが、全能なる神の手に任せることを恐れませんでした。


親が子供を神様に任せず、自分の知識や経験で養育するならば子育てに失敗しやすいです。
また決して信仰の遺産を残すことはできません。

親が口うるさく言って子供を変えることができるでしょうか?
子供は心の中で「うるさい。聞きたくない。」と反発心と憎しみと敵対心が出てきます。つまり逆効果です。
しかし神に子供を委ねて祈り求めるならば、神はその祈りを聞いて下さいます。


聖書注解書を書いたスコルフィルド博士は、母親が毎日、彼のために祈りましたがキリストを信じませんでした。

しかし、亡くなる直前に対面をし 母親はスコルフィルドのために最後の祈りをしました。
決して口うるさく言ったのではなく、“スコルフィルドが神に仕える者になりますように。”と一言祈ってから亡くなりました。 スコルフィルドは、その母親の祈りによって神様を信じ、彼は変えられました。

お母さんの信仰の遺産を受け継ぎました。
神様によく仕えるクリスチャンになりました。


私たちは、家にいる時の姿が「本当の姿」であります。

他人の前では仮面をかぶることが出来るのです。少しの時間ならば良い言葉を使えますが、家族には隠すことが出来ません。

家族からの評価が 私たちに対する一番正しい評価です。
もし「それでもクリスチャンか」と言われたなら クリスチャン失格であります。
自分の行動はクリスチャンらしくないということに気付き、それを言われた私たちは恥ずかしい思いで変わらなければいけないです。

子供には純粋な信仰を残さなければならないです。

間違えた信仰を見せたら、子供たちは教会から離れていきます。


今、もう一度私たちは自分の信仰をよく見てみましょう。
子供に遺産として残せる純粋な信仰なのか?
それとも、私のようなクリスチャンにはなってほしくないなと思える信仰なのか。

純粋な信仰は、偽りのない信仰、疑いのない信仰です。神様が喜ぶ信仰です。


聖書には悪い信仰の姿もたくさん出てきます。
それを子供に残したら もう1人の悪いクリスチャンを生み出すのです。

子供のためにも、家族のためにも、私たち先に救われた者たちは 必ずそれを家族にも遺産として信仰を残していくことであります。

家族から「その信仰が欲しい」と思われるようにしなければいけないです。
「嫌だ。あんなものは受け取りたくない」というものは、私たちの失敗であります。


信仰の遺産は残しても価値がありますし、その遺産を相続した子孫や家族は魂が祝福されます。

その信仰の遺産を残した人に心から感謝するでしょう。
財産であるならば欲深い兄弟の間に醜い争いが起こります。財産を残しても放蕩に走ることが多いです。


信仰の遺産には、そんなに醜い争いは絶対に起こりません。取られる心配もありません。

(信仰の遺産を)受けた者にとったら最高の祝福です。
この最高の祝福を家族に残しましょう。
(^∀^)

2014.5.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンが語る言葉

テーマは『 クリスチャンの言葉の生活 』です

【マタイの福音書12章35-37節】

心を「良い倉」と「悪い倉」に例えました。
心の中に悪いものがあるならば、それが自然と口から(言葉になって)出てきます。

恵みを受けた人は、言葉が変わっていきます。
以前の言葉は使わなくなります。以前は世の中の言葉を好んで使い、誰かを非難する言葉や
興味のある世のことばかりを語っていました。

しかし恵みを受けた人は、神様のことを語りたくて、うずうずします。誰に対しても神様のことを語ります。
恵みの言葉が、その人の中から出てきます。

言葉は、信仰生活と ものすごく密接な関係があります。

信仰生活をする人が、信仰や神様や恵みの話をしないならば、正しい信仰生活をしていないことであります。

《マタイの福音書12章34節》 に 出てくる「まむしのすえたち」という言葉は、
形では信仰生活を送っているように見えますが、その人たちの口から出る言葉があまりにも悪いのです。
他人を非難したり、罪に定める悪い言葉ばかりが出てきます。

イエス様の言葉はどうだったでしょうか――?
イエス様が来られる以前は、パリサイ人、律法学者、祭司たちが人々に教えていました。
人々はずっとその言葉を聞きながら信仰生活を送っていました。

しかし、イエス様が来られて言葉を語った時に、人々はその言葉を聞き 驚きました。
なぜ驚いたのかというと、(律法学者たちが語る言葉にも似ているのに)イエス様の口から出るのは
恵みの言葉だったからです。

今まで律法学者たちが語っていた(厳しくて 愛のない)言葉で、人々はとても重荷になっていたのですが、
イエス様は、重荷はご自身で負い、人々には恵みを流していきました。
絶望に陥っている人には「心配するな。わたしがあなたと共にいる」と癒し、命を注ぎました。

主から出てくる言葉はすべて私たちにとって益になるものです。

クリスチャンは当然のように、イエス様の言葉を習わなければならないです。
主は「あなたが口を開くならば、どんな言葉を語るのか」と見ておられますので
私たちが口から言葉を出す時には、悪いものを取り出すのか、それとも良いものを取り出して人々に与えるのか、
それを考えなければならないです。

聖書には私たちが避けなければならない言葉や、語らなければならない言葉が書かれています。
私たちは、時が良くても悪くても、口を開いて語らなければならない言葉がたくさんあります。

交わりの時でも、みんな信仰の話をしている時に、黙って何も言わないのは問題であります。
「語る言葉がないです」というのは心が空き缶の状態です。心に何も入っていないので語る言葉がないのです。
神様の言葉が1つも留まっていないので、その人は語る言葉がないです。

また、私たちは語らなければいけなく、語る時には気を付けなければならないのですが、
その前に、私たちは入れ物に気を付けなければいけないです。

悪いものを入れたならば、当然のように悪いものが出てきます。


【エペソ4章29節】

他人を傷付ける言葉を口から出してはいけません。それは相手を汚してしまいます。
自分は他人から悪い言葉を聞きたくないでしょう。
私たちは自分がされたくないことを(他人に)してはいけないです。

悪い言葉を使った本人は忘れるかも知れませんが、後になって神様から裁かれることになります。

クリスチャンは、口(=語る言葉)もクリスチャンでなければ ならないのです。
他の部分はクリスチャンで、口だけはサタン。これはいけないことです。

私たちは言葉を変えなければならないです。これは一夜で出来る事ではないです。

心の入れ物を変えていくならば、自然と使う言葉が変わっていきます。
相手を生かす言葉、慰める言葉、愛の言葉は、恵みを与える言葉であります。


【コロサイ3章16節】

まず自分たちの心の中にキリストの言葉を豊かに入れないと、世のものが入ってくるのです。
毎月みことばの暗唱をしていますが、私たちは心にみことばを蓄えて、必要な時にみことばを出せるように
しておかなければならないです。

聖書のことをたくさん知っていても、知識を誇るのではないです。
自分の知識を誇る人たちがいますが、これは高慢であります。
なぜならば主の言葉は、人に役立つように恵みを流しなさいと語っていますので、高慢を流してはいけないです。

ある人は頭に知識を蓄えて知識を語ります。しかし、それを聞いても相手は命を受けないです。

自分の心で噛みしめて味わい 恵みを受けたものを語るならば、人々はそれを聞いて「私もそうしよう」と思います。

しかし頭の中にある知識を、相手より上に立って教えるならば、
聞いてもどう活かしていけば良いのかがわからないです。知識は知識で終わります。
人に役立つ言葉や恵みを流す言葉を知恵にしていかなければならないです。

「私はこのみことばで、これをやってみました。そしたら本当に神様からの素晴らしい恵みがあって、
そしてこういう結果が出てきました。このみことばで力を受けました。」
これは心に(みことばを)住まわせた言葉です。頭の知識ではないです。

知識は冷たいものであります。知識は「あなた、そんなことも知らないの?」と相手を裁くことになります。
それは恵みにならないし、人の益にもなりません。

真理は正しい言葉でありますが、真理そのものを語る時はその人自身が真理を体験してから語るのが
一番良いです。

まず自分で行い、味わってみて、そして美味しかったものを人に伝えると、相手に慰めを与えることができます。


【コロサイ4章6節】

言葉は内容よりも言い方があります。言い方が悪いと、良いことでもトゲが付いたものになります。
綺麗なお花を渡すならば、トゲは取ってから渡すのが良いです。
「綺麗だなぁ」と思ってもトゲに刺されたなら手放してしまいます。

ですから、私たちが使う言葉もいつも剣であるならば、たとえ真理の言葉であっても親切ではない人が語るなら
剣に変わります。
聖書の言葉はすべて素晴らしいですが、愛のない人や親切ではない人が語るなら、裁くための言葉にしか
聞こえないです。

クリスチャン同士がみことばで裁きあって傷つけていることがたくさんあります。

しかし親切な愛の心で使う言葉なら、叱責の言葉であっても聞き入れるべきであります。

悪い言葉はやめようと努力をしなければならないです。
悪い言葉が出そうな時は口を閉ざし、良い言葉の時は口を開いて語るべきであります。


【詩篇37編30-31節】

【詩篇51編15節】

神様が語って欲しい言葉を語られるようにと祈ることであります。
祈る人は唇に気を付けます。口を開くべきか閉じるべきか、それを判断できます。

私たちは悩みを話したり、問題を話したりすることは良いのですが、ある人たちは常に不平不満や
感謝がなく、いつも自分のことしか語らないのは良くないことであります。
その人は相手の言葉を聞かないです。私たちは聖い会話をするべきであります。
私たちが話している言葉を、常に主が聞いておられるんだということを忘れないでください。

私たちも他人に悪い影響を与える者ではなくて、神様が恵みを流していきなさい、益になる言葉を語りなさいと
語ってありますので、私たちの中に留めて相手に益になるのかを考えてからみことばを使っていきましょう。
 (^∀^)

2013.4.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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